風に運ばれた雫が窓硝子を叩くのを目で追う。
3月も終わりに近づいているというのに、外の空気はまだまだ冷たい。
めくれかけていたシーツを被り直す。
まどろみかけた意識に差し込む雨音が心地いい。
雨の音を聞いていると気持ちが落ち着くのは何でなんだろう。
「母親の胎内にいる時に耳にする音が似ているからとよく言うな」
耳元で囁かれる低く甘い声が擽るように私の鼓膜を揺さぶる。
子供の頃は女の子みたいな声だったのに、この数年で声変りを果たしたおにいちゃんの声は、可愛らしさが名残も無く消えてしまった。脳を蕩かすように甘い響きを孕むようになったとおにいちゃんの声を褒めていたのは誰だったっけ。
メムちょだったり、ニノさんだったり、他にもたくさんいた。
「じゃあ、おにいちゃんの心音を聞いてると落ち着くのもママのお腹にいた頃を思い出すからなのかな」
「双子だからな」
私たちにママのお腹の中にいた頃の記憶があるのかはわからない。
私もおにいちゃんもママの子の中に入り込んで生まれたのだから、もしかして、お腹の中にいた頃は空っぽの赤ん坊が眠っていただけなんじゃないか、と何度か思ったこともある。
そんなことを思うと、ママのお腹の中にいた記憶が無いのに、ママの子どものつもりでいるのは何だかとても厚かましい、罪深いことのように思えて、ひどく不安になった。
けれど、おにいちゃんは「身体に宿った記憶なんだから些細な事だよ」と笑って私の不安を払拭してくれた。
だから、それ以来私は不安を感じない。
おにいちゃんが、せんせが私にそう言ってくれたのだから、それでいい。
お腹の前で組まれた細くて滑らかな指は、鳥が獲物を捕まえた様に固く組まれていて、私を逃すまいとしているようで、そのことに私は深い満足感を覚える。
少しだけ顔を後ろに向けると、おにいちゃんは再びまどろみかけていた。
受験も終わったし、私もおにいちゃんも仕事が無いから、このまま二度寝をしてもいいのかもしれない。
背中越しに伝わる鼓動に
☆
「アクア君とお喋りしてると、懐かしい気持ちになるわね」
私の突然の発言に、熱々の紅茶をゆっくりと飲んでいた娘の彼氏君はきょとんとした顔をする。
普段は大人びた綺麗な顔が、そうしていると年相応の男の子の表情になって、なんともまぁ可愛らしい。
15歳なんて、私が学生の頃に目にした男の子たちはみんなニキビや日焼けでボロボロの肌だったのに、目の前の男の子は、羨ましくなるくらいすべすべの白い肌にうっすら朱が差して、15歳という若さだけを都合よく湛えたズルいほどの美しさを持っている。
……というか犯罪よねこれ。
うちの子達でアクア君より年下なのってリョー君くらいじゃないの。
あの子ったら、全然色っぽい話が無いと思っていたら弟よりも年下の男の子を彼氏にするんだもの。
今更ながらに我が子とその彼氏君の年の差と、彼氏君の年齢を思い出して戦慄を覚えてしまう。アクア君が言うのには向こうの親御さんも了承してくださっているらしいけれども。
「懐かしい…ですか?」
ティーカップを音を立てずに置くと、アクア君が不思議な表情で私を見つめてくる。
私みたいなおばさんにそんなことを言われるとは思いもよらなかったのかしら。
「ええ。突然何をって思うのかもしれないけれど、時々貴方とお喋りしていると、昔の知り合いを思い出しちゃうの」
「ゴローさんですか?」
「ふふふ、引かないでね」
そんな子じゃないとはわかっているけれど、予防線を張ってしまう。
こんな男の子に一昔前のナンパみたいなセリフを吐いている自分が少しみっともないし、年甲斐も無く甘酸っぱい思い出に気恥ずかしくなってしまったから。
「昔付き合っていたのよ」
「聞いてますよ。エイミからお母さんの話を聞いてた時から、ゴローさんから聞いてた話と似てるって思って」
「なんて言ってたのあの子?」
「私のお父さんかもしれないんじゃないかって」
やっぱり。
娘に昔付き合っていた恋人 ──── 雨宮吾郎の話をしたのはまずかったのかもしれない。
