フェイクラバーズ 作:かえで
エブラーナ城の地下には、たくさんの部屋がある。
倉庫、武器庫、衣裳庫、牢屋……。
そして数年前、新たに設けられたこの書庫もそのひとつ。
ここはお館様が見つけるまで、開かずの間——隠し部屋だった場所でもある。
§
エブラーナのお城勤、ザンゲツは歴史がとても大好きである。
(ああ、誰かと歴史を語らいたい! 誰か、拙者の話に付き合ってくれえええ!)
ザンゲツは常日頃から、心の中でそう叫んでいた。
なぜなら、彼の周囲には歴史に興味ある者が少ない……いや、誰もいないからである。
最愛の妻ですら、『過去よりも、未来を見ましょうよ』と呆れるぐらいだ。
そんなザンゲツの前に、なんと救世主——ミストの召喚士、リディア様が現れた。
7の月の終わりに、逃亡を続けていたエミールの元助手で白魔道士の女性が死亡。
翌日、その遺体がエブラーナ城に運ばれてきた。
その日、お館様は朝から脱走していたが、知らせを聞いたからだろう。
お昼すぎになってから、数年ぶりにリディア様を伴って城に戻ってきた。
聞けば、お館様が使う記憶透視術の立会い並びに付き添い役に。
リディア様自ら名乗りを上げたというではないか。
エブラーナ国内では、お館様とリディア様との恋愛成就を望む民が非常に多い。
もちろん、ザンゲツもそのひとり。
彼はエブラーナ城内において、『リディア様をぜひ王妃に派』の筆頭格であった。
ぜひこの機会に我が国の歴史を通して、お館様への興味理解を深めていただきたい。
そんな思いから、ザンゲツは鬼の……いや、お館様のいぬ間を狙って。
リディア様に、エブラーナ秘伝忍術書を見せてあげた。
国王しか閲覧不可とされていた書に、彼女は興味深く目を通していた。
かねてから、お館様からいろいろ話を聞いていたのだろう。
リディア様は異国の方とは思えぬほど、この国の成り立ちに詳しかった。
彼女が妖刀伝説の名を口にした時の、ザンゲツの感動はとても表現出来るものではない。
その後もリディア様とは、村雨の経緯をはじめに様々な歴史談義を交わした。
なぜこの国の歴史に興味を持ったのか、きっかけをたずねてみた。
すると、リディア様は、どこか懐かしそうな表情でこう話した。
『前に隠し部屋の片付けのお手伝いをしていたら、エッジの教育係をされていた方の日記を見つけたんです』
……お館様(当時若様)への愚痴満載の日記を読まれていたとは!
恥ずかしさのあまり、『拙者があの日記を書きました』と告白する勇気もないまま。
談義を打ち切って、逃げるように部屋を後にした。
——8の月中旬
この日も、ザンゲツは書庫の一番奥のすみっこで古い書に目を通していた。
(趣味と実益を兼ねた仕事ほど、素晴らしいものはないなぁ……!)
