※この作品はR-18です。

フェイクラバーズ   作:かえで

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長文注意


がんばらなくちゃね

 

 

——7の月15日 昼すぎ

 

 

「時間が来たので、今日の授業はこれでおしまいにしまーす」

 

 リディアが挨拶を終えた直後。

 生徒が次々と席を立ち上がり、多目的室を後にする。

 

 手を振ってくれる生徒に手を振り返しながら、後ろにちらりと目をやった。

 ベスとユノが、出口に向かう黒髪の男の子——ノアに声をかけようとしている。

 

「ノア、いっしょにかえろ?」

「うん、いいよ。——先生、ありがとうございました」

「……先生、また明日」

「ばいばい、せんせい」

「ばいばい。気を付けて帰ってね」

 

 男の子とふたりの姉妹が挨拶してから、多目的室を出ていく。

 そんな3人の帰宅風景を、リディアは教壇から微笑ましく見送った。

 

 —— —— ——

 ノアは9歳の男の子。

 3日前にアガルトからミストへ移住してきたばかりである。

 

 ノアの父親は、ミスト生まれ。

 火災の直前に、ミゼルの手引きでアガルトへ逃げた、いわゆる脱走者だった。

 

『僕は病に冒されている。じきにあの世へ行くだろう。母親はとうにこの世を去っている。このままでは息子がひとりになってしまう。もし、その時が来たら、息子が進路を決めるまで面倒を見てもらえないだろうか?』

 

 先月ノアの父親が、そんな手紙をミゼルに送ってきた。

 程なくして、手紙に書かれていた通り、知人は亡くなってしまった。

 そのためミゼルがしばらくの間、ノアを引き取ることになった。

 リディアはそう聞いている。

 —— —— ——

 

「はい」

「あぁ、ありがとう」

「早く終わらせましょう」

 

 ユライシャから差し出されたほうきを受け取った。

 これから講師ふたりで、多目的室のお掃除だ。

 

 リディアは廊下側、ユライシャが窓側。

 二手に別れて、前から後ろへちりを集め始める。

 

「あの子たち。すっかり仲良しさんね」

 

 ユライシャが素の言葉遣いに変わった。

 生徒が誰もいなくなると、彼女はエライアに戻り、敬語を使わなくなる。

 

「おっとりさんだから、ベスたちと波長が合うみたい」

「そうね、オリバたちとは全然タイプが違うもの」

「ライザも、お友達が出来たってすごく喜んでるよ」

「はじめてでしょう? 喜びもひとしおよね」

 

 エライアも同じことを考えていたらしい。

 ノアは、一昨日から公民館に通い始めた。

 そして、真っ先に仲良くなったのは、なんとベスとユノだった。

 

 —— —— ——

 母親のライザは、普段からひそかにこう憂いていた。

 

『あの子たち、なかなか友だちが出来なくて……』

 

 ベスたちは姉妹揃って、人見知りが激しい。いつもふたりで行動している。

 懐く大人も家族とリディア、ミゼル夫婦とエライアぐらいしかいない。

 —— —— ——

 

 ところが、ノアは男の子でも、オリバたちと違うタイプだったからだろう。

 ベスたちがノアに声をかけて、毎日3人で一緒に帰るようになった。

 

「今頃おばちゃん、ノアのおやつ作って待ってるんだろうなぁ」

「あら、そうなの? 帰る前に寄ってみようかしら」

「おやつもらえるかもよ?」

「そうだったら、あなた残念ね。今日は無理だから」

「っ、ずるーい……」

 

 笑みを浮かべるエライアに向かって、口を尖らせた。

 

 この後、用事があるので、今日はエライアと一緒に帰れない。

 下手をすれば、帰りが夕方になるかもしれない。

 ジャンヌのおやつは食べられそうにない……。

 

(おじちゃん、おばちゃんのことを思ってノアを引き取ったのかな)

 ノアを引き取ったミゼル以上に、大喜びしているのはジャンヌであった。

 趣味の世界各地へのお出かけは、服屋さんから市場や食べもの屋さん巡りへ。

 出かけても、昼過ぎには必ずミストに帰ってくるようになった。

 

 ***

 

——7月8日

 

 七夕の翌日。リディアはミゼルから晩ごはんに誘われた。

 珍しいことに、夕方お邪魔するとごはんがすぐ食べられる状態だった。

 おまけに、ジャンヌが全然元気がない。

 

「気にしなくていいよ。ごはん作れる元気はあったから」

 

 ミゼルからそう言われて食を囲んでいると、突然ミゼルがこう切り出した。

 

「きみに……ずっと黙ってたことがあるんだ」

「何を?」

「ジャンヌさんは、子どもが作れないんだ」

「……やっぱり、そうだったんだ」

 

 ミゼルたちから事情を打ち明けられたが、さして驚かなかった。

 

 ミゼルとジャンヌには、子どもがいない。

 リディアをはじめミストの住民は、そんなふたりの事情にうすうす気付いていた。

 しかし、ふたりが何も言わないので、話題に触れないようにしていた。

 

「さすがに察しちゃうか……」

「どうして、突然打ち明けようと思ったの?」

「アドニスやキロンさんたちがミスト中に言いふらす前に、きみに知っておいてほしかったからだよ」

 

(ミストは狭いから、そういう話がすぐ広まっちゃうよね)

 ジャンヌに子どもが出来ないことは、昔から有名だった。

 それを理由に、ジャンヌを責める住民も当時少なからずいた。

 もちろん、アドニスも知っているという。

 

 それ以上に驚いたのが、昨夜の出来事だ。

 リディアがスリプルで眠らされていた間。

 アドニスがジャンヌにポイズンをかけて、無抵抗状態にしてから暴力を振るった。

 しかも、彼は子どもが作れないことについて、ジャンヌをけなしたというではないか。

 

「ひどい! 自分が全部悪いくせに、おばちゃんに八つ当たりするなんて……!!」

「ツクヨミさんが助けにきてくれなかったら、きみもジャンヌさんももっとぼろぼろだったかもしれないね……」

 

(だから、ツクヨミさんにあたしをお願いしたんだ)

 ジャンヌは身体に受けた暴力よりも、心にダメージを負ってしまった。

 ツクヨミにリディアを託してから、泣きながら自宅に帰ってきた。

 それからも日付が変わるまで、ずっと泣き続けていたという。

 

「ほら、ジャンヌさん。全部ぶっちゃけちゃいな」

「……」

「リディアさんは寛容だ。怒るような子じゃないよ」

 

 ミゼルにつっつかれて、ジャンヌがぽつぽつと話した。

 

 親友の娘だから。

 それに加えて、子どもが作れない身体だったことも余計して。

 リディアのことを、我が娘のように思っていたという。

 

「わたしに知られたくなかったからずっと隠してたんだね」

「ああ……」

 

(子どもが出来ない代わりに、あたしを可愛がっていたなんて……自分から言えないよね)

 どんな事情であれ、不妊であることにコンプレックスを持つ者は多い。女性なら尚更だ。

 ジャンヌが隠したくもなる気持ちはわかる。

 

 リディアはそれより、憔悴しきっている彼女を見るのがつらい。

 いつものジャンヌに戻って欲しくてたまらない。

 

「あたしは……最低なんだよ……おまえには、アスラ様やエスタがいるのをわかってたくせに……」

「おばちゃん、もういいよ」

「迷惑なら言ってくれ……晩飯食うのも辞め」

「——どうして、そんな理由でごはん一緒に食べちゃだめなの!?」

「リディア……」

「おばちゃんとは、血は繋がってないし……一緒に暮らしていないけど、あたしのお姉さんっ!! ずっと前から、そう言ってきたじゃない……っ!」

 

 確かに母親はエスタで、母親代わりはアスラだが、誰が迷惑なものか。

 ミストに暮らすことが出来るのは、ミゼルとジャンヌがいるから。

 

「あたしは、もう子どもじゃない! おばちゃんたちに守られるより、妹として支えてあげたいの! これからも、っ……そうするんだからぁ……!!」

 

 それからしばらくの間。

 リディアはジャンヌと身を寄せ合い、一緒にわあわあ泣いた。

 ……ミゼルそっちのけで。

 

 泣きが治まってから、何もなかったかのように食事は再開された。

 ジャンヌが元気になって安心していた矢先。新たな事実を聞かされた。

 しかし、しょせん過去の出来事だ。

 そのことについて、ジャンヌやミゼルを責める気持ちはこれっぽっちも起こらなかった。

 —— —— ——

 

 それから数日経って、ノアがミゼルたちと一緒に暮らし始めた。

 息子のような存在が出来たからだろう。

 それ以来ジャンヌは、おやつや夕食作りに精を出すようになった。

 

 ちりを集めていると、ふと視界にエライアの姿が入った。

 ところが、ほうきの手を止めて大きなため息をついている。

 

「どうしたの? ため息つくなんて珍しいね」

「ああ、ごめんなさいね。ここと発着場の往復が憂鬱で……」

「ごめんね……今日は」

「——そうじゃないのよ。昔のミストに戻ったみたいで、空気が悪いなあって」

「……昔、こんな感じだったの?」

「ええ、これが毎日延々と続いてたわ。昔と違って子どもたちは平和だけどね」

 

(こんなのが毎日? やだよ……)

 平和なのは、子どもが集まる公民館の中だけ。

 エライアはそう言いたげだが、当たっている。

 

 今のミストは、空気がよくない。

 魔法の詠唱呪文を外に漏らした人物は誰なのか。

 犯人を疑るだけでなく、特定の人物への悪口が飛び交っているせいで。

 

 ***

 

——7の月10日

 

 この日の夜。いつものように月前半の寄合が行われた。

 

「早速ですが、みなさんに大変な残念なお知らせがあります……」

 

 始まった早々、暗い話題から入るようだ。

 しかも、これまた珍しいことに司会者——ミゼルの表情が暗い。

 何があったのだろう。リディアがそう思っていた矢先。

 

「『薪要らずの魔法』が、ミストの外に漏れてしまいました」

 

 突然の悪い知らせに会議室がざわめき、驚きや非難の声が上がった。

 

 —— —— ——

 7の月に入ると同時に、世界初家庭用浴槽が一斉に販売されるようになった。

 売れ行きは上々。

 バロン在住の黒魔法講師ユライシャ(エライア)も発売日当日に申し込み。既に自宅工事が始まっている。

 

 昨日の朝、ユライシャが工事業者から手渡された説明書を何気に読んでいたら。

 『薪要らずの魔法』の詠唱呪文が載っていることに気付いた。

 午後から説明書を片手にミストにやってきて、すぐにミゼルへ報告した。

 それで詠唱呪文の漏洩が発覚したという。

 —— —— ——

 

(ばっちり載ってる……!!)

 寄合の場にいた全員が、問題の説明書を回し読みしたので間違いない。

 

 そして、ミゼルがここまでの経緯を話し終えた途端。

 会議室の中央から、「一体何をやっておる!!」男性の怒号が走った。

 

「おまえが呪文の管理を怠ったせいだぞ! ミストやリディアに迷惑掛けてどうする!」

「秘密にする必要があったのか!?」

「そもそも、Zの言いなりで風呂を導入したのが間違っていたんだ!!」

「責任を取れ!」

 

 キロンたち西区画在住の保守系先住民が、それ見たことかとミゼルを責め立てた。

 

「わたし、おじちゃんに何も迷惑掛けられてないっ! 勝手に決めないでよ!」

「悪いのは、外に広めた犯人じゃない! どうして真っ先にミゼルを責めるのよ!?」

「ミゼルさんの責任を問うなら、まず犯人を捕まえてからだろ! 順番がおかしいぞ!」

「あんたたちも賛成してたくせに、急に手のひら返すなんて調子よすぎるだろ」

 

 リディアやミネルバなど、若者——改革派先住民や移民は反発。

 保守系先住民との言い争いが始まった。

 場が荒れに荒れて、収拾がつけられない状況にまで陥った頃。

 

「みなさん、落ち着いて下さいっ!」

 

 珍しくミゼルが声を荒らげて、みなに静粛を求めた。

 

「もう十分言いたいことを言ったでしょう? 残念ながら、意見が真っ向から対立しているので話がまとまらない」

 

 確かにミゼルの言う通りだった。

 責任を取って今すぐ辞めろ。そんなことより犯人を。

 言い争いの最中、その応酬がずっと続いていた。

 

「ですから。村長のぼくは、みなさんの中間をとって暫定措置をとります。——9の月まで自首期間と定めます」

 

 期間中に犯人が自首してきた場合。

 国王さま同席による自己処罰の罰則は免除されるという。

 

(犯人が自ら名乗り出てくるとは思えないんだけど……)

 リディアが納得出来ないでいると、更にミゼルはこうも続けた。

 

「その間に誰も名乗り出なければ、ぼくは騒ぎの責任を取って村長を一旦辞めます。それから村長決めをやり直しましょう。——それで構いませんね?」

 

 最後にミゼルがキロンたちへ質問を振った。

 彼らはうんうんと満足そうにうなずき、納得する姿勢を見せた。

 

 彼らが大人しくなれば、大抵のことはスムーズに運ぶ。

 その場はひとまず収まったが、寄合が終わるまで会議室にはぴりぴりムードが漂っていた。

 

 ***

 

 その翌日から、西区画の住民が、他の区画に出張して移民と交流するようになった。

 今まで彼らは、西に閉じこもっていた。一見いい傾向に見えるが、実はその逆。

 彼らは世間話の締めくくりに、ミゼルの不甲斐なさを口にして去っていく。

 

 西区画で暮らす、ほぼ全ての住民は保守系。いわゆる頭の固くて古い人たちばかり。

 どうせ、魔法を漏洩した犯人は見つからない。

 彼らはそう思い込んで、次の村長決めのためにミゼルの評判を落としにきたようだ。

 おかげで、のどかだったミストの空気が、ぎすぎすするようになった。

 

「……あのこと、ミゼルに言わなければよかったかしら」

「そんなこと言っちゃだめだよ。何も悪いことしてないじゃない」

 

 ミストの空気が悪くなったのは、自分が密告したせいかもしれない。

 そうほのめかしたエライアを、リディアはたしなめた。

 

(おじちゃんに教えたのがエライアでよかったよ……)

 そうでなければ、エライアも誰かさんのように。

 『よそ者』という理由で、悪口を言われていたかもしれない。

 

「もし、おじちゃんが村長決めに負けたら講師辞めちゃうの?」

「辞める前に、即クビにされちゃうわ」

「うそぉ!?」

「今の私は、よそ者よ? 正体バラしても裏切者だしね」

「そんなぁ……」

「心配しなくても、ミゼルは勝つわよ。その前に犯人が現れるかもしれないじゃない」

 

(おじちゃんのばか……! どうして、あんなこと言っちゃったの!?)

