※この作品はR-18です。

男女比1対9の幻想郷に転生した魔理沙くん(♂)のお話   作:チノちゃん

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※この章はバッドエンドのIFストーリーとなります
以下の注意点をご確認の上で閲覧下さい
・鬱要素
・原作キャラ死亡


番外編
前編


 科学文明を失った生活は不便だ。火を起こすにしたって、焚き火ひとつにどれだけ苦労することか。食材を保存するための貯蔵庫も必需品だが、それも現代社会の冷蔵庫の様な便利機能は存在しない。幻想郷で“ただの人間”が暮らしていくのは多大な労力が必要となるだろう。ボタン一つ押すだけで大概の物が用意された外の世界の利便性を味わった人間なら尚更そう感じる筈だ。

 

 故に幻想郷の人間は人里という限られた空間でお互いに身を寄せ合って暮らしていくしかない。

 爪弾き者に残された道など妖怪の餌が関の山だ──それが、この世界の常識。

 

 とはいえ、何事にも例外はあるもので人知を越えた力を身につければ人里だろうが幻想郷の果てだろうが大抵の場所なら一人でも生きていけたりする。最も、外法に身を染めれば博麗の巫女が黙っていないだろうが……。そういう意味では普通の魔法使いとは極めてグレーゾーンな存在であると言っても良かった。

 

 季節は春を過ぎて初夏に差し掛かっている。外界なら大々的に熱中症対策を呼び掛ける時期だろうが、こと幻想郷においては真夏であっても三十度を越えるような事はまずあり得ない。冷房がなくとも窓を僅かに開けて、吹き抜ける風に肌を晒せば充分快適に過ごせる程度の気温だった。

 

 俺は安楽椅子に揺られながら、窓辺から差し込む陽光を頼りに手元の本へと目を落とす。静寂に包まれた部屋の中、紙が擦れる音のみが断続的に響いていた。

 前世では読書家というほどでもなかった俺だが、今は随分と読むようになったと思う。魔導書の解析は勿論として幻想郷の成り立ちや独自の文化を知る上ではとかく書籍が役に立つので自然と読む量も増えていくのだ。単純に娯楽として読んでいる部分もあるので、今では暇な時間を潰すのに欠かせない習慣へと転じていた。

 

 からん、と側に置いてあったコップの中の氷が音を立てて溶けた。それを見て俺はひょいと指先を宙に滑らすと、テーブルを濡らしていた結露があっという間に氷結する程の冷気が生み出され、温くなったコップの表面を一瞬で冷やされる。

 

 それは見る人が見れば基礎中の基礎のような何でも無い日常魔法だがこれ一つでも身に付けるのにどれだけ苦労したことか。まだ人里で暮らしていた時、霧雨家の薄暗い納屋の中で人目を避けながら古臭い魔導書を片手に拙い魔法を何度も反覆した幼少期を思い出す。

 

 原作で『霧雨魔理沙』が親から勘当されて魔法の森に移住したという経緯を知っていた俺は、一人で生きていくのに充分な力と知識を身に付けるまで誰にも胸中を明かす事なく、最後に置き手紙だけしたためてからひっそりと霧雨家を立ち去った。

 

『霧雨魔理沙』が何故勘当されたのかその詳細を俺は知らない。ただ、人里で魔法を身に付けたい等と言い出す者がどういう扱いを受けるか想像は難くなかった。

 故に俺が家出をしたと気が付いた時は霧雨家はさぞかし揺れた事だろう。何しろそんな素振りを見せず傍から見れば忽然としか言い様がない消え方をした訳だから。父などショックで卒倒したと風の便りで耳にした。

 

 あの人には少し悪い事をしたと思う。例え受け入れられなくとも一度相談しておくべきだった。

 今更許されるとは到底思わないが……次の異変が解決したら、久しぶりに実家へ戻っても罰は当たらないだろう。その時の言い訳をどうするか今から考えておかねばなるまい。

 

 先日、人里の奇妙な噂を発端に始まった怪異の数々。本来幻想郷では存在しない、妖怪とはまた違った性質を持つ外の世界で都市伝説と呼ばれる現象と、オカルトボールという高い霊力の込められた不思議なパワーストーンの出現。

 それらの力を巡って幻想郷の各地で引き起こされた人妖の争奪戦も、最終的には霊夢が元凶である外の世界の人間──超能力者、宇佐見菫子を退治したことで事態は収束へ向かい始めた。

 しかし、事の真相を知っている俺からすれば暗鬱たる思いが拭えない。本来、魔法使いであれば興味を惹かれるオカルトボールの力も、これが生み出された経緯を知ってしまえば食指が動く物では無くなっていた。

 そう、言ってしまえば菫子という存在と今回の異変は前座であり、ひいては下手をすれば幻想郷の存亡が危ぶまれる事件の布石に過ぎないのだと、今はまだ地上の存在では誰も知る由もない真実が影の中にひっそりと横たわっていた。

 何を隠そう次の異変は──

 

 そこまで考えた所でどんどん、と玄関の扉を叩く音が響いて思考を中断させられる。

 

「魔理沙! 居る!?」

 

 と、次いで響いたのは切羽詰まった少女の声。俺は遂に来たかと読みかけだった本を閉じるとゆっくりと重い腰を持ち上げた。

 無言のまま壁に立て掛けてある箒を手に取って戸口に向かうと、俺の返答より先に扉が開かれる。

 余程急いでいたのか浅い呼吸繰り返して肩を上下させつつ現れたのはうさ耳をした少女──

 

「なんだ、居るじゃない……返事くらいしなさいよ!」

 

「誰だお前」

 

「……あ? 何ボケてんのよ。見りゃわかるでしょ」

 

