いつも通りの一日が始まる
早朝。
佐世保の港町はうっすらと霧がかかっていた。
まだ明け方前で薄暗い。遠く内地側には水墨画で描かれたような山々が濃淡重なりあっていて、それらてっぺんからは細い線状の光が漏れ始めていた。
もういくらもしないうちに明るくなるだろう。
軽く柔軟運動をこなし、関節をほぐしてから走り出す。
息は白く、吐き出されるたびに背後へ消えていく。
冷たい外気が心地よかった。
日課の早朝ランニングだ。呼吸のリズムと相談し、適度に負荷をかけつつリズムを整えていく。やがて最適なペース配分を見つけると、景色に意識を向ける余裕もでてくる。
白み始めた街中を通り過ぎ、緑の木々を抜けていく。視界が大きく広がった。
雲一つない灰色の空。
藍に染まった海。
僕のお気に入りのコース、海岸沿いのサイクリングロードに辿り着く。
「昔はもっとキレイだったんだけどな……」
踏みしめるアスファルトはひび割れていて、隙間からは雑草が伸びていた。めくれあがった大穴を飛び越えながら走る。足をとられないよう注意する必要があった。
戦争の傷跡。
未だに現在進行形の戦争。やったのは深海棲艦だ。
深海棲艦。
ある日、海の底からやってきた化け物たちの総称。
そいつらは突如として世界中の国々を攻撃し始めた。人類を滅ぼそうとしているらしいが僕も詳しいところは知らない。もしかしたら宣戦布告ぐらいはあったのかもしれないし、どこかの国とは密かに和平交渉していたりするのかもしれない。
けれどただの一市民にすぎない僕に知る余地はない。出来ることといえば、新しくできた戦時なんちゃら法案に従って粛々と働くことだけだ。
僕は佐世保鎮守府で警備員をやっている。
毎日、正面ゲートの詰め所を拠点にして、人の出入りを管理したり、搬入トラックの受付をしたり、監視カメラを確認したりしている。
他人には楽な仕事って言われることもある。けれど、人手不足のこのご時世、色々な雑務を回されるから大変だ。緑地の整備、壊れた備品の修繕、破損申告・購入申請、艦娘の送迎……等々。それって総務の仕事じゃないのかって案件までやらされる。
鎮守府の平和を守っているといえば聞こえはいいが、実際は誰にでも務まる何でも屋でしかない。
せめて専門知識や技術でもあれば扱いは違ったんだろうけど。
例えば、そう、つい先日まで一緒に働いていた整備員のアイツみたいに。
走りながら、顔を上げてみる。
アイツの住んでいたボロアパートが目に入った。
木造40年だか50年だかの二階建てで、屋根にはでっかい穴が開いている。廃墟同然の見た目通りに電気もガスも通っていない。住人はただ一人、同じ佐世保鎮守府で働いている整備員のアイツだ。
いや、今はもう違うか。
ヤツは呉鎮守府に飛ばされてしまってもう居ないんだ。
数少ない同年代で、気兼ねなく話せる仲のヤツだったのに。
記憶が一週間前に遡っていく。
友達と同僚の間ぐらいに位置していた、あのヘラヘラした男と会話したあの日に。
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「やあ、整備の」
「よ~、警備の」
「キミさ、呉鎮守府に異動するのか?」
「え。なんで知ってんの?」
「辞令が掲示板に貼りだされていたんだよ」
「あ、あー……はいはい、アレね。いや、栄転だって。ホントホント」
「噂によると、駆逐の子に手を出したって聞いたけど」
「出してないよ? まだ」
「まだ?」
「これからってとこ」
「あのね……相手は子どもだろ?」
「いーや。あの年頃はもう大人だね。ちょっと思い出してみろよ、俺らん時もそうだったろ?」
「未熟なガキだった記憶しかないけど」
「お前のことじゃない。同級生の女子たちだ」
「……どうだったかな。はっきり覚えてないけど」
「寂しい青春だったんだなー。ま、要するにな、あれくらいの女の子を侮らないほうがいいってこと。下手すりゃ今の俺らよりよっぽどオトナだ」
「それが逮捕されたときの言い訳にならないことを祈るよ」
「はん、言っとけ」
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――そんなふうに本当に引っ越してしまった。
「駆逐の子か……。駆逐はまずいよな。だって騙してるみたいじゃあないか」
