疲れた。本当に疲れた。
夜は更けてきたばかり。ゆるい風が吹いていた。
こういう日はたまにある。年度末であったり、深海棲艦が大規模攻勢を仕掛けてきたときは、体力と思考力を使い果たしてゾンビのような足取りで自室に戻るのが常だった。シャワーを浴びて、栄養ドリンクを空け、他は何も食べずにベッドに倒れこみ、空腹に耐えられなくなるまで気絶する。いつもはそんな帰り道。
今日は違った。
疲れきっているのは変わらない。けれど隣には私服に着替え直した夕雲がいた。
さらさらと長髪が風になびいている。
倉庫の向こう側からはトラックのエンジン音が静かに轟いており、駆逐艦寮の方角からは時折、年頃の少女たちの甲高い声が聞こえてくる。
いつ誰と遭遇するか分かったものではないけれど……どうする気も起こらなかった。
繋いだ指がただただ温かい。
自室に2人で戻った。
シャワーを先に浴びさせ、後から入り、出てくると、エプロン姿の夕雲が夕食を作り始めていた。
狭いキッチンのなかで器用に手を動かしていくつかの料理をこなしているようだった。汁物の味見をしたかと思うと、まな板の上で何かを刻み、冷蔵庫からタッパーを出して何かを盛りつけた。手が空くと使い終えた鍋やフライパンをさっと洗う。ひとつひとつの動作に無駄がない。
メインディッシュは豚の生姜焼きだった。
香ばしい匂いに腹が鳴る。ほかほかと湯気が立つ大皿の隣には、たまねぎの味噌汁、小松菜のお浸し、だし巻き卵……他にも三品。こんなに食べきれないかもしれないと伝えると明日また食べればいいと言う。日持ちする点も考えてあるらしい。実に手慣れている。
「飲み物はどうします? お酒にしますか。お茶やジュースもありますけど」
キッチンから尋ねてくる夕雲に、ビールと答えた。
2人分のコップを並べ、テーブルを挟んで座る。
「いただきます」
生姜焼きはちょうどよい加減に甘辛く、嚙みちぎるとじんわりと旨みが広がった。ご飯と交互に食べると際限なくいけそうだ。副菜にも箸を伸ばす。どれも味が染みており、他のおかずと調和がとれている。無言で一口、二口と食べ続けていると、夕雲が穏やかにこちらを見ているのに気がついた。
「す、すまん。つい旨くてな」
「いえいえ。どんどん食べてくださいね」
自分でも不思議に思うほど箸が進んでいく。
「夕食な、カレーになるかと思っていたよ」
「それを見越して違うものにしてみました」
「嬉しいね。いや、別にカレーに飽きているわけではないんだが」
「定番メニューですからねえ」
「昔は……交代制でよく作っていたよな。キミのカレーは旨かった」
「提督のはちょっと変でしたよねぇ。インスタントコーヒーを入れたり」
「あれは隠し味として有名だろう?」
「納豆はどうかなって」
「トッピングだよ。おかしくはないだろう?」
「ん~……。私は~、そんなに嫌ってほどでもなかったですけどねぇ」
「なんだその歯切れの悪い言い方は。もしかして誰か苦手だった子がいたのか? 言ってくれればいいのに」
「そうですねぇ。ふふ」
そんなふうにしばらくの間とりとめのない話をしながら食事を続けた。
昔のこと、最近のこと。私たちのこと、巻雲たちのこと。
箸を動かし、ころころと笑う夕雲を眺めていると、料理はあっという間になくなった。
「美味しかった。その、今年一番だったと思う」
「ふふ、お粗末様です」
つい食べすぎてしまった。腹をさすっていると夕雲は汚れた食器を重ねてキッチンへと運んでいく。手伝おうと申し出るとやんわりと断られた。
蛇口が捻られる音。夕雲はエプロンの結び目を腰の後ろで揺らしながら食器を洗い始めた。
食器がこすれあう音が静かに届いてくる。
(……こういうのって、なんかいいな)
キッチンに立つ後ろ姿にどうにも惹きつけられる。
装いはシンプルなTシャツにロングのフレアスカート、けして露出が多いわけではない。なのに何気ない日常の仕草に色っぽさを感じた。いや、少し違う。いつまでも眺めていたくなるような郷愁の想いに駆られるのだ。
