あの行為がレイプと呼ばれるものだと知ったのは暫く経ってのことだった。
驚きはあったし、戸惑いもあった。
疑問や混乱で埋め尽くされた頭の中には、恐怖も無かったかといえばウソになる。
だけど、恐怖よりもあの時の僕の中にあったのは喜びだった。
あの人は優しい人だった。
あの人は綺麗な人だった。
あの人は眩しい人だった。
あの人は温かい人だった。
あの人は僕を初めて抱きしめてくれた人だった。
行為の意味をよく知らなくても、それが僕という人間を求めての行為だということはなんとなくわかった。
僕が欲しくて、欲しくて堪らないと顔を蕩けさせながら、僕を抱きしめて、舐めて、跨って、包み込んでくれたことが、僕という存在を欲してのことだとわかった。
だから嬉しかった。
僕を求めてくれたことが。
例えそこに肉欲が多分に含まれていたとしても。
だから嬉しかった。
僕を必要としてくれたことが。
例えそれがほんのひと時のことだったとしても。
僕の存在は、僕の命は、あの瞬間あの人の中で確かな重みをもっていたことが、心の底から嬉しかった。
★ ★ ★
アイを殺してしまった日のことを忘れたことは無い。
裏切られた、その感情が怒りに、怒りが憎しみに、いつどのようにして自分の中で変わっていったのかはわからない。
ただ、ターニングポイントになった瞬間ならわかる。
アイの担当医を突き落とした時だ。
人殺しの実感はあまり無かった。突き落としただけだからなのか、それとも、死体を碌に確認していなかったからなのかはわからない。
取り返しのつかないことをしたという理解はあったが、実感を伴うことは無かった。
代わりに、自分に引き返せない道を歩ませたアイへの憎しみが増した。
わかっている、全てが俺の逆恨みなんだと、今でははっきりと。
だけど、当時の俺はバカで自分勝手で、自分に何も無いくだらないガキだった。
自分に何も無い穴を埋めるためにアイドルに、B小町に、アイにのめり込んで行った。
画面の向こうで、ステージの上で、常にとびきりの笑顔で笑いかけてくれるアイは俺にとって全てを忘れさせてくれる存在で、その輝きに目を奪われている間は、空っぽな俺自身を見ないで済んだ。
そのうち、ファンに向かって笑いかけてくれるアイの笑顔が、俺自身に向けて笑いかけてくれていると感じるようになった。
俺が応援するからアイは元気でいられる。
俺が好きでいるからアイは笑っていられる。
俺が支えているからアイは輝いていられる。
俺がいるからアイがいる。
俺の認識は、いつの間にかファンの一人と推しのアイドルではなく、俺とアイの二人の世界に変わっていった。
アイには恋人がいない ──── 当たり前だ俺がいるのだから。
アイはファンを愛している ──── そうだ俺を愛している。
アイドルと俺みたいな奴が付き合えるはずがない。
アイと俺みたいな奴が付き合えるはずもない。
そんな当たり前の事実をわかっていたはずなのに、俺はいつしか俺がいてアイがいること、アイの笑顔も愛も俺のためにあると信じ込んでいた。俺はアイを愛しているし、応援している、LIVEにだって駆けつけているし、旅行で買った星の砂だってアイのためのものだ。家族には彼女にあげるのか、などとひやかされて「そうだ」と答えた時も見栄を張っているつもりは無かった。「アイにプレゼントする」ことと「彼女へのプレゼント」の間に何の矛盾も感じてはいなかったのだ。
その認識を疑いもせず、歪んでいるなんて少しも思わず、当然のものとして抱いていた俺は、だから「あのガキ」にアイの妊娠を知らされた時、激しい悲しみに襲われた。
そうだ、悲しみだった。
大切にしていた彼女に、愛しい恋人に裏切られたら、怒りより先に悲しみがくるだろう。
悲しくて胸が張り裂けそうになる、とよく言うが、生まれて初めてその感覚を実感として知った。
心臓の内側から何十本もの鋭い刃物が今にも飛び出して、臓器を、筋肉を、骨をズタズタに切り刻んで、俺の胸を突き破るような苦しみを覚えた。
こめかみがキリキリと痛み、目の奥が火花が散るように視界が真っ白になる感覚なんて嘗て一度も味わったことが無かった。
悲しみだけで、ここまで苦しくなるなんて思わなかった。
なぜ裏切った?
