フェイクラバーズ 作:かえで
—— —— ——
エッジが地下室で意識を失ってから数分後。
じいが、ザンゲツたちお城勤を数名連れて、地下室に駆けつけてくれた。
後で聞いた話だが、扉の向こう側にいた護衛がじいを呼びに行ってくれたという。
エッジは私室に運ばれて、侍医の診察を受けた結果、原因不明の夏風邪と診断された。
『喉痛え』
『頭痛え』
『寒い』
診察中、エッジはうなされながら、それらを繰り返し口にしていた。
最後に『さっさと新薬打ってくれ』と侍医に命令。
解熱剤を投与されてから、こんこんと眠り続けている。
—— —— ——
——午後6時すぎ
侍医が去り、エッジの私室に残ったのは、眠っている本人とリディアとじいだけ。
リディアは老齢の忠臣へ、診察を見守っている間に決意したことを伝えた。
「はい?? 今、なんと……」
「え、と……エッジのことが心配で、今晩ここに泊まらせていただけないかと思いまして……」
じいが目を大きく開かせてこちらを見ている。
歳が歳だけに、耳が遠くて聞こえなかったのかもしれない。
そう思って、改めて同じことを伝えたのに反応がない。
「やっぱり、だめで」
「——とんでもございませんっ!! まさか、リディア様がそうおっしゃって下さるとは……! 若様もお喜びになると思います!!」
「エッジ、今寝てますけど……」
「エブラーナ城の総力を上げて、リディア様のおもてなしをさせていただきますぞ!!」
「そこまではいいです。あと、一晩エッジの付き添いをさせていただけませんか?」
「リディア様のお気持ちは、大変ありがたいです……! さすがに朝までは承りかねますが、深夜までなら構いませぬぞ」
これで、リディアのエブラーナ城宿泊(4年ぶり2回目)が決まった。
前回はエッジの強引な誘いにリディアが折れた格好だが、今回は逆だ。
鬼の居ぬ間もとい、エッジが寝ている間にお願いしたら、即座に了承してくれた。
§
10分も経たないうちに、若いお城勤がエッジの私室へ大きな建具を運んできた。
「じいやさーん、ここでよろしいでしょうか」
「よいよい。ご苦労だったな」
お城勤の手によって、ベッドのサイドテーブルそばにエッジの上半身を隠すように。
大きな木枠を土台で固定された衝立が置かれた。
(これだけ大きいと、エッジの顔を気にせずに付き添いできる……!)
衝立の高さは、リディアの身長をゆうに超える。
リディアの宿泊が決まってすぐ、じいが衝立をここに置くよう手配してくれたのだ。
「リディア様。帽子をこちらの者に」
「どうしてですか?」
「衝立があれば必要ございませぬ。客間へ届けさせます」
「あっ、そうですね」
リディアは朝からここまで、ずっと麦わら帽子をかぶったまま。
自身の一部になっていて、かぶっていることすら忘れていた。
帽子を渡すと、お城勤が「お預かりいたします」と答えて、私室から出ていった。
「これで、若様のお顔もうっかり見る心配もありませぬぞ」
「わざわざ、ありがとうございます」
「とんでもございませぬ。リディア様の症状はこちらでも承知しておりますので、これぐらいの配慮は当然のことでございます」
じいがそう言うと、くしゃっと顔を歪ませる。
エッジから聞いていた、じいのある癖が始まる予感がした。
「っ、むしろ、昨夏のご訪問と本日の日中、なぜ執務室にこれを置かなかったのか……! 己の気の利かなさが……情けのうて、っ……!」
じいがそう話すと、むせび泣きを始めてしまった。
エッジいわく、じいは泣き虫。何かにつけてすぐ涙を流すという。
「くう、っ……!」
「じいやさん、気にしないでください」
「うう……!」
「じいやさん……」
「……」
「……」
……案の定、泣いてしまったじいを落ち着かせるのに、数分かかった。
§
「それにしても、変わった衝立ですね」
等間隔で組まれた縦横数本の細い桟が、衝立の木枠の中に組まれている。
全面に木枠の上から白い何かがぺったりと張られている。
「やはり、ミストやその周辺には、こういったものはございませぬか」
「全部が木やガラスで出来ている衝立しか見たことないです。この白いの、何なんだろう……」
目の前に立ちはだかる白い壁を、恐る恐る指で触ってみるとざらざらしている。
「こちらは、障子紙と呼ばれております」
「しょうじがみ?」
「その名の通り、紙です」
「……これ、紙なんですか!?」
障子紙は空気や光を通す。そのおかげで互いの姿は見えない。
ようして暗い側から明るい側に向かって、物影や人影が映る程度だという。
「エブラーナ独自の紙である和紙で作られており、破れにくいのです」
「……触らないようにしなきゃ」
「そこまで及び腰にならなくても大丈夫です。よほどのことでは破れやしませぬ」
じいがそう話してくれたが、しょせん紙。木材やガラスに比べたら強度が弱い。
障子紙を見る限り、汚れはおろか破れや穴も一切ない。
(あたしのことだから、うっかり破ったり汚しちゃいそう。やっぱり触らないようにしよう)
そう思いながら、障子紙からそっと手を離した。
——1時間後
夕食を終えて、エッジの私室に戻ってきた。
いよいよこれから付き添いが始まる。
「こちらに鈴と体温計、水をご用意いたしました。あちらに羽織を……」
私室では、リディアの代わりにじいがエッジに付き添っていて、連絡事項を伝えてくれた。
「それでは、何かございましたら鈴を。どうぞ若様をよろしくお願いいたします」
「お疲れさまです。こちらこそよろしくお願いします」
お互いに一礼を済ませると、じいが部屋を後にした。
ベッドのサイドテーブルそばに置かれていた椅子に腰を下ろす。
すると、廊下をばたばた駆け足で走る音が、かすかに耳に届いた。
(じいやさん。浮かれていたように見えたけど、気のせいかな……)
じいだけではない。使用人もみんなどこかそわそわしている。
エッジが高熱を出して倒れたからだろうか?
「勝手に決めちゃって、エッジ怒るかなあ……」
宿泊を歓迎してくれたのは、じいだけではなかった。
使用人が所用でこの部屋に訪れたり、夕食の配膳でおもてなししてくれたり。
廊下ですれ違ったりすると、みんなお礼の言葉を言ってくれた。
今、衝立の向こう側で眠っているエッジが問題だ。
見えない護衛の視線や、エブラーナ城の雰囲気が気にならなくなったこと。
一晩お城に泊まること……エッジは何も知らない。
(もうミスト帰れって言われちゃいそう)
もし目が覚めたら、エッジが何を言ってくるのか予想がついている。
そう思いながら、サイドテーブルに置かれた物品を改めて確認していると。
この数年の間に、エッジの身に降りかかった出来事が脳内を駆け巡った。
—— —— ——
ルビカンテによるエブラーナ城と城下町の襲撃に始まり、両親——前国王夫妻の死。
ご先祖様でもあるエミールとの対峙。
そしてカルミネの一端を知る唯一の存在、白魔道士の女性の死に至るまで。
—— —— ——
女性の記憶をのぞくために、エッジは手間暇を掛けて自身の血も犠牲にした。
おそらく、今こうして高熱で臥せっているのも……。
「どうして……エッジだけ……こんな目に遭わなきゃならないの……?」
雲上の存在である方々に、ほんの少し恨みを込めてぽつりとつぶやいた。
(神さまや初代国王さまはいじわるだよ)
エッジはあの日まで、自由気ままに王子さま暮らしをしていただけではないか。
罰にしては、少しを通り越して重すぎるのではないか?
