※この作品はR-18です。

フェイクラバーズ   作:かえで

4 / 160
自慰場面あり


再会 ※

 

 

 ゼロムスとの戦いを終え、リディアは住み慣れた幻獣界に戻ってきた。

 幻獣たちとの交流や読書、更なる高みを目指すため魔法の研究や開発。

 戦いのない平和な生活に大いに満足していた。たったひとつを除いて。

 

 

7 days later

 

 

 テンポのよい小さな水音と、時折もれるあえぎ声。

 ふたつのいやらしい背景音が、狭い空間をみだらな空気に変えていた。

 

「あ、っ……セシル……っ、ぁあああっ……!」

 

 突然甲高く大きな声が室内に響き渡り、すぐにしんと静まり返る。

 この部屋の主——リディアは、二度三度深呼吸をしてから上体を起こした。

 

「……あたし、何やってるんだろう……」

 

 つぶやいた声は、先ほどまでと打って変わって低く抑揚に乏しい。

 

 以前大嫌いな男から言われた『自分で自分を慰めるって、すげえむなしいぞ』が脳裏をよぎった。

 男の言った通り。心は言いしれぬ虚無感でいっぱいで、がっくり肩を落とす。

 

 —— —— ——

 平穏な日常唯一の汚点が、時折自慰行為を行っていることであった。

 時間的余裕(『ヒマ』ともいう)が出来た。しかも、異次元レベルでセシルと離れ離れ。

 初恋の人に会えない寂しさが募り、ついつい自分で自分を慰めてしまう。

 —— —— ——

 

 ベッドの上で大きくため息をついてから、詠唱を唱えた。

 室内にぱりんぱりんと薄い氷が割れるような音が鳴り響く。

 

 これは、声や物音が指定範囲外に漏れない魔法『防音結界』の解除が始まった合図。

 すぐに音が鳴り止み、完全に解除された。

 

(やましい目的で作った訳じゃないのに……)

 幻獣界に戻ってきてからすぐ、『ヒマ』な時間の穴埋めに何をしようか考えた。

 結果、魔法の開発を思いつき、その日のうちに完成したのがこの魔法。

 偶然の産物だが、記念すべき第1作目である。

 まさか、自慰中の防音対策目的で利用することになるとは思わなかったけれど。

 

「リディア、そこにいますか?」

「は、はいっ!」

 

 アスラの声が聞こえて、胸が一瞬どきりとした。

 アスラは幻獣王リヴァイアサンの妻で、リディアの母親代わりの存在である。

 

(さっきの声を聞いたら、アスラさまが嘆き悲しんじゃう……)

 『防音結界』を張っておいてよかった。そう安堵しながら、出入り口に向かった。

 

「どうかされましたか?」

 

 扉を開けると、人間の姿を模ったアスラが立っていた。

 

 アスラとリヴァイアサンは、真の姿のままだと町での生活で支障をきたしやすい。

 そのため、普段は人型に姿を変えて行動している。

 

「お客様がお見えです」

「お客さん? 誰ですか」

「地底の国ドワーフの王と王女です。何やら、結婚式がどうとかおっしゃって……大急ぎの用件だそうです」

 

 『結婚式』という言葉に、リディアはひゅっと息を呑んだ。

 そんなものを挙げる知り合いなんて、あのふたりしかいないではないか。

 

 

——数時間後

 

 

 数日ぶりに訪れた地上は、新緑の季節を迎えていた。

 バロン新国王セシルの戴冠式に続いて、セシルとローザの結婚式が執り行われた。

 どちらも終始和やかな雰囲気で幕を閉じた。

 

 現在バロン城の大広間では披露宴が行われている。

 そんな中、リディアはひとりベランダの手すりに頬杖をついて外を眺めていた。

 

 雲ひとつない初夏の青空に、時折ぽんぽんと破裂したような音が鳴り、白い煙——花火が上がる。

 城下町から民が歓声を上げ続けている。

 

「あたしたちだけだったらなあ……」

 

(もっと気が楽なのに)

 ついつい本音が口から飛び出てしまったが、精神的にくたびれたから仕方がない。

 人混みがあまり好きではない自覚はあったが、宴に出席して確信した。

 自分という人間は、お姫さまや貴族のお嬢さまにはなれない、と。

 

 —— —— ——

 本日は、新国王並びに新王妃を一目見ようと、世界中からたくさんの招待客が集まっている。

 

 華やかな衣装や豪華な装飾、厳かな雰囲気、優雅な言葉遣い。

 あまりの人の多さに圧倒されながらも、新国王夫妻へ直接お祝いの言葉を伝えた。

 旅で知り合った仲間とも再会し、このベランダに自主避難してきた。

 

 本日の収穫と言えば、仲間たちとの連絡手段が出来たこと。

 近々ファブールの国王に即位するヤンが、先ほどこう話していた。

 

『ファブールにシルフ殿がよく遊びに来るのです。彼女たちに頼めば、リディア殿も我々と手紙のやり取りが出来ますなあ』

 

 文通を提案してくれたヤンには感謝しかない。

 —— —— ——

 

 宴が終わったら、地底の国ドワーフのジオット王と王女のルカと一緒に帰ることになっている。

 ドワーフの飛空艇で、地底にある幻獣の洞窟の入口まで送って行ってもらうのだ。

 それからはよほどのことがない限り、地上に来ることはないだろう。

 

 青い空、陽の光、色とりどりの花、賑わう人たち、そびえ立つ山、若葉生い茂る緑……。

 今のうちに、幻獣界で決して見ることが出来ない風景を目に焼き付けておこう。

 リディアは思う存分、ベランダから地上を堪能することに集中した。

 

