※この作品はR-18です。

フェイクラバーズ   作:かえで

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遠い国のどこかで……

 

 

——12の月 クリスマス当日

 

 

 時が経つのは早いもので、今年もあと1週間ほどで終わってしまう。

 

 —— —— ——

 あと数日経てば、夏季よりも長い帰省期間が始まる。

 移民は各々の生まれ故郷で新年を迎えるため、帰郷してしまう。

 ライザはもちろん、アリサもさすがに冬はダムシアンへ帰ってしまう。

 もうすぐ人口ががたんと減って、新年とは思えないさびしいミストがやってくる。

 

 そういった事情から、年末最後のひと騒ぎとばかりに。

 12の月24日のクリスマスの夜は、どこの家庭も大騒ぎである。

 準備に追われるせいか、その日が近づくにつれて移民を中心に、みんなどこか忙しない。

 —— —— ——

 

 黒魔法講座は、年末年始が休みの代わりにクリスマスは授業が行われる。

 本日の授業が終わり、公民館からの帰り道。

 リディアは肩を落としてとろとろ歩いていた。

 

「はあ……」

 

 リディアには、クリスマスの夜を過ごす相手——家族や恋人はいない。

 毎年いいなあとうらやみながら、いつもと変わらぬ夜を過ごしていた。

 そして、今年も……。

 

「……おい」

 

 背後で何か声が聞こえたが、どうせいたずらした子どもを親がたしなめているのだろう。

 そう思って無視した。

 

「はぁ……」

「……ディア。——こら! リディアっ!」

「うわぁ!!」

 

 背後からの怒声に、我に返って大声を上げた。

 後ろを振り返ると、ジャンヌが鬼のような形相でこちらをにらんでいる。

 

「ぼさっと歩いてんじゃないよ」

「なんだ、おばちゃんかあ。びっくりしちゃったじゃない……」

「全く。この時期は、元気がなくなっちまってわかりやすい奴だね」

「今日だけだよ。ちょっとくたびれたの」

「嘘つくんじゃない。王様が全然来ないから、ダメージ食らってんじゃないのか?」

「……」

 

 ジャンヌに図星を突かれてしまい、口を尖らせる。

 

 —— —— ——

 12の月に入ってから、3週間以上が経過した。

 やはり、エッジは事前予告通り、一度もミストに現れない。

 年が明けたらまた来てくれる。

 それをわかっていても、ひとりで毎日晩ごはんを食べる生活はやはり寂しい。

 

 いつまでもエッジがここにやってくる訳がない。

 これはエッジがいない生活に備えた予行演習だ。

 耐えろ、慣れろ、わたし!

 必死に自分自身にそう言い聞かせながら、踏ん張っていた。

 —— —— ——

 

「……そんなことないもん」

 

 リディアはぷいっとジャンヌにそっぽを向きながら否定した。

 

(……嘘ばっかり)

 実は他の住民からも頻繁にジャンヌと同じことを聞かれる。

 けれど、その度に同じ答え——そんなことない——を返していた。

 ジャンヌには、すぐ見抜かれてしまうのはわかっている。

 それでも、自ら『そうなの』『寂しいよ』なんて言えない。

 

「どうだか。王様に手紙送ればいいのに、書きもしないじゃないか」

「っ、別に書くことないもん……」

 

 エッジのいない日常は平和だが、どこか色が足りない。

 淡々とした日常を手紙にしたためるのもどうかと、一度も送ったこともない。

 エブラーナへ行こうと考えたこともあったが、行事が増えて忙しいと聞いている。

 邪魔をしてはいけないと、すぐに諦めた。

 

「そんなもん、元気ですかわたしも元気ですだけでいい。中身よりも贈る気持ちが大事なんだよ」

「……大ざっぱすぎない?」

「伝書鳩だと長い文は書けない。それぐらいがちょうどいい」

 

 月のはじめならまだしも、もうすぐ12の月が終わる。

 今更、手紙がどうのこうの言っても仕方がない。

 リディアはそう思って、話題を切り替えることにした。

 

「……それより、今日は珍しくお買い物に行ってきたんだね」

「ああ。バロンでちょいと奮発してきてね」

 

 よく見ると、ジャンヌは両手にそれぞれふたつずつ、大きな紙袋をぶら提げている。

 ウィンドウショッピングに徹する彼女にしては珍しい。

 

「何、買ったの? 見ーせーてー」

「だーめだ」

 

 リディアは首を長く伸ばして、袋の中身をのぞこうとした。

 しかし、ジャンヌにひょいと避けられてしまった。

 

「けち。見せてくれたっていいじゃない」

「そんなに見たいのなら見せてやるよ」

「ほんと?」

「代わりに今から、おまえん家の台所貸してくれ」

「……いいけど、わたしのおうちで何するの?」

「飯作るんだよ」

「えっ」

「暗くなったらミゼルも合流する。出来上がったら、あたしたちと一緒に食べるのさ」

「ええっ!?」

「今日の晩飯はな、豪勢な上にデザートとおまけ付きだぞー?」

 

 ジャンヌがしたり顔で、左手に下げていた紙袋から何かを見せてきた。

 よく見れば、濃緑色のガラスのびん。

 ……おまけの正体がワインだとわかり、リディアは目を丸くしたのであった。

 

