金輪際現れない
一番星の生まれ変わり。
「行きたいところがあるの」
ルビーの言葉には有無を言わせない力があった。
気圧されたわけではないが、あらがう気も起こらなかった。
アイをも上回る輝きと、アイには無かったあけすけな感情の煌めきを宿した紅玉の瞳を前にして、未だに自分のあり方がわからずにふらふらとしている俺ごときが楯突くことなど出来るはずもない。
「二人で飛行機乗るの初めてだね」
「というか二人で旅行自体初めてだろ」
窓の外に広がる街並みを眺めるルビーの横顔は楽しそうではあるが、どこか影を帯びていた。
いつもはおしゃべりなルビーが多くを語らないのを良いことに、俺は目を閉じる。
眠れるとは思わなかったが、こうして考えごとに没頭出来る時間を手に入れることが出来たのは僥倖だ。
少しだけ俺の体調は快復傾向にある。
客観的にそう判断出来る程度に、俺は自分を覆う重苦しいものがいくらか軽減されたのを感じていた。
きっかけは、認めるのが少々気後れするが、「あの部屋」に閉じこめられてからだろう。
MEMを抱き、あかねを抱き、有馬を抱いた。
こう書くと、女たらしの最低なヤリチン男のようだが、残念なことに事実だから仕方がない。
揃いも揃って優しい人たちだ。
こんな俺を受け入れてくれたのだから。
初めてはもっと彼女たちに相応しい場所と相手がいただろうに。
と、自己卑下をするときっと怒られる。
俺と身体を重ねる度に、こっちが情けなく物怖じするのにも構わず「好き」と何度も言われた。「愛している」とも。
目眩がするほど何度も何度も好意と温もりを与えられた。
あそこまでされれば、俺にもわかる。
ルビーとあかねがどうしてあんな馬鹿げたことを企てたのか(その企てにまんまとハマった俺が馬鹿げたなどと言う筋合いは無いのだが)。
俺を、こんな俺を好いてくれている女性がいると伝えること、俺が安易に命を投げ出すことをさせないように、ひたすら俺に好きだと言い続けるためなのだと、今ならわかる。
そして、確かにそれは劇薬だが効果はあったのだろう。
俺は今、自分の命を投げ出そうと思うことが少なくなっている。
すぐにもで消えたいと思う度に有馬の怒った顔が、
どうして生きているのかと思う度にあかねの泣き顔が、
いっそ死んでしまおうかと思う度にMEMの哀しげな顔が、
脳裏をよぎるようになった。
彼女たちの顔が浮かぶことが増えるにつれて、雨宮吾郎の声が少しずつ減っていった。
魘されることが少し減り、眠れる時間が増え始めた。
それでも、俺には今なお胸の中にぽっかりと開いた洞穴から吹く風の音が聞こえる。
死にたいとは思わなくなってきた。
だけど、生きたいとも思わない。生きていて良いとも思えない。
あかね達が注いでくれた溢れそうな愛情のなかで、ぷかぷかと漂っている、そんな情けないのが今の俺だった。
だって、仕方がないだろう。
俺を好きだと言ってくれる彼女達がどれほど魅力的で素晴らしい女性だとしても、俺自身に彼女たちから想いを向けられるような価値が無いとしか思えない。
俺が今生きていることを享受しているのは、俺自身に価値を見出してるからじゃない。
俺が死ねば、おそらくは彼女たちが傷つくだろうと予想されるから死なないでいるだけだから。
・
・
・
「ガーベラを包んでください」
華やかな薄桃色の花を抱えて、スマホを確認しながら歩くルビーの後をついて行く。
バス停で時刻表を見ると、一時間以上は待たなければならない。
早々に見切りをつけたルビーは歩いていくことを決めたようだ。
判断が早い。
相変わらずの田舎道。
空気の良さくらいしか取り柄のない、変わりばえのしない道だ。
「もう少し歩くから。大丈夫?お兄ちゃん」
「お前に心配される程落ちぶれちゃいない」
「ふぅん、体力すっかり減ったのに?」
返す言葉もない。
アイドル活動やタレント業、女優業をフル稼働でこなしているルビーと、虚無感を抱えながら日々を浪費しているだけだった俺とでは体力の差が、いつかのJIFの頃とは逆転していた。
「ここから坂道なんだね」
「しばらくは坂道が続くぞ」
「お兄ちゃん、へばらないでよ?」
「人に荷物持たせておいてよく言えるなお前」
「え〜?女の子に荷物持たせるの?マジ、さいあく」
「有馬っぽく言うな。無性に腹立つ」
「あははは」
無邪気に笑うルビーを、無言でにらみつける。
白い歯を見せて、輝くように笑う妹はやはり可愛いなと思うのは兄の贔屓目か、あるいは吾郎のさりなちゃん贔屓だろうか。
しかし、体力については実際問題少し不安でもある。