§

 

 どれぐらい眺めていただろうか。

 

「なんだよ、ここにいたのか」

 

 背後から声をかけられ、地上堪能タイムはあっけなく終わりを迎えた。

 

「うん」

 

 リディアは外を眺めながら、相手におざなりな返事をしてやった。

 

(来なくていいのに)

 誰かなんて、もうわかりきっている。

 一度も接触せぬまま、おさらばしたかった仲間の男——エッジが。

 ずかずか近付いてきてリディアの右隣を陣取った。

 

「よう、リディア」

「……」

 

 背中をベランダに両手を手すりに預けながら、へらりと笑いかけてきたが、無視した。

 

 あの件以来、エッジとは業務的な会話のみに留めて、別れたっきりであった。

 

「久しぶりだな。元気してたかぁ?」

 

 エッジがきらびやかな正装姿で、馴れ馴れしく話しかけてくる。

 

 先日エブラーナの国王に即位したばかり。本日再会した仲間たちからそう聞いていた。

 残念ながら国王さまになっても、くだけた言葉遣いは変わらなかったようだ。

 何にせよ立場や見てくれが変わったところで、リディアにとっては嫌な男に変わりない。

 

「……どうぞ、ごゆっくり」

「え」

 

 わざとらしく大きなため息をついてから身体を翻した。

 慌てたようなエッジの声が聞こえたが、相手にしない。

 

「おい、どこ行くんだよ」

「中に戻るの」

「ちょっと待てって」

「っ!?」

 

 会場に戻ろうとしたリディアの腕を、背後からエッジがぐっとつかんできた。

 

「……離してよ」

「だめだ。まだ何も話してねえし」

「話すことないもん」

 

 近況報告するような出来事がない。『防音結界』魔法を作った。

 そう報告しようものなら。よからぬことを詮索されそうで。

 それ以前に口も利きたくない。早く中に入りたい。

 

「半年ぶりの感動の再会だぞ? いくらでも積もる話あるだろ」

「こっちはあれから1週間しか経ってないの。話すことなんか……!」

 

(しまった!)

 腕を離されたものの、エッジの表情がみるみるうちに険しくなっていく。

 それを見て、リディアの顔からさぁーっと血の気が引いていく。

 

 誰かに相談する前に、まずは幻獣界でいろいろ調べよう。

 そう決めて、みんなには黙っていたのに。

 よりにもよって、エッジにうっかり口を滑らせてしまうなんて……!

 

「……おい、今なんつった」

「な、何も言ってない」

「1週間しか経ってねえって、なんだよそれ!!」

 

 エッジが祝いの日にふさわしくない大声を上げた。

 

 —— —— ——

 ゼロムスを倒した頃の地上は、冬真っ盛りだった。

 それが、ドワーフ王やルカに聞いてみたら、6の月が今日で終わるというではないか。

 —— —— ——

 

 なんと、リディアが幻獣界で1週間ほど過ごしていた間に。

 地上や地底は、半年以上も時間が経過していた。

 

「ち、ちょっと、声が大きいって」

「どういうことだ! 話せ!」

 

 慌ててなだめるも、エッジは言うことを聞いてくれない。

 元々かっとしやすい性格。血が上りきっているようだ。

 

「あ、あたしもびっくりしてるの。こっちがこんなに時間が速く進んでるなんて思ってなくて……」

「これすっげえ問題だぞ。オレらがじいさんばあさんになっても、おまえは全然歳を取ってねえってことなんじゃねえの?」

「もしかしたら、そうなるかも……」

「下手すりゃ、逆もあり得る。いいのか? このままで」

「よくない……」

 

 幻獣界に帰ってみないと何もわからない。

 現時点ではそれ以上答えようなく、リディアは黙ってしまった。

 

「……すまねえ、言い過ぎた」

「いいよ」

 

 エッジがしゅんとしたような表情に変わり、謝ってくれた。

 

 自ら謝るとはとても珍しい。

 魔導船でセクハラした時ですら謝罪しなかったのに。

 

「帰ったらすぐ図書館でいろいろ調べようって思ってるの」

「そんなもんリヴァイアサンたちに聞けば、すぐ済むだろ」

「あぁ、調べてから聞いてみるよ」

「……けど、そんなんでよく式に間に合ったな」

「ジオット王とルカが迎えにきてくれたの」

「あ、そのまま連れてこられたのか。ってことは、その衣装……」

「ローザが準備してくれていたの。ドレスも靴もアクセサリーも全部プレゼントしてくれるって」

 

 幻獣界で暮らすリディアの前に、ドワーフ国のジオット王と王女ルカが突然現れた。

 ふたりに連れ去られるような形で、着のみ着のままバロン城にやってきた。

 そして城の控室でドレスに着替えて、現在に至る。

 

「へえ、太っ腹だな」

「でしょ?——どう? 似合うでしょ?」

 

 得意げな笑みを浮かべて、その場でくるりと一回転。

 深紅のロングフィッシュテールドレスの裾がふわりと軽く宙を舞う。

 調子に乗ってもう一回転しようとしたら、エッジがこう言った。

 

「ああ、よく似合ってるぜ」

「えっ!?……うわ、わ……っ!」

「よっ」

 

 思いがけない褒め言葉に驚いて、軸足がよろめく。

 身体がぐらりと大きく傾いたが、エッジが受け止めてくれた。

 

