──── 母の命を食らってお前は生まれてきたんだ ────
覚えている祖父の最初の言葉だ。
祖母が何かを言って庇ってくれたが、その目は祖父の言葉を否定するものじゃなかった。
母親を知らず
祖父から呪詛を吐かれ
祖母から腫れ物のように扱われて
それでもぐれなかったのは、そうなることの方が人生が面倒になりそうだという打算だった。
ただ、胸に空洞があると感じるようになった。
その空洞は広く、深く、暗く、触れれば凍えそうな風が吹いている。
空洞からの吹く風は、祖父の呪詛を浴びるとより強く冷たくなる。
田舎で娯楽が少ないというのもあるが、自分で選べる選択肢は増やしたくて、勉強に打ち込んだ。
勉強をしている間は祖父も流石に呪詛を吐くこともなかったので案外気楽だった。
思春期になる頃、身体の成長と共に異性への興味が沸いた。
母が周囲からの蔑みと、命を犠牲にしてまで俺を生んだ。
そうさせるだけの愛情を、俺の父親というものに抱いていたのだろうか。
愛というものは、それほどに人を狂わせ、命を燃やすものなのだろうか。
人を好きになれば、この胸にある空洞が満たされるのだろうか。
その頃、よく勉強を教えている同級生がいた。
勉強を教えている限り、頭は悪くはなく、すぐにこちらの説明を理解してくれた。
なぜ俺に勉強を教えてもらおうとするのか少し疑問に感じる程に。
俺は彼女につき合っている男はいるのかと尋ねた。
突然の質問にびっくりしてる彼女に申し訳無いと思いつつも、端的に述べた。
つき合っている男がいるなら、あまり二人で会うのは悪い。
いないのならば、自分とつき合ってほしい。
要点をかいつまめばこの二点を伝えた。
彼女はすぐに彼氏がいないことを言ってきて、半ば食い気味に俺とつき合うと言ってくれた。
嬉しそうに笑う彼女は、内緒話を打ち明けるようにこう言った。
「本当はね、雨宮君のことがずっと気になってて、それできっかけが欲しくて勉強を教えて欲しいって言ってたんだ」
彼女の理解力の高さと行動の謎がわかって、俺はようやくすっきりとした。
教える行為自体は嫌いじゃないし、自分にとっても復習になっていた。
彼女の理解力は高く、教えていることがストレスに感じることはなかった。
だから、君と過ごす時間が俺も好きだったから構わないと答えた。
どうやらお気に召す回答だったらしく、俺たちはそのままつき合うことにした。
それから、恋人がすることはある程度やったと思う。
勿論中学生の範疇で。
子どもが出来たら大変だから。
破局は向こうから切り出してきた。
他に好きな人が出来たというのが彼女の答えだった。
それなら仕方がないと思った。
自分なりに大切にしていたつもりだったが、俺が彼女を大切にすることと、彼女の心変わりは別問題だった。
進学する高校も別々だったし、俺よりも余程いい男を見つけるだろう。
彼女はずっと泣いていた。
結局、胸の空洞は満たされなかった。
大切にすることと愛することは違うのだろうか。
高校に上がると、俺は少ないながらも友人が出来た。
その中で、俺はたまたま休憩時間にいつも窓の外を見ている子と話すようになった。
周囲と溶け込もうとしていないのが気になった。
それが周囲を拒絶するような態度だったら、もう少し考えたのかもしれないが、
彼女は本当は混ざりたいと思っている様子だった。
気になった。
力になりたいと思った。
自分に似たものを感じた。
おせっかい極まりないが、本当に迷惑なら手を引けばいいし、嫌ってくれても構わない。
ほったらかしにして嫌な気持ちになるのが嫌なだけの、自分勝手な理由で人に踏み込む俺は下劣な人間なんだろうな。
どんな話し方がいいか、何パターンか考えた。
A:「ねぇねぇ、なにしてるの?僕と話そうぜ☆」
うーん、下心をあると思われるのは嫌だし、チャラ男めいた態度はNGか。
B:「君もみんなととけ込めない。僕と一緒だね」
ないないない、これはない。
陰キャ候な感じに話しかけて、同類にするなと拒絶されても元も子もない。
あぁ、これまでの人間関係基本受け身だったのが悔やまれる。
もっと人間関係の経験値積まないといけないな。
医者になるなら対人スキルって重要だし。
と、ここでとりあえず後悔は一区切り。
結局採用したのはAよりのB。
