※この作品はR-18です。

フェイクラバーズ   作:かえで

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エッジ視点


君はばらより美しい

 

 

——3の月中旬

 

 

 青空や月や星がない地底の天と、地上の大地。

 赤く沸き立つマグマと、地上の天空で輝く太陽。

 地底と地上は、まるで鏡合わせのように見える。

 

「いってきまーす」

「ああ、気ィつけてな」

 

 リディアを地底にある幻獣の洞窟の入口に降ろしてから。

 第二の故郷、幻獣界に帰っていくところを見送った。

 

「……さて」

 

 エッジはリディアの里帰りの送迎役を買って出ているが、一緒に幻獣界へは行かない。

 という訳で、今から夕方までの空き時間つぶしを思案することにしたが。

 思いつくまでに、30秒もかからなかった。

 

「……諜報の労いついでに、仕事ぶりをチェックしにくか」

 

 世界の情勢を知るために、各地に諜報員を派遣する。

 エッジのそんな野望は、年明け早々から始まっている。

 そうと決めたら、いざ実行。

 かかとを返して、自家用艇に急いで戻った。

 

§

 

 約半日がかりで、『諜報員の労い兼お仕事見学ツアー』を終えて、地底世界に戻ってきた。

 

「ああ、つっかれた……」

 

 疲労困憊でよろめくように、ベランダに寄りかかった。

 

 —— —— ——

 地底のドワーフ城を皮切りに、地上に戻ってアガルトへ。

 続けてミシディアとファブール、ダムシアンにバロン。

 そして、最後はトロイア……。

 

 時間の半分以上は、移動に費やされた。

 自家用艇から空の青を眺めながらの立ち仕事は、目に優しい代わりに足が棒になる。

 —— —— ——

 

 1日足らずで世界一周は、さすがに体力が保たない。

 敗因は思いつきで始めたこと、これに尽きる。

 

(次から二期制にすっか。春が東で、秋は西方面だな)

 エッジは脳内で今後のツアー内容の軌道修正をしながら。幻獣の洞窟の入口を見据える。

 そこから、まだ待ち人兼想い人は現れない。

 このまま戻ってこなければ、幻獣界に迎えに行って連れ戻さないと……。

 

「まあ、今日も大丈夫だろ」

 

 エッジは軽く首を横に振って、懸念を追い払った。

 昔はかなりやきもきしたリディアの出待ちも、今では楽観的なものに変わっている。

 

 —— —— ——

 幻獣界と地上地底は、時間の速さが異なる。

 リディアがミストに帰郷するまでは、時間が大きくズレていたはずなのに。

 帰郷してからは、何度リディアが幻獣界に里帰りしても時間のズレは起こっていない。

 

 ゼロムス打倒後、地上や地底では幻獣界の存在が一気に知れ渡った。

 リディアが数ヶ月の間に幻獣界で大人に成長した話も、世界各地で広まっている。

 その話を聞くと大抵の者は、『おとぎ話の浦島太郎みたい』と言う。

 そして、幻獣界を畏れて敬遠する。よほど悪い者しかそこへ足を運ばないだろう。

 

 そういった事情から、地上や地底では異世界と距離を置く風潮が非常に強い。

 けれどエッジは、リディアに内緒でごくまれに幻獣界に足を運んでいた。

 時間のズレが起こらない仮説も立てたが、実証実験をしていないため秘密にしてある。

 —— —— ——

 

(戻ってきたら、あいつの服変わってんだよな……)

 去年の夏に装いを新たにしたエッジが、よほどうらやましかったのだろう。

 リディアは昨秋の里帰りの際に、アスラに新しい服が欲しいと頼んだ。

 その結果、次の里帰り——今日までに準備しておくと返事をもらったと聞いている。

 

「新しいったって、また翠色だろ」

 

 新たな装いも、彼女の髪色でもあり、大好きな翠色を基調としたものに違いない。

 即座にそう予想出来てしまい、くつくつと笑っていると。

 

「戻ってきた……!」

 

 薄暗い地底にそぐわない明るい翠色が、エッジの視界に飛び込んできた。

 春を思わせる新緑の髪色や服色は、疲労を吹っ飛ばしてくれる効果があると言われている。

 意気盛んにベランダのへりに右足を掛けると、リディアの元まで一気にジャンプした。

 

「……よっ、と」

「ただいま、エッジ」

 

 目的地に着地すると、リディアは帽子をかぶってうつむいたまま状態で立っている。

 

「……!?」

 

 新しい服を視界に入れた瞬間、頭を抱えてその場にしゃがみ込んだ。

 煩悩がむらむらっと湧き上がってきたのだ。

 

「え? 急にどうし」

「——ちょっと黙ってろ」

「っ、はい……」

 

 声をかけてきたリディアに、そのままの姿勢かつ低く重い声で待てを命じた。

 それから、己の煩悩に影縫いをぐさぐさ仕掛けながら、心の中で服の製作者にうらみを述べる。

 

(アスラの奴、何考えてんだ!?)

 エッジには、幻獣界のファッションセンスが理解できない。

 

 —— —— ——

 肩から胸の尖り付近きわきわまで、直肌を晒している。

 トロイアの女性兵のレオタード制服並みに、股が食い込んでいる。

 両腕と大腿部の下からは、前と同じく覆い隠されているが、そこじゃねえよとツッコミたくなる。

 結論、以前の服に比べて露出度が高くなっている。

 

 エッジ限定なら、とっても素晴らしいデザインだ。

 しかし、普段着や公然の場でこれを着て歩くのはさすがにあり得ない。

 —— —— ——

 

 数分後、幻獣界の女王様のズレた感性に対する呆れの方が優っていたおかげで。

 なんとか煩悩を封じ込めることに成功し、よろよろ立ち上がる。

 

「大丈夫?」

「ああ……」

「あのね……アスラさまに新しい服にしていただいたの……変かな?」

 

 リディアがどこか不安そうな声でたずねてきた。

 エッジの反応を見て、新しい服をダメ出しされるかもしれないと心配になったようだ。

 

「……!」

「えっ?……わぁっ!!」

 

 リディアの両肩をぐっとつかむと、身体を180度ぐるりと回した。

 回転した勢いで、翠色の後髪がふわりふわりと宙に浮いた。

 その隙間から背中姿が見えて、思わず目を丸くする。

 

「なんだこの尻!?」

 

 リディアの背中はほぼ肌色、ほとんど裸に近い。

 しかも、ぷりんとした白いお尻が半分、いや、それ以上見えている……!