しかも、エミールやカルミネの清算までさせられる羽目になるとは……。
言い方は悪いが、エッジは初代国王の尻拭いをさせられたようなものだ。
ふとあることを思いつき、立ち上がると衝立に軽く手を添える。
そして、右側からそっとベッドをのぞいてみる。
—— —— ——
あの事件以来、目の痛みや息苦しさがまだ起こるのか。
時折こうしてエッジの目を盗んで、症状を確認している。
残念ながら、改善される気配は一向に見られない。
エッジのことが好きだと自覚しても何も変わらなかった。
—— —— ——
(少しでも痛みが軽くなっていれば……)
そんな期待を込めて、こわごわとエッジの顔へと視線を移す。
右目を中心に、縦に入った傷——顔が視界に入った瞬間。
「……う、っ!」
両目に鋭い痛みが走り、肺の空気を奪われたような息苦しさに襲われる。
視界からエッジの顔が消えれば、症状はすぐに治まる。
後ろを向いて、胸を抑えながらその場にうずくまった。
(好きな人の顔を直視出来ないなんて……!)
目の痛みと息苦しさは、エッジに傷を付けた罰でもあり自責の象徴だ。
どれだけ、自ら潜在意識に自責を深く刻み付けてしまったのだろう。
「わたしのばか……エッジは、今もっと辛いんだから……」
リディアはそうつぶやくと思考を切り替えて、そのままの姿勢で深呼吸を繰り返す。
(落ち込んでる暇なんかないんだから!)
自ら宿泊と付き添いを申し出て、じいからも説明を受けたことだ。
エッジの目が覚めたら、してあげなければならないことがたくさんある。
「大丈夫、大丈夫。なんとかなる」
自分自身に言い聞かせるように、ジャンヌの口癖を口にしながら立ち上がった。
また同じ。いつまで続く? まさか一生治らない……?
『なんとかなる』は、こうして確認を終える度に、そんな不安に襲われる心を救ってくれる。
魔法でもなんでもないが、リディアにとって魔法のような言葉になっていた。
(やっぱり、外はまだ雨が降っているのかな)
リディアはベッドから一番遠い窓へ向かい、カーテンをつまんで持ち上げる。
窓の向こうは一面真っ暗闇だが、弱い雨音が未だに雨が続いていると教えてくれた。
ミストの激しい雨音とは違い、優しい雨音はどこか気分を落ち着かせてくれる。
『……ぅ、っ』
生まれて初めての静かな夜雨に息を吐くと、ベッドの方から声が聞こえてきた。
(目を覚ましたかも!)
リディアはカーテンを閉めて、ベッドのそばに小走りに駆け寄る。
そして、衝立の向こう側にいるエッジに向かって声をかけた。
「エッジ、目が覚めた?」
『リディ……!』
エッジが途中で言葉を切ってしまった。
(セシル……?)
エッジの声が、なぜか初恋の男の声とそっくりだったことに首をかしげる。
高熱のせいで、今は明日——ミストの雨夜だと勘違いしているのだろうか?
「身体どう? 辛くない?」
声の変化よりも、体調が気になって仕方がない。
『……すげえ楽』
「よかった。薬が効いたんだ」
(どこかで聞いたことある声。誰だろう……)
エッジの声が、初恋の人から低く重い声に変わった。
それでも、声の様子からして、今は容態が落ち着いているようで安堵する。
そんなリディアに向かって、エッジがこう言ってきた。
『なんでまだここにいんだよ』
「え、なんでって……」
『遅くなるようなら、ミスト帰れって言っただろ』
突き放すかのような言葉は、エッジの真意ではないとわかっていながらも。
いつもと違う声も余計してか、邪魔だから今すぐ帰れ、ここからすぐ出て行け。
そう言われているように聞こえて、リディアの胸を苦しくさせる。
「あんなエッジ見ちゃったら、あのままほっといて帰れないよ……」
子どものようにすがるエッジを置いて、ミストに帰れない。
そんな思いを込めて、帰らなかった理由を答えたが、エッジは何も答えてくれない。
「風邪で喉やられたんだね。声がいつもと違うよ?」
『……術の代償。そのうち元に戻るだろ』
(ザンゲツさんの言ってたこと、本当かもしれない!)
エッジの答えを聞いて、侍医による診察中の出来事を思い出した。
—— —— ——
侍医がエッジを診察している最中、ザンゲツがこう言い出した。
『この高熱は、夏風邪ではなく、術を使った代償によるものだと思われるのですが……』
ザンゲツは数年前、エッジに記憶透視術の実験台を命じられ、記憶をのぞかれてしまった。
その翌日。エッジは高熱を出してしまい、夏風邪と診断を受けて数日の間寝込んだ。
エッジが体調を崩したのは、本日を除けば人生でそれ1回っきりだけだという。
『若様は病気とは無縁の存在。おかしいと思っていたわい』
『あれはそういうことだったのですなあ……』
ザンゲツの訴えを聞いて、じいや侍医はすんなり納得していた。
—— —— ——
(でも、ザンゲツさん。声についてはさっき何も言ってなかったなあ)
前回の試験の時は、声の変化はすぐに終わってしまったのかもしれない。
だから、ザンゲツはそのことに気付かなかったのだろう。
何にせよ、エッジがこの数年間、ずっと周囲に黙っていたことには変わりはない。
「まさか、高熱が出たのも術の代償なの?」
こうして今、臥せっている原因に前から気付いていたのか、確認してみたところ……。
『よくわかったな』
「わ、わかってたなら、誰かに話しておかなきゃだめじゃない!?」
『忘れてた』
「40度も熱出たんだよ? みんなすごく心配して大騒ぎだったんだから……!」
(じいやさんの言ってた通りだ……!)