正直、ここから続く坂道の距離と傾斜を考えるとありえない話ではない。
何処へ行くのかはまだ彼女の口からは聞いていない。
聞くまでもなかった。
俺はルビーよりも、この道も、この道が何処へ続いているのかも知っていた。
「前からここにあるのは知ってたの」
微かに降り積もった木の葉を、俺は無言で払いのける。
軽く砂を指で落とすと、そっと墓碑銘をなぞる。
──── 天童寺家之墓 ────
伸びきった雑草、絨毯のように散らばった枯れ葉、砂埃に汚れた石。
誰の手も加えられていないことが一目でわかる。
花はない。
費やした年月をここに来て初めて感じた。
「どうやって?個人情報とか厳しいだろ」
「私もそう思ったんだけどね。ダメもとで病院に問い合わせたら教えてくれたよ。親族が許可を出してるから構わないんだって言ってたけど」
どういう意図だろうか。もし、墓参りを希望する者が出たら素直に案内しろというのか。
壊れてしまったさりなの母親のせめてもの親心なのだろうか。
娘の死を悼む者が少しでもいてくれたらと。
「娘の死を悼んでくれる奴がいたら拒みたくなかった…んじゃないか」
「あははは、嘘は嫌いだな。アクア、自分でも信じてないくせに」
「さりなちゃん…」
「きっとさ、お母さん面倒くさかったんだと思うよ。万が一にでも問い合わせが来た時に対応するのが。だから好きにしてほしかったんじゃないかな」
からりとした乾いたルビーの声に胸が痛くなる。自分が言っていることがどれほど寂しいことなのか、この子はわかっているのだろうか。
きっと、ルビーの言葉が正しい。
俺もそう思っているからだ。
さりなの家族は皆宮崎を離れた。
さりなだけをこの場所に遺して。
無かったことにしたかった娘を、本当に無かったことにしたのだ。
この土地に埋めることで。
俺は途中で購入していた掃除道具を取り出す。
雑草を抜き、落ち葉をかき集めるとゴミ袋に入れる。
水を張ったバケツにスポンジを浸すと丁寧に汚れを拭っていく。
墓碑銘の凹みや溝、隙間にこびり付いた汚れは歯ブラシでこそぎ落としていく。
ありがたいことに洗剤を使わなければいけない程汚れていないことが少し不思議だった。
砂やホコリがついてしまわないように最後にタオルで水をしっかりと拭き取ってやる頃には、軽く汗が額に浮かんでいた。
使い終わった道具を袋に詰め終わると、ルビーがガーベラを供える。
「せんせーは来てくれてたんだってね」
供え終えたガーベラを見つめながら、ルビーが哀しげに笑う。
俺たちが持ってきたガーベラ以外に花はない。
「それも病院情報か」
情報管理がザル過ぎる。
「さっきのお花屋さんが言ってたの」
「18年も前のことよく覚えてたな」
「この辺じゃ珍しく若い男の人が、白衣姿でお花を買って行くのはなかなか印象的なんじゃないかな。あ、そうそう、イケメンだったって店長さんが言ってたよ。せんせやっぱりイケメンなんだ。私の見る目もなかなか」
手を合わせる訳でもなく、ルビーはじっと刻まれた墓碑銘と、薄桃色のガーベラを見つめている。
「私はママのお墓掃除ちょくちょくやってたけどさ、お兄ちゃんも結構手際良かったね。せんせだった頃にもしてくれてたの?」
「まぁな」
「そっかぁ…せんせーが来れなくなったから、こんなに荒れちゃってたんだ」
何も言えずに、墓前にしゃがみ込むルビーを見下ろす。
前髪に目元が隠れたその横顔からは、微かに口元に浮かぶ笑みだけが見える。
ルビー/さりなの抱いている感情が俺にはわからない。
微笑みを浮かべているのに寂しげで、けれども痩せ我慢をしているような、復讐の道に足を踏み入れかけていた頃のような痛々しさを思い出させる。
俺は、僕は、また彼女のサインを見逃しているんじゃないか。
俺一人が来なくなっただけで、此処がこれほど汚れて寂れてしまうことの意味がわかっているはずなのに。
いや、わかっているからこそ、痩せ我慢をしていると疑うべきじゃないのか?
「そんなに悲しそうな顔しないで?」
ルビーが困ったように眉を寄せる。
「せんせーが思ってるほど、私もう気にしてないよ。あの人は私から逃げて、無かったことにした。信じたかった気持ちは勿論あるけど、あの頃から本当はわかってたんだ。それを認めるのが遅くなっちゃったけど。まさか死んで、もう一度生まれ変わるまで時間掛かっちゃったけど。仕方ないけど、でもきっとどうしようもなかったんだよね」
静かな声だった。
あまりにも穏やかな口調に僕の方が動揺するほど、ルビー/さりなちゃんの感情が見えなかった。
仕方がない?あれほど愛に飢えて、求め続けた君が?
