※この作品はR-18です。

WATCH ME BURN   作:オリスケ

1 / 11
第1話

 

 

 

 私は景色を思い出します。

 アルバムを捲るように記憶の蓋を開き、私が生きたかつての光景を瞼の裏に描きます。

 全てが白く焼け付く前の、テラの景色を。

 

 

 テラに生きる全ての人が共通して思い浮かべられるのは、粉塵に濁った空でしょう。

 テラの各地に発生する天災は、大地に降り注ぐ破壊の渦の予兆として、大地から巻き上げた大量の活性源石を大気中に拡散させます。私達が見上げる空の大半は、活性源石の粉塵を大量に含んだ黄金色の濁雲に覆われています。

 空を埋め尽くす、鈍い褐色の雲。時折、活性源石が連鎖反応を引き起こし、空が割れるような途方もない大きさの稲妻が走ります。

 天災の超高密度のエネルギーを中心に渦巻くように形成される、大量の活性源石を含んだ重たい雲は、何万メートルも下に暮らす私達の肌を震わせる程の、大きな大きな唸りを上げます。ごうごうという、何万匹もの獣が一斉に餓えを訴えるような、破壊の予兆の音を。

 

 

 次に人々が思い浮かべるテラの景色は、そんな天災に全てを削り取られた後に残る、えんえんと続く不毛の荒野でしょう。

 何もかもが焼き払われた大地には、天災が落とした怒りの鉄鎚が突き刺さっています。

 一つの都市の建造物をすべて束ねても敵わないほど巨大な源石結晶が、地平の先まで数え切れないほど屹立し、大地を蹂躙している。いつ見てもその光景は、テラという世界そのものが孕む計り知れないエネルギーを感じさせ、私の背筋に怖気を走らせるのでした。

 

 

 そして、もちろん。テラにあるのは、そのような過酷な光景ばかりだけではありません。

 たとえば移動都市。数百万人の命と文明を乗せて荒野をひた走る、人類の叡智と生存本能の結晶。初めてその途方もなく大きい全貌を見て、それが人の手により作られたものであるという実感を得た時の、胸に熱いものがこみ上げてくる高揚は忘れる事ができません。

 

 

 様々な地理的要因で、比較的天災を逃れる事ができている場所もあります。たとえば険しき霊峰を主神として信仰する雪国イェラグ。水と緑に満ち力自慢のティアカウ人が暮らす熱帯雨林アカフラ。いずれも直接行くことは叶わなかったけれど、クリフハートさんやガヴィル先生から聞く故郷の話は、どれも私の胸を弾ませる、ワクワクするものばかりでした。

その他にも、自分の目で見た景色も沢山あります。みんなで一緒に行ったドッソレスの海は綺麗で、賑やかで、とても楽しかった。ホシグマさん達に誘われたカジノは怖くて遠慮してしまったけれど、今思えば、たとえ怖い物見たさでも一緒に行けば良かったかも。

 

 

 自分の目で見た、記憶の景色。誰かから聞いた、思い出の景色。

 どれもこれも、宝石のように眩しい色彩に溢れています。

 私は、この世界の景色が残酷なものばかりでない事を知っています。

 大地を脅かす天災や、人を蝕む活性源石の激痛や、貧困や飢えや争いは、あくまでこの世界を構成する一部でしかなくて。そんな暗黒に負けない沢山の眩しい光景が、この大地には広がっているのです。

 

 

 私は世界の輝きを知っています。この過酷な世界に、生きる価値がある事を知っています。

 それを知ることができた自分の生き方に、間違いはなかったと信じています。

 だから私は、何もかもがなくなった、真っ白な閉ざされた世界でも、記憶のアルバムを捲り心穏やかに過ごす事ができるのです。

 

 

 

 

 私は今、小さな移動都市の中にいます。

 移動都市が所属するのは、製薬企業ロドス・アイランド。鉱石病に侵された人々を助ける企業移動都市は、今日も救いを求める都市から都市へ、源石結晶の屹立する荒野を走っています。

 レユニオン・ムーヴメントとの戦いをはじめ、数々の事件や争いに相対しながら、幾年月。

信頼性の高い医療技術と、優れた外交戦略、企業単独で暴徒鎮圧をこなす戦闘練度が評価され、ロドスは飛躍的にその知名度を伸ばし、事業規模を拡大していきました。

 龍門やカジミエーシュを初めとした協賛都市には、ロドス支社の大きなビルが建ちました。ロドスが直接運営する大小様々な医療施設が、各地で鉱石病患者の治療に当たっています。