「いや……これだけは絶対に言わなくちゃならない気がして」

 

「は?」

 

 馬鹿にされてると思ったのか口端をピクピク引きつらせ、表情に険呑な色を帯びさせ始めた永遠亭の玉兎──優曇華を見て、俺はこほんと小さく咳払いをすると改めて彼女に向き直った。

 

「で? 何の用だよ」

 

 普段この辺りには滅多に足を運ぶ事のない優曇華が血相を変えてまで俺の家を訪ねて来たのはそれなりの理由があるに違いなく。その原因にも半ば……というより殆ど確信を持ちながら問い掛けると、優曇華ははっと我に返った様子で再び表情を真剣な物に切り替える。

 

「あんたはまだ知らないようだけど今、妖怪の山に金属の蜘蛛が現れて……近くの草木を“浄化”して回ってる。近い内に、騒ぎになるわ」

 

「……へぇ。それで?」

 

 当たり。だが、原作知識のある俺はさも初めて聞いたかのような反応で答える。

 優曇華はこの世の終わりでも見たかのような表情を一瞬浮かべた後、焦れたように俺に詰め寄って肩を掴む。

 その手が小さく震えているのは緊張か……或いは恐怖によるものか。恐らくその両方だろう。彼女にとってそれは懐かしの故郷であり、同時に苦いトラウマを呼び起こす土地から齎された兵器に違いないのだから。

 俺は何も言わずに優曇華の次の言葉を待つと、彼女は深く息を吐いてから思い切ったように口を開いた。

 

「……山を襲う機械は地上の技術で造られた物ではない。間違いないわ。地上の妖怪では気付く事さえできない、あれは……あれは──月の、兵器よ……! 月の都が幻想郷に侵略して来たの……!」

 

 人外魔境たる幻想郷と比較してもまた異質。圧倒的上位者と言っても全くの過言ではない月の民からの侵略行為。

 ──『東方紺珠伝』の始まりだった。

 

 

 ✽✽✽

 

 

「何でお前も着いてきてるんだ?」

 

 山の麓まで飛翔しつつ、俺の後ろでふよふよと浮かぶ優曇華へ声を掛ける。

 俺の家に来た時からずっとそうだが、その土気色染まった頬はとても健康とは言い難い。まるでこれから死地に赴くような有り様だが、実際彼女の身からすれば強ち間違った表現でもないのだろう。

 はっきり言って月の都と幻想郷を比較してどちらの戦力が上かと言われれば、比べるのも烏滸がましい程に月へとその天秤は大きく傾く。

 それは誇張ではなく純然たる事実として、月面戦争という拭い難い敗北の歴史が幻想郷には刻まれていた。

 

 俺は直接その戦いを見た訳ではないが、綿月姉妹という二人の月人を通してその力の一端を身を以て痛感している。

 断言してもいい。本気の抗争に発展した場合、幻想郷は一夜と保たずに壊滅するだろう。

 原作という事前知識はあれど、月と関わりの薄い俺でさえこういう認識なのだから実際に月の都で生まれ育った優曇華はより明瞭にその脅威を感じている筈だ。

 

「伝言に来たならもう帰って良いぞ。後は俺たちで解決するって、永琳に言っといてくれよ!」

 

「それは……」

 

 普段なら皮肉のひとつもぶつけているところだが、今はそんな気分にならなかった。

 俺が一方的に突き放すような物言いをした事で優曇華は言葉を濁す。が、僅かな沈黙の後、ゆっくりと瞑目してから目を見開いた彼女は覚悟を決めた表情で俺を見据えて重々しく口を開いた。

 

「た……確かにお師匠様には人間に任せておけば良いと言われたけど……私はもう月の戦士じゃない。地上の兎として、幻想郷を守る義務がある!」

 

「…………。ああ、そうかい」

 

 自然と優曇華を眺める目付きが細くなる。月夜の竹林で初めて会った時の彼女はもっと傲慢不遜で、言動の節々から此方を見下す態度が見え隠れしていたものだが、今の優曇華はそんな嘗ての印象を覆すほど真剣で。そんな泥臭く、暑苦しくなるくらいの熱狂に満ちた物言いは個人的に嫌いではなかった。

 

「な、なによ……」

 

 自分でもらしくないと思ったのか、優曇華は頬を赤らめた後、恥ずかしそうに視線を逸らす。辺りに気不味い沈黙が広がって、俺は戯けるように肩を竦めた。

 

「いや……さっきのは植物の名前だって言いたくて。『亜阿相界』」

 

「………………。あ、見えてきたわ。あれが月の兵器よ」

 

 一気に真顔になった優曇華が指差す方向には、幻想郷に出現した異物たる金属の蜘蛛──即ち、月の兵器の姿があった。

 平時なら美しい山並みを織りなすだろう光景が、蜘蛛が通った後には草木が枯れ、まるで不毛の荒野のように見るも無残な姿へと“浄化”されている。

 

「なるほどね……」

 

 その姿を確認しつつ俺は少し思考を巡らせる。月の民の殆どは──奴らが謂う所の穢れた地上に足を運ぶ事さえ嫌悪する様な“高貴”な種族だ。だからこそこういった迂遠な策を弄しているのだろうが、それにしたって温いと言わざるを得ない。

 

 先ほども言った様に、月の都と地上には覆しようのない戦力差がある。月人が本腰を入れれば、幻想郷の誰もが気付かぬ内に全てを終わらせる事だって不可能ではないだろう。

 故に、“この程度”で済んでいること。それ自体が極めて不自然な状況で──つまり、逆説的に月人はまるで幻想郷を侵略する気がなく、本懐は別にあるとしか思えない。

 

「……はぁ」

 

