やってしまった。
やってしまった、やってしまった、やってしまった。
頭を抱えて嘆きたい。もし時を戻せるならどんな対価だって惜しみなく払うだろう。それほどまでに私はしてはならないことをしてしまった。
「……」
早朝、しかめ面でトースターの小さな窓を覗きこんでいた。
じりじりと焼けていく食パンをひたすら睨みつけ、ふわふわと白かったパンの表面がカリカリのきつね色に変化していく過程を観察する。無心であろうと心がける。
それでも昨晩の失態が頭から離れてくれなかった。
……やってしまった。
やってしまったのだ。
あろうことかいい歳をした大人である私が、ましてや職場恋愛などしてはならぬと諭す側である上司の私が、未成年で部下の少女に手を出してしまった。
幸いが一つあるとするならば、最後の最後は外に射精できたことだった。
あの瞬間、私は完全に熱に浮かされてしまってはいたけれど、運だけが私に味方した。盛大に腰を動かした結果、逸物がすっぽぬけたのだ。白濁液が飛び散った先は夕雲の白い腹の上。つまり、膣内には出さなかった。それだけが救いだった。
とはいえ、
ナマでしてしまった以上、先走りからでもデキてしまう可能性はある。
もしもそうなってしまったら彼女の人生は取り返しのつかないレベルで歪んでしまうだろう。
もちろん、責任はとる。とるつもりはあるが……。
それ以前の問題で、手を出したこと自体がマズいのだ。
「……ぐ、ぐぐ」
トースターの中身と同様に、私の脳も焦げていくようだった。恥だった。そもそもあんな行為をすべきではなかった。いわんやあんな剥き出しの情念を口走ってしまうなんて完全にどうかしていた。
やりなおしたい。昨夜の自室のドアを開けた瞬間からやりなおしたい。
抱いてしまったのはしかたない。いやしかたないどころかむしろ望外の喜びに満ち溢れてそれはもう朝も一番から飛び上がりたくなるような達成感に包まれているぐらいだが……って違う、何を考えてるんだ私は! そうじゃない、そうではなくて、抱いてしまったのはともかく、せめてもう少し上手く振舞えなかったのかという話だ!
信じられないほどの無様を晒した気がする。
それこそ思春期の乙女の盲目的な恋でさえ一発で覚めてしまうような醜態だったと呻き声をあげるしかなかった。
「ぐうう……!」
長い年月をかけて築き上げてきた私の『頼りになる大人』像なるものが一発で砕けてしまった気がする。
失望されたかもしれない、そんな苦悩を抱えて目を覚ました私には、隣で安らかな寝顔を見せる夕雲を起こすことなどできなかった。
間男のようにこそこそとベッドから脱け出して、朝食の用意を言い訳に対面を先延ばしにしている。今は阿呆のようにトースターを眺めていた。こんなことになるぐらいなら昨夜は模範的な大人の態度で彼女をきちんと帰寮させて今まで通りの上司と部下の関係を継続させていたほうがましだったかもしれない……などと考えている現状もまた自身の矮小さを証明しているようで情けない。
まったくもって支離滅裂な思考回路。私の脳みそは真っ黒に焦げてしまっているに違いなかった。
チン
パンが焼け終えてしまった……。
ちらりとトレイを確認してみる。バターはとっくに用意してある。マグカップからは淹れたてのコーヒーが湯気をたてていて、サラダもドレッシングをかけるだけ。
朝のルーティンは完了した。いよいよ彼女を起こすしかない。
しかしどうやったら昨夜の失態を取り返せるだろう?
