雨と汗でぐちゃぐちゃだった私は、温まるのもそこそこに浴室を飛び出ると、足早にリビングに駆け込む。
ソファには腰掛けずにフローリングに腰を下ろしているアクたんを見て、密かに安堵のため息を吐く。
ソファが濡れることを気にしてるのが、こんな時でもアクたんらしい。
もしかしてシャワーを浴びている間に姿を消すんじゃないかという不安が汗を流している間ずっと頭のなかにまとわりついて離れなかった。
彼は頭からタオルを被りながら手の中のマグカップから立ち上る湯気を眺めている。
「アクたん…お風呂空いたよ」
「ん…」
こくんと、頷く仕草が小さな子供みたい。
一向に動こうとしないアクたんの手を引いてやると、予想以上に抵抗も無く立ち上がる。
手に感じた重さが、弟基準の私には全然軽くて、まじまじと見ると記憶よりもいくらか痩せていることを実感する。
「ほら、風邪引いちゃうから」
「うん」
むずがる子を引っ張っていくように、浴室に連れていくと、着替えとタオルを使うように伝える。
アクたんの「ごめん」という呟きに力が無くて、私はそわそわとしてしまう。
アクたんは意識してないんだろうけど、普段年不相応な落ち着きと大人びた物腰の彼が如何に弱り切っているのかを物語っている気がした。
シャワーの音がするのを耳にしながら、アクたんから受け取った飲み残しに視線を落とす。
カップの中身は殆ど減っていなかった。
捨てるのも勿体ないなと、まだ湯気を放っているコーヒーを一息に飲み干すと、もう一度彼の為にコーヒーの準備をする。
何か食べるものがあっただろうかと思い返す。
炊飯器には炊き立てのご飯が手付かずで残っていた。
ふわっと炊き立てのお米の匂いに空腹が刺激されたのか、くぅとお腹が鳴った。そういえば、夕食を食べる前にアクたんを探しに出かけたんだと、ようやく思い出す。
他に何かあったっけ。
常備薬にしてる煮浸しとか、明日の朝食用にと作っておいたポテトサラダ。
お母さんが送ってくれた漬け物もある。
あかねとユキが遊びに来たときに作ったケーキがまだ残っていた。
アクたんが禄に食べていない気がするから、お腹に少しでもたまるものの方がいいだろう。
食べなかったらそのときはそのときだと、ぱかりと炊飯器を空けると、ご飯をボウルによそう。
余ったら明日のお弁当にすればいいやと、思い切って全部おにぎりにしていく。
いったん電気ケトルのスイッチを切ると水を注ぎ足す。
本当はちゃんとしたお味噌汁を作りたいけど、今は時短優先、それに最近のやつはおいしいからと自分に小さな言い訳をする。
冷凍していた刻んだネギとおあげも取り出す。
おにぎりを手早く作り終えたところでようやく放置していたスマホを開く。
「おっと…」
思わず呻いてしまう。
51件の未読メッセージ。
ルビーから25件
ミヤコさんから3件
かなちゃんから15件
そしてあかねからは8件メッセージがきていた
ただし、あかねのメッセージは一つ一つが長文だ。
未読の通知数にちょっと引いたけれど、これがイコールアクたんへの心配を表しているようで、少し救われた気持ちにもなる。
アクたんを見つけたこと、雨が酷いからうちで雨宿りさせてから帰すことをミヤコさんに連絡をしたらこれだ。
ミヤコさんからのメッセージは3件。
ひたすらアクたんの安否を気にするもの
それから私に対してスキャンダルへの注意を促すもの
そして、私が払ったタクシー代は後で請求するようにという雇用主らしいもの
どれもが、文面からアクたんを心配する気持ちが伝わってくる。
本当にミヤコさんはアクたんのお母さんなのだと実感する。
ルビー、かなちゃん、あかねのメッセージはミヤコさんと同じく、アクたんを心配するものであったけれど、ミヤコさんよりも遙かに動転していることが端々に滲んでいた。
あかねが打ち間違いをするなんて珍しい。
あと、私の家で雨宿りをさせることに、3人とも妙に引っかかっているようだ。まぁ、気持ちはわかるけど。