「ちょっと、避難させてもらってもいいかな」
そんな感じに近づいてみる。
戸惑ってる彼女に謝って、俺のことを少しだけ話す。
みんなと馴染めなくてもがんばって馴染もうとしてるけど、やっぱり馴染めないことを。
無理してるのが自分でもマジでしんどいこと。
これについては、嘘ってわけじゃない。
勉強や好きな本や音楽のこと、ドラマや映画、ゲームの話題ならまぁ楽しくついていける。
だが、家族の話題や恋愛の話になると、どうにもピントが合わないというか、チャンネルが合わない。
聞いていておもしろいんだが、自分がそこに合わせられない。
トンチンカンなことを言っては「雨宮くんにはまだ早かったかな」などとからかってきさえする。
初めて話しかけてきたクラスメートに警戒してるのか、相手からの反応は薄い。
そりゃそうだ。
俺だって何だコイツって思う。
でも、この子が所在無さげに佇んでるより、それを見て、俺が嫌な気持ちになるより全然いい。
寧ろ申し訳ないくらいだ。
俺の勝手につき合わせて。
それでも少しずつ
馴れ馴れしすぎないように、踏み込みすぎないように、しつこ過ぎないように、その子の気持ちに寄り添おうとした。
少しずつその子が心を開いてくれるようになって、その子の悩みを聞くようになって、俺に考え得る限りのアドバイスをした。
たかが高校生が、家庭のことにどこまで有用なアドバイスが出来るのかわからなかったが、俺と話をすることで、その子の塞いでいた表情が明るくなっていくのを見てこっちまで嬉しくなった。
心を開いてくれたことが嬉しかったんじゃない。
俺がその子の背負ってる何かをほんの僅かでも軽く出来たことが嬉しかった。
洞穴に吹く風が少し止んだ気がした。
それから、俺はそれとなく周囲を気にかけるようになった。
嗅覚とでもいうのだろうか、
俺には”そういう人”がわかった。
似た傷を、近い痛みを、抱えている人に気付けた。
孤高の人と孤独な人を嗅ぎ分けて、孤独な人にそれとなく近づく。
友達であることを押しつけるつもりはなかった。
ただのクラスメート、同級生、顔見知りとして、
ふとしたタイミングで、その人の心に孤独の影が差し込む時に、近くで話す、話を聞く、取るに足らないことしかしていない。
正しいことをしたいと思ったことはない。
善行を積んでいるつもりなどさらさらない。
ただ、孤独の匂いに気付くとどうしても気になった。
打ちひしがれている人をそのままにしておけなかった。
のどに刺さった棘のように痛く、胸に残った靄のように気持ち悪いことに、俺自身が耐えられなかった。
彼らの力になれていると思うと、少しだけ気が楽になった。
ここにいてもいいと認められた気がした。
ここにいることが許される気がした。
そんなことを繰り返している間に、俺には恋人が出来た。
恋人というのが、どういう基準で、どうなったら友人から切り替わるのかはよくわからなかった。
ただ、俺を好きでいてくれているのだろうなということはわかった。
わかった気がした。
自分が恋心を理解出来ているのかは自信が無かった。
ただ、俺のような人間をわざわざ好きになってくれて、側にいたがるような子はとても希有で優しい子だ。
だからとても大切にした。
ハグをせがまれればハグをした。
キスをせがまれればキスをした。
セックスを求められればセックスをした。
セックスは気持ち良く、肉体の快楽は少しだけ心を楽にしてくれた。
けれど、軽くなった心を抱えて家に帰ると、また気持ちが重たくなる。
その落差は、ただ家に帰るだけだった頃よりも遙かに俺を憂鬱にした。
自然と家に帰る時間が遅くなった。
夕方まで勉強をして、夜まで身体を重ねる。
休みの時間や休日には誰かと行動することも増えた。
友達かと聞かれたらわからない
友達認定のラインが人によって違い過ぎるために、基準になるラインがよくわからない。
ただ、彼らの力になれていると、ひとときでも安らぎを与えていると思えることが嬉しかった。
「どうしてあの子に優しくするの?」
そう言われることが増えた。
彼女が詰ってくる理由がわからなかった。
ただ、力になりたくて相談に乗っているだけと話しても納得してくれなかった。
そう詰る子が彼女以外にも出てきた。
「私だけじゃないの?」
