湊友希那は自分からせかせかと喋らない女性だった。落ち着いている。あるいは、余裕の感じる態度で常に佇んでいる。それは普段、あのライブパフォーマンスを視ている彼からすると納得できる様子だった。自身の力をみせびらかすのではなく、必要な時に全力で示すその様子と、普段、つまり大学で会話をしたり食事をする際のゆったりとした顔つきには、ある種の一貫性さえ感じた。
しかし、友希那という女性はただそれだけではなかった。
その人が、たった一面だけを持って生きているわけがなかった。彼という男だってそうだし、もちろん友希那も同様だった。友希那は自分の意思を、それが周囲から視て意外性を持っていたとしても平然と発言できる女性だった。それは、リーダーシップという気質に思えるが、彼は友希那を視ていると、そこに鈍感な気配があるなと思う瞬間があった。
友希那は音楽以外に関心がない女性だった。友希那の周囲の人間は、友希那についていつでもそのように語ったり、友希那自身も、自分はそのような人間だという態度だが、彼から視てそれは少し違った。興味関心がない、というのも正しいが、正確には、気付かない、という表現が正しいように思えた。たとえば、周囲で流行っているコンテンツだったり、インターネットの話題だったり、政治や、勉学について、友希那はそういった自らの――つまり音楽的な活動――のためになること以外の部分に、あまり敏感に気付かない。ただそういうひとつの光景として、あらゆるものが過ぎ去って、それで気にしない、鈍感にあり続ける、という人間性こそが、友希那の人柄なのだと彼は思った。
そして彼は友希那のそういった箇所にすっかり惚れていた。
具体的には、友希那の中のその二面性に惚れているのだった。彼は大学生活を送る中で稀に、もう友希那について我慢ができなくなって、友希那の前に立ち、大声で、あなたが好きです、と叫びたい衝動に駆られることが多々あった。音楽メディアで目にする孤高から、私生活の鈍感という落差は、彼の中にはない、友希那特有のもののように思えた。そして自らの中にないのだから、友希那のそういった性質はめずらしく、またそうなると、友希那の全部が愛おしい。
友希那は向こうで何をしているのだろうか……、などとよく考える。友希那を考えることとは、彼の人生の中でいつでも行える簡単な、けれど真剣な動作のことだった。彼の生活の中で友希那のことを考えない瞬間はなかった。目の前のやるべきことではなく、今こうして、目で友希那を視ていない時間の友希那の様子を彼はよく想うのだった。
星座を考えるように彼は友希那の生活をいい当てた――朝、授業が一限から入っている場合であっても余裕を持って起床し、洋食が多く、授業には真面目且つ意欲的に出席し、昼は、あの幼馴染だという娘と共にし、夜は家族と揃って、落ち着いた就寝をし、音楽的な活動は、かなり挑戦的に続く――それはほぼ妄想の類といってよかった。また、同時に彼は自らの人生に失望していた。なぜ、友希那と幼い頃から知り合っている人生ではなかったのだろうか。もっと、もっと若い頃から友希那を知っていればよかった。そうすればきっと、朝の過ごし方も、日中の行動も、夜のひと時さえ彼はすっかり熟知して、それだけで学者になれた。彼はさらに苦悩した。ああ、だけれどもしかしたら、今の時期に友希那を知ったから、だからこれほど恋焦がれているのかもしれない。まだ友希那を知らないから、だからこそ猛烈に、友希那のことを知りたいと願っているのかもしれない。それもまた学問の探求に似ているような気がする。その渇望は活力となり、確かな生命力として彼を支えている。彼は求めているのだ。友希那のことを好く想うのは、友希那が、能動的に音楽世界へ飛び込むこととほぼ同じ原理であるように思われた。しかし、音楽を求める友希那は気高いのだ。つまるところ彼と友希那で異なる点とは、そこに猥褻な野望さえ含まれているのか、という部分だけだった。
長い薄紫色の髪、黄金色の瞳、そもそもの童顔に欲情をいだかないなんて不可能だった。
それは最初から定められていたといってよかった。友希那が友希那として存在し、彼が、彼として存在している以上、二人は他人として、過ぎ去ることなど不可能だった。どうしても二人深い仲になりたい。男女として、共に階段を駆け上がりたい。どちらかの足がもつれたら、もう一人が優しく手を取り、撫でてやるような『生活』がしたい。彼は友希那とう個人に対し、そう願わざるを得なかった。
湊友希那からの呼び出しを受けた彼は、そんな自分の想いが、知らず間に友希那へ伝わってしまったのではないかと疑った。