§

 

「ごちそうさまでした……!」

 

 そして数時間後。

 ジャンヌの言葉通り。ミゼルもリディアの自宅にやってきた。

 そしてリディアとジャンヌが作ったちょっと手の込んだ料理を、3人で平らげた。

 

「美味かったな」

「久しぶりにごちそう食べたよ」

「誰かに作ってもらえたら言うことなしだけどね」

「それは言えてるっ!」

「さて、デザート食うぞー!」

「うんっ!」

 

 デザートは、白いいちごのショートケーキ。

 さすがに作るのが面倒なので、ジャンヌがバロンで買ってきたものである。

 

「どうして、わたしと一緒に晩ごはん食べようと思ったの?」

 

 ケーキをつまみながら、ジャンヌがここに来てから思っていた疑問をぶつけた。

 

「おまえはこっちに帰ってきてから、あたしん家にしばらく泊まってたろ」

「……うん、懐かしいね」

 

 リディアは帰郷後1週間ほど、ジャンヌの家に身を寄せていた。

 当時は家事も料理もろくに出来なかったので、最低限のそれらを伝授してもらったのだ。

 

「あたしたちと飯食ってたら、エスタのこと思い出した。だから、ひとり晩飯はじめたんじゃないかってね」

 

 なぜひとり晩飯をずっと続けていたのか。ジャンヌにずばり指摘された。

 

 —— —— ——

 朝や昼はやることや予定があるから、誰とでもお食事出来るけれど。

 バロン城に遊びにいっても、晩餐の前に帰宅を心がけるぐらいには。

 リディアはよそのお宅で晩ごはんをいただくのが苦手で、誘われても断ってばかりいた。

 —— —— ——

 

 誰かのお宅にお邪魔して、家族の団欒を眺めながら晩ごはんを食べると。

 亡き母エスタのことを思い出してしまう。

 懐かしいけど寂しくなる過去をひとりで振り返りながら、眠りにつくのが嫌だったのだ。

 

「当たってるけど、おばちゃんたちは何も悪くないよ……」

「もういいよ。こうやってまた一緒に飯食ってるじゃないか」

「うん……」

「どうせ食わず嫌いかもしれないが、無理強いするのもどうかと思って、しばらく様子見ようってこいつと決めたんだよ」

「おじちゃんも?」

 

 リディアはちらりと、こいつ——ミゼルを見る。

 

「はぁ……ワイン飲みながら、ポテトチップス……絶妙なバランスぅ……!」

 

 ミゼルが顔を真っ赤にした状態で、ワインが入ったグラスにちびちび口をつけながら。

 ジャンヌがバロンで買ってきた、じゃがいもの揚げ菓子をつまんでいる。

 

「今日は会話にならないぞ」

「うん、また今度聞いてみる」

 

 ミゼルは下戸と呼ばれる体質で、お酒はからっきし。そのくせ飲みたがり。

 今夜は年に一度の酒解禁日とあって、ワインをに大量(本人比)に飲んでいる。

 そのせいで普段以上に有頂天で会話が成立せず、ほぼ放置状態であった。

 

「まあ、おまえのひとり晩飯を気にしてたのって、あたしたちだけじゃなかったからね」

「え、そうなの……?」

「ここの奴らも、王様もだ」

「エッジも……?」

「ああ。そうこうしてたら、あの人がひょいっとハードル超えちまったじゃないか」

 

 —— —— ——

 リディアは夕方になると境界線を張るかのように、自宅から出ずに過ごしていた。

 そんなある日。たまたま自宅に遊びにきていたエッジがこう言った。

 

『今日は、オレの分もメシ作ってくれよ』

『ええ!? どうして……?』

『国王になってから、毎食ひとりメシでさ。たまにゃ誰かと一緒に晩メシ食ってみてえんだ』

 

 エッジが一線を飛び越えてきてから、淡々としていた日常に色がついた。

 それまで適当に済ませていたか。食べなかった夕食も、日々の習慣になった。

 —— —— ——

 

 それから今日まで、リディアの自宅で一緒に夕食をとるのはエッジだけだった。

 

「王様で慣れたなら、あたしたちももういいかと思ってな。クリスマスはちょうどいい口実になるし、『引いてだめなら押してみろ』をやってみた」

「ふふっ、おばちゃんの作戦勝ちだったね」

 

(ありがとう……)

 ジャンヌはリディアの家に食材や酒を持ち込み、お代はただと言いながら。

 有無を言わせぬようごちそうを一緒に作り、こうして晩餐にこぎつけたのだ。

 

「一度経験してしまえば、どうってことないだろ」

「うん。食わず嫌いって的を得てるかも」

「これからアリサたちとも晩飯が食べられるね」

「ふたりとも家族多いから、まだ無理だよ……」

「今はな。言ってるうちに子どもの手が離れる。嫌でも時間が出来るさ」

「そうだね」

 

(そういえば、ライザも来年の夏は……)

 アリサやライザの自宅に押し掛ける勇気はまだない。

 ただ、ライザもアリサを見習って、夏はミストでひとりお留守番を画策している。

 来夏の帰省期間は、彼女たちと夜を過ごせるかもしれない。

 

§

 

 ひとり晩飯卒業問題に一段落がつき、ジャンヌと別の話題で盛り上がっていた時だった。

 

「——うーん、渋みが少なくてぇ、すっきりとした味わい、っ……!」

 

(普段は有能な村長さんなのに、今夜はまるでだめな人……)

 突如ミゼルがワインの感想を大声で口にして、リディアは眉を寄せる。

 普段とのギャップが大きいのもあるが、何が気になったかと言えば……。

 

「『渋みが少ない』、『すっきり』……ありきたりな感想だね」

「どうせラベルの売り文句、こっそり読んでたんだろ」

 

 本当にラベルにそう書いてあるのだろうか?