なぜだろう。
なぜ夕雲だとそう感じるのだろう。
例えば、あそこに立っているのが巻雲や長波なら危なっかしい子どもを見守る保護者のような気分になると思う。ならば軽巡や重巡の子ならどうだろう? 皿洗いを引き受けてくれてありがたいと思いこそすれ、ほっと肩の力が抜けるような安堵は覚えないはずだ。
夕雲だけが違う。
夕雲は、なにか、私にとって……安らぎの場所になるような……。
「……提督? 聞いてらっしゃいます?」
少しぼんやりとしてしまったようだった。
「ん、悪い、なんだ?」
「もう、困った人ですねぇ。昼間は何をされていたのかと聞いたんです」
「ああ、それは――」
大したことはしていない。いつもの仕事をこなし、遠征前の長波と将棋を指した。その程度だったが……。
「そういえば、巻波と高波が妙なことを言っていたな……。人の顔を見て意外だの何だのと。あれはなんだったんだ?」
高波は夕雲から何か言われたようなことも言っていた。それも含めて聞いてみると、妙な言葉が返ってくる。
「ずるい」
「は?」
「提督、もしかして長波さんに本気をだしました?」
「どうだったかな。少し油断してしまったところはあったが……」
「う~ん。でしたら巻波さんたちがそんなこと言うはずないんですけど」
「なんだなんだ、わけが分からないぞ」
きゅ、と蛇口の水が止められる。
夕雲は手を拭きながら不敵に微笑んだ。
「でしたら私と一戦、指しません?」
勝てば教える、と夕雲は言った。
「負けたら?」
「一生教えてあげません」
「ほう、一生ときたか」
だったら絶対に負けられない。まあ始めから負けるつもりはないのだが。
「キミと指すのは半月ぶりか」
「そうですね。あの時は飛車落ちでした」
ぱちぱちと盤面に駒を並べていく。
私も夕雲も手慣れたものですぐさま形が整った。
「さて、ハンデはどうする?」
思い返せば、着任してから夕雲とは何度も指してきた。負かすたびに頬を膨らませていたけれどめげずに腕をあげ続けている。現状この鎮守府のなかでは二番目に――つまり私の次に強いだろう。
飛車落ちでも油断すれば負けてしまう。
なのに今回、夕雲はハンデに飛車角落ちを指定してきた。……正直、彼女相手に二枚落ちで組み合うのは相当厳しいのだが。
「なんだ、勝負じゃないのか?」
「すいませんが今回は敢えての飛車角落ちでお願いします」
「キミがそう言うなら何か理由があるんだろうが……」
腑に落ちなかったが、勝ちたいがために不当なハンデを押しつけてくるような女ではない。受け入れた。
「しかしこうなるともう一つ褒美が欲しいものだな」
「ご褒美、ですか?」
「ああ、今のままでは割に合わない」
「でしたら権利を差し上げます。なんでも一つ言うことを聞く権利……定番でしょう?」
「何の定番かは知らないが……負けた後に取り消しはきかないぞ」
夕雲はこともなげに頷いた。
なんでも、か。
大きく出たな……。
思わぬ報酬に喜ぶ気持ちがないわけではない。しかし人の力量を見切ったような物言いに、大人げないと知りつつも憤りのほうを強く覚えてしまう。
舐められているな……。
なんでも言うことを聞くなどそう軽々しく言えるものではない。例え私が好意を抱く相手であろうとも、まず勝てると思っていなければそんな言葉が出てくるはずがなかった。つまり彼女は、飛車と角を持たない私なら下したも同然と思っている。
見縊られている。今まで一度も負けたことのない相手から。
この手の思い違いを……私はどうにもやり過ごすことができない。
「お願いします」
「お願いします」
私はいつも攻め潰すつもりで指している。