 

 正面であの有様だ。さぞや後ろはとんでもないことになっているに違いない。

 そんな予想は見事的中した。

 

「大丈夫! 髪で隠れるから見えないよ!」

「風吹いたら意味ねえだろ!」

「え……ミストはそんなに強い風、吹かないし……」

 

 リディアを再びこちらに向かせてやると、ある方向へ指差ししながらこう言ってやった。

 

「今すぐ、あそこで泳いでこいよ」 

 

 エッジが指差した先には、ぐらぐらと煮え立つ赤いマグマの海がある。

 とても人間が泳げる温度ではない。火傷を通り越して存在そのものが抹消されてしまう。

 

「あ、あんなところ入ったら身体溶けちゃうよ!?」

 

 冗談と皮肉まぜこぜのエッジの勧めを、本気で受け止めてしまったのだろう。

 驚愕の声を上げたリディアの肩を、エッジは再びつかんでこう告げた。

 

「海で泳ぐからそれ着てんだろ?」

「え!? ちょっと!?」

「ほれ、赤い海がおまえを待ってるぞ」

「やだぁ! 引っ張らないでよっ!」

 

 マグマの海に向かって、リディアの身体をぐいぐい押してやる。

 

 もちろん、本気で海に泳がせる訳がない。

 それは服ではなく、水着だと暗にリディアへ伝えるためである。

 もっともエッジには、それが水着以上のあれにしか見えないけれど。

 

「遠慮しなくていいんだぞ?」

「違うっ! これは水着じゃないもんっ!」

「いいから早く行ってこいよ」

「こう見えてもきちんとした服なんだから!」

 

 服だと言い張るリディアに業を煮やして、荒っぽく両手を振って身体から離れた。

 

「そいつのどこが服だ! 水着通り越して下着じゃねえか!!」

「だから、下着でもなくって服っ!……これ、触ってみて」

 

 リディアがそう言ってから、右手で何かをつまむような形を作る。

 すぐにその右手をこちらに差し出してきたが、指先はつまんだ形を作っているだけだ。

 

「何触るんだよ」

「これだよ」

「……? なんだこれ!?」

 

(つまんだ形、右手で作ってるだけにしか見えねえぞ……!?)

 エッジの右手をリディアがつかんで、自身の右指先へ誘導した。

 その瞬間、指先から柔らかい布のような感触を感じて目を見開いた。

 

「布か……!?」

「ケープだよ。大気中の魔力を少しだけ吸い取って、わたしの知性に変えてくれるようになってるの」

「魔力?」

「うん。アスラさまが、あたしの知性が1になっても、必要最低限の魔法がすぐ使えるようにって……」

「あ……なるほどな」

 

(あの出来事は、アスラに少なからず影響を与えたか……)

 知性がないと数日の間、魔法が使えない。

 魔法に依存するリディアにとって、致命的な状態である。

 アスラは、リディアがフルパワー状態で幻獣を召喚した後を考えてケープをつけたようだ。

 

「それにね、わたしの上半身を覆ってくれてるの。あとは前と一緒なんだよ?」

 

 リディアが満面の笑みを浮かべながら、ケープの特性を話してくれたが。

 エッジは、終始あ然としながら話を聞いていた。

 

(そりゃ、いろいろしのげるし、便利かもしんねえけどよ……)

 知性の緊急補給、体温調節、身体の保護、洗濯と下着要らず。

 そして、サイズは体型に合わせて自由自在……。

 

 素晴らしい性能だと思う。地上地底では決してこういう服は作れないから尚更だ。

 しかし、それは高露出を誇るデザインの前では空気も同然。

 

「おまえ羞恥心あるようで、やっぱねえな」

「ええ? そんなことない……」

「ケープが透明なら、何も意味ねえだろ。なんで、そこ気にならねえんだよっ!」

「見えなくても、ケープかぶってるよ……?」

 

(ヤリ終わったら、すぐシーツで隠すくせに!!)

 エッジは心の中で、リディアの羞恥の矛盾を思いきり叫んでやった。

 

 事後のリディアは、すぐにシーツをかぶって肌を見せない。

 エッジ以外の男性は安全だから、リディアの中ではこの服は許されるのか?

 そんな錯覚まで覚えてしまう。

 

「おまえは、あんま外出ねえから知らねえだろうがな。このご時世、女は外ではあんまり肌見せない空気が漂ってんだよ」

「……そうなの?」

 

 —— —— ——

 ゼロムスを倒し、平和な世界を取り戻してから早数年。

 現在、女性が服装の露出を控えめにする空気が世界各地で蔓延している。

 

 平和といっても犯罪が消えた訳でなく、むしろ凶悪かつ増加傾向にあること。

 加えて、巡回艇の運用が始まり、人の行き来が活発になったこと。

 それらが、露出控えめ傾向になった原因だと言われている。

 —— —— ——

 

「トロイアの兵士の服、覚えてるか」

「うん、動きやすそうだったね」

 

 トロイアの女性兵はレオタード調の制服。

 確かに動きやすいが、リディアの今の服とさして変わらない露出度を誇っていた。

 

「あいつらの服、最近スカートついてな。露出控えめなデザインに変わったんだよ」

「へえ、そうなんだ……」

「あんだけレオタードで走り回ってたローザも、長袖長裾のドレスに変えたぞ?」

 

(あいつも三十路一歩手前だからな)

 ローザの場合は、風潮よりも年齢を気にして露出を減らしたのかもしれない。

 リディアに怒られそう(そしてローザにチクられる)なので、それは言わないでおいた。

 

「こないだ手紙にも書いてあったよ。でも、そのドレス着たローザにまだ会ってないんだよね……」

 

(他人事かよ!)

 実例として、トロイアの女性兵やローザを挙げたにもかかわらず。

 リディアの反応はとても薄い。

 

「……この際だ。はっきり言ってやる」

「何を?」

「そいつは服の機能としては優秀だが、デザインは『王様』で働いてるねーちゃんたちと変わんねえの」

 

 ぽかんと口を開けたままのリディアに、事実をはっきり伝えてあげた。

 

 —— —— ——

 恋人や伴侶にそういった服を着させる。

 もしくは、そういった服を着ている女性が多く働いている、おとなのお店に通う。

 このご時世で高露出の女性を生で拝みたいなら、そのどちらかぐらいしかない。

 

 おとなのお店では、お金と引き換えに男性をもてはやし、むらむらさせて喜ばせる。

 リディアの新しい装いは、そんなお店で働いている女性の服装と同じレベルだ。

 —— —— ——

 

「……でも、あの人たちはケープ羽織ってないよね?」

 

(ケープ教の信者か!)

 何を言っても、リディアはケープを盾に納得すらしない。

 これ以上、何を言っても無駄。

 エッジはそう悟って、勢いよく身を翻すと、幻獣の洞窟の入口に向かって歩き出した。

 

「……どこ行くの?」

「親の顔、拝みに行ってくる」

「えっ」

「ついでに抗議だ」

 

(人の姿の時は露出控えめなくせに! なんでこんなデザイン考えつくんだよ!)

