僕は死骸の海に溺れていた。
身体を形作る細胞は日々入れ替わる。
昨日の俺の身体は死骸となって今日の俺に絡みつく。
今日の俺の死骸は明日の俺の身体に絡みつく。
積み重ねて来た時はそのまま俺を縛り付ける俺の死骸の数になる。
いつしか、生きている俺と俺の死骸の区別は付かなくなっていく。
目の前には俺の死骸で埋め尽くされて何も見えない。
耳の中まで俺の死骸が潜り込んで何も聞こえない。
鼻も口も耳も、俺の死骸で詰まって、息苦しさにもがき続けた。
腕にも足にも俺の死骸はまとわりつき、思うように動かすことも出来ない。
息苦しさのなかで生きてきた。
吸っても吸っても空気が無い場所で、泥のように絡みつく水におぼれるように、何かをしているときだけ、少し忘れることが出来た。
息苦しさの理由が、走っていることのせいに出来る気がして。
蝋燭の残りの長さを測りながら、やるべきこととと出来ることにかかる時間を逆算するようにして、生きてきた。
いっそ火を吹き消してしまえば楽になれると何度も思っていた。
今はもう、見えない。
俺の死骸の海も。
燃え続ける蝋燭も。
その代わり、目の前にはひたすら広がる空間。
何があるのかはわからない。
光で満ちあふれているわけじゃない。
だけど、真っ暗というわけでもない。
困ったことに、絶望でうずくまることも、諦めで足を止めることも出来ない程度には、照らされているのだから。
星々の煌めきが、月の輝きが、目の前を照らしている。
だから、観念するしかない。
歩き続けてしまえるのだから、歩いて行くしかない。
踏み出す足が軽く感じる。
隣を歩くルビーの足取りもどこか軽やかに見える。
日が短くなり、既に夜の帳が降りている東京の街を何も語らずに歩く。
絡められた腕から伝わるルビーの体温が、今自分が生きている実感を教えてくれる。
常にルビーがくだらないことを一方的に話しては相槌を打ったり、ツッコミを入れたりするのが常の俺達兄妹にしては珍しい。
珍しいが決して気まずいわけではない。
語らなければいけないこと、伝えなければならないこと、吐き出さなければいけないこと、全てをこの二日でぶつけ合ったからこそ、今敢えて言葉を継ぎ足すことで、時間を埋める必要はない。
時間に生まれた空白に怯えるように、焦って空っぽの言葉を重ねる必要はない。
昨日言い足りなければ今日
今日言い足りなければ明日
明日言い足りなければ明後日
明後日言いたりなければ ───
時間はあるのだから。
俺とルビーにも、有馬にも、あかねにも、MEMにも、もっとたくさんの人との時間が目の前に広がっているのだから。
勿論、何があるのかわからないのが明日だ。不意に失われることもあるだろう。そうなって、初めて抱く後悔だってある。
けれど、それは誰しも同じで、当たり前の不安でしかない。
当たり前の不安と折り合いを付けて、適度に緩く、自然に時間を過ごしていく。
ようやく、俺はそうすることが出来るような気がする。
星野アクアとして生まれるよりも前に、雨宮吾郎として生きていた頃から出来ていなかったかもしれない、時間の使い方を。
「じゃ、私は帰るね」
離れていった温もりを名残惜しく感じる。
「?帰る場所は同じだろ」
目の前の、俺達の暮らす家を見上げる。
「はぁ…本当にそう思ってるのおにいちゃん?」
簡単な問題に躓く子供を困ったように見る大人、そんな顔が無性に腹が立つ。
「おにいちゃんは、まずお話しないといけない人がいるでしょ?」
「…それはそうだけど。でも、お前」
「もしかして、私に変に気を遣ってる?えぇ〜?もしかして、浮気になるかな、とか思ってたりする?」
浮気という言葉を妹に対して遣うべきかは問題があるが、概ねその通りだった。
今日の明け方まで身体を重ねていた相手を前に、他の女に会いに行くと言える程厚顔無恥なつもりもなかった。
俺とルビーは何度も何度も身体を重ねて、俺は何度もルビーに精を吐き出していた。倫理も何もかも無視して。
そのことに後悔はない。
元々、俺とルビーの間にある関係は、単純な兄妹だからという倫理観だけで片付けるには複雑に絡み合ってしまっている。
「あのね、私とアクアは同行者、あくまでも同行者なんだよ?」
言い聞かせる様に、眉間に皺を寄せて見つめてくるルビーに、不覚にもドキッとする。
この宮崎旅行を通して俺のルビーを見る目は変わった。変わってしまった。
兄妹として気に留めていなかった表情の機微、気づいていなかった女としての表情、そのひとつひとつに目を奪われてしまっている。
「この旅行はせんせとさりなの新婚旅行で、お墓参り。私達はそれにくっ付いて行っただけ」
一瞬、紅玉が切なげに揺らめいた。
俺よりもずっと、自分がさりなであるという認識が強かったルビーが、さりなとの訣別に痛みを覚えないはずがない。