 気になって、居間机に置かれているワインボトルを手に取ってみたら、やけに軽い。

 

「ちょっと!? もうほとんど残ってないっ!」

 

 ワインボトルは、ほとんど空っぽの状態。

 リディアとジャンヌが会話に夢中になっていた間に。

 ミゼルがひとりで勝手におかわりし続けていたと思われる。

 

「こいつ、いつのまに……!」

「わたしたちの分、なくなっちゃったぁ……」

 

 油断も隙もあったものではない。

 困惑した表情で、ジャンヌと顔を見合わせたのであった。

 

 

——午後8時すぎ

 

 

「じゃーあ、ぼくたちはぁ帰りまぁーす」

 

 ミゼルが舌っ足らずでそう言いながら、玄関の扉を開けた。

 その向こう側で、ちらちらと氷の粒が舞い降りている。

 ミストの冬はかなり冷え込むが、滅多に雪が降ることはない。

 

「待って。傘持ってきてないでしょ」

「いらない、いらない」

 

 赤い傘をミゼルに手渡そうとしたら、ジャンヌにやんわりと止められた。

 

「いいの?」

「雪に降られりゃ、少しは酔いが覚めるだろ」

「あははっ、それは言えてるね」

 

 リディアは笑いながら、傘を元の場所に置き戻す。

 

 ミゼルがワインをほぼ独占してしまったせいで。

 リディアとジャンヌは、食前酒としてワインをたしなんだだけだった。

 ミゼルと違い、ふたりともお酒に強いので酔いはもう覚めている。

 

「今度はうちで夕食だねぇ。楽しみだなぁー」

「年末年始、お手伝いがてらおじゃまするね」

「毎日でもいいぞ。こいつと喧嘩しなくて済むし」

「……とか、なんとか言っちゃって、今から帰ったらふたりでいちゃいちゃするんじゃないの?」

「ばっか、おまえ……! 何言い出すんだ!」

 

 どうやら図星だったらしく、ジャンヌがかあっと顔を赤くして後ろを向いてしまった。

 

「いやぁー!」

「わっ」

「空気読める子に成長して、お兄さんうれしぃー!」

「やだ! ちょっと痛いって! おじちゃん酔いすぎ!」

 

 よくぞ言ってくれたとばかりに。

 ミゼルがけらけら笑いながら、リディアの肩をばしばし叩いてくる。

 酔っているからか、力加減なしですごく痛い。

 

「そんなことないなーい。ジャンヌさん、早く帰りましょー」

「おじちゃんと一緒に楽しいクリスマス過ごしてね」

「う、うるさいっ! 酔っ払いの相手をひとりでする身になってみろ!」

「酔っ払いでも、大好きなおじちゃんだから大丈夫だよ。がんばって」

「リディアさんもこう言ってくれてるし。早くいちゃいちゃしようねぇー。じゃ、おじゃましましたぁー」

「気を付けてね。おやすみなさい」

 

ばたん

 

 ジャンヌを引きずりながら、こちらに手を振るミゼルを見送ってから。

 ゆっくりと扉を閉めた。

 

 扉の向こう側から、ばか、あっち行け、酔っ払い、などと女性の叫び声が聞こえる。

 おまけに、死ねという不穏な言葉まで……。

 

(おばちゃん、照れてるんだ)

 口は悪いのは、相手が夫だからだろう。

 リディアはそう思ってくすりと笑みをこぼした。

 

 ジャンヌは、所作や言動が押せ押せだが、実は貞操観念が強い。

 温和でいい人に見えるミゼルが、夜の営みでは押せ押せ。

 ……ふたりとも、おとなのソレに関しては、見た目と中身があべこべ。

 それは、リディアがミストに帰郷してしばらくしてから知ったことだ。

 

「ありがとう……」

 

(おばちゃん、おじちゃん)

 ふたりの気遣いが嬉しくてたまらず、小さな声でお礼を口にした。

 目がじんわり熱くなってきて、涙が出てきそうになる。

 リディアは両手の甲でごしごし目元をこすった。

 

(おばちゃんたちに遠慮することなかったんだ……)

 自分が望んでいなかったから諦めただけで。

 ふたりは、リディアと家族になりたがっていたぐらいなのだから。

 

 やっぱり、ミスト……この世界に帰ってきてよかった。

 エッジ以外との他人との晩餐。クリスマスの過ごし方。

 今日は苦手としていたものを、一気にふたつもクリア出来た。

 

§

 

 ようやく、ぐずぐずが落ち着いたところで台所へ向かった。

 調理台の上には、いくつかのお皿とお菓子の箱や袋が置いてある。

 お菓子は全て、ジャンヌがバロンで買ってきてくれたもの。

 お皿に乗せられているのは、本日の夕食の余りもの。

 こちらはジャンヌたちと分けっこしたので、明日の朝食の分しか残っていない。

 

こんこん

 

(お弁当、何にしようかな……)

 明日も黒魔法講座がある。

 朝早くから、お弁当の準備をしなければならない。

 何を作ろうか考えていると、扉を2回軽く叩く音が聞こえてきた。

 

 この家を訪れる者は、エッジを除いてみんなこの叩き方だ。

 誰がやってきたのか、この音だけでは判別がつかない。

 ジャンヌが忘れ物でも取りに戻ってきたのだろうか?

