じっと見つめると、じっと見つめ返してくる。
右に動くと視線が追ってくる。
左に動くと視線が追ってくる。
もう一度右に動くと追ってくる。
もう一度左に動いても追ってくる。
まだ生後2ヶ月にもなっていないのに、きちんと視線が動くものを追ってくる。
この子は目の発達が早い、と我が子の成長にアクアは妙に誇らしい気持ちになる。
みんなは口を揃えて自分に似ていると言うけれど、好奇心旺盛なキラキラとした目は寧ろ妻に似ていると、我が子を抱き上げながらアクアは傍で眠りに落ちている妻を見下ろす。
睡眠不足のせいか、目元には薄っすらと隈が浮き出ており、日中の育児を任せてしまっていることへの申し訳無さが込み上げる。
無論、アクアは遊んでいる訳ではない。
医学生として日々学業に追われ、合間にミヤコの仕事を手伝っており、時折芸能活動にも出ている。一般的な同年代の大学生など裸足で逃げ出すハードスケジュールを日々こなしているのだ。
しかし、それが育児を妻に任せきりにする理由にはならない。
アイドルを引退してから、伸び続けていた髪をバッサリ切ったことで、プリン頭の名残など一切ない黒髪頭もすっかり見慣れた。
肩口で切り揃えた髪は内巻きで、その時になって初めて彼女の本来の髪質を知った。
友人から、同じ事務所の仲間に、それから身体を重ねた恋人へと関係が変わっても知らないことはまだまだある。
思えば、前世の頃に付き合っていた女性達の内で自分が無防備に寝顔を見せたり、すっぴん姿を目にした人がどれほどいただろうか。
重ねた経験はそれなりにあったが、一つ一つは薄く浅かったような気がする。
身体を重ねること、交わした情を、濃さや深さで語るならば、今世で関係を持った4人の誰に対しても、前世の恋人達は足元にも及ばないだろう。
性行為に、昂った感情を落ち着かせて、欲望を処理する以上の意味があるのだと、知識としてではなく実感として得たのは「アクア」になってからだ。
「いつもありがとうな ──── 」
そっと、起こさないように妻の名を呼ぶと、アクアは触れるだけのキスを妻の目元に落とす。
妻の甘い匂い混ざって、ほのかにミルクの香りが優しくアクアの鼻腔をくすぐる。
父の鼓動に安心したのか、腕の中の息子はいつの間にか可愛らしい寝息を立てていた。
赤ん坊の体温は高いことは前世の経験で知っていたが、二十年近い年月を隔てたからなのか、あるいは我が子のものだからなのか、アクアの知る赤ん坊よりも腕の中の温もりはより確かな存在感があった。まるで小さなお日様のようだ。
そっと我が子をベッドに寝かしつけると、アクアは妻に寄り添うように横たわる。
ぴとりと身体を合わせると妻の体温がアクアへと染み込んでいく。
気の緩みと共に、連日の勉強と芸能活動の疲労が眠気となって込み上げる。
その波のように押し寄せる眠気に抗おうとしたのはほんの一瞬のことだけで、すぐさま抵抗を止める。
我が子の寝息と、妻の体温。
優しい匂いに包まれて、心の底からじわじわと温かな泉が溢れてくるような心地に見舞われる。
(あぁ、そうか。こういうのが幸せってことなのか)
ゆるゆると妻の身体を抱き寄せると、アクアは誘われるように眠りに落ちた。
☆ ☆ ☆
(ほぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜!!)
