なんていびつで
なんてあわれで
なんてこどくで
なんてうつくしい
その魂に魅せられた
十分に葉を蒸らして淹れたダージリンの香りがつんとした冷たい空気のなかに柔らかく広がる。
冬の足音が近づいてきたからか、温かな紅茶が心地よく喉を通る。
微かに寒さに強張っていた身体がじんわりと解けていく。
温められた息を吐くと、思考の靄も一緒に吐き出したような気がするのは私だけだろうか。
「よくもハメてくれたわね」
見下ろしてくる紅を帯びた黒目がちの瞳に苛立ちが陽炎のように揺らめくのが垣間見える。
腰に手を当ててまっすぐ睨む姿は、傲岸不遜という感じで、それでも威圧感よりも凛々しさや可憐さが先に出るのはかなちゃん故だからだろうか。
「まぁまぁ、かなちゃん落ち着いて」
「とりあえず座ったら?かなちゃんの分も淹れてるし」
かなちゃんは不承不承といった感じに顔をしかめるけれど、メムちゃんからは怒っているという空気は感じられない。
この穏やかで優しいメムちゃんが怒る姿がそもそも想像つかないけど。
「あ、この紅茶美味しい」
「でしょ。この前のお店で買ってきたの」
「私お家だとお茶かコーヒーばかり淹れちゃうんだよね。たまに遊びに来る弟たちがお土産に置いてくから、どんどん余っちゃって」
「……何か一人だけ怒ってる私がバカみたいじゃない。MEMは腹が立たない訳?」
クッキーを頬張りながら、かなちゃんの機嫌は未だに斜めを向いたまま。
せっかく、かなちゃんが初めて家に来てくれたのに、玄関に迎えに出たら最初に視界に入ってきたのはかなちゃんのしかめ面なんだもん。
「ん〜〜、びっくりはしたけど、言われてたらアクたんにしらばっくれる自信が無かったかなぁ。かなちゃんもそうじゃない?」
「う…それは…」
「それに、アクたんをハメてるって思いながら、アクたんとああいうこと出来た?」
かなちゃんが言葉に詰まる。
私が用意しておいてこんなこと言うのもおかしいかもしれないけど、あんなおかしな状況でようやく、自分の気持ちを素直に告げることが出来たこの意地っ張りな子が、アクアくんを騙しながらそれに気づかれないようにしながら自分の気持ちにだけ素直に伝えるなんて器用な真似が出来るとは誰も思っていない。
だから寧ろ感謝して欲しいくらいだ。
「これでも人選には注意したつもりだよ?アクアくんが惹かれていて、絶対にアクアくんを拒まない子だけにしたつもり」
アクアくんが惹かれている子が複数いるのは、腹立たしいのだけれど。
「初めは私とルビーちゃんだけにするつもりだったの」
「それって、アンタの発案?」
「発案はルビーちゃん。私はそれに肉付けしただけ。だけど私とルビーちゃんだけだったら、アクアくんは私たちを疑う」
手前味噌かもしれないけれど、アクアくんが最初に私に興味を抱いたのは見た目よりも私の能力だから、私なら自分に何か仕掛けるとすぐに思いつくだろう。
「だけど、何も知らないかなちゃんとメムちゃんがいれば疑いはかなり減るでしょ。けど、あまり人を集めても大げさになっちゃうから」
関わる人が少なければ疑われるし、多ければボロが出る。
巻き込む人間は絞ったつもりだ。
「買っていくお菓子はLINEであらかじめ聞いてたし。かなちゃんが糖質抜いてるのは知ってたから、きっとルビーちゃんにあげちゃうだろうから、かなちゃんだけは飲み物にね」
