寒気に包まれた街並みを潜るように歩く。
見慣れた景色が違って見える。
こんなに眩しい街だっただろうか。まだ夜の七時をいくらか過ぎたばかりの都会なのだから当たり前なのだが。
オフィス街は窓から明かりをあふれさせ、飲食店も娯楽施設も、閉まっている店を探す方が困難であるのだが、それでもここまで明るい街だっただろうか。
歩道橋から行き交う車のライトが刻む幾つもの軌跡をぼんやりと見下ろす。
世界が輝いて見えるなんて言葉がある。恋愛もののドラマや小説なんかで耳にするし、目にもしたことがあるはずだ。
主人公が夢を持っている場合や恋をした際に、全てが輝き色づいて見えるなんて、もはや使い古され陳腐を通り越して化石のような言い回しだから、最近では目にすることも無くなったか。
暫く歩いたせいか、つんとした冷気をはらむ夜風が火照った身体に心地よい。
どれほどそうしていただろうか、そっと一つの気配が寄り添うのに気づいた。
よく知る、決して警戒心など抱くことのない気配。
ほんのりと甘く透明感のある花のような香りと共に近づく気配へと視線を向ける。
「おかえりなさい」
黒川あかねが、肩が触れそうで触れない距離にそっと歩み寄って来た。
ふわっと花の香りが一泊遅れて柔らかい塊のようになって鼻孔をくすぐる。
「此処に来るってわかってたのか?」
「ルビーちゃんがこっちに帰ってくる時に連絡くれたから。あとは乗って来る飛行機の時間調べて、到着時刻からアクアくんがルビーちゃんを家まで送って、アクアくんの家から此処に来る時間を割り出したの」
流石。肩を竦める。
誤差にして1分弱。
GPSを付けていると言われた方がまだ納得出来るくらいだ。
「アクアくんこそ、私が此処に来るってよくわかったよね」
「黒川あかねを知ってれば予想されるだろうってわかるだろ」
「んふふふ〜、そうかな」
「何ニヤケてるんだよ」
「私のことよくわかってくれてるんだなって」
頬が熱くなる。
「顔赤いよ?」
「うるさい」
調子が狂う。この旅行のせいだ。
いや、正確には…
「何か…ダメだ」
「どうしたの?もしかして具合が」
「じゃなくて」
不安そうに見つめてくるあかねに、即座に首を振って見せる。
心優しいこの子をいたずらに心配させたくない。
「ここんとこ感情が上手くコントロール出来ない。箍が外れたっていうのか。今までなら表に出さずに呑み込めた感情が、そのまま出るっていうか…この旅行でトドメになったけど」
「それって、自惚れてもいいのかな?私達がアクアくんを変えたって…思ってもいいのかな?」
「そう思ってくれても…構わない」
そっぽを向くと、くすくすと鈴のような笑い声が聞こえる。
揶揄う仕草すら可憐に見えるのは欲目だろうか。
「その感じだと全部気づいてるんだよね?」
「まぁな…あかねの賢さを俺が一番理解してる。それにお前だって俺が気づいてるって察してるから来たんだろ」
一連のルビーの共犯者を、こんな俺をどうやってでもこの世界に繋ぎ止めようとルビーと一緒になって随分と悪巧みをしてくれた、悪どくて ──── 優しい少女を見つめる。
星の光を浴びて、柔らかくとろりとした輝きを放つ濃紺の黒目を見つめる。
「ルビーにあんな旅館に心当たりがあるとも思えないし、そこの丁度いい部屋に予約いれておくなんて気の利いた段取り出来るとも思えないしな」
あんな芸能人のなかでも一部が利用するような格調と機密性の高い場所、何らかのコネがある人間かそういう知り合いがいないとまず思い浮かばない。
「姫川さんが教えてくれたの」
「あの人か…」
同じ忌々しい男の血を引き、同じ忌々しい男によって翻弄された人生を歩んできた半分血の繋がった兄を思い浮かべる。
あの有名だが自重しない女好きならそういう場所に心当たりがあるのも頷ける。
つまり、兄が紹介してくれた旅館で妹を一晩中抱いていたのか俺は…
