夕方。
業務を同僚と交代し、帰路につきながら商店街で日用品を買い足していると、往来の真ん中で涼波とばったり会った。玉波も一緒だ。二人とも紙袋を下げている。どうやら彼女たちも買い物の帰りらしい。
「お兄は今度のレク、どっちにした?」
レクというのは、佐世保鎮守府の職員が参加するレクリエーションのことだ。職員間の交流を深め、心身をリフレッシュするために企画された。ちなみに艦娘も参加する。
レクの行先は選択制で、海か山。
普段から海の仕事をしているからと山を選ぶ者もいるし、艦娘の水着姿を拝みたいと海を選ぶ者もいる。
「僕は海かな」
「ほんと? あたしも海だよ!」
海か山を選ぶなら、僕は断然海派だった。
なぜなら海に虫はいない。汗をかいて登る必要もない。直射日光こそあるが海水に入ってしまえば涼しく気持ちいい。比べるまでもないだろう。別に水着が見たいわけじゃなくて。
涼波は玉波と顔を見合わせ、なぜだか嬉しそうに笑う。
「今日は防暑衣、もとい水着を買いに来たんだ」
「へえ……水着。最近は服みたいなのが流行ってるんだっけ」
水着といえば身体のラインを晒すもの、という認識は変わりつつあるらしい。
昨今は、太ももや胸元を見せないタイプのものが台頭してきていると聞いたことがある。とあるラブコメ漫画でも、せっかくの水着回にヒロインがその手の装いをしていてファンたちが落胆していたとか。エロくない水着を着せるなんて要らないリアリティだ、と。
その意見には完全に同意しかない。
「ん~? 気になる? 大丈夫だって! スズはちゃ~んとお兄好みのやつ買いましたから!」
「ベ、別に僕は気にしてなんて……」
「ツーピースタイプのセクシーなやつ! 玉に選んでもらったんだ。エロいよー?」
「え、エロいんだ」
「でも艦娘やってると足が太くなるっていうからなー。あっ、だから玉はパレオつきにした? しまったー。あたしもそうすればよかった」
「涼はスタイルいいですよ。お兄さんもそう思いますよね?」
「えっ。そ、そうだと思うよ? よく知らないけど」
つい涼波を凝視してしまう。
スキニーパンツはすらりと伸びる脚のシルエットを強調しており、生地越しでもそのしなやかさを窺い知ることができた。不自然なダイエットでは得られない健康美がそこにある。
「あ。なんか目がエロい」
「い、いや、別に」
「見たいんだ? あたしの水着?」
「その質問は、ちょっとずるくないか? 見たくないと言えば失礼だし、見たいといえば卑猥な発言になってしまう」
「で、見たいの? 見たくないのー?」
「そ、それは」
「涼、困ってますよ」
「あはは。ごめんごめん」
「……あまりからかわないでくれよ」
もう心臓がどきどきと打っている。
油断するとすぐこれだ。
最近の少女というものは、この歳でもう男をからかうことを覚えているのか? 僕の学生時代ではまったくそんなことはなかった。
……いや、
そうかでもないか?
過去の記憶を遡る。
当時、まだ僕が学生だった頃、教室でクラスの上位層の男女が似たようなやり取りをしていた覚えがあった。ミニスカートが可愛いだの、シャツのボタンを開けたほうがオシャレだの。
当時の自分にはまるで縁がなく、聞き耳を立てながら、恥知らずのガサツさだと嫌悪感さえ抱いていたが……今ではまるでそうは思えない。あれはただの卑屈さからくる感情だったと知っている。
そうか。彼女らの歳頃ならよくあるコミュニケーションの一つなのか。
雑談は続く。
まるで修学旅行の計画でも練るように海での過ごし方について語り合った。
泳ぎについてはもとより、行きの大型バス内でカラオケ大会をやるだとか、好きなミュージシャンと歌とサビの部分、ビーチバレーで誰が強いとか、とにかく縦横無尽に会話の花が咲いていく。僕は、特に女子との会話は苦手だけど、不思議と彼女たちの導きに乗るように意見を交わすことができた。
涼波も玉波もレクリエーションをたいそう楽しみにしているようだった。
どうやら近日中に単冠湾泊地から、藤波、早波、浜波という艦娘がやってきて、第32駆逐隊が揃うらしい。今回のレクリエーションは彼女たちの歓迎会も兼ねているというわけだ。
楽しげに語る彼女たちの表情は期待と喜びに満ちて、眩しく感じるほどだ。
「そろそろ日が暮れるね。お腹すかない? あ、時間あるならだけど」
「ある、あるよ」
「何か食べようか。何がいい?」
「あたし何でもいいよ。あ、お兄がいつも食べてるお店がいいな」
「えっ。いやでも、あそこは……」
脳裏に浮かんだのは住宅街の隅にひっそり佇む古ぼけた店だった。
「んん? 都合悪い? 店員が目をつけてる女の子だとか?」