簡単に割り切れるはずがない。それでも、割り切ることを選んだ。
だが、揺らぎは一瞬。
見上げてくる瞳は月明かりを浴びて、炎のように強い光を放っている。
アイを彷彿とさせるが、決定的に異なるのは愛情を知った確信なのか、アイの宿していた星よりももっと緋色のルビーとして輝いている。
その輝きに息を呑む。
「私達は、ようやく、きちんと始めるんだよ。アクアとルビーとして」
「兄妹として…か」
「んん〜〜?寂しそうだね〜〜?もしかして、恋人としての関係を期待しちゃった?既に恋人気取りですか〜?」
そんなわけあるか、と即座に否定の言葉が出てきてくれなかった。
それほど、俺は目の前の緋色の輝きに魅入られていた。
仮に、この輝きを独り占めする為の関係性に名前が必要だとして、それが恋人であるというのならば、俺はそれでも構わないとさえ思いつつあった。
正直に言えば、目の前の少女の全てを知ってしまったせいで、俺の中の浅ましい男の部分、強く求めてしまっている。
「ダメだよ、だって私達は兄妹だもん。昨日のは…あれはせんせとさりなだから、ノーカン。これからは兄妹だから」
「そうだな」
兄妹、当たり前の言葉。
昨日のことはノーカンだと、それは兄妹として過ごしていく上で昨日のことは永遠の秘密として、闇に葬るということだ。
それは倫理的に、道徳的に、社会的に「正しい」。
正しいのに、俺はその正しいルビーの選択にいたく傷ついていた。
傷ついていることに気づいて、傷ついている自分に衝撃さえ受けていた。
「……でも、ただの兄妹かは、これから次第かな」
「は?」
「今更でしょ?もうそういうの気にするの」
ふわりと、甘い香りが鼻孔をくすぐるのと同時に、柔らかな感触が羽のように唇を撫でていった。
「私のこと好きにさせたかったら、頑張ってよね、おにいちゃん☆」
とびきりの笑顔を浮かべて、ルビーは軽やかな足取りで家へと入って行った。
俺はただただ、月明かりを浴びて靡く金紗の残光を見つめていた。
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家に入ると、優しいシチューの香りがした。
ミヤコさんが寒い日になると作ってくれるクリームシチューの匂い。
ミルクとチーズ、それから隠し味のスパイスの混ざり合った大好きな匂いに、身体を覆っていた冬の寒気がゆるやかに溶けていくような心地がした。
家に帰ってきたんだ。
この二日間の旅行が夢だったようにさえ思えてくる。
「はぁ…」
ドアにもたれ掛かって、ようやく息を吐く。
さわらなくても顔が熱くなってることがわかる。
今が夜で良かった。お昼だったら顔が真っ赤なのが一発でバレちゃう。
アクアが少し不満そうに私を見つめ返した時、心臓が痛い程早く鼓動を打った。
すぐにも抱きついて、キスの雨を降らせてしまいたかった ─── 今日の朝にそうしていたように。
まだ、お腹の奥がきゅきゅうって物欲しげにうごめいている。
アクアに熱い精を注がれていたのは半日も前じゃない。子宮が切なく鳴いてるような気がする。全身がアクアを欲しいと訴えている。
でも、それに流される訳にはいかないから、私は精一杯の虚勢を張る。
嘘は嫌いだけど、この嘘は大事だから。
私とアクアにとっても。
アクアを好きな他の子達にとっても。
絶対に。
せんせとさりなの想いに一区切り付けたから、そうやって区切って新しく仕切り直すことが私達には必要だったのだ、ずっと前から。
アイが生きていたら、もしかしたらもっと早く区切れたのかもしれない。
アイドルとしてのアイよりも長い時間母親としてのアイにふれることで、私もアクアもアイを推しじゃなくて、一人の母親として見るようになっていたなら、私はもっと早くに星野ルビーになれていたし、アクアも星野アクアとして切り替えられていたかもしれない。
頼りないお母さんとしてのアイに時にガッカリしたり、時に腹を立てたり、幻滅と感謝を繰り返して「お母さん」として受け入れるようになっていたのかもしれない。
でもそうはならなかった。
綺麗で可愛いアイのまま死んでしまったことで、私もアクアもアイドルのアイを上手くお母さんのアイに変換する前に強くアイとして焼き付けられてしまった。
アイというお母さんの元に生まれた「兄妹」になりきれずに、お互い偶々「アイが生んだ子供同士」でしかなかった。
だから、一度終わらせないといけない。
そして、ここから始めないといけない。
「あら、帰ってきたのね。言ってくれれば迎えに言ったわよ?」
キッチンからスリッパの音を立ててミヤコさんがやってくる。
栗色の髪を赤いバレッタで留めて、青いエプロンを着けたミヤコさんは普段の美人女社長じゃなくて、綺麗なお母さんって感じがする。