なぜ他の男と?
なぜ自分の愛を蔑ろにする?
なぜ俺というものがありながら?
なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?なぜ?
悲しみからくる虚脱感に空っぽになった身体は、時の経過と共に新しい感情が注がれていく。
裏切ったアイへの怒り。
男を知ったことへの怒り。
俺ではない、股を開いた男が他にいることへの怒り。
その男の子どもを妊娠していることへの怒り。
汚れてしまったことへの怒り。
アイドルという存在に唾を吐いたことへの怒り。
男に散々身体を晒し、股を開いて、咥え込んできた淫売への怒り。
売女のくせに。
ビッチのくせに。
糞アマの分際で。
メス豚が愛をほざきやがって。
俺の愛を弄びやがって。俺の想いを踏み躙りやがって。
淫売淫売淫売淫売淫売淫売淫売淫売淫売淫売淫売淫売淫売淫売、よくも俺を騙したな淫売。
淫売がアイドルをやりやがって。
淫売がアイドルを冒涜しやがって。
淫売がアイドルを汚しやがって。
淫売のくせに『アイ』を、『俺のアイ』を名乗りやがって。
俺は自分の中に満たされていく怒りは正義の怒りだと思うようになった。
アイドルというものへの、B小町の他のメンバーへの、そしてアイを応援し続けるファンへの裏切りに対しての、真っ当な怒りだと、そう思うようになった。
哀れな男の醜い嫉妬から来る怒りではない、正義の怒りだと思い込むことで、俺はなんでもできるような気がした。この怒りからくる行動は全て正しいのだと思うようになった。
ストーキング行為じゃない、これは裁きを行うための調査だ。
自分の行為への迷いや疑問を、一つ一つ「正義」という名の墨で塗り潰していった。
俺の中の迷いが一つずつ黒く塗り潰されて、遂には心の中が真っ黒に染まる頃には、自分の感情が「憎しみ」以外が機能しなくなっていることに気づかなくなっていた。
アイが撮影現場に双子の子どもを連れていったと知った時。
アイのLIVEに双子が来てそれを見たアイが笑った時。
アイが双子のために引っ越しをした時。
アイの人生が他の誰かとの間に生まれた子供によって変わっていく時。
アイが子どもとの生活に幸せに感じていると想像した時。
アイが刺されてもなお、子どもの前に立ちはだかっているのを目の当たりにした時。
真っ黒に染まった俺の心がありったけの罵声を浴びせた。
刺したことへの後悔なんて微塵も無かった。血に染まるアイをざまぁみろとすら思った。
あれだけ遠くで眩しく輝いていたアイドルは、刺されれば血を流す小さなただの女に過ぎないと失望すらしていた。
こんな小さな女が、こんなか弱い女が、俺の心を弄んでいたのかと思うと屈辱で頭がおかしくなりそうだった。
許せない。許せない。許せない。
屈辱を味あわせた女への憎しみと怒りが殺意となって身体を満たしていった。
しかし、まだだ。
滅多刺しにするのは罵声を浴びせてからだ。
それとも、目の前で子どもを先に殺してやろうか、そんな残虐なことすら考えていた。
いや、残虐とすら思わなかった。
正義の執行を残忍な行為とは思わないだろう。
報いだ。
当然の報いだ。
俺を裏切った女への当然の報い。
ファンを裏切った女への当然の報い。
アイドルを裏切った女への当然の報い。
『アイ』を裏切った女への当然の報い。
そう思っていた。
けれど、アイはファンを蔑ろになどしていなかった。
ファンの一人ではなく、俺を「リョースケ君」と呼んでくれた。
『愛せていたかはわからないが、愛したいと思っていた』と手を差し伸べてくれた。
血を吐きながらそれでも笑いかけるアイの笑顔と、血塗れのまま差し出された手を見た時に、初めてアイの
アイは
気付いてしまった。
気付かなければよかった。
んだよ…それ…
そういうんじゃ…!