こんな時間に男と部屋に二人きりなんて何を考えているのかと、かなちゃんが言ってるのはさすがにブーメランが過ぎると思った。かなちゃんの傷口に塩を塗り込むことになるから言わないけれど。
これはアクたんが女の人にホテルに連れ込まれそうになっていたことは伏せた方が良さそうだ。
沸いたお湯にインスタントの味噌汁を作って、漬け物を小皿に乗せる。
ついでにレンジで温めた煮物も皿に盛っているとアクたんがぺたぺたと足音を立ててお風呂から出てきた。
「MEM…ありがとう。服まで」
「ちゃんと温まった?アクたんの服乾燥機にかけてるからね」
たまに泊まりにくる弟の着替えがあって良かった。
弟よりも背の高いアクたんだけれど、弟よりも細身だからサイズの心配は無用だったようだ。シャツにハーフパンツというなかなか見ないアクたんのラフな格好は新鮮で、ちょっと得した気になる。
「MEM、それって」
「食べよ。お皿乗せるの手伝って。はい、これお味噌汁。熱いから注意してね」
「あ、ああ」
少し強引にお椀を押しつける。遠慮の言葉も謝罪も封じてしまおう。
まずはご飯を食べないと。
私の気持ちを察したのか、大人しく配膳していくアクたんに、昔遊んでる弟達を叱って、お手伝いをさせた頃を思い出して、ちょっと楽しくなる。
「いただきます!」
「…」
「アクたん、ほら」
「…いただきます」
「よくできました」
お味噌汁を一口飲むと、身体の強ばりみたいなものがほろっと解けた気がする。
やっぱり日本人はお味噌汁だねぇなんて思っちゃう。
ちろりとアクたんを見てみると、初めて見る食べ物におっかなびっくりする猫みたいになっている。
『あいつ、最近ご飯ちゃんと食べてないみたいなの』
かなちゃんがそう言ってたのは先週のことだ。
アクたんに話しかけようとして、収録後に追いかけていったら、トイレからぐったりした顔で出てくるアクたんを見たらしい。
口元を拭って、胸のあたりを押さえていたから、多分吐いていたんじゃないかというのがかなちゃんの想像。
ルビーも朝ご飯を一緒に食べることがめっきり減ったというグチを聞いてる。一時は絶望的に仲に亀裂が入っていた二人は、あの映画の撮影を終える頃にはすっかり仲良しに戻っていたのだけど、思い返せばあの頃から、アクたんは禄に食べていなかったとルビーは泣きそうな顔で言っていた。
仲違いをしていた頃は意識的に避けて、気にかけもしなかったせいでお兄ちゃんの異変に気付けなかったことをルビーは深く悔やんでる。
事情を知ると、ルビーの怒りもアクたんの辛さも理解が出来るだけに、私にはそれでアクたんを避けてしまったルビーを責める気持ちなんて全くない。もしルビーやアクたんにとやかく言う奴がいたら助走を付けてブン殴ってやる。
だから、私は半ばダメもとでご飯を出した。
全部食べてとは言わない。
食欲が無いのは仕方がない。
でも、せめて一口でも良いから食べて欲しかった。
少なくとも、アクたんは今のままで良いはずがない。
それとなくアクたんを盗み見ながら、心の中で祈る。
「…温かい」
一口、おにぎりを頬張ったアクたんが目を丸くしていた。
それだけで、私は胸をなで下ろす。
少しずつ、アクたんは食べるという行為そのものを思い出すように、食べ進めた。
お母さんのお手製の漬け物を食べた時は一際、蒼玉の瞳を輝かせた時は得意気になった。
「お母さんの手作りの漬け物なんだよ。美味しいでしょ」
「手作り…お母さん…」
アクたんはかじったキュウリをまじまじと見つめる。
お母さんに思いを馳せてるのかな。アクたんのお母さんって ────
「アイは漬け物作らなかったな」
ぽりっとキュウリを噛む音がした。
「あんまり想像出来ないね。ぬかどこ臭いアイとか」
「それもあるけど。多分、ピンと来てなかったんじゃないかな」
思い出すようにアクたんは目を細める。
遠い景色にある、目をこらさなけれえば見えない程小さなものを必死で見るように。
4歳の頃に死んだアイ。
4歳までの記憶なんて、どれだけ残ってるのだろう。
