フェイクラバーズ 作:かえで
夕方まで降り注いだ雨が、大気中のちりを洗い流してくれた。
そのおかげで、今夜のエブラーナは絶好の夜景日和である。
漂う空気や吹く風もまっさらとして清々しく感じる。
「うーん、気持ちい……あぁっ!?」
あまりの爽快さに、リディアが両手を上げて身体を伸ばした瞬間。
ぴゅうと強い風が吹いて、身体を覆っていたストールが宙に舞い上がる。
慌てて、布の端をがしりとつかんで捕獲に成功した。
「はあ、危なかったあ」
飛ばされないようにストールを羽織り直すと、胸元を両手でぎゅっと握りしめた。
ミストの外で得る体験は、新鮮なものばかり。
特に今日は、探求心も食欲も爽快感も得られて、申し分ない1日だった。
ところが、唯一好奇心が満たされず、睡魔が襲ってこない。
そのため気分転換として夜風にあたりに内庭へやってきた。
§
「……あれ?」
視線を夜空から城内に戻すと、ぼんやりとした人影が視界に入ってきた。
「よう」
「まだ起きてたの?」
「ああ。そっちは眠れねえのか」
「うん。あっ、それで……」
ちょうどいいところに、好奇心を満たしてくれそうな人物が現れた。
リディアが諸手を上げてそう喜んだのは、ほんの数秒だけであった。
「今日は悪かったな」
「え?」
さすがに、頭までは下げなかったけれど。
エッジが相手を遮って詫びるのは、とても珍しい。
普段の威勢のよさが鳴りを潜めていて、リディアは戸惑ってしまう。
「どうして謝るの?」
「いや……なんか無理強いさせたかもしれねえって、思ってさ」
「とんでもない! 晩ごはんはとっても美味しかったし、久しぶりにあったかいお湯で身体が綺麗さっぱり出来たもん」
「……なんだ」
どこか拍子抜けしたような表情で、エッジがぼそりとつぶやいた。
リディアを強引にエブラーナ城へ1泊させたことを気に病んでいたようだ。
先ほど部屋にやってきた時、横柄かつ無愛想に対応したからだろうか?
(あれだけはエッジが悪いよ)
あの時間から若い女性の部屋に、男性がやってきたら誰だって警戒する。
それが前科者なら尚更だ。
その件については、こちらからは謝る気は一切ない。しかし、それ以外のことは……。
「そうだ、エッジにお礼言わなきゃ」
「え」
「今日はたのしかったよ。——ありがとう」
—— —— ——
入浴とは、お湯が張られた大きな浴槽に入って身体をすすぎ、清潔に保つこと。
ただし、浴槽は町の浴場や宿屋か、お城やお金持ちの屋敷ぐらいしか設置されてしない。
一般的な民、いわゆる庶民の自宅には浴槽や浴室がない。
入浴という習慣がない庶民は、水かお湯に布を浸して身体を綺麗に拭く。
もしくは、数日おきに近くの川などの水源で沐浴。このどちらかだ。
リディアも、毎夜清拭で身体を清潔に保つようにしていた。
—— —— ——
そう。リディアはあれから夕食と入浴という二大行事を堪能した結果。
散々エッジに抵抗していたことなど、すっかりどうでもよくなっていた。
「じゃあ、これから風呂入りたきゃ、ここに来いよ」
「っ、何それ……エブラーナ城はお風呂さんじゃないよ」
「いつでも入りたい放題プラスメシ付きだぜ?」
「ふふっ……それじゃ、宿屋と同じじゃない」
「んなもんタダに決まってるだろ」
「あははっ!」
「いい考えだと思わねえ?」
「それなら毎日通いたくなっちゃうよ!」
(やっぱりエッジはこうでなきゃ!)