 エライアの言う通り、ミゼルが村長決めで負けるとは思えない。

 けれど、絶対は絶対にない。だから不安で仕方がない。

 ミゼルが村長決めに負けた後の展開が、脳内に次々と浮かんでくる。

 

 —— —— ——

 キロンが村長になったら、ミゼルは一気に立場が悪くなる。

 下手をしたらミストを追い出されるかもしれない。

 

 よそ者だから。そんな理由でエライアを黒魔法講座の講師をクビにするだろう。

 移民にも冷たくするだろう。

 そうなると、アリサやライザたちも呆れて故郷に帰ってしまうかもしれない。

 

 リディアも、アドニスと無理やり婚姻を結ばされるかもしれない。

 —— —— ——

 

「おじちゃんも言い返せばいいんだよ。へらへらしてばっかり」

 

 ミゼルが村長でなくなれば、リディアにとって最悪な流れに変わってしまう。

 なぜ、あの男は寄合で『絶対に村長辞めません!』と言ってくれなかったのか……!

 

「昔からあんな感じよ。怒ったところ見たことないわ」

「……ずっと頭にお花がくっついた状態!?」

「そうよ? さすがにジャンヌやエスタ……ニクス相手にはそうじゃなかったと思うけど」

「他の人の前では、素を見せないようにしてるんだね」

「たぶんね」

 

(今は、おばちゃんだけかあ……)

 腹が立ったり、悲しい出来事が起こったりしても。

 ふわふわゆるゆる、略してふわゆる。

 脱走前から、ミゼルと親しかったエライアがそう言うのだから間違いない。

 

「そういえば、お昼にね。アドニスと鉢合わせして、話しかけられちゃった」

「ま、まさか、気付かれたの!?」

「大丈夫。主人も子どももいるって自己紹介したら、さっさと逃げちゃったから」

「あぁ、よかったぁ……」

「最近あいつ、大人しいみたいだけど。別の女と結婚するか、ミストから出てくまで油断しちゃだめよ?」

「うん……!」

 

(あたしも既婚者でごまかせたらなあ。相手がいないから無理だけど)

 なぜ、アドニスに固執されるのかはわかっている。

 独身の若い女性、なおかつ純血の召喚士だからだ。

 けれど、アドニス除けのために相手を見つける気にはなれない。

 

§

 

 お掃除も終盤に入った。

 ところが、突然エライアが手を止めて窓から外を見ながらこう言った。

 

「今日もエッジ様、来なかったわね」

「うーん、忙しいんじゃないかな」

「残念ね。私、あなたたちのやりとり楽しみにしてるんだけど……」

「また、そのうちひょっこり顔出すんじゃないかな……」

 

(嘘ついちゃった)

 エッジはいずれリディアに会いにミストへやってくる。

 エライアはそう思っているようだ。

 一方、当のリディアは、その逆。エッジはもう来ないと思っていた。

 

 感情はさておいて、リディアは7の月からエッジがいない日常を送っている。

 それを知るのは、リディアのミストでの親友ふたりだけであった。

 

「あなたも気分悪いでしょ?」

「えっ?」

「エッジ様、疑ってる人が多いじゃない?」

「……うん」

「デマばっかり言いふらしちゃって。本人が来ないから調子に乗ってるのよね」

 

 子どもたちの耳にまで届くぐらいだ。

 保守系先住民は、エッジに疑惑の矛先を向けている。

 

 —— —— ——

 秘密遵守の誓約書にサインしていない。

 国王の特権を使って、自ら無罪にすることが出来る。

 浴槽が世界発売されることによって、嫌でも魔法が漏れたことがバレる。

 それがわかっていたから、ミストに来なくなった。

 リディアは、あの国王に裏切られた……。

 —— —— ——

 

 保守系先住民は、エッジの悪評。それも事実無根の話をミスト中に広めている。

 

 3日前も、オリバたち悪ガキトリオが、『学習』の時間中。

 エッジを犯人と決めつけて騒ぎ立てていた。

 

『エッジがやる訳ない!! エブラーナじゃバラしたって意味ないもんっ!』

 

 リディアは我慢出来ず、彼らにそう言い返した。

 それ以来、悪ガキたちは大人しくなったが、疑いの目を向ける大人はまだ多い。

 

「わたしはエッジのこと信じてるよ」

「私もよ」

 

 もっとも、リディアやリディアに近しい者は、風評に振り回されていないけれど。

 

「ありがとう。他にもそう言ってくれる人いるから大丈夫だよ」

「そうよ? 他人の言葉に振り」

「——おっそいわねー」

 

 甲高い女性の声が、エライアを遮った。

 振り返れば、アリサが教壇側の入口で腕組みして立っている。

 言動も挙動も高飛車だから、ポーズがとても似合っている。

 

「全然遅くないもんっ」

 

 アリサにきつく言い返してから、ちりをかき集める。

 今日は口もだが、手もしっかり動かしている。だから、お掃除は滞っていない。

 

「待たせてごめんなさい。もうすぐ終わりますから……」

「あぁ、ユライシャ先生はいーのよ。あたしはそこでちんたらしてる子に言ったんだからー」

「なによ! 文句言うなら手伝ってよっ!」

「あら? もう終わるんじゃなかったのぉー?」

「ぐっ……」

 

 口ではアリサに勝てない。

 リディアは苦々しい表情で、後ろの棚からちりとりを出した。

 がしゃんと音を立てながら、それを床に置いてから。

 かき集めたちりを、荒っぽくちりとりの中に入れていく。

 

「だめじゃない。またリディア困らせて……」

 

 ライザが多目的室にひょいと顔を出して、アリサにお灸を据えている。

 アリサとリディアのやりとりを、廊下から見ていたようだ。

 

「だってー、こんないじりがいがある子。滅多にいないしー」

「本当に嫌われても知らないわよ?」

「大丈夫よ。さじ加減には気をつけてるからー」

 

 注意されてもアリサは何のその。ライザに言い返してから、ぺろりと舌を出した。

 

 —— —— ——

 アリサはしょっちゅう、リディアへ言葉によるちょっかいをかけてくる。

 いじめっ子が、好きな女の子にいやがらせするのとそっくり。

 特に7の月に入ってからは、その回数が異常に増えた。

 —— —— ——

 

 なぜ、今月から増えたのか。リディアは理由に気付いていた。

 しかし、かけられた直後は、どうしても腹立たしくなってしまうというもので。

 

「リディア」

「なぁに?」

「アリサの言うこと……気にしちゃだめよ?」

「うんうん。平気だよ」

 

 ライザが困ったように笑いながら励ましてくれて、素直に返事をした。

 何を言ってもアリサは反省しない。

 そのため、ライザはいつもリディアのフォロー役になっている。

 

「っ、ふふっ……!」

「どうしたの?」

 

 エライアが突然笑い出した。

 今日は、ため息をついたり笑ったり。いつもより表情が豊かだ。

 

「あなたたちって本当におもしろいわね。まるで親子みたい……っ!」

 

 リディアとアリサとライザ。この3人をミストで知らない者はいない。

 仲がいいのもあるが、何より(アリサが)うるさいから。

 

「あら、先生知らなかったー? あたしが優秀な姉でリディアは出来の悪い妹」

「——出来が悪いって何よっ!!」

「それでー、ライザはあたしたちの母親ー」

「あははは、っ……自分で優秀って……!」

「もう、笑いすぎだよ……」

 

 自分たち3人は、親子。

 自慢気に騙るアリサに、エライアがお腹を抱えて笑い出した。

 

(あたしはいつも子ども役……)

 ミストの中では、姉妹のようなリディアとアリサに対して、ライザが母親役。

 ミストの外では、町で遊び慣れているアリサが、残りふたりを引っ張る。

 ……悲しいことに、元来の性格や人生経験の少なさからか。

 リディアが母親役に回る機会は、まだ訪れていない。

 

§

 

 リディアは掃除を終えてから、アリサとライザと一緒に事務室に向かった。

 事務室は村長のお部屋でもあり、ミゼルの居城だ。

 

『残りは私がやっておくから、ミゼルのところにいってらっしゃい』

 

 エライアからのそんな申し出に甘えた格好である。

 

(おやつのおこぼれ欲しかったけど、今日は仕方がないや)

 ジャンヌの自宅に寄り道出来なかったことは、ちょっぴり残念。

 しかし、一昨日決めた約束を反故するわけにはいかない。

 おやつより友情を優先するぐらいには、まだ堕ちていない。

 

「ミゼルさーん! いるー?」

「おじちゃーん」

 

 アリサが大きな声で、事務室の扉を叩くも返事がない。

 続けて、リディアが呼びかけるも反応はない。

 

「……いないのかしら」

「どーせ、居留守使ってんのよー」

 

がらっ

 

 首をかしげるライザをよそに、アリサが強引に扉を開けた。

 

「うわぁ……!」

「ほら、いたじゃなーい」

 

 部屋の奥で、ミゼルが頭を書類で隠してがたがた震えている。

 

「もう! いるなら返事してよっ!」

「いい歳したおじさんが、何びびってんのー?」

「い、いやぁ……アリサくんの声が聞こえたからさぁ……」

 

 ミゼルがへらへら笑いながら、書類から手を放したのを見て。

 リディアは呆れたように、アリサとお互いの顔を見合わせる。

 

(わざとらしいなあ)

 この男は、単にリディアたちをおちょくりたかっただけなのだ。

 村の長としての威厳も何もあったものではない。

 

「あたしたちは誰かさんたちみたいに、苦情言いにきた訳じゃないのー」

「それなら安心だ」

 

 小さな椅子が3脚、部屋の端に置かれている。

 ミゼルが机の前に横並びにそれを置いてから、着席を勧めてくれた。

 

 リディアとアリサが互いに目配せしてから、左と右の椅子に座ると。

 残った真ん中に、ライザを無理やり座らせた。

 

「それで、3人揃って何しにきたの?」

「ライザが、おじちゃんに大事な話があるの」

「リディアとあたしは付き添いでーす」

「……また珍しいじゃないか。何があったの?」

「すっ、すみません……お忙しいのに」

「いい、いい。ゆっくりでいいから話してよ」

 

 ライザの声はとても小さく、言葉も途切れ途切れだ。

 

 彼女も娘たちと同じく、人見知りが激しい。

 まともに話せる相手は、家族とリディアとアリサ、ミゼル夫妻ぐらいしかいない。

 

(きちんとお話出来るかなあ……?)

 そのミゼルを前にして、この調子なのだから。

 ライザは今、ものすごく緊張していると思われる。

 

「実は、ミストに……白魔法を導入していただけないかと思いまして」

「巡回指導を申し込んで欲しいってこと?」

「はい……」

 

 ***

 

——7の月9日

 

 この日のお昼休み。

 リディアとアリサ、ライザは公民館の控室に集まった。

 

 お昼ごはんを食べながらおしゃべりする、『昼集合』の時間の始まりである。

 まず口火を切ったのは、もちろんこの人だ。

 

「ミゼルさんが今朝、巡回艇に乗ってどっかに行っちゃったのを見た人がいて、みんな大騒ぎしてたわよー?」

「うそ!?」

「あんた知らなかったのー?」

「し、知らない。昨日晩ごはん一緒に食べたけど、何も言ってなかったよ?」

「ジャンヌさんも、『今日中には帰ってくるんじゃないか?』って言い残して発着場に行ってしまったんですってー」

「夫婦別々でお出かけ……?」

 

(とうとう『ミストのかたつむり』辞めちゃったんだ)

 夫婦喧嘩か。まさか、昼間から夫婦で時間差ミスト脱走か。

 後にも先にもなさそうな、ミゼルのミスト脱出の理由をしばらく話し合った。

 

 —— —— ——

 後日わかったことだが、この日ミゼルはアガルトへ。

 そこで、ノアを引き取るための話し合いや手続きをしてきたと聞いている。

 —— —— ——

 

 次に話を切り出したのは、リディアであった。

 

「一昨日ね。ユライシャのところに遊びに行った帰りに、アドニスがスリプルを……」

 

 七夕の夜。アドニスの魔法で眠らされ、ツクヨミに介抱してもらったこと。

 ジャンヌから昨夜、やはり子どもが出来ない身体だと告白されたことなど。

 ふたりに一昨日からの出来事を報告した。

 

「あぁー、やっぱりそうだったのねー」

「……好きで子どもが出来ない身体になった訳じゃないのに、ひどいことするのね」

「あんた、ラッキーだったわねー。ツクヨミさんがいなかったら、何されてたかわかんないわよー?」

「うん……」

 

 ここ数日、リディアの身に起こった出来事を中心に。

 あれやこれや言いたい放題が続き、話題が尽きかけた頃。

 ライザがこんなことを言い出した。

 

「わたし……黒魔法講座を辞めるわ」

「ええ!? 急にどうしてぇ!?」

「お義母さんに嫌味言われたのー?」

「いいえ。お義母さん、昨日お義父さんのところに帰って、ここにはもう戻ってこないと思うの」

 

 ライザの姑は、息子がだいすき。

 夫をトロイアに置き去りにして、息子一家と一緒にミストに移住してきたぐらいだ。

 

 —— —— ——

 息子を溺愛するあまりの嫉妬か。

 はたまた、愛する息子にふさわしい嫁であれと願ってのことか。

 ライザの姑は、嫁に毎日きつく当たり、ちくちく嫌味を言う日々を送っていた。

 

 昨夜、姑と息子が大喧嘩した。しかし、姑には味方がいなかった。

 長年嫁いびりを続ける母親に、息子が愛想を尽かすようになっていたし。

 孫たちも大きくなり、お母さんをいじめるおばあちゃんに懐かなくなったから。

 

『もういいわよ! トロイアで余生を過ごすからっ!!』

 

 姑は孤立無縁に陥り、逆ギレ。捨て台詞を残してミストから出ていったという。

 —— —— ——

 

「へー、それは朗報ねー!……ちょっとリディア?」

「……」

「ミスト出てく訳じゃなしー、悲しい顔しなくてもいいんじゃないのー?」

「心配しなくても、『昼集合』は続けるわよ?」

「でも、ライザ……講座に来なくなるんでしょ……?」

 

 ライザが生徒でなくなってしまう寂しさに胸が襲われる。

 リディアの表情は曇ってしまい、ぼそぼそ声でたずねた。

 

(せっかくブリザド覚えたばかりなのに……)

 ライザは、リディアの数少ないおとなの教え子だった。

 『薪要らずの魔法』に必須なファイアを習得してからも。

 不定期ながら講座に通ってくれていたのに。

 これでは、ファイアを覚えてすぐに講座を辞めた他の大人と同じ……。

 

「へー? 講座通ってない、あたしはどうでもいいってことー?」

「……アリサもすきだもん」

「ひひぃー。よーく知ってますよぉー?」

「もう、ばかっ!」

 

(何度も言わせないでよ!)

