フェイクラバーズ 作:かえで
——8の月10日 午前10時
軍事大国と呼ばれて久しいバロンは、今も昔も地上で最も栄えている国である。
国王さまが暮らすバロン城も、やはり金銀きらきらしている。
ただ、地下に設けられた飛空艇工場は、城内の豪華絢爛さとは縁が薄い。
工場では毎日朝から晩まで、技師のシドと彼のお弟子さんが作業をしている。
飛空艇の製造や実験の合間に、シドの怒鳴り声が聞こえてくるけれど。
工場内は常に活気があふれている。
「おじゃましまーす……」
そんな工場の中に、リディアは小さな声で挨拶しながら入った。
「やっほー、リディア。久しぶりぃー」
少し色黒の少女が鉄箱を抱えながら、そばに近付いてきた。
「久しぶりだね。今日はこっちなんだ」
「今日『は』じゃないよ。今日『も』だよ」
桃一色の軽装に、首からぶらさげた作業用ゴーグル。
そしてサンバイザーをかぶる、この少女。
何を隠そう、地底唯一の国。ドワーフ国の王女ルカである。
「よう、リディア」
「——シドおじちゃん!」
この工場の主シドも、リディアたちのそばにやってきた。
ドワーフは、ものづくりに特化した国。
バロンに匹敵するほどの軍事力を誇り、バロンと相互関係を築いている。
ルカも機械いじりが大好きで、以前からバロンを訪れていたが。
一昨年、シドがただならぬ才能を見出して、彼女を弟子にした。
「わしの顔が見とうなったかぁ?」
「やだ、もう! 朝っぱらから何言ってんのぉ!」
おどけたように話すシドに、リディアは大笑い。
ちょっと荒っぽいけど、気さくなシドがリディアは大好きだ。
「それはおまえさんもじゃろ」
「え」
「朝も早よから、ここに何しに来たんじゃ?」
「黒魔法教えに来たの?」
「ちがう……」
「それとも何じゃ? どっかの国王みたいに脱走してきたかぁ?」
シドが腹を抱えてげらげら高笑い。
どこからどう聞いても、エッジのことを指している。
「けっ、健康診断……」
リディアはばつが悪そうな表情で、シドたちにそう答えた。
嘘は言っていない。
けれど、どうにもこうにも後ろめたい理由があるせいで。
こんな風な返事になってしまった。
—— —— ——
『8の月1日、午前10時。ミストをご訪問の上、内容を詳しくご説明申し上げたく存じます』
白魔法巡回指導の打ち合わせに出席するのはいい。
しかし、ミゼルは魔法専門外な上に、ひとりでは心細い。
ライザから頭を下げられて、リディアも同席することになった。
そして、新しい月に変わった朝。
ミストに女性職員と、なんとローザがやってきた。
運営2トップの片割れでもあり、バロン王妃さま直々のご訪問だ。
公民館の一室で話し合いした結果。
今月の25日から、男性講師1名がミストに派遣されることが正式に決まった。
ミストのおじさんたちは、若くて綺麗な女講師を希望していたから残念がるだろう。
巡回指導の説明と契約締結してから、雑談に入った。
早速リディアは、先日の寄合で気になったことをローザにたずねた。
『ダイエット出来ない人って、白魔法使えないの?』
『そんなことないわ。痩せる意志と人を癒やす意志は別。どんな体型でも、本人の意志次第で習得出来ます』
白魔法の第一人者から、素晴らしいお返事をいただいた。
これでラルフも安心して白魔法を覚えられる。
そして、ローザたちが帰る直前。
リディアはチャンスとばかりに、ローザにこう耳打ちした。
『バロン城で健康診断を受けたいの』
『ミストで受けられるでしょう?』
『それが……内緒で妊娠検査もして欲しくて』
『……』
『だめかな?』
ローザは、すぐに訳ありと気付いたようだが。
ミゼルや職員がいる前で、リディアに理由を問える訳がない。
『……わかりました。明日以降にお手紙送るわ』
ローザがそう言い残して、バロンに帰った翌々日。
リディアの元に手紙が届いた。
『10日の朝9時。バロン城へ来るように』
ついに本日、健康診断当日を迎えてしまったけれど。
結局、月のものはさっぱり来ぬままであった。
—— —— ——
「結果出るまで待っててって、ローザに言われたの」
「仕事しとるんだな」
「うん」
ローザとは、本日出迎え時と診断終了後に会っただけ。
飛空艇工場は、作業風景を見ているだけでも楽しい。
ローザのお仕事が終わるまでの時間つぶしにもってこい。
だから、工場見学に馳せ参じた次第である。
「まあ、セシルもじゃが、ローザも立場に甘えんからなあ」
シドの言う通り。ローザは王妃だからと言って、贅沢優雅な暮らしはしていない。
—— —— ——
セシルとローザの息子、セオドアは現在8歳。
昼間は、剣術魔法の修行や勉強に明け暮れる日々を過ごしている。
セオドアに手がかからなくなったことで、ローザも昼の間だけ白魔道士団の指導。
そして、白魔法巡回指導の運営のお仕事をするようになった。
—— —— ——
しかもローザは、この夏から巡回指導の依頼先へも顔を出すようになった。
そういった事情もあって、8の月の頭にミストに足を運んでくれたのだ。
「おまえさん。まだ若いのに、健康診断受ける必要ないじゃろ」
「……おじちゃんが健康気にしなさすぎなの」
「そうそう。若いうちから体調気遣うのはいいことだよ」
「がははははっ! 何を言うとる!!」
「何よお?」
「1週間ここに泊りがけで、ろくに寝ずの奴が偉そうによう言えたもんじゃ!」
「師匠も2週間おうち帰ってないじゃん!」
師弟ふたりの飛空艇工場かんづめ自慢に目を丸くした。
(いっしゅうかん!?)
シドはまあよし。唯一の家族だった娘さんが、数年前お嫁に行ったから。
問題はルカだ。
まだ12か13歳なのに、ここに入り浸り(しかもほぼ不眠不休)で大丈夫なのか?
「ちょっと、ルカ」
「なにー?」
「ドワーフ城に帰らなくていいの?」
「いいのいいの。わたし、師匠のお弟子さんだもん」
「ジオット王、泣いてると思うよ?」
—— —— ——
口癖がラリホーというぐらいには。ドワーフ族は明るく、あまり物事を深く考えない性格。
ルカいわく『ドワーフ精神』のそれは、超楽観主義ともいう。
もちろんジオット王もルカも、それにがっつり当てはまる。
—— —— ——
そうは言っても、未成年かつ最愛のひとり娘が外に出かけて全く戻ってこない。
そんな現状に、ジオット王は不満ではないかと思ったのだ。
「全ー然。どうせ結婚したらお城出てくし、予行演習みたいなもんだよ」
「嘘つくな。毎回ここ来てすぐに、ドワーフ王から早く帰ってこいって手紙が届いとるじゃろ」
「しーらないっ」
(ドワーフ王、やっぱり寂しがってるじゃない……)
シドに暴露されてしまい、ルカは面白くなさげな表情でそっぽを向いた。
リディアはドワーフ国王と王女——父娘の仲を案じてしまう。
「そろそろ運転の練習も始めたいんだよね」
「練習って飛空艇の?」
「そうだよ? 送り迎えも面倒だし、もう13だからね。来年にはぶいぶい乗り回してるんじゃない?」
「へえ、すごいなあ……」
「リディアならいくらでも乗せてあげるよ。いつでも声かけて」
(里帰り……どうしよう)
エッジには、毎回欠かさず幻獣界とミストを往復してもらっていた。
しかし、関係が切れたから、今年の秋どころか、この先はもう頼めない。
それでも、来年の春からはルカに送迎をお願い出来そう。
バロン城に入り浸りなら、声もかけやすい。
「じゃあ、その時またお願いするね」
「任せてよ。——師匠、なんかあったらまた呼んでね」
「はいはい」
「じゃー、ごゆっくりー」
「うん。頑張って……!?」
ルカを見送っていると、古い飛空艇が視界に入り、目を見開いた。
最近ほとんど乗ったことはなかった。けれど、よく見覚えがあり、思い入れがあったもの。
それがなぜここにある?
リディアは思わず、シドの肩を叩いた。
「ねえ、おじちゃん。あれって……」
「なんじゃ、あれ知っとるんか」
「エッジの飛空艇だよね?」
「ああ。あやつがもう乗らん言うてな——」
乗らないからと言って、ぽいっと捨てられない。
飛空艇をわが子のように可愛がるシドに返せば、何かに使うかもしれない。
先月、エッジがそんな理由で返してくれたという。
「今は飛空艇の新機能を試しているが、いずれ分解して部品を再利用しようと思っとるんじゃ」
「そうなんだ……」
「あいつもわしをじじい扱いせんだら、もっと褒めてやるんじゃがなぁ」
悪態をついているが、シドの表情は満足げ。
なんだかんだエッジのことを気に入っている証拠である。
見た目と違って、ものを大事にするエッジらしい処遇の仕方だと思う。
……思うのだが。
リディアの表情は、途端に暗くなってしまった。
「どうした? なんか寂しそうだの」
「ええ!? そ、そんなことないよぉ??」
じと目でにらんできたシドに向かって、慌てて否定した。
もちろん、そんなの真っ赤な嘘。
(寂しいなあ……)
エッジにはよくこの飛空艇で、いろいろな場所に連れてってもらったのに。
金の切れ目が縁の切れ目ならぬ、リディアとの切れ目が自家用艇の切れ目とばかりに。
エッジがリディアとの思い出の形跡を処分したように思えてならない。
そして、またまた思い知らされてしまったのだ。
……これまでの日常に、いかにエッジが深く関わっていたかを。
——それから30分後 午前10時過ぎ
地下工場を後にして、セシルとローザの私室に向かった。
「どうぞ」
私室の重厚な扉を軽く叩けば、ローザの声が聞こえてきた。
見た目と同じ重い扉を押し開けて室内に入る。
「……おじゃまします」
「待たせてごめんなさいね」
広い室内では、ローザがポニーテールの少女と立ち話をしていた。
—— —— ——
ローザはある時期を境に、長い金髪を後ろでひとつにまとめるようになった。
裾や袖が長い白基調のロングドレスを着て、肌の露出を抑えるようになった。
以前と比べて、とても落ち着いた風貌に変わっている。
—— —— ——
(珍しい……ピンクの髪かあ)
もうひとりの年端も行かぬ少女は、髪色と同じ桜色の服を着ている。
上半身を覆う半透明のケープと白いマントで、露出の高さを隠しているようだ。
「では、わたしはこれで失礼します」
少女が神妙な面持ちで頭を下げた。
「……1時間後にまたいらっしゃい」
「はい。失礼します」
ローザが複雑そうな表情で、少女とリディアを交互に見やる中。
少女が私室を後にする。その途中、リディアにも会釈をしてくれた。
(礼儀正しい子だなあ……!)
