金紗の少年の訪問から半年が経っていた。
時と同じく澄んだ夜空に煌めく星々と見事なほど鮮やかに浮かんだ月を眺めながら縁側で吾郎は1人晩酌をしていた。
縁側から覗く居間では流しっぱなしにしているテレビが野球中継を放送していた。
野球ファンというわけでない。
流し放しにしていた夕方のニュースが終わり、いつの間にか野球中継が始まっていただけだ。
テレビから流れてくるニュースはそれなりに大変だが、特に驚く程目新しくも無い。
政治家の裏金問題、人気アイドルの枕営業スキャンダル、高齢者宅への強盗事件、芸能事務所社長の殺人事件、大手企業の倒産等等々。
世間はそれなりに暇つぶしに消費される程度にスキャンダラスで、かといって繰り返し扱い続けるには目新しさの無い出来事に溢れ返っている。
世の中はほどほどに物騒で程ほどに呑気に回っている。
半ば世捨て人のように人里離れた家で1人暮らす吾郎はそれらを遠い世界の出来事のように思う。
そういえば、と傾けた杯が止まる。
本当ならば毎週見ているドラマの始まる時間のはずであった。
白熱した接戦なのか野球中継の煽りで遅れているのだと思い至る。
それに腹を立てる程熱心に見ていた訳ではないから、吾郎は腹を立てるというよりも拍子抜けしてしまった。
空いた時間をどう埋めようかと思案する必要は無かった。
傍らに置いたスマホでお気に入りのチャンネルを映す。
B小町のチャンネルだ。
「ちょうど良かったな」
酒気の混じった溜め息を吐く。
お目当ての配信は丁度始まったばかりのようだ。
スマホの中ではB小町の人気ナンバーワン、星野ルビーがおぼつかない手つきで料理をするさまが流れていた。
星野ルビー、ここ近年の吾郎の推しである。彼女の人気はここ最近特に目覚ましい。元々注目を集めていたのが兄の人気もあって一気に注目を浴びたのだ。
それだけならば人気は持続しない。優秀な兄に比べて平凡な弟妹というのは何処にでもいる。しかし、星野ルビーは非凡であった。
注目の切欠が兄であっても彼女自身の輝きは何気なく注目した人々の視線を捕らえて雕さなかった。
特別ダンスが上手いわけではない。歌に至ってはお世辞で辛うじてヘタウマだ。
それでも人の目を惹きつける輝きを彼女は放っていた。「母親」によく似た輝きを。
「推しを眺めながら飲む酒は格別だねぇ」
そう独り言ちると、吾郎は空になっていた盃に再び酒を満たす。
微かに淵からこぼれた酒が木目に染みを作る。
意識ははっきりとしているが身体は正直なもので、半分以下にまで目盛りを減らした酒は吾郎の身体に染み込み、彼を酔わせていた。
「よかったの?」
気付けば隣に少女が腰かけていた。シルクの質感を思わせる銀色の髪は月明かりを浴びてより美しく輝き、少女の浮世離れした空気を色濃くするのに一役買っている。
ふわふわとした睫毛すらも艶めかしく銀色の輝きを放つ少女はふっくらとした幼い輪郭とは似つかわしくない妖艶さを漂わせる笑みを浮かべて吾郎を見つめている。
過ぎるほどに整った造形に神秘的な空気を持つ少女は、今すぐにでもアイドルとしても女優としても通用しそうであるが、それを口にすればすぐさま揶極いのネタになることを把握している吾郎は舌の上に転がった言葉を酒と共に飲み込む。
「何が」
「そりゃあ勿論『彼』のことだよ」
「しつこいねお前さんも」
「君があっさりしすぎてるのさ」
少女は皿に盛られた枝豆に手を伸ばす。
子猫の悪戯を眺めるように、吾郎は枝豆を摘まむ少女の手つきを視線で追う以上のことはしない。
「塩味が足りないよ」
「塩分過多は体に悪いぞ?」
「む」
口を尖らせた少女に、少しだけしてやったりとした笑みを浮かべると吾郎も枝豆をに取る。
確かに少女の言うように塩が少なかったかもしれない。