仮に全てを、生まれた瞬間からの記憶が残ってるとしてもたった四年しかない記憶。
「アイは白米が好きじゃなかったんだ」
味がというよりも、噛みしめた時に異物が入っている恐怖から、食べることそのものに拒否感がある。
「好きじゃないから、特にご飯に合うものを作るなんて考えも無かった」
アイの受けていた虐待や、苛烈な環境は私も知っている。
同じ立場なら私だって、つい怖くなってしまっただろう。噛みしめた白米にガラス片が入ってるなんて想像だにしたくない。
「料理は出来ないことも無かった…」
「特別好きだとか得意ってわけじゃなくて」
「そうするのが母親だと、思ってるみたいだった」
おにぎりを噛みしめるように、一口一口食べながら、アクたんは自分の中から言葉を拾い集めるようにぽつりぽつりと話す。
「アイはよくできた母親じゃなかった。それでもルビーは母親だと思ってた」
堪えるように、アクたんが口をへの字に歪める。
「少なくとも、頑張って母親になろうとしていた。好ましく思えるくらい」
「まるでアクたんは母親だと思ってないみたいだねぇ」
味の染みた油揚げと鶏肉を租借する。
アクたんは虚を突かれたみたいに私を見ていたけど、気付かないフリをする。
「…そうか、そうだな。俺にとってアイは…何だろうな」
少なくともと、前置きをして小さく彼は笑った。
「こういう味と紐付いて記憶してるような、母親じゃなかったんだろうな」
決定的な一言だけは辛うじて飲み込むような、はっきりしない物言いだと思った。
「お袋の味っていうんだろ」
「お母さん料理得意なんだ。お母さんやりくり上手だったんだよ」
「MEMもだろ」
「この煮物だって、お母さん直伝だもん」
「いいお母さんなんだろうな」
どうして、そんなに羨むような声で言うの?
私は理解する。
アイはアクたんにとってとても大切な人。
だけど、アイはアクたんにとって決してお母さんではないんだ。
じゃあアクたんにとってお母さんって何なの?
そう問いかけるのを私は止めた。
きっとそれを問うべきは私じゃないし、その答えを今のアクたんが見つける必要はないだろう。
そのかわり、私は取り留めもない話を投げかける。
忙しすぎて実家に犬を預けていること。
久しぶりに会いに行ったら、お母さんにベッタリになってて、私を見ても「どちらさんで?」みたいな顔をされたこと。
歌の収録前だっていうのにルビーが余ったロケ弁まで食べて、ダンスの途中で吐きそうな顔になったこと。
食べた分がお肉にならないけれど、胸にも行かないことが最近のルビーの悩みだっていうこと。
女癖の悪い俳優と共演したあかねが、案の定声をかけられたのだけれど、ゴミを見るような目であかねに睨まれて撃沈したこと。
かなちゃんが迂闊な行動でうっかり炎上しかけるものの、メルト君だったから難を逃れたこと。
少しずつ、アクたんの表情がやわらかくなってきていることに、私の中の不安が和らぐ。
明日のお弁当に回すことも想定していたおにぎりはいつの間にか殆どアクたんのお腹の中に収まっていた。
男の子の食欲を侮ってたつもりは無かったけれど、最近のアクたんを知ってるだけに、こんなにちゃんと食べてくれたのが意外だった。勿論、良い意味で。
そういえば、あかねが言ってたっけ。アクたんって意外と健啖家だって。
食後のコーヒーを淹れると、アクたんは一瞬言いよどむ仕草をする。
私は視線を一度だけ寄越す。
話して欲しいけれど、話せとは言わない。
聞きたいけれど、聞かせてとは言えない。
心配をかけたのだから知りたいけれど、心配をかけたのだから教えろとは言いたくない。
アクたんの背負ってる苦しみを、吐き出すことでアクたんが楽になれるのならば吐き出して欲しい。
まだ口に出来ないっていうなら、口に出来るまで待ちたい。
ただ、絶対に抱え込むことだけはしないで欲しい。
私の訴えがどれほど目に宿っていたのかはわからない。
だけど、アクたんは珈琲をゆっくりとすすると、深く息を吐いた。