ハンマー投げの選手の如き雄叫びがMEMの脳内に鳴り響く。
MEMとして、嘗てはYouTuberとして、アイドルとして活動していた女は心の中で絶叫する。
優しく自分を起こさないようにお腹の前に回された夫の腕の中で、悶えそうになるのを必死で堪えた。
抱き寄せられた腕の力は優しいものの、お腹の前で組まれた手は決して妻を離すまいという意思が感じられる。
別に逃げ出したいなどという気持ちは更々無いが、ある意味でこれは生殺しだった。
言い訳をするならば、最初は本当に寝ていた。
在宅の仕事をこなしつつ我が子にミルクをあげて、オムツを替えて、寝かしつけるや否や、子の様子に注意を払いながら依頼されていた動画編集の仕事を一気に片付け、我が子が穏やかにすやすやと寝ているのにひと安心したところで少しばかりの仮眠に入ったのだ。
決して夫の可愛い様子を眺めるための狸寝入りだったのではない。
MEMが目を覚ましたのは夫であるアクアが部屋に入って来た時点のことなのだ。
夫は自分を気遣ってそっと物音を立てずに入室してきたが、そもそも仮眠してから程よく時間は経っていたことに加えて、育児に追われるようになってからすぐに何が起きても目が覚める癖が付いていたせいだ。
MEMとしては「おかえりなさ〜い」と帰宅したアクアを出迎えて、いつも通りハグからのキスの一つ二つ交わせば良かったのだが、寝起きの気怠さと、眠る我が子と妻に夫がどんな反応を示すのかという悪戯心が芽生えた。
アラサーになって何を子供じみたことをとも思うが、遅がけの青春を送っていたMEMとしては今も尚気持ちは20代になりたてくらいなのだ。
そして、来年には二十歳になる年下の夫はといえば、とととと、とととと、と我が子が自分を目で追うのが楽しいのか、しきりに右は左へと歩き回っているではないか。
どこか楽しげに右は左へと動く夫と、それを興味深そうに目で追う夫そっくりの我が子。
さながら犬の親子のじゃれ合い。MEMの目にはレトリーバーの親子に見えた。
(か、可愛いぃぃぃ〜〜私の旦那さんと息子超可愛いぃぃぃんだけどぉぉぉぉ〜〜あぁ〜〜動画撮ってたらバズってたかな…いや、これは私が独り占めすべき光景だね。ごめんね、あかね、ルビー、かなちゃん。こればっかりは奥さんでお母さんの私の特権だよぉ)
などと、内心夫と子供に悶えているうちに、気付けば夫に拘束されていた。
「…ア〜クたん?」
呼び掛けてみるが、アクアはMEMを抱きしめたまま穏やかな寝息を立てている。
アクアが如何に多忙なのか、MEMは妹であるルビー以上に理解しているという自負がある。
「疲れてるよね〜」
そろりと身体の向きを僅かに変えると、そっとアクアの頬に手を当てる。少し低いアクアの体温が心地良い。共寝している内に低い体温のアクアと自分の体温の境目が無くなる感じがMEMは好きだ。
あどけない寝顔を見つめながら、ほぅっとため息を吐く。
改めて見るとつくづく美しい人だなと感じる。
出会った頃は16歳の少年だった。
当時から年不相応に大人びてはいたものの、数ヶ月前まで中学生なのだと感じるあどけなさがあったが、19歳になった現在ではすっかり精悍さを帯びている。
無駄など無いと思っていた男性な顔立ちは、より無駄を削ぎ落とされたように男としての魅力を増しており、こんな自分のようなアラサー女が関係を結んで良いのかとすら思う。
端正な頬に疲労が滲んでいるのを見て取り、MEMは申し訳なさに微かに顔を顰める。
アクアは育児に協力出来ていないと卑下するが、寧ろ非常に育児に理解があり協力的な親だろう。
少なくとも、既に結婚し子供を産んでいる同郷の友人から聞かされた愚痴に該当するような不満をほとんど抱いた覚えがMEMにはなかった。
夜泣きこそ少ないものの、それでも初めての出産と育児の疲労とストレスはMEMの予想を超えていた。
アクアが、妊娠期間の頃から常に気を配って、時に慰め、時に励まし、場合によっては不安定さから来る半ば八つ当たりのような感情の吐露さえも受け止めてくれていなかったらもっと自分は追い詰められていただろうと実感する。
育児は夫婦の共同作業であり、アクアは非常に協力的な夫であるのだが、長年背負っていた重荷から解放され、医学と芸能の道を両立させんと日々頑張っている夫にあまり育児のことで負担を掛けたくないというのがMEMの本心であった。
無論、そんなことを言えばアクアはバカを言うなと、妻の遠慮を叱るだろうとMEMにはわかっている。
しかし、それでも尚、MEMにとってそれは通したい意地でもあった。
恩返しと言われれば少し堅苦しい。
けれど、MEMにはずっとアクアに対して言葉にし尽くせない程の大きな感謝の気持ちがあった。
アイに憧れ、夢見続けてきたアイドル。
家族の為に一度は断念したアイドル。
二十歳を超え、アイドルとしては旬を過ぎた頃には、お金のため、数字のためと斜に構えて見せていた。
歳だから、自分より若くて可愛い子は山ほどいるから、そもそも才能だって無かったのだから、YouTuberの方が自分にも時代にも合っているから、沢山の言い訳を用意して、自分自身に言い聞かせてきた。