「あ、ありがと」

「気ィつけろ。つーか、驚きすぎだろ」

「……っ、ガキがおめかししてるって言うかと思ってた」

「本当のこと言っただけだぞ」

「ええ? なんかエッジらしくない。へん」

「はーん、だったら、馬子にも衣装って言えばいいんだな」

「もう! そうやってすぐばかにする!」

 

 先ほどまでは不穏な空気が漂っていたが、エッジのへらず口ですっかり場が和んた。

 あの日以来、ろくに話さなかった分を今取り返しているかのように会話が弾む。

 

 嫌だ嫌だと思っていたはずなのに、不思議なものである。

 今の時間を手放すのが惜しい。

 そう思ってしまうぐらいには、数日ぶりとなるエッジとの再会を楽しんだのであった。

 

(違う……エッジはいい人なんだよ)

 あんなことさえしなければ。変なことさえ言わなければ。

 

§

 

 披露宴も終わりを迎え、招待客が次々と帰路の途につく。

 リディアも式終了後、元の服に着替えてから控室を後にした。

 一緒に帰るジオット王とルカとの待ち合わせ場所へ、大きな荷物を抱えながら急いで向かっていた。

 荷物には、本日着用したドレスと靴と装飾品が入っている。ローザからの贈り物だ。

 

「リディア! こっちこっちー!」

「っ、ジ、ジオット王……ルカ、っ、お待たせ……して……ごめん、なさい……」

 

 会場の東出口付近で、ジオット王と一緒に待っていたルカが声をかけてくれた。

 ふたりの前によろめくように到着し、ぜえはあと肩を上下させながら謝罪する。

 

「なあに、そんなことで謝らなくてもよいよい」

 

 さすが、ラリホーが口癖のドワーフの王。ジオット王の懐の広さに感謝だ。

 

 履き慣れないヒールで駆け足したおかげで、少し足もずきずきしている。

 動悸、息切れ……意識が半ばもうろうとして、周りがよく見えていなかった。

 

「んだよ、ちょっと走っただけでそれか」

「!?」

 

 胸を押さえながら息を整えていたら、聞き覚えのある声に自身の耳を疑う。

 

「相変わらず体力ねえなぁ」

 

 改めて周囲を確認して、ぎょっとした。

 なぜか、数分前に別れたばかりの元仲間の男性がそばにいる。

 

「どうして、ここにいるの!?」

「エブラーナ王が、そなたを送って行くと申し出てくれたのじゃ」

「ええっ!?」

「よかったね。今からデートだって!」

「デ、デート……?」

 

 知らない間に話が勝手に決まっていて、開いた口が塞がらない。

 

「そんじゃ、ジオット王。ちょっくら借りてくな」

「え!? ちょ、っ……」

 

 エッジに腕を強くつかまれ、ずるずる引きずられるようにして出口に連れて行かれる。

 

 普段なら憤りを露わにして抵抗している。しかし、今はころころ変わる状況に気が動転中。

 息もまだ上がっていて、文句ひとつもままならない。

 

「気をつけて帰ってねー」

「きちんと送って行ってあげるのじゃぞー」

 

 のほほんとこちらに手を振る、ジオット王とルカ。

 

(ふたりとも、止めてよぉ……!!)

 そんなふたりを視界に入れながら。リディアはモノ同然の状態で会場を後にしたのであった。

 

§

 

「あのまますぐに帰るだけだったんだよ!? わざわざエッジが送っていく必要なんてないじゃない!」

「まだ根に持ってんのかよ……」

「決まってるでしょ!? エッジも遠回りだってわかってるはずだよ。エブラーナに帰るのが遅くなっちゃうし……燃料ももったいない……」

「はっ、オレや燃料の心配たあ、リディアちゃんはほんと優しいなあ」

「またそうやってばかにする!!」

 

 散々振り回された恨み辛みをエッジにぶつける。しかし、のれんに腕押しぬかに釘。

 まともに相手にされない苛立ちは、恨み辛みへ嵩上げされる。以下その繰り返し。

 バロンを発ってから半刻ほど経っているのに、未だ応酬が続いていた。

 

 自腹で飛空艇を購入して、運転技術を会得したこと。

 本日は単身でこの飛空艇、エッジいわく自家用艇に乗ってバロン城にやってきたこと。

 

 ……エッジが、この飛空艇にまつわるエピソードを得意げに話してくれたが。

 大して驚きもしないどころか、どうでもよかった。

 

「……そろそろだな」

「ちょっと、人の話聞いてる!?」

「おいリディア」

「何よ」

「ちょっとあっち行って、下のぞいてみろ」

「え」

 

 運転中でハンドルから手が離せないのだろう。

 エッジが首をひねって、あっち——ベランダを示してきた。

 

「この時間だし、ちょっと見辛いかもしんねえけど」

「どうして?」

「いいから。とっとと行ってこい」

 

(ほんと、何考えてるんだろう)

 指示されたベランダに渋々向かい、手すりに捕まって何気に地上を見下ろす。

 その数秒後、視界に入ってきた光景に目を見開いた。

 

「うそ——」

 

 森だったと思われる一帯は、一面大地が広がっている。

 たくさんの材木で骨組みされた、建設途中と思われる工事現場がぽつぽつ見える。

 これからも建物が建つのだろう。あちらこちらに木材が山積みされている。

 そして、既に完成したと思われる真新しい建物の周辺を人が歩いている……。

 

 凶暴な紅蓮の炎に包まれ、灰と化したはずの生まれ故郷が。

 温かい夕焼けに彩られている。

 

「エッジ! これって……」

 