 にやつくアリサの肩を強く叩いた。

 アリサもライザも大好き。見事、誘導質問に引っかかってしまったことが悔しくて。

 

「あなたには、やる気のあるおとなと子どもがたくさんいるじゃない」

「そうだけど……」

「黒魔法は諦めるけど、その代わりに——」

 

 ライザが打ち明けてくれた決意は、リディアとアリサを大いに感動させた。

 

「賛成!! そこまで考えてたなんて、ライザすごいよ!!」

「それ。明日の寄合で手を挙げて、みんなの前でぶっちゃけてみなさいよー」

 

 アリサのそんな無謀な助言にも、ライザは小さく首を縦に振ったのであった。

 

 ***

 

「この間、寄合の最後にお願いしようと思ったら……」

「はははっ! きみはさすがに無理だよな」

「はい……それで、次の寄合まで待とうと思ったんですけど……」

「我慢出来なくなったんだね」

「はい……」

 

 あの日の寄合は、過去にないほどの荒れっぷりであった。

 今ここで緊張しているライザが、あの場で挙手して発言出来る訳がない。

 

「ライザくんは白魔法を覚えたいの?」

「はい」

「それ以外に巡回指導に申し込んで欲しい理由ある? あったら教えてちょうだいよ」

「白魔法はゼロの方でも修行を積めば初歩の初歩程度なら使えると聞きました」

 

 ミストは黒魔法と召喚術だけでいいと決めつけず。

 全ての住民が、魔法を習得出来るような環境があればいい。

 ライザはそう考えたという。

 

「ゼロの子や余裕がある大人が、白魔法を覚えても無駄にはならないと思ったんだね」

「はい。ラルフさんの本を読んで気付いたのですが……今、召喚術を習っている子どもたちが、先を極めようとするなら……白魔法を覚えている余裕はないと思います」

「現にリディアさん、白魔法捨てちゃったからね」

「白魔法は、必ず人の命を救えるとは限りませんが……お医者さまの手助けが出来ます。この先、有事が起こったらきっと役に立つと思います……すみません、わかりにくくて……!」

 

 ライザが、白魔法の重要性をミゼルに訴え終えるやいなや。

 これ以上無理とばかりに、顔を大きくうつむかせてしまった。

 

「いや、すごくわかりやすかった」

「あ、ありがとうございます……」

「ラルフくんの本も読んで勉強してさ。ミストのこと真剣に考えてくれたんだね」

 

 ミゼルがライザを褒めると、机の上で両手を組んで目を閉じた。

 祈るようにも見えるポーズを取って、何を考えているのか。

 リディアたちには、さっぱりわからない。

 

「あの……やはりだめ、でしょうか」

「……」

「おじちゃんっ」

「返事ぐらいしてあげてよー」

 

 長い沈黙が続き、ライザが顔を伏せてしまった。

 まさか、だめと言われるのだろうか?

 リディアとアリサが焦って、返事を急かした時だった。

 

「あれから約20年……やっとかぁ……!」

 

 ようやくミゼルが、何かつぶやきながら勢いよく立ち上がった。

 

「ありがとう! ライザくん!」

「い、いえ……こちらこそ……?」

 

 ミゼルが身体を乗り出してまで、両手でライザと握手した。

 ライザが戸惑っているような表情を見せているのに。

 嬉しそうに、繋いだ手を何度も振り続けてから再び席に着いた。

 

「いやぁー、嬉しいなぁ! ぼく以外の人が、そう言ってくれる日をずっと待ってたんだ!」

「ミゼルさんも同じこと考えてたのー!?」

「うん。18の頃から」

「そ、そんな前から!?」

「ライザくんとほぼ同じ理由で、ニクス……あ、リディアさんのお父さんと上の人に直訴したことがあるんだよ」

 

 —— —— ——

 医師は、病気や怪我の具合を診断する。

 患者にメスを入れたり、薬を処方したりすることが出来る。

 完全ではないが、死線を彷徨う患者を救命出来る手段を持つ稀少な職業である。

 

 ところが、ミストには医師がひとりしかいない。

 有事が起これば、けが人が押し寄せてパンクしてしまう可能性が高い。

 白魔法はその問題を解決するであろう。

 

 白魔法は深い傷跡を消せない。折れた骨をすぐ元に戻せない。病気も治せない。

 しかし、創傷や疾病等で失われた体力を回復出来る。

 死線を彷徨う患者の体力を回復させて、命が助かる確率を少しでも上げられる。

 医師の診察や処置を受けるまでの時間つなぎに非常に有効。

 よって、ミストにも白魔法を取り入れた方がいいと考える。

 

 まずは講師を育てるために、若者数人をミシディアの修練所に派遣させる。

 中級程度まで習得出来れば、ミストに帰郷して白魔法を根付かせる。

 さすれば、ミストは全ての魔法をカバー出来て、盤石の体制になるだろう。

 —— —— ——

 

「……という案を、若い頃にニクスとぼくで考えたんだ」

「ライザが同じこと言い出したから、大喜びしちゃったのねー」

「どうして、お父さんとおじちゃんはそんなこと考えるようになったの?」

「ぼくたちが生まれてから、ミストは少しずつ召喚術や高度な黒魔法を使える人材が減って、逆にゼロの出生率が上がっていった」

「その頃から……?」

「いつか魔法が廃れちゃう環境が出来つつあったのねー」

 

 リディアは今年に入ってから、こんな新聞記事を読んだことがある。

 

 —— —— ——

 近年、世界各地で微増ながらもゼロの出生率が上がっている。

 このままでは遠い将来、魔法がなくなる時代がやってくる、と。

 —— —— ——

 

 ミストでは、そんな兆候がもっと前から表れていたことになる。

 

「まあ、当時のお偉いさんたちは、『黒魔法すらまともに覚えられんとは。今の若い者はなっとらん』って、下の世代をばかにしてたけどね」

「お偉いさんって、キロンさんたちのことだよね」

「そうだよ」

 

 白魔法を覚えて、いつも見下してくる権力者に意趣返ししよう。

 当時のミストの若者の大半は、そんな理由からニクスとミゼルの案に賛同した。

 

 おまけに、この案はゼロへの救済措置でもあった。

 かろうじて、白魔法だけは習得出来る可能性が残されている。

 そのため、ゼロの家族がいる一部の大人も賛同してくれたという。

 

 最終的に、住民の半数を超える賛同を集めて。

 ニクスが代表して、村長や当時の権力者たちに案を提示した。

 ミゼルがそう話してくれた。

 

「結果は、お察しねー」

「いろいろ言われたけど『青二才が何を言う』でとどめ刺されちゃったよ」

「難癖つける癖は、昔も今もいっしょだね」

「権力を持っていたから、なんでもありだよ」

 

(上の人たちだけでなんでも決めるって、やっぱりおかしいよ)

 どこからどう見ても白にしか見えず、多数が白と訴えても。

 権力者たちが黒と言えば、黒になってしまう。

 昔のミストは、数の力が意味を成さない村だったのは聞いて知っていた。

 こうして話を聞く度に、やはり好ましく思えない。

 

「それから脱走する人がもっと増えちゃった」

「どうして?」

「純血の召喚士だった、リディアさんのお父さんが言ってもだめ。数で対抗してもだめ。何してもミストは変わらないってわかったから」

「ああ……お先真っ暗だから……」

 

 純血の有無に限らず、召喚士は周囲から尊ばれる立場にあった。

 しかし、村の風習を変えるほどの強い権力までは持っていなかった。

 下手をしたら、親の意向で結婚相手まで決められてしまう。

 権力者に利用されやすい存在でもあったという。

 

「上の世代が、みんな死ぬのを待つぐらいなら、さっさと新天地で人生やり直した方がいいでしょー」

「そうなんだよ。あの時代に、白魔法を使える人がいたら、火事でもっと助かった人がいたかもしれないのにな……」

 

 ミゼルが天井を見上げて、寂しそうに話した。

 当時、白魔法を導入出来なかったことを悔いているように見えた。

 

(助かったの、おじちゃんだけだもんね……)

 実は9年前の火事で、ひどい火傷を負いながら逃げ延びた者が10数人いた。

 しかし、唯一の医師も既に亡くなっており、ほぼなすすべもなく。

 ミゼルを残して全員が息絶えたと聞いている。

 

「それじゃあ、ライザくんには、あともう少しがんばってもらおうか」

「えっ?」

「みんなから署名集めてきて」

「しょ、めい……?」

 

 笑みを浮かべたミゼルから、任務を言い渡された瞬間。

 ライザが呆然としたような表情で、その言葉をつぶやいた。

 

 今のミストは、寄合で発案した者が案を発表する。

 そして、出席者に賛否を問い、採決を取る方式を取っている。

 署名で何かを決めるなんて初めてだ。

 

「……ど、どれぐらい……必要でしょうか」

「住民の3分の2以上」

「うそぉ……!」

「何ですってー!?」

「集めてきたら、すぐ申し込んであげるよ。次の寄合で報告出来れば言うことないよね」

 

(こんなの、いじめじゃない!!)

 アリサやリディアならまだしも、ライザによく無茶な条件を出せたものだ。

 ミゼルに対して腹の虫がおさまらない。

 

「ひどい、おじちゃん! ライザがこういうの苦手なの知ってるくせに!」

「嫌がらせじゃなーい!」

「別に断ってもいいよ? それで諦める程度の決意だったってことだから」

「うっ……」

「何それー!? 喧嘩売って」

「——署名集めます」

「!?」

 

 もっと抵抗するかと思っていたのに。

 ミゼルに提示された条件を、ライザがあっさり受け入れた。

 

「ちょっと、うそでしょー!?」

「……ねえ、本当にいいの?」

「ええ。寄合には間に合わないかもしれないけど……集めるわ」

 

 リディアやアリサが再考を促すも、ライザが聞き入れる様子はない。

 彼女は一度決めたらてこでも動かない。ちょっぴり頑固な一面を持っている。

 

「あんたも甘っちょろいわねー。黒眼鏡おじさんの言いなりになってないで、ちょっとぐらい交渉しなさいよーっ!」

「で、でも……」

「ミゼルさん。せめて半数にならなーい?」

「絶対反対する人が4分の1。あとは熱意見せたらなんとかなるよ」

「くっ、精神論かー」

 

 アリサが文句を言うも、数を示されてあしらわれてしまった。

 ミストは人口150人足らず。世帯数も50に満たない。

 絶対反対——保守系先住民以外からは賛成をもらえる。

 ミゼルはそう踏んでいるようだ。

 

「それでも無茶だよ。次の寄合まであと1週間もないもん!」

「ライザくんひとりでやれなんて言わないよ」

「あ、そうなんだ……」

「休みもあるし余裕で集まると思うよ」

 

 時間がない。リディアがそう訴えたら、お手伝いのお許しが出た。

 

(よかった。ライザひとりで署名集めさせるかと思ってた……)

 これは朗報だ。リディアはライザの服をくいくい引っ張った。

 

「ライザ、わたしも」

「——手伝ってくれる?」

「うん! いくらでもこき使ってよ!」

 

(ライザのために、がんばらなくちゃ!)

 ライザにお願いされて、がぜんやる気が湧いてくる。

 これまで、彼女から何か頼まれたことがなかったから尚更だ。

 

「あたしもー!」

「アリサはだめ」

「あなたは無理よ」

「はぁ……おもしろくないわー」

 

 アリサも名乗りを上げたが、リディアとライザが却下するとがっくり肩を落とした。

 彼女は出産予定日が迫っている。負担を強いる訳にはいかない。

 

「じゃあ、ぼくが署名用紙を作ってあげ」

「——あたしに任せてちょーだい!」

「じゃあ、アリサくん。頼むよ」

「ライザっ! 今日中に案内文考えなさいっ!」

「わ、わかったわ……」

「明日中に作ってやるわよぉー!」

「いやー、若いっていいねえ……」

 

 アリサが鼻息荒く、用紙作りのお仕事をミゼルから奪い取った。

 どうせ、当人ではなく、『あの人』が作るに違いない。

 リディアはそう察して、ライザと互いに顔を見合わせて苦笑したのであった。

 

 

——翌々日 7の月17日 13時

 

 

 本日は、2日連続お休みの初日。

 リディアは昼食をとってから、ミスト中央にある広場に向かった。

 白魔法導入の署名を集めるライザのお手伝いをするために。

 

(やっぱり先に待ってた)

 緑生い茂る樹木に囲まれた、円形の広場に入る。

 既にライザが広場に備え付けのベンチに座っていた。

 

「お待たせー」

「あら。久しぶりじゃない、それ」

「今日は暑いからね」

「本当?」

「う、っ……」

「せっかくですもの。お休みの日にかぶらなきゃね」

 

 言葉を詰まらせたリディアを見て、くすくすライザが笑う。

 エッジに買ってもらった大切な帽子をかぶってきました。

 ……なんて、すっかり見抜かれていた。

 

「っ、やっぱりバレてた……」

「ごめんなさいね。さあ、座って」

 

 ライザが笑みを浮かべながら手招きしてくれて、隣に腰を下ろした。

 

「アドニスには会わなかった?」

「うん。近くにもいなかったと思う」

 

 七夕の夜以来。アドニスはリディアの前に姿を現さなくなった。

 遠巻きに眺めているか。こっそり自宅周辺をうろちょろしているかもしれない。

 それでも、油断禁物。リボンを肌身離さず持ち歩くようにしている。

 

「そう、よかったわ……」

「昼間は大丈夫だよ。ライザ心配しすぎ」

「無抵抗の相手にスリプル使う人よ? 昼間でも何するかわからないわ……」

 

(今もお母さんが生きていたら、ライザみたいなこと言ってたのかなあ?)

 ライザは、リディアの身をとても案じるようになった。

 ひとりで娘を夜道に歩かせたくない母親のようなことを言う。

 

 今日も待ち合わせ場所が、リディアの自宅になるところだった。

 それを強引にここに変えたぐらいだ。

 

(ちょっと大げさに感じちゃうけど、ありがたいなあ)

 ライザもだが、アリサも襲われかけたら、トードを使えと勧めてくれる。

 もし訴えられたら、お得意の口で弁護してくれるという。

 別件も込みで、ふたりがいてくれるから、なんとか日々を過ごしている。

 

「きちんとごはん食べてきた?」

「ばっちり」

「落ち着いてよかったわ。月初めはどうなるかと思ってたの」

「昔とは違うんだよ」

「そうね。あなたも日々成長してるものね」

 

 胸を張れば、ライザがほっとしたような笑みを見せてくれた。

 たかが人並みに昼食をとっただけ。

 それなのに、他人から褒められたのには一応理由がある。

 

 エッジがいない寂しさを甘味で紛らわせる。

 しばらくそんな日々が続いていたが、先日やっと収束したのだ。

 

 —— —— ——

 置き手紙の日以降、昼集合は2回行われた。

 リディアはどちらもお弁当の代わりに、お手製ブラウニーを持ち込んでいた。

 気持ちはわかるが、どうせ夜も甘いものを食べるだろうに。

 昼もそれでは栄養が偏っている。倒れたらどうする。

 ライザやアリサから、何度もそう苦言を呈されていた。

 —— —— ——

 

「ね、ね。用紙見せてー」

「はい、どうぞ」

「文はライザが考えたんだよね?」

「ええ」

 

 書類サイズの紙束——署名用紙をライザから受け取った。

 ぱらぱら用紙をめくると、全てそっくりそのままの内容。

 公民館の印刷室にある、小型の印刷機——謄写版で刷ったのだろう。

 

「えーと……えっ?」

 

 用紙の一番上を見て、思わず首をかしげてしまった。

 でかでかとした文字で何か書かれている。

 これはライザが考えたのだろうか? 