「私自分で淹れたわよ」
「だから、ルビーちゃんがかなちゃんに話しかけてる時に入れてたの。かなちゃんが自分の分あげるとしたらルビーちゃんくらいだし」
「あ、あくどいわねアンタ達…」
「あははは…見事にやられちゃったねぇ」
ある意味教訓になったのか、かなちゃんが「怖…今度から食事会とか気をつけよ…」と呟いてる。
アクアくんは5人同時に眠らせるのは難しい、そう根拠付けて外部の仕業を疑っていたけど、3人同時ならそこまで難しくない。まったくの同時である必要も無いのだから。
アクアくんは身内と認めた人を基本的に疑わない。
まっさきに身内を疑う人と、あらゆる可能性を排除して最後に身内を疑う人がいるとすればアクアくんは後者だ。
眠りに落ちたアクアくんをルビーちゃんのマネージャーさんの吉住さんが、と、かなちゃんとMEMちょを私とルビーちゃんで運んだ。
事務所のすぐ近くの部屋を借りて。窓を全部塞いで。
ただ、スマホがなぜ繋がらなかったのかはルビーちゃん曰く「ちょっとしたコネ」なんだそうだ。
「ていうか、あかね以外全員のスケジュールをミヤコ社長なら調整出来るのよね」
「そうだよ。私が合わせさえすれば」
調整はそこまで難しくはない。
本来なら、私もルビーちゃんも、過密スケジュールだけれど、状況がそれを可能にしてくれた。
「15年の嘘の反響とアクアくんが海で見つかったことを理由に、体調不良になったって言い訳が出来るからね」
破局報道が出てからも私がアクアくんを引きずってることは知られていたし、映画の公開後、私とアクアくんが復縁しているという噂もあった。
初めて出来た恋人が死にかけたことで、まだ二十歳にもなっていない女の子が精神的に不安定になって、不調をきたすのはおかしな話じゃない。
どうして復縁の噂が流れたのかと聞かれれば、私が匂わせたからなのだけど。
アクアくんとの交流が続いていることは周知の事実で、そこに疑惑を少し加える。
ついでに、言い寄ってくる人に対して「私、もういますから。はい、そうとってもらっても」なんて断ったりしていると、勝手にアクアくんと復縁しているからお誘いを断っていると受け取ってくれる。
私は否定も肯定もしないで笑い返すだけでいい。外堀を埋める魂胆もあったのだけど。
ルビーちゃんが持ちかけた「計画」は、アクアくんの不安定さが可能にしてしまった。
荒唐無稽で馬鹿馬鹿しい計画をルビーちゃんと私は実行に移すことにした。穴だらけの計画を。
「普段のアクたんなら絶対気づいてたよね」
「うん。いつもどおりのアクアくんだったら何日もかけることもなく私とルビーちゃんの仕業だって気づいていたと思う」
この計画にアクアくんがハマってしまう時点で、この計画が必要なほどアクアくんが追い詰められている証拠になる。なんて皮肉だろう。
「だよね。アクたん自覚無いくらい疲れてたんだよ」
メムちゃんが哀しそうに目を伏せた。
手の中の紅茶はすっかり冷めて、立ち上っていた湯気はかき消えていた。
メムちゃんから聞かされたのは、あの日、アクアくんと連絡がとれなかった日のこと。
カミキヒカルの葬儀に顔を出したこと。
そこで会った女から受けたアクアくんへの呪いのこと。
目の前が真っ赤になった。
よくもまぁ、そんな理不尽な悪意を彼にぶつけてくれたものだ!
