フェイクラバーズ 作:かえで
——4の月3日
3の月終わりの夜。リディアは突然高熱を出した。
翌朝、派遣医に診てもらったが、ただの風邪。念の為、2日間休養していた。
そして、先ほど病みあがり初日の授業を終えて、手早く事務作業を片付けた。
「……うそつき」
(騙されちゃった)
黒魔法講座の教室になっている、多目的室の隣にある準備室から出るやいなや。
誰かさんへの恨みごとをぼそりとつぶやき、肩を落としながら廊下を歩く。
「リディアさーん、おつかれ」
「ああ……おつかれさま」
公民館の出口に着くと、外に出ようとしていたミゼルから声をかけられた。
ミゼルは日中、同じ公民館に在する事務室で村長のお仕事に励んでいる。
彼も帰宅の時間のようで、自然と横並びで公民館の門をくぐった。
「ね、今からおじちゃん家。寄っていい?」
「どうぞどうぞ。しばらく寝込んでたから溜まってるもんね」
昨夏からリディアは、数日おきにミゼルの自宅に通っている。
世の中の動きを少しでも知って温室から脱走を図るために。
彼が購読している世界各地の新聞を読ませてもらっているのだ。
「さっきさ。こっちまできみの怒鳴り声が聞こえてきたけど、何かあったの?」
「うそ……!?」
多目的室と事務室は公民館のそれぞれはしっこにあり、とても距離が離れている。
それぐらいリディアの声が大きかったということだ。
「ミストの子どもたちって、約3名除いてそんなに問題あったっけ?」
「……冗談であしらったら、みんなに笑われちゃったんだよ」
「どんな冗談?」
「それがね……」
—— —— ——
3日前。その日は月終わりの夜だった。
自宅を訪れたエッジが、リディアの高熱に気付いてくれた。
彼はセシルの仮面をかぶったまま、朝まで付き添ってくれた。
深夜に目が覚めたが、眠れない。
たまたまエッジが起きていたので、話に付き合ってもらった。
ミストで新しい服がその後どうなったか報告してから。
子どもたちに服のことでからかわれている。
そんな愚痴をこぼしたら、エッジがこう言ってくれた。
『そうだなあ。「そうよ? わたし、この服でめろめろにしちゃったの。すごいでしょー」って言ってあげたら?』
冗談を冗談で返すのがポイントらしい。
しかも、台詞(リディアの声)まで伝授してくれた。
これはぜひ実行すべき。そう意気込んで眠りについた。
—— —— ——
そして、つい先ほど授業が終了。
案の定、子どもたちがリディアをからかい始めてきた。
これはチャンスと踏んで、エッジに伝授された台詞を子どもたちへそのまま返してあげた。
それなのに、大笑いされて、思わず怒鳴り返してしまった次第である。
「子どもたちに笑われて恥ずかしかった?」
「うん。エッジに騙されちゃった……」
「あの人は騙してないでしょ。子どもたちの笑いを真に受けてどうするの」
ミゼルに一部始終を報告したら、呆れている。
「だって、本気にしちゃう子が出てきたら困るもん……」
「子どもはね。どれだけあしらっても何しても、へっちゃらなの。飽きるまで我慢しな」
「むう……」
「話変わるけど、こないだびっくりしちゃったよ」
「寄合のこと?」
「うん。あれだけ、特別扱いはいやだぁーって言ってたのにさ。みんなの前で、泣いて頭まで下げちゃって、まあ……」
—— —— ——
リディアは、先月20日の夜に開かれた寄合中。
ミゼルから時間をもらうことが出来た。
壇上で新しい服の説明を終えると、半泣きに近い状態でみんな向かって頭を下げた。
『幻獣界には滅多に帰らないし、いつもこうして身に付けていたいの。だから、このまま着させて下さい。お願いします!』
結果、そこまで着たいのなら仕方がないと、みんな折れてくれた。
—— —— ——
「今も特別扱いされたくないよ」
「へえ、そうなんだ」
「でも、どうしてもこの服を着たかったから、みんなにお願いしたの」
服の着用許可をもらうために、寄合で時間をもらって住民に頭を下げる。
そんな住民は、後にも先にも自分だけだろう。
わがままだとわかっているが、どうしても許してほしかったのだ。
「まあ、きみの気持ちはわかるよ。幻獣界は、ここ以上に思い入れあるでしょ」
「……おじちゃん?」
「早く召喚士を育てて、あっちに帰りたいだろうしね」
ミゼルから『用が済んだら幻獣界に帰れば?』と言われたように聞こえて。
その場で立ち止まり、うつむいてしまった。
(おばちゃんは、そんなこと絶対言わないのに……)
ミゼルの妻ジャンヌは、リディアをミストに引き留める側の人間。
ミゼルもそんな妻と似た思いを持ってくれている。
そう思っていたら、まさか突き放されるとは思わなかった。
「ねえ、どうしたのー? 帰らないの?」
(わたしがどっちも大好きなこと、知ってるくせに……)
先を歩いていたミゼルが、間延びした声でリディアに呼びかけてきた。
「ひどいよ、おじちゃん……」
「なに?」
「っ、どうして、そんなこと言うの!?」
—— —— ——
幻獣界から帰ってきた夜。ミゼルはこう言ってくれた。
『もうすぐ寄合があるよね。時間あげるから、そこでみんなを説得してみたらどう?』
柔軟な対応を見せてくれたのに、あれは一体何だったのか?