 

「『ミストにも癒しの力を』? 何これ」

「アリサが考えたキャッチコピーよ……」

「こんなのいる?」

「さあ……? みんなの心をつかむには、これが必要って言ってたけれど……」

「そうなんだね」

 

(これがなくてもみんな賛成してくれると思うけど……)

 せっかくアリサが考えたのだ。気持ちを無下にしてはならない。

 そう思って、それ以上触れるのは辞めておくことにした。

 

「出来はどうかしら?」

「いい感じだよ。わかりやすい説明だからみんなに伝わる」

「ほんと?」

「これ1枚で家族全員分の署名が出来るしね」

「あぁ、よかったわ……」

 

 署名用紙について、率直な感想(※キャッチコピーを除く)を述べたら。

 ライザがほっとしたような表情を見せた。

 

「アリサは、キャッチコピー考えただけっぽいね」

「……昨日こっそり印刷室をのぞきに行ってきたの」

「っ、どうだった!?」

「旦那さん、奥さんに怒鳴られてたわ」

「あははっ! やっぱりそうなると思ったんだぁ!」

 

 ライザが呆れ笑いを見せながら、昨日の様子を教えてくれた。

 ライザに釣られて、リディアも大笑い。

 

(アリサが汚れ仕事する訳ないもん!)

 謄写版はインクをべったり付けたローラーで、1枚1枚印刷する方法。

 作業者の手は、もれなくインクで汚れる。

 

 アリサが、『早く刷りなさいよー!』と言いながら。

 ラルフの尻を叩いていた光景が目に見えるようだ。

 

「手伝ってあげたらいいのに、本当困った子ね」

「アリサは、こっちを手伝いたかったんだよ」

 

 アリサは、おしゃべりが大好き。

 仮に今妊娠していなかったら、署名集めに乗り出していたはず。

 同時に用紙作りも引き受けて、そちらはラルフに丸投げだろう。

 

「結局何しても旦那さん、担ぎ出されちゃうじゃない……」

「あの人も、ダイエットしたらいいのにね」

「むしろ食べないとやっていけないんじゃないかしら?」

 

 ラルフもラルフで、アリサに嫌われたくなくて必死なのだ。

 ……ダイエットする気がないので、嫁の言いなりだけど。

 

「今日はお家回って説明して、用紙渡して終わり?」

「ええ。明日回収に回りましょう」

「ベスとユノは?」

「今日も明日もノアと遊ぶ約束してるの。読書か女の子遊びばっかりで申し訳ないわ」

「いろんな子がいていいじゃない。みんなオリバみたいな子だったら疲れちゃうよ」

「ふふ、そうよね。じゃあ『マダム』から攻めましょうか?」

 

 ライザが首で示した方に、リディアも視線を向けた。

 熟年の女性4人が集まって何か話している。

 

 —— —— ——

 彼女たちは全員主婦、東区画で暮らしている。

 リディアたちは、その4人のことを密かに『マダム』と呼んでいた。

 名前と反して、みんな庶民的。きらびやかな女性はひとりもいないけれど。

 —— —— ——

 

「『マダム』は楽勝だね」

「ノリがいいから大丈夫でしょう」

「それじゃ、行こう」

「ええ」

 

 リディアとライザはうなずき合ってからベンチから離れると。

 『マダム』に特攻を仕掛けたのであった。

 

§

 

「へー! あたしたちもケアルが使えるかもしれないのかぁ!」

「いいの、リディアちゃーん? 生徒取られちゃうねぇー?」

「子どもは黒魔法優先だから、大丈夫だもーん」

「ゼロのお子さんや大人の方が習えるように……昼と夜を組み合わせて開いてもらうようお願いする予定です」

「夜なら習いに行けるじゃない?」

「いいじゃない。賛成するよ」

 

 一通り説明を済ませると、『マダム』たちが口を揃えて賛同してくれた。

 『マダム』は4人とも陽気で明るい。このような新しい企画を拒否しない。

 

「そういや、リディアちゃんも白魔法習うの?」

「いえ。この子はもう、白魔法を使えないので……」

「そうなの? もったいないね」

「もうって何? あんた使えたの?」

「もうはこっちの台詞だよ! みんなラルフさんの本読んでないじゃない!」

 

(本が、おうちの置き物にされてる……!)

 リディアは白魔法を捨てたことをミストで公言していない。

 ただ、名前を伏せた状態で、ラルフの著書『異世界への誘い』の中で触れられている。

 『異世界への誘い』は発売当初、ミストの全家庭に無償配布されているのに。

 

「あははっ、悪いねえ」

「どうも活字は苦手でね」

「途中までしか読んでないんだよ」

 

 ふくれっ面を見せるリディアに、『マダム』たちが笑いながら謝った。

 

 『マダム』は全員、他国からの移民。もともと魔法や幻獣に関心がない。

 『薪要らずの魔法』を使う必要に迫られたから。

 ファイアを覚えただけなので、仕方がないのかもしれないけれど。

 

「召喚術は、知性と精神どっちも必要なの。強い幻獣を召喚すると消費される精神も多くなるんだよ」

 

 召喚術は、知性と精神どちらも必要になる。

 リヴァイアサンやアスラを召喚すると、白魔法ケアルガ並みの精神を消費する。

 幻獣神バハムートの場合。リヴァイアサンたち以上の精神を消費してしまう。

 

「……リディアちゃんから講義受けてるみたい」

「本より、あんたに説明してもらった方がよっぽどわかりやすいよ」

「へへっ、ありがと。——それでね。召喚術を極めるなら、白魔法は使えない方がいいってアスラさまに勧められて、詠唱を口に出来ないようにしていただいたの」

 

 —— —— ——

 実はリディアも、白魔法を使っていた時期があった。

 ところが、幻獣界で暮らすようになってから、アスラにこう言われた。

 

『あなたには才能があります。いつか幻獣王や私を召喚する日がやってきます。その時のために、今後は白魔法を使わない方がよいでしょう』

 

 リディアは、アスラの勧めに従うことに決めた。

 特殊な術で、白魔法の詠唱呪文を唱えられなくしてもらった。

 呪文を声に出さない限り、魔法が発動されない。

 それ以来、白魔法を使えない状態である。

 —— —— ——

 

「何かを極めようとしたら、別の何かを犠牲にしなきゃいけないんだね」

「だから全然使う気配がなかったのかー」

「勉強になったよ。ありがとう」

 

 リディアの説明を聞いて、『マダム』たちが感嘆の声をもらした。

 

「本、読んであげてよ。アリサ怒るから」

「わかったわかった」

「あの子は敵に回したくないからね」

 

(アリサも一緒のこと考えてるよ……)

 『マダム』の名付け親は、もちろんアリサである。

 理由は、敵に回すと怖いから。

 

 自分たち3人は、将来『マダム』のようにミストを裏で牛耳る。

 そんな野望を持つアリサが、『あたしたちの20年後の姿』と決めて命名したのだ。

 

「あんたたち3人は本当に仲がいいね」

「ライザちゃんも、この子とアリサちゃんによく付き合えるもんだよ」

「えー、ひどいこと言わないでよ」

「だってライザちゃん。あんたたちと全然タイプ違うじゃないか」

 

(また言われちゃった)

 不満げに口を尖らせるリディアと反して、ライザは笑みを浮かべている。

 

 —— —— ——

 リディアたち3人は、みんなから『やかましい子たち』と思われている。

 ところが、ライザ個人への印象は『おとなしい』の枠からはみ出さない。

 

『まさか、あんたたちふたりで、ライザちゃんパシらせたりしてないでしょうね』

 

 昔はよくそう言われたりもした。

 —— —— ——

 

 リディアやアリサは何かと目立ち、声が大きい。けれど、ライザはふたりと真逆。

 なぜ一緒につるむのか? そう不思議に思う住民はまだ多い。

 

「タイプは違うけど、ライザはわたしたちのことが大好きなの」

「お、言うねえ!」

「自信満々じゃないか」

「……リディアの言ってることは本当です」

「そうかそうか」

「よほど相性が良いんだね」

 

 リディアとアリサが大好き。

 ライザはそんな信念を持っているので、他人に何を言われても動じない。

 

「こうして手伝ってもらえるんだ。リディアちゃんに甘えちゃいなよ」

「ええ。明日の朝、この紙を取りにみなさんのお宅に伺いますので……よろしくお願いします」

「帰ったら、うちのやつに署名させなきゃね」

「でもさぁ、ミストで署名って初めてじゃないかい?」

「それは……」

「だって、おじちゃんがそうしろって言ったから……」

 

 ミゼルがライザに署名を集めるよう指示した理由は、よくわからない。

 

 少なくともリディアにとっては、いい機会だ。

 じっと家で過ごすよりも、お手伝いで身体を動かしている方がいい。

 

「ミゼルさんも優しそうに見えて、厳しいことさせるんだね」

「西の人が反対するからだろ」

「うるさいしね」

「しっかし、あの人たち。ほんとなんなんだろう」

「あれから毎日東へ来て、エッジ様を犯人って決めつけてさ。ミゼルさんの悪口も言いたい放題……!」

 

 『マダム』の面々が不満げな表情で、保守系先住民の行動にけちをつけ始めた。

 単にエッジやミゼルの悪口を言いたいだけ。

 『マダム』は、彼らの目的をすっかり見抜いているようだ。

 

「ごめんね、リディアちゃん」

「え?」

「実はね。最初あたしたちもふたりの悪口言ってたんだよ」

「……そうなんだ」

「あんたが公民館で大泣きしたって聞いて目が覚めた」

「昨日も近付いてきたから言い返してやったよ」

 

 悪かった、すまない。『マダム』たちがそう口にしながら謝ってくれた。

 先日、リディアは『学習』の時間中にエッジの無実を訴えた。

 それがいい方向に向かったようだ。

 

「頭下げないでいいよ。心底嫌いになったり、本気で言った訳じゃないんでしょ?」

「そうだけど……一瞬でもあの人たちに乗せられたのが、情けなくてね」

 

(やっぱりいい人たち。アレさえなければ、もっといいのにな)

 『マダム』たちが、こうして謝ってくれることを嬉しく思う。

 彼女たちは保守系先住民に比べて、いい人。

 エッジやミゼルのことも、きちんとわかってくれている。

 

「気にしなくてもいいよ。——行こう、ライザ」

「また明日お邪魔します。失礼します」

 

 キリがいいところで、『マダム』の元から離れたリディアたち。

 元の場所——ベンチに座り、本格的な作戦会議に入ったのであった。

 

§

 

「エッジ様はもう大丈夫そうね」

「うん。誤解が解けてよかった……!」

 

 ある意味、欠点かもしれないけれど。

 『マダム』の特徴は、全員口が軽いこと。これに尽きる。

 

 —— —— ——

 『マダム』は、ミストにあれこれ飛び交う噂や情報の発信源。

 話に色をつけるのもお上手。

 1の出来事が5や6に誇張された状態で広まってしまうこともよくある。

 だから、リディアは昨年までアリサやライザに、エッジへの思いを隠していた。

 —— —— ——

 

「同じ住民でも嫌な人たちと、身近で気さくな異国の人では、最終的に後者に落ち着くものよ」

 

 エッジはそんな人ではない。西の人たちの言うことに振り回されるな。

 『マダム』のおかげで、今後そんな空気がミストに漂い始めるに違いない。

 

「今からどうする?」

「そうね……西を回りましょうか」

 

 ライザが用紙の束の一番下から引き出したのは、ミストの地図。

 それをリディアに見せながら、西区画の部分を指さした。

 

 —— —— ——

 ミストは方角で、区画分けがされている。

 

 南と北は混合区画。移民と先住民、どちらも暮らしている。

 リディアやリディアと親しい者は、みんな南に家がある。

 

 東区画には、『マダム』たちが暮らしている。

 一番人が多く暮らしており、ジリアンを除いて全員移民である。

 

 そして、最後の西区画は移民がひとりもいない。

 なぜなら、キロンをはじめとした、ミストの元権力者たちが暮らしているから。

 —— —— ——

 

「ライザも嫌なんだ」

「それでも声はかけておかなきゃだめでしょう」

「無視されたってうるさいもんね」

「何をやっても、あの人たちはうるさく言うわよ……」

 

 リディアとライザは、とても渋い表情で互いの顔を見合わせた。

 片付けるなら、まずは愛想が悪く賛成しない人たちから。

 ライザがそう考える気持ちはよくわかる。

 

(あの人たち、この紙を見ただけで怒りそう)

 西区画で暮らす者は、全て保守系先住民である。

 約20年前。ミゼルやニクスの案——白魔法導入に反対した者ばかり。

 保守系先住民は頭が固くて古い。『マダム』のような好意的な反応を見せるとは思えない。

 『何を考えている』と真っ向から反対するに違いない。

 

「西が済んだら、二手に別れ」

『——こんにちは』

 

 背後から、やや高く柔らかい男性の声が聞こえてきた。

 聞き慣れた声の持ち主——セシルが不意打ちでミストにやってくる訳がない。

 

(こんな明るいうちから!?)

 振り返れば、白狐のお面以外は全身黒ずくめ。

 セシルの声のそっくりさん忍者——ツクヨミが立っていた。

 

「まあ……お久しぶりです」

『こちらこそ。ずいぶんご無沙汰しております』

 

 ライザが驚いたような表情を見せた。

 それもそのはず。彼女がツクヨミと会うのは、約1年ぶりになる。

 

「……こんな時間からどうしたんですか?」

『仕事が早く終わりまして、こちらに立ち寄った次第でございます』

「星を見る時間には、まだ早いですけど」

『この時間は、避暑も兼ねて森林浴でございます』

「そ、そのためにわざわざ来たの!?」

 

 リディアの頭の中が、クエスチョンマークで埋め尽くされていく。

 

(ここで暮らすあたしたちでも、そんなのやらないよ??)

 エブラーナにも森はたくさんあるだろう。そこを歩けばいいではないか。

 このお城勤を、ここまでミストに駆り立てるものは何なのだ。

 

「ばかね。それだけミストを気に入ってくれてるってことじゃない」

「えー……?」

『そうおっしゃっていただけると光栄です』

 

 ライザがツクヨミに感心している。

 彼女の持論は、『ミスト好きに悪い人はいない』である。

 既にツクヨミのことを『いい人』だと認識しているようだ。

 

『それより、おふたりはここで何を?』

「今日と明日で、ミスト中のお家を回って署名を集めるんです」

「今は作戦会議中です」

『よろしければ、見せていただけますか?』

「ええ、どうぞ」

 

 ライザが署名用紙を1枚、ツクヨミに手渡した。

 

『白魔法ですか……』

 

 ツクヨミがそうつぶやいてから、受け取った紙を凝視し始めた。

 それからしばらくして顔を上げると、こう言ってきた。

 

『僕にも手伝わせてください』

「え!?」

「それは……」

 

 リディアとライザは驚き、顔を見合わせる。

 

(ここの人たち以上にやる気満々だぁ……!)