「ふざけんじゃないわよ!!!あーくんは被害者でしょ!!自分はイカれたダンナを制御出来てない癖にッ!死ねよ!もう死んでるけど!」
怒りの余り、かなちゃんは言葉に詰まる。
大きな瞳から、涙をこぼしながら歯を食い縛っている。
ふと、気づけば私も手を強く握りしめていたらしい。爪が食い込んだ手のひらからうっすらと血が滲んでいた。
「死んでなかったら私がぶっ飛ばしてたわよ!」
既に死んでいる相手にはどんな怒りをぶつけても意味がない。
なんて卑怯な女だろう。自分のお腹の子まで利用して、アクアくんへ消えない呪いを遺していくなんて。
出来ることなら生き返って目の前に現れて欲しい。
もう一度私が地獄に落としてあげるのに。
「その日は、何とかアクたん持ち直したと思ったんだけどね…」
どうやって持ち直したのか、聞くまでも無い。
私もかなちゃんも、アクアくんと身体を重ねた今だから、はっきりと察する。
不安定な彼を僅かにでも癒し、一時でも生につなぎ止める手段が何なのか。
あの部屋に閉じこめられた時、私たちと、メムちゃんとアクアくんの間に流れる空気の違い。
メムちゃんへの全幅の信頼を見せたアクアくんと、アクアくんからの信頼を自然に受け止めているMEMちょに何があったのか。
察していたけれど、明確に確信に至った時、私は激しく嫉妬した。
きっとかなちゃんもそうだろう。
何も知らなければわからなかった。
でも味わってしまった。
口にした果実の味を知ってしまえば、それを自分よりも前に、自分よりも何度も味わっていた人を妬ましく思う。
彼に初めてを捧げて、あの熱くてドロドロと自分と彼の境界が溶けて無くなっていくような痛みと快楽の時間を味わったからこその焼け付くような独占欲。
アクアくんを助けてくれた恩人だとわかっているのに、メムちゃんを憎みさえした。
優しいメムちゃんに縋らずにいられないほど弱っていたとわかっているのに、私に縋ってくれなかったアクアくんに怒りを覚えた。
嫉妬と悔しさに気が狂いそうになった。
「でも、結局アクたんは…」
「心臓が止まるかと思ったわあのときは」
アクアくんが収録後に姿を消した。
明け方の海辺で意識を失っているところを近隣の住人に発見されたらしい。体中がずぶぬれで、現場の状況から、彼は崖から海へと落下したらしい。アクアくんのスマホが転がっていたことからほぼ間違い無いだろう。
飛び降りたのか、それとも夜道で足を踏み外したのかはわからない。
11月の海に夜中に落ちて、それでもアクアくんは生きていた。
みんな奇跡を喜んだ。ふつうなら死んでいてもおかしくないというのに、発見されたアクアくんは既に肺にたまった水を吐き出しており、体温も命を落とす程下がってはいなかった。
『まるで、誰かが人工呼吸をして、発見の直前まで身体を温めてくれていたようだった』
ミヤコさんに、アクアくんを診察をした医師が冗談のように言っていたらしい。
信じられない奇跡のような状況に医師自身も昂揚していたとは思うのだけれど、その医師の言葉がやけに印象に残っている。
「アクアくんが見つかって、病室に行った日ね。みんなが帰った後にアクアくんに聞いたの。どういうつもりなのって。凄く頭にきてたから」
大切な人に置いて行かれる痛みを、大切な人に死なれてしまう苦しみを他の誰よりもアクアくん自身が知ってるはずなのに。
どうして遺していくような自暴自棄な振る舞いをしたのか。
私のことを考えてもくれなかったのか、なんて贅沢は言うつもりはない。
でも、せめてルビーちゃんとミヤコさんのことは気にかけるべきじゃないのかと叱り飛ばしたくなった。
けれど、アクアくんの言葉に私は全身の血の気が引いた。
『何となく。死ぬのかなと思って』
自分で身を投げたの?
いや、違う。アクアくんの表情にそんな感情は無い。死を自分で選び取ろうとする、そういう悲壮感すら無い。
もっと他人事な物言い。
『まぁ、流石に死ななかったな』
その声は、グラスが床に落ちるのを受け止めようともせずに見ていたら、割れると思ったグラスが割れなかったことに少し驚いた、くらいの温度しか無かった。
