聖母いわく「子作り逆レ●プのお供と言えば葡萄酒ですよ~」 作:ふりーじ屋/家庭内禁書
こっちはエロ少なめです。
誰に似たのか、『聖母』は自分のことを救えないらしかった。
※01
「あのね、おとうさんっ。おかあさんは、むかし、アイドルだったんだって」
どたどたフローリングを叩く足音と、りんりん高い鈴のような声をぶつけられる。
まだ3歳と何ヶ月かの娘に『アイドル』の概念がわかるんだろうか?
「そうか。お父さんは、知らなかったな」
「むっ、おとうさーん。おかあさんに『ウソはいけませんよ~』っていわれちゃうよ?」
ウソはあっさりバレた。
勘の良いところは、もう母親に似ている。
「ところで、『おかあさんは、むかし、アイドルだった』って、誰から教えてもらった?」
「えぇと、その……きれいなおねえさん!」
……昔の知り合いだろうか。
「亜利沙さんのことですよ、あなた。さっき外を歩いていたら、顔を合わせることがありまして」
「ああ、ありがとう朋花……『ありさ』って、まさか、松田の亜利沙さん?
あの人が、こんなところに来る用事でもあったのか」
咎めるように俺の膝を叩く娘の手を握り、リビングに行くと、朋花が麦茶を注いでくれていた。
麦茶を作り始める季節。アイドル業界は真夏~晩夏の書き入れ時に向け、準備に追われている時分のはず。
「39プロジェクトが、10周年ですから。そのイベントがらみと聞きました」
「それで、朋花が……もしかして『天空橋朋花』が? えぇ……?」
「どうでしょうかね~。なにせ765プロは『みんなまとめてアイドルマスター』ですから」
朋花はニコニコと柔和に笑っていた。
その笑いが、喜んでいるのか、呆れているのか、怒っているのか、
それともほかの感情の上にかぶせられたものか、わからない。
まるでアイドルだった頃のような微笑だった。
※02
「ねえ! わたし、おかあさんのアイドルだったところ、みたい!」
「お母さんにお願いして、見せてもらいなさい」
娘のせがむ顔をちらと見た。
『聖母』の子供……豚を2千頭ばかり崖から飛び降りさせてしまうかもしれない、
などと悪趣味な冗談が浮かんで消えた。
「あなたは、見たくないのでしょうか~?」
「見なきゃおしおきっ! って程度なら、おしおきをもらう」
「であれば、亜利沙さんのお話は、お断りしておきましょうか」
朋花が独り言のようにつぶやく――『お話』か。
「松田さんからどのぐらい『お話』聞けた?
あの人、だいぶえらくなったらしいから、すごく忙しいはずだが」
松田亜利沙は、アイドルオタクが昂じて自分もアイドルになったクチで、
朋花とは765プロのほぼ同期・同世代にあたる。
俺や朋花がいなくなったあとは、アイドルのプロデューサーまで兼任して、
自分がアイドルやりながら後進をプロデュースしているというムチャをやっていると聞く。
しかもそれが調子いいとの評判だ。そんなヒマじゃないはず。
この街は、めぼしいハコもないし、765プロゆかりの人間もいないし、交通の便もよろしくない。
売れっ子のアイドル兼プロデューサーがやってくる理由が思いつかなかった。
……朋花を除いては。
「今の私から『聖母』の面影を見つけられて、私の金縛りに抗える人……ということで、
亜里沙さんがお越しくださった……と、うかがいました。話しぶりは、相変わらずでしたね~。
『せめて、名刺だけでも――ふ、ふぉぉぉぉ……! い、一度言ってみたかったんです! この台詞!』
などとおっしゃっておりました」
俺は、松田亜利沙の周りで仕事をする人間の苦労を思わずにいられなかった。
彼女のオタク基質がそのままだったら、仕事の詳細まで口を出すだろう。
たぶん実績や人徳も持っているから、口を出される側が『いいから黙って見てろ』と言い返しにくい。
俺や朋花を39プロジェクトに引っ張り込んだ……765プロ最初のプロデューサーも似たノリだった。
高木社長ぐらいデーンと構えてくれたほうがよっぽどやりやすかったのに。
「もっとも、亜里沙さんも年の功で、人並みにずる賢くなったかもしれません~。
私が邪険に扱いにくいよう、わざわざこの子と一緒の時を狙って、声をかけてきたようですから」
「そこまでするって、まさか本気で朋花をステージに引き戻そうとしてるとか?」
朋花は微笑のまま顔を近づけてくる。俺の目や頭蓋骨の裏を覗かん勢い。
いつもなら、そんな詰問じみた視線なしに、こちらの内心など看破してくるのに。
※03
「……これはこれは、あなたは本当に、お嫌そうですね」
娘は、俺の視界の下の方で『おかあさんのステージ、みたい!』と言いたげな風だったが、
それを言いかけながら俺の顔を見上げ、声がへし折れたように黙ってしまった。
俺はそんなに険しい表情をしていたらしい。
「やるとしたら、俺は見ないつもり」
「では、それはお断りします。あなたの目がないと、張り合いが足りないので~」
朋花は、かつて『聖母はこれから何回も、何度だって、ステージに立ちますからね~』
などと宣(のたま)っていたのに比べると、変われば変わるものだった。
「……とはいえ、ただお断りも不躾というか不義理と言うか。
朋花がこっち来た時、秋月さんにはたいそう世話になった」
「そうやって、情に訴える算段かもしれません~。
実際、私も亜里沙さんのお顔を拝見して、懐かしいという気持ちには、なりましたから」
朋花は微笑のままこちらを眺めていた。
「……花で、どうか」
「フラワースタンド、ですね」
それぐらいが落とし所として無難だろうか。
ひとまず『絶縁ではありませんよ』のメッセージにはなる。
39プロジェクトも大きくなったらしいので、何かおいしい仕事につながらないかなぁ、と下心もあった。
「大きいのがいいな。半分出すから俺も連名にしてくれないか」
「……載せてもよろしいのですか?」
「広告宣伝費とか接待交際費で落ちたらいいな。先生に相談する」
朋花が『もういいか』とでも言いそうな、ちょっとぞんざいな感じで、ようやく俺から目線を外す。
そんなに疑うならお上手な口で問い詰めてくれれば……いや、娘の前だとしづらい話だった。
「ところで……『天空橋朋花』のお名前、今も使えるんでしょうか?
芸名としては、処理をあなたに丸投げしてしまいましたし」
それも確認をとらなければならなかった。765プロだけの問題ではなかったし。
「……もう天空橋でなくなってから、それなりに経ちますので~」
※04
「……どうしても、糸で吊って宙を?」
昔の俺は、疑問文にしてはかなり刺々しい声音を出してしまっていた。
俺と朋花が初めて顔を突き合わせたのは、
朋花のデビュー曲『Maria Trap』のお披露目公演のための打ち合わせだった。
「ええ。聖母は、可能な限り平等に、子豚ちゃんたちへ恵みが届くようにするものです。
客席後列の子豚ちゃんにも……となると、そういう手が必要なんです……ですよね? プロデューサー」
俺は『Maria Trap』の作詞作曲からミックスダウンまでを担当していた。
そしてこのぶんだと、お披露目公演の音響も口を出さざるを得なくなりそうだった。
「音屋さんとしては、不本意かも知れませんが、演出として汲んでいただきたいのです」
朋花の当時の担当プロデューサー――朋花をオーディションで採用した、765プロ生え抜き――が、横からダメ押ししてきた。
彼の『音屋』というおおざっぱな呼ばれ方に、在りし日の765プロの懐事情が透けていた。
俺が関わり始めた頃の765プロは、高木社長、所属アイドルが10人かそこら、
プロデューサーと事務員が一人ずつというささやかなアイドル事務所だった。
俺は765プロから外注で楽曲作り『など』を受けていた。
765プロは制作費が少なく、上流から下流まで可能な限りすべて面倒見る器用貧乏を必要とし、
そのうちの音関係を駆け出しだった俺がよく受けていた。
765プロの高木社長やプロデューサーは、作詞作曲から音場づくりまでまとめて『音屋さん』な人だった。
……スマートフォンを何でもiPhoneと言ったりするオジサン・オバサンみたいだ。
違いを意識してないせいで、俺にすべて丸投げだったのかもしれない。ムチャを言う。
「自分、アウトボードや音源を買いすぎて財布が薄かった頃、現場で日雇いやってたんです。
そこじゃ『1メートルは一命取る』って言いましたよ」
朋花と、彼女のプロデューサーは、ピンときていないようだった。
確かに、建設業や製造業ならともかく、アイドル事務所で掲げる標語ではない。
人に乱暴な丸投げの仕方をする代わりなのか、高木社長には人集め・金集め、
プロデューサーには企画・営業の能力がエグいほどあった。
彼らのプロデュースするアイドルは、数年もせずアイドル戦国時代の台風の目となった。
俺も印税で潤い、業界で名前を売ることができて、『音屋』の活動を軌道に乗せることができた。
そのぐらいの時期に朋花たちがやってきた。
「ご心配はありがたいのですが、安全確保はあなたの仕事・責任ではございませんよね~」
「……飛び回っているときは、まともに歌えないと思ってください。
こちとら、もとはDTMerですので。凝った音場がほしければ、本職へご相談ください」
朋花――天空橋朋花――は、765プロが勢力拡大のため発足させた『39プロジェクト』で、
新たに採用されたアイドルの一人だった。俺は彼女のデビュー曲を発注された。それで、こうなった。
765プロが少数精鋭(?)から、それなりの規模と体制を築くまでの過渡期にあたって、
どうも朋花のデビュー周りの流れは、まだ小世帯だった折のやり方を引きずっていた。
朋花と出会って間もない頃の印象は、正直に言うと『歌はうまいが、なんだこいつ』であった。
「天空橋朋花は、一言でいうと、聖母なんですよ」
曲を発注された時、プロデューサーから朋花のイメージについて、
『聖母』とか『騎士団』とか『子豚ちゃん』の設定を説明された。
俺はその説明を丸呑みして曲作りを進めた。
その後、レコーディングで朋花の歌を聞いたとき、
『如月千早ぐらいの見込みがありそうだ』『正統派で売れよ』と思った。
俺は『日本でそんなこってりしたキャラづけでシーン作った歌手、あまりいないですよ』と、
プロデューサーへ『今からでも遅くないから方針を変えろ』と暗に突っ込んだ。
突っ込みが通ったら『Maria Trap』は調整し直しだが……
朋花の歌声は、そのくらいの手間は払ってやっていいものだった。
プロデューサーは苦笑いしながら『そうは行かないんです』とだけ返事した。
それから俺は、プロデューサーの苦笑いの意味を、嫌ほど味わう羽目になる。
しかも『天空橋朋花の担当プロデューサー』として。
※05
39プロジェクトが順調に売上を伸ばすと、いよいよプロデュースする手が足りなくなったせいか、
朋花のほか、如月千早やジュリアなど、ヴォーカル重視のアイドルを担当してほしい、