小さく溜め息をついた。
「まあ……言い方はともかく本音だったのは確かだが……。私は確かに彼女を自分のものにしたかった。これで年齢と立場に問題さえなければよかったのだが……」
「言質取りました」
「わあっ!?」
振り向けば夕雲だった。
「おはようございます」
「おっ、んんっ、……おはよう」
夕雲は赤子のような微笑を浮かべ、
「朝食を用意してくださったんですか?」
「ああ……。悪いな、起こしたか。まだ横になっていてもいいのに」
「提督の顔、見たくって」
「そ、そうか? しかしそのシャツは……」
夕雲は私のワイシャツを羽織っていた。サイズに差があるため袖口から指先だけがちょこんと覗いている。私からはちょうど見下ろす位置に立っていて、おかげで開けた胸元からは白磁の膨らみがよく見えた。下着、つけてないな……。
「シャツお借りしています。どうです、こういうの? 世間では彼シャツって言うんですよね」
「まあ、そうらしいな。うん」
「男の人ってこういう恰好が好きだってハナシを聞きまして……ふふ、どうやら提督も同じみたいですね」
「どこで知るんだ、そういうの」
「巷には色々な雑誌がありますから」
「酒保では扱っていないだろう……ああそうか、分かったぞ。誰かが外から入手してきてみんなで回し読みしてるんだな?」
「正解です。さて、いったい誰が持ちこんだと思いますか?」
「長波……ではないか。風雲? いや、それも違うな……」
「私です」
夕雲は柔らかく目を細め、
「どうやったら提督に好きになってもらえるかなって調べてみたんです……って言ったらどうします?」
「そ、それは……なんというか、光栄だな」
くすりと零れる笑みが眩しかった。
早朝の陽の光に照らされて、天使かなにかに見えてくる。
ぼんやりと眺めながら自覚する。私はどうしようもないほどに彼女に惹かれているようだった。一線を越えてしまった今となっては自身の感情を誤魔化すことなどできない。どんなことだってしてやりたいと思ってしまう。
だが。それは私からの一方的な心情だ。気持ちだけで人間関係は上手く回らないと私は知っている。
「体は大丈夫か」
「あ、はい。少し違和感はありますけど、大したものではありません」
「それは良かった。キミは今日も休みだろう。ゆっくりしているといい」
「提督はお仕事をされるんですか?」
「流石にな。二日続けて不在というわけにもいかない」
「ん~……。少し残念ですね」
唇を尖らせたのもつかの間、すぐに目じりを細めてぽんと手を合わせる。
「でしたら執務室にお伺いしてもよろしいですか?」
「構わないが……何もせっかくの休みに職場に来ることもないだろう」
「提督と一緒に居たいですから」
「そ、そうか」
「あ、でもそうですね、私はお休みしていることになってなってますからこっそり伺います。他の娘たちにはヒミツです」
「確かにそれがいいな。キミは外泊していることになっているから」
朝から鎮守府に居るところを見つかったら「いったい何処に泊まったんだ」という話になりかねない。巻雲は慌てふためき、長波はにやけ顔で邪推するだろう。……危ないところだった。
「ふふ、大丈夫ですよ。この鎮守府は私の庭みたいなものですから。他の娘たちの予定もちゃんと把握しています」
「流石だな。よろしく頼む」
いつ頃来るかを聞いてみると夕方頃になるとのことだった。どうやら済ませておきたい用事があるらしい。
「なにか私に手伝えることはあるか?」
「お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ。針仕事なので」
「ああ……、それなら私は戦力外だ」
しかし裁縫か。夕雲の趣味だろうか。まだまだ私の知らない一面があるらしい。
部屋に戻って、ローテーブルに二人で座る。
焼けたてのパンに塗られたバターの匂いが香ばしく、カーテンを開くと水平線の少し上に太陽が浮かんでいるのがよく見えた。
「いただきます」
「いただきます」
モノトーンの部屋に光が射しこんでくる。
いつもは静かなだけの時間が、今朝は違っていた。インスタントコーヒーさえも芳しくふわりと鼻腔をくすぐるようだった。
時間をずらして部屋を出た。
朝一番に出勤する私が先で、その後に出る予定の夕雲は後。
部屋をロックするための鍵を渡すと、夕雲は少し驚いてみせた。
「お預かりしていいんですか?」
「ああ。キミに持っていてほしい」
そのときの彼女の顔といったら。ああまで嬉しそうな顔をされると逆にこちらが恥ずかしくなってしまう。
部屋を出るとき夕雲は小さく手を振った。昨晩睦み合った少女に見送られて出勤すると家庭をもったような気分になってくる。
まだ早朝の時間帯、空は澄み渡っていた。
鎮守府の敷地を歩いていると風が心地よかった。
一つ深呼吸。なんと気分が楽なのだろう。たった今生まれ落ちたばかりの人間になったように思う。新年に早起きして初日の出を眺めるような心地だった。
「夕雲、か」
彼女の存在が心の内に強く根を張ってしまっていた。手放したくない。もう昨日までのただの提督と艦娘の関係には戻れない。あの娘とずっと一緒にいるためには私はどんなことをすればいいのだろう。