それはもちろんありえないことだった。なぜ、いつも脳内で新婚生活を妄想するその相手から、二人きりで話したいと持ちかけられるのだろう。どのような、超科学的な催眠手法があれば、毎晩全裸にして汚しているその人が、話したいことがある、などという文言と共に、異性をひと気のない建物裏に呼び出すのだろう。彼は気張っていた。もしかしたら友希那と二人、知人という間柄から進展できるかもしれない。しかし彼は警戒していた。これで友希那と顔を会わせて、開口一番にもう二度と私で卑猥な妄想をしないで、などといい渡されでもすれば、それからの毎晩をどのように過ごすべきか、迷子になってしまう恐れさえ彼にはあった。
とにかく今、彼は友希那に呼び出されている。授業が終わり、大学敷地内は賑わっていた。様々な人、本当に様々な人が、まるで自分以外誰もそこに居ないという様子で自由に行動していた。彼はそんな人込みを避けながら歩いていた。自分で理解できるほど、それは浮ついた足取りだった。彼は、誰も知らない秘密の逢引きをしているような感覚と、地獄の閻魔大王による死刑執行に誘われているような感覚が同時に己の中に存在し、混在し、また、どちらの感覚も極めて正常に脳裡を脅かしていることを自覚していた。脈拍が、平然としている顔つきをもう抑えられなくなるほど激しい。手足が同時に出てしまいそう。彼は、そんな少々気後れする意識をどうにか持ち直し、友希那との待ち合わせ場所に急いだ。
その広場という場所は、広場だというのに静かな場所だった。学生が食事を取る昼の時間か、多くの学生が授業を終えて帰宅する夕方の時間以外で賑わうことのない、いわば『隠れスポット』だった。
はたして、友希那はそこに居た。
広場中心地点のベンチに座り、小さな歌姫はどこでもない場所を眺めていた。あるいは、視線の遠く、そよ風に乗る落ち葉の様子を視ていたのかもしれない。彼は、友希那の服装をじろじろ眺めた。服装について、友希那のそれは大人びていた。トップスは黒色の長袖で胸元にリボンが備えられており、スカートは長く、それは白色の柔らかいオーロラのような雰囲気だった。漆黒のタイツを履き、紫の、落ち着いた靴を履いている。今日の友希那は髪飾りをしていた。黒色の薔薇のようなそれは、豪華なのだが、薄紫の長髪によく似合っていた。
彼は友希那に近づいた。友希那から視て右側からの接近だった。物音を立てているつもりだったが友希那は動かなかった。口元さえ震わせず、なにやら遠くを眺めている。そんな様子をすぐ傍で眺めた彼は、友希那は自分ではない別の誰かを待っており、自分は何か勘違いをしてここに立っているのではないかと不安になった。
「あの、友希那……」
彼が、今にも折れて落下してしまいそうな小枝のような質感の声を発した。そんなものさえ、そよ風に捕らわれて、この友希那には届いていないような気がする。ニャー、とすぐ遠くで声がした。彼はその鳴き声に誘われて顎を持ち上げた。
「にゃーんちゃん……」
今、友希那と彼の視線は同じ方向を視ていた。白い猫が視界から消え、彼はすぐに友希那を視た。横顔が映っている。友希那は、当然だが横顔も美しい。それは童顔であると同時に、目元を視るとそこから知性を感じるのだった。彼は友希那の傍らで咳き込んだ。それはわざと音を立てるという意図を含んだ咳だった。友希那の肩が飛び跳ね、彼のことを見上げた。
彼はつい一分ほど前からそこに居たが、友希那はまるで、彼が特別な瞬間移動の能力を駆使して、今まさにその場に出没したかのような表情で彼を仰いだ。
「隣、いいかな?」
無言のまま赤色を帯びてゆく友希那の頬を眺めながら彼は訊ねた。友希那は小さくコクンと頷いた。「ありがとう」と彼はひと言呟いて、友希那の隣に腰を下ろした。
「ごめん、待たせちゃったかな」
「いいえ」友希那は短く呟いた。「問題ないわ」
それは小さな佇まいだった。また、猫を愛玩していた乙女のものにしては堅牢というか、堅苦しささえ感じる語気だった。二人のやり取りはそこで一旦終わった。そよ風が通り抜けてゆく。彼はその微風が、冷たくもなければ暑いというわけでもないことを頬で体験した。友希那は彼の隣で喋り出さなかった。自分で異性を呼び出したというのに、それから先、どのように物事を進行すればいいのか迷っているようだった。それは当然のことのように思われた。友希那にとって、この広場はステージではないし、彼という相手は観客ではない。自らの意思で呼び出した個人の異性であり、この場に二人きり。乙女なら、何がなんでも緊張する。
彼はそんな友希那に煩わしさを感じなかった。だってそんな様子、可愛い。もし友希那と結婚して、十数年後、最初の馴れ初めを思い出した時、こんなふうに縮こまる友希那のことを語ってもいいのなら、その人生は幸福だと彼は思う。また、別に友希那があえて黙り、試されていると彼は思わなかった。ただ、無言という隙があるのなら、それを利用し、友希那と会話を重ねたい。