凍り付いていた舌を珈琲の熱で溶かしているように、ゆっくりと珈琲を飲み終える。
私はポッドから空になったカップに二杯目を注ぐ。
「サンキュ」
アクたんが短く呟いた。
何となくだけど、それが合図に思えた。
何だそれ。
アクたんの話を聞いていくうちに思ったのは怒りだった。
アクたんは事実だけを口にしていく。
淡々とした語り口が私には無性に悲しかった。
血を流してるのに、痛いのだとわからない子供のようだった。
アクたんは元々歪な子だった。
ルビーみたいに自分の歪さを隠そうとしている子とは違う。
かなちゃんみたいに自分が歪になってしまったことを自嘲している子とも違う。
痛い時に痛いと泣いて良いのだと教えて貰えなかった子供の歪さとは違う。
痛いと泣いても誰にも聞いてもらえずに泣くことを諦めた子供の歪さでもない。
それは、痛みを知らない子供の歪さだ。
それは、痛みを痛みだと覚えておくことを許されなかった子供の歪さだ。
人の歪さは理解できて受け止めることは出来るのに。
人の痛みには寄り添ってあげることが出来るのに。
自分が誰よりも歪で傷んでいることに気付いていない。
「もっとあったのかもしれない。他のやり方が」
「きっとあったはずだ。俺が復讐のやり方に拘らなければ」
「周囲を頼っていれば、少なくとも母子共々死んでしまうなんてことなかったはずなんだ」
「子供が産まれていれば、きっと彼女も生き方が変わったはずだ」
「だって、母親なんだぞ」
「そうだ、母親なんだ」
「子供が生まれれば、もっと未来を見ることだって」
「俺のちっぽけな拘りが、それを奪った」
「俺が」
「俺が殺したようなものだ」
「恨んでくれるのは構わなかった」
口の中にある違和感、飲み込めない小石を吐き出すように、ぽつりぽつりとこぼした彼の言葉が私には痛々しく響く。
それは小石なんかじゃない。
鋭く尖った破片だ。
口の中にあるだけで舌を抉って、飲み込めば喉を切り裂く。
私はニュースでしか知らない。
カミキヒカルの妻だったという女の人を。
あんな異常者が内縁とはいえ一人の女を妻にしていることに驚いた。
だけど、話を聞けばお似合いの二人だと吐き気すら覚える。
自分の命の重さにしか興味が無い男と、その男にとって価値ある存在であることのみにしか興味が無かった女。
カミキヒカルはきっと女が身ごもっていたことを知っていても興味なんて抱かなかっただろう。
女は自分の中に宿った命にすら価値を見出してなかったんだろう。
だって、お腹の中に子を宿した女が、容易く命を絶ってしまえるのだろうか。
アクたんに呪いの言葉を吐き出した翌日に。
「ねぇ、アクたん」
アクたんの話で私は一つ気になっていた。
確かめたかった。
「どうして、子供がいないって嘘を吐かれて、残念そうだって言われたんだろうね」
私だったら、むしろ少しホッとしていただろう。
命に罪はない。
あっちゃいけない。
生まれたこと自体が罪だなんて許されるはずがない。
だけど、私達のいるこの社会は、この世界は、そう嘯きながら、平気な顔でレッテルを貼る。
──── 犯罪者の子ども ────
その子自身に咎は無いのに、その罪は何処までもその子を追いかけて、その子を苦しめるし、殺してしまうことだってある、
父親が近年稀に見る凶悪な犯罪者だというレッテルを背負って生まれてくる子供がいないことに私は安堵すらしていた。
だけど、アクたんは違うようだ。
その理由は察しがついていた。
だけど確かめずにはいられなかった。
「そうだな」
アクたんは悲しげに目を伏せる。
長い睫が青白い頬に涙のように影を作る。
「もし、子どもが生きていたら、きっと俺を憎むだろ」
泣き顔なんだろうか。
「どんな極悪人だとしても、その子にとってはたった一人の父親だ」
笑っているんだろうか。
「俺はそのたった一人の父親を奪った男だからな」
私にはわからなかった。
だけど、それを心から彼が望んでいることだけはわかってしまって。