 改めて眼下の蜘蛛を見詰め、俺は喉奥で凝り固まっていた息と共に僅かに肩の力を抜いた。

 覚悟していた事だが、どうにも『紺珠伝』は地雷が多くて困る。

 一歩原作と違えば詰む様な状況が多いので、この目で確認出来るまで内心気が気でない。その上これでもまだ序の口だというのだからげんなりしてくる。何より月の都に生殺与奪の権を握られているような現状が気に食わない。

 と、心底憂鬱な気分に支配されていると彼方から飛翔して来る人影に意識を奪われた。

 

 脇の部分だけぱっくりと切り取られた斬新なデザインの白と青の巫女服のようなものを身に纏う緑髪の少女が現れたかと思えば興奮した様子で月の兵器を指差しながら燥いでいる。

 

「見付けました! これです! これが山のキュリオシティ!」

 

「……騒がなくても見えてるし聞こえてるわよ」

 

 続けて現れたのは見慣れた紅白。

 博麗霊夢は少しうんざりした様な目で東風谷早苗を一瞥した後、此方を向いた。

 

「魔理沙も来てたのね」

 

「ん? あぁ。そういうお前は……もう結構暴れて来たみたいだな」

 

 これから世間話でも始めるかのような涼し気な表情をする霊夢だが、その両手には既にボロ雑巾にされた二匹の妖怪が無残に吊るされている。

 優曇華なんかはそいつ等の姿を認めた瞬間「げっ」と声を洩らして露骨に嫌そうな顔をしていた。

 

「雑魚二羽だし、大した事ないわ。……まあ、でも。今日の夕飯は困らなそうで助かったわね。良い兎鍋が出来そうだもの」

 

「………………」

 

 そうやって霊夢に首根っこを掴まれ、ぷらぷらと揺らされる二匹の妖怪はどちらも特徴的な兎の耳を生やしていた。

 俺の記憶が正しければ確か清蘭と鈴瑚という玉兎──つまり月の兵士で。優曇華にとっては元同僚という関係になる。

 

「因みに予定では後もう一匹。兎を狩ろうと思ってる」

 

「あははイヤだなぁ霊夢さん。私は貴女の味方ですよ? へへへ……」

 

 鋭い眼光で優曇華を睨み付けながら霊夢がそう言えば、次の瞬間には揉み手を始めた優曇華が媚びるように笑みを取り繕っていた。

 其処にはついさっき俺の前で高らかに月との敵対を宣言した地上の兎の姿は見る影もない。悲しくなるほどの変わり身の早さに染み付いた奴隷根性というものを感じてしまい、少し憐れに思えて来るが、それはそれとして俺は上げかけた優曇華の印象をほんのり下げた。

 

「兎ってことはどうせまた月関係でしょ? ……アンタんとこの上司がまた妙な企みをしてんじゃないでしょうね?」

 

「ご、誤解です。私はただ純粋に幻想郷を守ろうと……そ、そうだ! お師匠様から薬だって貰って来たんですから……!」

 

 優曇華は思い出したような表情で懐をまさぐると、その小さな手の中に収まるくらいの大きさの小瓶をその場に居る全員に配り始めた。

 霊夢は持っていた二羽の玉兎を無慈悲にその場で投げ捨てると、小瓶を受け取ってそれを眺める。

 透明の小瓶の中に入っているのは瑠璃色に輝く液体だった。

 

「なにこれ」

 

「『紺珠の薬』飲めば未来を見通すことのできる永琳様が御造りになった秘薬よ」

 

「ふーん……」

 

 霊夢が物珍しそうにそれを眺め、僅かに栓を抜いてその匂いを嗅ぐ。それから暫し無言だったが、やがて嫌そうな顔になった彼女は無造作に小瓶ごと握り潰した。

 

「えええええっ!?」

 

「こんなもん。怪しくて飲めたもんじゃないわよ」

 

「私も神奈子様に知らない人から貰ったものを口にするなって……」

 

 早苗も同調するようにして言葉を濁し、その小瓶を投げ捨てる。

 酷いと思うかも知れないが、これが正しい反応だ。正直、永琳も何処かイカれてる節があるし、こと月の都関係に限っては迂闊に口に入れようとする方が可笑しい。

 

「ま、魔理沙は……」

 

「あ? 俺は捨てないぞ? 魔法の研究に使えるかも知れないし」

 

「飲みなさいよ!!」

 

 優曇華は噛み付かんばかりの剣幕で俺に摑みかかろうとして来るのをすんでのところで回避する。

 

「そんなに言うならお前が自分で飲めば良いじゃん」

 

「いや、それは私も副作用が怖いし……」

 

 段々弱腰になっていく優曇華は結局、自分も霊夢たちと同じように小瓶をその場に投げ捨ててしまった。もはや一周回って清々しささえ感じさせる潔い態度に素直に感心する。

 

「大体そんなもん私たちに必要ないのよ。何時も通り黒幕をブチのめせば良いだけなんだから……ね? 魔理沙」

 

「──ああ、そうだな……」

 

 霊夢が微かに口角を上げた笑みを浮かべつつ同意を求めるように言えば、俺もそれに倣って悪戯っぽく微笑み返した。

 結局のところ今も昔も俺たちのやる事は変わらない。例え相手がどんな存在であろうと、立ちはだかる者は叩きのめすのみである。

 

 

 ✽ ✽ ✽

 

 

 優曇華の案内の元、俺たちは湖にある精神世界を通って地上から月の都へと、道中で夢の支配者であるドレミー・スイートと、月の民である稀神サグメ。地獄の妖精クラウンピースを倒して静かの海と呼ばれる月の裏側を飛行していた。

 