それがどうしたと言わんばかりの、エッジからの返事を聞いて呆れてしまう。
—— —— ——
ザンゲツの訴えを聞いてから、じいがこう話していた。
『若様のことよ。どうせ、数年前の発熱も術の代償だと気付いておられただろう。今日まですっかり忘れておられたか、大したことではない、面倒だからとわしらにお話しにならなかったか……』
呆れ顔でそうぼやいたじいに、さすが幼少の頃からエッジを知るだけある。
リディアは、心の中でじいに感服すると共に共感を覚えたものだ。
—— —— ——
『それより……まさか、今日泊まってくとか言わねえよな』
「じいやさんに、もうお願いしたよ」
『何だと?』
「じいやさん、喜んでくれたし、明日はアリサと約束していないから、遊びに行けなくなってもドタキャンにはならないもん……だめだった?」
『……気になんねえのか』
見えない護衛が天井裏から、こちらの様子を窺っている。
エッジは暗にそう教えてくれたが、リディアはもう気にならない。
「……なんか、そういうの。もうどうでもよくなっちゃった」
『嘘付け! あんだけ気にしてた奴が急に変わる訳ねえだろ!』
リディアの言うことを全く信じていないのか。エッジが言葉を吐き捨てた。
—— —— ——
エッジは知っている。
リディアがお城の物々しい空気を苦手にしていたことを。
それゆえにここ数年、このエブラーナ城をも敬遠していたことを。
だからエッジは、こうして罵るようなことを言いながら。
リディアを出来る限りお城にいさせないように、気遣ってくれているのだと思っている。
—— —— ——
(ずっとお城を敬遠していたあたしが悪いんだけど……)
以前なら、そんな気遣いをされたら喜んでいただろう。
けれど、今は違う。エッジに対する思いが変わったせいで寂しくなる。
しっぺ返しを食らうとは、こういうことなのかもしれない。
しかし、本当の理由はエッジに告白するようなものだから話せない。
「気にしてたら、とっくの前にミストに帰ってる。もうここにはいないよ」
エッジへの思いを悟られないように、慎重に言葉を選びながら。
リディアは宿泊を決めた理由を伝えた。
「わたしのことはいいから、エッジは身体を治すことだけ考えてよ」
そう声をかけたが、衝立の向こう側から何の反応も返ってこない。
宿泊を許すか。それとも、ミストに帰らせるか迷っているのだろうか?
沈黙が漂い、静かな雨の音しか聞こえない。
居心地が悪くなり、サイドテーブルに置いてあった水差しを持ってグラスに水を注ぐ。
こぽこぽと立つ音に心地よさを感じながらなみなみにした。
『……しょうがねえなあ』
グラスと水差しをサイドテーブルに置くと、衝立の向こう側から声が聞こえてきた。
『客間は前と一緒だ。ここみてえな見張りはいねえから、夜は安心して眠れるだろ』
「……ありがとう」
『朝になったら、ミスト帰れよ』
「うん、わかってる」
(よかった……!)
なんとかお館様から宿泊許可をいただくことが出来て、ほっと胸をなでおろした。
おそらく明日エッジはミストに来ない。その代わりに、今晩は同じ屋根の下で過ごせる。
「あっ、思い出した」
『なんだ』
「今のエッジの声、聞いたことある。大分前に小説で読んだ……」
(バルトだ!)
あれはちょうど半年前、夜の逢瀬の時だった。
—— —— ——
エッジがいたずら目的で、耳元でいやらしい推理小説の一部分を朗読してくれた。
今の彼の声は、その小説の主人公の身体を強引に手に入れた男性のそれと同じだ。
—— —— ——
術の副作用で以前出した声に変わるなんて、ご都合にも程があると思う。
「すっごく悪い人の声……っ!」
『ばっ、か! 笑うな! 好きで出してる訳じゃねえんだよ!』
夜の関係での話なので、男性の名を伏せた上で、けらけら笑い出す。
それでも、エッジが誰なのか気付いたらしく、苛立たしさを露わにした声を上げた。
続けて、上体を起こしたのか。シーツががさがさ動く音が聞こえてきた。
「起きて大丈夫?」
『ずっと寝っぱなしじゃ、逆に調子狂っちまう』
「それじゃあ……これ。水分摂ってね」
『お、悪りいな』
先ほど水を注いだばかりのグラスを、衝立の左側から差し入れてあげた。
エッジがそれを受け取ってくれたのを確認して、書机に向かう。
その椅子に掛けられている羽織を手にして、また元の場所に戻る。
「これ、じいやさんから。身体冷やさないように肩に掛けてって」
『どうも』
衝立の右側から、羽織をくしゃくしゃのシーツの上に置いてあげた。
『グラス持ってってくれ』
「おかわりは?」
『今はいいや』
羽織と入れ代わりに、エッジから空いたグラスを差し出された。
受け取ったそれをサイドテーブルに置いてから、小さく息をつく。
……気付いてしまった。衝立を介しての物の渡し合いは、どうもやりづらいと。
(こういう時は、帽子の方が便利かも)
朝からずっとかぶっていた帽子は、赤い傘と一緒に客間に置いてあるはず。
顔さえ見ることが出来たら。もしくは、帽子をかぶっていたら。
エッジの肩に直接羽織を掛けてあげることが出来たのに。
(でも、たまにはこんな日もあっていいよね)
衝立を介するやりとりなんて、今日が最初で最後に違いない。
リディアは帽子への未練をあっさり断ち切ると、ふと数ヶ月前の夜を思い出した。
「もしかして、お水よりもあったかい飲み物の方がよかった?」
あの夜、エッジは冷たい水より温かい方が身体に負担がかからないと教えてくれた。
しかも、ミゼルの家に押しかけてまで、風邪に効く温かい飲み物を作ってくれた。
……リディアの苦手なレモンが気にならないぐらい、甘い甘いはちみつ入りの飲み物を。
『夏だし、水でいい』
「そう……食欲は?」
『ねえけど、なんか食わねえと治んねえしな』
「エッジが目を覚ましたらね。お食事作るってじいやさんが言ってたの。病人向きの、え、と……ぞう……なんだっけ……」
『雑炊か?』
「そう、それ! じゃあ、ぞうすい? 届けてもらうように頼むね」
サイドテーブルに置かれた小さな鈴を手に取って、三度続けて鳴らした。
見えない護衛を経由して、いずれ食事がこの部屋に届くはず。
一度は所用、二度はじいの呼び寄せ、そして三度は食事。
あらかじめ、じいと鈴での連絡方法を決めてあったのだ。
「これでよし。あとは待つだけ。ええと、次は……」
『……っ、くくっ……』
水分補給も、肩掛けも、食事の手配も済んだ。
後は何をしてあげなければいけないか、リディアが思案を巡らしていると。
押し殺すような笑い声が、衝立の向こう側から聞こえてきた。
「何がおかしいの?」
『いやなぁ……すっげえ落ち着きねえ看護婦だと思って……!』
「どうしてわかるの?」
『こっちからおまえの影が見えてっから』
「ひどいなあ。これでも一生懸命やってるんだけど」
エッジに笑われてしまい、ぷうと頬を膨らませる。
リディアの影が忙しなく動き、あたふたしているように感じたようだ。
『そんなの十分わかってる。適当にやっときゃいいんだよ』
「だって、国王さまに粗相出来ないし、それに……」
(ただでさえ不器用なのに。これ以上、エッジにがっかりされたくないもん)
リディアが病人の看病をするのは生まれて初めて。
おまけに、記念すべき初看病の相手が好きな人かつ高貴な身分のお方ときた。
これがミストの顔見知りの住民なら、もっとのんびりして……。
『——んなこたどうだっていい』
ばりっ!!
「ふぇっ!?」
派手で荒っぽい音に、思わず驚きの声を上げた。
『体温計置いてあるだろ?』
「あ……」
病人のいる部屋に、全く似つかわしくない音と共に。
衝立の格子のマスから骨ばったエッジの右手が現れた。
『熱測りてえ。くれよ、体温計』
「あ、あるけど、欲しいなら端っこから手を出せばいいじゃない!?」
『んな、めんどくせえこと出来っかよ』
「もう、びりびりじゃない……! 穴も開いてなかったのに……」
(わかっててわざと破っちゃったの!?)