との話が俺にやってきた(松田亜利沙とも、そのときからの付き合いだった)。
俺はプロデュース業が未経験で、先のプロデューサーほどうまくできる気もしなかったが、
あとに活きる業界の人脈が作れそう……という打算多めで、契約社員で引き受けた。
俺の魂胆を見抜いていたのか、『聖母』天空橋朋花と俺はソリが合わなかった。
「あなたは堅実で計画的な感じですが、行動原理が少し不純な方のようですね」
「細工は流々仕上げを御覧じろ、と言いますよ。天空橋さん」
「朋花で……呼び捨てで構いません」
天空橋朋花という少女は、その不満をズケズケと俺に言う。
「あなたにも、説明が必要ですね~。私がアイドルとなった理由は、子豚ちゃんたちに愛を与えるため。
子豚ちゃんというのは、私のことが好きで好きで仕方がない、困ったちゃんなファンのことです。
中でも特に熱心な人たちは天空騎士団と呼ばれていますね。ファンクラブとか、親衛隊的なものでしょうか」
「親衛隊がいるアイドルは、大昔はよく居たようですが、
デビュー前から親衛隊を率いているアイドルは、寡聞にして存じません」
朋花にとってアイドルは、『聖母』として『子豚ちゃん』『天空騎士団』を統率・拡大する手段らしかった。
「困ったことに、私のことが好きすぎて、時々ケンカをしてしまう子豚ちゃんがいたんです。
それを同級生に相談したらアイドルになることを勧められたんです。
アイドルになれば、聖母の愛を、平等に分け与えることができるのではないかと」
「それで、空を飛びたがったんですか。俺はおかげでたいそう苦労しました」
俺が『あんなムチャは二度とやらないでくださいよ』と釘を差したら、
『私がアイドルを続けているのは、子豚ちゃんたちのためですよ~』と、つれない返事。
朋花の『聖母』というのは、自称であり、『子豚ちゃん』たちが奉る称号でもある。
『子豚ちゃん』の熱狂と統制は名高く、俺が担当を引き継いだ時点で、もう一部に知られていた。
「子豚ちゃんたちがケンカをしないよう、指導する……それが、天空騎士団の紳士淑女のお役目なのです~。
集団でも、個人でも、ある程度の規律というのは大切ですからね~」
「担当プロデューサーとしては、ファンが自発的に治安維持に取り組んでくれるのはありがたいことですね」
規律は確かに重要だ。
しかし、ファンコミュニティに『指導する/される』という序列の構造がある――しかも、名目上は平等である――なんだそりゃ。
朋花は15歳らしからぬカリスマ性を持つ……が、まさか彼女だけでこんな手が込むシステムは作れまい。
悪いオトナが後ろに居て、ツボだの水だの売ってそうな薄気味悪さを覚えてしまう。
「……何か言いたげですね。あなたに差し支えがなければ、遠慮なくどうぞ。
あなたは子豚ちゃんではありませんから、気にすることはありません」
「あの『聖母』に遠慮せず物を言ってもいいと? 王様が抱えていた宮廷道化師みたいですね」
お似合いなことに、音楽は宮廷道化師の芸の一つだった。
しかし俺の立場はプロデューサーになってしまった。道化師では、いけない。
「これからは、『聖母』らしからぬ役割も、演じてもらいますよ」
「あなたが何の役割を考えているのか、楽しみにさせていただきます~」
※06
俺は、朋花に『聖母』の枠を外れた仕事をふるようにした。
サーベルを振り回す女騎士、番町皿屋敷のごときお化け、金棒を握り虎皮をまとう鬼……
「なかなか、多彩な役柄ですね」
「目が回りそうですか?」
「……いいえ」
それから、チアリーダー、女番長、魔王、女装少年ヴァンパイア……
「……演じる、というのは興味深い体験ですね。
ヴァンパイアのクリスが、エドガーと出会って世界の見方がかわったように、
私も、世界の見方が少し変わったような気がします」
俺がふった仕事の意義を、朋花は取り組む前はいささか訝しんでいたが、
やってみるとそれなりに楽しみや収穫を感じた様子だった。
「俺も『子豚ちゃん』たちの欲しがり具合が、多少は分かってきた気がしました。
『今は満ち足りていても、刺激には慣れて、すぐに次を求めるようになってしまう』と」
かつて朋花が聞かせてくれた言葉だった。
『聖母』だけあって、朋花はファン――つまり崇拝者――の移ろいやすさを、俺に先んじて喝破していた。
熱心な崇拝者は、当人以外から見ると奇妙なほど、崇拝対象の乗り換えがお上手でいらっしゃる。
「そのとおりです。ですから私達は、現状で満足していてはいけないのですよ~。
常に二手、三手先を読み、子豚ちゃんたちを幸せにする方法を、ともに考えてもらわなくては」
ただ、演じる役がいかに多様でも、それはまだ『聖母』という幹を彩る花と枝葉にすぎない。
「……朋花」
「なんでしょうか~?」
あの『Maria Trap』は、ある意味で台無しにされた。次こそ俺の意を汲んでもらう。
「次の曲では、鳥籠に閉じ込められてもらいます」
※07
「――デューサー、プロデューサー?」
FitEarのBluetoothイヤホンを、いきなり耳から引っこ抜かれた。
ここは劇場内、関係者以外は立入禁止な部屋、そんな狼藉を働くのは誰だ……? と思ったら、
「朋花ですか。いま、良いところなんです。あとにしてください」
「聖母の問いより優先すべきことがおありですか?」
俺は仕方なく、ノートパソコンとKORGのnanoKEY2から、声のほうへ顔を向けた。
左手にイヤホンをつまんだままの朋花と、その後ろに半分隠れたジュリアがいた。
「ジュリアも――公演の打ち上げ、もう終わったんですかね」
「打ち上げは……たぶん、まだあっちの部屋でやってるだろ。でも、プロデューサーがいないから……」
「何かトラブルでもありましたか」
「そういうワケじゃない、が……その、あたしと朋花はね。もう少し、担当プロデューサーとして……
その、今回の反省点とか? もっとコメント、聞きたかったんだけど……」
ジュリアは気まずそうに、朋花は当然のような顔をして、椅子に座ったままの俺を見下ろしていた。
「今回の公演は、ファンの反応も上々。担当プロデューサーからしても、大いに刺激となりました。
おかげさまで……その答えは、うまくすれば、もうすぐ形になります」
「カタチに……とは?」
「デモ音源なら明日にでも聞かせて差し上げましょう、ということです。朋花」
二人は、開きっぱなしだった俺のノートのモニターへ目をやった。
「……プロデューサー、あんたがDTMerとは知ってたけど、作業を見るのは初めてだ」
「ふだんはノートで作業しないです。これだって、前にTraks BoysのCrystalが、
『東京から長野に帰る間の新幹線で作業すると、なぜかすごくはかどる』って言ってたの聞いて、
真似できたら面白いと思って持ち歩いてただけです」
「……DTMer、ってなんです?」
ジュリアは自分も作曲をやるせいか、朋花と違って、
俺がDTM(デスク・トップ・ミュージック)の作業中だということを察していたようだ。
そういえば、ラップトップで作業をしててもデスクトップって言うのだろうか?
今じゃLogicもタブレットで動かせるご時世なのに。
「要はパソコン上で、作曲や編曲やミックスやらをしているということです」
「……譜面が見えないので、私が見ても、どんな曲か想像もつきませんね。
それに、そういう機材は、ものすごく大掛かりなものだと思っていましたが」
「私も画面だけではわかりません。いじるのは、音波ですから、五線譜も鳥籠も映っていないです。
ハイレゾで細かい場合、トラックごとの音量を0.05デシベル刻みぐらいで……デモは、そこまでしませんが。
機材は……昔は、そういう大きなのが必須でした。今でも愛用者はいます」
朋花は作曲というと、楽器を鳴らしたり、楽譜に鉛筆を走らせたりのイメージだったようだが、
DTMでは楽器ができなくてもスコアが読めなくてもコード名がわからなくても、一人で音が作れる。
作れてしまうので、必要になるまで勉強しないまま……なんてことも。
自分で作った曲について『このコードの名前なんですか?』と聞かれ、耳でしか覚えていないので、
名前がわからず慌ててネットで調べる人が、プロにもぼちぼちいる。
「作業スタイルは人によりけりですが、私は思いついたらその瞬間にiPhoneにボイスメモで録りためて、
作る必要が出てきたときに取り出して、機材の前で弄り回して……というのがいつもの手順です。
今は、あんたがたの公演のおかげで気分ができたから、手持ちの道具で勢いでやってます」
「もしかして、あなたが時々、電話が来たふりをしながら鼻歌を歌っていたのは……」
朋花はようやく合点した顔つき……合点する前、俺は何をやってたと思われてたんだろうか。
「デモ音源なら明日にでも……ってプロデューサーさっきアッサリ言ったけど……新曲か?」
「朋花のソロですが」
「私の……ですか」
朋花は、指で摘みっぱなしのイヤホンと、ミニキーと、モニターに何度か目線を行き来させた、
もっとも、モニターはスクリーンセーバーが立ち上がっていたが。
「DTM、面白いですよ。俺なんて、学生時代からこのかたコレより面白いことが見つからず、この有様です。
興味があるなら、機材を譲ります。ちょうど、あんたがたの稼ぎのおかげで、買い足すつもりでしたし」
「そりゃ気前のいい話だけど……あたしは、いいや。スコアとギターが、あたしのやり方だから」
※08
ジュリアがもごつくところから視線をずらすと、朋花がモニターをじっと見ていた。
いつの間にか、スクリーンセーバーが解除されている。
「――し、失礼しました~。その、私の曲と聞いて、つい……」
ジュリアと対照的に、朋花の視線はいつになく心惹かれている風だった。
「朋花の家には、マシン……パソコンは、ありましたか」
「い……いいえ~、私個人のものは」
「では明日、デモを仕上げるついでに、Mac Bookと、ミニキーで余っているのを掃除して持っていきます」
朋花は、俺の言葉の意味を飲み込みかねるように首をかしげたが、
ジュリアに何やら耳打ちされて、いよいよ困惑をあらわにする。
「……もしかして、私が、その、それで、作曲……を? からかわないでください。
私、音楽は……歌う以外は、さっぱりなのですよ」
たいていは『聖母』に相応しき泰然自若の面持ちを維持している朋花が、
俺に対して初めて、15歳らしい狼狽(うろた)え気味の気色を見せていた。
「DTMでは、最初はそんな人がよくいます。
例えばsugar meなんか、オーディションでレコード会社のディレクターから『曲も書いてみたら?』
って言われたのがキッカケで、今のジュリアや朋花より年上のときにはじめたんです」
作曲と聞くと、小学校中学校でやられている音楽の授業のせいか、
モーツァルトやベートーヴェンの仕事と同じだと思われているフシもある。
ただ、あの人たちは18世紀生まれ。現代と同じ扱いはいささか強引じゃないか?