初見の少女の挙動や言動にどこか既視感を覚えるも感嘆した。
白魔道士団の中途入団者か。はたまた、ミシディアの修練者か?
しかし、今はそんなことを真剣に考えている余裕などなく……。
「なんか、お邪魔しちゃったみたいだね」
「……いいのよ。今まで工場にいたの?」
「うん。お弟子さんたち、どうでもいいことでまたおじちゃんに怒鳴られてた」
「もう、相変わらずなんだから……!」
ローザがくすくす笑い出した。
彼女はシドと付き合いが長い。彼の人となりをよく知っているからだろう。
—— —— ——
セシルやローザ、そしてカイン。
シドは昔から、彼らを娘息子同然に可愛がっていると聞いている。
カインは知らないけれど。ローザとセシルにとって、シドは父親代わりの存在である。
それは、ふたりが国王や王妃になってからも変わらなかった。
『セオドアはわしの孫じゃ!!』
シドが鼻息荒くしながらそう断言しても、ローザもセシルもセオドアもシドを咎めない。
それどころか、みんな笑い出すのだから。
彼らの信頼関係の深さが窺い知れるというものである。
—— —— ——
「さ、こちらへどうぞ」
「うん……」
ローザの案内で、応接スペースのソファに座った。
机の上には裏返しにされた1枚の紙と手提げの紙袋が置かれている。
(ひとりで育てるにしても父親の正体は絶対隠さなきゃ!)
ローザが対面の席に座り、机の上の用紙を手に取った。
まるで判決を言い渡されるようで、リディアはごくりとつばを飲み込む。
「どこも異常なし。健康そのものよ」
「それじゃあ……」
「ええ、妊娠していません」
「……」
「リディア?」
「……っ、うっ……」
結果が判明して安堵した一方で、エッジの子を宿すことが出来なかった。
複雑な感情をひとりで収拾つけられなくて。
リディアはぽろぽろと涙を流し、しばらく泣き続けたのであった。
§
「どう? 落ち着いた?」
声をかけてくれたローザに、首をぶんぶん縦に振る。
リディアの気持ちが落ち着いた頃合いを見計らっていたようだ。
「ミストにもお医者様はいるのに、おかしいと思ってたのよ」
「だって……相談出来る人、ほとんど……いなくて……」
ミストには、医師夫婦——ウリエルとアイリスがいる。
ふたりがバロン国王に選ばれて、定住医としてミストに移住した。
ローザはそれを知っている。
—— —— ——
今回はウリエルたちを頼らなかったのは、妊娠の有無に関わらず。
ミストでそういった検査を受けたら、相手がすぐにバレてしまうから。
リディアが身体の関係を持ってもおかしくない。
そんな男性、誰かいる? と聞かれたら、ミストのみんなはエッジを思いつくだろう。
だから、外部を頼らなければならなかった。
リディアの月のものが来ていないこと。
こうしてバロンで検査を受けていることを知っているのは。
今日の今日まで、ミストの中ではライザだけだ。
—— —— ——
「……やっぱり周期がズレてたんだね」
「ええ。女性の身体はすごくデリケートなのよ」
失恋や入学、新しいお仕事、引越しと言った環境の変化。
多忙にストレス。激しい運動やダイエットの影響……。
いろんな理由で周期が乱れる可能性が高くなる。
場合によっては、月のものが止まってしまうこともあるという。
(エッジが離れていくのが不安だったからだ……)
エッジがミストに来る回数が減ったと思ったら、夕方に帰るようになった。
もうすぐ、お別れする日がくる。
そんな不安に陥っていたから、周期がズレはじめた。
そしてその日が本当にやってきたことで、更に周期がズレたのだろう。
「あなたに頼まれた時から、ずっと気になっていたんだけど……」
「え?」
「まさか、誰かに襲われたりしたんじゃないでしょうね?」
「ち、ちがうよ!」
ローザから厳しい表情でたずねられて、真っ先に否定した。
もし見知らぬ男に襲われていたら、ジャンヌとミゼルに相談していた。
ミゼルの外のツテを頼って、ミスト以外の別の医師を紹介してもらっていたと思う。
しかし今回は、そのふたりを頼れないのでローザに依頼したのだ。
「それなら、誰かと合意の上で身体の関係を持っていたと言うことね?」
「うん……」
「その方は、あなたの恋人なの?」
これまた答えたくない質問を、ローザから投げかけられてしまった。
いたたまれなくなり、顔をうつむかせてから小さな声でこう答えた。
「……もう会ってない」
現状を答えることで、本当の答え——恋人ではありません——をぼやかした。
これまでリディアは、ローザと色恋の話をほとんどしたことがない。
話題に上がっても、『興味ないよ』と一蹴しておしまい。
今、この場でローザに嘘をつけない。
だからと言って、正直に答えたら彼女は怒るに違いないと思ったのだ。
「それは理由にならないわ。お相手の方と相談しなきゃだめよ」
「……その人に言いたくないの」
「仮に妊娠していたら、あなたはどうするつもりだったの?」
「……ひとりで……育てるつもり、だった」
「本気でそんなこと考えていたの!?」
「でも、これでよかった……これ以上、誰にも迷惑掛けずに済むもん……」
当初リディアは、出産に大いに前向きだった。
しかし、検査日が近付くにつれて迷いが生じていた。
—— —— ——
絶対は、絶対にない。
父親の正体を周囲や子ども、父親本人に絶対気付かれないとは限らない。
日を追うごとに、お腹がふくらんでくる。それをどうごまかす?
もし、子どもが大きくなって『お父さんって誰?』と聞かれたら、どう説明する?
もし、エッジに気付かれたら迷惑がかかってしまう……。
—— —— ——
国王さまの隠し子を出産することで起こりうる、いろんな問題。
頭の中に、そういったことが次々と浮かんでくるようになっていた。
「そうよ。子どもは好きな人と一緒に育てるのが一番いいの」
「やっぱり、そ」
「——それで、そのお相手の方って誰なの」
リディアを遮り、ローザが厳しい口調でたずねてきた。
聞かれたくなかったし、答えられない質問だ。
おもむろに顔を上げると、ローザが真剣な眼差しでこちらを見つめている。
視線に耐えきれず、また顔をうつむかせてしまう。
「言えない……」
リディアは小さな声で拒否した。
ここで名を答えたら、芋づる式でここまでの経緯を白状させられそう。
しかも夜の関係を結ばされても、セシルやローザに訴えなかった。
それぐらいには、リディアとエッジの関係にはセシルが絡んでくるのもある。
「どうして?」
「……ローザが、その人にすごく怒りそうだから」
ローザは何事も清く正しく美しくがモットーで、風紀に厳しい。
道ならぬ恋、禁断の愛といった関係を嫌う。セフレなんてとんでもない。
相手がエッジだと知ったら、彼に反発しかねない。
「当たり前じゃない!!」
「っ!?」
「あなたをこうして泣かせて悩ませてるのよ!? 黙っていられる訳ないでしょう!!」
ローザが声を荒らげるのは、とても珍しい。
それだけ本気で、お相手に怒っていると言うことである。
「それでも、言えない……ごめんなさい」
「……わかったわ。これ以上は聞かないでおきます」
ローザがそう口にすると、大きく息をついてから立ち上がった。
「お茶を淹れてくるから、少し待っててね」
「うん……」
リディアの頭を撫でてから、ローザが席を離れた。
ローザとセシルの私室には、小さなキッチンが備えつけられている。
ローザはお茶を淹れるのと同時に、感情を落ち着かせるためにそこへ向かったようだ。
ローザを待っている間。以前エッジがこう話していたのを思い出していた。
—— —— ——
『あいつの優しさってのは、ダチや仲間、弟子とか身内限定なんだよ』
『まあ、オレはその中に入ってねえみてえだが』
—— —— ——
先ほどのローザからは、リディアへの『優しさ』だけでなく。
『守る』『助ける』も入っているように感じられた。
(エッジに怒る未来しか見えないよ……)
ローザが、自分のために何かしてくれるのは嬉しい。
嬉しいけれど、度を超えた行動を取りそうで。やはり彼女に、相手の名を告げなくてよかった。
リディアはそう思ったのであった。
§
「お待たせしました」
数分後、ローザが銀のトレイを持って応接スペースに戻ってきた。
トレイの上には、ティーセット一式が載せられている。
先ほどまで、ローザから感じられた険しさもすっかり消えている。
リディアの目の前に置かれたカップの中に。
ローザが慣れた手つきで、琥珀色の液体を注いでくれた。
「今日は紅茶だね」
「ええ。いくらでもお砂糖どうぞ」
「へへっ、ありがと」
リディアは何の遠慮も見せず、机の中央に置かれた器から。
お砂糖をどっさり山盛りにすくって、カップの中に入れた。
……リディアの甘味好きは、ローザをはじめ仲間全員に知られている。
「いただきま……??」
カップに口をつけた瞬間。
紅茶独特の、草いきれの香りに混じって果物のような甘い香りも漂ってきた。
ライザが自宅でいつも淹れてくれるハーブティーの香りと一緒だ。
「どうしたの?」
「これ、カモミール入ってる?」
カモミールは入眠作用があり、精神安定にもってこいの薬草である。
「メリッサとチェストベリーも入っているわよ」
「……それもハーブだよね?」
「ええ。月経不順に効果があると言われているの。あとはクラリセージやジャスミンの香りもね」
カモミールやメリッサ、チェストベリーは女性特有のお悩みに効果がある。
その3種類の茶葉を紅茶に混ぜてある。
机に置いてある小さな紙袋には、その茶葉が入っているという。
「ミルクティーにした方がもっと飲みやすいでしょう。帰ったら試してみてね」
「うん、ありがとう……!」
茶葉を持ち帰るように勧められて、お礼を言うと。
ローザが、「話は変わるけど」と前置きして更に話を続けた。
「わたしね。あなたに今まで黙っていたことがあるのよ」
「なにを?」
「あなたがセシルのことが好きだって、昔から知っていたの」
「えぇ!?」
がちゃんと大きな音が立つほど、カップを荒っぽく机に置いてしまった。
それぐらいには、今更ながらも信じられない話を聞かされてしまった。
ゼロムスの戦いの頃から、ローザとセシルは恋人同士だった。