そういうんじゃないだろう。
お前はそういう愛に真摯な女じゃないだろう。
そういうんじゃダメだろう。
お前はそんなファンを向き合おうとしているアイドルじゃダメだろう。
お前は裏切ってなくちゃダメだろう。
ファンをバカにして、蔑ろにして、嘲笑って、アイドルなんて仕事にも、笑顔にも、何の価値も持ってなくて、平気で男に股を開くビッチじゃなくちゃダメだろう。
ファンを愛そうとして、子どもを守って、そんな、そんな、そんな普通に幸せになろうとしている女の子じゃ、憎んで殺した俺は一体なんなのだ。
お前が間違ってなくちゃ、お前が汚れきってなくちゃ、お前が愛を踏み躙る女でいてくれなくちゃ、空っぽの俺の中に満たされたものは、正義でもなんでもなくなってしまうじゃないか。
俺が憎んだのは淫売のはずで。俺は売女に屈辱を味あわされたはずで、メス豚の謳う愛に騙されたはずで、ビッチは笑顔の下で俺を嘲笑ってたはずなのに。
空っぽの俺が抱いた感情すら、思い違いの、自分本位の醜い感情だったら、俺という存在はただ醜いだけのものになってしまうじゃないか。
そこからは記憶があまりない。
自分自身の愚かさ、醜さに、俺は耐え切れずに自ら命を絶った。
死ぬことへの恐怖は無かった。
それよりも、俺は俺であることへの恐怖の方が遥かに大きかった。
俺という人間であることから俺は逃げ出したのだ。
★
★ ★
★ ★ ★
そして、目が覚めたら、俺はお母さんの腕の中にいた。
四人兄弟の末っ子。
望月家の三男、望月良助。
それが俺の第二の人生の名前だ。
何という因果だろう。同じ名前で生まれるなんて。
良き行いをし、人を助ける。なんと皮肉な名前だろう。
前世の記憶、そんなものを信じられるはずがなかった。
しかし、ネットに溢れるアイの訃報、自殺した犯人、全てが俺の記憶と寸分の狂いも無かった。
この頭にある記憶が、ただの妄想の類であってほしいという願いは早々に砕かれた。
悪夢だった。
姉がアイのファンだからと、家で常に流れるB小町の歌が、俺の悪夢を更に加速させた。
一番上の姉も二人の兄も、そして母も、望月家の誰もが優しく、家族思いの人達だった。
父親こそいなかったが、望月家は居心地が良く、俺は前世の罪の意識に苛まれながらも、望月家での人生に少しずつ馴染んでいった。
望月家で楽しく家族と暮らすことで、過去の罪と向き合うことから逃げるための口実にしたかったのだろう。
どれだけの罪を前世で犯したとしても、今世での家族を大切に想う気持ちは別の問題だと、俺の過去と家族が無関係なのだと、俺は自分を納得させていった。
姉がユーチューバー兼ネットアイドルとして、とある事務所と契約を交わしたと聞かされた時は、奇妙な縁を感じた。
いつも仕事が忙しい母に代わって俺や兄貴達の面倒を見てくれている姉の夢の第一歩を心から祝福し、応援をしようと決意した。
アイに憧れている姉の夢を応援することで、俺は許されたかったのかもしれない。
そして、星野ルビー。彼女を見たとき俺は衝撃を受けた。