現代の料理人だって皆が皆、木炭で煮炊きして王様へ料理を出してるわけじゃないだろう。
「いいですか。楽器ムリ、理論からきし、機材おんぼろ、仲間ゼロ。
それでも時たまウケる曲が作れてしまうのが、今のDTMです。
朋花なんて歌ができる時点で初心者通り越して半分ぐらい中級者です」
「は、はぁ」
……半分ぐらい中級者、というのだけは、ちょっと大げさかもしれない。
「……まぁ、朋花にハンデがないわけではありません」
「ハンデ、ですか?」
「DTMはトライ・アンド・エラーを重ねて良くしていくものです。どうしたって時間がかかる」
いつか『DTMは積み木を積み上げるようにクオリティを上げる』という言葉を、
誰か――確かtofubeatsだったはず――が語っていて、それが腑に落ちて、今も腹の底に残っている。
「朋花は、学業とアイドルで二足のわらじだから……」
アイドルのようなパフォーマーに比べ、クリエイターは経験重視の傾向がある。
天才歌手や演奏家は、探せば毎年どこかしらに十代のイキの良い人間が生えてくる。
作曲家だとそういう人は十年に一人出てくるかどうかじゃないか?
「ただ、アイドル活動の糧にはなります。歌は確実に深くモノになります。
さらに腕を磨いて、例えば『完パケ納品できる』ぐらいになれたら、真似できない強みになるでしょう」
「……それが『子豚ちゃん』たちのためになりうるのであれば。
あなたが、そこまで言うのであれば、やらずには、いられませんね」
朋花がうなずいた。
誰かにDTMを勧めて、それで『やる』と言わせたのは初めてだった。
俺は765プロと関わりはじめてから一番興奮していた。
「私のプロデュースをしているあなたが、そのお仕事より『面白い』と言ったんです。
くだらないものであったら、承知しませんから」
「もし『くだらない』と思ったら、朋花が俺のプロデュースから卒業するときです」
俺は、765プロが公演の打ち上げに酔いしれている隣の隣ぐらいの部屋で、朋花に向かって、
DTMの基本的な概念、譲ることにした機材、参考になるサイトなどについて話したり質問に答えたりした。
「……プロデューサー。ふだんの仕事で、今の半分ぐらいの熱さでも出してくれていいのに」
ジュリアの苦言は聞き流した。
アイドルのプロデューサー業を、俺がDTMの半分以上の熱意を持って取り組む機会は、
その夜以前も、その夜よりあとも、ついぞ無かった。
※09
「貴方が全てを捧げるなら、私は貴方を護りましょう……永劫、共にありますよ~?
ふふっ。さあ、見せてくださいね……貴方の、覚悟を――♪」
俺が朋花に渡したソロ曲として、『鳥籠スクリプチュア』は2曲目となった。
朋花にDTMを手ほどきするついでに、相談を重ね、意見をぶつけ合い、いっしょに積み上げ作り込んだ。
そのせいか、俺のこれまでのプロデュースでは考えられないほど、朋花の『聖母』性が強く濃く現れている。
「羽ばたく自由に飽きて囚われたいのなら……私のため生きたらいい。
鳥籠に包まれて――Maiden cage♪」
……鳥籠だけは譲らなかった。
『聖母』だからといって、ほいほい宙吊りになってもらっては困る。
落差6メートルだと、どんな姿勢で着地しても、衝撃で首が強く振られ折れるか、脳挫傷か、脊柱が脳幹に刺さってお陀仏だ。
それ以上から転落して生きてた人は、下が柔らかかったとか、奇跡的なケースだからよく言及されるだけ。
俺には担当アイドルを宙吊りにする度胸はなかった。それを面白がる感性だってなかった。
「子豚ちゃんも天空騎士団のみなさんも……私の父と母さえも、
懐かしくも新しい『聖母』の声に、前にもまして深く感銘を受けてくださっているようです。
プロデューサーさん、褒めて差し上げましょう~」
DTMを教えるついでに、天空橋家に足を運ぶ機会が増えた。
俺は『どんな家だったら、朋花のような人間が育つのか……?』と最初は興味津々だった。
天空橋邸は、山手線の某駅を降りて文教地区に入っていった先の、
存在感たっぷりな礼拝堂(?)付きのお屋敷だった。
「……どこからどこまでが、敷地なんだか」
俺はまず家のでかさに驚かされた。
出入りするうちに、さらに理解しがたいことに気づかされた。
天空橋邸では、なにかと催し物をやっていたが、
朋花の母親がやっている華道関係を除き、俺には一目では趣旨がわからなかった。
明らかに天空橋の血縁以外と見える人間が、頻繁に出入りしていた。
朋花もまったく気にしないで挨拶している。アイドルの自宅として、いかがなものか。
……一人娘が『聖母』とか名乗りながらアイドル活動してて、どこかからクレームがつかないのだろうか?
前任プロデューサーが敷いた『聖母』路線に乗ってしまっている俺は、いまさら怖くなってきた。
そしてその恐怖は、ある意味では手遅れだった。
※10
「空は、飛びます」
朋花が順調に売上を伸ばし、39プロジェクトの劇場を飛び出し、
大きなハコでのライブを入れてやれそうだった。
それで、セトリに『Maria Trap』をどう配置しようか……という話題になったとき、これだった。
「ダメです。飛びません」
プロデュース業をやっているうちに、どうもあっちの人と俺の間で、
『飛ぶ』という単語への解釈に致命的なズレがあるのでは? と思わざるを得なくなった。
飛ぶ――鳥や虫が羽ばたいて自律的に空中を移動する行為のこと。
けっして、糸に吊られて空中を引き回される行為ではない、と思っていたんだが。
しかしアーティストのライブ演出としての宙吊りは、珍しくない。代々木だの幕張だのでもやっている。
まるで当然のことのよう。それを否定する俺が誤っているのか? 俺自身でさえ、そう思わなくもない。
「……あなたは『Maria Trap』のお披露目のときも、最後まで反対しておられましたね」
当時の朋花とプロデューサーとは違い、今の朋花は聞く耳があるようだ。
「砂を噛むんですよ。空は遠いんですよ。月に見下されているんですよ。囚われのマリア様は」
だから飛ぶんじゃないって。
演出だけを考えるなら、『空を飛ぶ』ほうが良いのは確かだ。
とはいえ、あの曲と詞をこね回しているとき、歌い手が宙吊りになるとは想定してなかった。
「……『聖母』は平等なんです~。
あの時に飛んで、今は飛ばないというのであれば、埋め合わせの代案が必要です。
しかし、それは簡単なことではありません」
俺は俺にできる代案を今までやってきた。『鳥籠スクリプチュア』だけじゃない。
ソロライブ数時間か持たせるぐらいに曲を作ったり作らせたりし、
青葉さんたちに衣装もあつらえてもらった。ねぇ、『聖母』様。不足でしょうか。
「あなたには、詳しく話したことがないかもしれませんが……『聖母』は、飛ぶのです」
「高いところが好きだから、とか言わないでしょうね」
俺のけんか腰に、朋花は一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑へ戻った。
「マリアは青き天の女王ゆえ。由来からして、ミリアム(高められたもの)ですからね~」
『本当か……?』と疑って、後でネットで調べたら、確かに通説はそうだった。
ほかに「マラ(=苦い、苦しい)」が語源との説もあるらしかった。知らなかった。
素人の俺には、どちらも同じくらいロクなもんじゃない、としか思えなかった。
そうして朋花は、衣装――ナイツ・オブ・テンペランスをまとい、空を『飛』んで、それから落っこちた。
比喩ではなく、物理的に、落ちた。その瞬間と事後処理は、未だに思い出したくない。
作詞だの作曲だのをやってきたなかで、これほど消し去りたいと思った曲は、未だにない。
※11
「……あら~、プロデューサー。遅かったですね。『聖母』が、首を長くして待っておりましたのに」
落ちてケガをした朋花は、都内某所の大病院で、病棟最上階の個室に入院していた。
ベッド代がとんでもないことになりそうだ……と心配になったが、
どうやら、この特別待遇は天空橋家のコネによるものらしかった。恐るべし。
「……先に、朋花のおうちにも、顔を出してきましたんで」
事務所としては、そういう部屋のほうが、変な人が押しかけてこなくて助かる。
「退屈そうですね、朋花」
「退屈だなんて~、そんな……」
朋花のケガは、身体的な後遺症は免れた。
飛ぶ高さをギリギリまで下げておいたおかげか、墜落の衝撃もそれなりに収まったらしい。
どうせなら、衣装は3Mあたりにフルハーネスで作ってもらってればよかった。
「静かで、お見舞いもご遠慮いただいているおかげか、お勉強がはかどりそうです」
朋花は『勉強』といったが、ベッドの上にはMac bookとミニキーを乗せていた。
俺が譲ったのはシルバーだったが、朋花はお好みでなかったらしく青いカバーをつけている。
「父なる神は乗り越えることができる試練だけを賜います。焦らずしっかり療養してください。