執務室で業務に励む。
今日はだらだらと居残るわけにはいかない。夕方までの時間を逆算して書類を手早く片付けていく。午前中には近々に必要な決裁は終わり、午後はゆるゆると次の出張に関する計画を立てていると、少女たちの騒がしい声がドアをノックした。長波たちだった。遠征までに空き時間があるらしい。
「勝負しようぜ提督ぅ!」
どうやら将棋のリベンジマッチをしたいようだ。
対策を練ってきたのか、お供の高波・巻波とともに意気込みは充分。こちらに確認する手間も惜しんで執務机にどかりと将棋盤を置いた。
「いいよな、やろうぜ!?」
「まったく、しょうがないな」
「さっすが~、提督は話が分かるッ!」
「四枚落ちでいいか?」
「はぁ? 舐めんな! ……飛車角落ちでお願いします」
遠征まであと一時間と少しはある。ま、余裕はあるか。
パチリパチリと駒を指していく。
長波も多少は勉強してきたようでスムーズに手番が回っていく。
「そりゃっ」
真剣な面持ちの長波、小さな拳を握って盤面を見守る高波たち。微笑ましいが手は抜かない。勝負とはそういうものだ。
パチリ
「むむっ」
甘さにつけこむと長波の手は早くも鈍った。彼女も頑張ってはいるようだがまだまだ負けてやれそうにない。盤面を眺めてみれば初心者らしい緩みが見てとれた。あっちも崩せる、こっちも崩せる。少し肩の力を抜きながら手番を待った。
「……」
ちらりと時計を覗く。
この勝負が終わる頃には夕方になる。人目を忍んで夕雲がやってくる。
執務室に二人きりになるが……さて、何を話そうか。考えてみるとここ最近は仕事の話ばかりしていた気がする。プライベートのことも聞いてみようかと思うと昨日のデートの光景が浮かんだ。オススメしたCDは聞いてくれただろうか。
長波は悩みに悩んで一手を指した。
私はすぐに対応する。
パチリ
…………。
夕雲は……私を好きと言っていた。
嘘ではないだろう。そういう駆け引きはしない娘だ。
だが、私は本気で信じているわけではない。
彼女は聡いが、やはり子どもなのだ。視野はどうしても狭くなる。
そもそも艦娘が関われる男は多くない。作業員か、整備員か、はたまた警備員か、あるいは運送の者か。一番顔を合わせるのが提督だ。接触の回数が多い者に好意を抱くようになるのは心理学でも証明されている。
つまり、夕雲が私を好いているのは、あくまで鎮守府に常駐しているという環境に依るところが大きい。
もしも彼女が外部の男たちと広く交流する機会を得るようになったら私はおそらく選ばれないだろう。
パチリ
偽物の好意とまでは言わないが……錯覚に近いものであることは肝に銘じなければならない。
でも。
私は諦められそうにない。
この千載一遇の好機を逃すなど考えられなかった。
夕雲の錯覚を、そうと気付かれる前に本物にしたい。他のどんな優れた男が現れようと私から離れられなくなるような情愛を抱かせたい。
あるいは――
いっそ手っ取り早く孕ませてしまえばいいじゃないか。
内なるケダモノが囁いている。
膣内に射精してしまえばいい。組み伏せて、一番奥に押しつけて、何回も何回も種を付けるんだ。それだけであんなに良い女が自分のものになるなんて至極簡単な話じゃないか……。
パチリ
「どぉだあ!」
「……ん?」
見れば、長波の『香』が、私の『銀』と『金』を刺していた。いわゆる田楽刺しの形になっている。
しまった、盤面から意識を離しすぎた……。
とはいえ起死回生の一手というほどではない。あくまで悪あがきの部類であり大勢に影響はない。
それでも胸の奥がざわついた。
意識の隙を突かれてしまったこと、格下の子どもにドヤ顔を許していること……どうにも自分の甘さを許しがたい。
口元を手で覆い、隠して、聞こえぬよう呟いた。
潰す。
パチリ
「わっ!?」
パチリ
「ちょちょっ、待って!」
パチリ
「ぎゃあ! あたしの飛車が!」
パチリ
「うう……。これ、詰んでる? 詰んでるよね? ……負けましたぁ」
「ありがとうございました」
深々と一礼。
大人げないと知りつつもぼこぼこにしてしまった。
勝つためだけなら大駒や金・銀を片っ端から取っていく必要はなかった。
どうにも私には熱くなると相手を徹底的に追いつめる悪癖がある。せめて作戦指揮ではそのような一面を出さないよう努めているが、いっそう自省せねば。
「……ん? どうした?」
口元から手を離し、顔を上げると、高波と巻波が少し驚いた顔でこちらを覗きこんでいた。
二人は互いに目くばせして、
「へえ~、意外~」
「夕雲姉さんの言ってた通りです……」
と不思議なことを呟いた。
「なんだ一体? 私の顔がどうかしたのか?」
巻波はにひっと笑い、「べっつに~?」ととぼけながら消沈する長波を抱えて立ち上がらせた。
「うぐぐ、次は絶対負けねえからな~!」
「長波姉さま、そろそろ時間かもです。あ、司令官、遠征行ってきます!」
ぱたぱたと手を振って、来た時と同様に慌ただしく去っていった。
「……本当になんなんだ?」