 ツクヨミはミストの住民ではない。なのに、手助けを買って出てくれた。

 とても喜ばしいことだけれど……。

 

『人が多い方がすぐに片付きます。明日も運良く休みで』

「——待ってください」

『どうされました?』

「お気持ちはありがたいのですが……お断りさせていただきます」

 

 ライザが頭を下げると、ツクヨミがうなだれてしまった。

 

「あ、あの……」

「どうしたの? ツクヨミさん」

『やはり……僕ではだめなのですね。お館様でなければ、っ……!』

 

 ツクヨミが下を向きながら、ぼそぼそつぶやいている。

 

(断っただけなのに、とっても悪いことしちゃった気分……)

 せっかく自己アピールしたのに、断られた。

 エッジなら断られなかった。しょせん自分は、エッジのおまけだから断られた。

 お面で顔が隠れていても、そう悲しんでいるのが伝わってくる。

 

「そういう意味じゃないの」

「誤解しないでください。エッジ様でもお断りしていました」

『ライザさん……』

「これは花火と違って、ミストだけの問題です。住民でない方に助けていただく訳にはいきませんから……」

 

 署名のお手伝いをしてもらう、もらわない。

 その権限を持っているのは、発案者のライザである。

 

 巡回指導を受けられるのは、ここの住民だけ。

 誰でも出入り自由な花火大会とは違う。

 住民ではない者に手伝わせるなど、立つ瀬がない。

 

 ライザがツクヨミに申し渡した言葉は、正論だ。

 リディアが彼女の立場なら、同じことを言っていた。

 

『う、っ……!』

 

 突然ツクヨミが握っていた紙を顔に押さえつけてから。ふるふる小刻みに身震いし始めた。

 どうしても納得出来ないのだろう。

 そんなツクヨミを見ているうちに、彼のことが気の毒になってしまった。

 

「そ、そう! ライザの言う通りだよ! 今日は無理ってだけなの。これから手伝ってもらうこと出てくると思います!」

『!!』

 

 無我夢中でなだめると、ツクヨミが用紙からさっと顔を上げた。

 

「どうしました?」

『嬉しい限りでございます。リディアさまに、そうおっしゃっていただけるとは……!』

 

 ツクヨミが言葉通り、喜色ばんだ声を上げた。

 

(よかった。納得してくれたみたい)

 その姿を見てリディアはひとまず安心する。

 今日はもう諦めて、ミストの森へいやされに行くだろう。

 

「それじゃ、これから森でゆっくり」

『——そういう意味で喜んでいるのではありません』

「はい?」

『先日からお気が変わられたようで……この先、僕も安心してあなたをお守りすることが出来ます』

「!?」

 

 ツクヨミが首を少し傾けながら、明るい声で答えてくれた。

 それを聞いて、慌てて両手で口を押さえる。

(自分の首締めるようなこと言っちゃったぁ……)

 

 —— —— ——

『僕がリディアさまを守ってさしあげます』

『個人的にこちらへお邪魔した際、人目につかぬよう密かにお守りするつもりでおります』

 —— —— ——

 

 先日ツクヨミがそう宣言したが、リディアは即座に拒否していた。

 それなのに、ツクヨミをなだめようと必死のあまり。

 逆に喜ばせてしまうことをついつい口にしていた……!

 

「あ、あの……これは話の流れでつい」

「——本当にごめんなさい。これだけはどうしても頼めませんっ」

 

 しどろもどろで弁解を始めたリディアを遮って。

 ライザが頭を下げながら、ツクヨミに最後通告を申し渡した。

 

 さすがにもう諦めてくれるだろう。リディアがそう思っていたら。

 

「あっ!?」

「泥棒!」

 

 ライザが手にしていた署名用紙を、ツクヨミが全て取り上げると。

 高くジャンプして樹木の上へ隠れてしまった。

 

「ツクヨミさん、何するんですか」

「そこにいるんでしょ!? 出てきてよっ!」

「返してください……」

「あたしたちの邪魔しないで!」

 

 勢いよくベンチから離れたリディアたち。

 ツクヨミが隠れた樹木の下から抗議の声を上げる。

 

『——嫌です』

「子どもみたいなこと言わない! 早く降りて!」

「お願いします。それがないと本当に困るんです……」

『手伝いのお許しをいただけるのなら、お返しいたします』

「え……?」

「脅迫だよそれ!?」

『懇願でございます』

「それは、わたしたちの方ですよ……」

「上からお願いする人がどこにいるのっ! 早く降りてったら!」

 

 見えぬツクヨミに向かって、呆れと怒りまぜこぜの大声を上げた。

 

(いい大人が、みっともない!)

 用紙を人質にするわ。屁理屈をこねるわ。

 このお城勤。真面目を装っていただけで、実はとてもわがままなのかもしれない。

 

 その後も、主にリディアがツクヨミと大人気ない応酬を繰り返していた。

 ところが……。

 

「わっ、わかりました。お願いします! ですから、早く降りてきてください」

「ええっ!?」

 

 突然ライザが弱々しい声で、降伏を言い渡してしまった。

 

(どうして!?)

 ライザの突然の心変わりに、リディアは驚きを隠せない。

 頑として譲らない姿勢でいたはずなのに。

 

『はい。かしこまりました』

 

 お許しをもらえたからだろう。

 ツクヨミが樹木から飛び降り、リディアたちの前に姿を現した。

 それでも、まだ用紙を返す気配を見せない。

 

『ありがとうございます。ライザさんが聡明な方で助かりました』

「い、いえ、そんなことは」

「——どうして急に気が変わっちゃったの!?」

 

 顔をうつむかせるライザに、リディアが突然の心変わりの理由をたずねた。

 

「後ろ、見て……」

「え、何?……ひ、っ!」

 

 ライザに従い、恨めしそうに振り返った途端。

 すぐ後ろにいた人物たちに、思わず息を詰まらせた。

 

「あんたたち、何やってんだい?」

「お兄さん、かわいそー」

「いじめたらだめじゃないか」

 

 やりとりしていたのを聞きつけたのだろう。

 知らない間に、『マダム』がそばにやってきていた……!

 

「逆! 逆だよ! わたしたちがいじめられてたの!」

「そんな風には見えなかったけどね」

「どこが!? 署名の邪魔され」

「——もうやめて」

 

 『マダム』が、にやにや顔でリディアたちを悪者にしてくる。

 彼女たちへ反論したが、またまたライザに止められてしまった。

 

「相手、誰だと思ってるの」

「……あぁ」

「みんなに笑われちゃうじゃない……」

 

 『マダム』たちに見られた。もうおしまい。

 ひそひそ声で耳打ちを終えると、ライザが両手で顔を覆ってしまった。

 

(あたしたちがツクヨミさんいじめたって色付けされちゃう……)

 明日以降『マダム』たちが、先ほどの応酬をミスト中に広めるだろう。

 ライザは目立つのが大嫌い。耐えきれなくなって、リディアを止めたのだ。

 

「……こ、これは見世物じゃないのっ! あっち戻って!」

 

(口止め頼んでも、言いふらしちゃうもん)

 リディアは叫びながら、しっしと『マダム』たちに手を振った。

 

「ええー?」

「おもしろくなると思ってたのにー」

「ならないっ! もう終わったっ! ほら早くっ!」

「つまんないねえ」

 

 野次馬根性丸出しの『マダム』たちを、なんとか元の場所に追いやった。

 ただ、どんな噂が流れるかは、明日になってみないとわからない。

 

『……あの、僕は何をすればよろしいでしょうか?』

 

 『マダム』を追い払っている間に、ライザの手元に人質が戻っていた。

 

「リディアの幸せのお手伝いをしたいと聞いています。それ、本当ですか?」

『はい』

「……でしたら、この子のお宅訪問に付き添って、変な人から守ってあげてください」

「ええっ!?」

『はい。かしこまりました。ライザさんのおおせのままに』

 

 リディアはお手伝い内容に耳を疑う。

 ライザは付き添いと命じた。しかし、護衛と何ら変わらない。

 

(このままじゃ、『先例』が出来ちゃうよ)

 ツクヨミが今後、仕事の合間にミストにやってきたら。リディアを守ろうとするだろう。

 そのために貴重な空き時間を使わせていいのか。

 

「そんなことしなくてい」

「——不幸になりたいの?」

「っ、それは……」

「これは、ミストのお手伝いじゃないもの……そうですよね、ツクヨミさん?」

『はい。ライザさんのおっしゃる通りでございます』

「わたしったらばかね。どうしてすぐ気付かなかったのかしら……」

 

 苦笑するライザを見て、リディアは肩を落とした。

 

 リディアの幸せのサポートをしたいツクヨミ。

 リディアをひとりで歩かせたくないライザ。

 当の本人が知らぬ間に、ふたりは持ちつ持たれつの関係に陥っていたらしい……。

 

 

——午後3時過ぎ

 

 

 ライザと二手に分かれて、署名用紙を配るために。

 ミストの家庭を一軒一軒回り始めてから、約1時間半が経過した。

 

 現在リディアは南区画にある、某お宅を訪問しているところだ。

 

「ちょっとだけ待っててくれる?」

「えっ?」

 

 こちらのお宅は、熟年夫婦のふたり暮らし。

 玄関先でふたりに説明を終えて帰ろうとしたら。奥さんに待てと言われてしまった。

 

「あんた、相手してあげな」

「ああ」

「変なこと言うんじゃないよ?」

「言うかよ……」

 

(ここのおじさんも、みんなと同じこと言うのかなあ……)

 奥さんがそう言い残して、奥の部屋に引きこもってしまった途端。

 旦那さんの表情が緩んだように見えた。何か嫌な予感がする。

 

「講座って言うが、どっかから先生呼ぶのか?」

「……そうだけど」

「そーかそーか。だったら、男はだめだぞぉ?」

「……」

「きれいな若けぇねーちゃんにしてくれよなぁ?」

 

 若くて美しい。そして、女性。

 そんな講師をねだってきた旦那さんにがっかりする。

 

(やっぱり、他のおじさんと同じ……!)

 リディアはここまで、十数軒のお宅を回ってきた。

 話に応じて賛成してくれた男性は、みんな奥さんがいるのに。

 揃いも揃って『綺麗な若い女講師』を呼べとせっついてきた。

 

 彼らの希望に沿った講師が、都合よく巡回指導側にいるかどうかわからないのに。

 リクエストされても困る。それに……。

 

「そんなこと言ったら、奥さんかわいそうだよ」

「ばっかだなぁ。あいつ、歳いくつだと思ってんだ」

「おじさんと一緒じゃない。何か問題あるの?」

「だから、だめなんだよ」

 

 にたにた笑みを浮かべる旦那さんに呆れてしまう。

 女性に飢えているなんて、奥さんにとても失礼だと思う。

 

(エッジも……若くて綺麗な女の子がいいのかなあ)

 リディアの好きなひとも含めて、世の男性はみな若い女性がお好みなのだろうか?

 そんな邪推までしてしまう。

 

「村長にも言っとかん」

「——まーた、鼻の下伸ばしちゃって!」

 

ごつん!

 

「痛っ!」

 

(かっこいい!)

 ちょうどいいところに、奥さんが部屋の奥から戻ってきた。

 話を聞いていたのだろう。顔を真っ赤にさせて、旦那さんの背後から頭を殴った。

 

「だから、言わんこっちゃない!」

「……ああ、怖い怖い」

「旦那が悪かったね。これ、持って帰りなさい」

 

 頭を抱えながら、奥へ引っ込んだ旦那さんと入れ替わって。

 奥さんが、ふたり分の署名が入った用紙を渡してくれた。

 

「……もう書いてくれたの!?」

「見ての通り、旦那も賛成。今渡しておけば、明日ここ来なくて済むでしょ」

「あぁ……!」

 

 回収の手間を省くために、署名を済ませてくれたようだ。

 奥さんの気の利かせように、嬉しくなってしまう。

 

「暑いけど頑張ってね。ライザちゃん助けてあげなよ」

「うん、ありがとう!」

 

 奥さんへ満面の笑みを見せてから、お宅を後にした。

 

(いい人だぁ!)

 こちらの奥さんはとても優しかった。

 失礼なことを言った旦那さんも、しっかり報復を受けていた。

 晴れ晴れとした気分で、少し離れた場所にいるツクヨミの元に向かった。

 

「お待たせしました」

『お疲れ様でございます』

 

 ツクヨミはリディアがお宅訪問している間。

 ライザの命に忠実に従い、遠巻きから見守ってくれている。

 

『あと、残っているのは……?』

「おばちゃんちで終わりです」

 

 ジャンヌの自宅は、南区画の中でも南寄りの位置にある。

 ちなみに、リディアの自宅はそこから更に南へ向かい、林を抜けた先にある。

 

『明日で全て片付くのではありませんか?』

「そうですね。目新しいものが大好きな人が多いから、スムーズに進んでよかったです」

『一部の区域を除いて、ですよね』

「っ、はい……」

 

 ツクヨミから遠回しに西区画のことを指摘されて。

 きまりが悪くなり、うつむいてしまった。

 

 —— —— ——

 二手にどう分かれるか。事前にライザと話し合った結果。

 リディアは、ミストの北と南を結び、分断した西側をあえて引き受けた。

 ……問題の西区画が入っているからか。ライザが戸惑うのも無視して。

 —— —— ——

 

(耳がいいから、会話も聞いてたよね)

 どうやら、このお城勤。

 リディアが西区画のお宅にお邪魔していた様子を、遠くから見て聞いていたようだ。

 

「田舎の嫌なところをお見せしちゃって、すみません」

『いえ。あんな方々はどこにでもおられますよ』

「ミストに幻滅しませんでした?」

『僕が幻滅するとしたら、ミストから緑がなくなり空気が澱んだ時ですよ』

「あっ、そうでしたね……」

 

(余計なこと聞いちゃった)

 ツクヨミはミストの自然がお気に入りだから、何度も足を運んでくれている。

 嫌な人たちがいる。それぐらいでは、この忍者は動じる訳がなかった。

 

§

 

 数分後。ジャンヌの自宅が見えてきた。

 

「ツクヨミさんも一緒に来ない?」

『いえ。僕はここでお待ちしております』

「……そうですか。それじゃ、いってきます」

『いってらっしゃいませ』

 

(おばちゃんたちに遠慮しなくていいのに)

 ジャンヌやミゼルは、リディアに次いでツクヨミと接触が多い。

 顔なじみだからいいだろう。そう思って声をかけてみたけれど。

 ツクヨミは、ここでも見守りに徹して自宅に近寄ろうとしなかった。

 

「おばちゃーん!! おじちゃーん!」

 

 玄関の扉を叩きながら、ジャンヌたちを呼んだ。

 ……声の方が大きかったので、叩く必要なかったけれど。

 すぐに室内から、どたどたと荒っぽい足音が聞こえてきた。

(おばちゃんだ!)