「うーん。なんか流されるままに私たちとんでもないところまで来ちゃってません? 相手も何時もの異変比べて滅多矢鱈強いような……。そもそも何故宇宙に空気が? 私たちはどうして喋れているんでしょうか?」

 

「……妖精とは本来月には存在しない自然の権化。奴らがこの場に居ることで俺たちが活動出来るだけの空気が生み出されている……。それに、酸素とは“失うと瞬時に死ぬ”という動物に掛けられた呪い。月の都の特殊な環境が、“窒息”という外界の常識を遮断しているのかもしれない」

 

「成る程つまり不思議パワー……!」

 

「…………。たぶん」

 

「やっぱり帰って良いですか?」

 

「馬鹿なこと言ってないでもうすぐ着くわよ。黒幕のところ」

 

 弛緩した空気を引き締める様に霊夢が硬い声音でそう言った。

 その表情は何時にも増して真剣なもので。それは月の奥地へと近付くにつれて加速度的に悪化していくように感じられる。

 無理もない。月の都でサグメより伝えられたことによれば、此度の異変で本当に侵略されているのは他ならぬ月の都。

 月の民の全滅を恐れた奴らが遷都計画を企てた結果、玉突き事故のような形で幻想郷が“浄化”されるという厄介な状況になっている。

 翻ってそれはつまり、あの月の都が実質逃げの一手を取らざる負えない“敵”が居て、俺たちは今からそれと戦う羽目になるという事だ。

 ──警戒するなと言う方が無理だろう。

 今、この先に待ち受けているのは間違いなく未だ嘗てない強大な力を持った相手になるのは間違いないのだから。

 

「わぁ……! 皆さん見て下さいよ! 月の海に反射して故郷が見えますよ! あれって確か……玄武岩? マグマなんでしたっけ? それにしては本物の海みたいな……」

 

「……魔理沙」

 

「……わかってる」

 

 月面に広がる海を見て燥ぐ早苗を尻目に俺は霊夢と頷き合う。

 ここに来て引っ切り無しに襲い掛かって来た妖精達の気配が完全に消失した。

 嵐の前の静けさ、というのはこういう事を指すのだろう。まるで本番はこれからだと言わんばかりのプレッシャーを感じて知らず知らずに緊張が高まるのを自覚する。

 恐らく、ここから先は一瞬の油断が命取りに──、

 

「──口惜しや。もう少しで宿敵に手が届くというのに……」

 

 唐突に背後から耳朶を打った聞き覚えのない声は鈴を転がすかのように可憐で、美しく。けれども氷塊のように冷たく、重く。それは聞く者の背筋に怖気を走らせるような音色を含んでいた。

 

「…………!」

 

 全身を包む悪寒。背筋を伝い落ちる冷や汗と、胸の奥底で早鐘を打つ心臓の鼓動を何処か遠くの出来事のように感じながら、俺は息をすることさえ忘れてその場に呆然と立ち尽くす。

 

「ひとまず私の負けを認めよう。まさか月の民がここまで地上人を送り込むなんて……」

 

 一寸の身動ぎすら出来ずにいる俺と霊夢の間を悠然とした足取りで女性の姿が通り過ぎた。

 緩く波打つ金糸のような長い髪に、透き通るように白い肌と真っ赤の瞳。

 その身に纏うのは黒色を基調とした満州服に、赤くデザインされた前掛が印象的なあらゆる中華服の要素を内包する独特な服装。

 

 見た目だけなら穢れなど何も知らない高貴なる姫君のような雰囲気を醸し出していたが、だがしかし彼女を目にすればそんな印象は一瞬と保たないだろう。

 なぜなら彼女はとても“美しい”けれども同時に──何よりも“恐ろしい”。

 

 まるで傾国の美女の型に猛獣を押し込めたような、生物としての“格”が根底から違っているという違和感が、本能を刺激するのだ。

 そしてその感覚は彼女を見た瞬間からより一層強いものへと変わっていた。それは最早錯覚では済まされない程に──明確な脅威として一瞬の過ちが致命傷に至ると俺の魂が絶叫する。

 恐らくそれは霊夢も同じだったに違いない。海中で必死に酸素を求めるように息遣いの荒くなった俺たちを尻目に、女性は感情の読み取れない瞳で眼下の月面を見詰めながら静かにその口を開いた。

 

「貴女たちを認め、先ずは自己紹介を。私の名は──純狐。月の民に仇なす仙霊である」

 

 これが黒幕。月の都に攻め入り、幻想郷が脅かされる遠因となった元凶。月の民──嫦娥へ強い怨みを持ち、永い年月を経て純化するまでに至った神霊、純狐の顕現であった。

 

 彼女がただ喋るだけで大渦に巻き込まれるかのような圧迫感と酷く喉が渇くような錯覚を覚えながら俺は腹の底から込み上げる恐怖と格闘していると、先んじて霊夢が前に進み出た。  

 

「正直、アンタに興味はないし。月の都がどうなろうが私の知ったこっちゃないけど……私にここまで手こずらせた鬱憤を晴らさないと気が済まないわ! それに、何かムカつくし」

 

 そう言って霊夢は肩に担いだお払い棒を持ち上げると、戦う気満々で純狐を睨み付けた。その様子を見た純狐はどこか可笑しそうに目を細めると、優雅に空中で身体を翻す。

 

「ちょっと待った!!」

 

 今にも襲い掛かりそうな霊夢を押し止めるようにして叫んだのはそれまで静謐を保っていた優曇華だった。霊夢が面倒臭そうに振り返り、純狐もまた歩みを止め、その視線を優曇華へと向ける。彼女は苦虫を噛み潰したような顔で深呼吸を繰り返していたが、やがて意を決したように口を開いた。

 

「ここまで来て、臆したんじゃあの頃と変わらない。私はもう逃げるのを止めたんだ。例えそれが月の都を脅かす強敵でも……私が相手になってやる!」

 