—— —— ——
ざりざりと砂を蹴る足音が聞こえてきた。
ミゼルがこちらに戻ってくる。
そう気付いて両拳を握リ締めてから、顔をさっと上げた。
「あ、あたしはねっ!……幻獣界の服を着て、ミストでずっと暮らすのっ!! 召喚士が育っても変わ」
「——はい、そこまで」
「え?」
思いのたけをぶつけていたら、ミゼル本人からの言葉。
同時に、眼前に突きつけられた彼の左の手のひらが遮ってきた。
「ひっ、う、っ……」
「おじちゃん……?」
ミゼルが背を向けて黒眼鏡を外すと、声を上げて腕で目をぬぐっている……ように見える。
その仕草と泣き声が、またわざとらしく感じる。
これはうそ泣きだ。リディアがそう気付くには時間はかからなかった。
「リディアさんが……そっ、そんなこと言ってくれるなんて……い、生きててよかったぁ……!!」
「あ……!」
(まさか……)
以前経験したこともあって、ミゼルに一体何をされたのか自ずと答えが見えた。
それと同時に、ミゼルがうそ泣きを終えると、再び黒眼鏡を掛けながらこちらを向いた。
「はいっ! きみがミストに帰ってきてから、もう6年になります。これからも先生を続けてくれるかどうか、確認させていただきました!」
(だまされた!)
半分顔が覆われているが、にぱあと笑みを浮かべているのは明らかだ。
「ひどい! あたしから言質引き出して取った!!」
「その通りです。そういうことで、これからもよろしく頼むよぉ? リディア先生!」
景気付けなのか、ミゼルがリディアの肩をばしばし叩いてくる。
(エッジとやり口そっくり……!)
言質は、信頼関係のない相手から引き出すもの。
リディアはそう大まかに認識している。
ミゼルに信頼されていなかったと、がっかりしながら歩き始める。
「もうやだぁ! こんなおじちゃんきらいっ!!」
「残念でした。ぼくは、もともとこんな人なんですよ」
ミゼルの隣を歩きながら、リディアは天を仰いできらいきらいと連呼する。
きらいと言われているのに、ミゼルはからから笑っている。
しょせんきらいは口だけである。リディアはこの男のことを嫌いになれない。
心の底から嫌いになったら、こうしてミゼルと共に歩かない。
ただし、『昔も今も変わらず、優しい近所のお兄さん』から『優しい』を外すことにした。
§
「——ミゼル!」
しばらくふたりで歩いていると、背後から男性の声が聞こえてきた。
「やあ、ローレル」
「……はあ、やっと見つけた……っ!」
振り返ってみれば、ローレルが少し息を切らして立っている。
彼は農作業に従事しており、この時間は畑にいるのに珍しい。
「もう作業終わったの? 早くない?」
リディアがここにきた理由をたずねてみると、ローレルは急に神妙な面持ちに変わった。
「今日は休んだ」
「どうして? 今の季節忙しいでしょ」
「ああ……リディアなら、別にいいか」
「わたし……?」
「——いよいよ逃げるか」
「ああ」
ミゼルが真剣そうな声で、ローレルにたずねた。
ミゼルのこんな声を聞いたことがなく、リディアは驚いた。
しかも、『逃げる』という言葉から、何かただならぬ空気も感じる。
「今さっき、嫁をカイポに送り届けてきた。俺もすぐここから出ていく」
「うそ!?」
「やっと決断したか……!」
ローレルのミスト脱出宣言に、リディアは驚きを隠せない。
一方、ミゼルは気が緩んだような声で、ローレルの肩を軽く叩いている。
「どういうこと? お母さんがまた何かやったの?」
「今日、朝起きたら家のガラスが割られてた」
「そ、そこまで……!?」
年明け早々、ローレルは長年付き合っていたカイポの女性と結婚した。
それから、まだ3ヶ月も経っていないのに、新居を捨ててカイポに移る原因はひとつしかない。
……ローレルの母親だ。
—— —— ——
ローレルの母親は、キロンと同じ保守派の先住民で、西区画に住んでいる。
彼女は、ミストの召喚士の血をミストに残したいという理由から。
昨夏ローレルとリディアとの結婚話を、ミゼルに焚きつけた人でもある。
ローレルの妻が、ローレルの母親から心ない悪口を言われている。
ローレルの母親が、昼夜関係なしに新居の前で大声で叫んで、壁や窓を叩いている……。
ローレルが妻と結婚してから、そんな話が広まった。
ミストのはしっこ住まいのリディアの耳にまで届いたぐらいだ。
—— —— ——
「母さんのところに文句を言いに行ったが、知らぬ存ぜぬだ」
「ひどい……お腹の赤ちゃんにもよくないよ」
「……やりすぎだ」
「せっかく家を構えて、母さんから逃げられたと思ってたのに……!」
ローレルの妻は、先月妊娠が判明したばかり。
精神的な負担やショックは母体のみならず、胎児にも悪影響を及ぼしかねない。
かねてからミゼルや新居の住民が、暴挙を繰り返すローレルの母親に注意を促していた。
リディアもみんなもそのことを知っている。
「夕方までにはここを出ていった方がいい。しばらくの間、奥さんのそばにいてあげな」
「でも、荷造りが……」
「大きい荷物は目立つ。貴重品だけ持っていけばいい」
「わかった……まさか、おまえを残して逃げるなんて……」
「平気だよ。何人か戻ってきてくれたから」
ミゼルとローレルが交わす会話は、ろくでもないことを企てる悪人さながらだ。
「ね、ねえ……おじちゃんたち、何言ってるの?」