みなさんは『聖母』の帰りをいつまでも待っています……ですって、朋花」
朋花は珍しく目を丸くした。
「……『ですって』、とは?」
「朋花のうちで、お父さん・お母さん・『天空騎士団』と『子豚ちゃん』の皆々様から、伝言を頼まれました」
俺は伝言をもらったとき、『皆々様』がたが、事態をイマイチ理解していないと思い、何度か聞き返した。
朋花が『聖母』どころか危うくホトケさんになりそうだったんだが。再説明しても伝言はそのままだった。
「いつまでも待って……ですか。プロデューサー。あなた、どう思われます?」
「いつ……死がふたりを分かつまで、よりかは早いと思いますよ」
ふだんの朋花なら気分を害する茶化し方をしたのに、今の朋花はため息一つで流した。
「時は、私についた傷を癒やし、そして私のことを忘れさせもします。甘え過ぎは、禁物です」
生き急いでるったらない。親鸞聖人みたいだ。宗教家(?)ってそうなるものなのか。
生き急げるのは、アイドルの才能の一つだが。
「……朋花は元気そうで」
「おかげさまで~。お医者様もご尽力くださいましたし、あなたが高さを下げてくださったおかげか、
治りも早いようで、近いうちにダンスレッスンにも復帰できる見込みです~」
朋花の転落事故はけっこう話題になっている。
朋花のキャラと衣装・演出的にも、墜落はインパクトがあった。
業界全体で、宙吊りパフォーマンスが自粛ムードになりつつあるとのウワサも聞く。
そういえば『聖母』って労災がおりるのだろうか。
「まぁ、私はあまりアテにしないことにします」
「あなた、『聖母』の言葉が信じられないとおっしゃるんですか?」
「朋花のような心優しい人は、落ち込んでいるときに誰かから励まされると、
別に元気が出ても居ないのに励ましてくれた人を気遣ってカラ元気出してしまうもんですから」
※12
驚くべきことに、俺と765プロの契約は残っている(契約解除だと俺は勝手に思っていた)。
俺が『空を飛ぶ』ことを渋っていたことや、リスク軽減のため高さをギリギリまで下げたことが、
(朋花には『低いほうが観客に近くてパフォーマンスが強く伝わる』と言いくるめた)
彼らから見ると、ある種の免責に値するらしい。
事故原因なんてもっとちゃんと調べんとわからんはずだが。
会場の人は「イレギュラーな低さでやるからおかしなことになった」ぐらいの文句は言いたいだろう。
ともあれ俺には、朋花やその周りともうしばらく付き合う義務が残っている。
「……困りましたね~。
あなたが信じてくださらないのであれば……私は、きゅうり畑のカカシです。
幸を下す力がなくなってしまいます」
朋花はMac Bookをぱたんと閉じて、あざといほど可愛らしく小首をかしげた。
そんな力、もともとないだろうと言ってやりたかった。
十人や百人ならともかく、数千や数万以上の他人に『幸を下す』力がふつうの少年少女へ宿るものか。
しかし言えなかった。
アイドルとそのプロデューサーは、そういう無いものをあると思わせる職業だから。
「なに、俺もハナから朋花を信じないわけじゃありません。
その証拠に、朋花がそんなに元気だったなら……と思って、キツめの課題を用意してきました。
受けるかどうかは朋花しだい、ですが」
俺は朋花に、クリップ留めの企画書とUSBメモリを手渡して読ませる。
「……私が、私の歌を……作る……?」
「もちろん私も面倒を見ますが、クレジットはあなた名義になります。
私だけだと甘くなりそうなんで、辛く見てくれそうなアレンジャーに渡りをつけています」
入院の暇つぶしのために朋花にDTMを勧めたわけじゃなかった。
ただ、今となっては、俺が喜んで与えられて、かつ朋花が喜んで受け取ってくれそうなものは、
それしか思い浮かばなかった。少なくとも、765プロにいる間はそうだった。
※13
「……『Nicola Copernicus』?」
俺はすぐ、朋花の作曲家としてのペンネームを用意した。
「ニコラ・コペルニクスって読めばいいんでしょうか。コペルニクスは……あの、地動説の?」
地動説でマリア(=天の女王)をひっくり返したって洒落だった。
元ネタをラテン語表記するならNicola『us』なんだが、それだと男性形だし、
表記を揺らしてやったほうが検索エンジンに引っかかりやすいので、女性形らしくした。
「あの、まさかとは思いますけど」
「気に入りませんか?」
「……この名前を考えついた時、Galileo Galileiを聴いてませんでしたか~?」
図星だった。プレイリストを眺めながら、3秒で考えた名前だ。
朋花が図星をついてくれて嬉しかった。Galileo GalileiがBBHFになってからもう何年も経つ。
アイドルと関係が薄く、自分の世代からも少しズレた音楽も、朋花は聞くようになったらしかった。
DTMを始めたおかげだったら嬉しかった。DTMerは手広く曲を聴き込んでなんぼである。
「コペルニクスは、ああ見えてカトリックの司祭です。世渡り上手でもあります。
ガリレオと違って、宗教裁判にもかけられませんでしたし、本を禁書にもされていません」
だからコペルニクスにあやかったほうが縁起がいいんだ、と言い訳した。
俺の考える『縁起』を朋花が気にするのか? と不安だったが、朋花は軽くうなずいた。
ひとまず追及は止んだ。
「そもそも『天空橋朋花』名義では、いけないのですか?」
一呼吸だけ置いて追及再開。
「アイドル活動の余技でよい……というスタンスなら、それでよろしいでしょうね」
わざと癇に障る言い方をしたおかげで、朋花が――あの朋花が――顔をしかめてくれた。
「その『天空橋朋花』名義だと、『創造は始まり~』とか『昏き星~』とか、
『百花は月下に~』とか、挑戦しにくくなります。人への提供も作りづらいですよ。
荒井由実が一時期、呉田軽穂なんて遊びみたいな名前を使ってたのも、確かそのせいです」
「……なるほど。作る側にも、作る側の制約があるんですね~」
朋花の響きは、制約を面倒くさがるというより、むしろ面白がっているよう聞こえた。
もともと朋花は規律やらルールやら「縛り」的なものによく親しんでいる。
いつもと違った制約は、新鮮な味わいがするのか。
「あと、ほかのDTMerにネットで音の質問する時に『天空橋朋花』の名前だと、ギョッとされてしまいます」
「……ネットで質問、してもよろしいのですか?」
「もちろん『あなたの音を真剣に聴いている』と伝わる質問ですよ。運が良ければ教えてもらえます」
俺がDTMをかじり始めた頃の界隈は、まだフロンティア的な空気があって、
さして親しくない人同士でも、ネットでダイレクトメッセージ送ってノウハウを教えあっていた。
もし、その空気が残っているなら……朋花には、それを吸ってみてほしかった。
「……身分を隠す仮の名を持つのも、良いかも知れません。
『Nicola Copernicus』……ふふっ。ジュリアさんと比べると、いかめしいですね」
「お気に召されたようで幸いです」
朋花は膝上に置いた企画書へ目を戻した。今度こそ追及を止めたらしい。
手持ち無沙汰になって、病室に不釣り合いなほどの大開口窓の外をみやった。
空が近く太陽が眩しい――ブラインドを閉めようと思ったら、やり方が分からない。
「……ああ、プロデューサー。それ、リモコン以外で動かしちゃダメらしいです~」
朋花がリモコンを向けてボタンを押すと、するすると、電動の割に静かな音でブラインドが閉じられていく。
「ありがとう」
「どういたしまして~」
朋花が『聖母』じゃなかったら、もう少し、尽くしてやれた。尽くしてやりたかった。
朋花が綴ってよこした初めての曲――『Sister』の歌詞に、
初稿から最後まで『聖母』の文字は記されなかった。
※14
765プロとの残る契約期間、俺は朋花にナレーターやラジオやコラムなどの仕事を振ってお茶を濁した。
ほかの担当アイドルに対しても、わざとライブ以外の仕事を優先して入れた。
ヴォーカル路線重視のアイドル担当のプロデューサーなのに。
契約満了に向けた引き継ぎも、どんどん進める。
「朋花の次のプロデューサーは……できれば、秋月さんでよろしくお願いします」
「……私が、ですか」
秋月さん――秋月律子は、もともと事務員として765プロに入社した。
経営に興味があって、わざと小規模なプロダクションを選んだのだとか。
そのあと、なぜかアイドルデビューしたり、プロデューサーになったり、またアイドルに戻ったり、
型破りな765プロの中でも波乱万丈な経歴を持つ、異端児中の異端児だった。
「理由、うかがってもよろしいですか」
その割に、彼女は俺よりよほど堅実なやり方を好むタイプと見えたが。
「朋花は、もう一度ライブをやりたいと言っています」
「それはすでに聞いています。朋花本人からも」
「……ご両親や、『子豚ちゃん』や『天空騎士団』も、ライブを望んでいるようです」