 

「……」

 

 扉が開き、隙間から顔を出したのは、やはりジャンヌだった。

 ところが、無言な上に仏頂面。何やら重苦しい気配を漂わせている。

 

「どうしたの? 機嫌悪」

 

ばちん

 

「痛いっ!」

 

 ジャンヌへ声をかけたら、なぜか額を叩かれてしまった。

 咄嗟に手で被害箇所を押さえる。

 

「何するの!? お客さんに失礼じゃない!」

「……でかい声で呼ぶなって、何度言ったらわかるんだい」

 

 ジャンヌに『おばちゃん』呼びを許されてから、早や数年が経つが。

 大声で呼ぶとたまにこうして手を出される。

 

「へへ、ごめんね。これから気を付け」

「——おまえはいつも口だけだから怒ってんだ!」

 

 ジャンヌに言い返そうとしたが、ぐっと我慢した。

 

(言ってるうちに、『おばちゃん』のお年頃になるのに……)

 ジャンヌたちは、エッジと同い年。あと4年もすれば40歳だ。

 本音を言おうものなら、また叩かれてしまう。

 

「……おじちゃん、いないの?」

「じいさんの検診の付き添い。ここんとこ多いんだよ」

「暑いから体調崩しやすいもんね」

 

 ジリアンは、過去の出来事が原因で住民と話が出来ない。

 そのため、ミゼルが仲介役として医師のウリエルと一緒に向かったようだ。

 

「で? 例のお願いに来たのか」

「そうなの! みんな署名してあげてね」

「ノアも署名してくれるだろ。エスタも……あの世で喜んでるよ」

 

 リディアから手渡された署名用紙を、ジャンヌが感慨深げに見つめている。

 20年近く前の出来事を思い出しているようだ。

 

「お母さんも手伝ってたの?」

「そりゃあ、あいつらは幼なじみだったからね」

「おばちゃんは?」

「……手伝うって言ったら、即お断りされたよ」

 

 ジャンヌが悔しそうに、過去の出来事を話してくれた。

 

(みんな、おばちゃんの性格よくわかってたんだなあ)

 ジャンヌは、反対する住民と喧嘩するかもしれない。3人がそう言って断ってきた。

 仕方なく、村中を歩き回ってきたエスタの肩や足をもんであげたという。

 

「お手伝い買って出たんだもん。おばちゃんも覚えるんでしょ?」

「ミゼルが覚えるから、あたしはいい」

「えー? またサボるの……?」

「役割分担出来て、ちょうどいいじゃないか」

 

 もともと、ジャンヌは魔法に対してほぼ無関心。

 そこに来て、ノアと一緒に暮らし始めた。

 現在は、彼のことに興味関心が集中しているようだ。

 

 やる気がない妻に対して、夫は白魔法を習うと明言済み。

 生まれて初めて魔法を使えるかもしれないチャンスを、みすみす逃す訳がないだろう。

 

「……あれ? 兄さんも一緒に連れてきたのか」

「うん」

 

 ジャンヌが、離れた場所でぽつんと立っている黒い人物に気が付いたようだ。

 

「——そんなとこで突っ立ってないで、こっちおいで!」

 

 ツクヨミが、ジャンヌに呼ばれてリディアの背後に駆け付けた。

 そして、『こんにちは』の挨拶と共に頭を下げる。

 

「こないだは助かった。ありがとう」

『いいえ。お元気そうで何よりでございます』

「その時、あんたに口止め頼んだけど……取り消してくれないか?」

『……よろしいのですか?』

「ああ。こいつに全部本当のこと話したんでね」

『そうでございますか』

「無理言って悪かったよ」

 

 七夕の翌日の夜。

 リディアは、ジャンヌやミゼルからこんな話を教えてもらった。

 

 —— —— ——

 七夕の夜。リディアがアドニスからスリプルをかけられて眠っていた間。

 アドニスに暴力を振るわれていたジャンヌを、ツクヨミが助けた。

 ジャンヌはその後。ツクヨミにリディアを託すと同時に、こんなお願いをしていた。

 アドニスに襲われたことや、不妊体質のことを。リディアに言わないように、と。

 —— —— ——

 

「それにしても、真っ昼間からこいつの護衛やらされるなんて、兄さんも大変だね」

『いいえ。とんでもございません——』

「……」

『……』

 

(すっかり仲良くなっちゃった)

 リディアをそっちのけで、ジャンヌとツクヨミが世間話に興じている。

 ジャンヌは、ミゼル以外の男性に友好的ではないから、とても珍しい光景である。

 それでも、彼女にとってツクヨミは恩人だから、こうなるのも当然か。

 

(ツクヨミさんがなじんでくれるのは嬉しいけど……寂しいよ)

 まるでエッジが、ツクヨミと入れ替わるように。

 リディアの日常だけでなく、ミストの日常からも消えていく。

 

 現在進行形で、それを目の当たりにしているような気がして。

 リディアは複雑な思いに駆られながら。

 しばらくの間、ジャンヌとツクヨミを黙って眺めていたのであった。

 

§

 

 程なくして、ジャンヌの自宅を後にしたリディアたち。

 自宅に一度立ち寄ってから、待ち合わせ場所の広場に戻った。

 

「はー、終わったぁ」

 

 先ほど座っていたベンチに戻り、腰を落ち着けた。

 続けてツクヨミも、リディアの左隣に自ずと腰掛けた。

 

(『マダム』は、お家に帰っちゃったのかな)

 リディアたち以外、広場には誰もいない。

 夏になると、子どもたちは影を求めて森の中か。

 涼を求めてミストの外れの泉や川で水遊びしている。

 

「それ、魔法かけておきますね」

『はい、どうぞ』

 

 ツクヨミが右手にぶら下げていた透明な袋を、目の前に差し出してくれた。

 中にはアイスが3本入っている。

 

「【……」

 

 リディアは袋の底に両手をかざして詠唱を唱える。

 かざした部分が、みるみるうちに氷の細かな白い粒で覆われていく。

 リディアが使ったのは、ブリザドを改造した氷冷魔法。

 微調整目的で考案したもので、威力はブリザドより少し弱め。

 

「……】はい。これで当分大丈夫」

『お疲れ様でございました』

 

 冷気の煙が上がる袋を引き寄せて、ツクヨミが前にかがんだ。

 開いた大腿に両腕を乗せて、袋をぶら下げるように持っている。

 

『この季節は、氷魔法が重宝いたしますね』

「そろそろ、お部屋を冷やす魔法を本気で作ろうかと思ってます」

『素晴らしい発想ではございませんか』

「……使うのは、わたしだけですけど」

『独占利用で十分でございます。長年辛い修行をなされたご自身へのごほうびと思えばよいのです』

 

(ごほうびなら、ケーキがいいんだけど)

 『薪要らずの魔法』がミストの外に漏れた。そう判明して以来。

 初中級の黒魔法をベースとした魔法作りに、すっかり懲りてしまった。

 

 —— —— ——

 魔法漏洩の弊害を受ける可能性が高いのが、他でもないリディアだ。

 

 浴槽の説明書にリディアの名は入っていない。

 ただ、この世で新たな魔法を作れる人間はごくごく限られている。

 誰が『薪要らずの魔法』を作ったのか。いずれバレるだろう。

 

 リディアに魔法を作って欲しい。それも『タダ』で。

 そんなことを考えた人たちが、ミストにやってくるかもしれない。

 

 そういった事情もあって、前回の寄合が終わった後。

 

『本当にごめん……』

 

 ミゼルから謝られてしまったが、逆に申し訳なくなってしまった。

 

(謝るのは、言い出しっぺのあたしの方なのに……)

 寄合でキロンがミゼルをいじめている。

 それを見かねて、魔法を作ると言い出したのはリディアだ。

 あれさえなければ、ミストの空気も悪くならずに済んだだろう。

 エッジやミゼルも中傷されなかったはず。

 —— —— ——

 

「ライザやアリサ……おじちゃんたちも、ツクヨミさんと同じことを言ってくれました」

『リディア様のことをお考えになられたら、そうおっしゃいますよ』

「はい……」

 

 騒動のおかげで、リディアはこう悟った。

 手作り魔法は個人利用に限る。要して、信頼の置ける人間にしか教えてはならない、と。

 

『しかしながら、なぜ今までミストでは白魔法を取り入れなかったのでしょう?』

「はっきりした理由はわからないそうです」

『そうなのですか』

「ただ、偉い人たちが白魔法いらないって言い続けてきたのが、慣習になってたんじゃないかって、おじちゃんが言ってました」

 

 若き日のミゼルとニクスが白魔法導入を訴えた時。

 当時の権力者から『ミストは、召喚術と黒魔法だけでいい。白魔法は必要ない』と言われた。

 それをツクヨミに話すと、彼は首をひねってこう言った。

 

『理由になっているのか、なっていないのか、よくわかりませんね』

「はい……お父さんもおじちゃんもすごく悔しかったと思います」

 

 ツクヨミの率直な感想に、リディアも賛同した。

 

(いらないから、いらない。みたいな理由じゃ……)

 全ての物事には理由がある。とは、よく言うけれど。

 白魔法だけそっちのけにする理由は、どうもぼんやりしている。

 

「そういえば……エッジ、元気していますか?」

『おそらく』

「えっ?」

『最後にお会いしたのは、確か5日前でしたか。「今年はひとりでミストの花火に行ってきてくれ」と、おっしゃられて終わりでございます』

「……エッジ、今年来ないんだ」

『はい。先ほどミゼルさんに、お伝えしようと思っていたのですが不在でしたね』

 

 ミストから去る前に、ミゼルを探さなければならない。

 ツクヨミの話を聞き、胸の中で風が吹いて寂しさでいっぱいになる。

 

(来年も、その次も……ずっと……)

 花火だけは参加してくれるかもしれない。

 ほんの少し期待していたのに、それすらも無理とは。

 

 この先エッジは、ミストに来る気はない。

 そう仮定を立てていたけれど、一気に確定に近付いてしまった。

 

『お嫌ですか?』

「え……」

『お館様に参加していただきたかったのですね』

「はい。契約もまだ終わってないし……」

 

 エッジは初年度の花火大会後。ミゼルと裏方5年契約を結んだ。

 毎年この広場で行われる、おもちゃの打ち上げ花火の点火役を買って出てくれている。

 それがまた、子どもから大変受けがよかった。

 

(契約すら守れないのかって悪く思っちゃう人、出てくるだろうなあ……)

 それが、契約の4年目となる今年は不参加。

 住民がそれを知ったら、エッジへの心象が悪くなるだろう。

 リディアですら、がっかりしているのだから。

 

 わかっていたけれど。時間を追うごとにみんなの記憶からエッジは消えていくのだろう。

 エッジが本当に手の届かない人に変わっていく。

 

「寂しい……」

 

(あっ)

 ほろりと本音をこぼしていたことに気付いて、うなだれてしまった。

 

「っ……ごめんなさい」

『リディアさまが謝る必要はございませんよ』

 

 リディアが謝るも、ツクヨミは軽く首を横に振っただけ。

 

(ツクヨミさん、もう気付いてるよね)

 以前ツクヨミから、エッジのことが好きか問われたことがある。

 その時は『違う』と言い切った。

 しかし、こうもぼろを出していれば、既にエッジへの思いを勘付かれていても仕方がない。

 

 なぜこの人は、セシルとそっくりの声をしているのだろう。

 ツクヨミに罪はない。けれど、その声に少し恨めしくなってしまう。

 彼の声は少し高めの温和な初恋の人と同じ。

 それが、リディアから本音をずるずる引きずり出してくる。

 

「西の人たちから、エッジの悪口言われちゃって……気分悪かったでしょ」

『いいえ』

「えっ?」

『ここのところ、お館様はミストにお越しになっておられないようですし、ご自身が今、何を言われているか存じ上げていないでしょう』

 

 ツクヨミの声は、感情のこもっていないように聞こえる。

 エッジに何の思い入れがないように感じられて、胸がちくちく痛む。

 

「言いすぎですよ……!」

『そんなことはございません』

「エッジのこと、もう少しかばってあげてください」

『お館様から命じられない限り、擁護する気はございません』

 

 会うたびにうすうす感じていたが、これではっきりわかった。

 ツクヨミは、他のお城勤やエブラーナの民とは違う。

 エッジへの忠誠心が極めて低い。と言うよりない。

 ありていに言えば、エッジのことをただの上司と認識しているのだ。

 

「ツクヨミさん。エッジに冷たすぎる……」

『申し訳ございません。僕はエブラーナで異端者だと自覚しております』

 

(これがなければもっといい人なのに)

 エッジが悪く言われるとすごく悲しくなってしまう。

 開き直った者に、これ以上何を言っても無駄。

 ツクヨミの前では、エッジの話題を出さないようにしよう。

 リディアは心にそう決めたのであった。

 

§

 

『それにしてもライザさん。なかなかお戻りになりませんね』

「ライザの方が回る軒数が多いんです」

『ああ……』

「それに、ライザは男の人や慣れていない人には上手にお話出来ないの。だから余計に時間がかかってるかも……」

『それは本当ですか?』

「ええ。ツクヨミさんは、ライザの好みのタイプだから気軽に話していますけどね」

『いや、好みと言われましても……』

「あっ、ごめんなさい。人間としてって意味合いです。男の人は旦那さんにしか興味ないの」

 

(エッジとも話したことないもん)

 ライザは、男性に対して中身をより重視している。

 容姿最重視のアリサとは正反対で、真面目な人がお好み。

 彼女の夫がそのまんまだし、ツクヨミも同じ部類に入るだろう。

 

 しかも、ツクヨミは1年前。エブラーナで初対面した際に、ミスト愛を懇々と語っていた。

 それもあって、ライザはすぐツクヨミに心を許してしまったと思われる。

 

『そうですか。それなら安心です』

「ライザが結婚したのね。17の時なんですよ」

『ず、ずいぶんお早いですね……!』

「愛する旦那さん。可愛いベスとユノ。嫌なお義母さんがいたけど……」

 

 ライザの家族を口にする度に右手で指折り数えてから、こうつぶやいた。

 

「ライザがうらやましかったなあ」

 

 毎年クリスマスが近付くと、リディアはライザに羨望を感じていた。

 彼女は伴侶と家族に囲まれながら、ごく普通の人生を生きている。

 同じ歳なのに、こうも違うのか、と。

 

 ライザも、そしてアリサも。そんなリディアに気付いていたのか。

 毎年クリスマスのお菓子を分けてくれる。

 

『リディアさま……』

「でも昔の話です。わたしには、おばちゃんたちがいるって気付いたから」

 

(エッジもいてくれたもん)

 エッジと夕食をとるだけに留まらず、どうこうな関係になった。

 更には、ジャンヌたちとも夕食をとるようになり、ひとり晩飯は卒業。

 その頃には、もうライザへの羨望は消えていた。

 

「それにね。うらやましかったのはわたしだけじゃなくて、ライザもだったの」

『自由な独り身への憧れでしょうか?』

「どっちかと言うと、わたしが黒魔法や召喚術を使えて、ミストのお役に立っているからだと言ってました——」

 