「だったら俺に復讐するだろ」
その望みは叶わなかった。
もう叶うことはない、永遠に。
「アクたんは恨まれたかったんだね」
「馬鹿言え。進んで恨まれたがる奴がどこにいる」
「私の目の前にいるよ」
「お前の中で俺はどんな奴なんだよ」
困ったようにアクたんが苦笑する。
だから、何でそんなに苦しそうに笑うんだよぅ。
「だって、復讐なんて目的の為に生きてきたアクたんがまともでいられるはずがないじゃん。何処かで終わりを設定しておかないと心が保たないでしょ」
「止してくれ。あかねかよ。人を見通したような物言いは…」
「アクたんが復讐なんて向いてる人じゃないなんて、アクたん以外みんな知ってるよ!」
苛々した。
「アクたんのこと一番わかってないの、アクたんじゃん!!」
思わず声が荒くなってしまう。
こんなの全然私らしくない。
明るくてお馬鹿なB小町のMEMちょじゃない。
だけど腹が立って仕方がなかった。
「アクたんは生きて恨んで欲しかったんだよ。だけど、それも無くなっちゃったから、どうしていいのかわからないんだよね」
私には1ミリも納得できないけれど、それでもアクたんの言葉を借りるなら、死んだ女にとってカミキはたった一人の夫で、生まれるはずだった子どもにとってはたった一人の父親だった。それを奪われた彼らには、アクたんを恨む権利があったのかもしれない。
アクたんの頭の中には最初からなかったんだ、「復讐を終えて幸せになる」なんて都合の良いビジョンが。
それを言葉にしたとしても、きっと誰も否定はしないのに。
ルビーもミヤコさんも、かなちゃんも、五反田監督も、ユキもノブもケンゴも、それに私も。あかねなんてきっと、前を向いてくれたと嬉々としてアクたんとプランを練るかもしれない。
その都合の良い未来になっとくしていないのはアクたんだけだ。
復讐の代償をアクたんは自分自身に求めていた。
誰が自分を磔刑に処すのだろうと、磔の前で待っていたら、磔にかけてくれると思っていた人間が勝手に首を吊ってしまった。
罪状を読み上げる人間はいない。
一人で磔の前で途方に暮れたまま、手の中に残った命に呆然としているのが今のアクたんだ。
「……何でMEMが泣くんだよ」
頬が熱く濡れていた。
だって、仕方がないじゃないの。
「アクたんが泣かないからだよ」
「何だよそれ」
微かに震える声でアクたんが笑った。
「MEMが泣く必要なんて何もない。母子が死んだのは今更どうにもできないことだ。仕方がないし、俺たちには関係無いことだろ」
一番関係無いとは思ってない人が説得力の無い言葉を平気で吐く。
本当に頭に来る。
カミキヒカルの妻子を自分が追い詰めて殺してしまったと本気で思っている。
私からすれば、ただの最低女だ。
自分のお腹の中にいる子どもまで利用してアクたんへの呪いにしてる。
アクたんがどれだけ優しい人か理解して、どうすれば自分で自分をもっと許せなくなるのかをわかってて、自分とお腹の子の命をまとめて道具にして、アクたんに目一杯の呪いをかけている。
それは見事に、吐き気がするくらい完璧に毒となってアクたんを追い詰めている。
生きて呪って欲しかった、そんな勝手な願いを抱いている自分への自己嫌悪。
意図せずに奪ってしまったに等しい小さな命への罪悪感。
結局半端に果たせなかった復讐という生きる意味。
誰かを助けるために動けるこの人が、誰かを助ける時に輝くこの人が、そんなことに耐えられるはずないのに。
もっといい加減なら、途中で投げ出してただろうに。
もっと脆ければ誰かに救いを求めていただろうに。
「なぁ、頼むから。俺みたいな奴のために泣かないでくれ」
泣き出した子供をどうあやしていいのかわからないように、アクたんが困惑しているのがわかる。
9つも年上なのに、私はお姉さんなのに、みっともなく泣いてる自分が恥ずかしい。
だけど、涙が止まらない。嗚咽を堪えきれない。
最後がいつだったのか思い出せないくらい、泣くのを抑えられない。