話についていけず、ついふたりの会話に割り込んでしまった。
「あっ、おまえはまだ小さかったから知らないよな」
「何を?」
「ミゼルは昔、おまえの父さんと一緒にミストが嫌な奴の相談役と逃げる奴の手引き役をやってた」
「……お父さんとそんなことしてたの!?」
「はい。とっても悪い住民なんです」
へらへらしているミゼルからは、そんな気配が全く感じられない。
しかも、ここで父の名が出てくるとは思っていなかった。
—— —— ——
父ニクスは、リディアが生まれて間もなく亡くなっている。
もちろん、リディアは父の顔を知らない。
エスタたちからも、ミゼルとエスタと幼なじみだった。
召喚士だった、とてもかっこよかった……ぐらいしか、父の話を聞いたことがなかった。
—— —— ——
「ローレルは、それとどう関係があるの?」
「俺は親父が召喚士だったが、魔法も召喚術も使えない。母さんも小さい頃からあんな感じだったから、ここのしきたりや独特の空気にうんざりして、ミゼルとニクスとよく愚痴ってた」
次第に、ローレルと同じようにミストに疑問を感じた者が集まってきた。
彼らのほとんどは、その後ミゼルとニクスの手引きでミストから逃げた。
逃げた者たちは、現在よそで暮らしているか。
ミストに帰ってきてここで暮らしているか、行方知れず。そのどれか。
ローレルがそう話してくれた。
「それで、先月からミゼルにここから出るよう、勧められていたんだ」
「お母さんはミストから出たことがないからね。そこまで探しに行かないと思ったんだよ」
「……ここには、もう戻ってこないの?」
「母さんの様子をのぞきがてら、たまに顔は出すよ。いつかミストに家族を連れて絶対戻ってくる。これからその長い準備に入るんだ」
「準備?」
「医師免許を取得してから、ミストで医院を開業する」
「ほんと……!?」
ローレルが打ち明けてくれた内容を聞いて、リディアは目を見開いた。
—— —— ——
ミストは火災以降、定住医がいない。
現在はバロンから医師が派遣されている。それでも、夜になると帰ってしまうし、お休みで来ない日もある。
ミストの本音としては、夜間休日に緊急で診てくれる開業医が欲しい。
けれど、ここに住みたいと言う医師がなかなか現れないのが現状だ。
—— —— ——
時間はかかるかもしれない。
しかし、ローレルが医師になってミストに帰ってきたら、無医村状態は解決される。
「どうしてお医者さんになろうと思ったの?」
「小さい頃からの夢だったからな」
「せっかく勉強していたのに、お母さんに猛反対されて諦めたんだよ」
(もったいない……)
ローレルは農作業に従事している。しかし、とても賢い男性。
前々からリディアは、ミゼルからそう聞いていた。
「普通、子どもがお医者さんになるって聞いて反対するお母さん、いない……!?」
ローレルにたずねている途中で理由に思い至り、言葉を切った。
「わかったか?」
「もしかして、ローレルが召喚士以外の人と結婚したら都合が悪いから、お母さんは反対したの……!?」
「そういうことだ。俺は小さい頃から母さんに、『魔法も召喚術も使えないなら、召喚士と家庭を持って子をもうけろ』と言われながら育てられた」
「ひどい……!」
ローレルの母親は、ミスト内での立場を上げようとして息子の幸せや夢を潰してしまった。
彼女にとってローレルの妻は、息子を奪ったよそ者。
それが嫌がらせの原因だとはっきりわかり、憤慨する。
「結局その母さんのせいで、今回ミストから出ることになってしまったが、ちょうどいい機会だからさ。遅咲きながら医師免許を取ろうと思ってな」
「……わたし、応援する!」
「本当か?」
「うん! ローレルがお医者さんになって帰ってくるの、楽しみに待ってる」
「そう言ってくれると嬉しいな」
夢を追いかけるのに、歳は関係ないとリディアは思う。
だから、ローレルの夢を応援したい。
「リディアもミゼルの同志みたいなものだ。この話は内密で頼むぞ?」
「もちろんだよ」
ローレルの母親と真っ向から対立したリディアなら、言いふらさないだろう。
ローレルはそう信じて、今ここで大事な話を切り出してくれたようだ。
「連絡取りやすくなるし、カイポ用の伝書鳩でも育てるかな……」
「俺は別に構わないが、ジャンヌはいいのか」
「そうだよ。またおばちゃんに怒られても知ーらなーい」
「ははっ、ついに腹パンされるかもしれないね」
ジャンヌの恐ろしさを知るリディアとローレルは、腹を抱えて笑った。
当のご本人であり、殴られる未来が見えているミゼルまでも、へらへら笑っている。
—— —— ——
今ここにいる3人を中心に、ミストの若い先住民——改革派先住民は、みな明るい。
しかも、進歩的な考えの持ち主ばかり。
彼らの存在は、移民と並んで新しいミストを維持出来ている要因でもあった。
—— —— ——
「そういえば、リディア」
「何?」
「……おまえ、あれからどうなったんだ?」
「え、どうって?」
突然ローレルが曖昧な質問をしてきて、リディアは首をかしげる。
新しい服に変えた時も、彼は妻を伴って寄合に参加していたし。
今ローレルに報告することは特にないのに。
「あの人を、その服で堕としたのかって聞いてるんだよ」
「はい……!?」
(どこからどう聞いても、エッジのことじゃない……!?)