邪魔しないように、気付かれないように、ふたりに接していたつもりだったのに。
「セ、セシルも……気付いてるの!?」
「いいえ」
「もしかして、ローザ。わたしのこと、やきも……嫉妬してた!?」
思わず身を乗り出してまで、ローザに問い詰めた。
旅をしていた頃、ローザは姉のように寄り添ってくれた。
その一方で、やはり心中穏やかではなかったのだろうか。……自分がそうだったから。
「ほんのちょっとだけ」
「それ、いつ?」
「消えたあなたが、幻獣界からこっちに戻ってきた時ね」
「!」
「立派な召喚士に、綺麗な娘さんに成長して……それだけセシルに本気なんだって思ったの」
懐かしそうな表情で話すローザが一体何を言いたいのか、すぐわかった。
リディアの年齢的、能力的な成長は。
セシルへの思いあってのものが、とても大きかったから。
—— —— ——
セシルは謀略にはめられて、ミストを焼き討ちにしてしまった。
ミストドラゴンを倒したことで、エスタの息も止めてしまった。
彼は罪の意識に苦しみ、バロンの追っ手から逃げ続けながら。
小さなリディアを守ってくれた。
当時のリディアにとって、セシルは憧れでもあり、初恋の相手だった。
—— —— ——
「あ、あの時は……必死だったから……」
幻獣界に暮らすようになってからも、セシルの支えになりたい。
リディアはそう思いながら、修行の日々を過ごしていた。
もし、幻獣界に行かず、セシルたちと共に旅を続けていたら。
バハムートを含めた、全ての幻獣を召喚出来ていなかっただろう。
「いいのよ。あなたも、わたしに嫉妬していたでしょう?」
「うん……」
ばつが悪そうに答えたのは、他でもない。
当時からリディアは、ローザを慕っていた。
その一方で、うらやましい、セシルの恋人の位置を変わってほしいと思っていたから。
「気にしなくていいの。嫉妬は恋愛に限らず、人なら誰でも持ってしまう感情なんだから」
「それは知ってるけど……」
「逆にそれがあったから、今わたしはこうしていられるの」
「どうして?」
「嫉妬に囚われる暇があったら。努力をしたらいいと気付いたから」
聖騎士として身を挺して、仲間をかばい続ける恋人の助けになれるように。
恋人にとって、いちばんの存在になれるように。
そう思いながら、何かしら努力する時間に充てていたという。
「いかにセシルの支えになれるか……そればかり考えていたら、すぐに嫉妬は消えちゃったの」
「す、すごいローザ……!」
ローザは胸に湧いた嫉妬をバネに、努力を続けたということだ。
リディアはローザのセシルへの深い思いに、改めて感服した。
「それがなかったら、あなたが王妃になっていたかもしれないけどね」
「そんなことないよ。ローザはずっとセシルのことばっかりだったじゃない」
ローザは、おたずねものになったセシルの行方を探すために。
バロンを飛び出して、セシルと再会することが出来た。
月へ行って、ゼロムスと戦うのは男だけでいい。
ローザはそう決めたセシルたちに反発。
リディアと一緒に、出発前の魔導船にこっそり紛れ込んだこともある。
昔からローザは、いつもセシルの隣に寄り添っていた。
それをリディアは近くで見てきた。
だから、ローザを押しのけてセシルへ積極的にアタックしようとしなかった。
「でもね。当のセシルは、今もあなたの気持ちに気付いていないの……」
「もう過ぎたことだもん。これからも言わないでね」
「もちろんですよ」
「気付かれたらローザも困るでしょ?」
「そうね。動じないと断言は出来ませんからね」
ローザと互いに顔を見合わせて、くすくす笑い合った。
過去があるから、今こうして笑い合える。それを実感しながら。
「ひとつ聞いていい?」
「ええ。どうぞ」
「好きなひとを黙って見守る愛って、アリかな?」
好きなひと……エッジを黙って見守る愛を一生貫く。
この先、リディアはそう生きると決めている。
ただ、そんな決意に賛同してくれているのは、現状ライザだけしかいなくて。
誰かにもう一押しして欲しかったのだ。
「そうね……」
ローザが少し考えてから、こう答えてくれた。
「それもひとつの愛の形かもしれないけど、自己陶酔に浸っているようにも見えるわ」
「ああ……」
「もし、お相手の方に何かあった時に手を差し伸べてあげるのならアリね」
「ほんと?」
「でも、次はそばで支えてあげられる愛だといいわね」
(ごめんね……)
薄く笑みを浮かべたローザへ、心の中で謝罪の言葉を送った。
エッジ以外の男の人をもう好きにならない。リディアはそう決めている。
遠い地からずっとエッジを見守っていく。
そうすることで彼を支えていく。……なんて、言える訳もなく。
果たして、そんな日が来るかどうかわからないけれど。
もしも、エッジがにっちもさっちもいかなくなって。
たったひとりで困っていたら、駆けつけて励ましてあげたい。
それぐらいなら許されるだろう。
§
その後もしばらく、ローザと雑談を交わした。
妊娠のことやそのお相手のことをぶり返さないで欲しい。
心の中でそう戦々恐々としていたが、その話題はひとつも出なかった。
ローザが納得しているかどうかわからないけれど。
妊娠していなかったし、リディアが相手の名を口にしない以上。
話をしても無駄だと諦めてくれたのかもしれない……。
§
「今日は本当にありがとう」
「ばたばたして、ごめんなさいね」
帰る時間が訪れて、廊下に続く扉までローザが見送りに出てくれた。
「気にしないで、わたしもお昼から仕事だから」
リディアは本日、午前の『学習』を休んでバロン城にやってきた。
午後から黒魔法講座の授業。夜は夜で、月前半の寄合がある。
ローザもお仕事の続きで、あの少女がまたこの部屋にやってくるだろう。
リディアもローザも、そうそうのんびり出来る立場ではないのだ。
「健康診断はもうお断りよ?」
「大丈夫。これからはミストで受けるから」
極秘妊娠検査はごめんとばかりに、ローザが苦笑した。
もっとも、リディアにそんな可能性をもたらす相手は、今後現れないけれど。
「でも、やっぱり最後まで気付かなかったわね……」
「なにが?」
「さっきここに来ていた子。ポロムだったのよ?」
「……」
ローザが口にした言葉を聞いて、リディアは自身が知るポロムの姿。
そして、ローザの隣にいた少女を脳裏に浮かばせた。
「っ、うそだぁ!?」
ちんまり可愛かったポロムが、いつの間にかあんな綺麗な少女に成長していたとは……!
しかも、服装や髪形や髪色が変わっていた。
「やっぱり、気付かなかったのね」
「ポロム茶髪だったよ? 別人じゃない!?」
「染めたの」
「あ、そうなんだ……」
「中身は昔と全然変わらないの。やっぱり、頻繁に会わないとだめなのかしら……?」
ローザが渋い表情を見せるぐらいだ。
リディアからつれない態度を取られるとは……。
ポロムもそんな予想をしていなかったかもしれない。
「ポロム、今どこにいるかな?」
「白魔道士団の詰所ね」
「じゃあ、そこに寄ってから帰るよ」
「ぜひそうしてあげて。すごく喜ぶわ」
(あ、謝らなきゃ!)
ポロムは、白魔法の師——ローザとは頻繁に顔を会わせている。
しかし、リディアと最後に会ったのは、3年ぐらい前だ。
それからも文通は続けていたが、髪を染めた、服を変えた。
そんなこと手紙には一言も書かれていなかった。
「……あのね、ローザ」
「どうしたの?」
「今日のこと、誰にも言わないで。——おねがいっ」
「安心して。医者いらずの健康体でした、とだけ言っておきます」
「あ、ありがとう……!」
「どういたしまして」
「それじゃあ、またね」
「ええ。気を付けて帰ってね」
(大丈夫! ローザは口が堅いもん!)
お互いに軽く手を振ってから、廊下に出て扉を閉めようとした時。
『……を……なんて……さない……!』
ローザが不穏な気配を漂わせながら、何かぶつぶつつぶやいていた。
(早くポロムのところに行って、謝って……きれいになったってほめてあげたいな)
この時、リディアは既に思考を切り替えて、ポロムのことで頭がいっぱい。
ローザの不審な挙動に気付かないまま、私室を離れたのであった。
§
ポロムに会いにいくまでの道のりは、実質帰り道でもある。
白魔道士団の詰所は、謁見の間と城の玄関を繋ぐ中廊下の途中に設けられている。
詰所に足を踏み入れると、真っ白なローブを着た白魔導士であふれかえっていた。
(いた!)
全身桜色の姿はとても目立つ。ポロムの姿をすぐ見つけた。
ポロムはバロン城の出入りが多く、もはやおなじみの存在だからか。
すっかり場に溶け込んでいるように見える。
雑談したり、はしゃいだり。
各々休憩している白魔導士たちをよそに、ひとり机に向かって、書き物をしている。
そんなポロムの元に、そろそろとした足取りで近付いた。
「——ポロム?」
「リ、リディアさん……!」
「ポロムだよね?」
「ええ、どうもお久しぶりです」
ポロムが慌てて立ち上がり、一礼してくれてから。
リディアも頭を下げる。まずは謝罪だ、謝罪。
「さっきはごめんね。全然気付かなくて……」
「いいんです。謝らないでください」
「でも気分悪かったでしょ?」
「いえ。リディアさんが、それどころじゃなさそうでしたから……」
申し訳なさそうに答えるポロムに、ぐっと息を詰まらせた。
(どうして気付かなかったんだろう……)
ポロムは小さい頃から、とても気が利く女の子だった。
彼女なら、セシルとローザの私室であんな対応を取る。
姿が変わっただけで、他人だと思い込んだ自分が情けない。
「わざわざ声をかけてくださって、ありがとうございます」
「知らないうちにすごく綺麗になってて、びっくりだよ」
「そんな……」
「どうしてピンクに染めちゃったの?」
「これは、適当に選んだだけなんですよ」
ポロムが少しはにかんだ笑顔を見せながら。
リディアに指さされた自身の髪を少し持ち上げてから。
容姿変更——イメージチェンジの理由を教えてくれた。
—— —— ——
双子の弟パロムは、評判があまりよろしくない。
そんな中、弟と見間違えてポロムに苦情を申す人たちが多かった。
ポロムの性格上、弟の不義をその都度丁寧にお詫びする。
それでも、苦情が来ないに越したことはない。
何かいい方法はないだろうか?