そう言って泣かれることが増えた。
どうして泣くのだろうか。
どうして悲しむのだろうか。
誰かの力になりたくてそうしていたはずなのに、自分が傷つけてしまったことだけはわかった。
俺と一緒にいるのが耐えられないと泣く彼女に告げられた別れを受け入れると、更に泣かれた。
自分が人として出来損ないだから、傷つけてしまったのだろうか。
無力感と悔しさを紛らわせるように勉強に打ち込んだ。
猛勉強のおかげで東京の大学に合格できた。
祖父母から解放されて、息苦しさが減った。
もっと人の気持ちがわかるようになりたいと思った。
もう傷つけることがないように、
もう傷ついている人を見過ごさないように、
もう少しだけましな人間になりたかった。
だけどダメだった。
大切な人を作って、人の力になろうとすると、必ず歪みが生まれた。
どうしてあの子にまで優しくするの
もっと私だけを見てよ
私のことを愛してないの
あの子とは一緒にいないで
貴方といると不安になるの。愛されていない気がして
貴方、本当に人を愛したことあるの?
どうしてそんな風に誰にでも優しくするの?特別じゃないと嫌なの
貴方を幸せにするのは私だけじゃなきゃ嫌なの
そんなことを言われる頃には、すっかり女を転がすなんて言われるようになっていた。
研修医になる頃には、それが恋愛感情からくる独占欲なんだと理解出来るようになっていた。
俺の行動は、独占欲を抱く相手にとっては許容し難いものであるらしい。
そして、満たされない独占欲が彼女たちを傷つけるのだと。
研修医としての生活は充実していた。
産婦人科医になんてなりたいと思っていたわけじゃないが、それでも人の力になれる仕事にはやりがいがある。
好いた惚れたを気にせずに、人の力になれることが幸せだった。
誰も会いに来ない患者に入れ込むことに、苦言を呈されることは少なからずあった。
だけど、だからこそ力になりたいと思った。
彼らの孤独がわかる気がしたから。彼らも自分と同じような洞穴を抱えているのだとしたら、どうにかしたいと思った。
研修医ごときが烏滸がましいかもしれないが、少しでも力になれるとしたら、力になりたい。
「せんせー、また女の人にフられたんでしょ〜?」
研修医になった頃、とある女の子とよく話すようになっていた。
きっかけは、いつものように寄り添いたい気持ちから話すようになっていた。
母親から愛情を与えられず、無いものとして扱われるその子に俺は勝手な共感を抱いていた。
その子を知るうちに、その子と話すうちに、不思議な感覚を覚えるようになった。
年齢よりも幼いのに、誰よりもその子は大人だった。
孤独を抱えているのに、俺なんかじゃ想像が出来ない程の絶望と痛み、苦しみを背負っているのに、それでもその子は眩しかった。
世界を憎んで、恨んで、どこまでも淀んだとしてもなにもおかしくないのに。
「アイみたいに格好良い衣装着て可愛い歌うたって皆にコール貰ったりしてさ。大きなステージに立って皆に喜んで貰って夢だなー!」
痛みに耐えて
苦しみを堪えて
世界を恨んで
健康な人々を妬んで
それが許されるのに、それでも、その子は眩しかった。
真っ暗闇だからこそ、なお一層強く輝くようだ。
生まれ変わりたいなんて言う君が悲しかった。
そんなことしなくても君は十分に可愛いよ。
俺なんかに好きなんて言ってくれる君の純粋な気持ちが嬉しかった。
君の言うアイよりも君はずっと眩しい。
生まれて初めてだった。
心の奥から温かく、愛おしく、守りたいと、かけがえのない、失いたくないと誰かを想ったのは。
人に対してそんな気持ちになったのは生まれて初めてだった。
アイじゃない、君なんだ。
君こそが誰よりも、アイよりも眩しい、
金輪際現れない僕の一番星 ────
──── 【推しの子】なんだ。
そんな子に俺は何もしてやれなかった。
好きだなんて言われる価値なんて無い。
ほほえみかけられる価値なんて無い。
最後に触れられる価値なんて無い。
そして、無力な俺は無力なまま死に、二度目の命を得た。
あの子が憧れていた存在が、俺にとっても推しの子が、俺の二度目の人生の母親になっていた。
うれしかった。
あの子が魅せられて、憧れ続けた存在が、あの子が夢見た場所までたどり着く様をこの目で見届けることが出来ることに喜びを抱いた。