 リディアは、ばっと後ろを振り返って大声で叫んだ。

 

「ああ、そうだ! おまえの故郷だ!」

「やっぱり……!」

「復興始まってんだよ!!」

 

 リディアは改めて地上を見下ろし、ミストを望む。

 

 飛空艇が周辺を旋回してくれているようで、故郷の光景は一向に小さくならない。

 時計の針が逆回りしたかのように、少しずつ元の村に戻っていくようにも見える。

 次第に視界がゆらゆらにじみ始めて、こぼれそうな涙をこらえる。

 

 知らないところで、こんなことになっていたという驚き。

 滅亡していなかったという喜び。そして、わずかばかりの疎外感。

 ごたまぜの感情に震えながら、胸の中にある思いが蘇ってくるのを感じていた。

 

「日ィ暮れちまったし。そろそろ離れるぞ」

 

 エッジの声かけを機に、故郷がだんだん遠ざかっていく。

 空の彩りが橙から紫に変わり、小さくなっていくミストを。ベランダからずっと眺めていた。

 手すりをつかむ両手の甲に、ぽたぽた落ちてきた涙も無視して。

 

 やがて、空が紫から黒へ色を変えてミストを優しく包み込む。

 それを見届けてから、操縦スペースへ戻った。

 エッジにばれないように、隠れて手の甲で目元をごしごしこすりながら。

 

「な? 寄り道してよかったろ?」

「うん」

「なんだ、泣いてたのかよ」

「泣いてないよ」

「ふぅん」

「……ミスト……なくなったって、思ってた……」

「おまえが幻獣界に帰ってちょっと後にな。バロン主導で復興支援が始まった」

「バロン……?」

「バロンってよりもセシルか。あいつなりの償いじゃね」

「……そんなこと気にしなくていいのに」

「あいつさ。生き残りの奴らと面会して『ぼくが指輪を届けたばかりに……』ってばか正直に話しちまって、すっげ反発食らったんだとよ」

 

 エッジの話し声の中に、セシルのそれが混じっていて一瞬胸が高鳴る。

 

「何だよ、すげえ怖い顔しやがって」

「……なんでもない」

 

 なぜ初恋の人の声を真似るのが上手なのか? そう聞きたかったが、ぐっと我慢した。

 

 今ここで問い詰めたら、前と同じこと——セクハラをされそう。

 その分が、今えげつない表情として顔に出ているのだろう。

 

「近いうちにダムシアンやファブール……みんな乗っかってくるらしいぜ。そうなりゃ、復興も早く終わるだろうな」

「エッジ、あたし」

「——ミストに帰りたくなったか?」

 

 エッジに問われて、こくりと小さくうなずく。

 幻獣界で一生を終えるつもりでいた。

 しかし、ミストの復興を知ったことで『ミストに帰郷する』という選択肢が蘇った。

 

「だろうな。故郷ってなかなか捨てられねえから」

「でも、あたし。幻獣界も……」

「ははっ、大いに悩めよ。これもいい経験だ」

「エッジ、おじいちゃんみたいなこと言うんだね」

「ばか野郎! まだそんな歳じゃねえぞ!」

「……すみません」

「それよりさ。ちょっと、上見てみろ。いいもん見れるぞ」

 

(まだ何かあるの……?)

 この1週間、リディアはのんびり自由気ままに時間を過ごしていた。

 それが、今はどうだ。

 今日1日の情報量は、幻獣界で暮らしていた日数をはるかに超えている。

 もはやキャパオーバー寸前だ。

 

「うわぁ……!」

 

 エッジに言われるがまま、渋々上空を見上げた瞬間。

 きらきら夜空に一際輝く、北天から南天に横切る光の帯——天の川が見えた。

 

§

 

 地底にある幻獣の洞窟入口に飛空艇が着陸し、エンジンが完全に止まった。

 

「あの……」

「ほら、歩けって」

 

 エッジに促され、乗降口に向かう途中でリディアは後ろを向いた。

 

「ついてこなくてい」

「——早く先行けっつーの」

 

 エッジに背中を押されながら、地底の大地——幻獣の洞窟の入口に降り立った。

 見送りなら飛空艇からでも出来るのに、それでも後をついてくるとは律儀な男である。

 

「今日はありがとう。楽しかったよ」

「そりゃよかった」

 

 地底に入るまで、満天の星空を流れる天の川をずっと眺めていた。

 うわあ、きれい、すてき。

 これでもかと、大声を上げてはしゃいでいた自覚はある。

 星や太陽が存在しない幻獣界では拝めない光景だから、こうなっても仕方がない。

 

「それに……」

「ミストか」

 

 黙って首を縦に振った。

 

「ま、これでもかってぐらい悩んで悩んで悩みまくって結論出しゃいいんじゃね?」

「うん……」

「あんまちんたらしてっと、みーんな死んじまってるかもしんねえな」

 

 エッジはからから笑うが、笑いことで済む話ではない。

 やはり、戻ったら図書館にこもらないといけない。

 

「今日は辛かったこともあったろ?」

「え?」

「たった1週間しか経ってねえのにさ。あんなに見せつけられて、よく頑張ったな」

「あたし、何にも頑張って」

「——式の間ずっと笑ってたじゃねえか。本当はすげえ泣きたいくせに」

 

 考えないようにしていたことを、最後の最後にぶり返されてしまった。

 胸を締め付けられながらも、エッジを上目遣いでにらむ。

 まるでかさぶたをめくって傷を抉ってくるような物言い。やはり、この男は意地悪だ。

 