『どうして…アクアくん自分で…飛び込んだんじゃないよね?』
『ああ…そのはずだけど…いや、どうだったんだろうな。よく、覚えてないんだ。耳鳴りがひどくて、それに耳元でやたら煩い声があったから、そこから逃げてたつもりだったんだけど…助かったんだから、よかったんじゃないか』
だれにとってよかったと言うのだ。
アクアくんが衰弱していなかったらひっ叩いていたに違いない。
なんて顔で笑うの。私は私の知らないアクアくんの表情なんて一つも無いくらい彼のことを知りたい。
けど、その笑顔を私は出来ることなら見たくなかった。
見せて欲しくないんじゃない。
アクアくんがそんな笑顔をするようなことになって欲しくなかった。
「あーくんは、凄く不安定なのよ。最近のことかと思ったけど違った。ずっと前からよ。自分でも嫌になるわ…私のことを助けてくれた時から、私は自分のことばっかりで、全然気付けなかった。自分で自分に腹が立つわ…近くにいたのに」
膝の上で握りしめられたかなちゃんの手の上に大粒の涙が落ちていく。
メムちゃんがかなちゃんの涙をハンカチで優しく拭っている様は、姉妹のようだ。
メムちゃんだって辛いはずなのに。涙の幕が揺らめいている瞳をそっと伏せて、かなちゃんの頭を撫でている。私が炎上した時もそうだった。自分だって危ないのに台風の中私を探しに出かけたり、メムちゃんはいつも自分よりも人を優先して寄り添う。お姉ちゃんとお兄ちゃんだからなのかな、アクアくんに似ている。そんなメムちゃんの優しいところが私も大好きだけど、同時に少し悔しいと思う。
この優しいところが、アクアくんが私でもかなちゃんでもなくメムちゃんに縋った理由なのだろう。その包容力を妬ましいと思う自分に吐き気がする。
「復讐なんて何も生まないなんてアクたんはわかってる。それでも自分がやらないといけないと自分に言い聞かせてきたんだよ。色々な人を傷つけることもわかってて、凄く苦しいことも理解して。だけど、やっぱりさ、頭の中で想像するのと現実って違うよね?」
アクアくんなら想像していたはずだ。自分が破滅させる過程で傷つく人がどれほど出てくるのか誰が傷つくのか。どのように傷つくのか。
それを知っているから、ルビーちゃんに嫌われようとして、かなちゃんをおだてて蚊帳の外に置いて、私を巻き込むまいと遠ざけて、ミヤコさんにもメムちゃんにも一切目的を話さなかった。
大切な人達にどう思われても決して関わらせまいとしていた。
同時に、アクアくんはこうも考えていたはずだ。
「カミキにの大切な人」あるいは「カミキを大切に思っている人」がいたとして、自分の行いはそんな彼らを傷つけるだろうと。
加害者家族への私刑。
SNSという文化によって加害者家族へのバッシングは勢いをそれが無かった頃よりも爆発的に増加させた。
それらの性質の悪さは、私も知っている。匿名の「彼ら」は「正義の人」なのだ。虐めならば、リンチならば罪悪感に手を緩めるかもしれないことが、「正義」という言葉を借りた時、恐ろしく容赦なく、遠慮もなく、手を緩めることもなく行われる。思い出すだけで私は今でも震える。
断罪なのだ。正義の下に認められているから、躊躇する必要がないのだ。
アクアくんがこれを想像しない筈がない。
私なんかよりも遙かにSNSとそこに広がる悪意無き悪意、正義という名の冷酷な刃の鋭さを知っている彼なら。
それによって受ける傷の深さと痛みの強さを人一倍理解出来てしまう彼が予想しない筈がない。
アクアくんはカミキにわざと刺されるつもりだった。
結果的に、カミキの犯罪は明るみに出たけれど、それまでのあの男の犯罪は明るみに出てはいなかった。
アクアくんが知っているのは15歳のカミキがアイを殺そうと人をし向けて、結果として雨宮吾郎を殺害させたこと。
そして19歳のカミキがストーカーを唆してアイを殺させたこと。
だからこそアクアくんは現在のカミキに明確な罪を犯させることでその罪を裁かれる立場に引きずり出すつもりだったのだろう。
或いは、正当防衛という形を整えて差し違えるつもりだったのかもしれない。