本当に、彼とはただ付き合っていただけで、あの子の父親はその後に結婚した夫で間違いが無いのだけれど、私が雨宮君のことを度々口にするから余計な疑いを持ってしまったのだろう。
「実際のところどうなんですか?」
「ん~~どう思う?」
「意地悪しないでくださいよ。もしそうだったらエイミと」
「ふふふ。心配しないでちょうだい。間違いなくあの子は死んだ夫との子よ」
残念なことに。
なんて言ったら、死んだ夫に怒られるかしら。
揶揄われていたとわかったのか、アクア君が少し不貞腐れた顔をしている。顔の綺麗な子はそういう表情をしても可愛らしいだけだ。
少々意地悪だったかしらね。
でも、意地悪をしたくなるのはこの子が不意に見せる子どもっぽさのせいだ。雨宮君もそうだった。理知的で大人っぽいのに、ふとした瞬間に迷子の子どものような顔をする。その顔を目にするたびに私は胸が締め付けられて堪らない気持ちになる。
雨宮君は自分がモテるとしたら医学生としてのステータスや理知的な性格が理由だと思っていたようだが、寧ろ彼がたまに見せる弱い顔が女心をくすぐることに彼は気付いてはいなかった。
アクア君もよく似ている。遠縁とは言え血のつながりのせいなのだろうか。
「だからアクア君は安心してエイミとお付き合いしてくれていいのよ」
「それはむしろエイミに言ってあげてください。ゴローさんがお母さんの治療費を肩代わりしたのが、本当は自分の父親だからなんじゃないかって、ずっと疑ってるんですから」
「それは雨宮君の説明責任だと思うなぁ。私だってびっくりしたのよ?彼から連絡を受けた時は」
そうだ、あれは何年前だっただろうか。
無理が祟って倒れてしまった私は、入院先で思いもよらぬ治療費まで請求された。エイミも学校を辞めてでも働こうとしていた時だった、雨宮君から連絡を受けたのは。
何十年ぶりかに耳にする彼の声は、少し記憶とは違っていたけれども、確かに雨宮君で、娘に心配をかけてしまったこと、家に置いてきてしまった子供たちのこと、何より子ども達の足枷に親の自分がなってしまったことへの不甲斐無さに打ちのめされていた私は、最も輝いていた青春時代の象徴とも呼べる彼の声に、思わず泣きついてしまった。
今すぐにでも、あの頃のように私を優しく抱きしめてほしい、喉元までそんな言葉が出てしまいそうになるくらいには私は心身共に弱りきっていたし、別れて20年近くが経ってもなお彼の存在が胸に焼き付いていた。
雨宮君は私の話を聞くとすぐにお金を振り込むと言ってくれた。
決して安くないお金を、別れてから何十年も経っている昔の恋人の為に。
彼が人を騙すような人間ではないとわかっていても耳を疑ってしまった。
そんなことをされるような関係では無いというのに。
けれども彼は譲らなかった。
『どうせ使うあての無いお金だ。家族もいない俺にとって、君は今でも変わらず大切な人なんだよ』
電話の向こうで彼がはにかんでいるのがわかった。
完全に一切の疑いも無く信用したわけではなかった。
だけど、その時の私はとにかく縋れるものが欲しかった。泣きつきたい人を求めていた。
何年かけてでも必ず返すと約束して、私は雨宮君の差し伸べた手を取ったのだ。
「雨宮君は元気なのかしら?一目でもいいから、もう一度会いたいわ」
「…ゴローさんは今会える状態じゃないみたいで…でも、すごく貴方の事は覚えていましたよ。もっと僕が貴方を信じて、貴方だけを見ていられたら、もしかしたら、貴方は僕の隣にいてくれたのかもしれなかったって」
──── 一瞬、胸が詰まってしまった。
だって、目の前に雨宮君がいたから。
もちろん、すぐに違うと気付く。
私の目の前にいるのはアクア君で、15歳の男の子で、今朝まで徹夜で作業をしていたせいで未だに夢の中にいる彼女を訪ねてきてこうして彼女の母親の世間話に付き合わされてしまっている娘の彼氏君だ。
顔は全然違うのに、私の目には確かに雨宮君がいたのだ。
頬が熱い。
手を当ててみると、風邪を引いたときのように頬が火照っている。
自分の子供くらいの年の男の子に、昔の恋人の面影を重ねて、若い娘さんのように照れてしまっているなんて、みっともないにも程がある。