 納得しないリディアより、親——製作者アスラに苛立ちを隠せない。

 幾度となく地上に喚ばれて、地上のことを全く知らない訳でもないのに。

 

「やめてよっ! そんなことしないで!」

 

 エッジのマントを、リディアが背後からがしりとつかんできた。

 

 現状リディアを公衆の面前に出すのは危険だ。

 しかし、服取っ替えろと訴えても。

 リディアがこの調子では、アスラも拒否するだろう。

 だったら、せめてケープを不透明にするよう話をつけにいくしかない。

 

「娘に色目使わせる親がどこにいんだよ! アスラもアスラだ! 頭おかし」

「——アスラさまの悪口言わないでっ!!」

 

 リディアが大声を張り上げて、エッジを遮ってきた。

 同時に、決して幻獣界に行かせないとばかりに、マントを更に強く引っ張ってくる。

 

「おい……」

「幻獣界じゃ服着てる人、そんなにいないもん! それなのに、わざわざアスラさまが、わたしのために作ってくれたんだよ!?……っ、みんなも似合ってるって……言ってくれた……」

 

(ああ、こりゃ泣くな……)

 後ろを振り返ってみれば、リディアがうつむいたまま身体を震わせている。

 つかまれているマントからも小刻みな震えが届いて、じきに泣き始めるのだと察した。

 

「……どうしてもそいつを着て、外歩きたいんだな」

 

 マントを握りしめながら、リディアが何度もぶんぶんと首を縦に振る。

 その度に、涙がぽたぽたと暑い大地にこぼれ落ちていく。

 

「意志は尊重するけどな。ミストでもさすがに反発食らうと思うぞ」

「どうして……!?」

「何度も言ったろ。今の時代、それを服と思わねえ奴が多いって」

「じゃあ、思ってもらえるように……みんなに説明する」

「納得させるのか」

「う、ん……服だけは、幻獣界のものじゃないと、絶対にいや。何言われても、笑われても……これ……着る……何かあっても……自分の身は、自分で守る、っ……!」

 

 左手でエッジのマントを握りしめて、右手の甲で目元からこぼれる涙をぬぐいながら。

 並々ならぬ決意を語るリディアを見て、エッジはついに白旗を上げてしまった。

 

(オレって奴は、つくづく惚れた女に弱ええな……)

 そう思いながら、リディアの左手に触れて指を開かせると、マントを離させてやる。

 

「……わかった。アスラんとこにゃ行かねえよ」

「っ、よかったぁ……! ありがと……」

 

(今日は行かねえって意味だぞ!?)

 それでも、エッジは諦めた訳ではない。

 今後幻獣界に足を運んだ際、ちょっとでもいいからケープを不透明にしろ。

 アスラにそう要求してやると心に決めた。

 

「その代わりな。そいつで外歩いていいって認めてもらえるような言い分、しっかり考えとけ」

「う、うん……」

 

 両手の甲で目元をぬぐうリディアの頭を、ぽんぽん軽く叩いてから。

 ぐずぐず泣きが落ち着くまで、帽子の上から頭を撫で続けた。

 

(デザインは問題だが……故郷の服にこだわる気持ちはわかるんだよな)

 エッジも故郷を誇りに思っているから、自国由来の和装を日々身に着けている。

 

「そうと決まれば。ここには、もう用はねえな……っ!」

「ちょ……うわぁっ!?」

 

 泣きが収まったリディアの身体を横抱きで軽々と持ち上げる。

 その瞬間、リディアの言葉に嘘偽りはなかったと改めて確認した。

 

(背中も尻も、本当にケープに包まれてんだな)

 リディアの直肌に触れて、身体を抱えているはずなのに。

 少しざらつきのある布——見えないケープの感触しか感じ取れない。

 

(ちょっとでも不透明なケープなら、まだマシだったのによ……)

 エッジはそう思いながら、高く飛び上がった。

 数秒も経たずに自家用艇の運転席に着地して、リディアをその場に座らせる。

 

「ああ……びっくりした。ジャンプするなら先に言っ」

「——ミスト帰ったらすぐ、ミゼルん家行くんだろ?」

「……どうしてわかったの!?」

「明日から普通に外歩きてえなら、そうするんじゃねえかって思っただけだ」

「うん……」

 

 座り込んだままでいるリディアをそのままに、エッジは自家用艇のエンジンをかけた。

 

「どっかでメシ食ってから、ミスト帰る。——それでいいな」

「……よろしくお願いします」

 

 リディアから返事をされて、エッジは思いきり舵を切る。

 地底の天にある地上への出口に向かって、自家用艇を発進させた。

 

 右後ろをちらりと見やると、リディアがうつむいた状態で膝を抱えて座っている。

 この後、ミゼルを納得させる言い分を考えているのだろう。

 ミストはリディアの生活の場である。

 当の本人が住民を説得するのが当たり前。考えさせておけばいい。

 

(どさ回りなんか誰がさせるかよ!!)

 ただし、ミスト以外の場所は別だ。自分がなんとかしてやる。

 エッジはそう心に決めて、再び前を向く。

 そして、下着同然のリディアの新しい装いを、世界中に『服』としてどう認知させるか。

 舵を握りしめながら、思案を巡らせ始めたのであった。

 

 

——3の月31日

 

 

(こっちは相変わらずだな)

 長雨が止めば、菜の花が咲く——春の訪れでもある、なたね梅雨はミストでは無縁。

 1年間の降水量の稼ぎ時とばかりに、毎月3日間は強い雨が降り続く。

 

 エッジは里帰りの日以来——2週間ぶりにミストにやってきた。

 黒い雨合羽を着込んで、量産型の自国所有の飛空艇から降りると。

 雨に打たれながら、リディアの自宅に一歩、一歩ゆっくり近付いていく。

 

 毎月こうして歩いていると、まるで浄化の効果もある雨が、邪な心を持ったこの自分を。

 清く正しい心の持ち主——リディアの初恋の男——に変えてくれるように感じる。

 あの男が決して持ち得ない、リディアへの恋情と劣情だけ残したまま。

 

 集落の入口には、1本のさくらの木がある。

 一体誰が植えたのか、春の訪れを知らせるその木をよく見れば。

 つぼみをいっぱいつけて、開花を待ちわびている。

 次にここを訪れる時には、満開の花を咲かせているだろう。

 

(言ってるうちに、もう夏か)

 自分に傷を付けたことを盾に、リディアに夜の関係を結ばせてから、もうすぐ1年になる。

 彼女は当初不満を露わにしていたが、ただれた関係も快楽も受け入れつつある。

 ……健全な友人として、昼の関係を続けるために。

 

 リディアとの関係には、いつか終わりがやってくる。

 その日までは、おこがましいが、彼女のそばにいてあげたいし、そばにいたいのだ。

 

§

 

「いらっしゃい……」

 

 自宅で出迎えてくれたリディアの頬が、赤くほてっているように見えた。

 中に入ったが、いつもなら黙り込むエッジに文句を垂れるのに何も言ってこない。

 

「なんか寒いなあ」

 

 もうすぐ春だというのに、そう何度も口にする。

 

(変だな)