潔癖過ぎる故に、アイを母親の代替にした自分を責め続けていたお前がそんな風に割り切れるのか。
この子"達”は余りにも嘘が上手い。
俺はその嘘を見抜けず、ルビーが、さりながギリギリまで自分を追い詰めるまで気付かなかった。
いや、それだって、偶然、この子が自分が生まれたことを呪っている場面に出くわしたからだ。
そうでなければ、きっと壊れて初めて気付き、取り返しのつかなさに後悔し、絶望していただろう。
俺はそんな愚かな兄なんだ。
だからこそ、注意深くルビーの横顔を見つめる。
・
・
・
傍らに佇む兄が、静かに心を痛めている。
お兄ちゃんが私を心配そうに見ているのが何となくわかった。
静かに佇むだけで何も言わないことは彼の思いやりだ。
アクア/せんせは優しいね。
きっとせんせは、私が「あの人」から愛情をもらえなかったことを割り切っていると、そう口にしていることに不安を抱いているのだろう。
いつかのように、私が壊れそうな自分の心の悲鳴に蓋をしていると、無理をしているんじゃないかと、そう思っているに違いない。
本当に、もう、あの人のことはどうでも良いのに。
自分のなかで一度区切りがついたことに、私は自分でも軽く引くくらい素直に割り切ってしまえると最近気づいた。
割り切ったのではなく、吹っ切った方が正しい。
此処に来るまで、「お母さん」のことはもうすっかり忘れていたのだから。
おかしな話だ。かつてはあれほど毎日思い返していた人なのに。思い出にすがりつきさえしていたのに。
それは、私が変わり始めている証拠なんだろう。
「私ね、ここに来るのが怖かった。本当に今更どうしたんだって思うかもしれないけれどね、此処に来て、さりなが死んだって思うのが嫌だったんだ。だって、さりなは私で、私は此処にいるのにおかしいよね」
同じ秘密を共有するアクアには、自分でも何度も口にしたのに。
前世のことは詮索しないでって。今は生まれ変わったのだと。
アイの子供として生まれ変わったんだって。私はルビーだって。
そう言っていたくせに。過去を断ち切ったようなことを口にしておいて。
「言ったよね。B小町を名乗ってライブで活躍していれば、いつかせんせーが見つ出してくれると思っていたって。だから、いつも全力でやってたって。でもね、本当はせんせが見つけてくれないかもしれないとも思ってたんだぁ。私が死んで20年が経ってるんだもん。せんせはどこかの誰かを奥さんにしてるのかもしれないなんて考えてた。だってせんせーはモテる人だって子供の私でも知っていたから」
お母さんによく思われたくて、聞き分けのいい子という「嘘」で自分を塗り固めるために、私は嫌になるほど周囲に敏感な子供だった。
だって、ろくに動いてくれない身体のなかで、私が使えるのは目と耳と口くらい。
だから、色々な話に聞き耳を立てていた。
看護師さん達がせんせを話題によく出していたことも、それが好意的なものが多かったのも。
綺麗で健康な女の人を奥さんにして、子供も生まれて、ただの患者でしかなかった子供の私のことなんてすっかり忘れてるんじゃないかって、ずっと怖かった。
「今ならわかるんだ。私がアクアに対してずっと感じてた違和感が。アクアがさりなを見つけだしてくれたのに、私がせんせを見つけ出せなかったのか」
なんてことのない、とっても単純なことだ。
「アクアはアクアで、ルビーはさりなだった」
アクアにとっては雨宮吾郎は記憶でしかない。せんせの記憶も、想いも、全部持っていて、それでもアクアはやっぱりアクアなんだ。
「私はずっとさりなだった。アイの娘として生まれても。ルビーって名前を貰っても。健康な体を手に入れても。さりなとは似ても似付かない…アイツ譲りの髪の色をしてても、私はルビーって名乗ってるだけの、アイを母親の代替品にしているだけの天童寺さりなだった。だから、少しも疑問に思わずにせんせが見つけだしてくれるって信じてたんだ」
もし、せんせが生きていて、B小町のこともアイのことも覚えてくれていて、ファンのままでいてくれて、私のライブを見て、私に会いに来ていたとしても、きっとそれは星野ルビーのファンでしかない。
私の想いは多分本当の形で満たされることはなかったのだと、今ならわかる。
「私はどこまでいってもさりなのままだって気づいた時、ここに来たくなかった理由にも気付いたの。でも、同時に寂しかった。アクアがせんせの遺体を見つけさせたってことに。アクアのなかでせんせが終わった過去なんだって思って。私だけが、さりなだけが取り残された気がしたの」
せんせはもう何処にもいないって、悲しく思った。
「でも…」
それでも、この人はルビーの中にさりなを見出してくれていた。
それがどれほど嬉しかったのか、この人はきっとわかっていない。
自分にそんな都合の良い救いが訪れる筈がないと、何度も否定していたとアクアから教えてもらった時、私がどれほど幸福だったのか理解もしていないんだろう。
「ルビー?」
「違うよ」
「…さりなちゃん」
「うん」
私を見つけてくれたこと。さりなを見つけてくれたこと。
私を救いと言ってくれたこと。さりなを救いと言ってくれたこと。
それがどれほど私を支えてくれたのか、きっとアクアはわかっていない。
それがどれほどさりなを支えてくれたのか、きっとアクアはわかっていない。
「せんせぇはアクアのなかにちゃんと居たんだね。ただ、アクアはせんせだけど、同時に私のお兄ちゃんで、それで全部ひっくるめてアクアなんだって。ただそれだけだって何となくそう思ったらね、気持ちが軽くなったの。私はあの夜にとっくに救われてたって。せんせとまた出会えて報われたの。もう、胸がいっぱいになるくらい」
せんせは居なくなってなんかなかった。
ただ、お兄ちゃんと混ざって、私にはそれがよく見えていなかっただけ。
アクアマリンは緑みを帯びた青。
そこにどれだけの青が混ざってるのか、どれだけ緑の配分が多いのかなんて一目ではわからない。
私はずっとせんせといたけれど、含まれた緑に気付けなかっただけだった。
「…そんなこと言うなよ」
「なんでそんな顔するの?変なの」
そんな泣きそうな顔しないでよ。
まるで、私が死ぬ時のせんせの顔と同じだよ?