ポロムはバロンを訪れる度に、ローザへそんな相談をしていたという。
—— —— ——
「パロムを変えるのは難しいから、見た目をパロムと変えたらどうかと、ローザさんにおすすめされて……」
「差別化図ったんだね」
「そうです」
「おしゃれしたくなるお年頃だもん。ちょうどよかったじゃない」
「ええ……」
「どうしたの?」
ポロムが憔悴したような表情に変わり、弟に対する不満を話し始めた。
既に手紙に書かれていた内容が多数を占めていたけれど。
中でも、リディアが気になったのは『生徒とのトラブル』であった。
—— —— ——
パロムは能力が低い者を見下す傾向にある。
黒魔法を教える際、思い通りにならないいらだちからか。
生徒がちょっと手間取ると、こう煽るという。
『いい歳してこれも覚えられねーの!?』
『実力ねえからもう辞めろ!』
—— —— ——
「煽られた方は、以後黒魔法の習得を諦めてしまうんです。実家に帰って別の職業についた方もいると聞いています」
「うわぁ……」
「もしくは、キレてしまいパロムと喧嘩するのですが、魔法でとんずらされてしまうので、何にしても、みなさんパロムを避けるようになります」
指導する生徒のほとんどが、パロムより年上なのも衝突の一因かもしれない。
どちらにせよ、指導にならないという。
「思春期とかぶってるから余計かもしれないね」
「それでもやりすぎです。あの子は、プライドが高すぎる……」
パロムはリディアやミンウに次ぐ、世界で名だたる黒魔法の使い手。
幼い頃から、天才天才とほめそやされていたのもあって。
自らを『特別な人間』だと思っているようだ。
「来年から黒魔法の巡回指導も始まるよね。パロムどうするの?」
パロムは指導者にはさせない。
そう聞いているが、果たして大丈夫なのだろうか?
「ミシディアで運営の仕事を一任されると思います」
「……逃げられないようにするんだ」
「はい。最近は幻獣界に行きたいと、ミンウ様にわがままばっかりなんです」
「反対されてるでしょ?」
「もちろんです。ろくに指導が出来ない以上、お許しになる訳がありませんもの」
(ポロムやミンウさまの手を煩わせてばっかり……)
地上ではもうやることがない。いい加減、召喚術を習得したい。
そうミンウに訴えるも、一蹴される。
パロムの性格上、それで治まらないので、ミシディアから脱走。
ここ数年、それを繰り返しているという。
「——ごめんなさいっ」
ミシディアの事情を話し終えると、ポロムが頭を下げた。
「ちょっと、ポロム」
「リディアさんのところに、そのうちパロムが現れるかも……!」
パロムがリディアに幻獣界への口利きを頼みにいく。
先だってその謝罪を入れたのは一目瞭然である。
リディアはポロムが不憫に思えてならない。
(パロムはお姉ちゃんが気苦労してるの、知らないんだろうな……)
ポロムは、双子の弟のことを知りに知り尽くしている。
そのせいで、今後弟が起こすであろう行動を既に予測済み。
「謝っちゃだめ。頭上げて」
「出来ません。あの子は絶対ご迷惑をおかけするに決まってますもの」
「ポロムは何も悪いことしてないじゃない……ほら、頭上げるの」
「リディアさん……」
リディアに促されて、ポロムがおずおず顔を上げた。
「もしミストに来てもしっかり断るから、大丈夫だよ」
「っ、ありがとうございます……」
パロムたちの親代わりであるミンウが、許さないのだから。
幻獣界への修行をお勧めする訳にはいかない。
「そろそろ私、行かないと。またお手紙書きます」
「うん。今日は本当にごめんね」
「とんでもないです。おふたりの邪魔をするわけにはいきませんもの」
「邪魔じゃなくて、ポロムにはまだ聞かせられないの」
「え?」
子どもが出来ていたかもしれない。お相手は秘密。
もし出来ていたら、ひとりで子どもを産み育てるつもりでした。
そんな話、若いポロムには刺激が強すぎて、今は話せない。
「お話出来るようになるまで、もうちょっと待っててね」
ローザが本日打ち明けてくれた、10年近く前の出来事のように。
数年後に、笑い話として話せるようになるまで待って欲しい。
「……その時は、ローザさんも一緒ですよね?」
「当たり前じゃない」
「わかりました。ローザさんにもそう伝えておきます」
「うん。お願いね」
「それじゃあ、この辺で失礼します」
「お仕事がんばってね」
「ええ。リディアさんも!」
リディアの真意をすぐ汲み取ってくれたらしい。
ポロムがにっこり笑って、詰所から走り去っていった、
(若いっていい……あぁ、あたしも歳とっちゃったなあ)
10以上も歳が離れている、妹のような少女を見送ったリディア。
若さをちょっぴりうらやんでいる自分に気が付いて、苦笑したのであった。
§
その日の夜。寄合が行われる公民館に向かう道中。
リディアはライザに診断の結果を報告した。
『……残念だったわね』
ライザは、一言そう言っただけだった。
その時、どこか安堵したような表情を見せていたことから。
隠し子をひとりで産み育てようと考えていたリディアのことを。
本心では無茶だと思っていたのかもしれない。
その後、ふたりはアリサにも一連の騒動を打ち明けようと決めた。
ぎゃあぎゃあ言われるだろうが、彼女は親友。黙ったままではいられない。
——3日後 8の月13日 午後
花火大会まであと2日に迫った、連休2日目の午後。
リディアの自宅に、アリサとライザが遊びにやってきた。
休日の昼間。子どもたちは外に遊びに出かけてしまう。
そのため、こうして誰か——もっぱらリディアの自宅に集まることが多い。
3人揃ってゆっくり会うのは、5日ぶりである。
リディアは『防音結界』を張ってから。アリサに妊娠疑惑から検査までの経緯を話した。
「まーた、あたしを除け者にしたわね……」
「すみませんでした」
「ごめんなさい」
ぶうたれる様子で、机の上に頬杖をついたアリサへ。
彼女の対面に座るリディアとライザは、謝罪を口にした。
(肩身が狭いけど……仕方がないよね)
ただでさえ、アリサはハブられるのが大嫌いなのに。
超重要案件を秘密にされていたのだから、おもしろくないだろう。
「まーったく、しょーがないわねー。白状してくれたし、親友どもの顔に免じて許してあげるー」
「あぁ……! ありが」
「——あいつは死んでも許さないわよっ!!」
「っ!」
アリサが血相を変えて、だん! と机を叩いてきた。
リディアは思わず息を詰まらせる。
(とうとう『あいつ』呼びになっちゃったよ……)
アリサがエッジに怒りを露わにした。しかも、乱暴な呼び方。
どうやら彼女の中で、エッジの序列がまた低くなったようだ。
「って言うか、なんであんたひとりで悩んでんのー? 手紙送るなりして相談しなさいよー」
「そんなの出来ない……」
「だったら、今からでも遅くないから報告しときなさい」
「それもしない」
「どーしてー?」
「……困らせたくないもん」
「ばかじゃないのっ!? あんたがこうやって悩んでるかもしれないってことすら考えられないようじゃ、あいつもそこら辺の男と一緒っ! 中出ししなきゃへーきって、たかくくってんのよ!」
「やだ、もう……」
「真っ昼間からそんなこと言わないでちょうだい!」
明るいうちから、アリサがあけすけなことを口にして、ライザは顔を赤くする。
リディアは注意したが、アリサは女王さま気質。
周囲の注意や助言を聞いたことはほとんどない。
(アリサでこれだもん。やっぱり、ローザに言わなくてよかった……)
これまで彼女は『防音結界』の中で、不満をこぼしておしまいだった。
もしかしたら、今回は結界の中では収まらないかもしれない。
リディアがそう思った矢先。
「あんたが行かないなら、代わりにあたしがエブラーナ城に乗り込んで、あいつの目を覚まさせてやるわー!」
「!?」
アリサのとんでもない宣言を聞いて、驚愕した。
「やめて! そんなことしないで!」
(エッジとケンカしちゃう!)
エッジとアリサの間には、以前から見えない反発が漂っていた。
今ふたりを引き合わせたら修羅場は間違いない。
「苦しみは共に分かち合えって言うでしょーが!」
「わたしたち夫婦じゃないもんっ」
「そんなの関係ないわよー」
「……もういいじゃない。結局何もなかったんだから」
「っ、あんたは! またそうやってこの子を甘やかす!」
「リディアがやめてって言ってるのに、勝手なことしちゃだめでしょう?」
「くうぅぅ……! 何なのよあんたたち……甘すぎるのよぉ……!」
アリサがそう口にしながら、自分の髪をかきむしり始めた。
エッジ本人。そしてリディアとライザの、エッジに対する寛容さが気に入らないようだ。
「……どうしたの?」
1ヶ月前から、エッジの話題になると重苦しい雰囲気に包まれるのは、もはやお約束。
ぶつぶつ文句をつぶやいているアリサをよそに、ライザが席を立った。
「話はもう終わったでしょ?」
「えー、もう帰っちゃうのー?」
「待って、ライザ!」
玄関に向かうライザに、リディアとアリサが声をかけると。
彼女が振り向きながら、ふたりにこう告げた。
「公民館に本を借りに行くだけよ。すぐ戻ってくるわ」
「い、一緒に行く!」
「あたしもー!」
ライザの後を追おうとしたら。アリサまでついていくと言い出した。
「アリサは、臨月だからだめだってば」
「おばかさぁーんー。アイリスせんせーから散歩は許されてますのよー?」
「くっ……!」
アリサが勝ち誇ったような表情で、口元に手をやって高笑いする。
まるで女王さまのような仕草を見せる彼女に、何も言い返せない。
—— —— ——
アリサはこれまで出産直前になると。
夫と子どもを残して、ダムシアンの実家に帰っていたが。今は3人も子どもがいる。
ラルフに面倒を押しつける訳にもいかず、今回はミストで出産することに決めた。
いずれやってくるお産の現場には、定住医のアイリス。
加えて、助産経験がある『マダム』のメンバーふたりも立ち会う予定になっている。
—— —— ——
(さすが、お口の女王さま。強すぎる……!)
リディアが悔しさを露わにしていると。
ライザがアリサに見えないように、耳元に近付いてきた。
「……?」
「今日はもう、エッジ様の名前出しちゃだめよ」
「!!」
ライザがそうささやいてから、ぱちりとウインクしてくれた。
(話題を切り替えるために、わざと散歩……!)