アクたんの手が優しく私の背中を撫でる。
「ありがとう。でも、いいんだ。MEM」
「俺はさそんな価値が無いんだよ」
「生まれた時から、ずっと価値が無いんだろうな」
「母親の命を吸って生まれて、生きてきた癖に」
「何の意味も無いんだ」
「せめて、仇を取ろうとしても、中途半端で」
「MEMが泣くような、そうする意味なんて少しも無いんだ」
「ルビーを裏切って」
「あかねを捨てて」
「有馬を利用して」
「その報いがこれなんだ。だから、頼むから俺に見切りをつけてくれ」
「くだらない男のために、これ以上は…頼むから…」
アクたんの悩みを聞くつもりだったのに、どうして私が慰められているんだろう。
アクたんは、お母さんが子どもにそうするみたいに、私の涙を拭ってくれる。
落ち着かせるように背中を軽くたたいて。
その優しさがどれだけ痛々しいのか、これっっっっっっぽっちもわかっていない。
泣いてる子どもに「泣かないで」なんて言われて誰が泣き止むというのだろう。
私は涙を拭うアクたんの手を払って、そのままかじりつくように抱きついた。
「おい、今度は流石に踏みとどまれないぞ」
「──── ッ、お、大人の女が年頃の男を危機感も無く部屋に上げるわけが…ないでしょう」
「声震えてるぞ…」
「アクたんこそ、震えてるじゃん」
「これ以上は、冗談じゃ済まなくなるぞ」
「最初からそうだよ」
「 ──── 」
「 ────ッ ──── 」
「 ────ッッ── 」
「 ────ッ──ッッ──── 」
「 ッ ─── ッッ ──── ッッ 」
「 ─── ッッ ──── ッ ── ッ ──── 」
「 ─── ッッ!!──── !!!──── 」
「「 ────「 ──── ッッ!──── 」──── 」」
「 ──── ぁぁぁぁッッッ 」
…
……
………
…………やっちゃった
カーテンから差し込む日の光を見ながら、自分の振る舞いを思い返して、軽く死にたくなる。
いや、いっそ殺してほしい。
あかねでもかなちゃんでもルビーでもいい。
なんならミヤコママに「よくも私の息子を傷物にしてくれたわね」と撃ち殺された方がマシだ。
そろっと振り向くと、端正な寝顔が飛び込む。
男の子なのに、綺麗という形容詞がぴったりな美貌が目に毒だ。
普段は年齢より遙かに大人びている顔立ちが、力が抜けて幼くなっているのが母性本能と罪悪感を同時にくすぐってくる。
可愛い寝顔だこと。
がっちりとお腹の前で組み合わされたアクたんの腕はびくともせず、完全に閉じこめられる格好になってしまった私は、しばしこの綺麗な寝顔を眺めることにする。
現実逃避だね、うん。
アイはジュニアアイドル時代の幼さと無邪気さを無くさないまま、何処かに妖艶さを漂わせていて、それが彼女の伝説的な人気へと繋がった。
その素質はルビーに受け継がれたものだと思っていたけれど、こうしてみると、アクたんにもきちんと受け継がれているんだ。
ルビーが幼さの隙間に妖艶さを放つなら、アクたんは色気の中に子どもっぽさを垣間見せる。
遺伝子エッッッグ…
この顔で、ぶっきらぼうだけど何処までも献身的な優しさで救われてしまったのだ、あかねとかなちゃんにすっぱり吹っ切って他の男を探せと言うのは酷なことだろう。
「痛っ…」
身を捩ったら体の奥からカミソリで切ったような痛みが走る。
背中に感じる直の体温と、この痛みが昨日のことが紛れもない事実だと教えてくる。
(め…)
顔が熱くなる。
(めっっっちゃくちゃ…気持ち良かったぁぁ…)
それはもうエグいくらい。
トロトロに蕩かされてしまった。
あられも無い声を何度も上げて、いっぱい泣いて、アクたんに縋りついて、何度もキスをした。
どれくらいイッてしまったのかなんて覚えていない。
痛かったけど、気持ち良さの方が断然大きかった。
経験があるのかと聞かれたら、私は「それなりのことはしたよ」と答える。
どうとでも受け取れる回答。
誤魔化してるとか言われるけど、だってその通りなんだもの。