「そんなことは全然ないけど、むしろ逆で」
「逆?」
くりくりと透き通った瞳で続きをせがんでくる。
「男ばかりの店っていうか……。大衆食堂と居酒屋を合わせたような店で、女の子向きじゃないんだけど」
「いいじゃん! そこにしよ!」
躊躇いつつも、連れていくことにした。
玉波は用事があると、先に帰ってしまった。
涼波と二人、商店街の裏道をぶらぶら進み、目当ての店に辿り着いた。
「へえー。なんか雰囲気あるね。映画にでてきそう」
ドアを開けると、チリリンと鈴の音が鳴った。
西部劇調の店構えといえば聞こえはよいが、実際は民家を改造した程度の造りだ。いわゆる少年少女が好む『映え』からは程遠く、がっかりされるだろうと思っていたけれど、少女にとっては未知への好奇心が優るらしい。店内に入ると、くるくると小さな頭を動かしながら物珍しそうに店内を見渡している。
「こんなお店初めて。いつも駅前の人気店とかチェーン店に行っちゃうからなー」
「ああ、スズはそうだろうね」
彼女が休日に出歩いているところを見掛けることは何度かあった。いつでも同世代の少女たちに囲まれて、買い物したり公園のベンチで会話に花を咲かせていた。今を楽しむことに夢中で、メインストリートから離れた裏道の奥にひっそり佇んでいる隠れ家的な店を探そうという発想はないのだろう。
涼波は酒瓶がずらりと並べられた棚をしげしげと見つめ、その上に『Cowboys Saloon』と描かれた看板を見つけると、あっと声をあげた。
「ここ、もしかしたら提督の行きつけのお店かも」
「ああ、たまに来てるね」
「へー、ここなんだ。早が言ってたんだ、こういうお店にお酒が好きな戦艦空母の人たちも来るって。早もお酒好きだから。……あ、早ってのは早霜ね。早波は別の子。さっき言ってた、32駆の転籍してくる子」
ひとまずテーブルにつき、二人の間でメニュー表を開く。
店員が来たので先に飲み物を頼むことにした。僕がビールを注文すると涼波も合わせて同じものを頼んだ。注意すべきか迷ったが、まあ駆逐艦なら飲酒は許されているし構わないだろう。料理については、決まったら追加で注文すると店員に告げた。
「ふ~ん」
「何?」
「手慣れてるなーって。オトナ」
「え、そうかな」
涼波はころころと表情を変えながら語る。
普段はこういうお店は来ないけど、32駆の仲間たちが転籍してくるからオトナなお店を知っておきたかった。古株としてはいいところを見せたい。佐世保の仲間たちに聞いてみたら早霜が教えてくれたんだけど場所が分からなくて――
その時、飲み物が来たので、食事のオーダーを頼む。
ひとまずサラダ、メインは海鮮系か肉系のどちらにするか。年頃の少女はカロリー制限とか気にするだろうか。
涼波は明るく笑う。
「肉いっときましょうか! 揚げ物? 全然平気! 身体が資本なんで!」
コップを合わせて乾杯した。
料理が運ばれてくると、涼波がぱっと小皿に取り分けた。嬉しそうに唐揚げにかぶりつき、舌鼓をうっていると思ったら、僕がビールを飲みほすと目ざとく見つけ、二杯目をついでくれる。その様子は手慣れていて自然な仕草だった。
素直に感心した。
自分が彼女ぐらいの年頃だった時はどうだろう。
気遣いなんて概念すら知らなかった。今でこそ、相手に合わせることや、マナーのようなものを覚えているけど。
「考えこんじゃって、どうしたの?」
「あ、ああ、ちょっとね。喋るの、得意じゃなくて」
「そんなふうには見えないなあ。……ね、オンラインで音声通話できるやつ、あるでしょ?」
僕は業務でたまに使うWeb会議ツールを挙げてみた。
「それ、それ! こないだ、32駆の子たちと話したんだ。人見知りかなって子はいたけど、お兄はそんな感じじゃないよ?」
「うーん、その子と僕はタイプが違うんじゃないかな。僕の想像だけど、その子は自己表現が苦手なタイプ。僕は……言葉を吟味するタイプ」
「どう違うの?」
「先天的か、後天的か、かな」
「??」
僕の場合は、もちろん後天的だ。
学生時代は思いつくままに口に出し手を出して、挑戦的で、人がどう思うかなんてまるで考えなかった。そのせいで多くを失敗した苦い経験がある。どうしてこうもままならないのかと思い悩み、それは誰しも抱くものだと知り、かといって気が楽になるわけでもなく、手に入れた結論は、どうやら自分は素のままで世間と上手くやっていくことは難しいという、ありふれた諦観だった。
あるいは未熟、あるいは無知のせいで、言葉も行動も頭の中で一度修正をかけなければ恥をかいてしまうのだ。
「あー、また黙った。ギンミしてるってやつ?」
「そんなとこ」
「えー。参考までに教えてよ? そういう子ってどう接したらいいのかな」
