間違いなくカミキを追い詰めているという自信があった。
事務所から姿を消したという連絡が入った時、一つの覚悟があった。
奴が誰を狙うのか。
ルビーとあかねには警察の護衛を付けている。
有馬にもMEMにも、ミヤコさんにも勿論。
不知火フリルや寿みなみにも警護を依頼した。
世間が奴を知り、奴のサイコっぷりを知った以上、身動きは取れないだろう。
時に、決定的な証拠を突きつけるよりも、嫌悪と怒りの種を植え付けることの方が効果的なことがある。
恋愛リアリティショーにおいて、ネットの向こうにいる匿名の人々があかねを性悪な悪女としてよってたかってリンチしていたように、提示した物語を勝手に膨らませて、カミキヒカルを一人の邪悪な人間から、弾圧され退治されるべき醜い怪物とするようにし向けた。
あいつへの同情や共感もあるだろう。自分をサイコパスと思いたがるような、自分に異常性、特別性を付けたがる類の人間が奴を憧れの対象とするかもしれない。
しかし、それは生け贄に捧げられた者達が取るに足らない存在ではなく、悲しくも才能と美しさに満ち溢れた者として描かれる瞬間に物語の主人公はあくまでも彼女達であって、それを散らそうとする者はただの惨めで醜い者でしかなくなる。
物語の主役は異なる。
特別性に憧れる類の人間は、主役である自分を夢想するのであって、くだらなく醜い存在に身を堕したいわけではない。
故に、カミキは共感を得ることもなく、ただ侮蔑の対象となる。
自分の命に価値を付加することにしか興味の無い男が、世界からくだらない存在だと思われるのだ。
才能も美貌も兼ね備えているはずの自分が、取るに足らない不特定多数に見下されるのだ。
我慢ならないだろう。
許せないだろう。
目障りだろう。
そうして、俺を狙うだろう。
俺はカミキを待ちかまえるつもりだった。
道連れにしてやるつもりだった。
それなのに。
『3日前から行方不明となっていた、神木プロダクションの代表取締役カミキヒカルさん(33)が○○市の路上で倒れているのが見つかり、その後搬送先の病院で死亡が確認されました。カミキさんは腹部など数カ所を刃物のような物で刺されており、警察は殺人事件の可能性で ──── 』
頭が真っ白になった。
警察は当初怨恨の線で捜査をしていたが、程なくカミキを殺害したのは、付近に住むホームレスの男であったということが明らかになった。
逮捕された男は「お金を持っていそうだと思った。お酒を買うお金が欲しかった」と容疑を認めたらしい。
カミキのことなど知りもしない男だったらしい。
怨恨ですらなく、あいつのことを欠片も知らない男に、その日の酒代目的で殺されたのだ。
汚い路地裏で、夜中に、一人で、惨めに、無様に。
あいつの言葉を借りれば「軽い命」として散っていったのだ。
傑作なのは、カードしか持っていなかったから、結局カミキを殺した男は酒代を得ることが出来ず、その足でコンビニに向かったらしい。
万引きで逮捕をされた際の男の不審な様子から、カミキの殺人にたどり着いたというのだから笑える話だ。
なんてつまらない、なんてくだらない、なんてありきたりなオチだ。
「アイツの命は、ワンカップの安酒にもならなかったわけだ」
笑いがこみ上げた。
こんなに笑ったのはいつぶりだろうか。
腹を抱えて笑った。
バランスを崩してソファーから転げ落ちても笑っていた。
笑いが止まらなかった。
笑いすぎて涙が出た。
ルビーは泣きそうな顔で俺を見ていた。
どうした?