「胸がいっぱいになるなよ、そんな些細なことで。俺は駄目な兄貴で、君を見つけ出すのだって、君がギリギリまで自分を追いつめてやっと気づいてやれた。寄り添ってやれたんだ。それなのに、簡単に満たされないでくれよ。そんな些細なことで報われたとか言うなよ。俺にもっと文句を言ってくれよ。もっと早く見つけろって、君は言って良い」
優しい人だな。
知ってたけど、世界中の誰より知ってたけど。
知ってたはずなのに、ずっと気づいてあげられなくてごめんね。
「文句を言うなら、アクアの方だよ。貴方が復讐で苦しんでることにも気付けずに、アイの墓を荒らしたなんて怒って、家族じゃないって罵倒して、勝手に見切りを付けて見放して、本当にごめんね。私酷い妹だね。アクアがどれだけ優しい人か知ってるのに。せんせだからじゃなくても、ずっと私を守ってくれてた過保護なお兄ちゃんだってわかってたのに」
「謝らないでくれ。俺は君を…」
「もう…アクア」
指先で、そっとアクアの頬に寄せる。
「泣かないで」
紺碧の瞳から、大粒の滴がこぼれるのを、指で拭う。
涙を拭った指先が熱い。
私の胸の鼓動が高鳴る。
これはさりなの想い。せんせへのさりなの想い。
そう、自分に言い聞かせる。
こんなアクアの表情を、あかねちゃんは、先輩は、MEMちょは知ってるのかな。
自分の付けた傷ばかり数えるのが上手くて、自分に付いた傷なんてこれっぽっちも見ようとしない馬鹿で不器用なお兄ちゃん。
復讐なんて、ホント何でやろうと思ったのさって問いつめたくなるくらい、お人好し。
私の方がずっと割り切ってやれちゃうよ、なんて言ったら全力で否定してくるんだろうね。
「だから、やっと決心が付いた。今日、此処に来ることに。せんせと一緒に。ねぇ、せんせ。せんせから見たら、さりなは家族に見捨てられて、ここに寂しく眠ってる悲しい子なのかもしれないけどね。今、私は案外悪くない気分なんだ。せんせの魂と私の魂は生きてこうして一緒に居て、せんせと私が眠る場所も、同じ場所だから」
下手に世間体を気にされて、東京にでもお墓を建てられるよりも、宮崎に眠らせてくれた方がずっと良い。
心の底からそう思う。
「せんせはどう思ってるのかわからないけれど、家族って血が繋がってればそれで尊いものなんかじゃないんだよ。どうしようもないものは、やっぱりどうしようもないんだ。お母さんが悪い人間だなんて思わない。同情の余地が無い人だとも思わない。家族と笑い合ってるあの人は、幸せそうで、家族と幸せを一緒に分かちあえるだけのきちんとしたまともな心を持っていることは事実なんだよ。だけど、あの人が、あの人とその家族が私を忘れ去ったことも事実で、私があの人達をどうでも良いと思ってることも事実なんだよね、困ったことに」
あはははと笑うと、せんせが悲しそうに眉を潜めた。
細めた藍玉色からせっかく拭ったのに、またポロポロと涙がこぼれる。
あーあ、本当に、お人好しだ。
っていうか、薄々感じてたけど、せんせはさりなに幻想を持ちすぎだと思う。
というか、アクアだ。アクアはさりなを神聖視し過ぎてる。
きっと、純粋で健気なさりなちゃんが、アイの死やアイドル活動や復讐で心が闇に堕ちて今のルビーになっちゃったなんて思ってやしないか。
「だからね、此処に来て何がしたかったのかっていうと、私もそろそろさりなが死んだっていうことに向き合いたいっていうこと。あと、せんせが思ってるほど、さりなはさりなだった時から不幸ばかりじゃなかったよっていうこと」
「さりなちゃん…僕は…」
「もう、せんせぇーってばそんなに泣き虫だったの?それとも私の前だから?」
だとしたら嬉しい。
私にとってゴローせんせは、いつも少しぶっきらぼうでとぼけたところがあるけれど、頼りになって優しい大人の男の人だった。
だけど、今目の前にいるのは、せんせなのに、同じ年の泣き虫な男の子でもあるんだ。
それが、せんせだとしても、アクアだとしても、私にだけ見せてくれる顔であることに、さりなもルビーも喜んでる。
あかねちゃん達にちょっとした優越感を覚える程。
「ほら、泣きやんでよせーんせ」
昔みたいにぎゅーっと抱きつく。
さりながよくせんせにやってたみたいに。
だけど、昔とは違う。
腰に抱きついてずっと上を見上げていた視線は、少し斜め上を向けるだけで十分。
背伸びすれば吐息がかかるほど顔も近い。
抱きついた腕は、手が届かなかったのに、今はしっかりと背中で手を合わせることだって出来る。
そのことが嬉しくて、やっぱり私達はさりなとせんせじゃなくて、ルビーとアクアなんだって実感する。
そうして、どれだけせんせを抱きしめていただろう。
寒い空の下で、私とせんせの体温が一緒になった頃、ようやく落ち着いたのか、頭の上でせんせが何度か深呼吸をするのを感じる。
「……ありがと、さりなちゃん」
「ん」
もう平気だと言うように、背中をぽんぽんと叩かれた。