だけど、目の前の男の子の口にした言葉は、雨宮君の言葉にしか聞こえなかった。
ずっと私が聞きたかった雨宮君の言葉に。
「親子っていやぁね…」
娘は私に似ているとは年々思っているけれど、こうも同じだと流石に面映ゆくなってしまう。
「どうしました?」
「男の人の趣味まで似ちゃうんだもの。あの子の方が面食いみたいだけれど」
猫のようにつぶらな瞳を丸くさせると、アクア君は少し困ったように微笑む。
ごめんなさいね、こんなおばさんにこんなこと言われても困るわよね。
だけど、それすら雨宮君が時折浮かべていた笑みによく似ていて、私は治りかけた瘡蓋を引っ掻かれるような甘いむず痒さを覚えた。
☆★☆
「随分刹那的な生き方をしてるね」
街行く人々を眺めながら、少女が蕾のように小さく可憐な唇を窄めて冷たいココアをストローで吸う。
童話から抜け出してきたような可憐な少女の目の前にはやはり童話に出てくる王子様のように、容貌の整った少年が座っている。
「快楽に溺れてるつもりはない。目的は変わらない」
「アイの復讐」
「それからルビーの夢の実現だ」
ふふんと、少女が含みのある笑みを浮かべるのを無視して、アクアは温くなったコーヒーを口にする。
春の足音がようやく聞こえ始めたばかりの3月、テラス席は燦々と降り注ぐ陽光こそ強いが、未だに頬を撫でる風は冬の匂いを帯びて冷たい。
恐ろしく容姿の美しい幼い少女と大人になり始めている少年が向かい合うテラス席は、それだけで切り取られた一枚のポートレートのようだ。
誰もが目を奪われつつ、侵し難い世界を構築していた。
「よくそんな冷たいものが飲める」
「そう?美味しいよ?」
やはり子供の体温は高いからなのか、冷たいココアを美味しそうに飲む少女を眺めているとそんな考えがよぎる。
艶やかな髪をかき上げながら、鈴の鳴るような声で少女が笑う。
何を指しているのか、アクアには今更隠すつもりも無い。
「緻密な計画なんて立ててもどうせ変更を余儀無くされるだろ」
「それにしても行き当たりばったりじゃないかな。使えそうならとりあえずコナかけておこう、的な?」
「……物語を作る上で、一つでも掛け違えたら全てに矛盾が生じるようなストーリーは必ず何処かが破綻する。後から使えそうな種を撒いておけば、それを伏線に後付けることだって出来る」
「でも、それだけじゃないでしょ?」
楽しそうな少女を横目に、アクアはつまらなさそうに息を吐いた。この少女に嘘を吐いても仕方が無いことを理解しているからなのかもしれないが、アクアにそもそも自分の行動を理屈付けて話す意図が無いからだ。
「騙すとか誑かす相手は選んでるつもりだ。けど…穴を塞ごうとしてると言われたら否定出来ない…かもしれない」
「ふふふ、そんなに
「当たり前だろ」
「その穴は何で埋められるの?お母さんの代わり?恋人?」
「茶化すな。何ににも埋められはしない」
大人であっても震えそうな冷たい藍玉色の瞳を少女はうっとりとした目で見つめ返す。
少女にとっては、アクアの爛れた女性関係も、喪失感から来る澱みきった破滅行動も、滾り続ける復讐心も、
「で、彼女が自分の子供じゃなくてガッカリした?それともホッとした?」
愛らしくも意地の悪い笑みを睨み付ける。
「星野アクアは安心してるけど、雨宮吾郎もホッとしたのかな…でも、少し残念にも思ってた」
「ふーん…それは子供を押し付けてなくて安心したってこと?」
「そうだな…だけど、彼女となら子がいても良かった…雨宮吾郎はそう思ってる」
少女は優美な曲線を描く眉を僅かに歪める。
面白くなさそうに。
「でも、ただの他人だった。じゃあ元カノにポンと大金払った未練がましい男だと思われてるねきっと」
「いいさ。どうせ雨宮吾郎にはそんな大金使うあてなんて無かったからな」
少女が愉快そうに笑う。
「そうだね、もう今は星野アクアだもんね」
アクアは通り行く人々に視線を向けたまま、何も答えずに冷めたコーヒーを飲み干した。自分の横顔に注がれる蕩けた砂糖菓子のようなねっとりとした視線に気付かぬように。
砂糖菓子の瞳