子どもたちと同じように、にやにや顔でからかってきたローレルに開いた口が塞がらない。
「その様子じゃまだなのか? 一体何やってるんだ……」
「え、まだも何も……」
「くくっ……!」
「——ちょっと! 何笑ってるの!?」
背を向けて笑いをこらえているミゼルに怒鳴った。
その間に、ローレルがリディアたちの元から離れていく。
「荷物取りに帰る。離れる前にそっち寄るから」
「うん、待ってる」
「リディア、せいぜい頑張れよ」
「ああっ……待って、ローレル……!」
リディアたちに手を振って、ローレルは足早に去っていった。
(お別れの言葉が、あれ!?)
一体、何をどう頑張ればいいのか。
ローレルはそれを教えてくれてから、ミストを去って欲しかった。
「もうっ! ローレルまで、わたしをからかうなんてっ……!」
「何やってんのリディアさん」
「え」
「ああいう時に、冗談で切り返すんだよ」
「あっ……!!」
「むきになる癖は、なかなか治らないねー」
ミゼルから呆れたように、ごもっともなことを言われてしまった。
(せっかくの機会だったのに……)
子どもがだめなら大人相手に冗談で切り返すか、試せばよかった。
からかいに反応してしまう癖は、やっぱり抜けきれなさそう。
リディアはがっくり肩を落としながら、再び歩き始めた。
ミゼルの自宅まであと少しというところで、突然ミゼルが立ち止まった。
「どうしたの?」
「いやね……旅立ちの春なんて、久しぶりだと思ってさ。復興が始まってから、誰も逃げなかったのに……」
ミゼルが青い空を仰ぎながら、独り言のように、ぼそりとそうつぶやいた。
(お父さんとおじちゃんは、ミストから逃げる人たちをずっとここから見送ってたんだよね……)
まるで、火災が起こるまでは、逃げ出した者がとても多かった。
そう言わんばかりのミゼルの独り言を聞いて、複雑な思いに駆られる。
しかし、昔のことを考えていても仕方がない。
「ローレルは逃げるんじゃないよ。いつか必ず戻ってくるってさっき言ってたじゃない」
「そうだね。だいぶ先になるけど、その日を楽しみに待ちますか……」
「うん」
リディアは帰路につく中、心の中で新たに決意したのだ。
いつかローレルが妻子を連れて、ミスト初の開業医として、この地に戻ってくる。
その間、ミストで暮らす自分たちは、出来ることをやってローレルの帰りを待とう、と。
§
程なくして、ミゼルの自宅に到着。
中へ入ると、すぐ居間のソファに腰を落ち着けた。
リディアはこの家のおなじみさん。多少なら勝手が許されている。
「おばちゃん、今日はお出かけなんだ」
「トロイアとエブラーナに行くって言ってたよ」
ミゼルがここ4、5日分の各地の新聞を机の上に持ってきてくれた。
「エブラーナ? 初めてじゃない?」
「うん。ちょっと前から和装のデザインに目をつけてたからね」
「お花がたくさん入っててきれいだもんね」
「そうそう。で、やっと実物を拝みに行ったのさ」
「……おじちゃんも、おばちゃんに留袖買ってあげたら?」
「やだよ。あの人、すぐに破っちゃうもん」
「っ、ひどいなぁ、っ……!」
(おばちゃんは忍者の服装が一番似合ってるよ!)