「もともとあの子、ライブ重視のスタンスでしたからね」
朋花は最初のソロライブの直後、ファンへのメッセージとして、
『きょう劇場に来られなかった子豚ちゃんも、落ち込む必要はありません~。
聖母はこれから何回も、何度だって、ステージに立ちますからね~』などと綴ったこともあった。
「俺は、朋花たちの希望を叶えてやれません。叶える気もありません。
プロデューサー業は、おしまいです。『音屋』に戻ります」
「朋花は、悲しむでしょうよ。もっとも、表には出さないと思いますが」
「秋月さんが、朋花たちの希望をいちばん汲んでやれます」
ステージには、どうしても離れがたい――『聖母』でさえ抗えない――魔力があるのかも知れない。
それをかつて味わっていた秋月さんは、俺より抑えを利かせやすいはず。
秋月さんは、黒縁オーバルのメガネごしに、俺の顔をじろじろと無遠慮に眺めていた。
「……なんで、アナタは、そんなにライブをさせたがらないんですか?」
今の秋月女史の歳は、俺が朋花の担当を拝命した年齢と、さして変わらなかった。
つい、プロデューサーをやる羽目になったばかりの頃を思い出した。
「……朋花には、気をつけたほうが良いですよ」
「そうですか? アイドルだった頃の私より、よほどしっかりして見えます」
かつての自分が重なると、教えてやらないのが悪い気がした。
引き継ぎ資料に書けないような、俺の憶測を。
「朋花のファンは、外から見えるほど一枚岩じゃなくなっています。
古参は原理主義的にライブを望んでいて、ライト層はライブ以外の露出も欲しいようです」
「原理主義って、そんな。宗教じゃないんですから」
秋月さんはカラカラと気安い笑い声をたてた。
「宗教だと思いますよ、俺は。あの人らのやっているコト。
だから、一回ステージ上で死んだんで、ステージ上で復活してもらわなきゃ困るんですって。
こっちの都合なんかお構いなしに。まるでイエス・キリストです」
「死んだ、って」
「いや、笑ってもいいですよ。もしかしたら、俺の妄想かもしれないし」
笑っていいと言ったそばから、秋月さんはカラカラ笑いを引っ込めていた。
笑ってくれてたままのが話しやすかったのに。
本当にいまさらだが、そもそも朋花はちょっとおかしかった。
『聖母』とは、なんだったのか。
日本のクリスチャンの中には、たまに、アンナだのナオミだのシモンだの、
聖書から引っ張ってきても日本人の耳に馴染みやすい名前をシレっと子供につける人がいる。
朋花の自称・他称の『聖母』も、そのぐらい軽い意味合いの愛称……と、自分に言い聞かせてきた。
「朋花のおうちは……そう、なんです?」
「どうでしょうかねぇ?」
「ハッキリしない言い方しますね」
「……じゃあ、なるべくハッキリいいますよ」
※15
アイドル親衛隊とその模倣文化が廃れてずいぶん経つ今日このごろ、
デビュー前からあれだけ組織された親衛隊を従えている15歳が、そうそういるものか。
「天空橋家ってプロテスタントもどきの新宗教やってて、たぶん朋花のお祖父さんが開祖で、
朋花にくっついてる人たちは、ファンというか、文字通りの信者(ファナティック)ですよ」
「え……ええっ?」
いくらお金持ちだからって、山の手の屋敷に礼拝堂をつける家がそうそうあるものか。
「デビューしてしばらくは、そんなカルト臭さはなかったんで、スルーできたんですけどね。
去る者は追わず来る者は拒まず、とか……朋花風に言うなら『規律』がなってました」
「……なってまし『た』って、アナタ」
朋花のプロデュース方針が、もともとの『聖母』という軸からあっちこっち揺れたり、
朋花がステージ中に墜落して療養を余儀なくされたり、それで朋花との絆(締め付けともいう)が緩んだり、
さらに俺が活動内容を広げてファン層を新規開拓――言い換えれば、異分子の流入――を進めたり……
「たぶん『天空騎士団』の皆さんにとってみれば、弾圧されてるユダヤ人の気分なんでしょうね。
それで、自治に気張らなきゃいけないって義務感にかられて、行き過ぎて内ゲバを起こし始めた」
非合理的な序列と、それからくる内ゲバは、カルトのお約束だ。
そして天空橋家をうがって見るようにして、ようやく気づいたのだが、
天空橋家の取り巻きに『アイドルなんてけしからん、天空橋だけの聖母でいてほしい』派もいるらしい。
それは今まで朋花のアイドルとしての勢いで火消ししてきたのだが、転落事故を機にくすぶり始めたとか。
「あの、プロデューサー殿は……それを、切り回していたんですか?」
「朋花からは、そもそも内ゲバをなんとかするためにアイドルになったって話も聞いてます。
今思えば、前任のあの人から俺が引き継いだ時の『切り回されている』状態が特別だった気がしてます」
ともあれ、朋花は彼ら・彼女らのためにステージに立ち続けたい……らしい。
また朋花は、それを成立させるほどの才能を持ってしまっている。
「昔は、歌の才能に恵まれたせいで、舞台と引き換えに自分の心臓を食う羽目になった人もいたらしいですが、
どうも俺は朋花がその類の人間に見えてなりません。ならば、それを担ぎ上げるファンは……?
そうそう、もっとも熱心な冒瀆者は、もっとも熱心な崇拝者……なんて言葉もあります」
「それはそれは……文学的で、アイドルのプロデューサーらしからぬお言葉ですね」
俺は統合失調症じみた見解を垂れ流してるのに、秋月さんったら、うまい相槌を打つ。
俺自身でさえ、証拠を集める前に辞める見通しがついたから放置した程度の説だってのに。
「どっちも昔の小説家の受け売りですから。最近、がんばって本を読むようにしてるんです。
作詞をやってたら、教養がないせいでひどい目を見たもんで」
うまい相槌うってくれるものだから、整理しないまんま吐き出してしまっている。
「秋月さん。俺はもう、朋花とその取り巻きを切り回す自信がないんです」
あの人たちは、アイドルを、登山家や軍人といった危険不可避の職業と勘違いしているかもしれない。
あるいは、俺が知らないだけで『聖母』はそういう職業なのかもしれない。
何も言うことが無くなった。秋月さんは下アゴを指でさすって思案に耽っていた。
俺にとって、ここまでが、アイドル・天空橋朋花の、資料に書き残せない引き継ぎ事項だった。
「……朋花以外のプロデュースも、辞めてしまわれますよね。
それは、朋花だけあなたの担当を外されると、角が立つからですか?」
そう言われると、千早や、ジュリアや、亜里沙……他の担当アイドルに対して申し訳なさが滲んでくる。
一番ソリが合わなかったのが朋花なせいか、俺はきっと朋花ばっかり構っていた。
ただ彼女らへの罪悪感は湧いても、何かで償おうという気力は湧かなかった。
「俺は音楽が一番おもしろいんで、DTMで食っていけるなら、それ以外はなるべくしないんです。
今度お声がけいただけるチャンスがあるなら、作曲や編曲の発注とかにしてくださいね」
朋花が聞いたら嫌な顔するだろうが、今でも俺はプロデュース業よりDTMのほうが面白かった。
「……もしかして、なんですけどね。プロデューサー殿。
私のこれから言うこと、私の見当違いだったら、ゲラゲラ笑い飛ばしてほしいんですけどね」
秋月さんがもったいをつけるので、俺は奥歯を噛み締め身構えてしまった。
いったい、何が飛んでくるのやら。
冗談の前フリに聞こえたが、秋月さんから冗談を聞かされた記憶はない。
「朋花の事故は……アナタが一番深い心的外傷(トラウマ)を負っているのでは?」
※16
秋月さんのそれは、純粋な疑問だったのか、
あるいは他人の心配する前に自分の心を癒してこい、というありがたい忠告だったのか。
俺は765プロを辞めて、ついでに地元へ帰ることにした。
朋花は復帰ステージに向けて忙しい中、
浜松町まで(羽田まではさすがにムリだったようだ)見送りにきてくれた。
「あなたは……天空騎士団でも、子豚ちゃんでもありませんでした。
ですが……私を、支えてくださいました。感謝しています……とっても……私は……」
朋花の言葉につられて、プロデューサーとしての仕事のことがぼちぼち脳裏に浮かんだ。
もし俺が『聖母』よりマシな道を、敷いてやれていたら。
「わからないことがあったら、メールや、ダイレクトメッセージでもいいから、送ってください」
「……?」
アイドル活動のことは、もうよかった。
復帰ライブでは『Sister』のお披露目もやるらしいが、懸念はない。
秋月さんなら俺よりソツなくまとめられる。
だから、俺が朋花になにか言うとしたら、これだけ。
「作曲とかアレンジとか機材とか、音関係すべてです。『音屋』は、あちらでも続けるので」
言い残して、モノレールの改札へ乗り換える。
俺が『聖母』たる朋花と交わした言葉は、それが最後となった。
※17
「この空港、『タヌキにエサを与えないでください』って看板があちこち立っていますが……出るんですか?