思春期の子どもは世界が狭く、判断力に乏しい。その隙に付けこんで偽りの親愛を振りまいて合意を引き出してしまうことを世間ではグルーミングと呼ぶ。
法律や常識を除外して考えてみても、やはり僕自身の倫理観はNGをだしていた。
だって未成年なんだから。
社会人の男と女学生が関係をもって許されるのは少女漫画とエロ漫画の中だけだ。現実で実行しちゃいけない。
もし仮に、ぎりぎり関係をもってもよい駆逐の子がいるとするならば、それは、既に大人の領域に足を踏み入れている子になるのだろう。
若くして完成した精神性を持つ子は、確かにいる。
僕のそう長くない人生の中でもたびたび現れてきた。マセているわけでも孤高ぶっているわけでもなく、人生の指針をはっきり定め、しっかりと前を向いて日々を過ごしている少年少女たちが。
「思えば艦娘はほとんどがそうかもな……。命を懸けて働いてるからなのか? うちの鎮守府の駆逐艦でいえば、ええと、夕雲型の……っていかんいかん。何を考えているんだ僕は」
空を見上げると陽が高くなりつつある。
耳をすませば、風に乗って車の走行音が小さく聞こえるようになってきていて、町全体が目覚め始めているのを教えてくれた。
家に戻ってシャワーを浴びて、身支度を整えた。
朝食はパンを一つに、少し迷って牛乳を一杯。珈琲は昼に飲むから後回しにしてもいいだろう。
マンションのドアをロックして、非常階段を駆け下りる。125㏄のバイクのキーを捻ってエンジンを吹かす。
佐世保鎮守府に出勤だ。
鎮守府の職員用駐車場にバイクを止める。
ヘルメットを座席シートの下に入れていると、直線約2kmのアスファルト道の向こうから豆粒のような大きさの一団が走ってくるのが見えた。
「さっせぼー、ふぁいおー、ふぁいおー、ふぁいとぉー!」
駆逐艦の子たちだ。
ジャージを着こんだ少女たちが走りこんでいるのを見ていると懐かしくなってくる。
学生時代にも似た光景をよく眺めていた。
もっとも、そのときのランナーたちは部活動に勤しんでいたのであって、今の艦娘たちのように戦闘を前提とした基礎体力向上の訓練をしているわけではないのだけど。
よく見ると、先頭を走っているのは涼波だった。
彼女は僕を見つけるとニカっと笑みを浮かべた。
「警備のお兄、おはよーっ」
「おはようございまーす!」
「ございまー!」
「っすー!」
立て続けにフレッシュな挨拶を投げつけられて、少しひるんだ。
どうにか愛想笑いを浮かべながら手を振り返していると、涼波が、
「お兄ー! また後でねー!」
と叫んだ。
後続の少女たちは頭上に「?」を浮かべている。
不思議な視線を向けてくるが、そんな目をされても僕には応えようがない。
涼波とは大した関係じゃない。彼女がたまに警備員の詰め所に遊びに来てしまうのはあくまで彼女の自由意思であって、僕が来てほしくて呼んでいるわけではないんだから。
僕は昼休みに珈琲を豆から挽いて飲むのが趣味で、彼女はそれが好きで飲みに来る。
それだけの関係だ。
僕に後ろめたいところはまったくない。
僕が珈琲を趣味にするようになったのは整備のアイツのせいだった。
ヤツはどうにもサバイバルな生き方をしがちなところがあって、それは彼の実家が空襲にあってしまった苦い経験からくるものらしいけど、とにかくヤツは自分が同じ目に遭ってもいいように家具を一つも用意しなかったり料理を携帯ガスコンロでするような変なヤツだった。
小さくて軽くて実用的、そんなキャンプギアを市場で見かけるたびに購入し、使わなかった物を僕に押しつけてきた。その中の一つが、手挽きタイプの珈琲ミルだった。
見た目は金属の筒に手回しハンドルをくっつけただけの代物だ。筒の中に珈琲豆を入れてごりごり回すと粉末ができあがる。それをドリップすれば珈琲になる。
やってみるとこれが中々味わい深い。
豆の種類や鮮度、砕く大きさによって味が変わる。
何よりこの手で直に作っている感触がいい。
なんというか無心になれるんだ。
「さあて今日も一段落、と」
職員用の食堂で昼食を済ませ、警備員の詰め所に戻ってきた。
壁時計をちらりと確認すると、昼休みは残り20分といったところ。詰め所は基本一人勤務で、雑談する同僚もいない。いつもの癖でスマホで動画サイトを立ち上げておすすめ動画のサムネイルを眺めようとして、ふと思い立ち、荷物を漁った。
件の珈琲ミルだ。
コンロに向かい、珈琲豆を火にかけようとした時、