いずれにせよ、アクアくんの手は汚れなかった。
どこの誰とも知れない者として、カミキは呆気なく殺害された。
罰ですらない。とても惨めな最後。
それはもしかして神様からのせめてものアクアくんへの加護だったのかもしれない。
それなのに、アクアくんは呪いを受けた。律儀に呪われ、毒に侵されてしまった。
「アクアくんは最後の決着を横から奪われて、目的を半端な形で達成してしまった。
私が考えてるとおりなら、今回の結末はアクアくんの考えるものよりずっと私達にとって望ましい形だったと思う。でもアクアくんにとってだけは違っていた。
アクアくんは未来なんて見てなかった、復讐の達成で使い切るつもりだった命が、使いどころを逸したせいで手元に残ってしまったことがアクアくんを追い詰めてしまった。
罪悪感に苛まれているけれど、自殺を選ぶことも出来ない。だって、アクアくんは人が死ぬことも、死なれて悲しむ人が出ることも大嫌いだから。
持て余した命がアクアくんの心を圧迫するようになって、その圧迫感がアクアくんには辛くて苦痛で仕方ないから、どうにかして命を使い切りたかったんだと思う。倒れるほど心を削った演技をしたり、過密スケジュールで自分を忙殺して…」
「あかね…」
「ん、ごめんね」
涙がカップの中に涙がぽつりぽつりと落ちていく。
琥珀色の波紋には情けない私の顔がゆらめいていた。
「なんて馬鹿な人なんだろう…あそこまで馬鹿だとは思わなかった……」
何でも出来る人なのに。
誰にでも優しい人なのに。
どんな傷にも寄り添える人なのに
どうして、自分を大切にすることだけ下手くそなんだろう。
「ルビーも同じこと思ってたんだよね、きっと」
「そっか。自分を想ってくれてる人がいるってわかれば、あんなあーくんでも、少しは自分を大切にするものね」
嗚咽が止まらないから、私はただ肯首する。
「かなちゃんとエッチした日だったよね。私たちが部屋から出たの。あの時のアクたんは1日目よりもずっといい顔してたよ。少なくとも、私があの日家に泊めた日のアクたんよりもずっと」
「少しくらいは安心してもいいのかしら。っていうか、自惚れてもらわないと困るわよ。せっかく好きって伝えたのに、失踪されちゃ適わないわ」
「……それは私も同じだよかなちゃん。アクアくんが私に自分はどうしたらいいのかって聞かれたことがあったの。何もかもを忘れて幸せを目指してもいいのかって。私は駄目だよって、自分の事は自分で決めないとって、そう言ったの。自立した人間二人が寄り添うことに意味があるって。そうじゃない関係は依存だって…」
「正論ね」
「ん〜でも、厳しい意見だね」
かなちゃんは私と同じ意見のようだけど、メムちゃんは少し困ったように笑う。
正しいのは理解しているけれど、それでも仕方がないと、メムちゃんの目がそう物語っているのがわかる。
「あの日」アクアくんに向けた言葉が間違っていたかと問われれば、間違っていないと今でも断言できる。
でも、「あの日」アクアくんにそれを伝えたことが正しかったのかと問われれば、私は答えられない。
「人に頼ることも甘えることも苦手なアクアくんがたった一度だけ見せた弱音だったのに。あのアクアくんが、我慢強くていつも一人で背負ってやり遂げようとするアクアくんが、私に縋りたくて伸ばしてくれた手を…私が振り払っちゃったんだ…」
気づけば頬が熱く塗れていた。
言葉にすると、とたんに感情が溢れ出て止まらなくなる。
メムちゃんが差しだそうとするハンカチを手で制して、塗れたおしぼりで目元を抑える。
メムちゃんへの遠慮じゃない。
私の小さな意地。彼女の包容力に身をゆだねてしまったら勝てないと思ってしまうから。
甘えることも、頼ることも、縋ることも知らない男の子が、それでも心の軋む音に耐えきれなくなって、泣きそうになりながら救いを求めて差し出された手を、それを私は「正しさ」ではねのけた。
そう気づいてから、何度も何度も後悔した。
手を引いて欲しがっている迷子の男の子がいて、その子が泣いていたら、自分で決めなさい、私も一緒に行くよなんて言うべきなんだろうか。