 

「……はい」

 

 恐る恐る扉を開けると、黒一色のロングコートを着込んだ男性が立っていた。

 

 —— —— ——

 その男性は、エッジ並みに背が高く、白を基調としたお面をかぶっていた。

 フードを頭にかぶっているが、寸法が大きすぎて額や目元が隠れている。

 そのせいで、一体何のお面をかぶっているのかわからない。

 

 黒い布で包まれた荷物を片手に持って、顔と両手以外は周辺と同じ暗闇色。

 まるで占いのカードに描かれた、怖くて不気味な死神を彷彿とさせる。

 —— —— ——

 

『こんばんは、リディアさま』

「わっ!」

 

(やっぱり、セシルと声がそっくり!)

 男性が頭を深々と下げながら挨拶してくれたが、驚きの声を上げてしまった。

 なぜなら、男性にしては少し高めの穏やかなその声が、初恋の人と同じだったから。

 

『お、お待ちください……僕は怪しい者ではございません……』

 

 男性がひどくうろたえている。

 自身が不審者に見えたから、リディアが驚いた。

 そう思ったのかもしれないが、違う、そうではないのだ。

 

「いえ、大丈夫です。ツクヨミさん? でしたよね?」

「ああ、覚えていて下さったのですか……!」

「覚えてますよ。花火大会以来ですね」

 

 リディアは夏の花火大会で、この男性と顔を合わせたことがあった。

 そのおかげで、すぐに名前を思い出すことが出来た。

 この男性は、エブラーナの忍者——ツクヨミである。

 

 —— —— ——

 驚いたのは、ツクヨミの声を聞いて、改めてセシルの声とそっくりだと思ったから。

 けれど、彼は声のそっくりさんというだけで、セシルとはまるっきりの別人である。

 

(まさか、セシルと同一人物なんじゃ……)

 リディアはツクヨミと初めて会った時、そんな疑念をうっすら持った。

 花火大会が終わってから、ローザに花火大会当日のセシルの動向を問い合わせたが。

 結果、別人と証明されたので間違いない。

 —— —— ——

 

『こちらこそ、ご無沙汰しております』

 

 誤解が解けたとわかったからか、ツクヨミが再び頭を下げてくれた。

 彼の礼儀正しさに、リディアは感服してしまう。

 

 —— —— ——

 ツクヨミは、今年からお城勤になったばかりの新米忍者。

 夏にエッジからそう聞いている。

 お城勤は、ザンゲツやイザヨイも属する忍者のエリートだ。

 —— —— ——

 

(エッジを反面教師にして、お城勤の教育してるのかも……)

 ツクヨミの醸し出す気配は、今にも空気と同化しそうなぐらい静かである。

 おまけに、胡散臭さ全開の外見を帳消しにするぐらいの、丁寧な所作と言葉遣い。

 目立たぬ、驕らず、騒がずを徹底して仕込まれたのだろう。

 

「ところで、こんな日に何かご用でしたか?」

『はい。リディアさまにお渡ししたいものがございまして』

「え?」

『どうぞ、こちらをお受け取りください』

 

 ツクヨミが片手に持っていた荷物から、黒い布を外した。

 そこから現れたのは、白い箱。

 差し出されたそれを両手で受け取ると、表面はひんやりと冷たい。

 そして、ほとんど重みを感じないことから、すぐに箱の中身を察した。

 

「もしかして、これ……ケーキですか?」

『はい。お館様からリディアさまにお届けするようにと』

「わっ、わざわざありがとうございます……!」

 

 お館様という言葉に反応して、リディアは喜びながらお礼を言った。

 そして、ケーキの箱をそっと包み込むように両手で抱き抱える。

 

(エッジ、去年のこと覚えてくれてたんだ!)

 クリスマスは多忙で、ミストに来ることが出来ない。

 代わりに、部下を使ってここにケーキを届けてくれた。

 エッジのそんな心遣いが嬉しくてたまらない。

 

 ケーキは先ほどミゼルたちと一緒に食べたが、いくらあっても困らない。

 エッジのことだから、明日の朝の分も見越して用意してくれているはず……。

 

『……ふふっ』

「あっ!? やだ、ごめんなさい! つい嬉しくて……」

 

 くすくすと笑う声に、はっと我に返る。

 

 大好きな人からの、大好きなものが入ったクリスマスプレゼント。

 箱を好きな人に見立てて、二重の喜びにしばらく浸っていたら。

 ツクヨミのことを忘れていた。

 