 —— —— ——

 ライザは、若く遊びたいお年頃——17歳の時に結婚。

 それから出産を経て、家事や育児の日々を過ごしていた。

 

 近年、娘たちが成長して空き時間が増えた。

 しばらくは何気に過ごしていたが、時間がもったいなく感じて。

 この先、ミストで何が出来るか模索した結果。

 ファイア習得後も黒魔法講座に通うことにした。

 

 ブリザドを習得した先月、ふとライザは考えた。

 ミストは黒魔法や召喚術に関しては、教育環境が揃っている。

 しかし、ここには白魔法を使える人間が誰もいない。

 リディアも諸事情で使えないと聞いている。

 

 ならば、ゼロの子どもたちや希望者が白魔法を覚えたらいいではないか。

 そう思い立ち、白魔法の巡回指導を申し込んで欲しいと望むようになった。

 —— —— ——

 

『ライザさんご本人は、白魔法を覚えたいのですか』

「ええ。でも、ライザは家族を置いてバロンやミシディアには行けませんから……」

『確か、ご家庭をお持ちの方に向けて巡回指導が設けられたと聞いたことがございます』

「だから、ミストにも呼んで欲しいって、おじちゃんに頼んだんですけど……」

『それが、こちらでございますね』

 

 隣に座るツクヨミがそう言いながら、背を伸ばす。

 そして、リディアの太腿の上に乗っている用紙の束を、とんとん指で軽く叩いてきた。

 その瞬間。リディアの脳裏に言い出しっぺの人物がよぎった。

 

「……おじちゃんはいじわるです」

『なぜ、そう思われるのでしょう?』

「ライザが苦手なことをやれって言うんですよ? ライザもちょっとぐらい文句言うと思ってたのに、二つ返事で」

『——お話を聞く限り、ライザさんがそうされるのは当然だと思います』

「え?」

『あなたの存在こそが、ライザさんに影響を与えて、突き動かしているのです』

「わたしが、ライザを……?」

『あの方は、あなたのためなら、それぐらい文句も言わずにおやりになりますよ』

 

 ツクヨミが穏やかで優しい口調で紡いだ言葉を耳にするなり。

 まるで、本物のセシルから『昔のきみといっしょだよ』と言われているような錯覚を覚えた。

 

 —— —— ——

 今もセシルは、地上で強大な悪に立ち向かっているはず。

 もっともっと強くなって、彼を助けてあげたい。

 

 リディアは幻獣界に引き取られてから、そんな思いで日々修行に励んでいた。

 どんなに辛くても音を上げなかった。

 

 既に習得済だった白魔法。遊びや甘えが許される子どもの時間。

 それらを犠牲にしてまで、他人のために何かしたい、してあげたい。

 そう思ったのは、あの時が初めてだった。

 —— —— ——

 

 あの頃のリディアは、今のライザ。あの頃のセシルは、今のリディア。

 これまで他者から影響を受けて生きてきたつもりでいたら。

 気が付けば、他者に影響を及ぼす存在になっていたなんて……。

 

「本当なら、すごく嬉しいですね!」

『よろしければ、ご本人に一度……ああ、お戻りになられました』

「ほんとだっ」

 

 噂をすれば何とやら。

 北の出入り口から、ライザが足早にこちらに向かってくるのが見えた。

 

「ライザー! こっちだよー!」

 

 両手を振りながら、大きな声でライザの名を呼んで出迎えてあげた。

 

「……ただいま。遅くなってごめんなさい」

「おかえり。おつかれさま」

『お帰りなさいませ』

「全部回れた? みんな賛成?」

「ジリアンさんのお宅以外はね。みんな好感触よ」

「やったね!」

「説明は要らないってお宅がいくつかあったから助かったわ」

「こっちもすぐ署名書いてくれたお宅があったよ」

「嬉しいわ……それ預かるわね」

 

 ライザが、リディアが持っていた署名用紙を受け取った。

 枚数を数えてから、ため息をついた。

 

「あの人たち、やっぱりだめだったのね……」

「話も聞いてくれなかったの……」

 

 実はリディアの手元には、空欄の紙が10数枚以上残っていた。

 西区画の住民からは全て門前払いを食らった。

 しかも、用紙すら受け取ってもらえなかったのだ。

 

「いいのよ。引き受けてくれて本当にありがとう」

「お礼なんていいよ。せっかくのお手伝いだもん」

 

 ライザに頭を優しく撫でられながら、あることを心に決めた。

 

(びりびり紙を破る人もいたなんて……ライザには言わないでおこう)

 門前払いはまだいい方だ。そう思えるぐらいには。

 予測不可能かつ、許しがたい対応を見せた住民もいた。

 あんなのを目の当たりにしたら、ライザは傷付き、悲しんでしまう。

 西を回らせなくてよかったと思う。

 

「ツクヨミさんも、本当にありがとうございました」

『僕の方こそ、無理を聞いてくださって感謝しております』

「明日もお休みだとおっしゃってましたが……」

『はい。お手伝いさせてもらえますか?』

「でしたら、朝9時にリディアの自宅で待っています。この子をまた手伝ってあげて下さいね」

『かしこまりました。ぜひ喜んで』

「ちょっと待ってよ。勝手に」

「——油断は禁物よ」

『ライザさんのおっしゃる通りでございます』

「ううっ……」

 

 恨めしそうに、ライザとツクヨミを交互に見やる。

 

(多数決で負けちゃってるし……)

 ライザは、ちょっとやそっとでは意見を変えない。

 そんな彼女にツクヨミがついてしまったから、太刀打ち出来ない。

 

「ライザ、ライザ。早くこっち座って」

「え、ええ……」

 

(もういい! それよりおやつ!)

 着席を勧められ、ライザがリディアの右隣におずおずと座る。

 

「見て見てー」

「あら、どうしたのそれ?」

 

 リディアはアイスが入った袋をツクヨミから受け取った。

 満面の笑みを浮かべながら、ライザにそれを見せてあげた。

 

「おばちゃんにもらったの。ノアたち用に張り切って作りすぎちゃったんだって」

「まあ……! 今度お礼言わなきゃいけないわ」

「はい、どうぞ」

 

 リディアは両脇に座るふたりに、アイスを1本ずつ手渡した。

 茶色い円柱形の中心に棒切れが刺さったチョコ味のアイスだ。

 

(おばちゃん家をわざと最後にしてよかった……!)

 生地と棒切れをコップに入れて、何度もブリザドをかけて凍らせたと話していた。

 棒切れは、過去にジャンヌがお出かけして買ってきたアイスの棒の再利用。

 

「いただきまーすっ」

「いただきます」

「……うわ、冷たくて美味しいっ!!」

「何か入ってるわね」

「ブラウニーを混ぜてあるんだって」

「まあ、ただのチョコアイスじゃないのね……!」

 

 ジャンヌお手製のブラウニーを荒く刻んだものが混ざっている。

 そのため、時折ざくざくした食感が楽しめる。

 なんとも濃厚で贅沢なチョコレートのアイスである。

 

 それからもリディアとライザは、甘い、冷たい、美味しいを連呼しながら。

 夏ならではの甘味を味わい尽くした。

 

「ごちそうさまぁ……」

「そんな顔しないの」

「なくなるの早すぎるよ……」

 

 数分後。ライザが呆れるぐらいには、悲しそうな表情でただの棒切れを眺めていた。

 大の甘党のリディアにとっては、一瞬で天国から地獄へ落ちたようなものだ。

 

「仕方がないわ。この時期はすぐに溶けちゃうもの」

「うう……」

 

 冷たくて甘いアイスは、暑い夏向けのデザート。しかし、唯一欠点がある。

 ぼおっとしていると、ぎらぎら太陽がアイスを溶かしてしまう。

 気が急いてしまい、あっという間に食べ終わってしまう。これはいけない。

 

「それ、捨ててくるわね」

「うん」

 

 ライザが、少し離れた場所にあるごみ入れかごへ。

 アイスが入っていた袋と棒切れを捨てにいってくれた。

 

「あら、ツクヨミさん。チョコはお嫌い?」

『いえ……嫌いでは……』

 

 ベンチに戻ってきたライザから声をかけられている。

 よく見れば、ツクヨミの手元にあるアイスは口つかず状態。

 

(ま、まだ食べてなかったの!?)

 リディアはここまでアイスに夢中。ツクヨミの動向を全く気にしていなかった。

 

「早く食べないと、溶けちゃうよ」

『っ、どうぞ』

 

 ツクヨミが手にしていたアイスを、こちらにさっと差し出してきた。

 

「……いらないです」

『遠慮せずに、召し上がって下さい』

 

(これも幸せのお手伝いのつもりなんだ……!)

 リディアが断っても、ツクヨミが諦める様子はない。

 喜ばせようとして、わざと残していたのがバレバレだ。

 

「それはお礼って、おばちゃんに言われたじゃない。食べないと失礼ですよ」

 

 アドニスから助けてくれたお礼も兼ねている。

 ジャンヌがアイスを渡してくれた時、ツクヨミにそう話していた。

 この忍者は聴覚が鋭い。なのに、都合の悪いことは左の耳から右の耳へ素通りか?

 

『しかしながら、リディア様がたったひとつで満足しておられるようには見えないのです』

「うっ……」

「ふふっ」

 

 ツクヨミに見事図星を突かれて、息を詰まらせる。

 ライザにもくすくす笑われてしまった。

 

 既にツクヨミには、重度の甘味好きだと知られている。

 隣から、アイスを完食した直後の悲しそうな表情を見ていたようだ。

 

「そ、それでもだめです! 食べなかったら言いつけますよ?」

『……』

「おばちゃんの腹パン、すごく痛いの知ってるでしょ?」

 

 食べなかったら、みぞおちにパンチの刑。

 未だ躊躇しているツクヨミへそう伝えた。

 

(そりゃあ、おかわりがあれば言うことないけれど……)

 ジャンヌがアイスをツクヨミに直接渡していた。さすがにそれを奪う気にはなれない。

 欲求はさておき、一応常識は持っているつもりだ。

 

『……食べたらよろしいのですね』

「あっ」

「あら、ジャンヌさんが怖いのね」

 

 ツクヨミがリディアたちに背を向けて、何かもぞもぞし始めた。

 アイスを食べていると思われる。

 

「……今、お面外してるわよね」

「お茶もこれだったの。ちょっとで日に当たったら、お肌が荒れちゃうみたい」

 

 ツクヨミは敏感で弱い肌を直射日光から守るために。

 夏でも冬のような装い。そしてお面をかぶっている。

 

 広場に来る前、リディアたちは自宅に立ち寄った。

 今の季節、水分を補給しないと干からびてしまう。

 外で待たせていたツクヨミにお茶を出したら、リディアに背を向けて飲んでいた。

 

「子どもの頃からアレルギーだと苦労したでしょうね」

「誰とも外でごはん食べられないよね。可哀想に……」

 

 この忍者もエッジ並みに、耳が聡い。

 それをすっかり忘れて、ライザと一緒にひそひそ声で同情していると。

 

『これでよろしいですか?』

「わっ」

 

 ツクヨミの身体の動きが止まった。

 すると、こちらを向いて少しかじったアイスを差し出してきた。

 

『見た目に反して美味しかったです。奥様にそうお伝え下さい』

「ど、どうも……」

『早くお召し上がりください。溶けてしまいます』

 

(おばちゃんに失礼なことを言っちゃった気がするけど……)

 食べたことには変わりはないからセーフだ。

 そう思いながら、食べかけのアイスを素直に受け取り、すぐかじりついた。

 

「——ちょっとリディア」

「え、何?」

「間接キスよ、それ」

「ああっ!?」

 

 ライザから指摘されて、顔から血の気が引いていく。

 甘いものに気を取られて、うっかり大事故を起こしてしまった。

 

 間接キスは、ある人が唇で触れたモノに、別の誰かが唇を重ねること。

 夫婦や恋人同士なら許されるが、恋人ではない異性同士では大問題だ。

 リディアには恋人はいない。けれど、ツクヨミに恋人がいたら迷惑極まりないだろう。

 

『大変申し訳ございません……! 全く気付きませんでした』

「ライザ、どうしよう……」

「ツクヨミさん。食べてもらっていいですよね?」

『はい』

「ほら、もう食べちゃいなさい」

 

 ライザがリディアに食べるよう勧めて、ツクヨミに許可を取ってくれた。

 ツクヨミに返せば、またまた間接キスが発生してしまうからだろう。

 

「……ツクヨミさん、ごめんなさい」

 

(あたし、何やってるんだろう……でも、美味しい……)

 ツクヨミに、アイスを食べながら頭を下げて謝った。

 

『いえ、こちらが悪いのです』

「でも、彼女さんが知ったら怒ると思います……」

『ご安心下さい。そんな人、おりませんから』

「彼女募集中なのかしら?」

『いえ』

「ま、まさか、女の人に興味がない」

『——違います』

「あっ、そうなんだ」

『職業柄、すれ違いが目に見えておりますから、探す気になれないのです』

 

 ツクヨミの寂しい答えを聞いて、昨年のクリスマスの出来事を思い出した。

 

 —— —— ——

 あの時、ツクヨミはこう叫んでいた。

 

『——どうしてこんな生き方しなきゃならないんだっ!!』

 

 ツクヨミは周囲から迫られて、仕方なくお城勤になった。

 時間が不規則になり、恋人とすれ違いが続いた末、喧嘩したのだろう。

 リディアはそう推測していた。

 —— —— ——

 

(どうして怒ったのかな??)

 恋人がいない。探してもいない。ツクヨミはそう言った。

 では、彼はあの時、一体何に憤っていたのだろう?

 お城勤になるよう圧を掛けてきた、誰かに対して怒りを感じたのだろうか? 

 

「諦めちゃだめですよ」

「そうですよ。お仕事を理解してくれる方、いると思います」

『いえ、僕は……一生独り身を貫く所存でおります』

 

 ツクヨミの独身宣言を聞いて、リディアはぎょっとした。

 

「な、何寂しいこと言ってるんですか!?」

「まだお若いのに、そんなことおっしゃらないで」

『お気持ちは大変ありがたいのですが、既に覚悟は決めておりますから』

 

 ツクヨミは首を横に振りながら、諦めを口にした。

 ただでさえ、とても静かで大人しい人なのに。

 リディアには、今にもツクヨミが消えてしまいそうに見えた。

 

(恋人どころか、人生まで諦めちゃってそう……)

 ツクヨミの人生は、決められたレール——お城勤——の上を歩くだけ。

 お城勤の仕事の合間に、ミストにやってきてひとり自然と触れ合う。

 この繰り返しで一生を終えてしまうのか? 本当にそれでいいのか?

 リディアも独身の道を選んだけれど、人生までは諦めていないのに。

 

§

 

 程なくして、おかわりもリディアのお腹の中へ消えていった。

 

「はぁー、美味しかったぁ……」

「あなたは人の2倍が適量ね」

「3倍だよ」

『……くくっ』

 

 満足気に声を上げると、左隣からくつくつ笑い声が聞こえてきた。

 その方向に視線をさっと向けてみれば。ツクヨミが身体を震わせながら笑いをこらえている。

 

「笑わないでちょうだい!」

『も、申し訳ございませんっ……!』

 

 きっとにらみつけながらツクヨミへ一喝すると、怯えたような声で謝罪してくれた。

 

(あたしは見世物じゃないっ!)