破った張本人とは思えないぐらいには、エッジが他人事のように答えてくれる。
『障子紙、張り替えりゃいいだけ。ガラスよかマシだぞ?』
「……まさか、全部はがしちゃうの?」
『おう。つぎはぎじゃ見栄え悪りぃだろ』
「うそぉ……」
衝立から飛び出した自身の手のひらを上に向けて、こちらにせがむように。
親指以外の四指を、何度も折ったり曲げたりしている。
罪悪感の欠片もなさそうなエッジの様子に、ただ呆然とするしかない。
『気にすんな。おまえが張り替える訳じゃねえんだから』
「それは、そうだけど」
『——おまえに頼んだら時間がかかるし、出来上がりもぐっちゃぐちゃだ』
「っ、ひっど……!」
(……あ、わかった)
図星とはいえ、犯人に言いたい放題言われっぱなし。
思わず大声を上げようとして、リディアはすぐ言葉を切った。
エッジは暗に、『肩肘張らず、普段通りの振る舞いでいい』と言いたいのだ。
……白い壁を越えるどころか、ぶち破ってきたけど。
『なあ、看護婦さんよぉ』
「あっ、はい」
『早く体温計貸してくれよ』
くれくれとばかりに、エッジがくいくい四指を折り曲げている。
おどけながらの物言いでも、今は本来の声とは違う低く重い声。
そのおかげで、まるで追いはぎの脅し文句のように聞こえてしまう。
「……ちょっと待ってね」
リディアは苦笑しながら、サイドテーブルに置かれた木箱からガラスの管を取り出した。
「はい、お待たせ」
『どーも、優秀な看護婦さん』
ようやく、エッジの手のひらの上にお待ちかねの体温計を乗せてあげた。
「わたしにかかったらね。風邪なんかすぐに治っちゃうよ」
『看護婦は病気治せねえぞ』
「もうっ……! 最悪、気休めにはなるでしょ」
いつもと変わらぬ冗談を交じえて、エッジに返事をしてあげた。
(ありがとう、エッジ)
自分たちの物理的距離や身分を阻む、衝立と言う名の白い壁。
エッジは、わざとそれをぶち抜くことで、身分を考えずに済むようにしてくれた。
手だけとはいえ、ほんの少し距離を近付けてくれた。
リディアはそんな気がしてならなかったが、お礼は心の中でつぶやくのみに留めた。
『……ほんとにな……』
「え? なにか言った?」
『いや、なんも』
エッジが何かぶつぶつつぶやいていたような気がしたが、空耳だったようだ。
『時間測っといてくれ』
「わかった」
エッジが体温計を脇に差したようで、体温測定が始まった。
時間は約10分。それまで特にやることもない。
リディアは椅子に腰を掛けて、改めて広い部屋の内装をぐるぐる見回してみる。
エッジの私室に入ったのは、今日が初めてなのだ。
『おい』
「えっ」
『なにきょろきょろしてんだ』
エッジが声をかけてきた。
障子に映ったリディアの影の動きで、部屋を見回していることに気付いたようだ。
「え、わたしの部屋に置いてある家具と、ほとんど一緒のものが置いてあるなあって……」
エッジの私室の家具構成は、リディアの自宅の寝室のそれとほとんど変わらない。
本棚付きの書机と椅子、収納家具に鏡台にベッドと備え付けのサイドテーブル……。
違いは、この部屋にはふたりがけのソファとテーブルが置かれていること。
そして、デザインは全て深茶色の木製で統一されていること。
質素ながらも、品の良さを漂わせているところは、やはり王家だと感服してしまう。
『部屋が地味でがっかりしたか?』
「ううん、ちっとも」
『へえ……なんでか理由言ってみろよ』
「エッジは絵画や彫刻に興味ないから」
天蓋付きのベッドや金銀散りばめた調度品や美術品。
何本もろうそくを立てられる、きらきらのシャンデリア……。
バロン城などで見かける豪勢なものは、エブラーナ城もだが、この部屋にも存在しない。
リディアが常々持っていた、高貴な方々の部屋のイメージとかけ離れている。
きらびやかさを強調しないエッジらしいと思うし、むしろ親しみが湧く。
『大当たりだ。オレのことよくわかってんじゃねえか……』
「それにね、絵や銅像を眺めてるエッジを想像したら……」
エッジという男は、芸術……特に視覚的に美を追及し、表現した美術とは縁がない。
美的感覚がない訳ではなく、芸術に力を注いでまで美を追及しようとしないだけ。
しかも、自身の容姿に相当な自信を持っていて、己の美的要素は容姿だけで十分。
そう思っている節も時折感じられる。
—— —— ——
エッジが名画や彫刻が集まる美術館に足を運び、作品を舐めるように鑑賞する。
そして、美しさにほうと息をついている。
—— —— ——
ふとそんな光景が、脳裏に浮かんできた。
「っ……あははっ!」
想像の中でのエッジの姿があまりにも面白くて、リディアはあどけなく笑った。
「ぜーんぜん、エッジには似合わ」
ばりっ!!
「ふぁっ!?」
またもや派手な音を立てて、エッジが障子を突き破ってきた。
ただし今度は、椅子に座るリディアの顔とほぼ同じ高さのマスから。
『笑いすぎ』
(まさかデコピン!?)
エッジがぼそりとつぶやきながら、中指と親指で輪を作った。
それを見て、彼が今から何をするか、予感めいたものを感じた瞬間。
ぱちんっ
「——いたっ!」
予感は的中。エッジに額を指で弾かれてしまい、咄嗟に被害箇所を両手で押さえて叫んだ。
もちろん、いつものように痛みはなく、つい条件反射で叫んだだけである。
「もう……だめじゃない! また障子破って!」
『看護婦さんも、人のこと言えんのかよ』
「えっ」
『笑ってねえで、しっかり仕事してくれよ』
「まっ、まだ3分しか時間経ってないもん!」
目が覚めるまでの弱々しさは見る影もない。
いつもと同じように、エッジにおちょくられてしまったのであった。
§
デコピンから数分後、エッジが体温測定を終えた。
『……37.6度だな』
「そんなに下がったの!?」
『見てみろよ』
(夕方は40度あったのに……!)