『やはり、噂通り甘いものがお好きなのですね』

「どうしても周りが見えなくなっちゃうんです。エッジにお礼を伝えていただけるとありがたいのですが……」

『はい、かしこまりました』

「エッジ、すごく忙しいみたいですけど。元気にしてますか?」

『ご心配なく。お館様は、おいそれと倒れるようなお方ではございません』

「あははっ、そうですね」

 

 ツクヨミの答えを聞いて、軽く笑った。

 エッジのタフな一面は、お城勤——使用人にも知られているようだ。

 

「でも、ツクヨミさん。こんな日にお仕事って大変ですね」

『なぜでしょう?』

「えっ? お付き合いされてる方、いらっしゃるでしょう?」

『いいえ。そんな人はおりません』

「あぁ……ごめんなさいっ」

 

 首を軽く横に振ったツクヨミへ、お詫びしてから頭を垂れる。

 なんと無神経な、気が利かないことを聞いてしまった。

 

(この人、お面さえなければ、モテてもおかしくないのに……)

 自分の顔の造形に自信がないのだろうか?

 お面をかぶっている理由を聞きたくなる衝動に駆られる。

 しかし、これ以上失礼なことは聞けないと、ぐっと我慢した。

 

『謝らないでください。エブラーナはクリスマスとは縁がありません。ですから、本日も平常通りです』

「そういえば、エッジも前にそんなこと言ってました……」

『リディアさまこそ、聖なる一夜を共に過ごされるお相手が早く現れるとよろしいですね』

 

 ツクヨミの言葉を聞いて、あの男が頭にふっと浮かんだ。

 そして、またもや頭をうつむかせてしまった。

 

 一緒に過ごせたらいいと思っているが、エッジとは恋人でも何でもない。

 恋人になりたくても、告白すらためらってしまう事情がある。

 そんな未来を願っても無駄……。

 

「……いらないです」

『え?』

「そんな人、現れなくてもいいです」

『あ、あの……そんな寂しいことおっしゃらないでください。あなたのような魅力的な方を放っておく男性などいやしませんよ?』

「いいんです。わたし、恋愛に興味ありませんから」

 

 恋愛に興味はある。

 けれど、それはエッジと今の関係に終止符が打たれるまでの期間限定だ。

 

(あたしは、この先エッジ以外の男の人を好きになることはないと思う……)

 この時リディアは自身の中で、そんな予感めいたものを感じていた。

 

『あの、リディアさま……』

「恋人や家族同士じゃなくても楽しめるってことがわかったから、それで十分なんです」

 

 リディアは顔を上げると、白いお面を見つめながら、口の両端を上げて笑った。

 

 ジャンヌの言葉通り、クリスマスは騒いで誰かと楽しめたらそれでいい。

 今日のように、ミゼルやジャンヌたちと夕食を共にしたり。

 遠い未来、子どもの手が離れたアリサやライザと一緒におしゃべりしながら。

 甘いもの争奪戦を繰り広げられたら、最高ではないか。

 

『……が……』

 

 今度はツクヨミが下を向いて、何かぼそぼそ口にし始めた。

 あまりにも小さい声で、ほとんど聞き取れない。

 

「あの、ツクヨミさん?」

 

 リディアが名を呼ぶと、ツクヨミはすっと顔を上げた。

 

『……僕が忍者でなければ、あなたと一緒にいて差し上げることが出来たのに……残念でなりません』

「ええ!? うそでしょ!?」

 

 どこか苦しそうに絞り出すような声で、ツクヨミがとんでもないことを言い出した。

 

『はい、冗談です』

「やだ、もう……びっくりしちゃった」

 

 ツクヨミが首をこてんと傾けて、くすくす笑い出す。

 すぐに茶化されたとわかって、リディアはほっと胸をなでおろした。

 

(演技上手だなあ……)

 口説き文句なんて、エッジ(それもセシルの声)から冗談交じりで言われたことしかない。

 一瞬でも自分を本気にさせるほどの冗談を、こうも簡単に口に出来るとは。

 

(そうだ……!)

 ツクヨミに伝えたいことと、ぜひ聞いてみたいことがあった。

 それを思い出して、ツクヨミに向かって軽く頭を下げた。

 

「だいぶ前になりますけど……花火大会のお手伝い、本当にありがとうございました」

『お礼なんてとんでもございません。僕はただお館様の命令に従っただけです』

「それでも手伝ってくれたことには変わりないです。ここのみんなもツクヨミさんに感謝してましたから」

 

 ツクヨミは花火大会の日に、エッジに伴われてミストにやってきた。

 リディアにとって、彼は影の恩人とも呼べる存在である。

 なぜなら、今年の花火大会。

 エッジと一緒に、初めて観客として打ち上げ花火を鑑賞することが出来たから。

 

「それに、ツクヨミさんのこと。ちょっと心配してたんです」

『心配……ですか?』

「あの日、エッジに仕事押し付けられてつらかったでしょ?」

 

 今更4ヶ月前のことをぶり返したのは他でもない。

 エッジとふたりで花火鑑賞出来た。

 けれど、代わりにツクヨミが犠牲になってしまったかもしれないと気がかりだった。

 

 リディアだけではない。ミストの住民も同じように花火を楽しんでいた。

 その一方で、みんなツクヨミをいささか不憫に思っていたのだ。

 

 ***

 

——遡ること、4ヶ月前 8の月

 

 その日、エッジが突然連れてきた忍者を見て、ミストの住民は大騒ぎしていた。

 なぜならツクヨミは、初めてミストにやってきたエブラーナの民だから。

 なおエッジは、国王という特殊な身分なのでカウントされていない。

 

 —— —— ——

 他国との行き来が自由になった、このご時世において。

 治安がよく暮らしやすい。しかも、尊敬するお館様が住んでいる。

 そういった理由から、エブラーナを離れてよそに移住する者は極端に少ない。

 もちろん、ミストに移り住んだ者はひとりもいない。

 —— —— ——

 

 エブラーナの民は、一体どんな人物なんだろう?