 そう思いながら、布で目を隠す作業に入ろうとしてリディアの顔に触れた瞬間。

 

『熱い……!』

 

 この1ヶ月の間に溜めに溜めていた劣情は、瞬く間に慈愛と焦燥に切り替わった。

 

§

 

 本日はヤラない(ヤレない)のに、自分が着替えさせるのも何か違う気がする。

 エッジはそう考えて、リディアへ夜着に着替えてもらうように頼んだ。

 

『——着替え済んだ?』

「うん……」

『入るから目、つむっててね』

「はぁい……」

 

 寝室(兼書斎)の扉を開けると、ベッドの上でリディアが夜着に着替えた状態で座っていた。

 目隠しをする。そう予告していたので、壁に向かって座ってくれているのはありがたい。

 

 手に持っていたマグカップを書机の上に置いて、ベッドのそばに近付く。

 そして懐に忍ばせていた布で、リディアの背後から視界を覆い始める。

 

「……目隠し、今日はいらないでしょ」

『今から寝るんだ。ちょうどいいじゃないか』

「見えないのはいやだよ」

 

 不満げな声で不服を申し立てながらも、リディアは素直に布を巻かれてくれる。

 

(おまえの言う通り、今日は必要ねえんだが……)

 こちらの勝手な都合により、目隠しをしていただく必要があるから諦めてほしい。

 

『アイマスクって知ってる?』

「知ってるけど、わたしそれ着けて寝ないもん……」

『どっちみち、その熱じゃ何にも出来ないよ。——はい、これでおしまい』

「どうも……」

 

 適当ながらも妥当な理由を述べて、いつもより手早く雑に巻き終えると。

 先ほど書机に置いたばかりのマグカップを再び手に取った。

 

『これ、飲んで』

「お茶?」

『そうだよ。火傷しないようにね』

 

 白い湯気が漂うマグカップの取っ手を右手で握らせて、リディアに水分補給を勧める。

 

「水分とるなら……お水でいいんじゃないの……?」

 

(健康についての知識は、あんま仕入れてねえようだな)

 リディアとは長い付き合いだが、体調を崩したところを見たのは今日が初めて。

 そういった経験がなければ、健康について積極的に関心を向けないだろう。

 

『熱がある時は温かい方がいいんだよ』

「……冷たいもの飲んで、身体冷やした方がいいって思ってた」

『冷たいと内臓が刺激されて、余計に体調悪くする』

「そうなんだね……またひとつ勉強になったよ」

『さ、飲んで』

「うん」

 

 リディアがマグカップに口を付けて、少しずつお茶をすすり始めた。

 それを見届けてから、書机の椅子をベッドのそばに移して、腰を下ろした。

 

(くそっ! こいつのせいで……!)

 月に一度のお楽しみを台無しにされた恨みから。

 机の上に置かれた翠の物体——リディアの服を憎々しげににらみつけた。

 

 しかし、風邪を引いてもおかしくない下着同然のデザインながら。

 温度調整出来るご都合仕様だったことを思い出して、すぐに恨みを取り下げた。

 

「熱出すと……寒くてだるくなっちゃうんだね……」

『喉は?』

「ちょっと痛い、かな?」

 

 どこか手持ち無沙汰で、リディアが両手でマグカップを抱えている。

 飲み干したと判断して、そっと取り上げるとやはり空っぽ。

 すぐにリディアを横たわらせて、上からシーツと毛布を掛けてあげた。

 

『風邪かな。もしかして、生まれてはじめて?』

「……1回だけある」

『こっちに戻ってきてから?』

「ううん、小さい頃。お母さんがね、ずっとそばにいてくれたんだぁ……」

『そう……』

 

 当時を思い出したのか。リディアが懐かしそうに口元に笑みを浮かべた。

 熱を出したのが、今日でなければどうしていたのだろう。

 

 —— —— ——

 異変を感じながらも、普段通りひとりで過ごしていたかもしれない。

 発熱に気付いたところで、そのままベッドに横たわり、寒さとだるさに苦しみながら。

 孤独な夜を過ごしていたかもしれない。

 —— —— ——

 

(この時間から、ミゼルん家に助けに求めにいくとは思えねえし……)

 想像した結果。熱を出したのが、むしろ今日でよかったと思い直した。

 

『そういえば、バロンから医者がくるようになったよね』

「お医者さん、夜になったら帰っちゃう……」

『ああ……朝まで待たないといけないのか』

 

 ミストは定住する医師、いわゆる定住医がいない村である。

 半年前から、バロンから医師が派遣されるようになったことはエッジも知っていた。

 しかし、夜に帰ってしまうとは……。

 

(汗かかせて、時々何か飲ませたら……なんとかいけるか)

 様子を見る限り、バロンに今すぐ連れて行くほどの緊急性を伴うものには見えない。

 フルパワー状態のアスラを喚べば、速攻で治るかもしれないが。

 リディアは私的な理由で幻獣を使役することはない。

 

『ここに体温計ってある?』

「ないよ」

『ははっ……』

 

(病気したことなかったら、準備しとこうなんてあんま考えねえもんな)

 リディアから即座に答えが返ってきて、エッジは苦笑しながら立ち上がる。

 

「どこいくの?」

 

 椅子が動いた音で気付いたのか、リディアが怪訝そうな声でたずねてきた。

 

『ミゼルのところ。体温計借りてくるよ』

 

 体温計がないと、どれだけ熱があるのかすらわからない。

 それに、エッジは知識が多少あるぐらいで、人を看病した経験はない。

 あの男(と妻)なら、他に何かいいものを貸してくれるかもしれない。

 

「いいよ、そんなの。雨強いし、遅」

『——こじらせて長引かせたらどうするの。講座をずっと休みにするつもり?』

「っ、ごめんなさい……」

 

 エッジが厳しい声でとがめると、リディアは素直に詫びを入れてくれた。

 自身のミストでの立ち位置にすぐ気付いたようだ。

 

『子どもたちに魔法を教えてあげられるのは、きみだけなんだから』

「そうだね……」

『こういう時に、お隣さんを頼るんだ。——それじゃあ、行ってくる』

「うん。気をつけて……」

 

 そっと髪を押さえるようにリディアの頭を撫でてから、エッジは寝室を後にした。

 玄関先で黒い雨合羽を身につける。

 

(今日はあいつが掛けたからな……)

 袖を通す際、合羽に残っていた水滴がぼたぼたぼたっと床に滑り落ちていく。

 その様を見ながら苦笑すると、あることを思い出して、本来の声で小さくつぶやいた。

 

「……そういや、国王だったな」

 

 他人から看病だけでなく、腫れ物に触る扱いをされてもおかしくない。

 そんな身分に生まれてきた、この自分が……他人の看病をしているなんて。

 

 —— —— ——

 リディアと一緒に過ごしていると、生まれながら定められた身分や使命から解放される。

 エッジはその間だけ、ただの男として生きられるのだ。

 しかも、今はリディアの恋人気分まで味わえる。

 —— —— ——

 