 ロドスはとても大きくなりました。沢山の医療スタッフが働き、沢山のオペレーターが世界各地で調査と研究を行い、これまで以上に沢山の鉱石病患者を受け入れるようになりました。

 そして、その飛躍的な成長は、一つの問題を浮かび上がらせる事になりました。

 鉱石病から人を救うと銘打つ医療機関ロドスが避けて通る事は叶わない、恐怖の対象の一つ。

 

 

 ──鉱石病患者の、死の取り扱いです。

 

 

 鉱石病患者の体内の源石は、死を目前にして活性化し、強い感染力のある粉塵を飛散させるようになります。源石エネルギーは時間と共に肥大化し、宿主の死と同時に最大化。肉体そのものを源石化させ、感染力の高い粉塵を大量に撒き散らします。

 それが、鉱石病患者の末路。テラに生きる全ての人が恐れ、感染者が迫害される最大の要因。

 移動都市ロドス・アイランドは、大量の感染者を受け入れた結果、いつ爆発するとも分からない大量の源石爆弾を抱える事になったのです。

 

 

 鉱石病は不治の病です。死は避ける事ができず、恐ろしい早さで訪れます。

 まき散らされる活性源石は、適切な処理を行わなければ、新たな感染者を産み出すのはもちろん、感染者の病状を更に深刻化させる事もします。

 時に日に数十人も発生する感染者の死に安全に対処するのは、必要不可欠な事項です。

 

 

 

 

 その解決のために、ロドスは一つの移動都市を生み出しました。

 ロドス本艦から約五キロの距離を置いて追従する、施設級サイズの小型移動都市。

 名をロドス・ターミナル。

 死を目前にした感染者のみが収容される、ロドスの終末期病棟。

 ロドスが受け入れた患者が最後に辿り着く、集合墓地。

 私の最期が看取られる場所。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私はロドスの元オペレーター、エイヤフィヤトラ。

 このロドス・ターミナルという動く棺桶の中で、死の瞬間を待っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ロドスに鉱石病の治療と天災研究への協力を求めてから、実に五年もの月日が過ぎました。

 当初から私の症状は重く、中程度の難聴に、その他軽度の感覚異常を発症していました。

 私の診察を受け持った先生は、診断結果を見た途端に表情を曇らせました。それから彼女は、私を安心させるように笑顔を取り繕い『ロドスの鉱石病研究はテラ一だから。あなたが完治できる日がくるかもしれないわね』と励ましました。

 もし完治できるようになったら、すごく素敵ですね──そう応えたのを覚えています。元より分かっていた事ですが、やはりそれは叶わぬ願いだったようです。

 

 

 鉱石病は、最後に命を奪う前にも、ほとんどのものを私から奪い去っていきました。

 もともと侵攻を食い止めるのは絶望的と言われていた聴力は、いまから一年前、きっかりケルシー先生が予想した通りの日付に、聞こえなくなりました。

 予告された最後の日。私は担当のススーロ先生や仲良しのオペレーターの皆さんと、たくさん、たくさん話をしました。アンジェリーナさんは私を強く抱きしめて、既に大分遠くなっていた耳でもはっきり聞き取れる大きな声で「だいすき」と伝えてくれました。そうして楽しく過ごした日の夜に、私はお気に入りのレコードを流しながら静かに眠りに付き、音に別れを告げました。

 

 

 以前からケルシー先生に言われ、音を失う事を覚悟していました。だからその時は、悲しくはあれど、つらく思う事はありませんでした。

 一番苦しかったのは、その後に訪れた失明の方。

 朝起きたら世界が真っ白な霧に覆われていた衝撃は、計り知れないものでした。私は最初、敵の襲撃と思ってアーツを発動してしまいました。端から見ればそれは、精神疾患に伴う錯乱に見えた事でしょう。看護師さんに取り押さえられた私は、鎮静剤を打たれて意識を失い、それから目を覚ましてようやく、自分の身に訪れた絶望的な事実を知ったのでした。

 病とは、ここまで無慈悲に全てを奪っていくものなのか──目に包帯を巻かれた私は、ただただ衝撃に呆然とする事しかできませんでした。

 

 

 こうして私は何も聞こえず何も見えない、真っ白な世界へと放り出され。余命半年ほどと診断された後、ロドスの規定に則ってここ、ロドス・ターミナルへと移送されたのでした。