 あの日は、みんなそんな感じでツクヨミに注目していたのだ。

 特にミゼルは、『友だちになりたいなー』と画策していたぐらい興味津々だった。

 

 その日のツクヨミのお仕事は、打ち上げ花火の打ち上げ係とエッジの護衛。

 当時エッジはこう話していた。

 

「オレには護衛は必要ねえが、新人研修にはもってこいだと思って連れてきた」

 

 ツクヨミが何か粗相をしても、上司(エッジ)がフォローしてくれるだろう。

 その点については、まあ納得出来る。

 

 問題は、打ち上げ花火だ。

 ツクヨミは発着場で、打ち上げ台の組み立て、点火。そして片付けを任されていた。

 ……たったひとりで。

 

「ツクヨミさん、手伝いにいってあげようよ」

「いいんだよ、ほっとけ」

 

 リディアは、エッジに何度もそう進言したが、頑として聞かない。

 

 リディアだけではない。

 打ち上げ花火を上げる時間が近付いても、エッジが広場に残っていたからだろう。

 

「あの子、新人さんでしょ? 手伝ってあげなよ」

「さすがにひとりはかわいそうだろ」

 

 エッジにそう声をかける住民がまあ多かったこと。

 

 しかしどれだけ住民がたくさん迫っても、多数決は意味を成さない。

 なぜなら部下の権限を握っているのは、上司のエッジだから。

 

「ひとりで十分。上司ってのは、部下がよほどのピンチにならねえと、手ェ差し伸べちゃだめなんだよ」

 

 エッジにそう言われてしまえば、みんなもう何も言えない。

 

 そうこうしているうちに、ミストの夜空に3発の花火が舞い上がった。

 ツクヨミのおかげで、今年の花火大会も大成功で幕を閉じた。

 

「エッジ様を敬い、命令を忠実にこなすとても真面目な人」

「エブラーナの民は、みんなツクヨミさんのような人に違いない」

 

 住民はみんな、ツクヨミによい印象を持った。ところが……。

 

「いいこと言ってたけど、部下に丸投げしてることには変わりないな」

「暴君にならなきゃいいけどねえ」

 

 ツクヨミの代わりに、エッジの印象はほんの少し悪くなってしまった。

 

 ***

 

『いいえ。あれもれっきとした任務です』

「……本当にそう思ってますか?」

『はい』

「村長さん、言ってましたよ。片付けの時、ツクヨミさん泣いてたって」

『……』

 

 ここまで、ほぼ即座に返事をしてくれていたツクヨミが、急に黙ってしまった。

 

(なんか変なこと言っちゃったかな)

 顔は隠れているし、ぴしりと固まったままでは感情を推し量ることすら出来ない。

 

 花火大会当日。リディアがツクヨミと会って話したのは、自己紹介の時だけ。

 ツクヨミが泣いていたとの情報源は、ミゼルであった。

 

 ***

 

——花火大会の翌々日

 

「ツクヨミさん、かわいそうだったなあ……」

「何かあったの?」

「いやね。打ち上げ花火が終わってから、ジャンヌさんと一緒にアイスを差し入れに発着場に行ったんだよ」

「あっ、去年までわたしたちにも届けてくれたもんね」

「そうそう。で、着いたらツクヨミさん。ぐずぐず鼻すすりながら、ひとり寂しく片付けしてたんだよ」

「うわっ、かわいそう……!」

 

 ミゼルとジャンヌに顔を見られたくないからだろう。

 ツクヨミはアイスを受け取ると、ふたりに背を向けた。

 すると身体をぶるぶる震わせながらアイスを食べていたという。

 

「一昨日の夜って、寒かった?」

「そんな訳ないじゃん」

「ですよね……」

 

 夜といっても夏は暑い。服装は上から下まで真っ黒。更にはフードもかぶっている。

 そんな格好で、寒さに震えながらアイスを食べる訳がない。

 当時ミゼルがそう主張していた。

 

「たぶん、泣きながら食べてたんだよ」

「アイスをもらってうれしかったのかもしれないよ?」

「そうだといいね」

 

 更に話は続いた。

 

「ツクヨミさん。あの日突然エドワードくんにミストに連れてこられたんだって」

「ええ……? 新米だからそんなに厳しくしてるのかな?」

「どうなんだろうね。——それでさ」

「なぁに?」

「リディアさん。その日一緒に晩ごはん食べたの、エドワードくんだけだったでしょ?」

「そうなの……エッジにいいの? って聞いたら、ごはん持ってきてるからいいって言われちゃって……」

「そのごはん、兵糧丸ふたつだけだったんだって」

「なにそれ?」

 