前の人生になんて未練は無い。
殺した犯人への恨みなんて無い。
この子の、アイの夢が叶い、アイが輝く様を見られることに人生の意味があるのだと思った。
ま、結果はあの様だったけどな
風が聞こえる。
胸の中の洞穴から聞こえる風の音が何もかも塗り潰していくようだ。
メムの家で一晩明かしたのは何日前だったろうか。
少し心が軽くなった。
まだ身体に温もりの残滓が残っている気がする。
鼻の奥がメムの甘い匂いに包まれている。
あの夜の温もりを思い返す。
抱きしめると柔らかな感触が腕から全身に広がっていく。
のどに綿でも詰まったような息苦しさが無くなっている。
虚脱感が少し無くなっている。
ゆっくりと優しい温もりの湯に浸っているような心地よさに、もう少しだけ微睡んでいたくなる。
いっそ、このまま ────
『何を喜んでるんだ?』
さっきまで身体を包んでいた幸福感は消え去っていた。
そうもいかないのか。
そうだよな。
わかってたさ。
気が付けば走っていた。
時間も場所もわからない。
どうやってここに来たのか覚えていない。
外が暗い。
今は夜なのか。
塩の匂い。
潮風?
風の音?
波の音?
塩の匂い。
海が近い。
声から逃げることばかり考えていた。
月がこちらを見下ろしている。
不愉快だった。
星々が闇色の空で煌めいている。
苛立った。
醜い自分が夜の中ですら浮き彫りになる気がした。
風の音が耳鳴りのように響く。
『逃げれるわけねーだろ』
耳元で雨宮吾郎が囁く。
ジワジワと毒を含んだ泥のような声が耳朶を舐め上げていく。
耳を傾けるなと言い聞かせても聞こえてくる。
耳を塞いでも鳴り響いていく。
自分の中から聞こえる声なのだから当たり前だ。
風に乗って、波の音が聞こえる。
風の音が耳鳴りのように響く。
波の音が耳鳴りのように響く。
走る
走る
走る
『結局復讐も成し遂げられずに、アイの無念がアレで晴れたなんて本気で思ってるのか?』
それでも、振り切ることなど出来ずに、目の前には雨宮吾郎が立っている。
『あげくの果てに、母親と子の命を奪った。哀れな母子の命を救えなかったんだよ。俺たちは』
白衣を翻しながら、ゆっくりと近づく男を前にして、俺はただ立ちすくむ。
『俺たちはまた、母親を救えなかったんだ』
眼鏡越しに、ヘドロのような怨念に満ち溢れた眼差しが俺を貫く。
『母親の命を奪って生まれた俺が』
雨宮吾郎が俺の髪を掴んで引き寄せる。
『母親の命を守れなかったお前が』
息が触れるくらいの距離まで近づいた顔には、憎しみと後悔が滲んでいた。
『生まれてくる筈の子ども諸共、母親という存在を殺した俺達が』
言葉が耳から滑り込み毒のように身体を満たしていく。
『苦しいなんて思ってんじゃねーよ』
雨宮吾郎の指が頬を撫でる。
『ハハッ』
せせら笑う。
『アイか…アイ、アイ、星野アイ』
誰を嘲っているのかわかりきっている。
『さりなちゃんの推しのアイ。眩しくて綺麗なアイ。推しの子のアイ』
肩をすくめる。
『母親だなんて思ってないのに、よくも入れ込めたよな俺達』
『そもそも母親なんてもの仕入れた知識で想像してるだけなのにな』
そうだ、想像することしかできなかった。
『ルビーが知ったら軽蔑するだろうな』
アイを愛していたあの子ならそうだろう。
『健気なさりなちゃんは母親の代替品にしてたことを嫌悪して泣いてたけど』
俺たちにとっては代替品ですらないのにな。
泣きそうな顔で雨宮吾郎が嗤う。
『女の温もりに許された気になってたのか?散々試してダメだったろ?』
姿が見えなくても、喉の奥で嗤っているのがわかる。
『大体都合が良過ぎんだろ。今まで利用して、突き放して、傷付けて』
わかってる
『そうしてきたのに彼女達の優しさにつけ込んでおいて』
わかってる
『何幸せ感じてるんだ?』
違う
『何許された気になってんだ?』
違う
『愛されてると勘違いしてるのか?』
違う
『愛し方もよくわからないのにか?』
うるさい
『未来とか思い描いてんのか。笑える。』
うるさい
『ちょいちょいちょい、どんだけおめでたいのよ?』
うるさい
『いい加減解放してやれよあの子達を』
うるさい
『俺達みたいなクズがあの子達の未来に必要な訳ねーだろ』
わかってる!