……私、野生のタヌキちゃんって見たことがありませんね~」
「都内は出ませんか? 皇居とか、神宮とか……ここで見たければ、夜にどうぞ。
連中は夜行性で、暗くなれば我が物顔でたむろしています」
俺が765プロを辞めて以来、久しぶり、という言葉を使うか否か……
人によって分かれるぐらいの月日が経ってから、朋花と顔を合わせた。
某地方空港では、まだ日の出間もない弱めの日差しと、内海のゆるい海陸風が、
朋花の下ろし髪とパステル・グリーンのワンピースを、ひらひらと撫でつけていた。
朋花は吹き流される髪と裾とを、鬱陶しげに手で抑えていた。
「顔、痩せてませんか」
「今の私が髪を下ろしているから、そう見えてるだけでしょう」
「前は、いつも高めのシニヨンかポニーテールでしたね」
朋花の外見で、俺が東京で最後に見たときから変化したとわかるのは、それぐらいだった。
「あんな文面を送りつけてくれましたから、朋花は変わり果てているかと心配しましたが」
※18
前夜、Nicola Copernicusからダイレクトメッセージが届いた。
『前略御免下さい ご多忙とは存じますが、ぜひともご相談したき儀……』
折り目正しく頭語で起筆されたお手紙を頂戴したのは初めてだった。
偽アカウントのなりすましを疑い、IDを照合した。
一致していた。少なくともアカウントに間違いはない。
本当に朋花が書いた文なのか。朋花は、ファン向けのメールやブログをもっと無難に書いていたのだが。
アカウント乗っ取りを疑いながら、つらつらと『かしこ』まで読み進めた。
送信されてきた繁文縟礼を要約すると『いつ会えますか?』だった。
知らなかった。俺はもう朋花のスケジュールを把握できる身分じゃない。
俺だってもう頻繁にあちらへ行く機会はない。
『次に東京へ行く日取りが決まったら連絡します』
朋花=Nicola Copernicusだと匂わせてしまうと、もし乗っ取りだったときにイヤなので、
(『Sister』の印税処理のときから、『天空橋朋花』と『Nicola Copernicus』は別名義にしていた)
俺はフォームに打った文面を読み直し、やりすぎなほど切り詰めて送った。
恐ろしいことに、チャットボットもかくやという早さで返信が飛んできた。
『私がそちらに行くのであれば、あした会えますか』
返信内容は早さより恐ろしかった。この強引さは朋花を追想しなくもなかった。
『もし来るのであれば、目印代わりに、なにか私があなたに差し上げたものを持ってきてください』
合言葉の類いを定めていなかったので、こんな言い方になった。
このNicola Copernicusが乗っ取りだったら、見当がつかなくてゴチャゴチャ言うだろうから、
そうなったらあとで秋月さんに連絡して朋花に――
『サムシング・フォーみたいですね~。わかりました、持っていきます』
――判断に困る展開だった。
『Mac BookとKORGのミニキーはもっていけそうです』
『ちょっと時間がないので、ふたつでご了承ください』
『飛行機の席を予約しました』
いきなりメッセージの刻み方が細かくなった。
なんだ、普通のダイレクトメッセージっぽいやり取りもできるじゃないか。
『便名と到着時刻は……』
検索すると、黄緑色がイメージカラーの航空会社だった。
『聖母』が空を飛ぶ時、LCCでもいいんだ。知らなかった。
時刻を告げたということは、迎えに来いという意味だろう。
妙に時刻が早かったのでよく見直すと朝一だった。
クルマを出すしかない。こっちの都合お構いなしだ。
『もし、自家用車用のゲートが空いていなかったら、遅れますよ』
俺は念のため、秋月さんを含め信頼できる何人か宛に、メールの送信予約を設定した。
あれは朋花かもしれないし朋花でないかもしれないが、どちらにせよ危ない匂いがした。
もしパソコンも触れない事態になったら……何事もなく済んだら消せばいい。
『では、おやすみなさい。あなたも、明日に備えて早寝してくださいね~』
メッセージの送り主が……最悪、朋花でなくてもよいので、
どうか話の通じる状態でありますように……と、俺は神仏に祈りながら眠った。
※19
「あんな文面……そうですね。ご無理、申し上げました。
すみません……そして、ありがとうございます」
そのような感じで、俺はできるだけの警戒をしていた……のに、
朋花は時間通り空港にやってきて、一見まともな風体だから、俺は少し拍子抜けした。
「どこか行きたいところがあれば、乗ってください」
「座って、落ち着いて話せるところであれば、どこでも」
こっちは東京と違って、アイドルが都合よく使える隠れ家など無い。
この街は、俺が家に籠もってDTMやるぐらいしか楽しみを見つけられなかったぐらい、何も無い。
「朝早いし、なかなかありませんよ……俺の家でいいですか」
「あなたがよろしいのであれば、そこでお願いいたします」
朋花を乗せようとして、ふと、彼女が両腕で抱えている大振りなカバンが気になった。
「ところで……あれ、持ってきましたか」
本当に、Mac Bookとミニキーを持ってきたんだろうか。
だとしたら、坂道や段差でガチャつかないように積まねばならない。
そうヤワではないはずだが『機材は運べば壊れる』という言葉がある。
「ええ……この通り」
朋花が、パチンと音を立ててカバンを開けて見せてくれる。
中にはMac Bookとミニキーしか入っていなかった。
ご丁寧なことに、朋花が後付けしていた青いカバーは剥がされていた。
「俺はやったことがないので、知ってたら教えてほしいんですが」
「……なんでしょうか」
「空を飛んでるとき、作曲はできました?」
「はかどりませんでした。オススメしません」
機材をふたりで固定してから、朋花を席に座らせる。
そういえば、俺が天空橋家の門をくぐることはぼちぼちあったが、
朋花にうちの敷居をまたがせることは今までなかった。うちと言っても俺の実家じゃないが。
「ではうちに回します。家畜小屋よりマシだといいのですが」
当てこすりのつもりだった。『聖母』がいきなり押しかけるといったら家畜小屋だ。
「ありがたいことです~……『聖母』には、戻れそうもないので」
朋花は当てこすりと受け取ってくれなかった。
「……続きは茶を淹れたあとにしてください。それ、ノドが乾きそうな話でしょう」
メールの送信予約をそのままにするべきか考えながら、クルマもまばらな市道を家まで流した。
※20
「嬉野、八女、知覧。お好みをどうぞ」
「日本茶、お好きなんですか?」
「もらったんですが、なかなか飲みきれないんです。こちらから選んでください」
「では……あなたと同じものを」
俺はヤカンから吹きこぼれる寸前まで湯を沸かし、茶匙にたっぷりと茶葉を乗せた。
額がくっつくほど……というと大げさだが、狭い部屋に小さい座卓。
濃く淹れすぎた茶を吹いて波打たせる朋花は、今までになく近かった。
いちばん広い機材部屋ならもっとゆとりがある……が、そこに朋花を招くのは嫌だった。
「茶請け、ヨックモックでいいですか?」
「あなたのおうち、よほどお客さんが来ないんですね~」
「ええ、来ません」
念のため賞味期限を確認する。これも誰かにおみやげで貰ったきり放置していた品だった。
門前市をなす天空橋家のお嬢様にとっては、カルチャーショックだったらしい。
「お茶は茶葉の限り飲んで構いませんが、お話はお早めにお願いします。
仕事にかかると、このとおり、耳が塞がるんで」
朋花は黙って湯気の立つ茶を冷ましていた。
『鳥籠スクリプチュア』の作業中だった俺からイヤホンをいきなり引っこ抜いた時と比べて、
ずいぶんしおらしくなったものだった。
「……そういう軽い扱いが、今はありがたいですよ~」
俺がいなくなったあとも、朋花は『天空騎士団』たちの扱いに気苦労したらしかった。
連中は『聖母』を高々と掲げるくせに重々しく仕える。
祭り上げられる側からしたら、バランスとりがたいへんだ。
朋花は、これまでとまったく異なる、ボソボソと歯切れの悪い口振りで、
きのうのきょう、わざわざ飛行機まで使って俺を訪ねてきた理由をこぼしはじめた。
つっかえつっかえだったので正確な言い回しは失念したが、朋花の周りの誰かがやらかしたらしかった。
「……私が、『聖母』で……ステージに、立って……立って、いた、せい、でっ」
朋花は、俺が担当していた時期にライブのステージで転落事故を起こしたあと、
秋月さんに担当が変わってライブに復帰し、以前にもまして力を注いでいた。
それを見ていた『子豚ちゃん』だか『天空騎士団』の一部が、『聖母』のように苦難を乗り越える――!
と『聖母』に事寄せて、弱ってるところにムチャやって、何人かへし折れ、
それを朋花は自分の責任だと思っている、とか。
お気の毒だった。
秋月さんのサポートもなく俺のような退路もなし、プレッシャーだけかかってる、では……。
確認しなかったが、首かどこかへし折って文字通り死んだのかもしれない。
「つまり、朋花は『聖母』が懲り懲りなんですね」
俺が乱暴に要約する。
これで朋花が怒ってくれれば、その勢いでもっとスルスル言葉が出てくるんじゃないかと期待した。
期待は外れた。朋花の弁舌は錆びついたまま、ギシギシと軋みながら回る。
「……祖父が、私たちに、規律を重んじるよう言い残した、その趣旨は……
地の塩になれ、という心だったと、私は解いています」
地の塩は世の規範。
俺が朋花と同じ年だった時、そんな言葉は知らなかった。
「私みたいな子供でも……例えばジャンヌ・ダルクみたいに、思い一つで、世の中を良くできる……と、
本気で……そう思っていなければ……聖母とは自称できませんし、他人に呼ばせるなんてなおさら」
そう、朋花の年。子供、と言われて久しぶりに思い出した。朋花はまだ酒も飲めない歳だ。
「それだって、最初は……おままごと、お姫様ごっこみたいなものだったんです。
ジャンヌが、最初のお告げからフランス軍に投じるまで、3年以上かかったみたいな。それが、だんだん……」
「朋花、火炙りは真似しないでください。こっちの寝覚めが悪くなるので」
※21
朋花はジャンヌを引き合いに出したが、ジャンヌの後追いはできないだろう。
たぶんジャンヌは、フランス兵に「イギリス兵を殺してお前も死んでこい」って命令していた。
彼女はそれに罪悪感を抱いた……としても、信仰かなにかで心の整理をつけて、戦いを続けた。
朋花はそういう心の整理を自力でつけることができなさそうだった。
天空橋家か765プロか、誰かの手を借りればできたかもしれないが、そうもしたくなかったようだ。
そうしたくないあまりに東京を飛び出し、ここで苦い茶を舐めている。
それはアイドルとしては致命的だ。
「私も、昔話をしましょうか……百年戦争ほど昔じゃないですよ。
朋花のお父さんお母さん世代はご存知かも……そのあたりの、芸能界の話です」
「……私の両親は、そういったことに疎くて……」
「昔の芸能人のファンって、よく自殺してたんですって」
朋花は、自分の耳の聞き違いか、俺の口の言い間違いを疑いつつ、
それを確認するほど気がすすまないようだった。
「ここの近所の話……近所というには遠いか……とにかく、ある音楽グループが解散を発表したら、
そしたら『××が解散するならどうなってもいい』って遺書を残して、
女子高生が上京して飛び降り自殺して、全国ニュースを何日か騒がせました」
朋花が骨を折った時と、この案件と、どちらが大きなスキャンダルになるだろう?