 兵糧丸は小さなお団子。ひとつ食べれば餓死を回避出来る。

 ふたつ食べると1日分の栄養素が採れるという。

 

「忍者の便利な非常食ってところだね」

「非常食は食事じゃないでしょ」

「それだよ。ごはんぐらいまともに食べたかったって、泣きながら愚痴ってた。あの子……すぐに辞めちゃうかもしれないなあ」

「気の毒だね。話、聞いただけで悲哀が漂ってるもん」

「そうでしょ? でも、この話はエドワードくんに内緒で頼むよ」

「どうして?」

「ツクヨミさんが怒られて、本当にクビになったらどうするのさ」

「ああ……」

「気になるなら、次に会った時に本人に直接聞いたらいいよ」

「うん。でも、次ってあるのかな……?」

 

 リディアはその後、エッジにツクヨミの話を一切持ち出さなかった。

 

 ***

 

(おじちゃんたちには愚痴ったんだし……あたしの前でかっこつけなくてもいいのに)

 あれから4ヶ月経った今。偶然にもこうしてご本人さまが現れた。

 今はエッジもいない。我慢せずに愚痴をこぼして欲しい。

 

「あの」

『——僕たちは泣こうが喚こうが、お館様の命令に従うだけです。未熟な僕に貴重な経験の機会を与えて下さったお館様には、感謝しかございません』

「うわぁ、すごい……! お城勤のみなさんって、本当に出来た方ばかりですねぇ」

 

(あれから世間にもまれて成長したんだ!)

 ようやく、ツクヨミが口を開いた。

 謙虚な答えに、リディアはまたもや感嘆するばかり。

 ミゼルたちが聞いたら、何があったのかとびっくりするに違いない。

 

『それでは、僕はこの辺で』

「——待って、ツクヨミさん」

『はい?』

「まだ帰っちゃだめ。ちょっとここで待ってて」

 

 ツクヨミを玄関口に残して、台所に向かった。

 

(ええと……これなら、お持ち帰り出来そう)

 調理台の上に、ケーキが入った白い箱を置いた。その代わりに、薄茶色の紙袋を手に取る。

 棚からお皿を出して、その上にじゃらじゃら音を立たせながら紙袋の中身を移す。

 残り3分の1ぐらい中身を残した状態で、紙袋を手にしながら玄関口に戻った。

 

「これ、どうぞお持ち帰り下さい」

 

 ツクヨミに向けてさっと紙袋を差し出した。

 

『これは……?』

「ジンジャークッキーです。お店のものだから、お腹は壊さないと思います」

 

 ツクヨミが首をかしげながら、紙袋を開けて中をのぞいている。

 

 —— —— ——

 紙袋の中身は、生姜やシナモンが入ったスパイシーなクッキー。

 人型や星にハートや雪の結晶……様々な形がある。

 ひもやリボンを通して、クリスマスツリーに飾れるように小さな穴が開いている。

 —— —— ——

 

 ツリーはさておき、形も味もリディア好みという理由から。

 ジャンヌがバロンで購入したものを、そのままここに置いていってくれた。

 

『いけません。リディアさまの好物が減るではありませんか』

「大丈夫です。ケーキをいただきましたから」

『しかし……』

「花火の日のアイスと一緒です。せっかくここまで届けにきて下さったんですから、お礼させてください」

『……』

 

 遠慮してこちらに返そうとしてくるツクヨミに、無理やり紙袋を押し付けた。

 こちらの取り分を圧倒的に多くしたから、気にしなくていいのに。

 

(クッキーだから、ちょっとやそっとじゃ崩れないよね)

 がさがさ紙が潰れる音がしたが、中身は被害に遭っていないはず。

 それに、今からエブラーナに帰ろうとすると、1時間はかかるだろう。

 クッキーは腹ごなしにちょうどいいと思うのだけれど。

 

「もしかして、エッジにバレるのが怖いの?」

『っ……』

 

 ツクヨミが一瞬息を詰まらせた。

 どうやら、エッジにバレて怒られるのを恐れていたらしい。

 

「それなら、飛空艇の中でつまみながら帰ったらいいと思います」

『そうですね。道中でいただくことにいたします。本当にありがとうございます』

 

 ツクヨミは右手で改めて紙袋を抱き抱えて、リディアに深く頭を下げてくれた。

 

 リディアが知るエッジと、お城——部下に対するエッジとでは、人が違う。

 どんな内容でも、任務に徹しろ。金品をもらわぬように……。

 『大人しいエッジ』なら常日頃、部下にそう言い聞かせていてもおかしくない。

 

「今日はごくろうさまでした。お気をつけて」

『はい。それでは、失礼いたします』

 

(そうだ……!)

 ツクヨミが挨拶すると瞬時に暗闇の中に消えていき、扉を閉めようとした。

 その時、とっても大事なことを思い出した。

 

「ツクヨミさーん! 待ってー!!」

 

(忍者だから、気付いてくれるよね)

 がっとつかんだ扉を目一杯開いて、大声でツクヨミの名を呼んだ。

 ある報告のために、エッジに手紙を書こうと思っていたのだ。

 

『——はい』

「うわっ!」

 

 ツクヨミが一瞬にして目の前に戻ってきて、思わず声を上げてしまった。

 声を聞き取ったその場から、こちらにひとっ飛びしたのだろうか?