「ほう……面白い。月の兎にそのような啖呵を切る者が居たとは……」

 

 微かに目を見開き、純狐はそう呟く。それと同時に圧倒的な重圧感とプレッシャーが彼女を中心に溢れ出し、俺たちの身体を押し潰そうと躍動し始めた。それはまさしく神々の放つ神気そのもので。それでも優曇華は一歩も引くことはなかった。

 

「しかし、お前如き矮小な存在に何が出来るというのか。何か秘密があるとでも? 私が気付いていない月の秘策が……」

 

「さあね……でも気を付けた方が良いのは貴女の方だわ。私はサグメ様の命でここに居る──運命は! 既に逆転し始めているのよ!」

 

 優曇華はそう純狐に向かって声を張り上げた。それは恐らく彼女自身に言い聞かせるためのものでもあり、また強大過ぎる敵に対しての恐怖心を追い払うためのものでもあったのだろう。少なくとも俺には彼女の紡ぎ出す言霊が確かな意味を持って動いているように見えた。

 対する純狐は己の力を誇示するかのように自身の身体に莫大な神気を注ぎ込み始める。そして微かに口角を上げた笑みでそれに応えた──その刹那、辺り一帯に強大な光弾を振り撒きながら純狐が飛翔して、優曇華もそれに追随する。

 

「……こっちは不完全燃焼なんだけど」

 

 霊夢は苛立った様子でそう呟くと、ポンとその肩を早苗が叩いた。

 

「まあまあ良かったじゃないですか。何だかあの人ヤバそうでしたし、正直助かりました」

 

「あらあら、ああ見えて月の民が関わらなければ割と理性的な子なのよん? 純狐を悪く言わないであげて!」

 

「えぇー……とてもそうは見えませんでしたけど本当ですかぁ?」

 

「本当、本当! 冥府の王に誓っても良いわ!」

 

「あはは! 何ですかそれ!」

 

 けらけらと互いに顔を見合わせて笑い合う早苗と赤髪の女。

 周囲に場違いな笑い声を響かせながら二人は和気あいあいとしていたが、しかし直ぐに早苗の方が笑みを引っ込めて真剣な表情で小首を傾けた。

 

「……ところで貴女は誰なんでしょう?」

 

「誰だと思う?」

 

 その返答に早苗は悩むように腕を組んで「むむむ」と短く唸り声を上げていたが、直ぐに諦めたように肩を竦めた。

 一方霊夢は懐疑心を隠そうともしない嫌そうな表情でその女の顔を凝視している。

 

 奇妙な膠着が暫く続き、やがて堪え切れなくなった俺はその名を口にした。

 

「──ヘカーティア……ラピスラズリ……」

 

「……正解正解だいせいかぁーい。もしかして私って有名人?」

 

 ばちこんと音が鳴るようなウインクをしながら、頭に球体を乗せた赤髪の女──ヘカーティアはにっこりと鷹揚に微笑んでみせた。

 本当に、気が休まる間もなく次から次に強敵が現れる。俺は今自分の置かれた状況を鑑みて、心底辟易としていた。

 

「何なんだマジでこの異変……。どいつもこいつも強すぎなんだよ今回の敵は!」

 

「何か良く判らないけど、要するにコイツは敵でしょ? ぶっ飛ばして……それで終わりだわ」

 

「よしよし威勢が良くてかわいいねぇ。決めた! 本来なら人間など相手にしないんだけど、少し遊んでやろう」

 

 俺が八卦炉を構え、霊夢が戦闘態勢に入るのを見てから、ヘカーティアは芝居がかった動作で大袈裟に両手を広げた。そして心底愉しそうに笑うと、首筋のチョーカーに鎖で繋がれた二つの球体がふわりと持ち上がる。

 

 一触即発の空気の中、先んじて動いたのは三人の誰でも無かった。

 早苗が俺と霊夢を庇うように両手を広げ、前に進み出たのだ。

 その表情は何時になく真剣で、真っ直ぐにヘカーティアを見据えている。

 

「……霊夢さん、魔理沙さん。この場は私に任せて下さい」

「は?」

「ん?」

 

 その台詞は予想外過ぎて、俺は思わず間抜けな声を漏らしてしまった。霊夢もまた胡散臭そうに早苗を見詰める。

 ヘカーティアは興味深かそうに口角を上げて、早苗の動向を見守るかのように空中で静止した。

 三者三様の視線の中、早苗は至極真剣な顔付きでヘカーティアと対峙している。普段のおっとりとした風貌とは打って変わったその表情からは自信や覚悟といった力強い意志が見て取れた。

 ──もしや、何か秘策が……。

 

「私も今回の異変にはうんざりしてたんです。だから──私にやらせて下さい。ここらでお遊びはいい加減にしろってとこを見せてやりたい」

 

「…………。お前、まさか」

 

 言い終えると早苗は矢鱈陶酔した様子で「むふん」満足そうに胸を張っていた。

 ふと一抹の可能性が脳裏を過ぎり、俺の頬に一筋の冷や汗が流れる。

 まさか──まさかコイツ、その台詞が言いたかっただけか……? 