もっと嬉しそうにしろよ。
そう言うと、ルビーは顔を背けて出て行ってしまった。
カミキの葬儀の参列者は物凄い人だかりだった。
結局、警察が動いている最中の死亡事件。
限りなく黒でありながら、カミキからの有力な証言の無いまま奴は死んだ。
俺の知らないところで、俺の知らない奴に、呆気なく。
なるほど、どんな天才でも刺されればおだぶつとはこういうことか。
アイツは狂った男ではあったが、ただの人間。
刺されれば死ぬし、死ねば病院で死亡診断書が作られ、役所で死亡手続きを経て葬儀、そして火葬場に運ばれる。
なんて呆気ないのだろう。
マスコミの姿も無い、火葬場から少し離れた丘の上で鉛色の空を見上げる。
どす黒く、陰気な空に向けて立ち上る白く細い煙を見上げながら、当たり前のことに今更気づく。
アイツは悪魔でも怪物でもなく、ただの人間。
刺されて死ぬし、焼かれれば灰になる。
その当たり前のことが死ぬほどおかしくて、少し腹立たしく、途方もないほど空しかった。
「星野…アクアさん…ですよね?」
「あなたは?」
折れてしまいそうな程華奢な身体に喪服を纏った女は、口元をひきつらせ、赤く泣き腫らした目元を微かに緩めていた。
それが、女の笑顔なのだと気づくのに少し間を要した。
それほどに痛々しさを放っていたからだ。
枯れ木のような、今にも折れて崩れそうな気配を纏った女には見覚えがあった。
葬儀の際、カミキの棺にすがりついて泣いていた女だ。
周囲の人間の誰もが、アイツを近年稀に見る凶悪な犯罪者であり、おぞましい狂人として侮蔑している最中、一人だけ心から慟哭し、恥も外聞無くすがりついていた。
その凄まじい激情に俺は圧倒すらされていた。
周囲からシラケた目を向けられて、嘲笑されても構わずに悲しみを露わにする姿に。
同時に、俺には衝撃だった。あんな男にもこんなに泣いてくれる人がいたことに。
憔悴しきった顔。
自分の心の一部を、或いは殆どをもがれた人間の持つ喪失感を漂わせ、感情のすべて涙と共に出し尽くしてしまったような虚脱感と虚無感に疲弊しきった人間の表情に、自分のなかの雨宮吾郎が顔をしかめる。
雨宮吾郎だった頃によく目にした顔だからだ。
星野アクアになってから久しく見ていなかった顔だからだ。
女はぺこりと頭を下げた。
「映画、拝見しました」
「それはどうも」
「とてもよくできた映画だったと思います。あの人が、あれほど感情を動かされるのを、私初めて見ましたから」
小さく女が笑う。ひきつったような笑み。
無理矢理笑おうとして、失敗したような、不細工な笑顔から目をそらしたくなる。
「随分…お恨みだったんでしょうね」
「ええ、母の仇ですから」
隠す必要の無い悪意を、そのままぶつけてしまう。
女は当事者ではないというのに、なんてみっともないと心の中で吐き捨てる。
女は悲しそうに目を伏せる。
「当然だと思います。お母様…アイさんとのこと、カミキからは殆ど聞いたことはありませんでしたけれど、きっとアレが事実なんでしょうね」
「俺からは何も。あの映画で描かれたことが、俺の伝えたかった全てです」
「ふふふ、ズルい言い方」
地味な女。それが第一印象だった。
喪服だから、泣き尽くして化粧が落ちてしまったから、そんな理由を差し引かなくとも地味な女という印象は拭えなかった。
顔立ちは綺麗だ。化粧をして身なりを整えれば、十分に美人だと言えるだろう。
だが、それだけだ。
アイのように目を奪われるような輝きも無ければ、片寄ゆらのように夢を走る漲るような熱量も無い、普通に美人の部類に入るだろう女。
この女は一体なんなんだろうか。
俺の疑問に気づいたように、女が笑った。
「カミキの妻です」
「は?」
「内縁ですけれど」
「……」
「意外ですか?そうですよね。私みたいなつまらない女が」