今更子供扱いしても遅いよ。
赤くなった目元を少し乱暴に拭うと、せんせは見上げていた空から、私に視線を移す。
ドキッとするくらい、藍玉の瞳に強い想いのようなものが宿っていた。
「今度は、俺が連れて行きたい場所があるんだ」
その家は、古くて、物寂しい木造の家だった。
家は生き物だって何かで聞いた気がする。
お兄ちゃんの蘊蓄だったかな。人が住まなくなった家は少しずつその命を失って行くんだって。
屋根が崩れたとか、壁に穴が開いたとか、傾いたりしていても、人が住んでいる家は生きていて、見た目は殆ど変わってなくても誰も人がいないお家は死んでしまっている、それが「空気」でわかるんだって。
その時は「ふーん」くらいの感想しかなかった。
だって、私にとっての家は、さりなにとっての家はもう他人が住んでる家でしかなくて、ルビーにとっての家はいつも誰かがいる家だったから、いまいち想像ができなかった。
でも、今それが少しわかった気がする。
目の前にあるおうちは、確かに「死んでる」のだと。
「…雨宮…」
木彫りの表札を読み上げる。
せんせは郵便受けから鍵を取り出すと、引き戸を開ける。
立て付けが悪くなっているのか、引き戸はがたがたと硝子を揺らしながらぎこちなく開かれる。
「そいつは母親がいなかった」
玄関の奥の戸棚に立てかけられた写真立てを手渡された。
「あ…」
鼻の奥がつんとなる。
「若いだろ?ちょうど今の君と同じ頃だったかな」
目頭が熱くなる。
見間違える筈がない、薄れることの無かった姿、それよりももっと幼い姿
、写真には学生服を着た雨宮吾郎 ーーー せんせぇが写っていた。
「そういえばせんせのこと聞いたことなかったね。東京の大学に通ってたことは聞いたことあるけど。渋谷とか原宿を案内してくれるって言ってたもんね」
「よく覚えてたな」
「覚えてるよ、せんせーとのことなら」
「そうか…」
東京の大学に通ってた頃に女遊びしてたのかな。
「…俺には母親が居なかった」
「子供が出来たことを親にも隠して、一人で自宅で産んで」
「そして死んだ」
「父親は誰かわからない。今も生きてるのか、それとも死んだのか」
「子供が居たことをそもそも知っていたのか。母親とはどんな関係だったのか」
「何も知らない」
「別に天涯孤独って訳じゃなかった。祖父母が引き取ってくれたからな」
「施設送りになるより万倍マシだ。だから………そうだな、マシだったんだろうな」
だから…アイより恵まれていた、そう言おうとして口をつぐんだように見えた。
「悪い人達じゃなかった。ちゃんと教育を受けさせてくれて、クソ高い東京の医学部にまで行かせてくれたんだ。立派だったと思う。けど爺さんの方は俺のことが嫌いだったらしい」
せんせのお爺さん。
写真の中には ──── いない。
「娘の命を吸って生まれてきた奴。爺さんにとって俺は孫というよりも、娘の命を奪った奴に見えてたんだろうな。面倒を見てくれたのは婆さんだった。優しい人だった…と思う。けど、腫れ物を扱うみたいにされてた気がするな」
写真立てのせんせは、笑っていない。
隣に写るお婆さんは笑っているのに。
二人の間にはまるで透明な壁が一枚通っているみたい。
「正直気まずかったよ相当」
小さくせんせが笑った。
笑ったのだと思う。
「医大に行くって言ったら、疑いもせずに産医になるんだねって言われた。母親のことがあったからって。優しいのねって」
写真の中で優しげに笑うお婆ちゃんが、泣いて喜ぶ姿が目に浮かんだ。
そして、そんなお婆ちゃんを何の感情も無く見つめるせんせの姿も。
「別に母親のことを思って医者になろうと思ったわけじゃない。ましてや産医なんてな。
ただ好きだった小説に出てくる医者がかっこよかった、それだけだ。外科医になりたかったんだよ俺は」
想像していたよりもずっと可愛らしいせんせの動機に、胸がきゅんとなる。
「勉強は幸い出来た。人の力になれる仕事にも憧れてた。だから、医者だって思った……いや、カッコつけても仕方がないか。もっと情けない理由だよ」
せんせが初めて見る顔をしていた。
「俺はね、さりなちゃん」
せんせは、笑おうとして、笑い方を忘れてしまったように、顔をくしゃりと歪める。
「生きていて良かったと思ったことがなかったんだよ」
奈落のような表情に、心臓が冷えた。
「人に必要とされた時、少しだけホッとするんだ。まだ、此処に居ることを許されているような気がして。だから求められればすぐに応じた。悩みだって聞いた。力になれることなら何でも力になった。けど、それだけじゃ駄目だったらしい」
せんせが私を見下ろす。
「自分だけを見て欲しい、そう何度も言われたよ。何であの子にも優しくするんだって泣かれたこともあった。わけがわからなかった。大切にしていたのに、大事に思っていたのに、それなのにどうして怒るんだ、なぜ泣くんだって。ただ、自分のせいで傷ついていることだけはわかった。嫌われるのは構わなかった。だけど、自分のせいで傷ついて泣いているのを見るのは我慢出来なかった。そうして何人も何人も、付き合って、別れてを繰り返した」