そんなことより涙を拭ってあげて、それから手を引いてあげるべきなんじゃないだろうか。
ずっと考え続けている。どうすればあの日アクアくんを引き留められたのか。
「私ね、今なら依存でも構わないって思ってる」
私はアクアくんを見舞った後で、彼が落ちた崖へと足を運んだ。
周囲に民家の数は少なく、鬱蒼として月明かりが無い夜なら、足を踏み外していてもおかしくはない。
だけど、私は自分の足で崖の上に立ってみて背筋が粟立った。高所恐怖所だからじゃない、ここからアクアくんが落ちたという事実に恐怖した。
彼が助かっていることを既に知っているというのに、アクアくんの側に這い寄った死の気配が想像よりも遙かに濃厚であった事実にただ怯えた。
もしかしたら、私の知らないところでアクアくんの命が消えていたかもしれないという事実に身体が震えた。
そして、その時だった、私の中にひとつの覚悟が生まれたのは。
どんなことをしてもアクアくんを離さない。
引き留める。誰にどんな目で見られても、何を言われても構わない。
アクアくんが何処にも飛んでしまわないように私に縛り付けてしまおう。
「アクアくんが自分で決めた道が死につながっているなら、私はアクアくんの手を無理矢理引っ張ってでも生きる方へつなぎたい。アクアくんを殺してしまう自立よりも、アクアくんを生かすための依存の方がずっといい」
そっか、とかなちゃんが納得したようにうなずいた。
「結局アンタ達がやろうとしたかったことって、アイツにたくさんの未練を作ってしまいたかったってことでしょ」
「だね。アクたんなら、きっと自分が抱いた子のことどうでもいいって放っておいたりしないもんねぇ」
「縛り付ける鎖なら多い方がいい、そういうことでしょ」
「うん。ごめんね…ごめんねかなちゃん、メムちゃん。巻き込んじゃって」
「あ〜泣かないでよあかね〜〜」
メムちゃんに頭を撫でられる。
子ども扱いされてるみたいで悔しいけれど涙が止まらない。
「そうよ、謝らないでよ。私は納得してるわ。好きって伝えて初めてもアクアにあげられたんですもの。満足してる。癪だけどあんな強制イベントが無かったらいつになっていたのかわからない。もしかして、想いを伝える前にあーくんが死んでたかもしれない、でしょ?」
かなちゃんが太陽みたいに眩しく微笑む。
「だったら、寧ろお礼が言いたいわ。おかげで私、あーくんに好きって言えた。愛してるって。それで、あーくんと結ばれることも出来た。ありがとう、あかね」
ずるいよかなちゃん。
もっとかなちゃんらしく罵倒でも何でもすればいいのに。
そんな眩しい笑顔向けられたら、涙が止まらないよ。
「どうせならアイツが身動き取れないくらい鎖で雁字搦めにしてやるわよ。諦めて幸せになるしかないって思わせてやらないと」
かなちゃんも私と同じ結論になってたらしい。
アクアくんが自分の幸せを諦めるなら、私達はアクアくんが幸せになることを諦めない。アクアくんが幸せから逃げることにヘトヘトになって疲れ果てて、大人しく幸せになることを受け入れさせてしまえばいい。
「それで、今日ルビーがいないこともアクたんと関係があるんでしょ?」
「うん。ルビーちゃんは今頃準備してるんじゃないかな」
「準備って何よ。何処かにでも行こうっての?」
相変わらず察しが悪いけど勘は鋭い。
「うん、宮崎に」
すっかり冬の匂いが強くなってきた夜風に、湯上がりの火照った身体を冷ます。
窓の外から見える景色は、さりなが病室から見ていた景色よりも賑やかで騒がしいから私は好きだ。
けれど、窓の枠に収まっている星空は、さりなの記憶にある星空よりもぼやけていて私はあまり好きじゃない。
アクアをエッチをしないと出られない部屋に閉じこめて、7日目に私の仕業だってバレた。
お兄ちゃんは私を抱かなかったし、せんせは私を怒らなかった。
私以外の子達は、アクアに抱かれた。
MEMちょはお兄ちゃんの全部を受け止める(お姉ちゃん?お母さん?そんな感じの)余裕が出始めている。