立ち上る煙を焦がれるように見つめる。
「お子さんは?」
「いませんよ?どうしました、残念そうな顔をしてますよ?」
「そんな顔をしたつもりは無いんですけどね」
「あら、だとしたら、気を付けた方がいいですよ。とってもわかりやすいですから」
ひきつった笑みを浮かべる女が懐かしむように俺を見る。
「本当に…こう言われると貴方は怒るのでしょうけど、カミキにそっくりですね」
「それはもっとも不愉快な評価ですね」
「そうでしょうね。でも、許してください。夫に先立たれた女のつまらない戯言だと思って」
言葉とは裏腹に、欠片も謝意の無い声に、怒りは沸かなかった。
憎い相手の伴侶であれば、それもまた憎いと思える程俺の感情は苛烈に出来ていないらしい。
「ずっと、電話が鳴り止まないんです」
「そうでしょうね」
「マスコミの方達も事務所だけじゃなくて、家の周りにもたくさんみえてて」
「当然でしょうね」
「満足ですか?」
「そこそこには」
「そこそこ…」
「俺の手で下せませんでしたから」
「まぁ」
「憎みますか?」
「いいえ。私は部外者…ですから」
部外者、と呟いた言葉は女の吐いたどの言葉よりも悲しげに震えていた。
「それに、私が貴方を憎むと言ったとしても、それで何が変わりますか。
何も出来ない。私には貴方のような力はない。
それに、私が貴方を憎んでも、誰も賛同してくれないでしょう。
それどころか、凶悪犯の妻として私が吊し上げを受けるだけでしょう。
貴方がカミキをそうやって裁いたみたいに」
女の言葉が霧のようにまとわりつく。
静かに、少しずつ女の持つ負の感情が肌に染み込んでいく気がした。
「謝りませんよ。アイツはアイを殺した。そして、あかねを殺そうと」
それに、遅からずルビーにも手を伸ばしていたはずだ。
許せるはずがない。
「あかねさん…?ああ…お付き合いされてたんですね。復縁なさったんですか。おめでとうございます」
復縁をした訳じゃない。
俺が一方的に手酷く捨てて、未練がましく一方的に大切に思っているだけだ。
「貴方の憎しみはきっと正しいんでしょうね…わかりますよ。カミキに似てるけれど、カミキとは正反対。
きっと優しいんでしょうね。人の為に心を痛めて、動ける人なんでしょうね」
そっと、女の冷たい指先が頬を撫でる。
かさついた指先は、墓の下から出てきた亡者を連想する。
僅かに後ずさる。
女が初めて、自然な笑みを浮かべた。
「ほら、今も私なんかのために心を痛めてる。カミキならきっと何とも思わなかったでしょうね」
「アンタは…なぜ…」
「なぜなんでしょうね。きっとつまらない女だと思っていたのでしょうね。彼がなぜ私を側に置いていたのかは、私にはわかりません」
両頬を包まれ、一歩後ずさると背中に木の幹がぶつかった。
「良かったねと周りは言うんです。お友達も親もみんな。
彼の側にいて殺されなくて良かったねって。笑ってしまいますね。
だって、それは彼にとってその程度だったってことですもの。
私の命は彼に重みを与えられなかった…それでもね」
ねっとりとした目が、女の吐く吐息が身体を緩やかに纏わりつく。
「いつかは私を殺してくれると思っていたんです。
でも、無理ですね。
彼が殺されたからじゃない。
あの映画を見てわかっちゃったんです。
彼は決して私を殺しはしないって。
あの映画が私に教えたんです。
貴方が私に突きつけたんですよ?」
ぬるりとした感触が唇を覆った。
女のかさついた唇が、冷えた蛞蝓のような舌が唇をなぞった。
おぞましさと不快感に肌が粟立つ。
ようやく金縛りが解けるように、女を振り払う。
痩せこけた女はその勢いでよろめき、崩れ落ちる。
「あっ」
思わず伸ばそうとした手を、女が手で制する。
ゆるやかな拒絶。