「元カノの手術代はポンと出すくせにね」
「それは俺自身の責任だ。俺の知らないところで俺の子を産み育ててくれた『彼女』と、そんな彼女を支えてくれた『娘』にしてやれるせめてもの償いだと思ってくれればいい」
「父親だって名乗り出ないの?」
「今更過ぎるだろう。娘がアイドルとして人気が出てきてから名乗り出るなんて最低な父親じゃねぇか」
「そうかもね」
「あれ以上俺が踏み入る余地は無い」
「復讐したいとは思わないの?アイを殺した奴に」
「憎くないと言えば嘘になる。けど、俺はアイのファンの1人でしかないのに復讐する権利が主張できるなら、世の中復讐祭りだ」
アイの死は悲しい。
命を掛けて子を産み、完璧とは言えなかったかもしれないが母親とアイドルの二足の草鞋を履いていた彼女に二十歳でその命を散らせなければならない理由などあるだろうか。
ファンに黙って恋人を作り、子どもを産んでいたことは確かにファンへの裏切りかもしれないが、彼女の結末がその対価として釣り合おうはずもない。
ただの1ファンを名乗るには、吾郎は彼女の最もナイープな生命線とも言える秘密に深く関わった人間だ。彼女の人となりを多少は知っている。出産までの数十日は彼女の妊娠を知った絶望を差し引いてもファン冥利に尽きると言える甘美なひと時だった。
自惚れでなければ彼女の方からも少しは懐かれていたと自負している。
彼女を殺した男が憎い。自分を殺したことを差し引いても殺してやりたい程に憎い。
だが、彼女を刺した男は自ら命を絶った。
アクアが言うには裏で糸を引いていたのは彼の実父らしい。黒幕は生きているという。
母を奪われたアクアが実父を憎む気持ちはよくわかる。推奨するわけではないが殺してやりたいと思う気持ちを止めることもできない。
だが、吾郎がそこに踏み込むことはしないしできない。問題はアイのプライベートに深く食い込んでいるからだ。痴情の縫れなのか逆恨みなのかはわからないが、それはアイとアイの子どもの父親との問題に過ぎない。
そして、自分はアイの出産を担当した担当医でしかない。その程度の関係性で、よく事情を知りもしないのに正義の刃を振りかざすのか。アイを刺したストーカーと同様に。
星野アクアとの決定的な違いはそこなのかもしれない。
少年は自分自身と吾郎を同一視していたようだが、吾郎からすれば少年は大人びているものの青臭い十代の子どもであった。
星野アクアは30年近い吾郎の人生に16年の月日を重ねた46歳の男ではなく、30年近く生きた吾郎の記憶を持つ16歳の少年だ。
その16年のうち4年間はアイの子どもとして育てられた記憶であり、残り12年間は母を喪った子どもとしての記憶だ。16年前にテレビでアイの訃報を知った吾郎とは違う。
その間に積み重なり、熟成(あるいは風化)してきた感情も。
「彼は心のどこかで復讐を止めて欲しがっていた。だけど同じくらい背中を押して欲しいとも思っていた。一緒に歩いてくれる『誰か』を望んでいたんだ」
「母親を殺された子どもに復讐を止めろと言う権利は無いよ。法律が禁止する行為に復讐の手段の多くが該当するだけであって、復讐そのものの禁止を明文化してるわけじゃない」
そう語る吾郎の瞳に復讐への嫌悪感は無い。
「アイツが社会的な制裁による復讐を目指してるならそれを止めることは俺にはできない。かといって背中を押すこともしたくはない。それは崖の下を覗いてる奴の背中を押す行為と同じだ。少なくともアイツに関しては」
「煮え切らないね。君は結局彼をどうしたいの」
「アイツがどうするかだ。16にもなって、その上前世の経験と記憶の特典付きなのに自分の行く道の決断を他人に任せるのは甘ったれだろう?」
「彼は君でもあるのに辛辣だね」