アイにそっくりな彼女を見て、アイを超える輝きに魅せられた時、俺は今度こそ上手くやろうと思った。
彼女こそが、俺が応援し、支え、見守り続けるアイドル。
今度こそ俺が間違えずに正しいファンとしての愛を向けるべき推しの子だと確信した。
「なぁ、知ってるか?」
ほっそりとしていながらも、筋張った男の手が俺の指を撫でる。
11歳と15歳、一回り異なる手が俺の手を多い、指を優しくつまむ。
手つきは滑らかで、柔らかいのに、俺は震えが止まらなかった。
「指を折る時は、いきなり折ろうとするんじゃなくて、関節を外すように伸ばして、それから反らせる方が上手く折れる…らしい」
摘ままれた指がゆっくりと伸ばされていく。
関節の継ぎ目が緩むことのない力で必要以上に伸ばされていくのがわかる。
「ひ…」
短く悲鳴が出た。
痛みで上げた悲鳴ではなく、痛みへの予感で上げた悲鳴だった。
「うそだよ」
指に加えられていた力がふっと抜けた。けれども、指を摘まんだ手を、星野アクアは一向に放す様子を見せない。
まるで、感触を確かめるように、俺の指を摘まんだまま何度も何度もぐにぐにと動かす。
はたから見れば、もしかしたら子供っぽいじゃれ方をしていると思えるのかもしれない。
姉ちゃんが見ていたならば「アクたんてば無邪気~」などと胸をときめかせていたのかもしれない。
けれど、俺にはその手つきが、人形の耐久性を確認する作業に思えてならなかった。
「指なんて折らないよ。だからそんなに大げさに怯えなくてもいい。そんなに怖かった?」
星野アクアがゆるりと穏やかな笑みを浮かべる。
「刃物で腹を刺すより痛いと思ったか?」
PCから流れるアイの歌声だけが部屋に響いた。
指を摘まむ力が強くなったことに、背中を流れる冷や汗が止まらない。
震えるまま、俺は首を横に振った。
頷いた瞬間に指を折られるという確信があった。
「なぁ、リョースケくん。一つ教えてほしいんだけれども」
モニター画面のアイを見つめたまま、アクアが穏やかな口調で尋ねる。
──── ア・ナ・タのアイドル ────
「子供の前で親を殺した時、どんな気持ちだった?」
──── サインはB チュッ ────
アイの笑顔を能面のような表情で眺めながら、ぎょろりと黒く何処までも黒く、昏い瞳だけが俺を見つめた。
「ご、ごめ…」
「謝罪とかはいいから。答えてくれないか?
4歳の子供の前で、母親を刺して、罵倒した気持ちはどうだった?
全能感でいっぱいだった?裏切った女の全てを奪った優越感?独占欲?達成感?
それとも、子供もすぐに後を追わせてやるかとか、思っていた?」
「ッ!!」
息を呑んだ。
薄れていたはずの記憶が、鮮明に蘇ったからだ。
鮮明なんて言葉で済まない。
生々しい質感を伴って間の前に広がった。
握手会以来の近い距離にいるアイ。
アイの着ている服が白かったのを覚えている。
白い布地に広がる赤。
アイの後ろで怯える小さな男の子。
血と花と、そしてアイの甘い匂い。
そんな二人を前にして、俺はあの時何を思った?