せっかく留袖を着たのに、自らびりびりに破いてしまう。
そんなジャンヌの姿を想像して、思わず笑ってしまった。
「——はい、いつもの」
「ありがとう」
空っぽのグラス。ガラスのジャーになみなみと入ったコーヒー。
ミルクと砂糖がそれぞれ入った、小さなガラスのびんふたつ。
そして長いストロー1本……。
ミゼルがそれらを載せたトレイを、机の空いているところに置いてくれた。
—— —— ——
ジャンヌは、ミストの外に出かける機会が多い。
いつもその日は、コーヒーを大量に作り置きしてからお出かけしている。
なぜなら夫が火災の後遺症で火に近付けず、ひとりで飲み物が作れないから。
妻がいないと、喉が渇いたら水を飲むしかない。
もしお客さんが来たらどうする。お水を出すのか……?
そういった理由から、ジャンヌ不在時のミゼルの飲み物はコーヒーと決まっている。
そして……。
『ぬるいコーヒーを自分で淹れてください。ミルクとシロップを付けておくのでご自由にどうぞ。ぬるいのが嫌なら、自分で魔法を使って、氷を入れるか冷やしてください』
来客にお出しする時も、ほぼセルフサービスとなっている。
—— —— ——
「あれ? おじちゃん飲まないの?」
「……鳩小屋の掃除終わったら」
ミゼルがマスクと手袋を手に持ち、憂鬱そうに玄関に向かう。
—— —— ——
夫から面倒な伝書鳩の小屋掃除を押し付けられたジャンヌ。
妻にそれを丸投げしていたミゼル。
ふたりは昨年から、そのことで度々夫婦喧嘩をしていた。
ミゼルはきれい好きだが、ジャンヌはそうではない。
妻をきれい好きにするために、無理くり役目を押し付けたらしい。
それでも妻の圧には敵わない。
ついに夫は折れて、先月から夫婦交代交代で掃除をやることになった。
それまでご好意で手伝ってくれていた鳩おじさんは、無事に撤退と相成った。
—— —— ——
「へえ、そうなんだぁ。がんばってお世話してあげてねっ」
「どうぞ、ごゆっくり……」
「はーい、行ってらっしゃーい」
ミゼルをわざとらしく明るい声で見送ると、さっそく詠唱を唱える。
空いたグラスにからからと氷を入れて、慣れた手つきで、自分用のコーヒーを作り始めた。
しょっちゅうここに通っているリディアは、ほぼセルフサービスでも全く気にしない。
「おじちゃんに、全部やらせたらいいのに……」
ベタ惚れだから、ミゼルに鳩のお世話を全て押し付けなかったのだろう。
やはりジャンヌは甘い。甘すぎる。
そう思いながら、リディアも甘いシロップをどばどばグラスの中に放り込んだ。
仕上げに、グラスに入った黒い液体をストローでくるくるかき混ぜたら。
リディア専用激甘アイスコーヒーの完成である。
「よし、読もう……!」
激甘コーヒーを一口すすってから、世の中の動きを知るために。
ミゼルが山積みにして持ってきてくれた3日分の新聞を漁り始めた。
古い日付のものから引っ張り出して、紙面を広げる。
もちろん、隅から隅まで全ての新聞に目を通す訳ではない。
—— —— ——
全部の新聞を読もうとすると時間が足りない。
一国につき、一新聞読めばいい。
記事も見出しが大きいものや、興味のあるものを優先的に読めばいい。
気負いすぎると先が続かない。まずは習慣づけることが大事。
—— —— ——
新聞読みをはじめる際、ミゼルがそんなアドバイスをしてくれた。
肩肘張らないようなやり方を実践し続けたおかげで、すっかり習慣となっていた。
最初に目を通すのは、お隣さんバロンの新聞だ。
「白魔道士の育成事業……」
(ローザもポロムも忙しくなりそう)
この春からバロンとミシディアが連携して、希望地に講師を派遣。
次世代の白魔道士の育成に取り組むという記事を見つけた。
—— —— ——
『お気軽にご連絡くださいね』『精一杯頑張ります』
バロン王妃ローザと、ミシディアの白魔道士ポロムのコメントがそれぞれ載っている。
—— —— ——
(さすがに、ふたりは講師にはならないだろうけど……)
コメントがこうして載るぐらいだ。
運営側——責任者や調整役に回る可能性が高いと思われる。
(みんな……7年の間で、いろいろ変わっちゃったなあ)
リディアを含めたセシルの仲間の多くは、現在他者優先の立場。
国を治めたり、次世代の育成に携わったりするようになった。改めてそう気付かされる。
「ああ、だめったらだめ」
思い出に浸る暇はない。かぶりを振って新聞読みに集中する。
しばらく他の記事や新聞を読んでから。
ファブールの新聞を開いてみると、面白そうな記事を発見した。
「うわあ、たのしそう……」
(ヤンも奥さんと娘さんと一緒にお花眺めるんだろうなあ)
ファブールでは昼夜関係なく、満開の桜を見ながら飲めや歌えの宴会を開く。
春の伝統行事になっていて、今年も桜の花が散るまで毎日宴会をやる。
ファブールで一番人気のあるお花見場所は、城の近くにある公園。
そこには、1000本の桜が植えられていると書かれている。
「へえ、宴会ってこんな感じなんだ……」
(絵描きさんを、宴会によこして絵を描かせたのかな?)