場が重苦しくなった場合。ライザはいつも、何かしらの方法でとりなしてくれる。
リディアは彼女の意図を瞬時に悟ると、笑みを浮かべながら。
彼女に向かって顔をぶんぶん縦に振ることで、お礼の言葉に代えたのであった。
§
リディアの自宅は、ミストの集落の最南端にある。
そこから最北端にある公民館へ、リディアたち3人は歩き出した。
集落の路上は、ぎらぎらとした真夏の陽に照らされている。
「もうへなっちゃいそう……」
「干からびちゃうわぁー」
「早く秋にならないかなぁ……」
主にリディアとアリサが暑さに不満を垂れながら。
10分ほど歩き続けていたら、目的地に到着していた。
—— —— ——
本日は休日。
しかし、夏冬の帰省期間以外、公民館への出入りは自由だ。
その中にある図書室には、司書はいない。
カウンターや拝読場も置かれていない。
ぶっちゃけ、ただの本置き場と呼んだ方がいい。
—— —— ——
「すぐ戻るから、待ってて」
ライザがそう言い残して、図書室の中に入っていった。
リディアとアリサは、廊下でお留守番である。
「そういえばさー」
「なに?」
「今年のアイス、どこの奴なのー?」
突然、アリサから花火大会で配るアイスの仕入れ先をたずねられた。
「『……』ってお店、知ってる?」
リディアは先々月から、ダムシアンの某有名店の名物商品に狙いを定めていた。
先月の下旬に、そのお店を訪れて大量注文を済ませている。
「うわぁ、懐かしぃー! あそこの奴すっごく美味しいのよー!」
「ダムシアンのお店も選ばないと、誰かさんがうるさいからね」
「偉い偉ーい! よく選んでくれたわぁー」
店名を聞いただけで、アリサがぱあっと輝かせる。
肩をばしばし叩いてきたが、リディアは鼻高々である。
「でもさー、それどうやって運ぶのー?」
「う」
「あんたその日、講座でしょー? あいつも来ないんじゃ頼めないじゃない」
「……さん……した」
「は? 何? 聞こえなーい」
「ツクヨミさんに……お願いしたの」
「それ、どーせしもべから言い出したんでしょー?」
「そうとも……言います」
鋭い口調でのアリサの素朴な疑問に。
リディアはうつむいたまま、ぼそぼそお答えしてあげた。
—— —— ——
毎年アイスの運搬は、エッジが買って出てくれていた。
しかし、今年は来ないのだから頼みようがない。
そんな中、先月末の薬草園からの帰りに。
ライザと雑談していたら、たまたまアイスの話題になった。
『ひとりじゃさすがに運べないし、誰かに手伝ってもらわなきゃ……』
リディアが何気につぶやいたのを、ツクヨミは聞き逃さなかった。
『どちらのお店ですか』
『はい??』
『アイスを注文したお店です』
『……え、ダムシアンの「……」ですけど』
『かしこまりました。僕が当日、お店に引き取って参ります。そのお店に男性が取りに行くと連絡していただけると助かります』
『そんな……!? 悪いですよ!』
『アイス150個ぐらい、どうってことございません』
(エッジと同じ忍者……飛空艇の運転も出来る……)
エッジは毎年、アイスをひょいひょいミストに運んでいた。
ツクヨミも彼と同じことが出来るはず。
結局、リディアは真っ黒忍者のご厚意に甘えることにした。
—— —— ——
「ほーら、やっぱりー。最初っからそう言えばいいのにー」
「はは……」
リディアは苦笑するしかなかった。
さすがアリサさま。よくわかっていらっしゃる。
リディアからツクヨミへ、何かを頼んだことはほとんどない。
ツクヨミから、『僕が○○やります』と売り込まれたとすぐに気付いたようだ。
(またお勧めされちゃうなあ)
アリサは薬草園での出来事を聞いてから。ツクヨミのことを『しもべ』と呼ぶようになった。
そして、彼の話題になるといつもこう口にする。
「いっそのことしもべと付き合っちゃえばいいのにー」
「付き合いません」
「あんな甲斐甲斐しい男の人、そうそういないわよー」
「ラルフさんがいるじゃない」
「そーよー? 男に尽くし尽くされる人生って、たのしーわよー?」
「よく言うよぉ。相手それぞれ別なくせに……」
得意げに話すアリサに、じと目で言い返してあげた。
アリサは、ラルフにさんざん尽くしてもらっているのに。
彼女が尽くす相手はラルフではなく、ギルバートだ。
(どうせなら、ラルフさんに尽くしてあげたらいいのに……)
ついつい余計なことを考えてしまうのは、いつものことである。
しかも、リディアだけではない。ミストの住民、誰もがみんなそう思っていた。
「あらま、言うようになったわねー」
「長い付き合いだもーん」
「……お待たせ」
軽口を叩き合っていると、静かに扉が開く音が聞こえてきた。
ライザが書籍を借り終えて、図書室から出てきたのだ。
「おかえり」
「早かったわねー」
「ええ。すぐ見つかったから……」
「何借りてきたの?」
「これよ」
ライザが顔を隠すように、借りて来た書籍の表紙を見せてくれた。
『精神鍛錬の勧め』と書かれたその書籍。
その名の通り、精神を鍛える方法がたくさん載せられている。
精神依存の白魔法に師事する者には、お勧めの書籍である。
「うわー。旦那と一緒の奴ぅ……!」
アリサが顔を歪めたのは、ラルフがどこかで購入したか。
ここで借りたのか。そのどちらかだと思われる。
「講師の方がお越しになる前に、読んでおこうと思ったの」
「やる気満々だね……!」
—— —— ——
月が明けてすぐ行われた、ローザたちとの打ち合わせ。
そこでライザが、彼女にこうたずねていた。
『これまで何の修練も積んでいません。今からでも白魔法を使うことが出来るでしょうか……?』
『あなたはとても芯が強そうに見えるから、ケアルは習得出来るでしょう。それまで諦めないようにね』
(この言い方じゃ、ケアル以上も……!!)
白魔法の第一人者から、そんなお墨付きをいただいたのだ。
ライザもがぜんやる気が起こると言うものである。
—— —— ——
「じゃあ、さっさと帰りましょー」
「帰ったらおやつの時間ね」
「うんうん。早くフロランタン食べたーい……!」
出口に向かいながら、うっとりとした表情でつぶやいた。
フロランタンは、トロイアの焼き菓子。
リディアが人に振る舞うお菓子がブラウニーなら、ライザは大抵それだ。
「……わたしが作るのは『もどき』よ」
「本物と変わんないって」
苦笑しながら謙遜するライザを、リディアは一蹴してあげた。
ライザが作るフロランタンは、薄く切った食パンを土台としている。
それでも、とっても甘くて美味しい。
何より本場のフロランタン——クッキー生地が土台——と違う食感を味わえる。
「そう言ってくれると、ありがたいわ」
「あんたは甘けりゃなんでもいーもんねー?」
「据え膳も!」
「やだ、もう……開き直っちゃって……!」
「自分で言ってりゃ世話ないわねー」
冗談に冗談で返したリディアに、アリサやライザが笑う。
家を出る前に3人の間で漂っていた重苦しい空気は、すっかり霧散していた。
リディアたち3人は、一部の話題を除いて女の固い友情で結ばれている。
だから、こうなるのは当たり前なのだ。
§
「……あら?」
公民館の玄関を出ようとしたリディアたちは、思わず立ち止まった。
遠く——門のそばで、見知らぬふたりの女性がうろうろしている。
「エブラーナの人だ」
「さっきまでいなかったのにー」
リディアがすぐエブラーナの者と気付いたのは、他でもない。
女性たちが、袂が付いたエブラーナの儀式礼装用の和装——振袖や留袖を着ていたから。
(振袖は未婚の女の人しか着ないって、前にエッジが言ってたなあ)
ひとりは、黒い長髪の若い娘さん。
大輪の白牡丹が描かれた赤い振袖を着ているから、おそらく未婚。
胸元には、赤糸を編んだひもが数束ぶら下がっている。
華奢な体型で、いかにもお嬢さまと言った風貌である。
「親子みたいね」
「たぶん……」
もうひとりは、濃紫の布地にたくさんの白ばらがあしらわれた留袖を着ている。
娘さんの母親だろう。
「でも、お母さん……」
「何あれー。ケバケバじゃなーい」
(人のこと言えないけど、それ相応の格好出来ないのかな?)
母親(仮)は、うなじを大きく開けて色気を出しているようだ。
残念ながら、顔だけはごまかせないようで、化粧がとても濃い。
リディアたちより、歳が上なのは間違いない。
「すごいね。どこもかしこもきらきらしてる……!」
「お金持ちなのよ」
「娘よりも金かけてそー。全部偽物だったら笑っちゃうけどー」
母親(仮)は黒く長い後ろ髪を、頭のてっぺんでまとめてシニヨンにしている。
そこに、金や銀のかんざしを何本かぐさぐさ差している。
首元や腹部、腕にも宝飾類をいっぱいつけているようだ。
それらが時折太陽の光に反射して、全身輝いているように見える。
「飾りで娘さんに対抗してるのかな」
「そうかもしれないわね。若さは大正義ですもの」
「勝てる訳ないのに、必死ねー」
アリサが苦々しくそうつぶやいた。
リディアはおろか、ライザまで顔を引きつらせている。
母親と思われる女性の風貌に、3人揃ってドン引き。
『防音結界』は使っていないが、遠くにいるから聞こえやしないだろう。
そう思って、これでもかと言いたい放題である。
「ミストに観光客って珍しくない?」
「公民館も何も見所ないし……物好きかな?」
この村には、観光施設がない。
やることと言えば、自然をたしなむぐらいしかないのに。
わざわざミストに来るとは、変わった人たちである。
「もしかしてさー」
「何?」
「あんたを探しにきたんじゃないのー?」
「げっ!?」
アリサの一言に、顔をひどく歪ませた。
『薪要らずの魔法』を作った人物がバレてしまったのか?
それで魔法を作れとせがみに来たのか?
「若返りの魔法や美しくなる魔法とか作って欲しそーよねー」
「そんなの作れないよ……」
「何にしてもお断りしなきゃ。受け入れたら終わりよ?」
「うんっ」
「まー、そうと決まった訳じゃなし、ほっとけほっとけ。さっさと帰りましょー」
アリサの号令でリディアたちは歩き出した。
この周辺は裏道がない。自宅に帰るには、女性たちの前を通り過ぎないといけない。
(こういう時、アリサは心強いなあ)
アリサは若き頃に、幾度となく夜の町で遊んでいた経験を持つ。
そのおかげで、相手をあしらうスキルに長けている。
彼女の敵は見た目からしてよほどの強者か、モンスターぐらいしかいない。
§
「ねえ、ちょっと」
「っ、はい……」
アリサが先導に立ち、女性たちの前を通り過ぎようとした。
しかし、若い娘から声をかけられてしまい、仕方なく立ち止まる。
「あなた。召喚士のリディアさまよね?」
「……そうですけど、どちらさまですか」
やはり、『若作りの魔法を作ってくれ』と、お願いしにきたのか?