「きちんと参列したしさ」

「気が付いたら、バロンに着いていたから……」

「あいつらにしっかり祝福の言葉送ってたしな」

「祝いの場で別れろって言うお客さん……いないよ」

「カインの奴、見てみろ。幸せそうなあいつら見たくなかったのか、何か知らねえけど、どっかの山にこもりやが」

「——っ、あたしだって……そうしたかったよっ!」

 

 ここまで必死でこらえていた感情が、とうとう氾濫を起こし、叫び声を上げた。

 エッジに八つ当たりしている罪悪感は全くない。余計なことを言って、けしかけてきたのが悪い。

 

「カインがうらやましいよ! でも、カインみたいに出来なかったんだもん! そしたら、もう我慢するしかないじゃないっ!」

 

 旅が終わった直後。カインはリディアたちに別れを告げず、風のように消えてしまった。

 現在はミシディア付近の試練の山で修練を続けていると、今日聞いたばかり。

 

「おまえ……泣いてるの、気付いてるか?」

「っ! そんなの、どうでもいいよ……あと、帰るだけだもん……」

 

 涙が滝のように、どばどばあふれてくる。

 ミストを眺めていた時は、大地を流れる川のように緩やかに涙を流していたのに。

 鏡を見なくてもわかるぐらいには、今の顔はぼろぼろに違いない。

 

「だから頑張ったって言ってんだよ。おまえ、ずっと気にしてたけど、しっかり大人してんだって」

「せっかくのお式なんだよ……? 泥塗っちゃたら申し訳ないじゃない。嫌な顔しちゃったら、セシルもローザも困っちゃう……」

「そうだ。ローザはそのドレス、わざわざ準備してくれてたぐらいだからな」

 

 それからはもう言葉にならず、ぐずぐず泣きじゃくるばかり。

 

「でも、まだ……諦められ……ない……むり」

「特効薬は時間だ。時間」

 

 リディアが落ち着くまで、エッジはずっと頭を撫でてくれた。

 しかし、「胸、貸してやろうか?」との申し出には、首を強く横に振ってお断りした。

 

 

——翌日

 

 

「うーん……『この世界の成り立ち』……違う違う」

 

かさり

 

「……『別世界への移動の研究』?……読みたいけど今はこれじゃない……」

 

かさり、かさり

 

 静かな空間に、紙面をめくる音とぶつぶつと何かつぶやく声だけが聞こえる。

 

 ここは幻獣図書館。幻獣界で数少ない施設のひとつだ。

 図書館なのに司書は存在しない。

 住民の多くも、とうの前にここの資料を読み尽くしており、滅多に来ない。

 よって、現在はリディアのほぼ貸し切り状態となっている。

 

「ん?……『人間界と幻獣界、ふたつの世界の共存は可能か』……これかな」

 

 拝読机に向かい、ある古い文献のページをめくる手がぴたっと止まった。

 ようやく探していた情報が見つかりそう。

 目を輝かせながら、古代語で書かれた文面を指でなぞり始める。

 

「なになに?……『幻獣界の時間の速さは人間界、いわゆる地上や地底のそれとは異なる……例えば、地上が100の速さなら、幻獣界のそれは10だったり50だったり……突然200に変わることもある。どんな条件で切り替わるのか、誰にもわからない』……」

 

ばん!

 

 内容の一部を口述し終えると同時に、見開きの資料を思いっきり叩いた。

 最初からわからないと書いておいてほしかった。これではただの読み損だ。

 

 身勝手な八つ当たりを終えると、リディアは机に突っ伏した。

 復興が始まっていた生まれ故郷の光景が頭にちらつき、ぼそりとつぶやく。

 

「帰りたいなあ……」

 

(ミストに……)

 帰郷の念が日増しに高まっていく。 

 

 地上地底と幻獣界。それぞれの世界の時間速度が違うのは知っていた。

 リディアがこの世界で修業していた頃は、幻獣界の方が速度が速かった。

 しかし、今は逆転して地上地底の方が時間が速く進んでいる。

 今こうしている間にも、どんどんあちらの世界は時間が過ぎているかもしれない。

 

『この先オレらがじいさんばあさんになっても、おまえは全然歳を取ってねえってことなんじゃねえの?』

 

 エッジの責めるような言葉が、ふと頭に浮かんだ。

 逆の可能性——リディアだけ早く年老いてしまう——も、あり得る。

 事故や病気でもないのに、セシルたちよりも先に、ひとりあの世へ行くのか?

 考えただけで恐ろしくなってきて、背筋にぞくぞくと寒気が走った。

 

「……片付けなきゃ」

 

 資料を元の書架へ戻しに行くため、ふらふらと立ち上がって席を離れた。

 

 結婚式が終わってから、リディアはずっと図書館にこもっていた。

 手当たり次第、資料や文献を探しているうちに、自身を慰めなくなった。

 今はそれほどまでに、精神的にも体力的にも余裕がない。

 

「……こうしている間に、セシルとローザの子どもが産まれてるかもしれないのかあ……」

 

 セシルへの思いも、未だずるずると引きずっている。

 何せ結婚式が終わってから、こちらの世界はまだ3日しか経っていない。

 失恋の傷が癒えるには、とてもではないが日数が足りない。

 

§

 

「なにぶつぶつ言ってるの? リディア」

「あっ……ただの独り言だよ」

 

 書架を離れて出入り口へ。外に出ると、仲の良い幻獣の子どもがそばにやってきた。

 最近遊んでくれないからつまんない。そう頬をふくらませる子どもに苦笑いを浮かべる。

 