任務の空き時間に、この書庫に集められた歴史書を読みながら。
エブラーナの新歴史書編纂の構成を考えるのも、(一応)彼の仕事であった。
ただし、新歴史書の編纂は、お館様からの命により、定年退職後でないと始められない。
定年退職まで、あと十数年もある。
遠い未来にしか取り掛かれない書の構成を、今から頭の中で考えていたところ……。
「あと20分でお仕事かぁ。5時まで長いわね」
「今日のまかない、とっても美味しかったです」
「そりゃー、お館様がずっといるからね」
「豪勢なお食事出さないといけないから、美味しくもなるわよぉ」
扉が開く音の後に、聞き慣れた甲高い声と複数の騒がしい気配が書庫の中に入ってきた。
—— —— ——
地下室には、構造上の都合で見えない護衛が配置できない。
そのせいか、地下にあるこの書庫は女中の休憩おしゃべり場所になっている。
—— —— ——
(今日は4人か……)
息を潜めて気配を消すと、運よくザンゲツがいる対角側の部屋の隅に気配が集まった。
これだけは言っておこう。
ザンゲツが今からやることは、職場実態調査であって決して盗み聞きではない。
「けどさぁ、今日もお逃げになる様子がないわね」
「いくら風邪で寝込まれてたにしても、2週間以上も一度もお城から出ないなんて変よ……」
「あの、すみません」
「なあに?」
「お館様が、お城にいちゃだめなんですか?」
「あぁ、新人さんは知らないよね。お館様が大人しくお城にいたのって、即位してから1、2年の間だけなのよぉ」
「ええ? 落ち着きのない方ですね……」
「週に1回は、ミストに逃げなきゃ気が済まないの」
「あっ、ミストって、あのリディア様がお住まいの村ですよね」
「そうよ? あんな遠いところに会いに行ってるみたいなのよ」
女中たちも、お館様のことを相当気に掛けているようだ。
彼女たちに悟られるぐらい、お館様のわかりやすい行動原理にザンゲツは苦笑する。
—— —— ——
7の月の終わりに、お館様は高熱を出して3日ほど寝込んでいた。
すっかり元気になったというのに。
今日の今日まで、お館様は一度も脱走せず、お城にこもりっきり。
—— —— ——
5日から1週間の間に一度の割合で、城を抜け出す。
脱走といえばミスト。ミストといえば脱走。
使用人は普段からみんな、そう暗に揶揄しているので、心配になっている。
「もしかしたらさ。とうとうフラレたんじゃないの?」
「ああ、あり得るわね」
「7年越しでそのオチはないわー。お館様、立ち直れないんじゃない?」
「今は様子は変わらないけど、ザンゲツさん以外にも八つ当たりし始めたらビンゴね!」
お館様、どうか早くミストに脱走してください。
ここ数日の間、じいやザンゲツをはじめに、今この部屋で話している女性たち……。
この城で働く者たちほぼ全員が、そう願って止まない日々を過ごしていた。
「……ってことはぁ、リディア様がダメならぁ」
「お妃候補に、あの子が上がるってことじゃない」
「えー、ちょっと待ってよー!?」
女中たちの驚きと不満の声が入り乱れる。
あの子とは、お城勤唯一のくノ一であるイザヨイのことである。
(イザヨイは、昨日から明後日まで西の軍事施設だったな……)
話の流れからして、ここから女性特有の嫉妬羨望にまみれた会話が始まると思われる。
「あの子とお館様のお世継ぎなら、相当な能力をお持ちでしょうね。さぞやお美しい方だろうし、十分ありえるわね」
「く、くやしいぃ……! なんでイザヨイばっかり……!」
「あのお」
「何よっ」
「あの人、そんなに悪い人には見えませんよ? なぜ、みなさんそこまで怒るんですか?」
「それはね……あの子にとって、あたしたちは人以下なのぉ!」
「ばかね。あたしたちじゃなくて、お館様じいやさんお城勤以外でしょ?」
「違うわよ。あの子はお館様しか見てないじゃない」
「仕方がないわ。お城勤は忍者のエリートですもの」
「でも、わたしたちがいなけりゃ、ここのお仕事、滞るわよ? ばかにしないで欲しいわ……」
「なるほど、そういうことですかぁ」
イザヨイが尊敬する者は、お館様ただひとりである。
ザンゲツを含めたお城勤の同僚と、じいだけは(一応)対等に見ているらしい。
しかし、それ以外の者には目もくれず、愛想がよくない。
そんな態度でも、仕事でミスをしたことがほとんどない。
隙がないため、女中をはじめ女性使用人からやっかまれている。
「話したことないですけど、こないだ挨拶してくれましたよ? それじゃだめですか?」
「挨拶出来るようになったの、最近なのよ……」
「それまでは無視、空気。虫以下の扱いだったんだから」
「ええ……?」
「ザンゲツさんも大変よね。お城勤は人格含めて採用されるのが前提なのに。まさか、人間教育させられるとは思ってなかったんじゃない?」
「あの子は、じいやさんのスカウトだもん。超特例扱いだから人間教育込みになっても仕方がないわ」
(この女中は、よく見ているなあ。拙者が給与査定係なら時給を上げてやるのに……!)