赤いバレッタは私が、青いエプロンはおにいちゃんが、母の日にそれぞれプレゼントしたものだ。
中学に上がる頃、私は少しずつ貯めたお小遣いで、おにいちゃんは監督のお仕事のお手伝いでもらったお金で買ってプレゼントしたのだ。
「アクアは?」
「用事があるって」
「そうなの」
少し残念そうに顔を曇らせるミヤコさんにちくりと罪悪感が募る。
私がそうするように仕向けたから、なんだか申し訳ない。
アクアもミヤコさんのクリームシチューが大好きなのに、ほんとごめんね。
「じゃあルビーだけでも食べちゃいましょうか」
「うん!」
私の荷物を持とうとしてくれるミヤコさんを手で制する。
忙しい中、私とアクアのスケジュールをこの旅行のために調整してくれて、その上ご飯を作って待っててくれたミヤコさんの手を些細なことでもこれ以上煩わせたくなかった。
「いい匂い〜〜クリームシチュー食べたかったんだ〜」
「ふふっ。ルビーの好きなホタテたっぷりだからね」
「やった!!」
私達兄妹は思い返せばあまりレトルト食品やコンビニ弁当を食べていた記憶が無い。
女手一つで苺プロダクションを必死で切り盛りしていて、余裕なんて無いはずなのに、ミヤコさんは出来る限り自分で料理を作って、私達と一緒にご飯を食べていた。
きっと母親を失った私達に少しでも温もりを与えようとしてくれていたんだろう。
大皿を並べる菫色のネイルに彩られた、細くて綺麗な指が目に留まる。
社長業で忙しくて、こんなに綺麗にネイルをしてる手なら、なおさら料理をする姿は想像しにくいだろう。
ミヤコさんがいつもご飯を作ってくれるって話をした時に先輩がビックリしていたのも無理もない。
「あ…」
綺麗な爪 ──── ネイルの剥がれた爪
綺麗な指 ──── あかぎれだらけの指
せき止められていた川が一気に氾濫するように、記憶が洪水となって頭の中に広がった。
まだ私もアクアも小さかった頃。
メイクをしていても隠しきれない目の下の隈を見せないように、微笑んで料理を作ってくれたミヤコさんの手はボロボロだった。
せっかく塗ったネイルは剥がれかけてまだら模様を作って、水仕事と山のような社長のお仕事の間でケアが出来ない指は、痛々しいくらいあかぎれだらけだった。
それでもミヤコさんは私とアクアと三人でご飯を作って食べてくれた。
アクアが監督の家で食事をすることが多くなった中学生の頃も、必ずご飯をみんなで食べる日を決めてた。
『日曜日はみんなでご飯を食べる』
そのルールを決めたのはミヤコさんだった。
だから、アクアはめんどくさそうにしながらも従っていたんだ。
「ほら、何ぼーっとしてるのルビー。サラダとシチューの鍋を持ってきて」
つんと、私のおでこをつつくミヤコさんは、優しく笑う。
小さい頃、ご飯の時にテレビばかりみてお手伝いしない私に優しく叱る時にいつもそうするように。
あぁ、やばい。
鼻の奥が痛い。つんとする。とっくに、私は、私達は知ってたんだ。
お母さんがどういうものなのか。
お母さんの優しさも温もりも、お母さんがどんな風に側にいてくれるのかも。
泣きそうだ。
ねぇアクア、バカだね私達。
とっくに私達が欲しかったものはあったんだもん、ホント兄妹揃ってバカバカの大バカ兄妹だよ。
「うん、ごめんね。すぐに用意するね ──── お母さん」
思ったよりもすんなりと出てくれた言葉は、思っていたよりもずっと口にすると甘酸っぱくて、言ってから少し照れくさくなった。
「もう、何よいきなり」
「えぇ〜?だって、ミヤコさんはお母さんでしょ。アイがママ、ミヤコさんはお母さん。だから、お母さんって呼んだんだよ?……いけなかったかな?」
「何言ってるのよ…もう」
鳶色の優しい瞳が泪の幕で覆われて、柔らかな光沢と共に揺れて、雫が零れ落ちた。
優しくて甘い、ほっとする香りと共に柔らかい感触に包まれる。
ずっと、ママが死んでから私を包み守り続けてきてくれた温もりに抱きしめられる。
「イヤなわけ…ない、でしょ…っっ」
「うん…っ」
抱きしめる手が震えていた。
震えているのが怖さとか不安なんかじゃないことは聞くまでもない。
たった一言が、この強くて優しい人を泣かせてしまうくらい嬉しい言葉なんだと、それが照れくさくもあり、申し訳なくもある。
もっと早くから言えばよかった。
そんな後悔と、ようやく言えた安堵から、目の前が滲む。
「うん、お母さん」
「なぁに、ルビー」
「えへへへ…おかあさん」
「聞こえてるわよ、ルビー」
「おかあさん…ありがとうね」
「……ばかね」
それから、私はお母さんと一緒にクリームシチューをたくさん食べて。
お母さんと一緒にたくさんおしゃべりして。
お母さんと一緒にお風呂に入って。
それから、お母さんと一緒に眠った。