そう戦々恐々としたのは、ほんの少しの間だけだった。
なぜなら、すぐに強烈な香りが女性たちから漂ってきたから。
(うわぁ、なにこの匂い……!)
どうやら香水のようだ。しかし、あまりにも濃厚で臭い。
それが鼻につき、リディアとライザは顔をしかめてしまった。
アリサなんか両手で口鼻を押さえてまで、不快を露わにしている。
「ふーん」
「あの、何ですか……」
「『浮世離れした絶世の美女』って聞いてたけど、全然大したことないわね」
「ええ!?」
「何それー!?」
「巷じゃそんな噂が流れてるのよ。あなた、知らなかった?」
「はい、全然……」
「で、いざ田舎に足を運んでみたら、私の方が断然上だもーん。見にきて損しちゃったわぁー」
「……失礼な人」
娘さんが両腕を組みながら、自身の美貌を誇っている。
それを見て、ライザが呆れたようにぼそりとつぶやいた。
(浮世離れした服を着てるってだけで、そんな噂が流れてるんじゃないの??)
娘さんの過大な自己評価と傲慢さに、リディアは呆れてしまう。
自分が『浮世離れした絶世の美女』なんて思っていない。
正直なところ、目の前にいる娘さんも『浮世離れ(略)』には見えない。
絶世の美女と言えば、やはりローザだ。
「ねえ、お母様。どう?」
「……」
(なにこの人……)
娘さんにお母様と呼ばれた女性が、まるで品定めをするかのように。
リディアの頭の先から足の先まで、舐めるように見てくる。
じっとりと目を動かすさまは、まるで蛇のよう。
いやな視線だ。リディアがそう思っていたら。
お母様が勝ち誇ったような表情で、はん、と鼻で笑ってから。
吐き捨てるようにこう言ってきた。
「服にも負けてるし、ただの田舎娘ね」
「でしょでしょ?」
「やはり、『絶世の美女』と言えば、あなたのことよ」
「さすがお母様ぁ! 見る目あるわぁー!」
勝手に美貌勝負を持ちかけてきて、勝手に勝利宣言。
リディアたちは一瞬ぽかんとしたが、互いに顔を見合わせてからぷっと吹き出した。
「あははははっ! よかったわねー!」
「……ふふっ」
「ほんと、ほんと!」
「ちょっと、何がおかしいのよぉ?」
笑い続けるリディアたちに、女性たちが呆れたような顔を見せる。
美貌勝負に負けたからリディアは落ち込む。
そう思っていたはずが、予想外の反応を見せたからだろう。
リディアは笑いを止めると、微笑みながら女性ふたりへこう返してあげた。
「褒めていただいてありがとうございます。あたし、ただの田舎娘ですから!」
「はあ?」
「残念でしたー。この子はちやほやされるの好きじゃないのー」
「くそ……」
リディアにとって、『ただの田舎娘』はこれ以上にない称賛の言葉。
アリサもライザもそれをよく知っているから、3人揃って笑ったのだ。
「相手するだけ時間の無駄ね。行くわよ、リン」
「ええ。どうぞ田舎で地味ーな一生終えちゃってくーださぁーい」
「ぜひそうさせてもらいます」
「せいぜいがんばってちょーだーい♩」
リンと呼ばれた若い女性が、嫌味ったらしく捨て台詞を言い残して。
母親に手を引かれながら、リディアたちの前から去ろうとする。
(何でもいいから、早く帰ってくれないかなあ)
リディアはそう祈りながら、ふたりを無表情で見送っていたのだが……。
「そっちこそ、二度と地味な田舎に来ないでちょーだい!!」
「アリサ!?」
「ちょっと、やめなさいって……」
「——くっさいくっさい香水振りまいて! ミストのきれーな空気がそれで汚れたらどーすんの? あんたたち責任取ってくれるのー?」
アリサが女性たちの背中に向かって大声で叫んだ。
リンの嫌味たっぷりの捨て台詞が、よほどお気に召さなかったと思われる。
ところが、リンがそのまま帰ると思いきや。
顔を真っ赤にしながら、ずかずかとした足取りでこちらに戻ってきた。
「なんだと、この野郎っ!!」
「え」
「うそ」
「庶民がこのあたしに楯突こうなんざ、100年早えんだよ!」
リンがとても女性とは思えない、乱暴な物言いに変わった。
そんな彼女を見て、リディアとライザは呆然とする。
(いい振袖、着ているのにもったいないなあ……)
アリサに野次られて、よほど腹の虫がおさまらないと見える。
「それがあんたの本性?? そんなお行儀の悪さじゃ、せっかくの美貌も台無しねぇー♩」
アリサが高らかに笑いながら、リンに更に噛みついた。
「リン」
ここまで黙って見ていた母親が、首をくいっと傾ける。
リンがそれを見るやいなや、胸元から短刀のようなものをさっと取り出した。
「ど庶民が生意気なこと言いやがって……! その腹、かっ裂いてやってもいいんだぞ!?」
リンが叫びながらさやから刀を引き抜くと、アリサに刃の先を向けた。
「ひっ!」
「うそでしょ……!?」
(ちょっと野次っただけじゃない!?)
リディアやライザが、驚きのあまり悲鳴を上げた。
ところが刃先を向けられた、肝心のアリサは無表情のまま。
それどころか前に一歩踏み出して、リンにこう言った。
「やれるもんなら、やってみなさいよ……!」
「ば、ばかっ! 自分から刺されに行ってどうするの!?」
「あなたひとりの身体じゃないのよ!?」
「こんなもんただのハッタリよー。虚勢張ってるだけー」
リディアとライザが、アリサの身体を何度も引っ張る。
逃走を促しても、彼女は一歩も動こうとしない。
「訴えても無駄だぞ!! シビエンの力でぶっ潰してやる!」
「……リディア」
「うんっ」
ライザに小さな声で呼ばれ、リディアがすぐさま意図に気付いた。
(魔法使ってでも止めなきゃ!)
煽りに煽るアリサを、力ずくでは止められない。
相手のリンは、未だ刃先を突きつけているだけだが、何をするかわからない。
「【……」
リディアがリンとその母親に向けて、スリプルの詠唱を始めた直後……。
かきん!!
「うっ!」
鋭い金属音。続けて、短刀が何かで弾かれたかのように、リンの手から滑り落ちる。
リンが慌てて腰をかがめて、地面に落ちた刀に手を伸ばそうとした、その時。
「ひっ!?」
どこからか何かが、ひゅんひゅん音を立てながら飛んできた。
それがリンのすぐそばの地面に、ぐさぐさっとぶっ刺さる。
よく見れば、長細い金属の棒2本。
それがリンを狙ったかのように見えて、リディアは思わず詠唱を止めてしまった。
「だっ、誰だっ!?」
「これは……!?」
母親がリンのそばに駆けつけると、刺さっている金属棒を地面から抜いた。
「棒手裏剣!?——エブラーナの者かっ!」
母親は棒を見るなり。その正体に気付いたらしい。
棒が飛んできた方向へ、顔をさっと向けながら大声で叫んだ。
『何をしていらっしゃるのですか』
「ツクヨミさん……!?」
母親が叫んだ方向から姿を現したのは、真っ黒黒のお城勤。……ツクヨミだった。
「口が開いてるわ……」
「お面変えちゃったんだ」
ツクヨミがゆったりとした足取りでこちらに歩いてくる。
しかし、彼のかぶるお面が、いつもと違う。
先日、薬草園で昼食中にかぶっていた白い狐の半面だった。
「おまえ……まさか、『白狐のツクヨミ』か!?」
『はい、そうでございます』
お面が変わったところで、暑苦しい風貌は変わらない。
母親は、男性が『お城勤のツクヨミ』だとすぐ気付いたらしい。
「なぜお城勤がこんなところにいる。私たちを尾行してたのか」
拾った懐刀をリンに手渡しながら、母親がツクヨミを疑り深げににらむ。
『いいえ。たまたまここに立ち寄っただけでございます』
「そ、そうなの! この人、暇さえあればしょっちゅうここ来てるもん!」
「この人はミストが大好きなんです」
ツクヨミは尾行ではなく、ただの偶然を強調する。
彼の挙動をとてもよく知る、リディアやライザも援護した。
『この地にそぐわない匂いを嗅ぎつけましてね。後を追ってみれば、人に刃物を突きつけるとは……! 断じて見逃す訳には参りません』
「ここはエブラーナじゃねえぞ? 好き勝手して何が悪い? ただのお城勤は黙ってろ!」
「ば、ばっかじゃないの!? エブラーナじゃなかったら何やっ」
「——しゃべっちゃだめっ」
「ぶっ!」
「死にたくなかったら黙ってなさい」
リンの言い分は、何ともまあ身勝手なものだ。
しかし、アリサがまたまた噛みつこうとする。
すぐさま、リディアが彼女の口を押さえて、ライザが背後にしがみついた。
「ゔー……!!」
身動きが取れず、アリサがうなっているが仕方がない。
ツクヨミが止めてくれるかもしれないけれど。これ以上、厄介ごとはごめんだ。
「お城勤だろうが、あたしたちをどうこう出来る権利はないよ」
『なぜでしょう』
「この村には法律がない。村人でもないあたしたちが何をやっても誰にも裁かれないからね」
ツクヨミの介入は無効と主張する母親に、いらっとした。
ミストは無法地帯。だから、好きなことをやっても許される。
そう遠回しに言っているように聞こえたから。
この母親の言う通り。ミストには今、法律がない。
遠い昔から、法を制定する必要に迫られたことがなかった。
そのため、今まで法律なしをずるずる続けてきたけれど……。
『そんな悠長なことを言っていられるのも、今だけですよ』
ツクヨミがそう答えてから、公民館の方へくいと首を傾けた。
リディアたちもその方向へ視線を向ける。
「いやぁ、参っちゃうなぁー」
「おじちゃん!」
「ミゼルさん……!」
公民館の入口の前に、季節外れのいでたちをした男性が立っていた。
「やかましいからのぞきに来たら、うちの住民がエブラーナの人にドス突き付けられてるじゃん……」
ミゼルが頭をぼりぼりかきながら、リディアたちのそばに近付いてきた。
本日も事務室で、ひとり仕事をしていたのだろう。
アリサとリンの罵り合いを耳にして、様子を見にきたと思われる。
「誰だてめえ! 邪魔すんじゃねえよっ!」
「え? ここの村長ですけど」
「村長だから何なんだよ」
「この村には法律がないっておっしゃってましたけど。だからって、うちの村を舐めてもらっちゃ困るんですよね」
女性ふたりにとって、村長も庶民と同じで侮蔑対象らしい。
そんな反応も既に予測済みなのか。ミゼルは平然としている。
「早速ですが、大迷惑行為を働いたあなたがたに厳正な処分を下しちゃいます」
「はっ! ずいぶん偉そうなこと言うもんだね。しょせん注意しか出来ないくせに!」
(おじちゃん舐めてると怖いよー?)