障子の穴経由で、エッジから体温計を受け取った。
「……でも、解熱剤って完全に熱を下げる訳じゃないんだね」
目盛りを読むと、エッジが口にしたのと同数値を指している。
嘘はついてないと安心し、リディアは体温計を再び箱に納めた。
『いや、十分効いてる。2度も下がりゃ平熱みてえなもん』
「そんなものなの?」
『そんなもんだぞ? おまえは熱出しても元気だから、ぴんと来ねえだけ』
「……すぐ効き目が現れるなんて、すごい」
『うちの医療部の最新作なんだよ』
エッジに投与された解熱剤は、昨年エブラーナの医療部が開発したばかり。
即効性に優れており、投与後すぐに体温を下げて6時間ほど効果が持続するという。
「いいお薬作ってもらえてよかったね」
『薬、何時に打ってたか覚えてるか』
「……6時ぐらいかな?」
『ってことは、日付が変わったらすぐ薬切れ……そっからまた……』
障子の向こうで、エッジがぶつぶつ独り言をこぼしている。
—— —— ——
解熱剤は副作用云々の関係で、約1日間隔を空けないと投与出来ない。
しょせん解熱剤は対処療法に過ぎず、風邪そのものは治せない。
常時平熱に戻っても当面の間は休養を取り、水分補給を怠らないように。
—— —— ——
エッジの診察が終わった後、侍医がじいたちにそう話していた。
「どうしたの?」
『いや、女のこと……今のうちに話しといた方がいいと思ってな』
「え、これからすぐ?」
『うなされてる間に、忘れちまうといけねえしさ。それに……おまえも聞きてえだろ?」
「……うん」
リディアも女性の記憶のことが気になっていたため、素直に返事をした。
既に女性の記憶を通して、エッジはエミールの真意をつかんでいるかもしれない。
大好きなひと——エッジが治める国の歴史の一コマに立ち会えるのだ。
これから始まるであろう報告をもって、カルミネの事件の幕が降ろされるはず。
§
体温測定から30分後。
エッジは遅めで軽い食事を済ませてから、じいとザンゲツを私室へ呼び寄せた。
カルミネは長年に渡り、この国の懸念事項でもあった存在。
リディアひとりにだけ話を聞かせる訳にもいかないからだ。
じいとザンゲツがこの部屋を訪れるやいなや、エッジは自身のそばにじいを呼んだ。
『……』
「……」
衝立の向こう側で、エッジとじいが会話している。
耳打ちをしているようで、リディアには内容は一切聞こえなかった。
程なくして、エッジとの密談を終えて、じいが衝立の向こう側から現れた。
「あの、じいやさん……」
ソファへと向かおうとするじいを、リディアは呼び止めた。
「どうされましたかな?」
「わたしより、じいやさんがこちらにいた方がいいと思います」
(じいやさんを差し置いて、エッジのそばで聞けないよ……)
じいはこのお城の中で、エッジに次いで地位の高い方である。
自分が話を聞くなら、ザンゲツの隣でいいと思ったのだ。
彼は記録役を兼ねているようで、既に筆と巻物を机の上に置いてソファに座っている。
『おまえはここに座ってろ』
「え……?」
「若様のおっしゃる通りです。お二方の対談方式で進めた方がよいと思われます」
「でも、それじゃ」
「——リディア様、よろしいのです。拙者もですが、じい様はカルミネのことを間接的にしか知りませぬから」
「どうぞ、お館様に容赦なく質問してあげて下され」
三者からそう口々に言われてしまったらどうしようもない。
多数決で負けたリディアは、おどおどしながら椅子に腰を掛ける。
すると、障子の影で動きを把握したのか、エッジが口を開いた。
『——あの女は、エミールのひ孫の恋人だったんだよ』
—— —— ——
女性は10年前、修練を積んでいたミシディアを離れて修行の旅に出た。
その途中でエブラーナに上陸、北部にあるカルミネの施設付近をさまよっていたところ。
たまたま施設の屋外へ出てきていた男性——エミールのひ孫と出会い、恋に落ちた。
エブラーナはカルミネのもの、自分がエミール亡き後のカルミネのトップになる。
将来、現国王を追放して自分がエブラーナの国王となる。
ひ孫はそう信じて止まず、常日頃女性にそう話していたという。
—— —— ——
「……ひ孫さん、エミールに思いっきり騙されてるじゃない」
『王族には術が使えねえ。ちっせえ頃から、エミールがこつこつ言い聞かせてたんだろ』
「それもどうなんだろうね……」
—— —— ——
当時のエブラーナは、世界から未開の大陸と言う認識を持たれていた。
大陸の外から流れてきた者が、エブラーナやカルミネの事情など知る訳もない。
結局、女性は、愛する人——ひ孫の影響でカルミネの思想に染まってしまった。
その後、ひ孫がエミールから許しをもらえたことで。
女性もカルミネで生活するようになり、夜な夜なひ孫と夢を語る日々が続いたという。
—— —— ——
「夢ってなぁに?」
『国王を早く追放して、ふたりで一緒にエブラーナを治めようってさ』
「エッジを追い出すの?」
『身内同士で権力争いってのは、どこにでもある話だぞ』
「女の人、すぐ術はかけられなかったんだね」
『洗脳されたら、恋人でも何でもなくなっちまう。ひ孫がエミールに、恋人に術かけないでくれって、何度も頭下げてんのは見たな』
「……その人のご両親、いなかったの?」
『最初っから終わりまで、王族らしき奴は、ひ孫とエミールしか出てきてねえ』
「もう亡くなっていたのかな……」
『ひ孫は、自分の親はカルミネから逃げたって女に話してたが、オレはそうじゃねえと思ってる』
仮に、ひ孫の両親が無事に逃げおおせることが出来たなら。
カルミネの現状を、エブラーナないしは他国に訴えて、何かしら騒ぎになっていたはず。
しかしカルミネは、1年前まで表向き何の動きも見せていなかった。
それが、ひ孫がエミールに騙されていた何よりの証拠だという。
リディアは真剣に、エッジの話に耳を傾けているうちに。
知らぬ間に、座る席が云々といった最初に感じた遠慮や戸惑いはなくなっていた。
「ひ孫さんのご両親、どうなったんだろう……」
『母親は洗脳されてからカルミネから追放されたんじゃね』
「お父さんは?」
『人体実験に使われたかもしんねえな』
「ええ……!?」
『王族の血ぃ引いてたら洗脳出来ねえ。口封じするなら、それぐらいしか考えられねえんだよ』
(本当に手段を選ばない人だったんだ)
エミールはもともと殺生を好まず、自身の手を血に染めない。
そんな彼が邪魔者を封じるなら、術を使った洗脳か人体実験のどちらかだろう。
エッジがそう話してから、なおも話を続ける。
—— —— ——
9年前のある日。
老齢のエミールは、かねてから健康面で不安を抱えていたが、ついに寝たきりになった。
数日後、エミールは両目を包帯で覆われた状態で寝かされていた。
ひ孫の片目も、茶色からエミールと同じ碧に変わっていた。
女性がその理由を、ひ孫にたずねると。
エミールから「碧い目を遺してくれ」と頼まれて、片眼だけを移植したと答えた。
それからエミールは、衰弱していくばかり。
更に病床でうわ言のように、『私はエミールではない』と繰り返すようになった。
とうとう耄碌したか。
ひ孫と女性は、そう思ってろくに取り合わないまま、彼の死を看取ったという。
—— —— ——
「ここで気付いていたら……」