 早苗はそのまま「こほん」と咳払いをすると、漫画や映画で見掛けるようなファイティンポーズを決めて、高らかに叫んだ。

 

「では改めて──

さっさと勝負しろ! この!! 変な!! Tシャツヤロー!!!!」

 

「うふふ」

 

 同時にぱんとヘカーティアが柏手を打ち、三人に分裂した。

 それぞれ赤、青、黄の異なる髪色と球体を頭に乗せた三体の女神が、互いに視線を交わして頷くと早苗を取り囲むように散開する。

 

「貴女に楽しい選択肢をあげましょう。 月、地球、異界……殺されたい身体を自分で選びなさい」

 

「はっはっは。そう来ましたか……へぇ?」

 

 早苗は不敵な声色で笑いつつ、ゆっくりと此方に振り返った。

 サムズアップをしながら犬歯を輝かせてやけに爽やかな笑顔を浮かべる。

 それは渾身のキメ顔だった。

 

「霊夢さん、魔理沙さん──先陣は頼みました。後方支援は任せて下さい! うおおおおおおおおっっ!!」

 

 今まで聞いたことが無いような野太い奇声を発しながら早苗は盛大な後方宙返りを披露すると霊夢の背後に着地した。そのまま身を潜めるように霊夢の背中にぴったりと張り付いている。

 

「……お前はそういう奴だよ」

 

「私は最初から期待してなかったけどね」

 

 霊夢は呆れた様子で肩を竦めると、お祓い棒を構え直し、重心を低く落とした。

 俺もそれに倣うかのように八卦炉を片手に、静かに息を吐いて精神を集中させる。

 緩慢な動作で三体のヘカーティアがそれぞれ俺たちの前に降り立ってきた。

 同時に膨大な神気が一気に解放され、身が震えるような錯覚を覚える。それが三体だ。仮にヘカーティアが分身せず、全く本気を出さなくとも俺たちは赤子の手を捻るよりも簡単に殺られてしまうだろう。

 その事実が嫌という程によく解っていたからこそ、俺の額に汗が滲む。

 俺の前に居るのは今まで見てきた汎ゆる神妖の中で間違いなく頂点に立つ最強の女神なのだから。

 今この瞬間こそ、俺の人生における分水嶺になる──俺はそう確信した。

 

 その時は。

 

 

 

 ✽ ✽ ✽

 

 

 

「はあ……はあ……か、勝ったっ……!」

 

 荒い呼吸を繰り返しながら霊夢が拳を突き上げた。何時になく疲弊してはいるが、その顔には確かな充実感が浮かんでおり、額を流れる汗を拭いながら珍しく喜色を顕にしている。

 

 

「……勝負は私の負け、ね。稀に見る逸材だわ。こんな人間がまだ地上に残っていたとは思わなかった」

 

 ヘカーティアが感慨深げにそう言って惜しみ無い拍手を送る。

 そんな二人の遣り取りを月面から見上げていた俺は、ゆっくりと大きく息を吐きながら胸を撫で下ろした。

 身体が鉛のように重く、全身を倦怠感が包んでいる。しかし最大の山場を無事に乗り越えたことによる達成感と比較すれば、捨て置くような些末な事情だった。

 

 ヘカーティアとの弾幕ごっこは先ず初手で早苗が撃墜され、続くような形で間もなく俺も被弾した。

 最後に残った霊夢が獅子奮迅の働きを見せて、豪雨の如き弾幕の嵐を全て避け切り勝利を掴んだ。

 

 他力本願極まりないが、元より最重要事項は異変の解決──つまり元凶の純狐とヘカーティアを満足させて矛を収める方向に持ち寄らせること。その為にはこの中の誰かが勝てれば良い──最悪二人が満足さえ出来れば勝敗も度外視して良い──と考えていた俺にとっては現状は限りなく理想的に近い決着と言えた。

 無論、俺の手で勝利する事が出来るのならそれに越したことはないが、流石にそこまで高望みはしていない。

 そして俺たちの中で誰かが勝つのならそれは間違いなく博麗霊夢だと、俺は確信していた。

 

「へー……やっぱり強いですねぇ。霊夢さんは」

 

「………………」

 

 早苗は何処かぽけーっとしたような呑気な呟きと共に俺の背中から身を乗り出し、後頭部にしがみついた。俺は疲労から抵抗することも出来ず、ただされるがままに早苗の体重を背中に感じながら霊夢たちをじっと眺める。

 ヘカーティアと霊夢は再び向かい合って何やら短く会話をしていたが、距離が遠くて聴き取ることは出来なかった。

 しかし二人の間に流れる空気から闘争の気配は既になく、穏当な遣り取りがされていることだけは読み取れる。

 

「まあ、なにはともあれこのまま上手くいきそうで良かったよ。……それとお前は引っ付くな」

 

「無理です。全身が筋肉痛で限界なんですもん。もうへとへとで……」

 

「分かったから寄るな触るな、勝手に俺の帽子を被るな……!」

 

 早苗は文句を言う俺を意にも介さず、勝手に帽子を被り顔をすっぽり覆い隠すとそのまま俺の髪に顔を埋めた。密着した素肌から体温と、柑橘系の爽やかな香りが漂ってくる。

 終始巫山戯てるとしか思えないのに、背中越しに伝わる柔らかな感触から否応なしに“女”を意識させられて気恥ずかしく感じてしまうのが死ぬほど悔しい。

 

「魔理沙さんって何の石鹸使ってるんですか? ……何か良い匂いがするような」

 

「本当にいい加減にしろよお前……」

 

「……んー?」

 

 俺はげんなりとした声でそう呟いて、逃れようと身を捩って顔を逸らす。しかし早苗は尚も鼻を鳴らしながら俺が離れた分だけ身体を寄せ、今度は首の辺りに顔を埋めて──いきなり背中の重みが消え去った。

 ふと気が付くと霊夢が俺の傍に立っており、早苗の襟首を捕まえて引き剥がしている。

 その柳眉は吊り上がり、眼差しは早苗のことを射抜いてしまいそうな程、剣呑な光を湛えてじっと一点に固定されていた。

 

「あ゛?」

 

「あ、いや……。む、無罪です……! 私、本当に疲れてて……」

 