ただ任務をこなせばいいというものではない。
女中をはじめに、お城の者たちとの円滑な人間関係を築くのも重要……。
女中のひとりが話したように、ザンゲツが粘り強く説教した効果があったのか。
イザヨイはここ1年ほどの間で、最低限の挨拶『だけ』は出来るようになった。
「その調子じゃ、イザヨイさんとの雑談はもっと先になりそうですね」
「ないない。挨拶もいやいややってるに決まってるんだからぁ」
「そうですかね……?」
「そんな日がくる前に、ザンゲツさんが過労死しちゃうわ」
「ねえ。来年をめどに女性陣みんなでストライキ起こしちゃおうか?」
自分の心配をしてくれるとは、とてもありがたい。
そう思っていたら、ある女中の提案にザンゲツはぎょっとした。
(待て待て待て! ストライキは駄目だ、絶対に!)
女性使用人がストライキで不在になったら。
お城勤、いやザンゲツにしわ寄せがやってくるのが目に見える。
「それ、いいわねー。声かけておきましょうよー」
「30人は確実に集まるわね」
女中たちのノリのいい会話を聞きながら。
ザンゲツが冷や汗たらたら流していると、別の気配が書庫内に入ってきた。
「そなたたち」
「ひっ!!」
「おしゃべりの声がちと大きすぎるぞ」
「じ、じいやさん……!」
「今は誰もいないが、ここは静かに本をたしなむ場所。もう少し声を抑えるか、場所を選ぶようにせねばなるまいよ」
「も、申し訳ありませんっ!」
(あまりにもうるさかったからか。それとも、まさか……)
じいにたしなめられて、女中たちがきゃああと悲鳴のような声を上げた。
それから、4人分の気配が一斉に書庫からぐんぐん離れていった。
「困ったものよのう……」
取り残されたじいが、そうつぶやいてから大きなため息をついた。
それから、じいの気配がこちらの方に近付いてくる。
ザンゲツは、至福のひと時の終わり——任務か雑用の時間がやってきたと悟った。
「やはり、ここにいたか」
「じい様……」
「女の嫉妬は恐ろしいのう。そう思わぬか」
「イザヨイにも非はございます。女中たちが不満を持つ気持ちもわからないでもありませぬ」
「お互い様か」
「さようです」
「……それより、若様がそなたをお呼びだ」
「またろくでもない用事ですかぁ!?」
「にやついておられたので、十中八九そうだろうよ」
(昼休憩の真っ只中に、呼ばないでいただきたい……)
あごの白ひげを撫でながら笑うじいに、ザンゲツはがっくり肩を落とした。
—— —— ——
エブラーナ城のお城勤は、一兵として国の軍事力を支えている。
その傍らで、忠誠を誓ったお館様の下で、日々あらゆる任務や雑務をこなしている。
お館様は、お城勤の中で最年長であるザンゲツに、高い信頼を寄せてくれているらしい。
長きに渡って主君に仕えてきた身としては、非常に光栄であり、嬉しいことである。
しかし、その一方で術のテストと称して実験台に使うわ。
別にザンゲツでなくてもいいのではと思われる雑用まで押し付けてくるわ。
何か一言物申そうものなら、すぐ殺気や手を出してくるわ……。
—— —— ——
使用人には、『お館様は、ザンゲツさんをストレスのはけ口にしている』とすっかり知られている。
「拙者も、もう若くありません。いい加減、無茶振りは辛う」
「——贅沢なことを言うでない!」
「っ!?」
「そなたはこうして書をたしなんだり、任務で城を離れることもあるではないか! 都合が悪くなると警備と偽り、凧に乗って空を……ずるいにも程があるぞ!?」
「凧は、最近乗っておりませぬよ」