「スズはスズのままでいいと思うよ」
「てきと~」
「いやホントに。スズはね、自分で思ってるより素敵な子なんだから。場が華やぐっていうか、ほら、周りに人が集まってくるだろう?」
「え。そ、そうかな」
僕は二杯目のビールをぐいと飲みほして、
「キミの傍にいると何もかも上手くいくって思えてくるんだよ。周りに良い影響を与えてる。ああ、僕の学生時代にもスズみたいな子がいたらなぁって思うよ。楽しかったろうなぁ」
もしもの世界線を空想する。彼女がクラスメイトだったら。きっと毎日が色づいていただろう。
ふと見ると、涼波はきょとんと目を見開いていた。
顔が赤い。もう酔ったのだろうか。
ちょっと俯き気味の顔を見せ、小声で言う。
「今からでもできるよ」
「ん? なにが?」
「学生ごっこ。……友達、みたいにさ?」
「それって一緒に遊ぶってこと? 駆逐の子たちと? ムリムリ! 若い子たちと一緒に遊ぶなんてダメだし無理だよ!」
ほとんど反射的に拒絶した。
自分で言った想像を脳内に描いてみる。夕雲型の制服を着た少女たちとともに商店街を冷やかして歩く、一人だけ成人男性の自分の姿を……。
ほとんど犯罪のように思えた。
「えー、ダメ?」
不満げな顔に一生懸命弁明する。
大人になるとできなくなることがあり、その最たるものの一つが無茶な若作りやそれに準ずる行動をとることだ。まして少女の集団に混じって同じように遊ぶなどみっともないにも程がある。
「じゃああたし一人相手なら?」
「え? は?」
「お兄、まだ若いんだし、学生みたいな遊びしてもそんなに変じゃないって」
「遊びって……具体的に何やるの?」
「さあ。あたしも学生じゃないしなー」
そうだった。
艦娘は皆、学生じみた制服を着ているからつい勘違いしてしまう時がある。
しかし、なんだろう。学生らしいことって。
ぱっと浮かぶのは、登校、授業、部活、試験勉強、放課後の買い食い……。
どれも実践する意味が見いだせない。自然な行いじゃないからだ。必然性がないごっこ遊びをやっても気持ちが乗りきれないと思う。
……いや、涼波となら、どうだろう。買い食いなら変ではない。しかしそれは今でも似たようなことをやっている。
「あ。じゃあさ、勉強教えてよ」
「勉強?」
「うん。今度、試験あるんだ。座学の。下手な点数とりたくないし。いいよね、センパイ?」
「せ、センパイ……?」
大きな瞳で見つめられるとドキリと身が硬くなる。
茶目っけのある笑みが、かえって親しみを寄せてくれている後輩女子の雰囲気を醸しだしていた。
後輩女子――後輩の女子だって!?
な、なんて蠱惑的な響きなんだ……。
それもただの後輩じゃない。信頼を寄せてくれている朗らかで機知に富んだ美少女だ。学生時代にはついぞ縁のなかった究極存在が唐突に出現したせいで胸の高鳴りが抑えられそうにない。
耳元で、存在しない声が反響した。
センパイ♡
センパ~イ♡
あ、ああっ。
すごく、いい。堪らなくいい響きだ……。
「せんぱーい? どうしましたー? あれれ、また吟味しちゃってます? せんぱ~~い?」
「うう、やめてくれ……。正気を失いそうだ」
「あはは。いやぁ参ったなあ。そんな顔されると癖になりそう。ね、セ・ン・パ・イ?」
「ぐおお……」
そう呼ばれるたびに精神が削られる。まともな判断ができなくなる。
とっくの昔に諦めていたはずの甘酸っぱい青春が僕の理性をとろけさせている。
ああ、誰か教えてくれ。
僕は彼女にいくら払えばいい?
この特殊な関係を引き延ばしてくれるならどんな対価も惜しまない。
この瞬間、僕は夜の店に通い詰める男たちの気持ちを理解してしまった。この癒しを与えてくれるなら、その月の給料を丸ごと捧げても構わない。
「スズ」
「なーに?」
「教えるよ。勉強。何だって教える。キミのためなら僕はクレジットカードの暗証番号だって教えるよ」
「あはは。お兄やばいって! 目が本気なんだけど!」
「僕はお兄じゃない。センパイだ」
「ダメだー! この人、悪い女に騙されるタイプだー! もお~……ほんとしょうがないなぁ? 先輩ごっこに付き合ってあげるから、スズ以外に騙されちゃダメだよ?」
「大丈夫。僕は正気だ」
言いながら、僕はこれから始まるであろう勉強ごっこに想いを巡らせていた。
センパ~イ。ここ分からないんですけど教えてくださ~い♡
センパ~イ。頭いいんですね。尊敬しちゃいますっ♡
センパ~イ。私、ずっとセンパイのことが――
ああ、じっとしていられない。息切れするようだ。
人生の喜びとはまさにこれを指すのだろう。
僕は青春の輝かしい日々を取り戻すと決めた。必ずだ。