『そんときゃ、エミールだけしか『深海の碧』の詳細を知らねえから無理だな』
「ああ……」
—— —— ——
ようやく、これでひ孫とふたりでカルミネで暮らせる。
女性は大喜びしたが、幸せは長くは続かなかった。
口うるさい身内も消えて、若い体も手に入れた。
何事もなければ、今後数十年間は生き続けられる。
おまけに『深海の碧』も片方残っていて、引き続き術を使い放題。
……ひ孫のふりをしていたエミールが、次第に本性を現し始めたから。
—— —— ——
『最初エミールは、うまくごまかしてたみてえだが、女はすぐに怪しんだ』
「どうして、ばれちゃったの?」
『エミールはすぐ他人を洗脳する。それが、ひ孫唯一の不満だった』
「強引なやり方が嫌いだったんだね」
『自分が言い聞かせられて育ってきたから余計かね。自分に出来て、なんで他の奴らにそれが出来ねえのかって女によく愚痴ってたんだよ』
—— —— ——
そして8年前。
ルビカンテがエブラーナ城を襲撃する、1年前のある日。
女性は、人が変わってしまった恋人に失望してカルミネから逃げようとした。
あえなく失敗に終わり、ひ孫の姿をしたエミールによって。
リディアと同じ術をかけられてしまったという。
—— —— ——
エミールが、リディアや女性にかけた術の解除法はふたつ。
エミールが術をかける際に、特定の条件を設ける。
そして、術をかけられた者が条件を達成したら、自動的に解除される。
もしくは、エミール自ら解術する。このどちらかしかない。
『最初の命令が、「エブラーナが私のものになるまで、私の言うことをなんでも聞け」だったからな』
「そんなの、死ぬまで操られたままじゃない……!?」
『エミールは自分の護衛も兼ねて、女をそばに置いておきたかったんだよ』
例え杖でも、女性は戦闘能力が高く、白魔法も大抵のものなら使えた。
一方で、ひ孫は王族の血を引いていたが、ひよわだったという。
「修行してなかったの? だめじゃない」
『エミールがあえて修行させなかったんだよ』
「どうして?」
『エミールは、そこそこ強かったし忍術使えたからな』
「……そういえば、国王の座を争ってたね」
『反抗されても相手がひよわな奴なら、年寄りでも対抗出来るだろ?』
しょせんエミールにとってのひ孫は、自身が延命するための器にしか過ぎなかった。
エッジがそんな憶測を語った。
「カルミネにいた人たちと同じ術かけちゃえばいいのに。どうして、わたしと同じものを……」
『女への罰だろ』
「逃げた罰として、自分たちがやることを黙って見てろってこと?」
『黙って見てろって、エミールに言われてたぞ』
(わたしはたった数時間だったけど、その人はそれからずっと……)
リディアや女性にかけられた術は、身体の自由が全く利かないだけ。
操られていても、意識や五感をはじめとした感覚は残ったまま。
目にしたもの、耳にしたものは全て記憶に残る。
—— —— ——
女性はその後、達成不可能な命令を土台にさまざまな仕事を命令される。
気が付けば、エミールの秘書的役割の立場になっていた。
それから程なくして、突然カルミネにゴルベーザ四天王のルビカンテが現れた。
一体どこでカルミネの噂を聞いたのか。
ルビカンテは、エミールにこんな誘いを持ちかけてきた。
『条件を呑めば、お望み通りエブラーナ城を襲い、国王を殺してやろう。あとは好きにするがよい』
条件は、有能な研究員をルビカンテに差し出すことだった。
もちろん、エミールはそれを即座に受け入れたという。
—— —— ——
「それがルゲイエ……!」
『あいつも、他の奴らと同じ術をかけられてたみてえでな。出てく前にエミールに術を解かれてた』
「記憶があってもなくても、ずっとエブラーナに仇なすことばっかり……!」
『奴は常軌を逸した科学者だ。カルミネにいてもいなくても、遅かれ早かれ問題を起こしてただろうな』
—— —— ——
その後、ルビカンテのおかげでエブラーナは壊滅寸前に陥った。
前国王夫妻は、ルゲイエの手によって人外——モンスターに変えられてしまった。
エミールは喜び勇んで、エブラーナの覇権を握ろうとしたが……。
—— —— ——
『まさか、オレが国を立て直すなんて思ってなかったみてえでさ。情報を得る度にすげえぶち切れてた』
「何それ。失礼なひと」
『実際オレが次の国王で大丈夫なのかって前評判があったからな。それを聞きつけたんだろ』
(そんなことない!!)
エッジの話に出てきたエミールにかちんときて、リディアはきつい口調でこう訴えた。
「前評判って、ただの冗談でしょ!? エミールがそれを真に受けて、ひとりで勝手に喜んでただけだよっ!」
『おい……』
「エブラーナの人は、みんなね。エッジはいい国王さまになるって信じていたはずだよ」
エッジと出会う直前に、リディアはしかと見て聞いている。
命からがら被災から逃れて、エブラーナの洞窟でこの国の最後の希望とばかりに。
若様を慕う言葉を口にする、じいをはじめとした生き残りの民を。
若様は、この国や民のことを愛してくれている。
エブラーナの民は、そう思っていたに違いない。
例え当時のエッジが、どれだけ自由奔放だったとしても、だ。
「エッジがみんなのことを大好きなように、みんなもエッジのことが大好きなの。エッジが国王さまに即位したら、なんとか助けてあげなきゃって思ってたはずだよ。今のエブラーナが何よりの証拠じゃない」
『……』
「リ、リディア様ぁ、っ……!」
リディアの背後から、じいのすすり泣く声が聞こえてきた。
民を引き連れて、洞窟に避難していた当時を思い出したからだろうか?
—— —— ——
エッジとエブラーナの民の結束力は、まるで相思相愛のようだ。
エッジは、民の協力のおかげでエブラーナを復興出来た。
だからこれからも、民に支えてもらいながら、もっといい国にすることが出来る。
—— —— ——
エブラーナの洞窟を訪れた直後から現在に至るまで、リディアはそう信じている。
エッジという男のイメージが乱高下しようが、これだけは一貫して変わらない。
おそらく、この先もずっと。
『……おまえの言う通りだな。復興出来たのは、みんながオレを助けてくれたからだ』
「うん」
—— —— ——
エブラーナが復興されていくにつれて、エッジの評判は上がっていく。
一方でエミールは、嫉妬を通り越してエッジを憎悪するようになっていく。
それが殺意に変わるまでに大して時間はかからなかった。
4年前、エミールは傭兵業に見切りをつけ、新たな資金稼ぎのために、ある研究を始めた。
それが状態異常を防ぐリボンの薬品版だった。
同時にエミールは女性を従えて、別の研究を研究員たちに指示していたという。
—— —— ——
「それが、エッジが絶対に死んじゃう毒……」
『そうだ。出来るだけオレに似た身体を持つ死刑囚をよそから集めて、人体実験を繰り返してた」
「……なんか変だね」
『なにが』
「人を殺せる毒や薬っていっぱいあるのに、わざわざ実験してまで作る必要、あったのかな?」
実力者のエッジに、この世で太刀打ち出来る者はセシルやカインぐらいしかいない。
それ以外の者が、いきなりエッジを襲って暗殺するなど不可能に近い。
だから、毒を使おうとして暗殺しようと考えたのかもしれないけれど。
エッジとっておきとも呼べる毒を作ってまで、手間暇かけすぎではないか?