ご丁寧に、去年行われた宴会の様子が描かれたイラストも記事の中に入っていた。
「ただいま……」
「おかえり」
「はあー、つかれたぁ……」
読んでいる途中で、ミゼルが手袋やマスクを外しながら室内に戻ってきた。
やっと掃除を終えたようだ。
「時間かかってたね」
「うん。ローレルと話してたから」
「もうカイポ行っちゃったの!?」
「持ってくの貴重品だけだもん。何か要るものがあったら、こっちからカイポに送ってあげたらいい」
「夜逃げ屋さんみたい……」
借金取りから逃げるために、国から脱出をしようとする人たちを、手助けする者。
そんな彼らは夜逃げ屋さん。もちろん、架空の職業である。
リディアは、彼らが主人公の小説を以前読んだことがあった。
「ははっ、そんな大層なものじゃないよ」
(おばちゃんが前に言ってたの、このことだったんだ……)
ミゼルは笑っているが、ローレルの話を聞いてしまった以上。
リディアには、彼がもう夜逃げ屋さんにしか見えない。
—— —— ——
以前ジャンヌからこう言われたことがある。
『おまえは、あいつを買いかぶりすぎ。そのうち化けの皮がはがれるから見てな』
その言葉通り、ミゼルはただの優しい近所のお兄さんではなかった。
—— —— ——
「ねー、今日の新聞。もう見た?」
「今、昨日の分。もうすぐだよ」
「ふーん、リディアさんにすぐ見てほしい記事があるんだけど」
「わたしに?」
「ああ……これだな。——はい、どうぞ」
ミゼルが、とある新聞をリディアの方向に向けた状態で机に置いてから、台所へ向かった。
グラスを取りに行ったのだろう。
その新聞をちらっと見ると、何やら既視感がある絵が描かれている。
そう思いながら、机に置かれたそれを凝視した、その時。
「——なにこれっ!?」
がさがさっと両手で新聞を力強くつかみ、目の前に近付けて記事を読んでみた。
—— —— ——
『幻獣界の最新服飾事情』と見出しがついた記事は、異世界の服飾を読者に紹介するもの。
アスラからもらったリディアの新旧の服、どちらも描かれている。
絵だけでない。
洗濯不要、サイズや温度調整などの便利機能。見えないケープのことも事細かに解説されている。
—— —— ——
「今日付のどこの新聞にもそれと同じ記事が載ってるよ」
「全部!?」
「うん、全部。見たい?」
「……いいよ、全部同じ記事なんでしょ?」
「そっくりそのままだから、ひとつ読んでおけば十分だ」
ミゼルがグラスを片手に台所から戻ってきた。
リディアと対面の席に着いてから、コーヒーをなみなみと注いで、すぐに口につけた。
「『ある召喚士の女性』って……わたしのことだよね?」
「そうだよ。似顔絵も載ってないし、匿名でよかったね」
「うん……」
現状、召喚士といえばリディアのことを指す。
だから、主語が『ある召喚士の女性』でも誰かすぐわかる。
それでも、実名で記事が載ることを考えたら、まだマシだ。
「実はさ。大分前からいろんな新聞で幻獣界のことが記事にされててね」
「……みんな、幻獣界に詳しくなっちゃってるんだ」
「幻獣界を知れば知る人ほど、今日の新聞記事読んだら、きみのパトロンは『味方に付けば頼もしいけど、敵に回したらこわーい幻獣界』だってびびっちゃうだろうね」
「パトロンって大げさだよ……」
「まあまあ。これから幻獣界にちょっとでも詳しい人は、『ある召喚士の女性』が目の前で歩いていても、怖くて手が出せないと思うよ」
幻獣界という名のパトロン——強い後ろ盾を持つ。
そんなリディアに手を出そうものなら、リヴァイアサンたちからの報復が待っているかもしれない。
そう考える者が多いという。
「よほどの怖いもの知らずか、リディアさんを口説き堕とせる自信がある人か。新聞読まない人ぐらいしか、きみに手を出さないんじゃないかな?」
「今までの記事や今日の記事のおかげで、この服がお守りに変わったってこと?」
「そんな感じ。水着みたいな服でも、きみをいろいろなことから守ってくれる」
ミゼルが笑いながらそう話してくれた。
彼はまだまだ世情に疎いリディアのために、度々こうやって解説をしてくれる。
「ねえ、おじちゃん」
「何かな」
「こんな記事載せられるような人、ひとりしかいないんだけど、もしかして……」
先日変わったばかりの服の詳細を知っている。
普通に暮らしたいと望むリディアの意志に出来るだけ沿った、匿名顔なしの記事。
全ての新聞社に記事を書くよう、圧力を掛けられるぐらいの権力を持っている人間……。
「——察しがいいねぇ。エドワードくんが仕掛け人だよ」
「やっぱり……!」
—— —— ——
月終わりの日の夜。ミゼルの自宅に突然エッジが現れた。
『リディアが熱出しちまったみてえでさ。体温計、貸してくれねえか』
エッジの申し出に応じて、ミゼルたちが体温計や洋酒のびんなど渡してあげた後。
『3日後、世界中の新聞にあいつの服の解説記事が載るよう仕向けたから、よろしく頼むぜ』
エッジからそんなことを言われたという。
—— —— ——
「わざわざ、全部の新聞に載せなくても……」
「全部じゃないと意味ないじゃん」
「どうして?」
「あの人は、この記事だけで、きみがミスト以外の場所で説明したり、頭下げたりする手間を省いてくれたんだよ」
リディアが考えていたミスト以外の服対策は、お城巡りだった。
旧知の友人である国王と面会して、これで歩かせて欲しいと頼み込むつもりでいた。
それが知らないうちに、やらなくて済んだ。
手間が省けたのは確かに嬉しいが、どうも複雑である。
「あ、もしかして新聞記者と直接会ってインタビュー記事にしてもらった方がよかった? もちろん、リディアさんの実名入りで」
「そんなのやだっ!」
(実名なんてありえないよ!)