「図書館で、何調べてたの?」

「地上や地底とここでは、それぞれ時間の速さが違うでしょ? それって、何か法則でもあるのかなあって」

「……そんなこと調べてどうするの?」

「仲間のみんなと歳が離れちゃったら嫌だもん」

「えー!? まだ地上のこと気にしてたの!?」

 

 子どもが大声を上げてびっくりしている。

 純粋で悪気がない言葉に、胸がつきりと少し痛んだ。

 

 —— —— ——

 この世界の住民は、人間や地上そのものをさげすむきらいがある。

 幻獣界の者は基本不死、なおかつ特殊な能力を使える。

 地上の生きとし生けるものは、みな命に限りがあるし。

 実力を持った人間でも、幻獣界視点では弱く見えるらしい。

 

 そんな世界から認められた人間、いわゆる例外は極めて少ない。

 今は亡きミストの召喚士たち。幻獣王リヴァイアサンに力を認められたセシル。そしてリディア。

 シルフたちは、ヤンが大のお気に入り。

 ただ、彼がこの世を去れば、地上に興味関心を失うだろう。

 —— —— ——

 

「あんなとこ見捨てて、さっさとここの住民になっちゃえばいいのに」

 

 10年以上ここで暮らしている。両親代わりの存在もいる。誰もリディアをさげすまない。

 友人もたくさんいる。だから、自分はこの世界の住民。

 てっきりそうだと思っていたら、子どもに否定されてしまい、眉をひそめる。

 

「……あたし、ここの住民じゃないの?」

「今は仮住まいってところかな?」

「仮? どうして?」

「きみはまだ『人間』でしょ。ここの住民になる第一条件は『永遠の命』だよ」

「……!?」

 

 子どもから告げられた言葉に、息を呑んだ。

 

 住民になるには、生死の環から外れなければならない。

 すなわち、幻獣や目の前にいる子どもと同じ存在になること。

 ただでさえ遠い地上が、今以上に遠くなってしまう。

 

「大丈夫だよ。幻獣王様にお願いしたら、リディアならすぐ叶えてくれるよ」

「……」

「そうすれば、ぼくたちとずーっと毎日遊べるねっ! やったぁ!」

 

 呆然とするリディアをよそに、子どもが無邪気にはしゃいでいる。

 その様子を見つめながら悟った。

 次元や時間など様々なものが違う、ふたつの世界は共存不可能なのだと。

 

(どっちか完全に切り捨てろってことなんだ……)

 

 

——1週間後

 

 

 図書館に通い続けながら、リディアは気が気ではない日々を送っていた。

 最初に見つけた文献以降、特に目新しい資料は見つかっていない。

 シルフ経由で手紙のやり取りを始めよう。

 そう決めたはずなのに、誰からも手紙がこない。

 まさか、地上や地底は思いきり速く時間が流れていて、今頃……。

 日増しに不安が募る。

 

 そんなある日。気晴らしに町を歩いていると、住民にこう声をかけられた。

 

「リディアに会いたいって人間が、洞窟の入口の外で待ってるって言ってたよ」

 

 急いで住民が教えてくれた場所に向かうと、エッジが待っていた。

 

「よっ、2週間ぶりだな」

 

(よかった……)

 セシルとローザの結婚式から、地上や地底は2週間しか経っていないようだ。

 それなら、仲間の誰からも手紙がこないのもうなずける。

 エッジの挨拶で、前と比べて時間のズレが小さくなったことがわかって胸をなでおろした。

 

 エッジは幻獣界が今どうなっているか気になって、様子を見にきたという。

 肝心の話題に入るため、ふたりで肩を並べて洞窟の入口の前に座った。

 

 —— —— ——

 地底は陽の光や青空と一切無縁の世界である。

 貴重な光源は、海の代わりに揺らめく熱いマグマ。

 そのおかげで常に熱気が漂っている。

 —— —— ——

 

(暑いなあ……)

 ここにきてから5分足らずで、額に汗がじんわりにじみ始めた。

 暑くても我慢だ。

 エッジの前で『防音結界』を使いたくない。

 そうなると、話を聞かれる心配がない場所はここぐらいしかない。

 

§

 

 文献を調べた結果、幻獣の子どもが話したこと……。

 額の汗をぬぐいながら、昨日までの出来事をエッジに話した。

 

「へえ、幻獣界と地上地底で常時デッドヒートを繰り広げてるようなもんか」

「さすがに、過去には遡れないみたいだけど……」

「どんな力をもってしても、過去だけは変えられねえってことだろ」

 

 それが出来たら、今こうしてここにはいない。

 セシルたちとも出会うこともなかっただろう。

 

「で? おまえはこれからどうしたいんだよ」

 

 あぐらをかいた膝の上に頬杖をつきながら、エッジがたずねてきた。

 隣で座るリディアは、背中を丸めてからど直球の質問にこう答えた。

 

「いい加減、決めなきゃって……思ってる」

「ふーん」

「そっちの時間は今は速く進んでないみたいだけど、いつどうなるかわからないし……」

「ミスト帰ろうって思ってんのか」

「うん」

「やめとけ」

「え……?」

 

 冷たい目つきでエッジが口にした言葉に大きく目を見開いた。

 てっきり賛成してくれると思っていたのに。

 

「ど、どうしてそんなこと言うの……?」

 

 せっかくの決意がぽきりと折れてしまいそう。

 そんな心を代弁するかのように、リディアの声はかすかに震えていた。

 