無論、守りはする。しかし受けに回るという気持ちは微塵もない。全ては終盤に畳みかけるための迂回路であり受け流し、そういうイメージで指している。疑いようのない勝利に向けて一手、一手と追いつめていくのだ。常に前進。イメージとしては機関銃に弾を詰める行為に近い。相手は銃撃から身を隠すためにバリケードを作ったり次の壁を作るための素材を探そうとする。私は構わず弾を詰めていく。詰めて詰めて火力を増して、どこに隠れようと諸共粉砕できるだけの量になるまで詰め続ける。
今回も変えるつもりはない。
攻め潰すつもりで指していく。
まず前提として、夕雲は強い。二枚落ちは厳しい。だから弾ごめに時間がかかる。その覚悟をもってじっくりと装填していった。一発ずつ、一発ずつ、先は見えず、どれだけかかるか分からない。それでも一発、一発。まだか、まだ撃てないのか。焦りを抑え、それでもまだ一発、一発と装填し続けた。ひたすら弾をこめていく。小屋に逃げこまれれば木壁ごと貫けるだけの弾をこめ続け、城に逃げられれば石の壁ごと破壊できるだけの弾をこめ続けた。私のほうも被弾はしたが問題ない。弾をこめ、引き金を引く指さえあればいい。最後は山に追いつめた。ついには岩盤と地層ごと吹き飛ばせるだけの弾量を得たと確信した。
潰し尽くしてやる。
片膝を立て、前のめりになる。思わず歪んでしまう口元を隠すため左手で覆った。ぎゅううと駒が擦れる音。挟み持つ右手の指に渾身の力をこめていた。
将棋はこの瞬間がたまらない。
バチン
バチン
バチン
バチン
早指しで機関銃を撃ち放す。遮る防壁を消し飛ばし、手を削って足も抉り、倒れた背中に銃口を突きつけて、いよいよ王手の一撃を叩きつける――!
そっ、と。温かな指に触れられた。
口元を覆い隠していた私の左手に、細く綺麗な女の指が触れていた。
「そのお顔、」
囁きが耳に滑りこむ。
「私に見せてくださいませんか」
なんだ……この指は……?
動けなかった。
勝負の世界から無理やり引き戻された私の意識は、ただただ狼狽えるだけ。
呼吸の仕方をどうにか思い出しながら、恐る恐る正面を伺ってみれば、将棋盤越しに夕雲の腕が伸びていた。
「大丈夫、大丈夫ですから」
なにが……?
何が大丈夫なんだ……?
夕雲はいったい何を言おうとしている?
私は悪戯が見つかった子どものように無力だった。
夕雲は私に触れている。私の口元を隠す左手に。大人げもなく勝負ごとに熱をあげ、敵を蹂躙する喜びを拙く隠そうとしているこの左手に。
夕雲は、私の何処に触れようとしているのだろう。
もしや。もしかすると、彼女はとっくに私の本性に――
突如、部屋に警報が鳴り響く。
耳障りな高音が空気を震わせ続けている。
敵襲の合図だった。
「深海棲艦……ですね」
「ああ」
「残念。もっとお話ししたかったのに」
「ああ」
思わずスピーカーを睨みつけてしまう。
最悪のタイミングだった。せめて明日にしてくれと見当違いの恨みさえ抱いてしまう。何故って、ほら、もう熱が引いている。頭が冷徹な司令官の思考に切り替わっている。もはや彼女との心地良い時間など楽しめない。
神経が勝手に研ぎ澄まされていく。
「夕雲」
「はい」
「仕事の時間だ」
急かされるように立ち上がる。
すでに将棋の決着など遠い彼方の話だった。遊びではない本物の勝負が始まる。
戦争だ。
生きるか死ぬか。殺すか殺されるか。
待ちに待った本番の時がきた。勝利への算段は既についている。深海の連中は奇襲したと思っているだろうが真実は違う。奇襲させたのだ。そうなるように何ヵ月も前から小競り合いで誘導し続けた。そして連中は来た。準備万端で待ち構えているとも知らずに。あとは詰めろをかけるだけ。
勝てる、勝てるのだ。
腹の底がぐつぐつと煮えたぎってくる。
思わず歪んでしまう口元を隠そうとして、やめた。ぎゅううと拳が握りしめられる音。両手に渾身の力をこめていた。
戦争はこの瞬間がたまらない。
「ああ、そのお顔……久しぶりに、見ました」
さあ開戦だ。
本物の敵を攻め潰すのだ。