「それがなくても、わしはそなたに比べて四六時中……し、城の中に幽閉……ううっ……」
じいが泣き出してしまったのは、ザンゲツと境遇が近いからである。
—— —— ——
じいは、お館様が絶対やらなければならない仕事以外のことをほぼ丸投げされている。
ほぼ毎日、事務処理と各部署や国外の事務折衝役に追われて。
ザンゲツのように、空き時間や息抜きの時間はほとんどない。
自宅に帰れない日もざらにある。
今こうしている時間が息抜きのようなものだ。
—— —— ——
お館様から雑な扱いをされるお城勤——現場担当の者がザンゲツなら。
事務担当——城内業務でその立場に当たるのが、使用人最年長のじいであった。
(ここは、なぜ年寄りにこうも厳しいのか……)
歳を取れば、若い者から大事にされる、
世間一般的にはそんな風潮が強いのに、エブラーナ城内はなぜか逆である。
「ここ数年で、目がしょぼくれてなぁ、そろそろ腰も……」
「じい様。会合まであと3日です。もうしばらくの我慢ですぞ」
「わ、わかっておる……」
あと数年で、じいも70歳。寄る年波には逆らえない。
鬼並みのペースでさばいていた書類も、近年効率が悪くなっていると聞いている。
とは言っても、文官5人分に相当する働きが4.5人分に減ったぐらいの微差であるが。
「しかしながら、お互い老体に鞭打たれる日々……なんとかならないものですかな」
「仕方がないのう。若様はああ見えて、我々ぐらいしか真に気を許せる使用人がおらぬからな」
「会員も増えそうにありませぬし……」
「我々が隠居するか、この世を去らない限り、もう無理だろう」
—— —— ——
お館様が即位してから半年後。
じいとザンゲツは、『お館様被害者の会』を設立した。
この会では会員の精神安定を日々保つため、定期的に会合を開いている。
そこで、誰か様への不満や厳しい職場環境について酒を呑みながら語り合う。
会と銘打っているが、設立時から現在に至るまで、会員はザンゲツとじいのふたりだけ。
なぜなら、ふたり以外の使用人は、みなお館様より年齢が若いから。
お館様は格好をつけたいのか、彼らに一切無茶振りせず、理想の上司を演じる。
誰ひとり文句を言う者が現れないため、会員が増えない。
—— —— ——
『お館様被害者の会』の会員がひとり増える前に、女性使用人のストライキが起こるだろう。
「しまった……! 早く執務室へ行って差し上げろ。また余計に無茶振りさせられてしまうぞ」
「ええ、じい様もご無理なさらず」
「3日後まで倒れぬようにな……。『例の件』も、その時に」
「はい」
じいがザンゲツの肩を軽く叩くと、腰を押さえながら書庫から去っていった。
これからまた事務作業に戻ると思われる。
「それまでに、お館様には脱走を企てていただきたいものよ……」
独り言をつぶやきながら、手にしていた古書を目の前にただずむ書架の一番上に戻した。
—— —— ——
エブラーナ王族の系譜を辿れば、過去に大陸南東部を治めていたジェラルダイン家につながる。
代々その家の血を引く者は、特定の人物や事物に強い思い入れ——愛念を持つことが多い。
初代国王は、エブラーナやエブラーナに住まう民が愛念対象であったと知られている。
しかし、初代以降の国王については、明確な記録や口伝はなく不明のままだった。
それに首を突っ込んだのが、若き日のザンゲツである。
ザンゲツは当時文官として働いていたが、暇を持て余していた。
なぜなら、同僚かつ先輩であるじいが、鬼レベルで事務処理してくれるから。