思いっきり叫んだリディアを一向に気にすることなく。
にへらと笑みを浮かべたミゼルが、更にとんでもないことを言ってきた。
「実はさぁ、最近あちこちの新聞社から手紙がよく届くんだよね」
「どんな手紙?」
「リディアさんの記事を書きたいから、インタビュー許可してくれってお願いだよ」
「ええ!? お、お願い……全部断って……!」
リディアはおののきながら、ミゼルにお願いした。
記事を読む側の人間として、新聞と接していたのに。
その逆……取材されて、記事を読まれる側の人間になるのはごめんだ。
「心配しなくても全部断ってますよ。特別扱いされるの嫌な子が、取材受ける訳ないからね」
「ああ、よかったぁ……! ありがとう」
「そういうところは、お母さんの教育の賜物だね。エスタ、あの世で喜んでるかなぁ」
(おじちゃんが村長じゃなかったら、今頃どうなってたんだろう……!?)
この世界における自分の存在が、予想以上に大きいことに困惑してしまう。
—— —— ——
普通に暮らしていたらいい。
リディアは火災の日まで、エスタからそう言い聞かされて育った。
どこにでもいる娘——普通の生き方を貫きたい思いは、リディアの『芯』のひとつだ。
—— —— ——
(あたしが死ぬまで、おじちゃんには村長続けてもらわないと……!)
緊急時を除いて、これ以上は有名人になりたくない。
特別扱いされないための特別扱いをしてくれるのは、この男しかいない。
「という訳で、ほかの国には、ここみたいに茶化す人がいないから、安心してよそにお出かけ出来るよ。よかったね」
「……」
「どしたの?」
「いつも、これ……エッジ……なにも言ってくれない……」
リディアはうつむき、エッジに対する不満のような疑問をぼそぼそ口にした。
—— —— ——
記事を勝手に載せた載せないは、どうでもいい。
むしろ、説得するための世界行脚する手間を省いてくれて嬉しい。
エッジの何が不満かと言えば、ミゼルたちに記事にすると予告したのに。
なぜ、自分にそうしてくれなかったのか。この一点に尽きる、
—— —— ——
また自分の知らないうちに、善い行いをしていた。
そう思うと、エッジに抜け駆けされているようでおもしろくない。
「……あの人は、ボランティアと一緒の感覚できみの世話を焼いてるんだよ」
「ボランティア?」
「うん。ボランティアは無償の善意。基本見返りを求めません。エドワードくんはそのつもりで新聞社へ根回ししたから、きみに何も言わなかったんだよ」
「見返り……」
「一言言っておこうって発想すらないと思うよ?」
ボランティアといっても、村へに向けたものと、一個人のそれではかなり違いがある。
『仲間』以上、いわゆる好きな人に尽くしたい無償の愛のようにも見える……。
(うん、ない!)