「じゃあ寝かせてやるわよ」

 

 ゴッと鈍い音と共に腹部に拳が突き刺さり、早苗はその場に崩れ落ちる。

 

「!? ……! ……!」

 

 無言でごろごろと転がり悶える早苗には目もくれず、霊夢はゆらりと此方に振り返った。

 未だ怒りが冷めないのか、不機嫌に歪められた表情のまま今度は俺の方へ詰め寄って来る。

 

「私が必死こいて戦ってた間、二人で呑気に観戦してたってワケ? 随分と良いご身分じゃない」

 

 やはり彼女が怒るとしたらその点だろう。事実、早々に敗北して霊夢には負担を強いてしまったし、弁解のしようが無い。

 そのまま胸ぐらを掴まれ、強引に引き寄せられた。

 至近距離で互いに顔を見合わせ、霊夢の大きな瞳に苦笑する自分の姿が映り込む。

 

「お前に任せっきりになったのは悪かったよ。でも無事に勝てたから良いだろ?」

 

「薄情者ね。遠くからでも援護くらいしなさいよ」

 

「いや……横槍とか、お前そっちの方が怒るじゃん」

 

 普段ならここらで『もういい』と話が打ち切られるのだが、今日に限ってはヘカーティアとの弾幕ごっこがよっぽど堪えたらしく霊夢は尚も顰めっ面のまま、鼻を鳴らして拗ねたように唇を尖らせた。

 其処には何時もの超然とした姿とは異なる年相応の幼い子供らしさが垣間見えて自然と笑みが零れてしまう。

 それを霊夢は馬鹿にされたと思ったのか、一層不満げに眉間の皺を深めて俺を睨みつける。

 

「へらへらして、何? 私に喧嘩売ってんの?」

 

「そうじゃない。ただ……お前を信じてたんだよ」

 

「……詭弁ね。煽てて誤摩化そうったってそうは──」

 

「違うさ」

 

 俺は霊夢の言葉を遮ると、そのままゆっくりと彼女の手に自分の掌を重ねた。

 突然の奇行に面を食らった霊夢は瞳を何度も瞬かせながら俺の目を覗き込んで、それから僅かに視線を揺らがせる。相反するように、俺は静かに息を吸い込むと努めて落ち着いた口調で語り掛けた。

 

「お前は必ず勝つって──俺は本気でそう思ってたよ」

 

「なっ……!」

 

 霊夢の赤茶けた瞳の奥に動揺の色が宿る。個人的にも自分らしくない台詞を言っているなという自覚はあったが、それは紛れも無い本心だった。

 決して霊夢のご機嫌取りに心にも無い詭弁を紡いでいる訳ではない。それだけは譲れないので、俺は出来得る己が限りの真摯な眼差しで霊夢を真っ直ぐに見詰め返す。

 

「やっぱり……強いよ。霊夢は」

 

「き、急に……何、アンタ……ばか……」

 

 霊夢の頬に朱が差し、微かに上擦った言葉は尻すぼみに空気に溶けていった。

 視線は未だ俺と交わされたまま、釘付けにされたかのようにお互い微動だにせず、ただ襟元を掴んでいた力が弱まり、行き場を失った霊夢の手が俺の手と重なった。

 どちらからともなく指を絡ませ、その滑らかな肌の感触を確かめるようにゆっくりと優しく掌に力を込める。

 

「私が強いことくらい……知ってるわよ。アンタに言われなくても」

 

「……そうだったな」

 

「だから……だから、許さないからね。私をこんな目に遭わせて。……責任、取ってよ」

 

「俺に出来ることなら、何でも」

 

「じゃ、じゃあアンタ……私の家に泊まっていきなさいよ。今日は凄く疲れたし、私の世話をして貰うから……!」

 

「……それだけで良いのか?」

 

「うっ……ぐ! ま、またそんなこと言ってっ! ああでも──」

 

 霊夢が俺の手を握り締めて身を預け、互いの距離がゼロになった。

 密着した肌と肌から流れる体温が混ざり合い、額を突き合わせながら俺たちは談笑を続ける。

 このまま溶け合ってしまいそうな錯覚すら覚える程の濃密な空気の中で、俺の視界一杯に霊夢の顔が広がった。

 全力で弾幕ごっこに興じる霊夢は美しいが、こうして穏やかな表情を湛える霊夢の姿も何にも代え難い程に綺麗だと思う。

 

 結局のところ、いつだって俺の眼に映っていたのは博麗霊夢の姿だけだった。

 

「何ですか、何なんですかこれ……私だけ霊夢さんにボコられて。二人はイチャイチャし始めたんですけど? ……キレそう。本気(マジ)でね」

 

「──愛、愛よ。素晴らしい景色だわ。今日ほど月の都に攻め入って良かったと思った事はないでしょう。懐かしいわぁ、私も若い頃はあんな風に……」

 

「──いや、ヘカテーって有名な処女神ですよね? 恋愛経験なんてあるんですか? そんな逸話、神話にありましたっけ?」

 

「………………」

 

 ヘカーティアが無言で早苗の首を掴み、脇に挟むとそのままきりきりと締め上げる。早苗は「ぎゃああああ」と抗議の声を上げながら何度も腕をタップしていたが、数秒もすれば大人しくなった。

 

「ぁぁぁぁぁああああああ!!!!」

 

 続け様に劈くような絶叫が響いて、空から優曇華が一直線に落下して来る。

 天高くから堕ちてきた彼女はそのままの勢いで月面へ激突し、一度弾んで転がると周囲に激しい土煙を巻き上げた。

 次いでゆっくりと舞い降りる純狐の姿に俺と霊夢は反射的に身構える。

 

「ま、負けちゃいました……」

 