 最初の頃は、毎晩のように泣きました。泣いて、今の私は自分の泣き声すら聞けないのだと気付かされ、それが悲しくて、また泣きました。

 真っ白な世界で一人きり。泣いて、泣き疲れて気絶するように眠るのを繰り返す。

そんな日々を何日も過ごして──私はようやく全てを受け入れました。

 元より私は感染者。普通に死ぬ運命なんて決して訪れない事は、身体に源石が浮いたその日から分かっていました。

 長く生きられるなんて思った事はありません。

 足掻いても、泣いても喚いても、どうにもなりません。

 だから私は泣くことを止め、残された日を静かに、穏やかに生きる事を決めたのです。

 

 

 いちど決意を固めれば、真っ白な靄に覆われた世界でも、寂しく思う事はありませんでした。

 なぜなら私の頭の中には、沢山の思い出が残っています。

 少し意識を集中させれば、ロドスの植物園に咲く沢山の花々や、アンジェリーナさんと一緒に食べた炎国のとろけるように美味しいスイーツや、地質研究のためにスタッフと一緒に巡った火山の雄大な山嶺を、昨日の事のように思い出す事ができます。

 アーツロッドを手に感染者を守るため戦った事も、今となってはいい思い出です。敵のアーツを受けた痛み、暴徒に取り囲まれた時に感じた怖気も、本当の死を目前にした今は、ちょっとしたごっこ遊びのようにすら思えてしまいます。

 音を聞くことすらできない状態で点字を覚えるのは本当に苦しかったけれど、やりがいのある事でした。努力の甲斐があって、今では難しい本も、すらすらと読むことができます。

 

 

 退屈はしないから、絶望することもありません。

 ロドス・ターミナルに辿り着く前の自分の人生に、後悔する事もありません。

 それに──何よりも私には、一つの幸せがあります。

 目も耳も失った、そんな私の不幸を塗り潰してしまえるくらいの、とびきり大きな幸せです。

 その幸せが今、私の病室まで来てくれました。

 

 

 ベッドのリクライニングを起こして、膝に広げた点字の本を読んでいた私は、肌に当たる空気の流れで、病室の扉が開かれた事を感じ取ります。

 どうやら視覚と聴覚を失った分、他の感覚がとても鋭敏になっているようで──少しはしたないかもしれませんが、私は彼の匂いを、すっかり覚えてしまっていました。だから足音が聞こえなくても、私は匂いで、彼がベッドの傍に立った事が分かります。

 私は、彼が驚かせないよう恐る恐る手を伸ばしたのを感じ取り──不意打ち気味に、がばっと彼のお腹に抱き付きました。

 

 

「先輩っ、来てくれたんですね!」

 

 

 ドクター。ロドスのオペレーターの中で、ただ一人私だけが『先輩』と呼ぶ人。

 先輩は私のいきなりの抱き付きにびっくりして身体を跳ねさせました。それから私の背中に手を回し、優しく抱きしめ返してくれます。

 

 

「二日ぶりですね、先輩。再開をお祝いするハグですよ。ぎゅ~~……っ」

 

 

 抱きしめた腕と、擦り付けた頬に当たるのは、皺のよった白衣の感触。力を籠めてぎゅ~っと抱きしめると、その向こうの、先輩のぬくもりがじんわりと染みてきます。

 感触の変化で、先輩が身じろぎしたのを感じます。でも私は、今日はちょっとわがままになって、更にぎゅっと抱きつきを強くします。

 

 

「いやです、離れません。私、先輩がとても恋しかったんです。最低でも、あと十秒はこのままいさせて貰わないと困ります」

 

 

 先輩は「何が困ると言うんだ」なんて小言を言っているかもしれませんが、聞こえません。聞く耳がありませんので。私は先輩のお腹に顔を埋めたまま、先輩と触れあう事のできるうれしさに、ついくすくすと笑ってしまいます。

 先輩は優しいので、私のわがままを許してくれました。先輩は私を無理に振りほどいたりせずに、たっぷり三十秒は経ってから、遠慮がちに私の肩をぽんぽんと叩きました。

 

 

「えへへ、困らせちゃいましたかね?」

 

 