『……』
「……エッジ?」
リディアの素朴な疑問に、エッジは珍しく黙りっきりだ。
余計なことを聞いてしまったかもしれないと思って、不安気な声で名を呼んだ。
『そこまではわかんねえな。エミールの野郎が、指示出したとこしか、オレは見てねえから』
「ごめん、変なこと言っ……わっ!?」
2番目に破られた障子の穴から、突然手が飛び出してきて思わず声を上げた。
すぐさま、ぐしゃぐしゃっと髪をかき混ぜるように頭を撫でられる。
『いちいち謝んなよ。おまえ質問しただけだろ』
「うん……」
『女の記憶だけじゃ、奴の本音や真意は完全にわかんねえ。あん時、奴の死体持ち帰ってりゃ全部はっきりしてたんだがな』
「しょうがないよ。エッジもわたしもみんな、それどころじゃなかったから……」
—— —— ——
それから、3年後……ちょうど1年前だ。
ついにエミール念願の毒が完成し、事件が発生。
エッジに『深海の碧』を潰されても、エミールの女性への命令は有効だった。
カルミネの証拠隠滅を終えたら逃亡するように。
女性はエミールから最後にそう命じられて、あらかじめ各所に準備していた爆弾をセット。
爆音と共に、テレポでカルミネから脱出した。
その後、エブラーナに捕まらぬように各地を転々とさまよい続ける。
そして、事件から1年近くが経った一昨日。
ファブールの城下町で、エブラーナの追っ手に見つかった。
逃亡の末に辿り着いたのは、断崖絶壁の崖の上——目の前には海しかない。
ゲッコウをはじめとした追っ手に迫られて、女性は崖の上から飛び降りた。
—— —— ——
崖下の岩が眼前に迫った瞬間で、女性の記憶は終わった。
エッジがそう話した。
「……かわいそう」
『操られてた間も全部見聞きしてただろうしな。挙げ句の果てに自殺じゃ、無念でたまんねえだろ』
「それだけじゃないよ。好きな人と引き離されちゃって……」
『女は、カルミネに流れ着いた時点で、既に詰んでたのかもしれねえな』
「うん……」
『やな話、聞かせて悪かったな』
「そんなことない。カルミネのこと、これで終わったんだよね?」
『済んだこと、うだうだ言っててもしゃあねえ。後は日にち薬だな』
リディアに残る自責の症状が寛解すれば、カルミネの清算が全て済んだことになる。
エッジはそう言いたいのだろう。
—— —— ——
女性の遺体は、明日エブラーナで火葬されることになった。
10数年前だが、女性はミシディアで白魔法の修練を積んでいる。
記憶をのぞいたことで、女性の姓名もはっきりした。
親族を探して見つけ次第、連絡をとって遺骨を届けてあげるように。
—— —— ——
エッジからそんな指示を申し渡されると、じいとザンゲツが部屋を後にした。
「……お疲れ様、エッジ」
『おう』
リディアは労いの言葉をかけたっきり、何も話さなかった。
話し疲れているだろうし、エッジを休ませてあげたかったのだ。
静寂さが漂う室内に、静かな雨降りの音だけが流れる。
壁に掛けられた時計を見やると、時刻は9時半を過ぎたばかり。
あと2時間ぐらい、エッジの付き添いが出来そうだ。
リディアがそう胸をなでおろしていると。
『そういやさ』
「え?」
『今日、おやつ何食った』
沈黙を嫌ったのか、エッジから話を切り出された。
「抹茶あずきかき氷だよ」
『……こんな天気に、そんなもん食わされたのか』
—— —— ——
ザンゲツとエブラーナの歴史談義を終えてから、少し遅めのおやつの時間が訪れた。
遺体がある部屋ではさすがにまずいだろう。
そんな理由から、イザヨイに連れられて別室に案内された。
そこでリディアを待っていたおやつは……。
エブラーナ定番の氷菓子『抹茶あずきかき氷』(4年ぶり2回目)だった。
濃緑の小さな氷山の頂上には、なんと特別に抹茶のアイスがちょこんと乗せられていた。
あずきの控えめな甘さ、抹茶の渋い甘さを堪能しながら、もちろん完食した。
—— —— ——
「今は夏だから別にいいじゃない。今日たまたま雨だっただけだもん」
『他には何やってたんだ。時間つぶしも大概辛かったろ』
「全然? お借りした本を読んで待ってたから」
『へえ……ここの奴らは気ィ利くなあ』
「それとね。イザヨイさんともお話出来たから楽しかったよ」
(ザンゲツさん、ごめんなさい)
リディアはここではあえて、ザンゲツの名は出さなかった。
忍術書を拝見したのを含めて、歴史談義のお時間は内緒だ。
『あいつと話したのか?』
「アスラさまにひどいこと言ってしまったって、ずっと気にしてたんだって」
『……なるほどな』
—— —— ——
おやつの時間の話し相手は、イザヨイがつとめてくれた。
エッジしか見えていなさそうな彼女と、果たして会話が成立するのかちょっぴり不安だった。
それでもそれなりに会話が弾んだのは。
リディアの人格すら変えてしまう甘味——かき氷のおかげである。
『イザヨイさんもよかったらこれ食べてください!』
ふと思いついて、銀のさじですくった抹茶色の氷を差し出してから。
『はい、あーんして?』
そう声をかけたところ、イザヨイがぷっと吹き出し笑いを見せてくれた。
—— —— ——
『それ笑われてんだよ』
「笑ったことには、変わりないでしょ?」
『っていうか……あいつ、他の女と……』
エッジのつぶやきをとんとん扉を叩く音が遮った。
エッジが『そこで待っててくれ』と大きめの声で返事する。
すると、女性の声……おそらく女中から了承の返事が届いた。
「どうしたの?」
『付き添いは終わりだ』
「え?」
『風呂入って、もう休め』
(だから、最初にじいやさんを呼んで密談してたんだ……)
エッジは既にその時から、女性の記憶の話が終わり次第。
リディアを客室に返す気でいたようだ。
「夜中まで……付き添い出来るよ?」
『上に護衛がいるんだ。ここの奴らに任せときゃいい。おまえが時間惜しんでまでやる必要ねえ』
「そう……」
いくらじいがいいと言ってくれたとしても、エッジがだめと言えばだめになる。
それはわかっているが、もう少しだけここにいたかった。
(これじゃ、本末転倒だよ)
エッジの身を案じると共に、少しでも元気になれたら。
そう思って、ここに泊まると決めたはずなのに。
結局、自分が病人に甘やかされているではないか……。
「わっ」
うつむいていたリディアの眼前に突然、男性の手。
最初に破った障子の穴から、エッジが右手を出してきたのだ。
『ほら、右手出せ』
言われるがままエッジの手のひらの上に、右手をちょこんと乗せる。
すると、エッジが自身の五指をもって、右手をやさしく包み込んでくれた。
白い壁に阻まれて顔は見えない。術の代償で声も別人。
それなのに、右手への接触は夜の睦事の時と同じで、不健全さの欠片も感じられない。
それが、壁の向こう側にいるのは、正真正銘本物のエッジだとリディアに教えてくれた。
『……帰れとか、きついこと言って悪かったな』
「ううん。気にしてないよ」
『今日は、おまえがいてくれて、すげえ心強かった。——ありがとな』
「エッジ……」
発熱のせいで、少し火照ったエッジの右手の熱が。
さりげないお礼の言葉が。
エッジに何もしてあげられなかった自身の無力さを溶かしてくれるような気がした。
『帰る前に、いいもん持たせてやっからな』
ぎゅうとリディアの右手を強く一握りしてから。
エッジの指が、つぼみが綻ぶかのようにゆっくりと開いていく。
そのままリディアの右手からも離れて、障子の向こう側へ引っ込んでしまった。
「……早く風邪治してね。おやすみ、エッジ」
『おう、いい夢みろよ』
リディアは椅子から立ち上がって、ひとり扉に向かう。
諦めたとはいっても、夜中もそばにいてあげたい気持ちは変わらない。
途中、何度も振り返ってベッドの方をちらちら見てしまうが、距離は知れている。
すぐに扉の前に辿り着いてしまい、ドアノブに手を掛けて扉を開けようとした、その時。
『——花火、楽しみにしとけよ』
それが、エッジがエブラーナ城でリディアにかけてくれた最後の言葉となった。
§
翌朝私室を訪れると、解熱剤を投与する時間と合わなかった。
そのせいで、エッジは熱にうなされベッドで臥せていたため、言葉を交わせなかった。
それでも、リディアはおおむね満足しながら、エブラーナの国有艇にてミストに帰った。
右手には、赤い傘。
そして左手で、見送りの際にじいから手渡された大きな紙袋を抱えながら。
(あのままミストに帰らなくてよかった!)