「そういうの、聞かなくなってだいぶ経ちました。
マスコミが取り上げまくって後追い自殺が増えてしまったとかで、
警察が怒って表に出さなくなりました」
「……何をおっしゃりたいんですか、あなたは」
「その音楽グループのメンバーは、元気に芸能界で活動されています」
そうやって、芸能界は人の世の生き血をすすって儲かるお仕事。
ときどきしくじって血を抜かれすぎた死人が出てくるんで葬って後始末する。
そのせいか『眩しさの裏は冥界の様』になってしまうらしい。
朋花は、自分の心臓は食えたし、吸血鬼はうまく演じたけれど、
生かさず殺さず良い加減に血をすすったり、死者を冥界へ葬ったりするのは不得意なようだった。
これはアイドルだけではなく、宗教家としても致命的な弱点かもしれない。
「だから俺は『聖母』が懲り懲りというのは、わからないでもないです」
朋花は怒らなかった。なんで怒らないんだろう。
俺はお前のプロデューサーだった。なのに他人事みたいな口を聞いた。
あなた『聖母』に乗っかって儲けてたでしょうが、ぐらい言えばいいのに。
「もう……い、いや、イヤ、いやぁ、ぁ」
朋花は何か言おうとして、声にならず、くちびるだけ虚しくぱくぱくさせて、
それからがっくり折れたように首を傾けて震えていた。
震えが病的だったので近寄って触れると、朋花はされるがまま。
肩の細さ、髪や首から匂う甘ったるさ、胸の柔らかさ、頬の熱さなどが、初めて五感で伝わってきた。
「……終わりに、して、ください……ッ、耐えられそうも、ない、です……っ」
朋花は世を儚んだ目や顔をして震えていたが、不思議と自殺しそうな気配はなかった。
肩を抱いたままの距離で、クシャクシャのうわごとが漏れてくるが、
それに耳を澄ませても「死にたい」とは聞こえなかった。「殺して」とは聞こえた気がした。
散りぬべき時知りてこそ……じゃないが、宗教のせいで自殺できない?
そんな妄想が降って湧いた。時に信心も身を助く、なんて。
ここで朋花を犯してやったら『聖母』は死んで終わりかな、なんて妄想がどんどん広がる。
さすがに朋花はアイドルで、こんな錯乱状態のくせに色気を帯びていた。
若く美しい女が戦慄でがくがくしている様は、か弱さがすぎて今までソソらなかったが、
朋花はむしろその凄惨な錯乱が、女としての魅力にぴりりとアクセントとして効いていた。
「終わりって……俺に、始末をつけろ、と。それで、朋花は、わざわざここまで?」
腫れた目蓋、凍った瞳。肌の脂汗が横髪を磔にしていた。
パステル・グリーンのワンピースの胸ぐらを引っ掴んで、
敷物もない冷えたフローリングに押し倒したら、ごとんと硬く痛そうな響きが耳障りだった。
「……朋花、期待してたか? 俺に、こうされるの。
想像はしたはずだ。『綺麗でしょう強いでしょう、さぁ汚してみせて』ってやつさ」
※22
朋花は怒らなかった。逆に俺の腹の底からむかつきが突き上げてくる。
朋花には、クソほど似合ってない哀れっぽいツラが鼻につく。
朋花は可哀想ぶっていた。
恵まれた才能と積み重ねたレッスンの賜物か、可哀想ぶりは綺麗で強くて俺は気圧されていた。
このまま朋花を汚してやれば『聖母』は死んで晴れて悲劇のヒロインだ。
「……もう、どうでもいいことです」
朋花はそれを望んでいそうだ。
「あんたにとっちゃどうでもいいでしょうけどね――ねぇ?」
俺はまっぴらごめんだった。
朋花の熱と匂いは、甘く、つけすぎの香水のように不愉快だった。
「俺は、まだ根に持ってるぞ。お前、俺が反対しているって知ってて、二回も空を飛びやがった」
今しがた『Maria Trap』をうっかり口ずさんだせいか、あの時の憤懣までぶり返す。
この『聖母』の亡骸か枯尾花のような朋花に何を言っても今更遅いのに、出てきてしまう。
「お前『聖母』が嫌になったと言うなら、こっちもなかったことにしてくれよ。
そのためにわざわざこっちに来てくれたんじゃないのか、なぁ、朋花――聞いてるか俺の話――」
「――く、ぁ、ぅあ……わ、私、は……ぁ……ッ」
「そうだな、無理だな。『代案が必要です』とはこのことだ」
暑苦しくなってきたので、朋花の体を剥がして立ち上がる。
狭い部屋。小さい座卓に、冷めた知覧とヨックモック。
朋花のそばにMac Bookとミニキー。
「腹減った。朝メシ買ってくる……そういえば、朋花は? 朝食べたの?」
満足な朝食を摂ってきた顔にはとても見えなかった。
「……あらあらお腹がグルグル歌ってる、あれれれ頭がクラクラ踊る」
腹の虫の音なんか聞こえなかったが、いっそ鳴ってくれと気分で口ずさんだ。
そのまま朋花の顔をじっと見つめていると、やがてかすれ声で俺に続ける。
「……忘れず食べよ、きょうの朝ごはん」
ぜんぜん『聖母』らしくない。素の朋花、そんな歌い方するのか。
もう俺にとってもどうでもよくなった。
「居座るんなら、食費と光熱費は出してくれ。もう『聖母』なんか知らない。
『Nicola Copernicus』――そこにいるでしょう、できるでしょう。さぁ作って見せて。
……俺にとっては名付けた子なんだから。たかが1曲2曲で死なれたらがっかりだ」
そうして俺から見た朋花からは、それだけが残った。
以前には用意できなかった代案になるのか……さぁ? それしか投げつけてやる案がなかった。
「あぁ、できるんなら、マナを降らせてくれたりパンを増やしてくれてもいいぞ」
「……そんなことできないってわかってるくせに」
「本当にできない? 残念だ……」
「人を何だと思ってるんですかっ」
ぷりぷりしはじめた朋花を部屋に残すのが不安だったので、いっしょに朝餉を食べに行った。
空腹が解消されたらしき朋花は、帰ってそうそう俺の部屋にあったイヤホンの一つを、
勝手に自分のMac Bookにペアリングしてミニキーをいじりはじめた。俺も仕事を始めた。
※23
「うふふ、う~ふふっ、いいですね。いい匂いですね~。あなたも、そうは思いませんか~♪」
朋花は、うちの小さな座卓に乗り切らないほど皿を並べ、
その上のアルミに包まれたままのホイル焼きの封を開けているところだった。
「ああ、美味しそうなのは、いい……んだが」
スーパーで旬の物と切り身を適当に買い、バターだか醤油だか味噌だかを、乗せたり塗ったり垂らしたり。
アルミホイルに包んで、あとはオーブンレンジにおまかせ。朋花のお気に入りだ。
このやり方だと『うっかり焦がしてしまうことが、だいぶ減りました~』なのがいいとか。
匂いからして、どうもキノコ系の存在感がひときわ強かった。秋真っ盛りらしい。
「なぁ、朋花」
「は~い♪」
「朋花。俺は、プレゼントは赤ワインがいい、って聞いていたはずだ」
俺は、コンビニ留めにしておいた朋花へのプレゼントを受け取り、帰ってきたところだった。
朋花は20歳になるせいか、こちらがなにか言う前に『赤ワインがいいです~』とわざわざ教えてくれた。
せっかくなので、朋花の生まれ年の銘が入ったコートドールのどこかの赤と、グラスを取り寄せていた。
「はい~。確かに、あなたにお願いしました」
「じゃあ、そこにずらずら並んでる瓶は、なんなのかな?」
ホイル焼きづくしの晩餐を整えている朋花の周りには、赤ワインの瓶が林立していた。
赤ワインをミニッツメイドかなにかと勘違いしちゃいないか。
「赤ワインです~。ワインって、とっても素敵だと思いませんか~?
私なんか、飲まなくても、見ているだけで、なんだか胸がわくわくして~」
朋花は恍惚とした瞳で、つるりとしたワイン瓶の深紅を撫でさすっていた。
ラベルは南ア、ニュージー、オージー、チリ、アルゼンチン……なぜか南半球ばかり。
なるほどコスパはよさそうだ。財布への心配は薄くなり、朋花への疑念は濃くなった。
「人生最初の酒になるなら、と思って奮発したんだが」
「はじめてですよ~? 楽しみにしてて……ちょっと楽しみにしすぎたかも、ですが」
背景が『毎晩つるつる飲んで気持ちよく酔いたいですっ』ってラインナップなせいで、説得力はゼロだった。
※24
朋花が我が物顔でうちの台所やら食卓やらを占拠するようになるまでには、
俺の多少の時間と、秋月さんの多大な苦労を要した。
朋花が押しかけてきた日、俺が秋月さんに連絡を入れると、彼女は、
『いや~、美希ならともかく、朋花がそうするとは思いませんでしたね~。
え? 引き抜きじゃない? あ、そうですか。早とちりしてすみませんっ。前に似たようなことがあって』
と軽々とした調子で、この件の処理の大部分を引き受けてくれた。
しかし『天空橋朋花』が一夜にして消えた事件は、マスコミにもそれなりに騒がれたし、
おそらく天空橋家も大騒ぎになった。秋月さんの口調を鵜呑みにはできなかった。
『まぁ、こっちはお任せください。ただ……そっちは、くれぐれもお願いしますよ?