「そうだ、アクアくんに姫川さんから伝言。『俺は大して親に思い入れもなければ、今更実の親父がどうとか興味無い。勝手に俺のことまで罪悪感に含めるな、愚弟』だって」
流石の演技力だ。
まるで、そこに姫川さんがいて、あの気怠い口調で叱られたような気がして、思わず笑ってしまった。
やっぱり見抜かれていたのか、俺の負い目を。
彼は俺と違い、実父を上原清十郎だと思って生きてきた。母親と心中をした実父を軽蔑し、母親の姓を名乗ることで生きてきた。
俺の復讐は図らずも、彼が20年掛けて自分の中で消化させた事実を根底から覆してしまった。
真実とはいえ、本来なら知らなくても良かったというのに。
「雨宮吾郎の生家からの移動距離を考えたら、宿泊するのに絶妙過ぎるだろあのロケーション。あの家を行ったことのある人間にしか見つけらんねーよ」
「うん。アクアくんはきっと"あの家”にルビーちゃんを連れて行くんだろうなって思ってたから」
「どこまで…聞いてる?」
「直接的なことは何も。ルビーちゃんは生まれる前に亡くなった雨宮吾郎さんのことが大好きで、アクアくんは自分が生まれる前に亡くなった雨宮吾郎さんのことを家族構成から夢を目指したきっかけ、それを断念した理由も、彼が生きていた頃に抱いていた心情まで知っていた。勿論、全部が妄想の可能性だってあったけれど、郵便受けに隠してる鍵の位置まで知ってるのはおかしいものね」
改めて言われると、俺は隠す気なんてさらさら無かったんじゃないかと言いたくなるくらいあかねに情報公開しているな。
いやいや、普通はそれでも転生に気づかないからって、ここまで話す意味があったのか。
いや、意味ならあったのか。
「多分、俺があかねに背負って欲しかったんだろうな。俺も気づかなかったけど、俺の重荷をあかねにも分けてしまいたいって一方的に思ってたんだろうな。いや、自分でもこれは引くな。勝手にさらけ出してる…いや、ハズいな」
かなり恥ずかしいぞ。
突然自分の重荷を開示して、背負ってくれることを期待すらするなんて、ちょっと甘え過ぎじゃないか。
「アクアくん」
「痛ぇ」
ぎゅっと割と強めに頬を抓られた。
ぷくーっと膨れた顔をしながら、あかねが俺を睨んでいた。
意地悪をする子供を叱ると言うよりも、もっと等身大の、ああ、雨宮吾郎の頃の記憶だが、子供の頃それなりに親しくしていた幼馴染の子がこんな顔をしていたっけ。俺が迷惑をかけないように幼いながら注意をしていると、たまに怒っているとアピールしてきたっけか。何でだったんだろうなアレ。
「今、他の女の子のこと思い浮かべてた?」
「怖い怖い。エスパーかよ」
「やっぱり」
「いや、子供の頃のな、同い年の子がそうやって膨れて怒ってきたなと思っただけだから」
「ふぅ〜ん…いいけど。それに、多分、だったらその女の子も同じじゃないかな。私の気持ちと」
「この説明で、どうしてわかる。プロファイリングは超能力じゃないだろ」
「プロファイリングじゃなくて、乙女心の範囲内だよこれは」
「乙女ハンパないな」
「恋する、が頭に付くけど」
「うっ」
「あ、赤くなった」
可愛い、とからかわれる。本当にどうにかしないといけない。感情がこうもわかりやすくなるのは俺のイメージと沽券に関わる。
「きっとその子もアクアくん…ていうことにしておくけど、好きな男の子に怒ってたんだよ。もっと構えって」
「はぁ?」
「もっと構って、もっと踏み込んでって。今アクアくん、私に一方的に望まない重荷を背負わせようとしてたって自己嫌悪に陥ってたでしょ」
正解だった。雨宮吾郎のことをあかねに開示する理由なんて何もない。
前世と縁もゆかりもないあかねに、ルビーを差し置いて教える意味なんて無いはずだ。
それでも、俺は話していた。あかねと関係を続ける決意だけではない、あかねに、この子に背負って欲しいと思っていたのだ。
あの頃、ルビーにすら伝える気の無かった俺の前世を。