処分を申し渡されようとしているにもかかわらず。
リンも母親も、ちっとも恐れおののかない。
そんな態度に出ると予想していたのだろう。
ミゼルが口元を緩ませて、リンたちへ指をさしてこう告げた。
「今すぐミストから出て行って下さい。——さもないと、あなたがたの所業を全て記した書状を、このツクヨミさんにお館様の元へ届けてもらいます」
「ええ!?」
「何ですって!?」
ミゼルから軽い口調でさらりと処分を告げられ、リンも母親も血相を変えた。
(ミストにまだ法律はないけど、エッジに連絡は出来るもんね!)
仮に女性たちが今すぐミストから去っても、ツクヨミがエッジに報告するだろう。
ふたりは身なりからして身分が高そう。誰かはすぐわかるはず。
場合によっては、エッジ直々に怒られる可能性もある。
「今なら、一生ミスト出禁のオプションもございますよー? よろしければこちらでつけておきましょうか?」
「……帰るわよ」
「ええ。誰がこんなとこ来るもんですか!! こっちからお断りよっ!」
リンが捨て台詞を残すと、母親と共に足早に去っていった。
「どーぞお元気でー。さよーならぁー」
敗走する女性たちに、ミゼルが手を振って別れの言葉をかけているが。
二度と来るなと言っているようなものである。
「はー、苦しかったぁー」
女性たちの姿が見えなくなり、リディアたちもアリサの拘束を解いてあげた。
「ありがとう、おじちゃん!」
「どーいたしまして。——それより、エドワードくんに手紙送るから、どうしてあんなことになったのか教えてちょーだい」
「う、うん、最初はね。あの子が美しいって自慢し始めて……」
リディアが代表して、事の経緯をミゼルに話した。
アリサが野次ったら、リンがキレてしまい。ドスをちらつかせてきたことも包み隠さず。
「アリサくーん……ちょっと言い過ぎなんじゃないの?」
「だってー、あたしは口しか武器ないもーん」
「それ言われたらねえ……もともとキレやすい子だったのかなあ」
「キレやすいのはわかるけど、短絡的すぎるわよー」
「そっ、それでね。スリプル使おうとしたら、ツクヨミさんが来てくれたの」
「なるほどね。これからそういう時は睡眠や麻痺なら使ってもいいよ」
「わかった、そうするよ」
ミゼルの助言にリディアは素直にうなずいた。
「えー? カエル使っちゃだめなんですかー?」
「だめです。踏みつぶされたら死んじゃうでしょ」
カエルに変えてしまうトードだけではない。
混乱させるコンフュは、更に暴れて周囲に迷惑を掛ける可能性がある。
豚の姿に変えるポーキーは、逃げ出した家畜と勘違いされてしまうかもしれない。
相手を身動き出来なくさせるだけでいい。だから、睡眠や麻痺で十分だという。
「まー確かに、睡眠や麻痺がいちばん無難ね-」
「これでよくわかったよ。法律はあって損はないね!」
「そうね。非常識な人じゃないと、あんなの破る人いないもの」
「今日のこと。いい実例になりそーですし、今度の寄合で発表したらどーです?」
「おぁー、アリサくん! いいこと考えるじゃないか!」
「みんなもっと賛成してくれるよ」
ミゼルが女性たちに下した処分は、その場での思いつきではない。
先日、彼が打ち出した規則の草案に含まれていたものである。
—— —— ——
先日、寄合が行われた。しかし、キロンたち西区画在住の保守系先住民は全員欠席。
それを見越していたかどうか知らないけれど。
ミゼルは、出席者にこんな提案を持ち掛けた。
『ミストにも、そろそろ法律が必要だと思うんですよね』
現在ミストには、法律や規則は設けられていない。
一見無法地帯にも見えるが、住民はみな常識の持ち主ばかり。
これまでさしたるトラブルは起こっていない。
かと言って、いつまでも法律がない村ではいられない。
以上が、ミゼルがその場で話した法律を設けたい理由だった。
(アドニスが魔法を使って、あたしやおばちゃんを襲ったからだ!)
それを聞いて、リディアは法を設ける本当の理由に思い至った。
ミゼルは引き続き、法律制定の流れをこう説明した。
重大案件のため、採決は2回に分ける。
1回目は、9の月の前半の寄合。
可決されたら、草案を明文化したものを後日改めて住民に配布する。
月後半の寄合で2回目の採決を取り、可決されたら10の月から施行。
その日、出席者全員に、謄写版で刷られた法律の草案書の複写が配られた。
住民がより良く暮らせるため必要だと思われる規則を、簡素にまとめたものだ。
こんなもの、常識があれば誰も破らない。そんな規則だらけの中に……。
『迷惑行為を働いた異国の来訪者には、即刻退去していただく。同時に所在地のお偉いさんに通達する』
『魔法の対人使用は原則として禁止する。ただし、魔法習得訓練時と、犯罪から自分や周囲を守るためにやむを得ない場合においてはこの限りではない』
先ほどの出来事にほぼ合致する規則も、しっかりと載っていた。
—— —— ——
とは言え、今はまだ法律がない状態。
よって、ミゼルはハッタリをかまして女性たちを追い出したことになる。
それでも、事前演習にはちょうどよかった。リディアはそう思う。
「ツクヨミさん」
『何でしょう?』
「書状準備するから一緒に来てくれる?」
『……先に、あのふたりが本当に帰ったかどうか確認しておきたいのですが……』
「あー、言われてみれば確かにそうだね」
この場から去った。けれど、本当に発着場へ向かったとは限らない。
女性たちが撤退したかどうか、ツクヨミ自身の目で確認したいのだろう。
「じゃあ、事務室で待ってるよ」
『ありがとうございます。必ずお邪魔いたします』
「きみたちも、気を付けて帰りなさいよ」
「わかったー」
ミゼルが軽くリディアたちに手を振り、公民館の中へ戻っていった。
それを見送ると、ツクヨミに向かって頭を下げた。
「ツクヨミさん、ありがとうございました!」
「ちょうどいいところに来て下さって、本当に助かりました」
『お礼など……とんでもございません……』
「!」
ツクヨミが力なく首を横に振ってから、リディアの前で片膝をつく。
それだけで、このお城勤が今から何をする気なのかすぐ気付いた。
(またこの状態で謝る気だ!)
今日のツクヨミは半面。口元が開いているので表情が読める。
きゅっと唇を噛みしめる様が、申し訳なさそうに見える。
「さっすが、しもべー。主従関係しっかりしてるぅー?」
「ふふ、っ……」
(恥ずかしい……)
しもべポーズ——ひざまずきの姿勢を、ライザたちが見るのはこれが初めて。
ライザにくすくす笑われるわ。アリサに茶化されるわ。
リディアは羞恥でいたたまれなくなる。
「それ、もう辞めてください」
『いいえ、出来ません』
「これでもう3回目です。いい加減、言うこと聞いてください」
『リディアさまたっての望みでも、これだけは無理でございます』
困惑した表情で、ツクヨミにしもべポーズを辞めるよう頼んだ。
しかし、首を横に振ってまで拒否されてしまった。
(ひざまずく必要ある?)
立ってでも謝罪出来るではないか。
それ以前に、リディアはしもべポーズをされるのが嫌いだ。
こうされる度に頼んではいる。けれど、ツクヨミは言うことを全く聞いてくれない。
『みなさまには……ご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした』
「あなたに謝られても、エブラーナの印象は最悪なままですけどねー?」
ツクヨミをにらみながら、アリサがそう冷たく言い放った。
「ちょっと!? 何言ってんの!?」
「謝ってくれたのよ? そんなこと言っちゃだめでしょう?」
リディアやライザは、真っ先にアリサをたしなめた。
国を代表して謝罪してくれたのに、何と失礼なことを……。
—— —— ——
リディアの妊娠疑惑の話を聞かされて。
アリサの中で、国王さまと共に国に対する評価も下がっていたのかもしれない。
その矢先に、エブラーナの民——リンから刃を突きつけられたら。気分を害してもおかしくない。
—— —— ——
(でも、八つ当たりしなくてもいいじゃない……)
これはさすがに、ツクヨミがかわいそうではないか?
エブラーナのお城勤に同情するリディアたちへ、アリサがこう言った。
「しもべに罪はないわよー? でも、ミストに来るエブラーナの人って、今この人だけじゃない。今クレーム言わないで、いつ誰に言うのー?」
「確かに……」
「間違ってはいないけど」
『——リディアさま、ライザさん。よいのです』
「ツクヨミさん……」
『どうぞ、続きをお話しください』
ツクヨミがアリサを促した。しかし、リディアははらはらしてならない。
初対面時に、ぐうの音も言わせてもらえなかったお返しとばかりに。
今からクレームという名目で、恨みつらみを述べようとしているのではないか?