それでもやっぱり燻るものがあった。
若者達の恋愛リアリティーショーにも出演したのも、チャンネルの為と口にしつつも、本心は捨てられないキラキラした世界への憧れがあったから。
そうして、途中で放り出してしまった青春の残光に導かれた先で自分は出会ったのだ、アクアに。
アクアにとっては動画編集が出来て、あかねの一件で信頼も置けるから妹の側にいるのに都合の良いメンバーという程度の認識だったのかもしれないが、彼が示してくれた道、アイドル ー それもあのアイがいたB小町への道がどれほど嬉しかったことか。
だからこそ、MEMは一人言葉にせずに決めたのだ。
捨てようとして捨てられずにいた自分の夢を掬い上げてくれたアクアが、もし、夢と呼べるようなものを見つけた時は、必ず力になろうと。
「いつもありがとうなのはこっちの方だよ」
お腹の前に合わされた手に自分の手を添える。
左手の薬指にはアクアのプレゼントしてくれた指輪が小さく煌めいていた。
妊娠を知ったアクアが他の誰よりもまず自分にこの指輪を贈ってくれたことにMEMは密かな優越感を抱いていた。
子を宿したのは本当に意図したものでは無く、驚きはしたが後悔は無い。
正しく授かりものであり、そのことでアクアを支える女の中で一番だと声高に訴えるつもりも無い。
交際歴で言えばあかねが正妻であるし、アクアが強く惹かれたのはと問われればかなである。
深い絆で語るのならばルビーとの間にはただの兄妹では説明の出来ない深く濃い絆を感じる。
自分はアクアが縋り付きたいと感じた時に受け止めてあげたいと思っているだけだ。彼に縋り付かれ、同時に自分も甘えてしまえる、凍えた身体を温め合うよな関係でも良かった。
それを都合の良い女と言われればそこまでかもしれないが、MEMは自分をそう位置付けているし、そのことが不満でも無い。
しかし、そうではあっても、やはり子が出来たことを少しの後悔も見せずに喜んでくれたアクアを目にして、この男の子を授かって良かったと心から思ったこと、そんな男に一番に指輪を贈られたことは、MEMが自分に設けた納得のラインを遥かに超えて、彼女の女としての自尊心と幸福感を満たしてくれた。
「大好きだよ、アクア」
滅多にしない呼び捨てで夫の名を呼ぶと、無性に気恥ずかしくなってMEMは顔を赤くする。
三十路を間近に控えた大人の女とは思えないとんだけ初心なのだと自分にツッコミを入れたくなるが、こればかりは仕方が無い。
「俺も好きだよ ──── 」
耳元で甘い声が滅多に聴くことのないMEMの「本名」を紡いだ。
「ひょあっ!?起きてたの?」
「そりゃあ腕の中であんだけモジモジされたらな。柔らかい感触を押し付けられると目も覚める」
「そんなに動いてないよぉ!…動いてないよね?」
「自信ねーのかよ?もしかして、俺が起きてるのに気付いて誘ってきてるのかと思ったわ。やたら尻を押し付けてくるし」
「我が子が寝てる前でそんな真似しないよぉぉ…」
あれはアクアに抱き締められる度に、かかる吐息がくすぐったかったり、アクアの体温や匂いをもっと感じたかったり、アクアがより楽に寝られるように抱き枕として絶妙なポジションに収まろうとしたり、と様々な言い分があるのだが、アクアの笑みを見て諦める。
薄っすらと目を開けたアクアは優しくも意地悪そうに口の端を吊り上げている。
いたぶる獲物を見つけた猫が笑うならこんな感じなんだろうなと思うような笑みであった。
「ふーん…俺はテストあったりで少しご無沙汰だったから、MEMが恋しかったんだけど?」
寂しかったのは俺だけ?
そんな顔で見つめてこられては最早MEMに勝ち目はない。
嘗てミヤコが言っていたことがある。
『アクアは甘え下手だけどね、女に甘えるのが下手と思わせてる時点でズルいのよ』
最初は意味がわからなかったが、最近になってその意味がわかり始めてきた。
甘え下手、甘えたいのに甘えるのが下手な男だと、女がそう感じるのはその男が気になっているからだ。
露程も興味の無い男などそんな事気付かないし、甘えたがっていると気付いても馴々しく嫌悪すら抱く。
気になる男だから、抱える孤独が目に留まり、どうにかしたいと、甘えて欲しいと思うのだということなのかもしれない。
甘えたいなら甘えてくれれば良いのに、そう母性に無意識に訴えかけるアクアは、自分やあかね達にとってどうしようもなく『ズルい男』なのだろう。
「私も…アクたんが欲しい…よ」
「アクアって呼んでくれないの?」
「〜〜〜〜〜ッッッッッッ、もうっ」
くるりと身体の向きを変える。
「アクアのイジワル」
ちゅっと、啄むようにキスをすると、先ほどまでの余裕のある表情を崩して、アクアがふにゃりと笑う。出会った頃にはこんな表情をするなど想像すらしなかった、子供のような笑顔に見惚れてしまう。
MEMは脳裏に浮かぶミヤコに問い掛ける。
『ミヤコさん、そんなズルい男が、自分にだけ心を許して、嬉しそうな顔で甘えてきたらどうすればいいのでしょうか?』
聞くまでも無い答えを、ミヤコがため息混じりに口にする。
『そうねぇ…その時は、────