彼氏はいた。
キスはした。
胸も触られた。
裸で抱き合った。
アソコを触られた。
おちんちんをアソコに擦り付けられこともある。
だから「それなり」だ。
最初で最後の初体験は高校生くらいのころ。
くらいというのは休学してアルバイトに励んでいたから。
初めて出来た同じくらいの年のバイト先の彼氏。
名前も顔も思い出せない。
お互い初めてでぎこちなくて、ただ、鼻息が荒いなとか、胸や身体を触る手が乱暴だなとか、そういうことは覚えていた。
はっきりとは覚えていないけれど、すぐに挿入されかけた。
かけたというのは、何度も滑って上手く行かなかった上に、余りの痛さで私が悲鳴を上げらからだ。
それでも、向こうは強引にねじこもうとするからもう地獄。
結局、先っぽが入るかどうかの前に、勝手に向こうが達してしまって終了。
痛がる私に萎えてしまったのか、その後は気まずくなって解散。
良かった点があるとしたら2つ。
レイプのように無理矢理されなかったこと
そして、避妊具を付けていたから身体が精液で汚れなかったことだろうか。
その後まもなく疎遠になって自然消滅。
悲しいといえば悲しかったが、きちんと別れるためのプロセスを踏めなかったことへの後味の悪さの方が強かった。
それからも、男の人といい感じになることはちょこちょこあったけれど、そのときのことが理由なのか、あまり踏み込む気は起こらなかった。
なんか、せっかく頑張って付き合っても、あの痛くて残念な事にまたなったらどうしようかって、そればかりが脳裏をよぎってた。
それでも、目の前のアクたんを放っておくことなんて出来なかった。
あの映画が終わって、最初の頃は平気な顔をしていたアクたん。
それが少しずつ違和感を覚えるようになったのはいつ頃からだろう。
ルビーもかなちゃんも、それにあかねもみんな心配している。
ううん、それは言い訳だ。
私自身が放っておけないんだ。
がつがつしたところがなくて、不思議と一緒にいて落ち着く人だと感じた。
一度は諦めた私の夢を叶えるきっかけをくれた人。
私に手を差し伸べてくれた人。
そんな人を気にしないでいられるはずがないよね。
「う…ん」
「ぁ…」
眠ったままのアクたんに抱き寄せられた腕の力が強くなる。
お腹の前で組み合わされた腕が、ぎゅっとお腹を圧迫する。
身体の奥にくすぶってる熱が微かにちりちりと背筋を焦がす心地がする。
ぶっちゃけてしまうと途中から、アクたんを慰めるとかそんなことは頭からトンでしまってた。
アクたんは優しかった。
私は正直覚悟していたのだ。
こんなに心を追い詰められたアクたんなら、私を無理矢理組み伏せて、強引に行為を進めるのかもしれないと。
それでもいいと思った。
少しでも心を吐き出す先になれるならと。
だけど、アクたんはどうしようもなく、こんなにも追い詰められても優しい人だった。
何時間もかけて丁寧に私の固く閉じた身体を解きほぐしていって、開いて、とろかして…
(あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜!!!ごめん、ルビー、かなちゃん、あかね。もう何の言い訳も出来ないよぉぉぉ〜〜)
完全に夢中になって、行為に没頭していた。
9歳も年下の男の子にリードされて、転がされてしまった、
慰めるとか、心の吐け口になるとか、そんなことすっかり忘れて。
「んん…むぅ」
もにゅもにゅとアクたんが寝言にならない寝言を口にしながら、頬を頭にこすりつけてくる。
あかねが言ってたっけ、アクたんは意外と甘えん坊なところがあるって。
小さな子がすがるように、時折不安な顔をしながら、私を抱くアクたんを思い出す。
「少しは君の重荷を背負わせてくれてもいいんだよ?だって ──── 」
続く言葉を口の中だけで転がす。
まだ、私にはそんな覚悟が決まってないし、きっと眠っている君に言っても意味がないから。
だって ──── 私も君が好きだから