「……ッ⁉︎ 」
道場の中央に立ち構える初老の男に、武道着姿の悠久郎は手も足も出せずにいた。
グレーの武道着に黒の袴を纏ったこの男こそ、この剣術道場「
白髪混じりのオールバックに、寡黙で
悠久郎も「初老」と思っているが、実年齢は知らない。
その剣術の師範を、悠久郎と、あと二人の霊能力訓練生で取り囲み、戦闘訓練を開始したところなのだが、誰も身動き出来ずにいた。
──なぜなら、幕利師範から尋常では無い殺気が四方に迸っていたからだ。
「──動け。昨日の妖魔の実物は、こんなものでは無かっただろう」
幕利師範が
悠久郎は伊井野祥子にこそ「国家資格」などという言い方で説明したが、ゴーストハンターの在り方には大まかに三種類ある。
警視庁に所属する者と、ゴーストハンターの互助会からライセンスを得たフリーランスと、未登録の一般人である。
警視庁所属の者は言うに及ばず。
未登録の一般人は、霊能力を持ちながら、普通の暮らしを選んだ者。別に誹られるような事ではない。霊能力による情報提供まではできるが、本物の妖魔を相手に本気で戦うには、能力とは別の素質が必要だ。
そして最も人口が多いのが、互助会からライセンスを得た者だ。
理由は簡単で、年齢に制限が無く、かつ能動的に活動するにあたって、情報や治療、武装等のバックアップを得られるから。
だから悠久郎や亞里亞のような学生から活動できるし、公務員試験を経ずとも実地で妖魔と相対できる。
警視庁からは「民間ゴーストハンター互助組織」などとざっくりとした名前で呼ばれているが、互助会自体にも特に組織名にあたるものは無い。
ちなみに、これらゴーストハンター互助組織が組織運営をする為の資金を提供しているのが、藤崎家や露吹家などの多数の霊能力に通じた資産家である。
その互助活動の中には、当然、妖魔を討伐する為の戦闘訓練の教習もある。
ここ、「幕利玖涛流」も、その教習所のひとつ。
師範・幕利達彦も、現役のゴーストハンターだが、主武装は霊力を纏わせた特製の刀であり、本人自身の霊能力は僅かにしか持たない。
だが、こと妖魔討伐において右に出る者はそう多くない。
その「幕利玖涛流」剣術道場が、本来の剣道と同時に、攻撃系霊能力者の戦闘技能を指南しているのである。
師範曰く。「棒切れを振り回す
もちろん、攻撃系霊能力者各個人ごとで異なる、霊能力の顕れ方に応じた戦術の指導はするが、先の理念に則り、訓練メニューの最後はいつもこの、師範の殺気の中での手合わせとなっている。
(……いや、昨日の妖魔はここまでじゃねえって)
思うも、悠久郎の頬には冷や汗が伝い、身構えたまま右にも左にも動けないでいた。
この「殺気」の恐ろしさとは、「ただ怖い恐怖」では無い。「何をされるか分からない恐怖」だ。
自分の経験の及ばない、「あらゆる手練手管に全方位から生命を狙われている」感覚とでも言えば良いか。
分からないもの、どうしようも無いものは、怖い。
故に、未熟な悠久郎は、迂闊に動く事ができないのだ。
思えば、伊達光太郎が嘯いた「ヒグマ」にだって実際に出会った事は無い。だが、出くわしたらきっと、こんな感じなんだろうか──
ずだんっ、と床を叩く音に、我に帰る。
見れば、訓練生の一人が、外の砂利まで吹き飛ばされたところだった。
(ッッ⁉︎ )
全員、武器は持たずに、格闘用指抜きグローブと、ポリカーボネートのプロテクターを着けているのみである。
実際には、訓練生は殴り飛ばされたのではなく、ただ幕利師範の柔術で押し出されただけだ。
──けど、もしこれが実戦だったら?