そうだ、俺は算段を付けていた。
アイを滅多刺しにする前に、まずアイの目の前で…
「アイの目の前で子供を殺してやろうとか思ってた?」
囁くような声だった。
女であれば誰もが恍惚としてしまいそうな、優しく甘い声で、けれども俺には悪魔の息遣いにしか聞こえない。
「図星か。予想はついたさ。君のような手合い、醜い嫉妬に凝り固まった、自尊心だけは人一倍の人間が、自分の自尊心を傷つけた相手に優位に立った時にどう思うのか。奪える限り奪おうとするだろう。味あわされた屈辱を何倍にもして晴らすために、踏み躙れるものは徹底して踏み躙ろうと思う。そうだったろ?」
スポットライトを浴びてキラキラと輝くなか、命の躍動を感じさせるダンスを踊るアイを、アクアは何の感情も垣間見ることすらできない瞳で見つめている。
俺は、目の前にいるのが姉の恋人でも15歳の子供でもなく、もっと得体の知れない、年輪を積み重ねた妖怪か悪魔にしか見えなかった。
「なぁ、感想教えてくれないかリョースケくん?知りたいんだ。今後の参考のために」
その言葉が浸透するとともに、脳裏に浮かんだのはエイミ姉ちゃんの笑顔だった。
「ま、まさか…ッ」
「何焦ってるんだよ。メムは俺の恋人だぞ?」
能面のような表情から一転、困ったように笑うアクアに、一瞬身体を覆った悪寒が薄れる。
「でも、エイミが妊娠でもしたら…でも、君は気にしないか。アイドルのくせに子供なんて作る奴は殺されて当然なんだっけ」
「ご、ごめんなさい。なんでも、なんでも…」
薄く微笑むアクアに、震えながら、辛うじて声を絞り出す。
「どんなことでもします。だから、助けて…」
「へぇ~ただのアイドル好きの小学生が何をしてくれる?」
「……俺にアイの居場所を教えてくれた奴のことを」
「11年前のことを克明に覚えてるのか?」
「それは…」
「なぁ、君は何をしてくれるんだ?アイの命を奪った君が、それに見合う何を俺にしてくれる?」
俺の指を摘まんでいたアクアの手が放れた。
「ウソだよ。メムは俺の大事な恋人で、仕事仲間だから。メムには何もしないよ。今日はリョースケくんの顔が見たかっただけだし」
ぽんと頭に手を置かれた。
立ち上がったアクアを見上げると、さっきまでの能面のような表情が嘘のように、アクアが優しい笑みを浮かべた。
「色々と僕がお世話になったからね」
ドアをゆっくりと閉める音、そして、階段を下りていく音が聞こえるまで、俺は立ち上がることが出来なかった。
ふと、湿り気を覚えて見下ろすと、座っている自分の股間からクッションまでがぐっしょりと濡れていた。
のろのろと立ち上がり、濡れて不快な下着の感触にも構わず、カーテンの隙間から家の外を見下ろした。星野アクアが帰るのを確認せずにはいられなかったからだ。
窓の外では、姉ちゃんがアクアと立ち話をしていた。声は聞こえないが、姉ちゃんの表情でどれだけ姉ちゃんがアクアを好きなのか、長年家族をしていた俺にはすぐにわかった。
アイドルがしては問題になるような恋に蕩けた女の表情。
甘く潤んだ瞳はアクアのことしか見えていない。
24歳になるというのに、浮いた話の一つも無かった姉が見つけた初めての恋なのかもしれない。
それを弟としては応援すべきだろうが、俺には姉が年下の恋人と甘い蜜月を交わしている様にはどうしても見えない。
俺の目に映るのは、悪魔の手の中に大切な姉が捕らわれている光景にしか見えなかった。
会話が止んだのか、アクアに手を振ってお別れを言ってるらしき姉ちゃんに、背を向けかけたアクアが、ふと立ち止まる。
不思議そうに首を傾げる姉の手を強引に引き寄せると、アクアは姉ちゃんを思いきり抱き締め、その唇を奪っていた。