 それだけ言い残してからがくりと意識を失い、優曇華は地に伏せた。

 その姿にヘカーティアが意外そうな表情を浮かべながら純狐へと近付いていく。

 

「おや? てっきりそっちの兎は殺すと思ってたのに。心変わりでもした?」

 

「……最初に私の負けだと、そう言ったでしょう? 元より殺す気など無いわ。──あぁ、でも……心変わりはしたかもね。この子に免じて、月の都はしばらく襲わないでおいても良い」

 

「へぇ? 純狐がそこまで言うなら本物ね。私も面白い物が見れたし、満足かな」

 

「ではそっちも?」

 

「ええ! 純狐にも是非紹介したいわ! 本当に、素晴らしい人間たちだから!」

 

 ヘカーティアは純狐の肩に手を置くと心底楽しそうに微笑み、俺たちの方を目線で示した。

 感情の伺い知れない無機質な瞳が早苗、霊夢と順に巡らされて、最後に俺へと向けられる。

 こうして面と向かうのは初めてだったが、俺の記憶の中にあったイメージと寸分違わない美貌だ。

 しかし、背筋の芯から凍るような違和感に俺は粟立つ肌を軽く抑えながら人形のように整った面立ちを見詰め返す。

 

 ヘカーティアと違って情緒が乏し過ぎるのだ。喜怒哀楽、あらゆる感情が欠落したかのような面持ちには人間味のようなものが感じられず、酷く空虚に思える。何を考え、何を思って行動しているのかまるで理解出来ない。今まで出会ってきた人外達を思い返してみても、また異質──永い年月を重ねて復讐に身を窶した存在とは、ここまで虚無に堕ちるものなのだろうか。俺はそれを経験した事がない。故に理解出来ない。……恐らく永久に理解する事は無いだろう境地──。

 

 そんな事を思いながら俺は無意識の内に帽子の鍔に手を遣って空を切り、先ほど早苗に奪われていた事を思い出す。

 行き場を失い不自然に宙で停止した片手を一瞬眺め、仕方ないので前髪を弄りながら瞳を逸らして誤魔化すことにする。

 そんな俺を他所にヘカーティアはご機嫌な様子で霊夢の元まで駆けて行き、その肩を抱き寄せた。

 

「特にこの博麗の巫女を見て欲しいわ! 手加減していたとはいえ私にも勝ったし、ちょっと別格なのよ!」

 

「………………」

 

 頬擦りしながらヘカーティアが嬉々として紹介を始めるが、渦中の霊夢は心底鬱陶しそうに口をへの字に曲げている。

 純狐が現れた時には少しひやりとさせられたが、今ではすっかり弛緩した空気が漂っていた。これはもう完全に脅威は去ったと考えて良いだろう。俺がそう判断して気を緩めたと同時にはたと奇妙な視線に気が付く。

 

「─────」

 

 純狐がまるで時が停止したかのように固まっていた。身体を俺に向けた姿勢のまま、僅かな身動ぎもせず石像のように動かなくなってしまっている。

 俺が訝しく思ったのも束の間、純狐が行動を再開した。

 一歩、一歩とゆっくりと俺の方に歩み寄って来る。その瞳は大きく見開かれていた。

 

「…………純狐?」

 

 ヘカーティアがおかしな状況に気が付いて笑みを消すと改めて呼び掛ける。

 それでも純狐の歩みは止まらなかった。真っ赤な瞳は俺を捉えて離さず、何かに取り憑かれたかのようにおぼつかない足取りで近付いて来る。その表情には相変わらず一切の感情が見られないが──その瞳だけには微かな揺らぎが浮かんでいる。

 

──伯、封……?

 

 戦慄く唇から嗄れた声が発せられた。

 次の瞬間、ふわりと桃にも似た甘い香りが鼻腔を擽ったかと思うと柔らかな感触に身体が包み込まれる。

 それが純狐の腕だと気付いたのは一泊置いて、ハープのように澄んだ声が耳朶を打った後だった。

 

「その髪、その目、その表情。幼い頃のあの子の生き写し──」

 

「…………は?」

 

「嗚呼──ここに……ここに、居たのね……」

 

 じっとりと嫌な汗が全身から噴出し、背筋が粟立った。

 思わず身動ぎしようとした所を力強い腕に拘束される。そのまま軋むほど締め上げられ、息苦しさに俺は小さく呻いた。

 近付けてきた顔が俺の額に触れ、息が掛かる程近くまで密着させられる。

 人形のような無表情だった純狐がその時ばかりは恍惚に目尻を下げ、ほうと熱の籠った吐息を漏らした。

 

「もう離さない。もう見逃さない。やっと見付けたわ──私のかわいい坊や」

 

「………………!」

 

 何だ、これは。

 周囲の景色がやけにスローに感じられる。自分の心臓の鼓動さえ、数倍に引き延ばされたかのように鼓膜に貼り付く。

 この感覚には何度か見覚えがある。例えば初めて紅魔館でフランドールと出会った時。また例えば鬼と呼ばれる種族と対峙した時。そういった状況に身を置かれた時に決まってこんな感覚を覚えた筈だ。

 ──即ち、絶望的なまでの死の予感。

 

「──ま、魔理ッ……!」

 

 視界の端で見た事のない形相で手を伸ばす霊夢の姿が映る──が、届かない。

 先んじて純狐の後方に大穴が出現し、腕の中に居る俺を巻き込んで身を投じさせる。為す術もなく奇妙な空間に引き摺り込まれ、底なし沼に落ちてゆくかのような落下感が全身を包み込む。視界は狭まり、上下左右も曖昧になって世界の彩度が減退する。意識が遠のいていく──。

 

これからはずっと一緒よ? 伯封

 

 




早苗さんかわいい
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