冗談なのか本気なのかわからない。
エッジのそんな提案に、リディアは大きな声を上げて笑っていた。
いつものノリがいいエッジに戻ってくれて、ほっとしたのだ。
§
「エミールの行方が気になって、眠れなかったあ……!?」
「あの日記には続きが書いてなかったもん。そのあとどうなったか、エッジなら知ってると思ったの」
「……エミールはカルミネの初代指導者だ。さすがにもう死んでんだろ」
「カルミネ? お菓子みたいな名前だね」
「お菓子って……いいや。ちょっとついてこいよ」
エッジの後について、外通路の西階段を降りる。
それから、左の塔の入口に繋がるトンネル状の通路に向かった。
エッジが通路の前で立ち止まると、両手をいろいろな形に組んだ。
その直後、落とし格子ががらがら音を立てて上がっていく。
どうやら忍術で格子の開閉出来る仕組みになっているようだ。
通路の中に入ると、エッジはその場にあぐらをかいて、懐から白く細長いものを取り出した。
「それ、ろう石?」
「ああ。石筆とも言うな」
エッジがろう石でがりがりと、ねずみ色の石床に何かを描き始めた。
リディアはその隣で、前かがみの姿勢になって様子を眺める。
(落書きしてた子どもたちを怒ったこともあったなあ)
ろう石で描かれたものは、水で風でも消えない。そのため建築用途で使われることが多い。
リディアもミストに帰郷したばかりの頃、建設途中の現場で何度も目にしたことがある。
「これ、エブラーナ?」
「ああ」
エッジが床上に描き終えたのは、大まかなエブラーナ大陸の外形であった。
それが近くの篝火によって、ぼんやり照らされる。
さっきの場所——内庭と比べて、この場所は明るく石床も濡れていない。
だから、エッジはここに移動してきたと思われる。
「エッジ、なんか先生みたい」
「おう、今日はエブラーナ情勢についての授業だ。——試験に出るぞ?」
最後に冗談を交えて、エッジが中央に縦長の長方形を書きこんだ。
これはバブイルの塔だろう。
続いて、南東のエブラーナだと思われる位置に丸印を入れた。
「ここがカルミネ。未承認国家って奴だ」
エッジがそう説明しながら、ある箇所にがりりとバツ印を刻んだ。
それは、北の端っこ——竜の上口ばしの先端のような部分に付いている。
「国のお偉いさん以外にはほとんど知られてねえから、おまえが知らないのも無理ねえよ」
「未承認って、自称国ってこと?」
「そ。うちは国ですって主張するくせに、外部との交流をほとんど遮断してる」
「なんかうさんくさい……」
「空の上から、傭兵の養成施設があるのはわかったが、中で何やってんのかわかんねえの」
前かがみの姿勢に疲れて、リディアもその場に座り込む。
夏の終わりと言っても、夜の風は少し冷たい。ストールを持ち上げて改めて羽織り直した。
「傭兵って、今の時代必要ないよね」
「バロンやトロイア……どこもかしこも自衛路線にチェンジして、軍縮一辺倒だ。減りはしても増えはしねえな」
「その人たちやカルミネは、この先どうするんだろうね」
「……それがわかってたら苦労しねえよ」
「いつエミールがカルミネにいたって、わかったの?」
「あの日記が書かれた頃から1年ぐらい後だな。いきなりカルミネがこっちに牽制してきてな」
「やだ、戦争始まるみたい……」
「戦争はしなかったが、エミールの血ィ引いてるこっちが真の王族だって主張してきた」
エッジが石床にゆるい円弧の矢印線を描いた。
矢印はカルミネからエブラーナに向かっている。
その中心にバツ印を入れたが、それが敵意を現しているのは一目瞭然。
「ただの逆恨みじゃない」
「ああ。すぐに親父……当時の国王はカルミネに和平交渉を持ち掛けた。もともと同じ民なんだから一緒にエブラーナでやっていきましょうってな」
「結果は?」
「速攻拒否。それからあっちは黙りっきりでどうなってんのかわかんねえ」
先生の手によって、再び石床上に矢印線が緩やかに描かれる。
矢印はエブラーナからカルミネへ。そして、その線の中心には、なぜかクエスチョンマーク。
マークを刻んでから、立ち上がって両手をはたくエッジを、ばっと見上げた。
「エッジは、お父さんみたいに交渉しないの??」
「保留。和平に持ち込めるならそうしてえけどな」
「だったら……」
「何考えてんのかわかんねえのに、こっちから仲良くしましょうって言えるかよ」
「そう……」
「よし。授業はこれで終わりな」
「ありがとう、先生」
「おまえが興味津々って珍しいな」
「……ちょっとぐらい、世界情勢に詳しくなったっていいじゃない」
リディアは、口を尖らせて石床のエブラーナをじいと眺める。
(エッジはああ言ってたけど)
妖刀のせいで、何かろくでもないことが起こるのではないか。
そんな仮説が頭に浮かんできた。
しかし刀の持ち主が偶然だと言い張っている以上。部外者は黙っているしかない。
「気になってたこと、もう分かったろ?」
「……うん」
「体冷えちまう。部屋戻って休め」
エッジにぽんと肩を叩かれて、頭を上げる。
「……エッジは?」
「戻ったら仕事の続き」
「まだ!? 昼間あんなことしてるから……」