 いたずらっぽくはにかむと、先輩は頭をよしよしと撫でてくれます。

 先輩の手。男の人の大きな手のひらに髪を撫でられるくすぐったに、心に蟠っていた暗い気持ちが吹き飛んでいくのを感じます。

 私がロドス・ターミナルに来て以来、先輩は度々、私に会いに来てくれるようになりました。

 ロドスの会社規模がかなり大きくなった事で、特にアーミヤさんと先輩は外交面での仕事量が膨大になり、ここ一年はめったにロドス本艦にいない状態が続いていました。本当は、視覚や聴覚を失う最後の時を先輩と過ごしたかったけれど、当時はどうあっても叶わぬ願いでした。

 だけど、ロドス本艦に戻ってきた先輩は、私がロドス・ターミナルに移送された事を知ると、わざわざヘリに乗って、私に会いに来てくれました。先輩に思い切り抱きしめられて、私は嬉しさと喪失感が溢れ出て、久しぶりにわんわん声を上げて泣いてしまった事を覚えています。

 抱擁を解かせた先輩は、私の手を取りました。

 手のひらの上に指を乗せると、ゆっくりと滑らせます。

 盲目の私の、真っ白に靄の掛かった世界に、先輩の指が線を描きます。

 

 

 ──あ、い、に、こ、れ、な、く、て、ご、め、ん

 

 

「……謝らないでください。先輩が忙しいのは分かってますから。そんな中で会いに来てくれる事が、とても嬉しいんです」

 

 

 手のひらに指で文字を描く。それが今の私に許された、先輩との意思疎通の手段でした。

 先輩は、更に私の手のひらの上で指を滑らせます。

 

 

 ──ち、よ、う、し、は、ど、う、だ、い

「容態はとても安静ですよ。先輩が会いに来てくれたから、元気がどんどん湧いてきます!」

 

 

 私はそう言って、先輩を見上げます。

 もちろん、私は失明しています。色を無くした真っ白な世界に、先輩の顔が浮かぶ事はありません。私は先輩の手やお腹の位置、記憶の中の彼の身長を必死で思い出し、彼の顔があるだろう真っ白な虚空を見つめます。

 手のひらの文字がなくても、記憶の中の先輩が「それはよかった」と微笑んでいるのが伝わって。私は先輩の手を取ると、私の頬を擦り付けます。

 

 

「さっき、先輩が以前に持ってきてくれた学術雑誌を読んでいたんです。天災を恐怖の対象ではなく科学的に解き明かすべき課題とするべき意識改革は、もう随分と進んでいるんですね。インタビュー記事の言葉を読んで、まるで自分の事のように嬉しくなってしまいました。これも先輩が書籍を点字に起こしてくれたお陰です!」

 

 

 先輩の目に、私はどう映っているでしょう。真っ白な視界では、彼がどんな表情でいるかを知ることは叶いません。

 だから私は、彼の白衣を摘まみ、人懐こい猫がそうするみたいに身体を擦り付けながら、笑顔で話をします。

 

 

「先輩。アーミヤさんやケルシー先生はお元気ですか? 今はどのようなお仕事をされているんですか? 私、先輩やみんなの話が聞きたいです!」

 

 

 私はドクターに、たくさん話をします。

 彼の顔の箇所を思い出して上を見上げて。

 できる限りの眩しい笑顔と、できる限りの弾んだ声で。

 せめて、私と過ごすこの時間を楽しいと思って貰えるように。

 せめて、惨めに思われないように。

 あなたが来てくれて幸せだと、分かって貰えるように──

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「えんふぁあ! あーえうああらぇrいーべーえぅあべらるぁ!」

 

 

 それは、拷問を受けているような聞き苦しさだった。

 ロドス・ターミナルの病室に、地獄の亡者の呻き声のような音が響き渡る。

 何一つ意味をなさない、聞く側の思考が溶かされるような気色の悪い声。それが、耳を塞ぎたくなる程の大声で止むことなく繰り返されている。

 

 

「えんふぁうのひっびのおとぁ! わらぎあんどおぉましおえぅろえんふぁあらおられふ!」

 

 

 頭がおかしくなりそうな不可解な文字の羅列は、こちらを発狂させようと目論む悪魔の呪文のようにすら感じられる。

 しかし、そうではない。エイヤフィヤトラは、何も知らないだけなのだ。

 彼女は、すでに自分が正しく言葉を喋れない事すら気づけない。

 彼女の声を聞かされる僕が、苦悶に表情を歪めている事にすら気づけない。

 

 