「自分だから辛辣なんだよ。嫌になるほど想像がつく。不意に何かに縋り付きたくなる時があるのはよくわかる。しかもアイツにはコレが無い」
酒の入った盃掲げて見せる。
渇いた人生を潤してくれる甘い蜜もあり人の身体を蝕む毒でもある人類の友にして大敵。
或いは毒すらも無為に過ごすには長すぎる人生という時計の針を進めてくれる救いなのかもしれない、そう考えるのは厭世的過ぎるかと吾郎は小さく笑う。
「お前の方こそいいのか?彼は君のお気に入りだろう?」
「私は見守るだけだよ。それに」
「それに?」
「なんでもないよ」
「絶対なんでもあるやつだろそれ」
「ふふっ」
人形のように美しい少女は、くすりと笑う。
大人の男であっても思わずくらりと来る、色気を帯びた妖しさと幼く無垢な少女らしさを湛えた不思議な笑みを浮かべる。
少女の正体を吾郎は知らない。
触れた感触は普通の少女のぬくもりと柔らかさを持っているが、何処にでもいる少女という訳でもない。言動は大人びているが、それは背伸びをしたものでもなければ、少し早い厨二病というものとも違う。
だが、それ以上の詮索をするつもりは吾郎には無かった。気にならないと言えば嘘にはなる
が、少女が語ろうとしないものをわざわざ聞き出す気が起きないのだ。
それは少女への畏れ等ではなく、吾郎自身の興味の希薄さによるものかもしれない。
大切に想っていた少女が大好きだった推しの出産に立ち会うこともできず、何もできないまま生き永らえてしまった頃から。
或いはもっと以前、大切に想っていた少女の病を治すことが出来ず、みすみす死なせてしまった頃からかもしれない。
生き延びてしまった吾郎は、心を大きく震わせることも無く、今を生きている。
希死念慮は特に無い。かといって生存への強い執着があるわけでもない。
強いて言えば死ぬ時が来るまではのんびりと生きたいと願う程度であろうか。
「世捨て人を気取ってる割には随分と楽しそうだね君は」
「ま、否定はしないな。いやぁ推し活はいいぞ。推し活は健康に良い」
「⋯⋯⋯ふ〜ん⋯それは、その子?」
少女は吾郎のスマホへと視線を移す。
に失敗した料理を前に、恥ずかし気に笑う星野ルビーが映し出されている。
吾郎は得意げに頷いた。
「そうとも。いいぞ〜星野ルビー。さりなちゃん以来だわ、アイを超えうる逸材だと思ったのは。あぁ〜〜いつか行きたいなLIVE。握手会なんて贅沢は言わないから。いや、握手会も行きたいな。いやいや、こんなおっさんが行っても困るか」
「確かに、中年オヤジが笑いながら手を握ってきたら鳥肌ものだね」
「そうそう、ニチャニチャ笑って⋯っておい」
「あはっ」
あんまりな言いっぷりに思わず突っ込むと、少女が声を上げて笑う。
心から楽し気な笑顔に吾郎はそれ以上言葉を継ぐことも無く、不平の混じった視線だけを寄越す。
「君やっぱりロリコンじゃない?」
「ロリコンちゃうわ。さりなちゃんもルビーちゃんも推しだから。あくまでも。不埒な感情はは一切無いから」
「でも星野ルビーが星野アイみたいに妊娠してきたらショックでしょ?」
「ゲボ吐くな」
「やっぱりロリコンじゃん」
「絶対にそれを認めるわけにはいかん。そんな目では一切見てないから。娘より若い女の子をそんな目で見るわけにはいかん」
「そりゃあまた⋯⋯⋯ご愁傷様だね星野ルビー」
「は?なんだそりゃ」
「んん〜?こんなおじさんにねっとりとした目で見られてご愁傷様だなって」
「いい加減泣くぞお前」
少女の脳裏に浮かぶのは金紗の少女。
自分の兄を嘗て恋した、いや今も恋する男そのものと信じ続ける無邪気な少女。
すべてを知る少女は皮肉気に、そして憐れむように小さく笑う。
──── 本当に、ご愁傷様 ────