あの子、私の担当アイドルでもあったんですから』
しかし電話やビデオで会話していた秋月さんは、ずっとこの調子だった。
高木社長たちがサポートしていたんだ、と信じたい。とりあえず朋花には謝らせた。
朋花は『聖母』の過去を完全に隠し『Nicola Copernicus』の仕事を探しているようだった。
有名人だとおちおちバイトもできなくて苦労するとか昔の平沢さんみたいだった。
ただ朋花の場合、彼の時代よりコンペやスポットの仕事を探しやすくなっていたのが幸いして、
食費と光熱費ぐらいはすぐ入れてくれるようになり、それにつれて振る舞いも我が物顔となった。
「はぁ~い、では、私の生誕を祝して……À ta santé♪」
「ハッピーバースデー朋花、おめでとう。あ・た・さんてっ」
À ta santé(キミの健やかさに乾杯)か。朋花はだいぶその台詞が似つかわしい顔つきになっていて、しんみりしてしまう。
対して朋花は、一瓶目の栓を開ける前からふわふわとしたテンションだった。アイドル時代からは想像もつかない浮かれようだ。
ちりりとグラスを合わせ、赤ワインでくちびるを濡らす。ノドが鳴るのも見える近さ。
「あらら~、もしかして、見惚れてしまいました~?」
朋花はワイングラスを離さないまま、寒サワラや鶏ムネやエリンギやタマネギやジャガイモや、
マリアージュもへったくれもないホイル焼きに舌鼓を打っている。食レポよりずっと美味そうに食う。
「朋花は、赤ワイン好きなのか?」
「いただくのは、きょうがはじめてなんですけど~?」
「……朋花は、赤ワインが好きになれそう?」
「ええ、とってもっ」
朋花はアイドルにも曲を提供し始めたらしい。アイドル、といってもいろいろあるが、さて……。
自分がアイドルとして祀り上げられるのは、逃げ出すぐらい嫌がったのに、
曲を通してアイドルを祀り上げさせる側になるのは、楽しんでいるらしい。都合のいい女だ。
「真っ赤な液体をそんなに美味そうに飲んでると、ヴァンパイアみたいだ」
「うふふ~、そんなコトを言うあなたは、ガッとやってチュッと吸って、眷属にしてしまいますよ~♪」
あるいは、朋花は単に『聖母』の孤高さに倦んでいたのか。
もしも朋花が、恒常的に、ユニットの一員として活動してたら、今頃、こんな地方の狭い安普請で庶民的な赤をかっ食らっては……。
「あら~。あなたは、ゆっくりなペースですね」
「……弱いんだ、酒」
そういう朋花も、頻繁にグラスを口に運ぶ割には、ペースが遅い。
朋花のペースも控えめだとしたら、あの赤ワインの群れを飲み干すのなんて、いつになるのやら。
「そう、ですか~?」
朋花は、いきなり俺の肩口をつかんで、酔眼でぐいと俺の目を覗き込んできた。
一気に、近く……まさか、本当に『ガッとやってチュッと吸って』なんて……
「私の酒が、飲めないっていうんですか~?」
朋花……昔の音無さんや馬場さんだってそんな大学生みたいな煽りはしなかったぞ。
が、朋花はきょう二十歳になったんだった……むしろ歳相応か。
「もっと美味しそうに飲んでくださいっ。私の最初のお酒なのですから」
朋花はいつになく上機嫌で、いつになく甲斐甲斐しくグラスに注いでくれて、
俺は注いでくれるがままにつるつる飲んで気持ちよく酔った。
※25
『あらら~、プロデューサー。お久しぶりですね~』
ここがどこかわからないが、昔の朋花――『聖母』が、たたずんで笑っていた。
ステージ衣装だろうか。後頭部に光輪だったかニンバスだったかを浮かせている。
シニヨンのためにあつらえた小さなベールや、頬や肩に触れてくすぐったそうな横髪や、
背から生えた薄紅の翼や、白と水色のドレスが、そよ風を浴びているように小さくはためく。
ナイツ・オブ・テンペランス。
青葉さんと朋花には悪いが、俺にとっては胸糞悪い衣装と微笑だった。
だいたい俺はもうプロデューサーじゃない。お前だってもう死んでいる。
文句を言ってやろうと思うが、しゃべれない。しゃべってる気はするが、自分の声が聞こえない。
『私が、死んでいる? ふふっ、面白い冗談です』
死んでいるだろうが。
お前は朋花に捨てられ消え失せた。
お前の立つステージもない。
『いいえ~。聖母は、子豚ちゃんと、騎士団の皆さんの心のなかでは、不滅です~』
さいですか、Ave Maria(めでたしマリア)。でも俺は『聖母』にうんざりだ。
『素直じゃありませんね~。あなたの心のなかにも、聖母はおりますよ~』
前に朋花から『ジャンヌ・ダルクはミカエルにお告げを受け、3年ぐらいは何もしなかった』
というような話を聞いたのを思い出した。
実はジャンヌって、大天使ミカエルを『うるせーこのペテン師』と思ってて、
ミカエルがしつこくつきまとってきたのに根負けしたんじゃないだろうか。嫌な与太話だ。
『あなたはいつもそう。聞きかじりの知識をこね回してお茶を濁すのがお得意』
お前は、俺が知りたくなかったことをいろいろ教えてくれるようで。
『あなたは、私のせいで、あの子がひどい目に遭ったと憤慨して見せますが、
私を一番近く一番長く祀り上げていたのはあなたです。いやもっとひどい。祀り上げ<させ>てもいた。
これは、アダムとイヴと、エデンの蛇をあわせた罪業ですよ?』
こいつホントに『聖母』だろうか。姿はそっくりなんだけど、言葉がずっと説教臭い。
しかもそんな、俺が創造説や原罪を信じてる前提の言い方して……。
『ではプロデューサー。はっきり申し上げます。
あなたは、あの子を持ち上げて、あなたのもとへ落ちる道筋をつけた』
目の前で『聖母』がゆらゆら飛ぶ。『Maria Trap』のサビ〆みたいだ。
『あなたがあの子を止めたのは、すべてフリ。だから最後は、あの子に行かせた。
あの子が高さに耐えかねたとき、下りる道はどうなってました?
あなたが先んじ閉じていた……たった一筋を除いて。善意を敷き詰めた堕天の道。
あなたが唯一楽しむ――」
『聖母』の細い首に手が伸びていた。手を伸ばしていた。
首は見た目よりさらに細かった。両手で絞めると指が余る。
飛んでた『聖母』が落っこちた。咳き込みながら俺を見上げていた。
『……聖母の絲を切り落として……翼を圧し折って……楽しい、ですか……?』
ちゃんちゃらおかしかった。俺がエデンの蛇だと言ったな?
地を這う蛇に首絞められる天の女王は御座(おわ)せまい。蛇はカカトを噛むもんだ。
頭に焼き付いてた、朋花の感覚が立ち上る。顔。歌声。その上に重なってくる。
肩の細いのとか、髪や首の甘ったるい匂いとか、胸の柔らかさとか、頬の熱さとか。
お前が、空とか飛ばなけりゃ。
『うふ、へ――へぁ、か、はッ、あ、が……っ、う、ぅぅくっ……』
減らず口を塞いでやることにした。手は首にかけてしまっている。
昔、正教の神品(しんぴん)だか学僧だかが、マリアの聖画像を陵辱して破門された時、
ペニスを突っ込んだのは口だった……なんて逸話があったっけ。本は読んでおくもの……か?
※26
『ガ、ぁあっ……く、ぶ、ふッ……!』
水色がだいぶ赤くなっている。突っ込めそう、面白そうだ。
男のペニスをかじった口じゃ『聖母』のアリアは歌えまい。
『お――ごォっ!?』
汚い悲鳴。光輪と『聖母』の頬がひしゃげる。ベールはクシャクシャ。いい気味だ。
おかしなぐらい勃起している。それに任せてノド奥深くを突く。
『ご、ぉぁあ゛――ぉえおえ゛お゛ッ――』
苦しいのか、口内がペニスを締め付けてくる。歪みが頬から額、目尻まで波及する。
『う゛ん゛んぅむゥ……ぶ、あッ……っ』
音声が濁る。瞳は、光ってるのと曇ってるのが入れ代わり立ち代わり。
昼と夜の空を早回ししてるみたいだ。額のシワが深くなる。
怖いかい? 俺もあんたが怖かったよ。仲間かな? これでもう孤高じゃない。
『う゛――ぁあっ……お、オおぇお゛え゛――ッ』
頭蓋骨とか歯とかがあるはずなんだが、硬さよりも、
唾液と粘膜のねっとりした柔らかさか、味蕾と口蓋の細かいザラつきを強く感じる。
つまり気持ちいい。『聖母』のくせに、オナホみたいな味の穴。
『う゛ん゛んぅっ、お、ぅ゛うっ――え゛ぇほっ、おぉオ゛……』
ノド奥をがたがたいじめてから、引き抜いてみると、
透明なスライムのようにおびただしい粘りが絡んだり垂れ落ちたりして、
ひゅうひゅうと波打ち、鎖骨の陰が見え隠れする彼女のデコルテを襲った。
彼女の吐息は気管支がヤラれてしまったように、荒く乱れて弱々しい。
『か……はぁあっ……はあぁあァあ……あぁ、ああっ、あっ……』
美しいものの苦悶ってやつを見て、初めてソソった。
あの『天空騎士団』も、これを見ていたのか。彼らを責められん気がしてきた。
『おごぇっ、が……えごっ――んッ――も゛ぉオォお゛お゛う゛え゛え゛――ッ』
姿勢を変えて、またノド奥へ挿入。
今度は、腕を頑張って伸ばせば、イラマチオしながらでも彼女の首筋に触れられた。
アゴの硬さの向こう。頸動脈だか気道だか知らないがぶるぶると震える。
見下ろせば彼女はヨダレどころか涙も鼻水も垂らし、濡れた前髪や横髪が力なく肌にべったりしている。
『んっ、んんぃい゛っ――ぅぐ、ぐ……ッ!』
ペニスだけでなく指も加わったせいで、いよいよ圧迫に耐えかねたのか、
彼女のもがきのたうつ様は、切羽詰まって引き攣れる。
別に、拷問的に陰惨に殺したいわけじゃない。
不格好な彼女を見ると、半分は楽しいが、残り半分はげんなりだ。
朋花のかおかたちで、泣いたりむせたりしないでほしい。
でもあんた空から落ちても死なないんでしょう。だから手ひどくやる。尊いと苦労も多い。
『えっ……お゛ぉっ、ええ゛――うえっ、こふっ……へぉえ゛え゛っ……』
亀頭あたりで、きゅううっと締まった奥まで感じられる。
えづきは弱々しくなっていく。彼女の目は夜ばかりになっていた。
口ほどにもない。朋花の口ならもっと手強かったはず。
なにせ朋花と口げんかしたことは『聖母』だった頃もそのあともたくさんあるが一度も勝った例がない。
えづきと反対に、口内の摩擦というか吸引というか、とにかく刺激が強くなっていく。
俺が追い詰められていく――追い詰められる? ペニスを刺激されて? なんの窮地か。いいじゃないか。
食らわせて。止めを刺してやれる。跳ねる。ペニスどころか、下半身ぜんぶ食らわす勢いで、彼女を叩く。
『ん゛ぇ、あ、っ……く……あ、ぁ、っ……か、ほ……』
射精、した。第一射は、確実に。
それから、射精感が溶けて延びて――おかしな話。
意識が朦朧として、ずるずるとペニスが滑って、なにか硬い感触が、食い込む。