 改めて想い人の存在に心から感謝しながら。エッジは玄関の扉を開けると。

 何のためらいもなく、強い雨が降る暗闇の中に飛び込んだのであった。

 

§

 

 ミゼルの自宅に到着して早々、リディアが熱を出したことを彼に報告した。

 続けて、こんなことをたずねた。

 

「熱出した奴に飲ませるもんって、白湯以外に何かあるか?」

「卵ざ、あっ、ミストじゃ無理か……」

 

 ミゼルが卵酒と言いかけて、思わず眉をひそめてしまった。

 

 —— —— ——

 エブラーナでは、熱を出した場合。

 米から出来た清酒と卵を混ぜて温めたもの、いわゆる卵酒を飲ませる風習がある。

 しかし、ミストにはそんな風習はない。そもそも、清酒が普及していないので作れない。

 —— —— ——

 

(どんだけうちのこと詳しいんだよ……)

 この男が、エブラーナに興味があることは知っている。

 しかし、エッジを見ただけでそれをすぐ思いつくとは……。

 

「だから、こうやって聞いてんじゃねえか……!」

「ははっ! 確かに」

「——身体温めたいんだろ」

「あ、ああ……」

「お湯に、レモンの搾り汁とブランデーとはちみつ加えたもん飲ませてやんな」

 

 ジャンヌがぶっきらぼうにそう教えてくれた。

 その後。ブランデーの小びんとレモンひとつ、風邪薬に体温計と氷枕……。

 以上の熱対策グッズを受け取って、リディアの自宅に帰ってきた。

 

§

 

 飲み物を作ってから、リディアにミゼルから分けてもらった風邪薬を飲ませてあげた。

 続けて、両手でマグカップを持たせる。

 

「あ、レモンだ……」

 

(ただ酸っぱいだけだから好きじゃねえって、前に言ってたな)

 カップの口に鼻を近付けるなり、リディアの表情が一気に渋いものに変わった。

 つんとした柑橘の香りを吸い込んで、好きではない果物が入っていると気付いたようだ。

 

『熱で体力ががた落ちの時は、それがいいってジャンヌが言ってた』

「わざわざ作ってくれたの?」

『大したものじゃないけどね』

 

(『わざわざ』って、もんでもねえが)

 即興で作ってみたが、調理要素はなきに等しい。

 村雨で真っ二つに斬ったレモンを、この手で握り潰して搾り汁を作ったなんて言えない。

 

『冷めないうちにどうぞ』

「……いただきます」

 

 リディアがそろそろとマグカップに口をつけた。

 

「……っ、すっごくあまい!」

 

 リディアの上々な反応を見せてくれて、エッジはほくそ笑む。

 

(アドバイスに従って正解だったぜ。オレは味見してねえけど!!)

 はちみつを多めに入れておけば、レモンが入っていても文句は言わない。

 ジャンヌからそんな助言をもらっていた。

 そして、これぐらい入れておいたら喜ぶと思われる量のはちみつを投入した。

 

『そう、よかっ』

「——うーん! 全然酸っぱくない! これならいくらでも飲めちゃう!」

 

 至福の声をもらしてから、またマグカップに口をつけて、ごくごく勢いよく飲んでいる。

 

(あの時と一緒だな)

 さすが、みだらな場においても洋酒入りチョコを美味しそうに味わっていただけある。

 甘味至上主義を大いに披露するあたり、症状は深刻ではなさそうだ。

 

「美味しかったぁ……! ねえ、おかわりある?」

 

 全て飲み干してしまい、マグカップをこちらに差し出してきた。

 おかわりをねだる姿は無邪気で可愛い。こちらも和んでしまう。

 それでも、惚れた女が相手だからと言って受け入れる訳にはいかない。

 

『ないよ。お茶で我慢してね』

「なんだ、つまんないの……」

 

 ふてくされながらベッドに横たわったリディアに、シーツと毛布を掛けてあげた。

 

 はちみつは、砂糖より少量で甘味を感じられるダイエット向きの食物である。

 しかし、リディアの場合は甘さと量を同時に要求するので意味がない。

 今日はもう、はちみつを飲ませる訳にはいかない。

 

「……おばちゃんたち、呆れてたでしょ?」

『全然? すごく心配してたよ。——はい、これで熱測って』

「病人って、いろいろやることあるんだね」

『最初のうちだけだよ』

 

(この様子じゃ、高くても38度ぐらいだろ)

 体温計をリディアの右手に持たせて、脇に挟むように誘導してあげれば測定開始だ。

 

 明日の講座はお休み。

 朝一番に、ジャンヌが派遣医の元にリディアを連れて行ってくれる。迎えにくるまで寝ているように。

 ……などと、ミゼルからの伝言を伝えていると、計測時間5分はあっという間に過ぎた。

 そして、リディアの脇から体温計を外して目盛りを確認してみた。

 

『——39.4!?』

「うそ! そんなにあるの!?」

 

(39.4あるように見えねえぞ!?)

 予想以上に高い数値を叩き出した体温計と、その患者を何度も交互に見る。

 リディアは少し熱で浮つきながらも、いつもと変わらずよくしゃべる。

 顔がほてっているぐらいで、超高熱の病人とは到底思えないのだが。

 

『これ、壊れてるんじゃ……』

「ひゃぁっ!!」

 

 体温計が今ひとつ信用出来ず、リディアの額に右手を当ててみる。

 

『……やっぱり熱いな』

 

 手のひらに熱が伝わってくるのを感じて、額から手を離した。

 体温計は正しかった。

 

(熱でもへっちゃらなタイプか)

 高熱でも、通常と変わらず動ける人間も少なからずいる。

 リディアもその部類に入るようだ。

 

 もっとも、このまま寝かせるのがいいことには変わりない。

 リディアに詠唱を頼み、出してもらった小さな氷を氷枕へ満タンに入れる。

 それから、後頭部を持ち上げて冷たい枕を差し込んであげた。

 

「はぁ……! 冷たくてすごく気持ちいー」

『あとは眠るだけだね』

「こんな早くから、眠れる訳ないじゃない」

『よく言うよ。毎月毎月、早く部屋に連れていって、早く抱いて、眠らせてくれって、せがんでくるじゃないか』

「ぐっ……! それなら、本を読ませてちょうだい」

『目が疲れるからだめ』

「え……」

『——ぼくが朗読してあげるよ。子守唄がわりになるしね』

「そ、そんなの、ますます眠れなくなるじゃない!」

 

 朗読と聞いただけで、リディアが嫌悪感を露わにした。

 2ヶ月前に仕掛けた、余興と言う名のいたずらがよほどこたえたのだろう。

 

「もうっ!」

『あ、こら!』

「目隠しやだっ……!」

 

 寝ろと命令されたのも面白くなかったのだろう。

 リディアが目隠しを外そうとする。

 それだけはさせまいと、エッジは両手で素早く印を結んだ。

 