「ええと」と、彼と友希那は、彼が思っていたよりよっぽどすんなりとした運びで、猫の話題に移っていた。
「僕も猫は好きなんだ」と彼は語った。友希那は最初、彼が説く猫の話題に無関心そうな態度を示した。いいや、極度の緊張状態であるのだから、それ以外の反応をきっと友希那は向けることができなかった、と思っておこう。それから彼は、猫の具体的な生態の話から、世間でよく語られる猫の可愛さだったり、おすすめの猫カフェについて、話題を転向させた。少し話た後、彼はふと、友希那の表情が、あのいつもの柔らかいものに戻っていることに気付いた。緊張が解けている。彼はそこから、さらに友希那の猫に関する具体的な好みをそれとなく訊ねてみた。この時、彼が個人的に驚いたのは友希那の態度だった。友希那は、少なくともこの場の彼に対しては、もう猫が好きだという趣味を隠そうとしなかった。まるで二人の間の当然の認識であるかのように、それ前提で語ってくる。彼の知る限り友希那にとって猫好きという趣味の話題はタブーだった。
「でも、意外だな」
「何がかしら?」
少し会話を重ねてから、彼はふと思ったことを口にした。
「いやほら、友希那がさ、猫が好きなんて」彼は何か踏み込むように語尾を力んだ。「普段の姿からだと、想像つかないや」
「そ、そうかしら……」
友希那は語尾を濁した。普段の姿と、猫好きな性格を比較されて羞恥を得ているようだったが、その羞恥を得ているという様子こそ、彼にとって意外な一面だった。横顔を眺めていると、友希那は「でも、好きなものは、好きだから……」と口元を緩ませた。「それでいいと思う」と彼は和やかに肯定した。
それから、何気なく振った音楽の話題による、友希那の声色の変化に彼は驚いた。
そこから先は雑談ではなかった。議論だった。内容はもちろん音楽で、二人の間に真剣な意見交換の花が咲いていた。彼は作家という生き物を知っていた。作家という、通常から逸脱した特異な種類の人間に関する知識を彼もまた持っていた。しかし相手はプロだった。プロフェッショナルの口から出てくる言葉に、ただアマチュアだというだけの彼がまともな返答をすることなど不可能だった。
議論という体裁はそうそうに崩れ、彼が友希那の話す音楽の話を聞く、というだけになった。それは、重要な本題を後回しにする男女二人としては異質だった。しかし、彼はここで友希那に惚れ惚れと息をついていた。先ほどまでの、猫に対する緩い羨望から一転、やはり音楽を語る湊友希那は麗しいのだった。その目には、薔薇が花としては特異な形をしているように、特別な意志が宿っているように感じられた。
そうした会話の中で、彼が最も感じたことは猫について饒舌な友希那の可愛さではなかった。音楽を語る歌姫の瞳の強さではなかった。いいやもちろん、それについてもしっかり堪能したが、そういう堪能する時間が、友希那と『お喋り』をする時間が、有限であるとう事実が彼の浮つく意識を現実に引き戻す。限りがあるのだ。こうして二人、何か回り道でもするかのように本題には触れず、猫だとか、音楽について話しているが、そういうものはやがて終わる。そして、彼は友希那から、詳細不明の本題を聞かなければならない。それは、愛の告白かもしれなかった。しかし、そんなものとは全く異なる、別の宣言の可能性もあった。友希那から受け取るものなのだから、どちらでもいい。けれどもしどんなものなのか、彼のほうで選べるのなら、もちろん愛の告白を受けてみたい。それを願うことくらいは、友希那に惚れた男として、当然の権利のように思えた。
「二十六日」
それから彼が、あの視線の先の、そよ風に乗る落ち葉を眺めて呟いた。
友希那は額を持ち上げた。彼はそこに視線を注いだ。
「誕生日、だったよね?」
「そう、だけれど、どうして知っているの?」
「Roseliaだよ」
友希那に訊ねられて、彼はとっておきの秘密道具を取り出すかのようにその名を口にした。友希那が所属している、というより、友希那が率いるガールズバンドのことだった。
「君の誕生日、公式サイトに書かれていたから」
だが、それは嘘だった。実際は彼は、Roseliaの公式サイトを視る前から友希那の誕生日について把握していた。大学での会話から知り、確証を得るためにサイトを視たほどだった。
「せっかくだから、何かプレゼントを贈りたいんだけど、何がいいかな?」
「なんでも、いいわよ……」彼が友希那の瞳を覗くと、友希那は視線を逸らした。「あなたからのプレゼントなら、なんでも……」
「そうなんだ」