時間があれば書庫に入り浸り、今や灰と化した多くの歴史書を読み漁った。
その結果、大半の王族や歴代の国王の愛念対象を推測することが出来た。
もちろん、当代の国王——お館様の愛念対象にも見当がついている。
……『 』だと思われる。
この特徴は、ジェラルダイン家の血を引く者に多く見られる。
いい方向に向かえば、愛念。
悪い方向に向かえば、病的な固執や執着、妄執と化してしまう。
金への異常な執着、自己保身……。
過去にも不幸な一生を送った王族の者や歴代の国王が、数人いた。
お館様も、『 』次第では、エミールのように道を外すかもしれない……。
ザンゲツは、そんな仮説を立てている。
じいも3日後の会合で、『例の件』として仮説を話題に取り上げるつもりでいるようだ。
—— —— ——
(もし、その時が訪れたら拙者は身を挺してでも、お館様を止めなければなるまい……)
そんな未来は、来ないで欲しい。
ザンゲツは大きなため息をついて、ようやっと書庫を後にした。
「……なら……が幸せになれるのに……いやいや、いかんいかんっ」
ふっと思い浮かんだ願望を振り切るかのように、ザンゲツは首を横に強く振った。
エブラーナにとって、都合のいいことばかり考えて……なんと身勝手な。
§
「……遅っせえな」
5分後、ザンゲツが執務室を訪れると、お館様が頬杖をつきながら不満をこぼした。
女中のおしゃべりの通り、お館様の振る舞いは以前と変わらない。
ザンゲツへの暴君さながらの対応も、だ。
「申し訳ございません。それで、どういった用件で……」
ザンゲツがたずねると、お館様は引き出しから青いお札を取り出した。
そして、数枚ぽいっと宙に投げた。
秘伝忍術書の結界術を使うぐらいだから、何やら秘密案件だと思われる。
「おまえ、『変化の術』得意だろ」
「はあ……」
「オレと似たような背格好の若い野郎に変化しろ」
「今ここでですか?」
「当たり前だろ」
ザンゲツは命に従って、姿を変えた。
「いかがでしょう」
「うん、まあまあだな。——こいつ着てみろ」
「!?」
どこからともなく、お館様が出して広げたものにザンゲツは目を疑った。
それは黒い長袖のロングコート。
こんな暑い季節にそれを着ろという。命令に従ったけれど。
『あの』
「——フードもきちんと……あ、先にこいつかぶってからな」
『……御意』
次に手渡されたのは、白い狐のお面だった。
理由を聞いても答えてくれなさそうな気配が、ぷんぷん漂っている。
とりあえず命に従ったが、無茶振りはまだ終わらない。
「よし、見た目はいい感じだな」
『あの、それで』
『——今オレがしゃべってる声を真似てみろ』
『はいぃ!?』
お館様の話し声が、突然男性にしてはやや高めな穏やかなものに変わった。
自ら見本を聞かせてくれたようだが、ザンゲツは腑に落ちない。
「ほら、早くしゃべれよ」
『……あー』
「そうじゃねえ! もっと柔らけえ声だ!」
『あー』
「だから、違うつってるだろ!!」
『……』
「……!!」
まさか、声まで指定されるとは思わなかった。
『変化の術』を使って既に本来の声とは違うのに、それではだめなのだろうか?
そう思いながら、約5分間に渡る試行錯誤の末……。
『……ああー』
「おお、それだそれ! もうちょいなんかしゃべってみろ!」
『……これで満足されましたかな』
「上等上等。じじくせえ言葉遣いは使うなよ」
ザンゲツは、白狐のお面の下で大きなため息をついた。
(拙者を暑さ地獄に追い込んで、殺そうとしているのか?)