『「影縛りの術」』

「っ!?」

 

 短時間の麻痺状態に追い込む呪文を言い終えた瞬間。

 術にかかったリディアの身体から力が抜けて、腕がベッドに吸い込まれて行った。

 

 数値でも高熱だと証明された以上、それでもヤるような鬼畜さは持ち合わせていない。

 それ以前に、顔を触った時点で萎えてしまっている。

 

「こ、こんな時に術使うなんてひどいよ!」

 

 目隠し外しは阻止したが、麻痺状態でも口は動く。

 リディアの悪あがきはまだまだ終わらない。

 

『今日は何にもしないよ』

「うそつきっ! またろくでもないこと考え……っ!?」

 

(やっぱ、前科持ちは信用されねえよな)

 エッジはおもむろに立ち上がると、リディアの耳元に自身の口を近付けた。

 

『——ぼくは悪人でも、病人に手は出さない主義なんだよ』

「……ひっ」

 

 せっかくの機会をおじゃんにされた恨みを込めて、低く重い声でささやいた。

 リディアを大人しくさせるには、エッジの声で脅すようにささやいてやれば効果てきめん。

 セシルの声でも、もちろん有効である。

 

『あんまりうるさいと静寂の鐘使うけど、それでもいいのかな』

「い、いやだよ……!」

 

 追撃とばかりに、相手に向けて鳴らせば沈黙状態になるアイテム名を口にしてやる。

 もちろん、アイテムは戦闘時以外持ち歩かないので、ただのはったりである。

 

 麻痺と沈黙状態に陥れば、ほぼ生きる屍と化す。それからは本当に寝るしかなくなる。

 それだけは避けたかったのだろう。リディアが素直にはったりを信じ込んでしまった。

 

『それなら諦めて、朝まで眠ることだね』

「ねえ」

『なに?』

「……もう、帰っちゃうの?」

 

 自分に散々とっちめられたからか、それともひとりが嫌なのか。

 どこか弱々しい声でたずねてきたリディアに、心の中で舌を出してやった。

 

(ばぁーか!! 誰が帰るか!)

 どうやらリディアは、エッジがこのままエブラーナに帰ると思っているようだ。

 しかし、好きな女が発熱中でも、一緒に過ごせる時間をそうやすやす手放す気はない。

 むしろ時間が許されるのなら、ずっとそばにいてあげたいとさえ思っているのに。

 

 リディアの不安を払拭させてあげるために、熱い額にそっと手を置く。

 そして、前髪をかき上げながらこう言ってあげた。

 

『いつもと一緒。朝までいるよ』

「ほんと……? よかった……ぁ」

 

 確約をもらうやいなや、リディアは安心したような表情を見せて、すぐ眠ってしまった。

 

(薬が効いてきたか)

 高熱の患者比で元気に見えるだけで、やはり体力もそれなりに消耗していたようだ。

 

『……オレも寝とこ』

 

 深夜に何があるかわからない。

 今のうちに睡眠を確保するために、エッジは、『短眠の術』の印を結び始めた。

 

 

——数時間後

 

 

 新しい月に変わり、ミストの雨期が終わった。

 それでも、太陽が東の空に昇るまでは雨が降り続く。

 

 エッジは『短眠の術』で、2時間きっかり睡眠をとってから。

 ざあざあと降り続く雨の音を背景に、読書に浸っていた。

 

 書机に積まれていた書物は、暇つぶしにはもってこいだった。

 これらの持ち主であるリディアの友人は、大の読書好きと聞いている。

 最初それを聞いた時は、意外に思ったものだ。

 

 読書の合間に、時折リディアの様子を確認するのは当たり前。

 状況に応じて額の汗をぬぐったり、シーツを掛け直したりしていた。

 

(もし目ぇ覚めたら、水分補給だろ? あとは氷枕も中身変えた方がいいな)

 活字に目を通しながらも、エッジの脳内はリディアのことで占められていた。

 そして、1冊目の本を読み終わり、書机で次の暇つぶしを漁り始める。

 

『エロい本はなさそうだな……』

 

 エッジは、声だけセシルのままでそうぼやいた。

 エロい——大人向け小説と思われるタイトルの書籍が1冊もない。

 

 あの友人はエロいものが好き。根拠はないが、そんな確信がある。

 リディアがそういう本だけ断っているのか?

 もしそうだったのなら、あの推理兼大人向け小説は一体何だったのか。

(そういや、あの小説……)

 

 —— —— ——

 先々月の夜に、ここを訪れたら居間机にその小説が置いてあった。

 小説に目を通した瞬間、これは使える。

 そう調子に乗って、リディアにフェラチオをやってもらった。

 しかし、心の底から嫌がる姿を目の当たりにして、二度とさせないと心に決めた。

 エッジは、あの小説に出てきたバルトとは違う。

 —— —— ——

 

(あん時みてえに、別のジャンルと見せかけたエロい小説が紛れ込んでいるかもしれねえ)

 そう考えて、1冊手にとって内容に目を通し始める。

 

「……起きてるの?」

 

 本を読み始めてから数分後、声が聞こえた。

 振り返ってみれば、リディアがベッドに寝たままこちらを向いている。

 

(『影縛りの術』は、あれからすぐ解けたぞ)

 麻痺状態が解除されているか確認しているのか、シーツから両腕を出して動かしている。

 

『起こしちゃったか。悪かったね』

「目が覚めたら音が聞こえたの。もしかして、ずっと今まで起きてたの?」

『いや、「短眠の術」で睡眠は取ったよ』

「それならいいけど……今、何時かわかる?」

『1時半。もう4の月だね』

「ええ? 日付変わったのに、まだ元に戻らないの?」

 

(おまえは毎回、日付変わる前に寝ちまうから知らねえよな)

 日付を超えたら、エッジはセシルの仮面を外す。

 リディアはそう思い込んでいたようだ。

 

『朝まではこのままだよ。これもルールだから覚えておいて』

「そう……」

 

(戻りたくても、朝まで戻れねえんだよ……)

 期待が外れたのか。リディアはとても残念そうに見える。

 

 —— —— ——

 エッジはこうしてセシルの仮面をかぶり続けているうちに。

 月終わりの夜になると、リディアの前で自身の声を出せなくなっていた。

 太陽が東の空に昇る時間までは戻らない。

 —— —— ——

 

 エッジはセシルの仮面をかぶり、甘い言葉をささやく自分の姿を見られたくなかった。

 だから、ヤラなかったにもかかわらず。今夜もリディアに目隠しをしてもらったのだ。

 

『……お茶淹れてくるから、これで身体を拭いておいて』

 

 患者に頼んで、再び氷枕の中を氷粒でいっぱいにしてもらう。

 中身の交換を終えると、濡れたタオルを1枚持たせてあげた。

 

「お茶より、レモンの飲み物がいいんだけど」

『だめだ。あんなものしょっちゅう飲んだら太ってしまう』

「うう……」

 

(服に甘えんな。もうちょい自分の体型意識しろ!)