女は満足したように笑みを浮かべて見上げてくる女の目は、どろりとしたタールのように濁っていた。
「復讐おめでとうございます。
でも、残念でしたね。
彼を殺せなくて。
あら、違うのかしら。
残念だったのは、殺されなかったから…ですか?」
「 ──── ッ」
心臓が早鐘のように鼓動を打つ。
冷たい汗が背中を滑り落ちる。
そんな俺を見て、くすくすと笑うと女はゆらりと立ち上がる。
死体から魂が幽霊となるとしたら、こんなふうに立ち上がるのだろう。
重さの感じられない、痩せこけた女が丘を降りるべく背を向ける。
後ろ姿を見ると、喪服の黒いラインが一層女の華奢さを浮き彫りにする。
「星野アクアさん…貴方を恨みます」
その翌日、カミキの内縁の妻が自殺をしたというニュースが流れた。
自宅のカミキの書斎で首を吊っていたそうだ。
お腹にはカミキの子供がいたらしい。
俺のせいで、あの人とその赤子が死んだ。
俺があの母子を殺した。
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私は雨の中を走っていた。
生ぬるいシャワーのような雨が降りしきるなか、私は何度も顔を拭う。
レインコートを着てるけれども顔を打つ雨は防ぎようも無い。
雨なのか汗なのかわからないものを何度も拭って走る。
『アクアが帰ってこないの!!』
酷く動揺したルビーの電話を受けたのが2時間前。
アクたんが足を運ぶ場所に心当たりなんて無い。
ルビーはよく陰キャだと言っていたけど、アクたんはオフでも外に出かけていることが多い。あかねと付き合っていた頃はデートに行っていたりもしたけれど、アクたんは単独行動も多い人だ。
今ならわかる。
きっと、アクたんは復讐のために行動していたのだろう。
人と会ってコネクションを作ったり、相手を調べたり。
秘密主義のアクたんの行きつけなんて何も知らないけれど、私はとりあえずアクたんと行ったことのある店を手当たり次第に行く。
27歳の太股は2時間にわたる全力疾走に悲鳴を上げているけれど、それでも走り続けられるのはアイドル活動のたまものだ。
アイドルをやってなかったらとっくに倒れてる。
じゃあ、アクたんをこうやって探せているのは、アクたんのおかげかな?
アクたんが手を差し伸べてくれたから、私のアイドルの夢が叶ったんだもん。
死んでないけど生きてもいなかった私の夢。
死んだように眠り続けていたアイドルとしてのMEMの目を覚ましてくれたのはアクたんのおかげなんだ。
身体を濡らす雨が、体温で白い湯気を立てる頃、
口から肺が飛び出そうな程酸素を求めてあえいでいる私の目の前にアクたんがいた。
少し派手めの化粧をした女の人にホテルに引っ張られている瞬間だった。
アクたんは私に気づいたのか、ぼんやりとした顔で女の人と私の顔を見比べる。
微かに頬が赤い。
女の纏う空気と、ねっとりとしたアクたんをなめ回すように見つめる目、ガールズバーでアルバイトをしている時に散々目にした光景。
違ってるのは性別くらいか。
お酒を飲ませてホテルに連れ込むエロオヤジと変わらない。
瞬間、私の頭がカッと熱くなる。
「その子、私のだから!!離して!!!」
雨でぐしゃっぐしゃの、レインコートを着て、息を荒げた女が叫ぶのは、余程恐ろしかったのだろう。
女が思わずアクたんの手を離すや否や、私はすぐにアクたんの手を引っ張って走り出した。
タクシーを呼んですぐに飛び乗る。
ここがどこで、私の家までどれだけかかるかわからない。
けれど知ったことか。
足りなきゃアクたんに払ってもらおう。
家に着くまでの間、アクたんは一言も喋らなかった。
握ったアクたんの手が微かに震えているのに気づいて、そっと握り締める。
握り返してこない、されるがままの手の感触に涙が溢れそうになった。