あかねちゃんは二度とお兄ちゃんの側から離れないという覚悟(というには湿度も粘度も高い気がするけど)みたいなものが露わになってきた。
ロリ先輩は今までが何だったんだろうってくらいストレートに甘えるようになった(以前からことあるごとにすぐに浮かれてたからある意味平常運転だけど)。
アクアに薄靄のように絡みついていた怨念のようなものが少し薄れた気がした。目を離した瞬間に猫のように音もなく姿を消してしまいそうな不安定さが消えた気がする。
私の目的はある程度達成された、のだと思う。
けれど、私は納得していない。
そして、アクアも納得していない。
だから、私達は話し合うために、旅行に行くことにした。スケジュールは当分抑えてある。ミヤえもん様々だ。
「残念だったね、お兄ちゃんに抱いてもらえなくて」
嘲りを少しも隠さない声が神経を逆撫でする。
「なに?見てたの?子どもが見るものじゃないでしょ」
私はこの子が嫌いだ。
だから声についつい棘が出る。
「子どもはそっちでしょう?前世も今世も。あ、大人になりそこねちゃったんだっけ」
クスクスと笑う声に苛立ちが増す。
この子も私が嫌いなんだと、それだけで理解が出来る。
「推しの姿は何でも見ておきたいものじゃないの?」
彼女の周囲の烏がご主人様に賛同するように各々鳴き声を上げるのが耳障りだ。近所迷惑だしやめてほしい。
「他の女の子とエッチなことをしてるのなんて見たいの?理解出来ないんだけど」
私だったら脳が破壊されちゃう。
アイが男に抱かれてる姿なんて想像するどころか、字面すらおぞましい。
だけど、窓の外でベランダの手すりに腰掛ける女の子は愉しげに笑う。
「私達ってそういうのに寛大だから。女の子の温もりに縋るしかない彼も、あれはあれでとっても可愛いし」
微かに目を細めて笑う表情は、私を馬鹿にしていた時とは違う。
「随分気に入ってるんだねアクアのこと。アクア?それともせんせ?」
「ん〜どっちも?最初は前世の貴方にふれ合ってるところだったかな。とっても歪で孤独なのに、綺麗だなって。貴方に対して生まれて初めて抱いた感情に戸惑っているところなんて特に可愛かった」
なんだそれ、初耳だ。くわしく。
「でも、生まれ変わってからのもがき苦しむ姿もとっても愛しかった。つい口出しするくらい」
「ふーん。アンタにとっては私はおまけなんだ」
とんだ引き立て役Bだと思ってると、目の前の女の子はきょとんと目を丸くする。勉強で私が見当違いの回答をした時のアクアに少し似ている。
「あー、そういう勘違いしてるわけか」
ぽんと手を叩く姿は可愛らしいのに、白々しくも見える。
「あのね、おまけは彼。主役は貴女なのよお姉ちゃん」
「はぁ?」
「芸能の神様ってね、情熱的だし衝動的なんだけど、細かいことが出来ないの。感情でしか動かないから馬鹿なのが多いし。
才能のある子を守りたい、育てたい。それを邪魔する奴は処分したい。そうは思っても、どうやるのか方法は丸投げ。
ま、歌って踊るくらいしか能がないからそんなもんだよね」
自分の上司?に対して随分な言いようだ。
日本で最初のストリッパーに、謀略なんて立てられるはずがないと言われればそうかもしれないけれど。
「お姉ちゃんの魂の輝きに魅せられたのはお兄ちゃんだけじゃなかった。
だから4年間も待ってたの。
最高の魂を最高の肉体に入れたいっていうのが神様の希望。最高の役柄にお気に入りの役者をあてたいって考えることは神様も人間も一緒。
芸能を盛り立てる才能を私利私欲の為に台無しにする鬼を討って欲しいけれど、せっかくの才能が潰されたら、それはそれで困っちゃうからって神様は無い頭を使って考えたの。
復讐をするお姉ちゃんを支える補助人を一人付けようって。
壮大な復讐劇の主役はもちろんお姉ちゃん。でも、お姉ちゃんが途中で退場してしまわないように、お姉ちゃんを舞台袖から助ける人が欲しい。
最悪の場合お姉ちゃんの盾になってくれる人が必要だから、余り現世に未練が無くて、すぐにお姉ちゃんの危機に駆けつけられる頭の良さと献身さが無いとだめ。
それから、死んでも誰も悲しまないような孤独な人がいい」