 自分の目が光る内は絶対に肥えさせない。

 リディアからのおねだりを容赦なく切り捨てて、寝室を後にしたのであった。

 

§

 

『……38.4度か。少し下がったね』

 

 お茶をリディアに飲ませた後、念のために体温を測ると前回より目盛りが相当減っている。

 薬を飲ませて、温かくして休養させたのがよかったらしい。

 

「まだそんなに高いんだ」

『それはこっちの台詞だよ。病人とは思えない』

「っ、わたしもそう思う。ちょっとだるくて寒いだけだもん」

 

 問題は目の前にいる、熱があるのにやたら元気な病人の処遇である。

 体温測定の間、測定が終わったら就寝するよう何度も勧めた。

 それでもリディアは、『眠れない』と訴えて聞かない。

 

「そうそう。あれから寄合で説明したら、みんな納得してくれたよ」

 

(ゆうべミゼルから聞いたけどな……)

 リディアと会うのは、里帰りの日以来である。

 新しい服に変えてから、その後どうなったかエッジは知らなかった。

 

 ***

 

——2週間ほど前

 

 里帰りを終えてダムシアンで夕食をとってから、ミストに到着。

 その足でリディアはミゼルの自宅へ向かった。

 もちろん、エッジも付き添いに自ら名乗りを上げた。

 

「——なんなんだ、その服っ!?」

「ははっ、幻獣界のファッションセンスって奇抜だね……」

 

 新しい服で現れたリディアを見て、ミゼルもジャンヌもとっても驚いていた。

 

「お願いします。どうしても、アスラさまが作ってくださったこの服を着てミストを歩きたいの! どうか許してください!」

 

 リディアは、ミゼルたちに必死で頭を下げていた。

 

「服も自己表現のひとつだもん。その服着て歩いても、ぼくは別にいいと思うよ」

「ほんと? おじち」

「——残念ながら、いいと思わない人の方がたくさんです。隣にもいるけど」

「うっ……」

「もうすぐ寄合があるよね。そこで、みんなを説得してみたらどう? 時間あげるから」

 

(村長だから、どっちの肩も持たねえんだな)

 ミゼルは寛容な男だったから問題なかった。

 問題は、ミゼルの隣——妻のジャンヌだ。

 

「あたしは絶対許さないからな!」

「おばちゃん……」

「結婚していない若い女が、そんな服着て……そんなに襲われたいのかっ!」

 

 既にリディアに手をかけたエッジには、この時のジャンヌの言葉はとても耳が痛かった。

 

「そんなつもりないよっ! お願い、おばちゃん。許して!」

「だめだだめだ! しかも、大人しく話聞いてたら……やっぱり、おまえは幻獣界が故郷なんだな!!」

「ミストも幻獣界もあたしの故郷だよ……」

「……!」

「……」

 

(こいつ、ミスト生まれなのに幻獣界好きじゃねえのか)

 ジャンヌは貞操観念が高く、服が幻獣界製というのも気に入らなかったようだ。

 リディアがいくら懇願しても首を縦に振らない。

 

「あーあ、ジャンヌさんもこじらせちゃって……今日で決着つくかなあ」

「マジかよ……」

「ここにいてもキリがない。エブラーナにもう帰った方がいいよ」

「けど」

「——心配なのはわかるけどさ。女同士で話、させてあげよう」

「……」

「こうなってしまうと、ぼくも蚊帳の外だ。発着場まで送ってくよ」

 

 いつ終わるかわからない言い争い。

 その途中で、ミゼルに背中を押されるかのように、エッジはミストを離れた。

 

§

 

 そして、昨夜ミゼルの自宅を訪れた際。エッジはその後どうなったか彼に聞いた。

 

「ミストは問題ないよ。みんなリディアさんの熱意と涙に心打たれちゃったから」

 

 ミゼルが笑ってそう答えてくれた。

 その隣に、ジャンヌも渋々折れたという様子で立っていたことから。

 ミストでは、あの服がなんとか受け入れられた。

 エッジはそう胸をなでおろしたのであった。

 

 ***

 

『よかったじゃないか。特に問題なかったの?』

「最初はみんな驚いてた。『ミストは常夏じゃないよ』って言われちゃった」

 

(そいつは下着だって、おまえに言えなかったんだよ……)

 ミストは意外にも寛容な者が多かったようだ。

 さすがに、リディアへ本音をぶつける者はいなかったようだけど。

 

『だから言ったじゃないか。すぐに服として見てはもらえないって』

「アリサが最初ね、『あんたのこと、痴女って呼んでやるわー』って笑ってきたの」

『彼女らしいね』

「だからって、痴女はひどい……」

 

 よほどこたえたのか、リディアがぷうと頬を膨らませている。

 

(ほんと容赦ねえな……)

 アリサは、エッジを『リディアのヒモ』と称した第一人者。

 『ヒモ』も『痴女』も聞き捨てならない表現だが、正直言い得て妙でもある。

 

「それから、子どもたちもね」

『何を言われたの?』

「毎日、『せんせーが新しい服にしたのは、エッジを誘惑するためですか』って聞いてくるの」

『!』

 

 リディアが何気にエッジの名前を口にした。これはルール違反だ。

 目の前でぺらぺらしゃべり続けているので、熱があるは言い訳にならない。

 

『きみ、ルール忘れたの?』

「どけち! 抱かないのに、目隠ししてあげてるんだよ? 名前ぐらい呼んだっていいじゃない!」

『いや、どけちって……』

「だって、『あなた』って呼ぶと寒気するんだもん……あぁ、また寒くなってきちゃったぁ……!」

 

(下手くそな演技しやがって!)

 自らの身体を両腕で抱えながら、がたがたと震えるリディアにいらっときた。

 しかし、38度超えの病人に向かって怒鳴るような真似は出来ない。

 

『……わかった。今日だけは見逃してあげる』

「やった……!」

 

 特別に名前呼びを許した結果。リディアがぱああっと表情を輝かせた。

 

(来月覚えとけよ!)