不満たらたらの表情を相手から覆い隠してくれるのは、お面の数少ない長所だ。
しかし視野が通常より狭くなるし、邪魔で重い。特に今の時期は蒸れて暑苦しい。
その上、季節外れの衣装はぎらぎらした太陽の光を吸収しやすい黒一色ときた。
『それで、拙者は今から何をすればよろしいのでしょうか』
「オレの護衛」
『……脱走されるのに、わざわざ護衛を付けるのですか?』
「へえ、脱走ってよくわかったな」
こんな時間からお城を出るなんて、もはや脱走以外の何者でもない。
(リディア様にフラれた訳ではなさそうだな)
それでも行き先が例の村だと見当がつき、ほっと胸をなでおろした。
ようやく若様が脱走された。
この後、無人の執務室を目の当たりにして、じいや使用人がそう大喜びするだろう。
『それぐらい予想はつきます。しかしながら、なにゆえ護衛など?』
お館様が誰かに護衛をやってくれと頼んだのは、生まれて初めてだと思う。
—— —— ——
お館様は単独行動を非常に好み、『自分の身ぐらい自分で守れる』が持論である。
『護衛なんかつけたら、オレが護衛を護衛しなきゃならねえ。んな面倒なことやってられっか』
要人との会談や集まる機会が巡ってきても、お館様は相手のところへ赴く。
それも、たったひとりで。
—— —— ——
「オレももう歳だ。誰かにやられちまうかもしんねえしな」
『よく言えたものですなあ』
「……あぁ?」
『この国で自分にかなう者は、誰もいないと常々豪語されているではありませぬか。つい昨日も聞いたばかりですぞ?』
(よくもまあ、白々しい嘘を……)
ザンゲツはそう呆れながら、上司に反論した。
理由や目的のない行動など、この世には存在しない。
ミストに行くためにわざわざ護衛をつけるなんて、何か意図があるからに違いない。
ところが、期待していた返事ではなかったからだろう。
上機嫌そうに見えたお館様の表情が一気に険しくなり、こちらをぎろりとにらんできた。
「やる気なさそうな顔しやがって……! そんなに護衛すんの嫌なのか!?」
『いえ、そういうわけでは……』
「おまえのこと信用して報酬先払いしてやったのに、オレの顔潰す気か!!」
『!?』
報酬という言葉を耳にして、ザンゲツは1週間前の出来事を思い出した。
—— —— ——
あの日は、確か給料日だった。
『嘘ぉ!! 今月は、2枚もお札が多いわ!』
定時で帰宅したザンゲツは、給与袋を妻に渡した。
その直後、予想外の臨時収入に妻は歓声を上げて大喜び。
その夜は夫婦で濃密な(以下略)
—— —— ——
(賞与月でもないのにおかしいと思っていたが、そういうことだったのか!)
あの2枚のギル札は、お館様の個人的な護衛任務の前報酬だった。
返金したくても返金出来ない。なぜなら妻が給料日の翌日、貯蓄に回してしまったから。
『くっ……さすが、お館様。卑怯な手を……!』
「あんまりうっせえと歴史書の編纂、別の奴に変えるぞ」
『!?』
お館様がにやにやしながら、脅迫ぎりぎり一歩手前の圧力を掛けてくる。
歴史書の編纂——それはザンゲツの人生最終目標でもあり、終の任務とも言える。
せっかくいただいた任務を、やすやすと手放す訳にはいかない。
ばん!
ザンゲツは抗議と拒否の意思をもって、両手で思い切り机を叩いた。
『何をとち狂ったことを!? それだけは他の者に譲る訳にはゆきませぬ!』
「じゃあ、依頼主の言うこと黙って聞いとけ」
『……御意』
「一言でも文句言いやがったら」
『——そんなこといたしませぬ!!』
目の前にいるお館様が、もう悪人にしか見えない。
ザンゲツは、お面の下でぎりりと歯ぎしりする。
(果たして、護衛など必要あるのだろうか??)
仮にいつもの村に向かうとなれば。あの方のご自宅でお過ごしになられるはず。
護衛など要らぬであろう。
どうしても必要というなら、隠密術を使わせてくれたらよいではないか。
身を覆い隠す衣装に、お面で顔まで隠したら。『変化の術』を使った意味がまるでない。
その上、美声を出せと指示を出してくる。
はじめてのお館様の護衛任務は謎だらけ。質問したいことが山ほどある。
しかし将来——歴史書の編纂——のために、黙って任務をこなすしかない。
「じゃあ、そろそろ行くとすっか」
『お館様』
「なんだ、まだ文句あんのか?」
『違います。本日はどちらへ向かわれるのかと思いましてな?』
(これぐらいの質問なら許されるだろう)
お館様の脱走先など、この城どころかこの国で知らないものなどいない。
知らないふりをしながら、嫌味たっぷり込めて行き先をたずねてみた。
「——花火鑑賞だ」
お館様がそう答えてくれたが、質問とズレている。
しかも、いたずらを企む子ども……まるで幼少の頃を彷彿とさせる笑顔を見せながら。
『ははっ……それはそれは、また楽しそうですなあ……』
これは間違いなく、ろくでもないことに付き合わされる。
ザンゲツは、乾いた笑い声を上げるしかなかった。
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