「セシルやギルバートたちに申し訳ねえから、帰らなきゃって思ったんだろ」

「そんなんじゃないよ」

「こないだ見たろ。おまえがいなくてもミストはどんどん復興されてく。だから、ミストに帰る必要ね」

「——違うよ」

 

 リディアはぶんぶん強く首を横に振った。

 

「あたしがミストを必要としてるの。ミストは、あたしの故郷だもん」

「……」

「あたしだけ、ひとりのうのうとここにいるのはいやなの。何でもいいから手伝いたい」

 

 生き残った者、村から離れていたが戻ってきてくれた者、他国の有志……。

 こうしている間にも、生まれ故郷がどんどん立て直されていく。

 それを遠い世界から黙って指をくわえていられない。

 復興の輪の中に入って故郷のために何かしたい。

 

「永遠の命が目の前に転がってんだろ? そいつ手放すってもったいねえな」

「死ぬのはすごく怖いけど、人として生まれてきたんだもん。どこの世界にいても、人として生を終えたいの。エッジもいっしょでしょ?」

「ははっ! その通りだ! んなもんいらねえよ」

「でも……ミストに帰るからって、幻獣界を捨てるなんて……」

 

 膝に顔を突っ伏すと、そのまま黙り込んでしまった。

 あの文献をそのままなぞるとしたら、どちらかの世界は切り捨てなければならない。

 けれどリディアには、それがどうしても出来ない。幻獣界と地上、どちらも大好きだから。

 

「うだうだしてんのは、やっぱそこか」

「っ、ちょっと、やめて……」

 

 ぐしゃぐしゃっと手荒く翠の髪をかき回される。

 抵抗しても、エッジは手を止めてくれない。

 そんな悪戯っぽさと相反して、こちらを見る眼差しは真剣そのものだった。

 

「そんなことでおまえと縁切るような奴らじゃねえだろ。おまえと幻獣界の関係ってその程度か」

「違う」

「そうだろ? ミスト帰ったって、そうそう幻獣界と繋がりは切れねえよ」

「……!」

「決心ついたんなら、早いうちにリヴァイアサンたちに話してみろ」

「っ、うん……!」

「自分で考えてここまで物言えるんだ。あいつらもわかってくれるさ」

「……ねえ」

「どした?」

「もしかしてあたし、カマをかけられてたの?」

 

 エッジが立ち上がって大きく背筋を伸ばしている。

 その様を見上げながら、リディアも乱れた翠の髪を両手ぐしで整える。

 

 エッジは当初やめろと言っていたのに、最後は真逆に変わった。

 そもそも、本当に帰郷を反対していたら話をここまで聞いてくれない。

 

「いい予行演習になったろ?」

「ちょっと、何それ。ずる賢いにも程があるよ」

 

 へへと笑うエッジをじろりとにらみながら、リディアも立ち上がる。

 汗でべた付く腰周りを、ばんばんとはたいて土を取り払った。

 してやられた気分を解消するかのように、これでもかと言うぐらい強く。

 

§

 

 帰郷を決意し、早いうちにリヴァイアサンに話をすることで決まった。

 

「いい加減、帰らねえとなあ」

 

(いい加減?)

 エッジが停泊中の自家用艇を横目で見ながらそう言った。

 帰りたくなさそうに聞こえて、リディアは眉をひそめる。

 

「……お城、抜け出してきたの?」

「ああ」

「だめじゃない。みんな困っちゃう」

「こう見えて普段はまじめに仕事してんだ。たまには気分転換ぐらいさせろ」

「そんなのここに来なくても出来るじゃない」

「っ、それは……」

「どうして、ここに来て……あたしにいろいろしてくれるの?——仲間だから?」

 

 エッジは何も答えず、くるりと背を向けてしまった。

 

(なんか……怖い)

 よくしゃべるエッジにしては珍しい態度。

 そう思う一方で、どこか近寄りがたい雰囲気を感じた。

 何を考えているかわからず、おっかない。

 

「……ねえ」

「そ。リディアは大事な仲間だからな」

 

 遠慮がちに呼びかけると、エッジが明るい表情でこちらを振り返ってくれた。

 先ほど感じた影も霧散しているようで、ほっと胸をなでおろす。

 

「つっても、オレはなんもしてねえけどな」

「今のミストや天の川、見せてくれたじゃない」

「ああ、あれはな。ちょっとした気分転換だ」

「っ、な、何それっ……! 気分転換ばっかり……!」

 

 リディアは思わず吹き出してしまったが、エッジに共感した。

 旅をしていた頃から知っていたけれど、この男は元来じっとしている人間ではない。

 それが今では城内にこもり続ける生活である。ストレスが溜まって、気分転換も図りたくもなるだろう。

 

「じゃあ、動きがあったらすぐシルフに言付け頼めよ」

「うん、今日はわざわざありがとう」

「あっ、そういえばさ」

「なに??」

「そっち帰ってからも、続けてんのか?」

「え?」

「それぐらい、いい加減わかれよ。——オナニー今でもやってんのかって聞いてんだよ」

 

ばちーん!