 せっかくの機会がなくなった恨みは恐ろしいのだと、身体でわからせてやる。

 心の中で、悪人さながらな次回予告をリディアに通達した。

 

 一方、当のリディアは、そんなエッジを知ってか知らずか話を続ける。

 

「あとね、『先生も、とうとう色仕掛けするお年頃になったんだ』とか……」

『最後は怒ったんでしょ』

「うん。『エッジなんかにそんなことする訳ないでしょ』って言い返しちゃった」

『ああ、そう……』

 

(ひっでー言われようだぜ)

 気軽に言いたい放題言える関係。そう思えば済む話なのだろうが。

 リディアに『なんか』扱いされるのは、恋情を捨てきれないエッジにとって正直きつい。

 

「子どもたちだけじゃないの。みんな服のことそっちのけで、からかってきて……」

『否定してるんだろう?』

「あたしたちは恋人じゃないって言っても、誰も信じてくれないの。エッジもおかしいと思わない?」

 

 リディアの言葉は、かまいたちに似ている。そう思った。

 

 何気なく恋人ではないと否定する言葉が、自分の胸をさくさくっと容赦なく裂いてくれる。

 それと同時に、リディアが気配でこちらを見ながら必死で訴える姿が。

 傷口に塗り薬をべったべた塗りたくってくれるので、大してダメージにならない。

 

(ちょっとぐらいならいいだろ)

 病人のくせにやたら元気なリディアに、ちょっかいをかけたくなった。

 リディアの顔に両手を伸ばして、熱さを残す両頬をつまむ。

 

『いちいち本気にしてたらキリがない』

「ぶっ……!」

 

 つまんだ両頬を横にぷにいと伸ばしてやると、なんとも色気のない声が出た。

 

『ふふっ、きみの反応がおもしろいからみんな楽しんでるんだよ』

 

 実際ミストだけでなく、エブラーナの民もエッジたちの関係を眺めて、楽しんでいる。

 

 —— —— ——

 ただしエブラーナは、仲人のごとく余計なおせっかいを焼きたがる者が多い。

 エッジがリディアに思いを寄せていることを、彼女に教えたくてうずうずしている。

 

 そんなものされたところで、リディアが王妃になる訳がないし、迷惑になる。

 エッジはそういった理由で、数年前にエブラーナ全土に箝口令を引いた。

 リディアの前では一切王妃や世継ぎの話はするな、と。

 

 ところが、昨年の夏にリディアを薬草園に連れていったら。ウルキがばらしそうになった。

 僻地であればあるほど箝口令の効力は薄い。そう気付かされて。

 箝口令の内容を一部変更。それまでになかった罰金刑を設けた。

 —— —— ——

 

「もう……わたし、みんなのおもちゃじゃないよ」

 

 両手を離すと入れ替わるように、自分の頬を両手で抑えてリディアが口を尖らせる。

 

 大人の女性とは思えない子供じみた仕草は、エッジの密かなお気に入りのひとつだ。

 結局こちらに向けられたものなら、どんなリディアでも可愛くて見えてしまう。

 

『子どもは容赦ないからね。本気で相手にしていたらくたびれるだけだよ』

「えー? ずっと我慢しなきゃだめなの?」

 

 大人は、『そういうことなら仕方がないね』で一定の理解が出来る。

 しかし、子どもはそうはいかない。

 もし、エッジがリディアの生徒だったらからかい続ける。

 『子ども』を盾にして、服や肌を触るセクハラもどきもやっていたはず。

 

『きみが逆に子どもたちをからかってやればいいんだ』

「どうやって?」

『そうだなあ。「そうよ? わたし、この服でめろめろにしちゃったの。すごいでしょー」って言ってあげたら?』

「そんなことしてないのに、言わなきゃだめなの?」

『冗談を冗談でかわせるようになれば、もっと立派な女性になれるよ?』

「……それ、ほんと?」

 

 やはり食いついてきたかと、エッジはほくそ笑んだ。

 

 リディアは、現在温室から逃げ出すために(それなりに)鋭意努力中の身である。

 彼女にとって、『立派な女性』は、それはもう絶大な影響力を持つらしい。

 エッジは出会った時から本気でそう思っているから、こうして時折口にするのだけれど。

 

『本当だよ。騙されたと思って今度試してみて』

「わかった……治ったらやってみる」

 

 もっとも、試した結果失敗して、元のさやに戻る確率が高い。

 エッジはそうにらんでいる。

 

 冗談も真に受けるほどの純粋さ、そして子どもっぽさが抜けきれない無邪気さ。

 それらはリディアの際立った個性、いわゆる『芯』だと思っている。

 温室から脱出するのは、少々難しいかもしれないが。

 それでもめげずにもがくリディアが愛しくてたまらない。

 

『さあ、おしゃべりはもうおしまい。朝までもう一眠りするんだ』

「うん……」

 

 もがくためには、休養をとって体力を取り戻さねば。

 エッジはリディアの身体に掛けられた毛布とシーツをまとめてつかんだ。

 

『おやすみ、リディア』

 

 肩まで毛布とシーツを掛けてあげながら、真夜中の談義を締めくくってあげた。

 

「……おやすみ、……ッジ」

 

 話し疲れたのだろう。

 リディアは挨拶を残すと、すとんと夢の世界へ旅立った。

 

§

 

 エッジは台所で片付けを済ませて、再び寝室へ戻ってきた。

 よく見れば、リディアの右手がシーツからはみ出して、ベッドから垂れ下がっている。

 書机の椅子に腰を掛けると、白い手を取ってじっと見つめる。

 

『ほとんど問題なさそうだな』

 

 現在リディアは、ミスリルの工房製の包丁を使って、問題なく調理出来ている。

 

 そして、つらい記憶を持つ右手に、エッジがさまざまな刺激を与えている。

 そうすることで、記憶を上書きし続ければ、いつか右手の震えは治るだろう。

 

(けどよ……)

 白い右手を強く握りしめながら、目元を布で覆われたリディアの顔に視線を移す。

 

『顔は無理かもしんねえな……』

 

 エッジの顔を見ると症状が現れる問題は、治る気配が見えない。

 包丁と違い、『顔をリディアに見せない』ぐらいしかやりようがない。

 

 それでも、リディアはわざわざ帽子をかぶってでも、昼の関係を続けたいと望んでくれる。

 エッジには、それが嬉しくてたまらない。

 

『いつまで、おまえのそばにいられるかね……』

 

(もう少しだけでいい。こいつのそばにいさせてくれ)

 そんな願いを込めながら、リディアの右手を持ち上げる。

 そして、手の甲にそっと口付けを落とした。

 

 エッジは、いつまでもリディアのそばにいられない。

 なぜなら、1年前のあの夜。

 身体をつなげる代償として、リディアのそばにいる資格を自ら放棄したから。

 

 —— —— ——

 現在は昼夜問わず、将来リディアがよりよき生を過ごすための準備をしているところだ。

 昼の健全さと夜の不健全さ。その二側面から、リディアを『立派な女性』にしてあげたい。

 —— —— ——

 

『……愛してるよ、リディア』

 

 今宵もエッジは、初恋の男からの愛の告白と言う演出に見せかけて。

 眠りについているリディアに、本心からの言葉を届ける。

 

 いつか、リディアは温室を飛び出し、ばらよりも美しく咲き誇るだろう。

 エッジ以外の男性と結婚するかもしれない。

 その暁には、作り笑いを浮かべながら、『幸せになれよ』と祝福の言葉を贈る。

 そして、リディアとただの戦友に戻ろうと考えている。

 

(……それでも、この命尽きるまで、おまえを思い続けていく)

 

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