 

 新米だろうが、ツクヨミも修行を積んだ忍者なのはわかっている。

 それでも、驚異的な運動能力を目の当たりにすると驚いてしまう。

 

『何かご用でしたか?』

「あ、あの……もうひとつ、お願い聞いてもらっていいですか?」

『はい、構いません』

「エッジに、右手で包丁が持てるようになったと伝えて欲しいんです」

 

 ***

 

——今日の夕方

 

 ちょうどその頃、リディアはジャンヌとふたりで料理中。

 ちょっと形が崩れようが、ふたりとも全然気にしない。

 

「どうせ、腹の中に入ったらわからなくなる」

「まずくなかったらいいんだよね」

 

 そう口にしながら、マイペースにごちそうを作っていた。

 

 日が暮れて辺りが真っ暗になり、ようやくミゼルがリディアの自宅にやってきた。

 

「なんだよー。まだ出来てないじゃん」

 

 開口一番、ミゼルが不満げな声をもらして、ジャンヌと互いに顔を見合わせた。

 

(口だけは一人前なんだから……!)

 せっかくたのしく調理していたのに、水を差されてしまった。

 いつもより量も献立も多いから、時間がかかるに決まっているではないか。

 その後も、ミゼルから『まだー?』『お腹すいたー』と野次が飛んでくる。

 それに、リディアが(たぶんジャンヌも)いらいらを募らせながら、調理を続けていたら……。

 

「あれ? あたしの包丁どこいった」

「えー、知らなーい」

「おいっ!? おまえ、それ……!」

「え?? あっ、持ててる……!!」

 

 なんと知らないうちにジャンヌが持参した普通の包丁で野菜を切っていた。

 気付きを得てから包丁を持っても、手の震えは起きない。

 

「包丁は大丈夫そうだな。こいつ持ってみろ」

「うん……」

 

 ずっと避けていた食事用のナイフを差し出されて、右手で持ってみた。

 

「どうだ?」

「……全然、震えない! 治ったんだ!!」

「よかったじゃないか。子ども包丁のおかげだね」

 

 この1年半近く、子ども用の白い包丁を使い続けていた。

 刃物を極力避けて過ごしているうちに、手の震えが解消されていたのだ。

 

 ***

 

『包丁……ですか』

「ええ。それですぐにわかると思います。お願いします」

『……』

 

(伝言の意味でも考えているのかな??)

 ツクヨミは何も答えず、棒立ちのまま。

 カルミネの事件が起こった頃、ツクヨミはまだお城勤ではなかった。

 リディアの心の傷のことなんて知らないだろうに。

 

「ツクヨミさん?」

『い、いえ、何でもございません。戻りましたら、お館様にお礼と共に必ず伝えます』

「はい、お願い……あっ」

 

 リディアに向かって一礼すると、その場から一瞬で姿を消した。

 先ほどと同じように、宙を舞って遠い先まで飛んでいったと思われる。

 

「ものすごく真面目な人だったなあ……」

 

(来年の花火には、別の新米さんを連れてくるかもしれないしね)

 あの正体不明の忍者とは、もう会わないだろう。

 そう思いながら、リディアは扉を閉めた。

 

(去年は普通のショートケーキ4つだったけど、今年はなんだろう……?)

 台所に向かい、白い箱を調理台に置く。

 いよいよお待ちかね、ケーキの箱の中身を確かめることにした。

 

「うわぁ……ブッシュドノエルだぁ……!」

 

 白い箱のふたを開けて、丸太に見立てたチョコレートケーキが目に入った途端。

 リディアはきらきらっと目を輝かせた。

 

 ブッシュドノエルは、トロイアでのクリスマス定番のケーキ。

 毎年クリスマスになるとライザが作っており、実物を一度見せてもらったことがある。

 あの忍者が、わざわざトロイアに寄って買ってきてくれたのだろうか?

 

「一切れだけ……!!」

 

 そう口にしながら、棚から以前使っていた普通の包丁を取り出した。

 

(やっぱり震えない!)

 完全に治ったことに安堵しながら、ケーキの3分の1ほどを切り分けてお皿に移す。

 

(残りは明日の朝ごはん。それでも残ったら公民館に持っていって食べよう)

 再びふたを閉めた白い箱の表面にブリザドをかけて、かちこちに凍らせる。

 

「これでよしっ」

 

 ようやく一仕事終えたとばかりに、大きく息をついてから。

 お皿を手にして、リディアは意気揚々と寝室兼書斎へと向かう。

 

(エッジにお手紙書こう!)

 この1年半近く、子ども包丁を使いながらやり過ごしていた当のリディアより。

 エッジの方が、よほど右手のことを気にしてくれていた。

 

 ツクヨミに伝えたあの一言では、詳しい状況までは伝わらない。

 仕事が忙しくても、手紙に目を通す時間はあるだろう。

 

 黒いサンタクロースが届けてくれた、大好きなひとからのクリスマスプレゼント。

 小さな丸太のケーキを口にしながら、癒えた右手で筆を取り、便せんにしたためよう。

 ……クリスマスケーキのお礼と今日の出来事を。

 

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