嫌われるのは構わなかった。
自分のせいで傷ついて泣いているのを見るのは我慢出来なかった。
その言葉に思い出す。
アクアが私にせんせだと教えてくれた夜。
せんせが私をさりなだと見つけてくれた夜。
アイの墓を暴露するようなことをして、私から家族でも何でもないなんて、酷い言葉を、そう、思い出す度に当時の自分を張り倒したくなる言葉を受けて、それでもアクアは言い訳を何一つしなかった。
そんなアクアが私に歩み寄ったのは、私が追い込まれていた時。
お母さんのこと、せんせのこと、自分自身のことで自分を追い詰めて泣き伏していた時だ。
本当に、この人は、アクアはせんせで、せんせはアクアなんだ。
「君は、アイを母親の代替にしていたと自分を詰っていたよね。俺にはそれすらないんだ。母親がわからない。知識としてなら知ってる。概念としても知ってる。ぼんやりとだけど理解しているつもりなんだ。だけど、アイがなろうと望んでいたのも、ミヤコさんがなれないと嘆いていたのも、それに君があれほど渇望していたのも、俺には共感が出来なかった」
せんせが壊れたようにしゃべり続ける。
「アイを大切な人だと認識はしていても、彼女を母親だと思えない。ミヤコさんが一番近いものだとわかっていても納得しきれない。じゃあ、何が俺にとっての母親なのかと問われても正直答えられない。笑えるよな、母親理解出来ていないくせに、アイに子供を産ませてやるなんて豪語したんだ」
私が今聞いている音が言葉なのか、にわかにわからなくなる。
風だと思った。
洞穴から吹いてくるような風。
いや、違う。
そんなに力強く無い。
「君に母親に、アイに囚われるなと言っておいて…俺は全く、なんて醜いんだろうな。俺は…僕は、僕は何だろうな。俺は何なんだ」
これは風音だ。
罅割れた蓋の隙間から吹き込むような、聞いているだけで凍えそうな風音だ。
アクアが雨宮吾郎だった頃から、ずっと抱えていた亀裂から吹きすさぶ風に私はさらされている。
「わかんなくても良いよ」
「え…」
「お母さんのことを知らなくても、お母さんがわからなくても、それを嘘で誤魔化しても良いよ?」
せんせの頬に指を伸ばす。
すっかり冷えてしまった頬を手のひらで軽く揉んでやる。
ぐにゅぐにゅと、アクアの綺麗な顔がおもしろくゆがむ。
なされるがままのせんせは、途方に暮れた子供のようで可愛い。
「嘘はとびきりの愛、せんせぇにとっても、アクアにとってもそうだったんだね」
ようやく、このお家に来て、色々とお話を聞いてわかった。
確信した。断言してもいい。
この人は本当に馬鹿だ。
私の12年間は、楽しかった思い出なんて、余り思い出せない。
病気のせいもあるけど、もう、あの人にひも付く思い出なんて、忘れてしまいたがってるんだろう。
忌々しいというか、坊主憎けりゃ今朝まで、今朝?ケサ?とにかく、何でもかんでも腹が立つわけだ。
天童寺って名字すら頭に来る。
「私の思い出ってね、殆ど病室だった。病室とアイばかり。同じくらいの年の子がこんなにキラキラ輝けることが私にとっては奇跡みたいに映ってた」
「ああ、君は、本当にアイを語るときは…」
「でも、本当は同じくらい憎かった」
・
・
・
指先に触れる頬がこわばったのがわかった。
私だって、指先から震えが伝わるんじゃないかってドキドキしている。
だって、これは初めてだから。
ルビーがアイを重荷に感じてたことは話した。
ルビーがアイを忘れたいと思っていることも話した。
さりながアイに憧れていることなんて語るまでも無い。
でも、さりながアイを憎んでいるなんて、せんせは初めて聞くでしょ?
「びっくりした?」
「ぁ…あぁ…」
「あはは、スゴい声掠れてる。動揺し過ぎでしょいくら何でも」
せんせが目を見開いている。
見てはいけないものを見てしまった人、そんなタイトルが付きそう。
やっぱりせんせは私に、さりなに幻想抱き過ぎだよ。
苦笑がこぼれる。
「せんせのなかでは、私は世界を憎んでいても、それでもキラキラしてたんだよね?うん、ありがとう。アイより眩しいって言われた時は頭がおかしくなるんじゃないかってくらい嬉しかったよ」
私が知ってるなかで、あれを超える口説き文句を今後の人生で聞くことができるのだろうか。
きっと無理だろうな。
「けどね、せんせには絶対見せなかっただけ。確かに私はアイに憧れていた。今でも一番の推しはアイ。
ルビーにとって星野アイはお母さんの代替にしてしまった人だけど、やっぱり可愛くて大好きなママで、完璧で究極のアイドル。
天童寺さりなにとっては、もっと身近で、同じ年なのにキラキラ眩しくて、可愛くて、魅力的なスターで…
自分とは違って健康で楽しそうな、妬ましくて妬ましくて仕方がない女の子。