「あれも仕事の一環だぞ?——それよか、両手ちょっと広げて前に出してみろ」
「……こう?」
「そうそう」
エッジに促されて、両手をおずおず前に出して、水をすくうような形を取った。
その数秒後。手のひらの上に小さい白い容器がぽとりと落ちてきた。
「……これ、何?」
「練り香。こないだ視察に行った時にもらってな」
エッジが嬉しそうな表情で練り香の出処を話してくれた。
—— —— ——
2年ほど前に、とあるエブラーナの民が趣味と実益を兼ねて薬草畑を開墾した。
練り香は、その畑で採れた薬草を使って作られたもの。
『これから薬草を使った様々な商品を開発して、エブラーナの名産品にしたいのです』
先日、エッジが薬草畑の視察に訪れた時。その民がそんな野望を打ち明けてくれたという。
—— —— ——
「よかったね……エブラーナのこと、しっかり考えてくれる人、これからもっと出てくるといいね」
「畑もすげえ綺麗でな、これからもっとでかくするんだと。いつか連れてってやるよ」
「うん、楽しみにしてる。それじゃ、おやすみなさい」
「おやすみ、また明日な」
§
エッジと別れて、リディアは客室に戻ってきた。
ストールを椅子に掛けてから、机の上に小さな白い円柱状の容器を置く。
先ほどエッジからもらった練り香は、紫色の細長い紙で十字に封をされている。
丁寧に施された封を破るのがもったいなくて、まだ中身は見ていない。
ベッドに腰掛けると、身体を勢いよく後ろに倒した。
今こうしている間も、エッジは仕事に励んでいると思われる。
『短眠の術』とかいう都合のよい術に甘えて、徹夜をするのだろう。
ミストは近々復興を終える予定になっている。
一方エブラーナは、未だ復興の見通しが立っていない。
それでも、国王さまは日々復興や民のために力を注いでいる。
エブラーナの人々も同様に復興に向けて努力している。
(痛々しいっていうか、危なっかしいっていうか……)
リディアには、エッジがどこか身を砕いているように見えて仕方がない。
国王さまが幸せにならなければ、いくら裕福になっても人々は喜ばないと思う。
エッジもそろそろ自身の幸せを探し始めてもいいのでは?
そう。例えば結婚を前提とした恋人……。
「あれ?」
(好きな人や付き合っている人、いるのかな?)
今まで一度たりとも、エッジの恋愛事情について考えたこともなかった。
仮に、そういう女性が今はいなかったとしてもだ。
エッジはこの国の王で、王家の血を引いている。
その血を繋ぐために王妃を娶り、世継ぎをもうけたいだろう。
「でも、それだと……今みたいに会ったり話したり……できなくなっちゃう……」
(しょうがないよね。エッジが幸せになるんだから)
いい加減、寝よう。明かりを消すために、力なく起き上がる。
その拍子に、机の上の白い容器が視界に入ってきた。
自然と足が机の方に向かい、改めて容器を手に取って目の前に掲げた。
リディアは香水を使ったことがなく、物珍しげに容器を眺めてみる。
封には小さく『薫衣草』と書かれているが、その名に心当たりはない。
(開けてみよう)
そう思って、ふたを回したらその勢いで封がぴりっと破れた。
すると、爽やかな花の香りがほんのり漂ってきた。
「あっ、これラベンダーだ……!」
エブラーナでは、ラベンダーのことを薫衣草と呼んでいるらしい。
リディアはこの香りによく覚えがあった。
ハーブティーとしていただくために、この茶葉を自宅に常備しているからだ。
容器の中から練り香を、右人差し指でほんの少しすくい取る。
粘り気のある白い液状のそれを、左手首の脈打つところに薄く伸ばした。
香りを移すために容器を机の上に置いてから、左右の手首を合わせて軽くこする。
練り香は、肌にすぐなじんだ。体温のおかげで穏やかな香りが再びふわりと漂う。
「……やっぱり、いい匂い。これならぐっすり眠れそう」
ラベンダーの香りには、鎮静安眠効果がある。
ちょうどいいとばかりに、明かりを消してベッドに横たわる。
シーツにくるまって目を閉じると、またうっすら香りが漂ってきた。
自身を強調する一般的な香水の類とは違って、控えめなところが実にいい。
(あのエッジから贈り物なんて、初めて)
旅の合間に、おやつをちょろまかされた頃がとても懐かしい。
戦いが終わってから、エッジはちょっと変わったと思う。
下品なことを一切言わなくなったし、リディアの顔色を少し窺うようになった。
モノをくれるようになった。そして、時々背を向けて話すようになった。
人は変化のある生き物で、全く変わらない人などいない。
それに伴い、相手との関係が変わってしまうし、途切れてしまうこともある。
わかってはいるが、やっぱり寂しい。
そう思ってしまうぐらい、リディアはエッジとの友情関係にとても満足していた。
「薬草畑に……連れて行ってもらえるまで……このままじゃ……だめかなあ……」
ラベンダーの香りに包まれているうちに、うつらうつらとしてきて。
リディアはささやかな願いをつぶやきながら、ようやく眠りについたのであった。
*5年後につづく
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