そんなことわかってる!
『なぁ』
『どうしてお前まだ生きてるんだ?』
俺に許される筈がない。
『何のためにお前は生まれたんだ?』
くしゃりと、雨宮吾郎の顔が歪む。
『どうして俺は生まれちまったんだ?』
歪んだ雨宮吾郎の顔が崩れていく。
『考えの浅い母親のせいか?』
『ロクでも無い父親のせいか?』
『それは免罪符にならねーよな』
『さりなちゃんを救えなかったこと』
『アイを守れなかったこと』
『ルビーを追い詰めたこと』
『あかねを泣かしたこと』
『有馬を弄んだこと』
『メムに縋ろうとしたこと』
『穴を埋めたくて利用してたことの咎は俺達にしか無い』
『許せねぇよな』
風の音が耳鳴りのように響く。
ああ、そうだ。
「俺は俺が生まれたことが許せないよ」
雨宮吾郎 / 星野アクアが憎しみで俺を射抜く。
「黙れよ!!」
咄嗟に俺は雨宮吾郎に向かって手を伸ばす。
その首を捻り切ってやる。
そう思って手を伸ばした先には ────
──── 奈落のように真っ黒な海が広がっていた。
風が聞こえる。
潮風なんかじゃなかったんだ、吹いていたのは。
波音なんかじゃなかったんだ、聞こえていたのは。
ずっと耳鳴りのように響いていたのはこの音だったんだ。
埋まらない胸の穴から吹く風の音だったんだ。
潮の匂いの隙間を縫うように、甘い匂いが鼻孔を擽る。
シャンプーでも香水でもお菓子の匂いとも違う。
花の香りが近いのだろうか。
唇に柔らかな感触がした。
温かな息が口内から、喉へ、喉から肺に吹き込まれていくのを感じる。
冷たくて何の感覚も無かった身体に、じんわりと感覚が戻ってくるのがわかる。
「本当に君は愚かだね」
鈴のような声が耳朶をくすぐる。
うっすらと目を開けると、月明かりを後光のように従えて、見知った少女が俺を見下ろしていた。
唇をぺろりと舐めて、年不相応な、そのくせやけにしっくりとくるような妖艶さを湛えた瞳が俺を愉しげに / 哀しげに見下ろしていた。
唇に火が灯ったように、微かに熱い。
「特別サービスだよ。悪手を打ちながら結果的に最善に近い結果を引き寄せた君へのご褒美」
少女がくすくすと笑う。
可憐なのに、癪に障る笑みだと、悪態を吐こうとして、口が凍り付いたように動かない。
「無理は駄目だよ。魂を定着させたばかりなんだから」
特別サービスなんだよ、ともう一度繰り返した。
「せっかくたどり着いたエンディングなのに、呆気なく死なれたら、私も哀しいし」
本心なのか揶揄しているのか判断が付かない。
ただ、俺の命はコイツに救われたらしい。
そっと、小さな手が頭を撫でる。
抗い難いほどの眠気と倦怠感に襲われる。
「さぁ、今はよくお眠りなさい ──── 」
薄れゆく意識に、涼やかな声だけが滑り込んだ。
──── 生まれてきた?