時間にして、十数秒といったところだろうが、永遠にも思える時間の果てに、解放された姉ちゃんは、熱に浮かされたように、蕩けた表情でアクアを見つめていた。
「 ──── ッ」
一瞬、アクアが二階に視線を向けた。
二階ではなく、俺に視線を向けたのだ。
刃物のような笑み
ぴちゃぴちゃと音がする。
出尽くしたと思っていたのに、太ももを熱い液体が流れ落ちる。
アンモニア臭のする水たまりの上にへたり込むと、止んだはずなのに、身体が震え始めた。
身体を抱きしめて震えを止めようとするが、極寒の地に裸で立たされたみたいに、震えは全く止まらない。
「ひっ、えぐっ、ひ、ひっ、ひ、ひぃ…」
引きつったような嗚咽が零れた。
俺は自分の醜さから、愚かさから、罪から逃げ出した。
何一つ向き合うことを拒んで、飛び降りた先で、俺は暖かな場所に辿り着いた。
だけど、俺の犯した罪は何一つとして俺を逃してはくれないんだ。
アクアの言葉が蘇る。
『なぁ、君は何をしてくれるんだ?アイの命を奪った君が、それに見合う何を俺にしてくれる?』
───
────
──────
10歳かそこらの年ごろだろうか。
幼いはずなのに、大人びて、浮世離れした少女が一人ブランコを漕いでいた。
「あははは、こわい顔~~」
アクアがMEMの家から帰る途中の公園で、一人ブランコを漕ぐ少女が愉し気に笑う。
「なんだ、来てたのか」
少女を横目で見つめるアクアの表情は固く、月明かりに照らされ白磁のような肌が白く浮かび上がる様は、静謐な空間に漂う能面のような妖しさを放つ。
精巧な芸術品を愛でるような眼差しを向ける少女もまた、幼いながらも理想的に全てのパーツが配置された顔に優美な笑みを浮かべ、背中まで伸びた髪を艶やかに月明かりの下で靡かせる姿はさながら一つの芸術品のようであった。
「そりゃあ、顔見せが済んだ君の様子を見にね。どうだった?彼女のお母さんへのご挨拶は?」
「問題無かったさ。メムによく似て、優しくて、温かくて、可愛らしい人だ。あんな素敵な母親に育てられたなら、メムがああいう育ち方をするはずだな」
「ふぅ~ん、ベタ褒めだね。やっぱり前世の恋人は特別?」
「今は関係ない」
「そうだね。今はその娘の恋人だもんね。でも、良かったね。あの時援助してあげて」
「どうせ腐らせておく金だ。有効に使っただけだ」
「
「…」
「まだまだ綺麗だよねあの人」
「彼女もいい大人で、立派な母親だ。昔の自分の男を見る目が無いことくらいとっくに気づいてるだろ。くだらない男のせいで費やした時間への慰謝料くらいに思ってくれればいい」
一瞬、寂し気な目をしたアクアを、つまらなさそうに見ていた少女が鼻を鳴らす。
「じゃあ、母親の仇との再会はどうだった?」
どろりと、静謐な湖面からコールタールが溢れるように、穏やかな光を放っていたアクアの瞳が黒く、黒く、どこまでも黒く昏く染まる。
それを少女はどこか夢見るように、うっとりと見上げる。
「その表情だと聞くまでもなかったね。それで、唆して鉄砲玉にでもするの?」
少女の物騒な物言いを気にする風でもなく、アクアは少女の隣のブランコに腰掛けると、鼻で笑う。
「まさか。アイを思い込みで恨んで殺した罪から逃げる為に自殺するようなくだらない人間だぞ。そこまで使い物になるかよ」
「じゃあただ挨拶してきただけ?」
「そうだな。ただの挨拶だけしてきた」
「ちゃんと自己紹介して?」
「そうだな。きちんとお互いにな」
「ふふっ。お利口さんだね」
「やめろその言い方」
「じゃあ、今頃震えてるかな」
「そうだな…」
うっとりとした目で自分を見つめる少女の眼差しに気づくことなく、アクアは空を見上げる。
「せいぜい、死ぬまで怯え続ければいいさ。俺とルビーからアイを奪ったんだ」
空に穿たれた洞穴のような月を睨みながら、反吐を吐くように吐き捨てた。