「あっ、間に合った。よしよし」
声に振り向くと、夕雲型の制服に身を包んだ少女、涼波が立っていた。
「スズ。来たね」
「そろそろ珈琲タイムじゃないかって思ってさ。お兄って珈琲飲むの好きだもんねー」
にんまりと笑みを浮かべながら、食器棚からマグカップを差し出してくる。
今日もおこぼれをもらおうという魂胆だろう。
「別にいいけど、そろそろ料金を請求しようかな」
「えーっ、あたしとお兄の仲じゃん!」
「今のご時世、豆一袋がいくらするか知ってる? 万札一枚じゃ足りないんだ」
「そのお豆が無事に海を渡ることができたのはあたしたちのおかげです」
「そりゃそうだけどさ」
「それにねー、今日はちゃんと手土産も用意したんだから!」
得意げに包装紙に包まれた小箱を差し出してくる。
「これは……饅頭?」
「そ。玉から渡すようにって持たされたんだ」
玉波。涼波と同じ夕雲型の駆逐艦だ。
「その玉ちゃんがいないけど?」
「今日は忙しいってさ。書類仕事が残ってるって」
「ふうん」
珈琲豆と饅頭では正直まったく釣り合わないが、よしとした。小さな気遣いと毒気のない笑顔にそういう気分にさせられる。
涼波がマグカップを差し出す仕草は初めて会ったときから変わらない。
成人男性である僕に臆すことはなく、かといって侮ることもない。含みのない言動は相手にしていて心地良い。
珈琲の生豆を火にかける。
フライパンから立ち昇る匂いと豆が煎られる音に涼波はウキウキした表情を隠さない。
僕も涼波のそんな姿に心が安らいでいる。
もしかしたら僕が珈琲を飲むことにハマり始めた理由は彼女が楽しみにしてくれていることもあるかもしれない。
「お兄の淹れる珈琲、本当に美味しいんだよねー」
「そりゃどうも」
焙煎した豆を挽き、ハンドドリップで淹れた珈琲を差し出す。
涼波はマグカップに口をつけ、幸せそうな溜め息を漏らした。
「僕が淹れようとするといつも現れるね」
「タイミングいいよねー」
「たまには自分で淹れてみる?」
「自分でやると美味しくならなくて。プロにお任せするさ。適材適所!」
でもなんで上手にできないのかなぁ、と唇を尖らせながら再びマグカップに口をつける涼波の姿を、僕は何の気なしに、ぼんやり見つめる。
うつむき気味の横顔に映える、長い睫毛。
珈琲を飲むと、うっとりと息をつく癖。
一つ一つを見逃せなくて、つい見入ってしまう。
同じ鎮守府で働いているといっても接点はほとんど無い。
僕は警備員。
涼波は艦娘。
やっている仕事も違えば、世代だって違う。
なのに、こうやって一瞬で旧知の間柄のように気を楽にして会話できるのは、やはり涼波の人柄に寄るところが大きいと思う。
「で、お兄はさ、彼女さんにもこうやって珈琲を淹れてあげたりとかするの?」
思わず口に含んだ珈琲を吹きだしそうになる。
「か、彼女? そんな人いないって。いたらどんなにいいか」
「そうなの?」
「そういうのはね、出来のいい人間だけに許された特別な関係性ってやつなんだよ」
「へえっ? どういうこと?」
「自分だけがいくら欲しいって願っていても相手のお眼鏡に適わなきゃダメだろう? 恋人ってのは、それだけの容姿と収入とコミュニケーション能力がなきゃ作ることができないんだ」
「あはは。ちょっとよく分かんない」
明るく笑い、涼波はマグカップを傾ける。
いや、僕は全然笑えないんだけど。
「スズにはまだ早いか。ま、若いうちは変に相手を選別しないからね。純粋な気持ちで相手と向きあえる貴重な期間だ」
「なんか含みがある感じだね?」
「人間、歳をとるほど高望みするようになるんだよ。条件ばかり設けて、相手のことを見ているようで自分の都合ばかり考えるようになってしまう」
「ふぅん……? ま、スズにはそんな心配は必要ありませんよ。うん、仕事が恋人なんで!」
僕たちの関係は言ってしまえばその言葉に集約されるようなところがあった。
あくまで仕事第一で、隙間時間に顔を合わせることもある程度の間柄。
そうあるべきで、そうでなくてはならないと考えていたけれど、同時に、歳若い魅力的な女の子と友達のように接することができるのは感謝すべき幸運とも思っていた。
彼女の前向きさ、陽気なオーラに触れていると気分が上向いてくる。
この先も長く楽しい付き合いが続けられるかは分からない。けれど期待するぐらいは許されるだろう。