「私はね、ルビーちゃんよりも先にあの家に連れて行ってもらって、雨宮吾郎…さんのことを教えてもらってたって知った時、嬉しすぎて感情ぐちゃぐちゃになっちゃったもん」
とんとあかねの肩が触れる。
分厚いコート越しなのに、なぜか温かく感じた。
「でも、後悔もした。アクアくんが私に頼りたがってたんだってもっと早く気付けたらよかったのにって」
少しだけ、あかねの言葉は震えていた。
自分を責めているのだろう。
俺達は似たもの同士だな、思わず苦笑が浮かぶ。
相手が己を責めていることにはなるほど、こうも敏感に察することが出来るとは。
あかねの頭を抱き寄せていた。
「ん…」
「あかね、ごめんな。色々」
「うん」
抱き寄せたあかねの頭をゆっくりと撫でる。
絹糸のように滑らかな手触りの髪が、微塵も引っかかることも指の隙間を潜り抜けこぼれていく感触が心地よい。
いつまでもいつまでも撫でていたくなる。
「あかね…俺、ルビーにフラれたっぽい」
「…えぇッ!?」
がばりと、預けていた頭を離して驚愕に顔を歪めたなかなか珍しいあかねの表情に少し楽しくなる。
こうして感情豊かなあかねを見るのが楽しくて、俺は付き合ってたころにちょくちょく意地悪してたっけ。
「フラれたっていうか…俺が勝手に舞い上がっていたというか、その気になり過ぎてたっていうか…まぁ、ルビーに、いったん仕切り直して、その上で惚れさせてみろ…的な?」
「的な?」
「そう、的な、そんな感じのアレだ」
「…アレ」
「アレ」
鸚鵡返しにされると、正直居心地が悪い。俺の煮えきらなさを復唱されているようで。
「ルビーちゃんわざわざアドバンテージを捨てて…いや、違う。区切りを付けることで自分自身をアクアくんの転換点にした?どう足掻いても兄妹なのを逆手に…フェアにするってそういうこと?馬鹿だ私。そこまで計算して…兄妹の不利をそうやって…やっぱり一番の…」
あかねはぶつぶつと呟いているが、伝わってくる情報が断片的過ぎて俺にはあかねが何に驚き、彼女が今眉間に皺を寄せて考え込んでいるのかも察することが出来ない。
やがて、考えが纏まったのか、あかねの俺を見る表情呆れたものに変わる。
「ようやく変わっても、アクアくんはまだまだその辺の修正が必要だね。ううん、もう矯正かな」
「出てくる言葉が物騒過ぎるんだが」
「妹とエッチする人にはそれくらいじゃないとダメなの!」
「おい、何で決めつける」
「してないの?」
じろりとあかねが嘘の一切を許さないと言いたげに見つめる。
「まぁ、し…しました」
「でしょ」
取り調べの達人と呼ばれるベテラン刑事でもこうはいくまいという程、俺は容易く自分のインモラルな行動を自白した。
「いいけど。そういうのは全部込み込みで納得済みだから」
「何の話だよ」
「船に錨を付けるお話」
「もう少し具体的に」
「放っておくとすぐに死にそうな人を好きになった女の子達が、死にたがりの人が少しでもこの世に未練を残してくれるように色々な不平不満と女の尊厳について目を瞑るっていうお話」
「俺が悪かった。もう少し手心を加えてくれ」
「私もかなちゃんもメムちゃんも、ルビーちゃんも、お互いがアクアくんが生きる理由になるなら妥協するっていう話。これ以上増えるならアクアくんを殺して私も死ぬけど」
付け加えられた物騒の極地のような台詞は聞かなかったことにすべきなんだろう。
聞き流すべきなんだろう。
聞き流すべきなんだろうけど ────
「アクアくん、何か嬉しそうな顔してる…」
「そうか?」
けれど、俺はまったくもって完全に感情がぶっ壊れてしまったらしい。
「ちょっと嬉しいって思った」
「エッチ…」
「違うって。そうじゃなくて」
あかねの膨れた頬を指でつつく。
照れ隠しでもあるし、純粋に目の前のもちもちとした柔らかいことが見るだけでわかる頬に触れたかったから。
「俺を殺して自分も死ぬって、冗談でもそこまで俺に執着してくれるのが、ちょっと嬉しい」