 

「ほんと下品で最低っ! エッジのばか!!」

 

 お別れの挨拶は、数週間ぶりとなるリディア渾身の平手打ち。

 ただし、今回は捨て台詞に『大嫌い』は入っていなかった。

 

 

——翌日

 

 

 突き出そうとした拳を途中で止めて、扉の前からすっと後ずさり。

 そこから距離を取って、長い廊下をのろのろ歩き始めた。

 

(だめだ、こわいよ)

 リヴァイアサンとアスラに相談する勇気が足りず、寸前撤退はこれで五度目。

 

 —— —— ——

 幻獣界の王で海の主リヴァイアサンは、リディアのことをそれはもう溺愛してくれている。

 地上に帰りたい。

 娘がそう訴えようものなら、頭ごなしに反対するに違いない。

 しかも、リヴァイアサンは不都合な話題の場合、途中で話を中断させる。

 下手をすれば、それ以降まともに取り合ってくれないだろう。

 —— —— ——

 

 廊下を数度往復してから、リディアは再び扉の前に立った。

 父親代わりの存在の性格をよく知るせいで、またまた六度目の撤退を考えてしまう。

 

(でも……)

 今は地上地底の時間速度は緩やかになっている

 昨日エッジと会って、そうわかった時は安心したが、今も同じとは限らない。

 

 こうしているうちに、地上地底は突然10年ぐらい進んでいるかもしれない。

 リディアはついに覚悟を決めて、こんこんと扉を軽く拳で叩いた。

 

「どなた?」

「リディアです。いまお時間よろしいでしょうか?」

「ええ、どうぞ」

 

 部屋の中に入るやいなや、リディアは少し首をかしげた。

 

「……どうかされました?」

「あの、アスラさまがおひとりなのが珍しいと思いまして」

「夫婦はいつも一緒にいなければならない訳ではありませんよ」

「そうですか」

 

 リヴァイアサンとアスラは、ほぼ四六時中べったりだと思っていた。

 アスラの答えから、どうやらそれはリディアの勝手な思い込みだったとわかった。

 

 例え反対の立場でも、アスラは話を最後まで聞いてくれる。

 そんな幻獣界の女王様『だけ』に、まず相談出来るとは思っていなかった。

 今日は運がいいかもしれない。

 

「何か用でもありました?」

「実は、折り入ってお話があって……」

「ええ。どうぞお話しになって」

「あたし、幻獣界で一生を終えようと決めていました。でも、やっぱり地上に……」

「生活の場を……ミストで暮らしたいと言うことですね」

「はい」

 

(アスラさま、今のミストのことなんて知らないはずなのに……)

 そんな疑問が頭をよぎったが、すぐ霧散した。

 地上に戻りたい。娘からそう聞かされたアスラの反応の方が気になったからだ。

 

「やはり生まれ故郷には敵わないようですね」

「……申し訳ありません」

「気になさらないで。幻獣王は全く自覚がないようですが、あなたがここに住むきっかけはさぞや強引なものでした。こうなることもある程度予測していましたから」

 

 アスラがふうと息をついてから、少し憂いのある表情を見せた。

 

 娘がこの世界を去ってしまう寂しさからか。

 幻獣王の過度な行動にほとほと呆れているからか。もしくは、そのどちらかか。

 さすがに、アスラの感情を推し量ることは出来ない。

 

「ミストは今、再生の道を歩んでいます。どんなことでもいい……お手伝いがしたいんです」

「幻獣王は、あなたに永遠の命を授けてここの住民にするつもりでいます。近いうちに、あなたに話を持ちかけるつもりでおりました」

「少し前に知りました。でも、幻獣王様には申し訳ありませんが、お断りするつもりです」

「……理由を」

「人は、限りある時間を生きるように造られたものです。永遠の命をもらっても耐えられずに、どこかで破綻してしまうと思います。あたしは人として生を受けたので、ミストのことがなくても、人として生を全うしたいです」

「……」

「今のあたしがあるのは幻獣界のおかげです。生活の場を与えてくれただけではなく、黒魔法や召喚術の修行にも付き合っていただきました。ですから、この恩はいつかどこかでお返ししたいと思っています」

 

 アスラに本音を包み隠さず話し終えると、リディアは思いきり頭を下げた。

 昨日エッジと予行演習をしておいてよかった。

 あれがなければ、ここまですらすら話せていたかどうかわからない。

 

 —— —— ——

 リヴァイアサンに幻獣界へ連れてこられてから、数日の間。

 地上に帰りたい。セシルと会いたい。

 そう訴えながら、リディアはわあわあ泣き続けていた。

 

『今出来ることをおやりなさい。いつか帰れる日がきます』

 

 アスラがそう言って、リディアが泣き止むまで寄り添ってくれた。

 —— —— ——

 

 アスラのその言葉を支えにしながら、リディアは幻獣界でひたすら修行に励んだ。

 セシルの助けとなるために……。

 

「リディア、頭を上げて下さい」

「はい……」

 

 顔を上げると、アスラが薄い笑みを浮かべていた。

 そしてリディアの両肩に両手をそっと置きながらこう言った。

 

「住民の件も含めて、まずわたくしが幻獣王に話をしましょう。仮にも世界を統べる者とは言え、あの方は少し我が強いようですから」

「本当ですか……!」

「ええ。あなたの希望に応えられると思います。心配する必要はありません」

「あ、ありがとうございます!」

「あなたはもう、子どもではありません。思うように生きていいのです。『子どもが幸せであることを喜ばない親はいない』……と言いますしね」

「え、ええ……おっしゃるとおりです」

「ひとつ、あなたにたずねたいことがあります」

「何でしょうか?」

「あなたがミストに帰ってからも……わたくし、母親代わりでいてもよろしいかしら?」

 

 アスラが少し不安げな表情でこちらを窺っているが、答えはひとつしかない。

 どこにいても母親代わりの存在。

 リディアはにっこりと笑みを浮かべ、アスラにこう答えたのであった。

 

「——ええ、もちろんです!」

 

. 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。