一名死亡、である。
悠久郎は場が動いた勢いに乗って、幕利師範の背に滑るように踏み込んだ。
未だ殺気は取り巻いている。どこから斬られるかわからない不安感の靄を突っ切り、せめて師範の身体のどこかに触れれば一本──
「きちんと己を律して制御できなければ、意味が無い」
耳元で囁かれた瞬間。悠久郎の身体が逆さまにされ、道場の床を端までボールのように転がされてしまった。
ようやく壁にぶつかって身体が止まった時には、逆さまの景色の中で、三人目の訓練生が派手に転がされた所だった。
「この訓練は、私から一本取る事が
「大丈夫?」
有り難い師範の訓戒ののち、逆さまの悠久郎を、亞里亞の呑気そうな顔が覗き込んだ。
訓練が終了し、剣道の門下生も全員が帰宅した道場の裏手で、悠久郎がひとり、木刀で丸太に打ち込みを続けていた。
亞里亞も付き合い、縁側に腰掛けてその様子を眺めている。
「自身の本来の主武装と異なる物を振り回し続けても、効果は薄いぞ」
そこに、幕利師範が静かに現れた。
「……っス」
袖で顔の汗を拭って、悠久郎が木刀を下ろした。
「露吹の三男が、心配か」
腕組みをしたまま、ゆっくりと歩みながら幕利師範が呟いた。
幕利師範にも、翡翠の事情は通じている。
悠久郎は特に溜めずにうなずいた。
「はい。あいつ、自分で対策は組んでるらしいんスけど、でも「いつ、それが来るか分からない」ってのが、ストレスにならない訳が無いと思って」
「それは露吹の三男の話か? それとも黒錠君の話か?」
悠久郎が、跳ねるように幕利師範の顔を見上げた。
怒りと、混乱にまみれた顔で。
「自分で気付けたなら、暁光だ。自分にできる事も、分かっているのだろう?」
続く幕利師範の言葉に、悠久郎はすぐに平静を取り戻した。
──そうだ。俺らしくない。心配を押し付けるところだった──
悠久郎は、しっかりとうなずいた。
「はい。すんませんっス」
「少し、遊ぼうか」
幕利師範が、懐から左右の手に、それぞれ漆黒の懐刀「黒無垢」と、木片を取り出した。
そして、「黒無垢」の鞘を抜き払い、放り捨てると、刀身の峰をこちらに向けて構えた。
「黒錠君の黒無垢を出したまえ」
言われて、木刀を丸太に立てかけてから、武道着の懐から自分の懐刀「黒無垢」を取り出した。
「黒錠君は、霊刃を出したまえ。これから木片を二個、放り投げる。それを斬ってから、これと打ち合わせる。いくぞ」
悠久郎は、鞘に収めたままの懐刀を、まるでそれ全体が柄かのように両手で握ると、上端の柄尻から光の刃が伸びた。
これが、悠久郎の攻撃系霊能力《霊刃》。
ただし、まだ出力の訓練中であり、この懐刀「黒無垢」を通す事で発現できている状態。いずれは自分の手から直接《霊刃》を発生させる事ができると言う。
──何なら身体のどこからでも発生できるらしいが、それはまだ先の話──
「はっ」
幕利師範が短い呼気と共に、木片をひとつ、ふたつと放り投げた。
宙を舞う物品を斬るなど、今の悠久郎にも造作も無いこと。
ひとつ目の木片を難なく切断した。
続くふたつ目の木片を《霊刃》に捉え──
その剣閃の軌道上に、黒い刀身が割り込んできた。
「なっ⁉︎ 」
木片を斬り裂く想定で振った《霊刃》が、電球が破裂するような音を立てて大きく弾かれた。
仰け反った悠久郎がたたらを踏んで後退し、見直したそこには、懐刀の峰で突きを放った姿勢の幕利師範が立っていた。
ふっ。と鼻から抜ける息を漏らして、幕利師範が態勢を解く。
「いくつ目、とは言ってなかったからな」
「いや、ですけど……」
もしかして、いま笑ったのか……?
抗議の意よりも、幕利師範のらしからぬ側面に驚いた。
「目標に対して、適切な膂力を瞬時に調整できるようになる事だ。なにしろ実体剣と違って、《霊刃》には質量が無いのだから」
ここでようやく幕利師範がこの場にやって来た時の発言を思い出した。
「ありがとうございます。……なっげえ前フリだったっスねえ」
「ひとの話をよく聞くこと。基本中の基本だ」
よく見ると、本当に、ほんっっの僅か、その鉄面皮が、微苦笑しているように見えた。
「さ。もう遅いから帰りなさい。棍を詰め過ぎても、身体に悪い」