 まさか、先ほどの間接キスも確信犯ではなかろうか? 

 そんな邪推をしてしまうぐらいには。

 甘味へのただならぬ執着から生じる、リディアの人外れの行動や言動を。

 ツクヨミは、見たくて聞きたくてたまらないように思える。

 

「……ジャンヌさんにアイスの作り方、教えてもらおうかしら」

「いいね、それ。今から聞きに行く?」

「そうね。お礼もしなきゃいけないし……」

 

(ベスたちに作ってあげたいよね)

 ライザはブリザドを使えるようになったばかり。

 娘たちに頼まなくても、自分で飲料用氷を作れるようになった。

 ふたりの娘と、ふたりの生まれて初めてのお友だちに。

 冷たいおやつを振る舞うつもりでいるのだろう。

 

『それでは、僕はこの辺で失礼いたします』

「今から森林浴ですか?」

『はい。ミゼルさんも探さなければなりません』

「お医者さんのお宅でお会いしましたよ。くつろいでいましたし、今もいらっしゃると思います」

『……そうですか。では、そちらに向かうことにいたします』

「あぁ、待ってください」

 

 ベンチから立ち上がったツクヨミを、ライザが呼び止めた。

 ミストの地図を見せて、ウリエルの自宅位置を指示している。

 

(今日も丁寧な挨拶を残して、煙のように消え去るのかな?)

 場所を教えてもらうと、ツクヨミが直立不動の姿勢を取った。

 これで本日はお別れだろう。

 

『——リディアさま』

「はい?」

『少し、お顔を上げてもらえないでしょうか』

「え……」

 

 リディアが素直に顔を見上げると、目の前のツクヨミが少しかがんだ。

 何をするのだろう?

 そう思っている間にも、大きな右の手が眼前に迫ってくる。

 

『——まだ残っておりますよ?』

「っ!?」

 

 ツクヨミがそう言いながら、左の口元に近い頬を、そっと撫ぜてきた。

 

「あら、まあ……」

 

 右隣に座るライザが、軽く驚いたような声を上げている。

 

 先ほど食したアイスで、うっかり汚れた箇所を指でぬぐい取ってくれたらしい。

 ツクヨミの手が離れていった途端。羞恥でいたたまれず。

 撫ぜられた跡を手で覆い隠しながら、またうつむいてしまった。

 

(この人、エッジじゃないのに……!)

 誰かさんとの、月に一度の睦事が脳裏によぎってしまった。

 暗闇の中で、何度も撫ぜてもらった時の感触。

 そして、ツクヨミに撫ぜられた時のそれがそっくりだったせいで……。

 

『綺麗になりましたよ』

「ど、どうも、ありが」

『——それでは、明朝またお会いいたしましょう』

「あっ! 待って!」

「えっ?」

 

 ツクヨミがリディアを遮り、一方的に挨拶を済ませると。

 リディアとライザの目の前から、ぱっと姿を消してしまった。

 

「……ごみ、捨ててくるね」

「ええ」

 

(どこかに飛んだのかな? また木の中に隠れちゃったのかな?)

 リディアは手にしていた棒切れを、ごみかごへ捨てに行って戻ってきた。

 その間、周囲を見回したが、リディアとライザ以外誰も広場にいない。

 

「綺麗に去って行ったわね」

「いつもあれなの。お礼言えなかったよ……」

「あの指、どうするのかしら?」

「服で拭くんじゃない?」

「舐めてるかもしれないわよ?」

「ええっ!?」

 

 ライザが口にした推測を聞いた瞬間。驚きの声を上げた。

 あのツクヨミが、今頃お面を外してアイスがついた指をぺろぺろ……。

 うっかりそんな姿を想像してしまったのだ。

 すると、隣からくすくす笑い声が聞こえてきた。

 

「冗談よ」

「もう! そんな風に聞こえなかった……!」

「でも、初めてまともにお話したわ。ちょっと変わってるけどいい人ね」

「うん。いい人なのは、間違いない」

 

 ライザは心を開く人間が限られている。そんな彼女が、いい人と言うのだ。

 ツクヨミは本当にいい人である。

 

(エッジに冷たいし、わがままだけど)

 エッジからもあまりされたことがない、蝶よ花よの対応には困惑するけれど。

 アドニスのような嫌悪感はない。

 

「……アリサがいなくてよかったわね」

「今頃、『あんな最低な奴ほっといて、ツクヨミさんにしなさいよー』って言われてたかもね」

「あの子の前で、それやっちゃだめよ?」

 

 お得意のアリサの真似で、おどけるように話すと。

 ライザが怪訝そうな顔で、やんわりたしなめてきた。

 なぜなら、アリサ本人の前で披露すると怒ってくるから。

 

「でも、そっくりでしょ?」

「ええ……」

 

 それでも、エッジからもお褒めの言葉をいただいている。似ている自信はすごくある。

 リディアは自身を指さすと、ライザが表情を曇らせてうつむいてしまった。

 

「どうしたの?」

「わたし、エッジ様のことだけはアリサと意見が合わないの」

「……前からだったよね」

 

 1年前。リディアがライザたちに、エッジへの思いを打ち明けた。

 それ以来、彼の話題が出る度に、アリサは彼に厳しいことを言う。

 一方、ライザはエッジに触れないか。擁護めいたことを口にする。

 

 —— —— ——

 エッジが来なくなってからも、それは変わらなかった。

 7の月が明けてすぐ。

 ライザとアリサを自宅に招いて、置き手紙の一件を報告した。

 

 すると、ライザはエッジには触れず、こんな助言をくれた。

 日常生活に支障をきたさないように。当面の間、寂しさを紛らわせる方法を探せ。

 

 一方、アリサは黙ってリディアの前から去ったことが許せなかったようだ。

 一般的な意見の代弁と称して、エッジを散々罵った。

 —— —— ——

 

「別にライザも悪く言ってもいいんだよ? ふたりなら、わたし気に」

「——言わないわ」

「え?」

「わたし、あなたのファンだから」

「!?」

 

 思いがけないライザからの言葉に、驚きのあまり大きく目を見開いた。

 

「あなたがエッジ様を本当に嫌いになったら、アリサと同じことを言うかもしれないけど……」

 

 特定の人物や対象を、無条件で応援する者をファンと呼ぶ。

 今までライザは、彼女自身がファンと信奉するリディアの心情を優先して。

 あれやこれや言ってくれていたということになる。

 

「も、もしかして、ベスとユノもわたしのファン!?」

「当たり前じゃない。昨日も、『学習』の担当があなたじゃなかったから、ユノ泣いてたのよ?」

「まさか、署名の話をすぐ受けたのも……?」

「エッジ様やミゼルさんの悪口が少しでも減るかもって思ったの。白魔法導入するって聞いたら、西の人たちは黙っていないでしょう?」

「ほ、本当なのそれ……!?」

「ええ。白魔法……覚えられるといいんだけど、自信がないのよ。ケアルも無理だったらどうしようかしら……」

 

 束ねた署名用紙を抱き抱えながら、ライザが自信なさげに笑った。

 

 —— —— ——

『あなたの存在こそが、ライザさんに影響を与えて、突き動かしているのです』

『わたしが、ライザを……?』

『あの方は、あなたのためなら、それぐらい文句も言わずにおやりになりますよ』

 —— —— ——

 

 ツクヨミが話した憶測は本当だった。

 しかも、先生の味方と言ってくれた、ライザのふたりの娘まで……。

 

「ありがと、ライザっ!!」

「きゃ、っ」

 

(あたし……幸せ者だ!!)

 リディアはライザを強く抱きしめて、すぐ離れた。

 ライザは小さく驚きの声を上げただけ。

 両手で抱えていた署名用紙も落とさなかった。大したものだ。

 

「ライザならケアルは余裕だよ!」

「本当?」

「あたしが保証する。絶対覚えられるからっ!」

「そうなのね。あなたを信じて、これからがんばって習得するわ」

 

 白魔法は、精神——思いの力——が何より重要である。

 芯が強いライザなら、ケアルは余裕で習得出来る。

 

「このこと、アリサは知ってるの?」

「また言ってる……みたいな視線はたまに感じるから、もう気付いてるんじゃないかしら?」

「ははっ……」

「あの子も、ああ見えてあなたをすごく心配してるのよ。それだけはわかってあげてね」

「……ちょっかいが増えたのって、そのせいだよね」

「あら、気付いてたの?」

「だって、今月に入ってから露骨だもん」

「わかっているならいいの。いつ大喧嘩するかひやひやしてて……」

 

 今月に入ってから、アリサがやたらちょっかいをかけてくる。

 リディアはその理由にうっすら気付いていた。

 

 アリサは、エッジのことでうじうじするな。

 リディアへ遠回しにそう喝を入れてくれているのだ。

 言われたすぐは反発してしまうけれど、喧嘩や嫌おうとは思わなかった。

 

 なぜならアリサは、リディアとの関係についてだけ、エッジに不満なだけだから。

 彼女はエッジを魔法漏洩の犯人と疑ったこともない。

 彼のデマを言わない。言いふらさない。

 エッジを疑った息子——オリバに1時間掛けて説教したぐらいだ。

 

「ライザたちに、秘密打ち明けてよかったよ」

「……そう言ってくれると嬉しいわ」

「ふたりがいなかったら、今日もお昼ごはんブラウニー食べてたよ」

「アイスもブラウニー風味だったし、食べずに済んでよかったじゃない」

「さすがに同じ味が続くと飽きちゃうよ」

 

 エッジがいない日常が始まってから、2週間以上が経過した。

 もっと打ちひしがれるかと思っていたけれど。日常生活に支障は出ていない。

 

 これはもう、大好物の甘いもの。

 そしてだいすきな親友ふたりが、そばにいてくれたのが大きい。

 リディアはそう信じてやまない。

 

「ツクヨミさんも、わたしといっしょだと思うわ」

「えっ、あの人もファンなの??」

「あなたには応援したくなる何かがあるのよ。あの人も、幸せのお手伝いをしたくてたまらないんでしょうね」

 

(言われてみれば……)

 先ほどの間接キス。ニ度もリディアの前でひざまずき。

 挙げ句の果てには、リディアの幸せのお手伝いをすると明言する始末。

 

 リディアを王女に見立てて、自身はさながら忠実なる騎士。

 時折そんな振る舞いを見せる、あのツクヨミならファンであってもおかしくない。

 

「そろそろ行きましょうか」

「そうだね」

 

 リディアたちは立ち上がり、ジャンヌの自宅がある南方向の出口に向かう。

 4、5歩進んだところで、ライザがこんなことを口にした。

 

「そういえば、あの人。ミゼルさんに用があるって言ってたわね」

 

 何気ない言葉を耳にした途端。現実に引き戻されて、うなだれてしまった。

 

「どうしたの?」

「今年の花火に来るの……ツクヨミさんひとりだけなんだって」

「あぁ……」

「おじちゃんに伝えなきゃって言ってた」

 

 白い石畳の地面を視線で追いながら、ぼそぼそ小さな声で話した。

 すると、ライザがぽつりとこうこぼした。

 

「寂しいわね」

「わたしも……」

「あなたは、わたし以上でしょう」

「来年や、その次の花火もだけど……本当にこれからずっとここに来ないんだなあって思って……」

 

 リディアは中途半端に言葉を切った。

 自ら寂しいと口にしたら、ますます寂しくなってしまいそう。

 

 しばらく無言で歩いていると、突然肩に重みを感じた。

 顔を上げてみれば、ライザが自分の肩に手を置いて微笑んでいる。

 

「なぁに……?」

「今年の花火は、ある意味思い出に残るわよ?」

「えっ」

「あなたがアリサを喜ばせる機会なんて、そう滅多にないでしょ?」

 

 ライザから助言を与えられて、はっと我に返った。

 エッジが花火大会に来ない。

 それを知って、もれなく大喜びする人物がひとりいた……。

 

 —— —— ——

 置き手紙を残したぐらいだ。エッジは、今年の花火大会には来ないかもしれない。

 月初めに、リディアたちはそんな予測を立てた。

 その際、アリサが楽しそうな表情でこう言った。

 

『だったら、あたしと一緒に花火しましょーよ!』

 

 ラルフは、一昨年から花火大会の手伝いをしている。当日は朝から忙しい。

 3人の息子からは、子ども同士で遊ぶと事前通告されたという。

 

『今年は身重だから、ラルフと一緒に歩き回るのきついのよー』

 

 アリサもリディアと同じ。今年の花火大会をどう過ごすか悩んでいたのだ。

 —— —— ——

 

 こんな珍しい年もあるものだと、お互い楽しめばいい。

 ライザはそう言いたいようだ。

 

「……忘れてた」

「もう、アリサが聞いたら怒るわよ?」

「やだよ! 絶対言わないで!」

「言いません」

「あぁ、よかったぁ……」

「気持ちはそのまま置いておいて、すぐ先の未来を見ましょうよ」

 

 寂しい気持ちは無理に消せない。ならば、日常を過ごして慣れていくしかない。

 来年のことは来年。再来年のことは再来年……。その時に考えればいい。

 

(エッジにも、似たようなこと言われた……!)

 ライザの励ましの言葉は、リディアに昔の記憶を蘇らせた。

 

 —— —— ——

 初恋の人セシルと、親友以上の存在であるローザの結婚式の日。

 セシルを諦められないまま、複雑な思いで式に参列した。

 

 エッジは当時、リディアのセシルへの不毛な思いに既に気付いていた。

 幻獣の洞窟での別れ際。

 リディアはエッジに煽られてしまい、セシルの思いをこらえきれず、わあわあ泣いた。

 そして、エッジからこんな励ましの言葉をかけられた。

 

『特効薬は時間だ、時間』

 

 —— —— ——

 

 日常から、エッジはいなくなったけれど。

 教訓を含めたたくさんの思い出が、心や記憶の中で残っている。

 誰が何と言おうが。時折寂しさで胸がいっぱいになろうが。

 エッジのことを思い続けよう。

 改めてリディアはそう心に誓った。

 

「お泊まりに、薬草園でしょ。それが終わったら花火。演奏会は秋に延びちゃったし……」

「この時期は、行事が多いもの。早速ですが、明日もお手伝いお願いしますね」

「『はい、かしこまりました』」

「……そっくりなのは雰囲気だけね」

「声はさすがに無理だよー」

 

 生まれて初めてツクヨミの真似を見せてあげたら、また何とも微妙な評価。

 それでも、ライザとお互いに苦笑し合いながら、広場を後にしたのであった。

 

 —— —— ——

 リディアとライザは全く気付いていない。

 実はツクヨミが、広場から去ったように見せかけただけで。

 樹木の上から、微笑ましくふたりを眺めて会話も聞いていたなんて。

 —— —— ——

 

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