アイが藍色の髪を靡かせてターンをするとき、私は髪が全部抜けちゃった頭をニット帽で押さえてた。
アイが弾むようなステップでファンを魅了している時、私はずるずると芋虫のように這いずっていた。
アイの名を皆が叫んでる時、私の名前を呼んでくれる人はいなかった。
同じ年の女の子なのに、どうしてこんなにも違うんだろう。
あの子のようにどうして私はなれなかった。どうして私は生まれてしまったの。あの子がうらやましい。ねたましい。にくらしい」
「さりなちゃん…っ」
「びっくりした?」
せんせが痛ましそうに私を見下ろす。
きっと聞くに耐えないんだろう。これ以上聞きたく無いのだろう。
でも、そうはいかない。
「アイのライブが心の支えだったのは嘘じゃない。でも、アイが居たってすべての苦しみなんて消えたりしない。ううん、寧ろアイを知って私はもっと自分が惨めになった。妬ましくて仕方がなかった。何も知らなければよかったのに、知っちゃったんだもん」
せんせには聞いてもらう。
せんせにはさりなを知ってもらう。
「私と同じくらいの年なのに、私なんかと違ってスポットライトを浴びて、お星様みたいに輝いてる女の子を知っちゃったんだもん。自分が嫌になった。死にたくないのに、早く死んでしまいたかった…」
「さりなちゃん…もういい…もう…」
「でも、そうじゃなくなったの。だって、私にはせんせがいたから」
「 ──── っ」
だって、それは貴方のことを知ってもらうことだから。
「最初は何だろうこのお兄ちゃんって思った。暇なのかなって。よく来るなって。なぁんだお母さんが来てくれたと思ったのにってガッカリしてばかりだった。でも、ガッカリはすぐにどっか行って、ワクワクするようになった」
開くことなんて期待してなかった病室のドアが開かれる瞬間、塞いでいた心が弾むようになった。
せんせを心待ちにするようになった。
「せんせぇ、今日はまだかなってソワソワするようになった。
病気が苦しくて汗かいちゃった日に来られた時は空気読んでよって思った。
寝癖があるのを見つけた時はちょっと得した気分になった。
その服この前も着てたなってせんせの服のローテーションがわかるようになった。
看護師さんと楽しげに話してるのを見てむかむかするようになった。
私の見舞いに来ないお母さんのことで、本気で怒ってくれて嬉しかった。
アイのこと可愛い可愛いって言ってた時はロリコンって心の中で罵倒してた」
私が布教したくせにね。ひどいね。
「おい」
「えへへへ。ごめんね。だって、デレデレしながらアイのライブ映像見てるんだもん」
せんせの頬が緩んだのが手のひらに伝わってくる。
「せんせがね寄り添ってくれたから、私の思い出は真っ暗じゃないの。
せんせがいつも側に居てくれたから、せんせがいてくれたおかげで、私はアイのファンでいられたの。
私一人だったら妬ましくて、悔しくて、アイのことが嫌いになってたかもしれない。
嫌いになるだけじゃなくて、憎くて、憎くて憎くて仕方がなくなって、いっそ殺してやりたいって思ったかもしれない。
でも、そうならなかった。
せんせと一緒にアイの歌を聴いて、アイのことをお話して、
アイのライブを見て、二人で盛り上がる時間が楽しすぎて、
アイに嫉妬してたことだって、つい最近まで忘れてたんだ。
せんせが私にとってのアイをまぶしい一番星のままでいさせてくれたの。
せんせが私の好きを守ってくれたし、私に人を好きになることも教えてくれた。
ねぇ、私の最後の瞬間は凄く輝いてたんだよ?
泣いてるせんせの顔にこっちまで悲しくなったけど、凄く凄く苦しかったけど。
私はあの瞬間、私のことだけを想ってくれてる人に看取られて幸福だった」
「さりなちゃん…俺は君にそんな風に」
「そんな風に思われる男じゃない?お母さんがせんせを産んで死んだから?誰にでも優しくして女の人をとっかえひっかえしてたから?人を好きになれないから?」
「……」
「せんせは嘘吐きだね。アクアも嘘吐き。一番酷い嘘吐き。一番駄目な嘘吐き。だって、自分にまで嘘を吐くんだもん」
意味が分からない、そんな顔をしているアクアの頬を軽く抓ってやる。
本当に馬鹿。お医者さんになるくらい頭良いのに、凄く馬鹿。
「どれだけせんせが否定しても、せんせが私に注いでくれたのは絶対に、紛れもない ──── 愛、なんだよ」
アクアの瞳が揺れた。
思っても見なかったんだろうね。
いい気味だ。
何でもわかってて、諦めてる顔にはうんざり。
俺なんて、俺ごときが、俺みたいな、そんな否定形は聞きたくない。
自己犠牲も自己否定も、自己嫌悪もお腹いっぱい。
「例えせんせがせんせの愛を否定しても、私は絶対にそれを否定させない。
だって、それを否定されたら、さりなはたった一つの光も失っちゃうんだよ。
せんせは否定するの?さりなが最後に救われたって言ってるのを。
アクアはそれは嘘だって言うの?私を奈落に突き落とすの?