ざわっと髪が逆立つような気がした。
私の為に用意された捨て石が誰なのかなんて問うまでもない。
せんせを、私の大切な人をそんな風に扱っている奴がいることが許せない。
お腹のあたりがぐつぐつと煮立つように熱い。
この感情が何なのか、私は知っている。
憎悪だ。神様だろうと関係ない、せんせをそんな風に扱った奴への憎悪がお腹の中でぐるぐると蜷局を巻く。
「こわーい。そんなこわい顔しちゃ神様がかわいそうだよお姉ちゃん。だって彼を選んだのは私だもん」
「…はぁぁ?どういうつもり?」
くすくすと少女が笑う。
その笑顔を今すぐナイフで引き裂いてやりたい。
「候補は色々いたし、本当に偶然だったの。
偶然彼が死んだ時に、取引したんだ。だっていつもいつも案内役をしてるのは私なんだよ?少しくらい私にも利益があってもいいでしょ」
指先に止まっている烏が愛しのご主人様に相槌を打つように鳴く。
「この魂を貴女の補佐役にして欲しいって。ちゃんと使命を果たすように導く代わりに、無事に達成した後の処遇は私に任せるように要求したの」
少女がうっとりと微笑む。
月明かりを浴びて輝く花が時々不気味に見えるのと同じ、綺麗なのに不気味で怖気が走る。
「ちゃんと貴女が復讐を果たしたら、彼を私にくれって。
正直、目的が完璧に達成されたのかは微妙だけれど、後は貴女次第よね。
当初の形とは違う形だけれど、貴女はこの一連の事件で成長した。
芸能の才能を開花させた上で、芸能の世界の発展を阻む者を消すことも出来たから神様は大満足」
ぺろりと彼岸花のように赤い舌で唇を舐めながら女の子が歌うように語り続ける。
口を挟む余地の無い、さながら朗読劇の観客の気分だ。
「だから、私は待ってるの。彼が私のところに来るのを」
「じゃあ、何でアクアを助けたのよ」
「へぇ〜気づいてたんだ」
あかねちゃんが不思議に思っていた。
何であの高さから落ちたアクアが、冬の海に落ちたアクアが助かったのか。
奇跡と皆は言っていたけれど、私には奇跡よりももっと底意地が悪くて、恣意的なものに心当たりがあった。
「お礼ならいらないよ。私も少し味見出来たし」
味見という言葉に引っかかるものがあったけれど、敢えて無視する。
私の精神衛生上、この子とは出来るだけ話さない方がいい。
「だって、頑張ってたんだから、ご褒美を上げないとかわいそうでしょう?」
煽っているとしか思えない物言いの最中、一瞬少女が真剣な顔をした。
「どうせ私のものになるけれど、磨耗した心よりも満たされた心の方が私は欲しい。
だから、彼には出来るだけ幸せになってもらわないと嫌なの。
もし、余りにも彼が自分を幸せにすることに関して無能なら、貴女達に動いてもらえばいいのだから。
あの部屋に閉じ込めた時にも、少しだけ協力してあげたでしょ?
滅多にしないからね」
なんてことだろう。
びっくりするぐらい私利私欲に塗れた神様達だ。
「じゃあね、お姉ちゃん。頑張って幸せになってね。神様の加護も貴女にはた〜っぷり付いてるから」
烏たちが一斉に哄笑を上げる。
こんなものを私達はありがたがっているのかと思うと泣けてくる。
今後一生お賽銭もおみくじも引くものか。
なんていびつで
なんてあわれで
なんてこどくで
なんてうつくしい
その魂に魅せられた。
役目なんて無視してずっと見つめ続けていた。
芸能のことなど、然程興味も無い。
ただ、今度は違った。
何回
何十回
何百回
何千回
何万回
数えるのも馬鹿馬鹿しい役目の中で
初めて自分の願いを叶える機会が巡ってきた。
自らの欲望を満たすことが出来ることに心がざわめいた。
心がざわめく…コレがそうなのか。
胸の奥の小さな檻に静かに収まっていた鳥が、
羽ばたくために、翼を膨らませる瞬間がいつまでも続くような、
すぐにでも飛び立ちたい衝動と、まだまだ翼に力を溜めておきたいような矛盾した感覚。
柄にも無く、いつもの命を与える無垢で愚かな彼らに感謝の念を抱いた。
この巡り合わせに心から感謝をしたい。
正しく、こういうことを人々は言うのだろう、
「神の悪戯」と…