平然としているが、実のところ彼は友希那の思わぬ受け答えに驚いていた。彼の知る友希那であるのなら、誕生日プレゼントのリクエストなど、まず断る。仲のいい、あのバンドメンバーならともかく、異性のただ友人相手であるのなら、わざわざ贈らなくてもいい、くらいにきっぱり撫で切ってしまうだろう。けれどどうだ、今の友希那はどうにも、彼という異性の友人から贈られることが、何より嬉しいといった様子にある。喋り口調もぎこちなく、どこか羞恥を感じさせる。その熱気を彼もまた体験し、なにやらポッと、赤く温かい花がひとつ咲いたように思われた。
「あの」すると友希那が勢い付いた様子で立ち上がった。「少し、聞いてほしいのだけれど」
友希那は、決意表明でもするかのように彼に向き直った。彼もまた、そういう友希那の表情に、惹かれるように立ち上がっていた。立ち上がらなければならないと思っていた。これから、誰も知らない音楽ライブがはじまる。そんな気がしたが、実際は違った。眼前、友希那の表情はすぐさま赤面という彩りに溶け、視線が迷い、ぐっと握った両手が震えている。彼は、そういう友希那の様子を視ていた。見守っているといってよかった。間もなく友希那の額がクイと上がり、彼は射止められたかのような衝撃を受けた。
「好きなの、あなたのことが」
その声を聞いた時、彼の中で一瞬にして煩悩が駆逐された。それは粛清だった。ただ清らかに目の前、精いっぱいの愛の告白をした友希那のことが愛おしい。それは純粋にして清らかな愛情だった。嬉しいのは、数ある男どもの中から、その全員を無視して自分を選んでくれた、というところだった。彼は、ついにやったのだ。これから起こるはずの友希那とのデート、同棲、そして結婚などの華々しい未来が唐突に、鮮明に、喜ばしい質感で浮かび上がってくる。彼は、ついに到達したのだ。これから続く人生の中で、いいことも悪いこともたくさんあるのだろうが、少なくとも、いいことの大半は、友希那で埋め尽くされる。そんなことの、アアなんと嬉しいことか。そして、これからどんな姿の友希那を視ても、友希那がどんな姿になったとしても、結局は、あれやこれやと思考を巡らせ、最終的に、好感へと回帰するような気がした。
「あの、私と――」
また、嬉しいのは、彼も友希那も自由に出会ったり、言葉を交わして、これからの二人について相談しても、なんら問題がないということだった。
もし、二人がそれぞれ別の国の出身で、それも、その国同士が、激しい戦争の最中にあるとしたら、二人で会うことは極度の困難そのものだった。けれど今、実際の状況はまるで違っている。戦争なんてしていないし、二人は同じ国に生まれている。もしかしたら、彼女が女子大に進学していた可能性だってあった。それが同じ大学で、そうして出会い、最終的に二人同じ、全く一緒の感情に到着したなんて、なんと幸福で、嬉しいことか計り知れない。
「私と、お付き合いをっ……」
友希那が身をよじり、語尾に不要な力が香った。そして次の瞬間、どちらがどのように動いたのか彼が理解する間もなく、友希那は彼の懐に倒れ込んだ。前方向に軽くもたれかかり、額を彼の胸元に落として表情が隠れた。髪飾りは無事だった。ふわり、という優しい風が舞っている。甘いにおいもする。友希那の長髪から分泌される、正真正銘の女性のにおいだった。そういうものから、さらに友希那の熱を感じる。そういった感触の中で、彼は友希那が、自ら意図してこのような行動に出たわけではないと予想していた。意識的にしては大胆すぎるし、これは、友希那の性格に当てはまらないような気がした。
「ごめんなさい……」
そんな彼の予想を裏付けるように、友希那は彼の胸元の上で呟いた。
「あの、少し、よろけてしまって……」
震えた声、そうして無理にでも立ち上がろうとする友希那の心細い背を、彼は繋ぎ止めるように抱き締めた。コッ、という音が複数個聞こえてくる。それは友希那が履いている靴の音だった。ささやかな薄紫の、金具が輝く小ぢんまりとしたものだった。
「いいんだ」
挙動不審な想い人を、いったい誰が弾圧するだろう。そうして優しく呟いてみると、友希那も落ち着きを取り戻し、今一度、彼の胸元に身を寄せる。好きな人が抱き着いてきて、それで嫌だという男がどこにあるのだろう。頬の熱が触れている。じんわりと温まり、腕の中で、友希那はゆっくり顎先を持ち上げた。頬と頬が狭まり、彼は射止めるように友希那に口付けをした。
「んっ……」
今、誰にも視られていない世界で唯一のこの場所で、友希那と彼は真の男女に成り上がった。最初の理解を互いに示したのだ。濃厚な接吻の最中に彼は、愛にまつわるあらゆる言葉を、自分自身の口から友希那に全部捧げたい、と強く思った。
「愛してる」
口が離れ、最初に出てきた言葉はそれだった。