そうやって…さりなを殺すの?」
「違う!!」
きんと尖った冷たい空気の中に、アクアの絶叫が、せんせの悲鳴が響いた。
「俺は、僕は、さりなちゃんを…」
「ごめん、言い過ぎたね」
頬に当ててた手をそのまま首に回して、ぎゅうっと抱きしめる。
恋人がハグをするみたいじゃなくて、泣いてる子を泣き止ませるみたいに。
「例えせんせが否定しても、さりなはせんせの愛情を肯定し続ける。アクアが自分の愛情を認めないって投げ捨てるなら、ルビーが拾う。ちゃんとしたお母さんが居る人達が誰一人として私を救ってくれなくて、愛してくれなかったなかで、お母さんを知らないせんせが私の光になってくれたんだったら、せんせのお母さんなんて知ったことじゃない。そんなことどうでもいい」
いらない。
ちゃんとした愛なんていらない。
「せんせ、ずっと言いたかった。大好きなせんせに。ありがとうって」
ほしくない。
まともな愛なんてほしくない。
「私にたくさん大好きを教えてくれてありがとう。辛いとき、寂しいとき、いつも側にいてくれてありがとう」
きょーみない。
ただしい?愛なんてきょーみない。
「私のせんせーでいてくれてありがとう。私の心を救ってくれてありがとう」
私は私を救ってくれて、私を満たしてくれて、私を幸せにしてくれる愛が良い。
「私と出会ってくれてありがとう…」
それがどれだけ歪でも、ひねくれてても、頼りなくても、私にはそれが、それこそが ──── 本当の愛だから。
「生まれてくれて、ほんとうに、ありがとう」
この言葉をずっと言いたかった。
私が生き続けることを願い続けてくれた貴方に、感謝と共に伝えたかった。
せんせ/アクアはなにを言われたのかわからないとでも言うように呆然としていた。
生まれて初めて聞いた言葉のように、私の言葉を受け止めきれずに、ただ、私に抱きしめられたまま視線を私から、宙へとさまよわせて、そうして、もう一度私を見つめる。
次の瞬間。
るぅっと、紺碧の瞳がゆらめいた。
湖面から水が溢れるように、藍玉から大粒の雫が零れる。
零れた雫は見下ろす私の頬に落ちて、流れていく。
雫がとても温かい。
寒さに凍てついた肌が涙の熱さに少しびっくりする。
せんせは口を微かに開いて何かを言葉にしようとして、短く息を吸い込む。
そうして、何度も言葉を口にしようとする度に、言葉は上手くまとまらないのか、せんせの口からは不規則な呼吸だけがこぼれる。
その間にも、私の頬にはアクアが零した雫が、せんせの瞳から溢れた泪が落ちては跡を描いて流れ落ちていく。
私はそれを黙って受け止める。
やがて、アクアがしゃくり上げ始める。
身体を震わせて、何度も何度もしゃくり上げるアクアの背をさすって、それからぽんぽんと優しく叩いてやる。
自然そうとしていた。小さい頃、私はこうされたことがあると、ふと思い出した。
誰にだろうか。
ママに?いや、違う。
あの人に?もう、忘れた。
ママを亡くして、泣いてばかりだった頃、何度もミヤコさんが私にしてくれたことだ。
泣いている私を抱き寄せて、私が落ち着くまで背中を優しくさすって、軽くとんとんと叩いてくれた。
そっか、ミヤコさんはとっくに私のお母さんだったんだ。
ミヤコさんが私にしてくれたことを、私も自然とやっていたんだ。
だって、今腕の中にいるのは、泣いている子供なんだからなにもおかしくない。
お母さんが居ないから、お母さんの代わりに私がそうしているんだ。
嗚咽を上げるせんせに胸が痛くなる。
おにいちゃん、もっと声を上げて泣いてもいいんだよ?
ここには私以外誰もいないのだから。
くしゃくしゃの顔は、随分と酷い、クール毒舌系イケメンが台無しだ。
酷い顔だ。
不細工だ。
みっともない。
かっこ悪い。
そして、苦しくなる程に痛々しくて愛しい。
目の前で泣いているのは、とても泣き方が下手くそな男の子。
泣き方を知らない、声を上げて泣いても意味がないってとっくに諦めて、泣くことを我慢している間に、泣き方そのものを忘れてしまった小さな男の子が、戸惑いながら泣いている。
アクアの涙を見たことはある。
せんせの涙も見たことはある。
だけど、アクアが泣くのは見たことがなかった。せんせの泣くのだって。
おにいちゃんはいつも泣いている私を慰めてくれたことはあっても、私は泣いているおにいちゃんを慰めるどころか、泣いている姿すら見たことがなかった。
転生しているのはきっと大人の男の人で、だから、この兄は賢くて、冷静で、そして泣いたりしないのだろうと、幼い私は納得していた。
納得、本当はフリだ。自分よりも大人で賢くて何でもできて、冷静でなにを考えているのかわからないこの人の心を理解することを納得という言葉で誤魔化して放棄していた。
あの夜、さりなを見つけだしてくれた夜に涙を流しているのを見たとき、そのことに私はようやく気づいたのだ。
12年経って、今更になってやっとわかったんだ。
おにいちゃんがボロボロになってしまってから。
平気なんじゃない、我慢強いわけでもない、ただ泣き方がわからないだけなんだって。
「ごめんね、ずっと辛かったよね?泣きたかったのに、私気づいてあげられなくてごめんね?」
アクアが首を振る。子供がむずがっているようで可愛い。
生まれたときからずっと色々なものを背負って、だけど何も抱えてなくて、静かに傷つき続けてきたこの人達が愛しい。
「あ、あ゛りが、とう゛…」
嗚咽混じりにようやくアクアが口にした言葉に、私は胸に強烈な痛みと、同時に背筋を甘い痺れが走るのを感じた。
「こっちこそ、ありがとうね」
甘い痺れの理由にルビーが戸惑っている間に、さりながせんせにキスしたと気づいた時には、既に私はアクアの唇の感触を味わっていた。
少しだけかさついて、かたくて、冷たいアクアの唇が、私の体温と同じくらいになるまで、私達はキスをした。
今はもう誰もいない、死んでしまったお家で、私達は何度も何度もキスをした。
生きていることを祝福し合うように、抱き合って。
何度も。
何度も。
洞穴に吹く風が止んだ。
胸の内にある空洞は気が付けば埋まっていた。