リディアはそう予想していたが、アリサは意外なことを口にした。
「エブラーナは、民のほとんどが忍者でみんな刃物持ち歩いてるらしいけど、それって本当なの?」
『はい。何かしら所持しております』
「だったら、刃物の扱い方。お国をあげてしっかり教育しなきゃだめじゃない」
『もちろん、徹底しております。しかしながら、あの方々は規格外と言』
「——それをわかってて、あいつらのこと野放しにしてたの?」
『っ、それは……』
「ちょっと野次られただけで、刃物ちらつかせて……! あんなの、ほとんど犯罪者と変わらないわ。ブラックリストに入っててもおかしくないわよ」
『……』
「ここはエブラーナじゃなくて、ミストなの。誰も刃物は持ち歩いていないし、魔法使える人も限られてる。あいつらはもうここに来ないでしょうけど、あんなのにほいほい来られちゃ、外も怖くて歩けないじゃない」
『……はい』
アリサが厳しく重い口調で、苦情を物申す。
ツクヨミは頭をうつむかせたまま、ほとんど反論しない。
黙って話を聞いているうちに、リディアはふと気付いた。
アリサは力無き者としてのご意見も、苦情の中に混ぜこんでいると。
—— —— ——
アリサはゼロ。黒魔法が全く使えない。ジャンヌのような腕力もない。
だから、口でねじ伏せたり、催涙スプレーを自作したりするなど。
工夫を凝らして防犯対策しているが、完全に悪い奴らを追い払える訳ではない。
ミストでは、丸腰かつ抵抗する術を持たざる者は多い。
ミストに限った話だけではない。
この世界に生きる者が、全員魔法を使える訳でも腕力に長けている訳でもない。
—— —— ——
「あーいう奴らがあちこちで暴れたら、おたくの国は教育が足りてないように思われてもしょうがないわ。エブラーナの高い好感度も一瞬でパーよ?」
『おっしゃる通りでございます……』
本気でどうにかしてほしい。そうしないと、エブラーナのためにもならない。
アリサはそう考えて、苦情を申し立てているようだ。
(あたしばかだ……アリサのことわかってなかった)
アリサは普段、喜怒哀楽が激しい。
しかし、相手のことを考えて立言する時は、感情を抑えた話し方に変わる。
1年前。自分はそれをバロンの夜の町で経験したではないか。
アリサはただ、ツクヨミに八つ当たりしたいだけ。
一瞬でもそう思ってしまった、自分を恥じる。
「どーせ、ミゼルさんは甘っちょろいことしか書状に書かないと思います。あたしの言ったことも、国王さまに伝えて下さい」
『……はい、かしこまりました』
「あなたを信用してますからね。——さーて、帰っておやつ食べましょー!」
言いたいことを全て言ったからだろう。
アリサが話し終えると、すっきりとした表情に変わる。
そして、リディアとライザに帰宅を促してから、さっさと帰路についてしまった。
「ああ、待ってったらっ」
「お礼も言わなきゃだめじゃない……」
アリサを呼び止めたが、見事に無視されてしまった。
リディアと後をすぐ追わず、困惑しながらライザと顔を見合わせる。
—— —— ——
今までミストにやってきたエブラーナの者は、エッジかツクヨミしかいない。
それが、エッジが来なくなってしまい、ひとりで矢面に立たされている。
—— —— ——
そんなツクヨミが、リディアはちょっと気の毒になった。
ライザもアリサを追いかけなかった。おそらく、リディアと同じことを思っているはず。
「ツクヨミさん、ごめんなさいっ」
「気を悪くさせてしまったかも……」
苦情客が去り、ツクヨミがおもむろに立ち上がったところで。
リディアたちはおわびの言葉を口にした。
『お気になさらないでください。あの方のおっしゃったことは間違っておりません』
ツクヨミの口元が、かすかに緩んでいるように見える。
怒ってはいないようで、リディアは少しほっとした。
『それより、後を追った方がよろしいかと思われますよ』
「え?」
「早っ!?」
ツクヨミが指さした方向を見た途端。リディアたちはぎょっとした。
……アリサの姿がもう見えない。
臨月の妊婦とは思えない速さで、リディアの自宅に向かっているようだ。
「行きましょ」
「うん」
「今日はこの辺で失礼します」
「明後日、よろしくお願いしますっ」
『はい。楽しみにしております』
リディアたちは真っ黒黒の忍者に別れを告げて、駆け足でアリサの後を追った。
途中でリディアが振り向いてみたら、既に発着場へ向かったのか。
そこには、ツクヨミの姿はもうなかった。
——それから数十分後
女性たちと鉢合わせせず、無事に自宅に帰ってきた。
リディアが紅茶を淹れて、ライザが持参のお菓子を準備。
おやつの時間が始まった。
§
ライザが作るフロランタンは、食パンの上にキャラメルアーモンドを乗せて焼いてある。
現在お皿の上には、真四角にカットされたそれがひとつだけ残っている。
「あーんっ」
リディアが我が物顔で、最後のフロランタンをつまむと。
上機嫌な声を上げながら、口の中に放り込んだ。
(うん、あまーい……!)
キャラメルアーモンドのばりぱり食感。
それを味わいながら、口の中に香ばしく甘い風味が広がれば。
土台が食パンだろうがクッキーだろうが、どうでもよくなる。
「はぁー、今日も美味しかったぁ……!」
「まーた、幸せそうな顔しちゃってー」
「だって幸せだもーん」
お腹の中に納めて、リディアは至福の表情でため息をもらした。
呆れたように紅茶をすするアリサをよそに。
本日も甘いもの——しかも据え膳——を食べられた幸せに、どっぷり浸る。
「あの人たち、もう帰ったかしら」
「しもべが追い出してるでしょーよ」
「もう、臭くてたまんなかった……」
「ほんとそれー。傷害罪で訴えてやりたいわー」
リディアは顔をしかめながら、アリサと顔を見合わせる。
あの女性たちから漂ってきた、濃厚な香水の匂い。
ばらに何か他の香料が混ざったそれに、リディアは嗅ぎ覚えがあった。
(七夕の日に、ツクヨミさんから同じ匂いが漂ってた……)
女性たちとツクヨミは、本日が初対面のように見えた。
エブラーナでは、あんなものが量産品として出回っているのか?
はたまたライザのように、わざわざあんなものを手作りしているのだろうか?
「あれはたぶん、媚薬の類ね」
「ええーっ!?」
「ムスクが混ざってたもの。他にもいろいろ……」
「す、すごい……! ばらしかわかんなかった」
「ばらにも、そういう作用があるのよ」
「そうなんだ……」
「あんなので男、堕ちるのー? ちょろすぎでしょー?」
「さすがに、嗅いだだけでは堕ちないわ」
媚薬を使う目的は性欲増進。相手を『ヤりたくさせる』こと。
相手に色仕掛けしながら、匂いを嗅がせてむらむらさせる。
女性たちの色仕掛けの対象外だったから、ツクヨミやミゼルは引っかからなかった。
ライザは香りにとっても詳しい。
彼女のそんな説明を聞いて、リディアやアリサはおおむね納得した。
「あっ、そういえば……」
「どしたのー?」
「ちょっと待ってて」
ライザが席を離れて、部屋の隅に向かう。
そこに置かれたかばんの中をごそごそ漁っていたが、すぐに戻ってきた。
「はい、どうぞ」
「なにこれ。どうしたのー?」
ライザからガラスのスプレー容器を手渡されると。
アリサが中に入っている無色透明の液体を揺らしながら。
手のひらサイズの容器をまじまじと眺めている。
「陣痛を早めるから、まだ使っちゃだめよ」
「え、どういうことー?」
「もう臨月でしょ? お産の時に使えるかもしれないと思って、こないだ作ったの」
アリサの出産予定日は、9の月明け早々。
お産の際に、陣痛をちょっぴり和らげる。そんな効果がある香水を作ったという。
「いつお産が始まってもおかしくないから、早めに渡しておきたかったのよ」
「そーなのね……! 何度経験しても痛いから、すごく助かるー。ありがとー」
「どういたしまして。——はい。リディアもどうぞ」
なんと、リディアもアリサと同じスプレー容器を手渡された。
「……わたしも?」
「ええ。月のもの……まだ来てないでしょ?」
「うん。嗅いでみていい?」
「いいわよ。お隣の部屋でね」
妊婦——アリサのすぐそばでは噴射出来ない。
寝室へ向かい、そこでしゅっとひと吹きしてみた。
(うわぁ、いい香り……!)
ラベンダーと、マスカットのような香り。
それらが混ざった甘い匂いに鼻腔をくすぐられる。
あの女性たちから漂っていた匂いと、全然比べ物にならない。
そう思いながら、再びライザたちのところに戻った。
「どう?」
「すっごくいい匂い! 香水ってこういうのを言うんだよ!」
「それはよかったわ」
「でも、これ……ラベンダー以外に何か入ってるよね?」
「クラリセージが半分入ってるの」
「!?」
ライザの口から、ある薬草の名が出てきてはっとした。
「あの時、精油買ってたよね。もしかして……?」
「ええ。あなたたちの役に立つと思ったの」
—— —— ——
ローザが数日前、こんな話をしていた。
『月経不順に効果があると言われているの。あとはクラリセージやジャスミンの香りもね』
先日ライザが薬草園で買い占めた精油は全部で5つ。
最も好むカモミールと汎用性が高いラベンダー。
薬草園でしか手に入らない、ゆずとひのき。そして、聞き慣れないクラリセージ……。
あの時は、ずいぶん珍しい精油を買ったと思っていたのだ。
—— —— ——
「やだ……! あんた、なんていい子なのー?」
「わたしたちのため……」
「もちろん、自分使いも兼ねてるわよ」
アリサはもうすぐ出産。リディアも月のものが来ないと悩んでいる。
仮に妊娠が判明したとしても、お産の際に香水を作って渡せる。
ここで買わずしてどうすると、意を決して購入した。
ライザが笑みをこぼしながら、そんな話をしているうちに。
リディアの胸のうちに、嬉しさがじわじわ広がっていく。
「ありがと、ライザっ……!」
「どういたしまして」
感謝の気持ちを込めて、ライザの右手を両手で強く握りしめた。
「本っ当ーに、あんたって子はぁ……! あたしたちのこと好きすぎるわぁー」
「ええ、そうですよ」
ライザはリディアとアリサがだいすき。
だから、アリサが半ば呆れたような顔で口にしたことも、あっさり同意する。
「やっぱ、あたしたちで次世代の『マダム』目指しましょーよ」
「気が早いわね」
「そうそう譲ってくれるとは思えないけどなあ」
「出来るだけ早めに、自然消滅するよう祈るしかないわねー」
「もうっ、縁起でもないこと言っちゃだめだって……!」
「不謹慎なこと言うんだから……」
「あんたたちも笑ってるじゃないのー」
お互いの存在のありがたみを感じながら、3人で共に笑い合う。
この先、ミストの裏覇権を握れるかどうかわからないけれど。
こうして3人で、一緒にきゃあきゃあしているのは間違いない。
リディアたちは、改めて女の友情を確かめたのであった。
—— —— ——
アリサとリン。
女ふたりの火花の散らし合いのインパクトが強すぎたせいで。
なぜ、あの母娘はここに来たのか。リディアに絡んできたのか。
この時、誰ひとりとして、リンたちの意図を読むことが出来なかった……。
—— —— ——
.