仮にそうだとしたら、エッジの性格上、すぐにリディアに告白。
そして、速攻フラレているだろう。
冗談はともかく、今までそんなこと言われたことがない。
夜の『愛してる』も、セシルとして演技で言っているだけだ。
エッジが自分に色恋の感情なんて、持っている訳がない。
リディアはそう思い直した。
「だったら、どうしてエッジはおじちゃんたちに話したの……?」
「人が押し寄せる可能性を考えて、ミスト中に注意喚起した方がいいって忠告してくれたんだよ」
「あっ、観光地じゃないから……」
静かでのどかな風景。それに惹かれて、異国の地からミストに移り住んだ者がかなり多い。
そんな村を出来る限り維持するために、村では観光客を誘致していない。
名所もお店もないので、観光目的でこの地を訪れる異国人はほとんどいない。
景観や住民の住み心地を優先した結果、そうなっただけで。
ミストは昔のように閉鎖的ではない。異国人を排除している訳でもない。
「記事のおかげで興味本位にきみの服を見たい人、きみを取材するために新聞記者がたくさん訪れたら、ちょっとした騒ぎになっちゃうからね」
「人が絶対に来ないとは限らないもんね……」
「そうそう。それで、エドワードくんから『もし殺到したら、勝手に記事を出したオレが悪いから、先に謝っとく』って言われた」
「そこまで…!?」
「ミストに気を遣ってくれたんだってうれしかったなあ……!」
それからしばらくの間、ミゼルがエッジについて熱く語った。
(すごいなあ、エッジのことが気に入ってるんだ)
たかが一村の村長とも、対等に接してくれる。
しっかり民のことを考えている。
偉ぶってるけど、肝心なとこは偉ぶらない……などなど。エッジのことを称賛していた。
「まあ、しょせん一庶民の感想なんだけど。きみは本当にいい『仲間』を持ったと思うよ」
「……うん」
「じゃあ、この話はこれでおしまい。邪魔して悪かったね」
ミゼルの言葉に小さくうなずき、再び別の新聞に手を取った。
けれど、文字の羅列を目にするだけ。内容がちっとも頭に入ってこない。
(エッジのために、何かこっそり『出来る』こと、あるかな)
無償の善意の話を聞いてから。リディアの中にそんな思いがむくむく芽生えてきた。
(でも、困っていることなさそうだし、あってもすぐ解決しちゃうよね)
エッジは優秀な部下がいる。国王でなくても生きていけそうな特技を持っている。
彼が治めているエブラーナもとうに復興が終わり、現在は安定した治世の中にいる。
エッジが今何か欲しい、何かやりたいと聞いたこともない……。
ばったーん!
「暑かったぁー」
「おかえり、ジャンヌさん」
荒っぽく扉を開ける音と共に、ジャンヌが帰ってきた。
エブラーナにも寄ったはず。あの国の感想を聞いてみたい。
「おばちゃん、おかえり。お邪魔してます」
「……なんだ、ここにいたのか」
「エブラーナどう」
「——今、王様来てるぞ」
「うそ」
「あたしが乗ってた巡回艇が、ミストに着陸したのとほぼ同時に、王様も自家用艇でやってきたんだよ」
ジャンヌがそう教えてくれて、軽く驚いた。
(3日ぶりって、すごく珍しい……)
3の月は忙しかったようで、間が空いたけれど。
エッジは普段、約5日から1週間の間隔でミストにやってくる。
だから、今日は来ないだろう。
そう思って、新聞を読みにこの家に寄り道したのに。
「けどな。入口で待ち構えてたガキどもに捕まってどっかに連れて行かれた」
「広場かな?」
「だと思うよ」
(晩ごはん、食べるかどうかエッジに聞かないと)
広場に行かねばならない。新聞読みはこれでおしまい。
リディアは机の上に散らかった新聞を片付け始める。
「……おじちゃん、今日あんまり読めなかった」
「新聞は逃げない。いつでも読みにおいで」
「うん」
「——新聞と違って、子どもに捕まった大人はそうそう逃げられないね」
「……!」
(なんだあ! 悩むことなかったじゃない!)
ミゼルの言葉で、今エッジにこっそり『してあげられる』ことを思いついた。
今から広場に行く。そこでミストの子どもたちに、笑顔を与えているエッジの姿を。
西に傾きかけた春の太陽と共に、この目で見届けたらいい。
そしてエッジを自宅に連れて帰ることで、子どもたちから解放してあげたらいい。
§
「おじちゃんおばちゃん、今日はありがとね」
ご近所さんな上に、しょっちゅう顔を合わせているのに。
ミゼルとジャンヌはいつもこの家から帰る時、玄関の外に出てまで見送ってくれる。
「まーた、豪勢な晩飯作らなきゃね」
「そうなの……」
にやにやしながらジャンヌからそう言われて、がっくり肩を落とす。
今日は食材が揃っておらず、ろくなおもてなしを出来そうにない。
また、日持ちのいい玉ねぎで作るオニオンスープとパンで、もてなすしかなさそう。
「おまえも病み上がり早々大変だ」
「大丈夫でしょ。あの人は適当でも目、つぶってくれるよ」
「だといいけどね。——じゃ、また遊びにくるね」
(今日は帽子はいらないや。わざわざ取りに帰る時間がもったいないもん)
ふたりに挨拶してから、背を翻してミゼルたちの自宅を後にした。
春の陽気と、早く広場に行きたくてたまらない。
そんな忙しげな気持ちからか、珍しく駆け足で。
「つまずいてこけんじゃないよ!」
「そんなことしないもーん!」
だいぶ離れたと言うのに、ジャンヌが大声で茶々を入れてきた。
後ろを振り向いて、声の主に向かってリディアも手を振って大声で返してあげると。
前を向いて、ほんの少しだけ走る速度を上げる。
(あたしも、エッジに何かしてあげたいな……)
春の訪れと共に、愛のような恋のような……親愛とは違う感情。
それが、心の中で芽生え始めているなんて、全く気付かないまま。
リディアは足取りも軽やかに、エッジがいるであろう広場に向かったのであった。
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