エッジの両親の墓参を通して、親のありがたみやエッジの新たな一面を知ることが出来た。
しかも、初代国王がエッジと村雨を月で引き合わせてくれたように。
秘伝忍術書との出会いで、エブラーナの歴史をまたひとつ知ることが出来た。
もっとエッジのことを、エブラーナのことを知ってあげてください。
サンゲツから、そう導かれたような感覚まで覚えるぐらいには、充実した一昼夜だった。
§
ミストの自宅へ戻ってから、リディアは真っ先に紙袋の中身を確かめてみた。
紙袋の中には三段の重箱と、『かりんとう』と書かれた大きめの紙袋。
重箱の中には、エブラーナの多種多様なおかずが詰められている。
(こんなに大量にいただいても、ひとりで食べきれないよ……!)
一瞬焦ったが、紙袋の底をのぞくと小さなメモを見つけた。
『ブリザドで冷やしときゃ、2日は余裕で保つぞ』
……エッジだと思われる筆跡のそれ。
帰省期間のために、月末恒例の料理教室も休みだと知っていたのか。
料理の手間を省いてくれたエッジに、感謝したのは言うまでもない。
もうひとつの『かりんとう』は、袋の説明書きにエブラーナの揚げ菓子だと書いてある。
紙袋を開けてみると、チョコ味やはちみつ味……。計5種類の小袋が入っていた。
午後からリディアはそれを抱えて、アリサの自宅へ突撃お宅訪問。
アリサは、友人の訪問と異国の見慣れぬお菓子に大喜び。
夕方までふたりでかりんとう争奪戦を繰り広げながら、休日の話で大盛り上がりだった。
——午後10時すぎ
今年の夏休暇がもうすぐ終わりを迎えようとしている。
なんと、三日間通して一度もヒマと口にしなかった。
(すぐ眠れると思ったのに……)
シーツと一緒に壁側にずるずる身を寄せて、リディアは大きく息をつく。
なぜ眠れないのか……そんなことわかっている。
いつもなら、ここでリディアとヤッているはずの男が、今夜はいない。
そのせいで、いやらしい欲が湧いてきて身体の奥がうずいてたまらないから。
無理にでも欲を解消しない限り寝付けないのは、既に何度も経験している。
周囲に家は一軒もなく、隔離されたようなこの家には、リディアひとりだけ。
(誰にも聞かれないから、いいか……)
ベッドの上で一旦座ってから、上体を突っ伏すと肩までシーツをかぶった。
白い布の中で少し足を広げて、自らの秘所に自身の右手を這わせる。
(あたしの耳元で言葉をささやいてくる。あたしの首元に甘い吐息を吹きかけてくる)
「……っ」
過去の行いと今後の希望をごたまぜにした、いやらしい妄想を頭に思い浮かべながら。
たどたどしく右の指を動かして、秘所をいじり始めた。
緩急付けてなぞっていると、秘所からぴちゃりと小さな水音が立ち始める。
(手が……口や舌があたしの身体を自由に這う。指で恥ずかしいところをいじられたり、つままれたり、つつかれたり……舐められたり……)
「……はぁ、っ………っ」
都合のいい妄想を脳内で繰り広げている最中、指が敏感なポイントに触れたらしい。
思わずもらした声は、甲高くいやらしくて、やっぱり恥ずかしい。
それでも、指の動きは止まるどころか、激しくなっていくばかりだ。
(そしてあたしは——)
「っ……、ぁあああっ!」
脳内から妄想がすっと消えると同時に、体内で燻っていた熱も引いてしまった。
ベッドの上でリディアはおもむろに上体を起こすと。
大きなため息をつきながら、両膝を曲げて顔を膝にくっ付けた。
「もうやだあ……」
確かに気持ちいいが、心はむなしさしか残らない。
それがわかっていながら、なぜついついやってしまうのだろう?
妄想の声は過去に好きだった初恋の人、セシルのもの。
手付きや指使いも、セシルならこう触ってくるだろうと思わせてくれたが。
ご本人から、一度もいやらしく触れられたことも、熱っぽくささやかれたこともない。
そう。おかずにしているのは、セシルではなく——セシルの仮面をかぶったエッジだ。
「寝よ寝よっ、おやすみなさい!」
もう欲は発散したことだ。
これで眠れるはずと思いながら、リディアは横たわりシーツをかぶった。
(ずっと今の関係が続けばいいのに……!!)
何年経っても、都合のいい願望を持ち続けている自分に呆れる。
この先、エッジとどうしたいかまでは考えていない。
だから、エッジには気持ちを伝える気はさらさらない。
エッジと結ばれると言うことは、王族の仲間入り。
いわゆる、『普通』とは違う人生の始まりでもある。
リディアにはそれを捨てる勇気がないし、ミストでやらなければならないこともある。
どうしても、エッジとの関係や未来については優先度が低くなってしまう。
シーツをぎゅうとつかみ目を閉じると、ざあざあ強い雨音が嫌でも耳に入ってくる。
昨日、エブラーナで聞いた雨音を懐かしく思う。
あの優しい雨音は、ここでは決して耳にすることが出来ない。
あと数時間経てば、ミストのお天気は晴れ模様に戻る。
2週間ほど経てば、花火大会もある。
エッジは、別れ際の言葉通り、その日3発分の火薬玉を抱えてミストにきてくれるだろう。
「……エッジが、早く治りますように……」
もし願いが叶ったら、その日までに一度はミストに顔を出してくれるかもしれない。
そんな思いも込めて、好きな人の快癒祈願を口にした途端。
するすると夢の世界へと落ちていった。
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