「アクアくん……」
柔らかな感触が押しつけられる。
甘い花の香りに包まれる。
腕の中にすっぽりとあかねの身体が収まる。おずおずと抱きしめ返すと、服越しにあかねの温もりと鼓動が伝わる。
「ねぇ、アクアくん」
「うん」
「…星野アクアくん」
「はい」
そっと、あかねが俺を見上げる。
深い海のような瞳には、あかねという女の子の湿度と温度が込められた瞳には、情熱、欲望、愛情、独占欲、渇望、焦燥感、それだけじゃない、目眩がするほどの感情の全てが込められ、熱で溶かされ混ざり合った結果、決して俺を離すまいとする強い感情が、静かな夜の海に蜜のようにとろりとした輝きをもらたしている。
決して逃げることの出来ない、そらすことすら許さない、そんな気を起こさせることすらない激情を込めた瞳に俺は囚われていた。
「私は貴方が好きです」
一筋、蜜から雫がこぼれた。
月明かりを浴びて、どんな宝石よりも美しく輝く雫を頬からこぼしながら、あかねは桜の花びらのような唇を震わせながら、もう一度ゆっくりと開く。
「世界で一番、アクアくんを ──── 愛しています」
「ありがとう」
俺はあかねの頬を伝う雫を指で拭うと、心からの感謝を口にする。
「俺もあかねのことが……」
そこで、舌が凍り付いたように動かなくなる。
返そうとする言葉は決まりきっているのに、その言葉を口が紡いでくれない。
あかねは予想していたのか、小さくふっと笑った。
そうか、気づいていたんだ。
俺がこの期に及んで、無様に愕然としているというのに、君は俺よりもずっと俺を理解していたんだな。
この心にまだ刻まれた呪いに。
俺の心に焼き付き、永遠に消せない印のように刻印された言葉を、俺の心が拒否していることに。
「いいよ、無理しなくても…」
あかねはわかっていると言うように、ふわりと笑う。
それは理解していると、納得していると、そう物語る笑みだった。
けれど、同時に寂しさを湛えた笑みだ。
欲しいものが手に入らないことをわかっている小さな子供の浮かべる諦めの笑み。
自分に激しい怒りが生じる。
あかねが、有馬が、MEMが、そしてルビーが俺に何度も何度も伝えてくれた言葉に対して、返してやれていない自分の不甲斐無さに。
「あかね…俺は…」
「アクアくん、無理は」
「ぁ…あぁ…」
痺れたように動かないこんな舌いっそ切り落としてしまえたら…
救いを求めるように空を見上げる。
天に穿たれた風穴のような月は、そこから俺を誰かがあざ笑いながら覗き込んでいるような気さえする。
憎らしい程に輝く月を睨み付ける。
「あぁ…」
それでも、思わず息を呑む。
俺の弱さをくっきりとさらけ出そうとするスポットライトのように輝く月は、忌々しい程に眩しく、そして腹が立つ程に ーーー
「今夜は…月が綺麗……ですね」
何ともまぁ、無様な逃げ道を用意してくれていたものだ。
脳裏には底意地の悪い神様の腹の立つ笑みが浮かぶ。
そうだよ、とりあえず今はまだ、ここまでだ。
俺はそこまで割り切れるわけでも強いわけでもない。
それでも、その言葉に込めた感情だけは嘘じゃない。
「あかね…」
俺を見上げて、ぽろぽろと涙をこぼすあかねを見つめる。
どうか、今はまだ、これが精一杯だから、こんな情けない男を許してくれないだろうか。
その想いがあかねに伝わったのか、涙でぐしゃぐしゃになった顔に笑みを浮かべてあかねは頷いてくれた。
「し、じ゛んて゛も…ぅぅ、しんでもいいわ」
鼻を啜って、子供のようにくしゃくしゃに笑うあかねは、俺が知る黒川あかねのなかで一番みっともなくて、一番美しかった。
「今日この後まだ時間ある?」
「家でミヤコさんがシチューを…」
「時間ある?」
「シチュー…」
「あるよね?」
「はい」
「ちょっとお話ししよ?前にアクアくんをメムちゃんが家に保護した時のこと」
「あれは」
「関係無いとか言わないよね?ね?ね、アクアくん?」
「はい…」