「りrあ! らおおあるああぃkごさらああっれううう!? ばららsいうろあおうんおあおあぁあああららん!」

 

 

 彼女にとってそれは、胸の弾むような楽しい雑談なのだろう。

 彼女は何にも気付けない。

 発音もボリュームも壊れた声は、汚物を流す下水道のように醜悪な音であることにも。

 僕の顔を見ようという試みは失敗しており、身体を反り返らせてほぼ真上を見上げた格好が、薬物の過剰摂取により痙攣する患者の状態と非常によく似ている事も。

 僕に見せるために作られた笑顔は引きつけを起こしたように震えて、目を包帯で覆い隠した彼女のそんな様相は、まるで首に縄をかけられた死刑囚のようである事も。

 何にも気づけないまま、エイヤフィヤトラは信じられない力で僕の白衣を握りしめ、訳も分からない汚らしい叫び声を浴びせ続けた。

 

 

「えんふぁあ。あーいやふあらあえるういいええええんはおれんいえええ!? いばわどおおおらうしろおとあああれってば!? いらええええ! わらしきっきた! ろおむろみらああろんああいいをsゅごららて──」

 

 

 もう限界だ。耐えられない。

 僕はエイヤフィヤトラの肩を強く掴んで引き剥がした。彼女は夢から覚めたみたいに、部屋中に響き渡る大声をぴたりと止める。

 

 

「……sえんpふぁあ?」

 

 

 僕は、停止ボタンを押されたみたいに固まる彼女の手のひらを取り、指で文字を書いて「ききとれない」と伝えた。

 ひゅっ、と彼女の喉が鳴った。呪いの人形みたいに笑みを張り付かせていた顔が、みるみる内に悲しみに染まっていく。

 僕はエイヤフィヤトラの肩に手を置いて、ベッドに備え付けのPCの前に彼女を誘導した。画面にはテキストエディタの真っ黒な画面が映っている。

 エイヤフィヤトラは、聾者用の凹凸のあるキーボードを慎重に叩き、画面に文字を映した。

 

 

『ごめんなさい、先輩』

 

 

 キーボードを叩く彼女は別人のように落ち着いていた。目元を覆った顔には、理性と知性が戻ってきたようだ。最初から失われてなどいないのに。

 

 

『先輩と、お話がしたかったんです。私の声を聞いて貰えたらと思って』

 

 

 エイヤフィヤトラは、そこでキーボードから手を下ろした。それが発言の終わりのサインだ。

 彼女は包帯を巻いた目を下げ、深く落ち込んでいた。僕は彼女の小さな背中に手を置き、優しくさする。それから彼女の手を取って「きにしないで」と書き込んだ。

 エイヤフィヤトラは、先ほどまでのタガの外れた上機嫌が嘘のような儚い微笑みを浮かべた。キーボードを、誤らないよう慎重にかたかたと叩く。

 

 

『やっぱり私は、自分が思っているよりも、大丈夫ではないんですね』

 

 

 僕はそれに、答える言葉を探せなかった。同意するべきか、そんなことないと否定するべきなのか、どの選択肢がもっとも彼女を壊さないでいられるのか、まったく判別ができない。

 僕は、彼女の淡い栗色の髪の上に、恐る恐る自分の手を乗せた。彼女はふっと唇を綻ばせると、僕の手を取って顔の横に持っていき、自分のほっぺたを擦り付ける。

 柔らかくて、絹のように滑らかな、まだ幼さの残るエイヤフィヤトラの肌。その体温は、体内を循環する高濃度の源石反応により、とても高い。

 

 

『体調は、とてもいいんです。源石の痛みや発作も、しばらく起きていません』

 

 

 全く通じていなかったコミュニケーションをやり直すように、エイヤフィヤトラはキーボードを打つ。その文字列はとても冷たく、乾燥していて、彼女が無理にでも会話を望んだ心境が僅かでも理解できてしまう。

 

 

『それに、先輩が会いに来てくれるから、元気がもりもり湧いてきます^^』

 

 

 最後に記号で笑顔を作って、エイヤフィヤトラは僕から左に十度ずれた場所に向けてピースサインを作って見せた。

 瞬間、心臓をスプーンで抉られるような疼痛が僕に走る。

 どうせ彼女は何を言っても聞こえやしないのに悪態の叫びを上げなかったのは、一重に僕がまだ狂っていない事を、自分自身に言い聞かせたかったから。

 こみ上げてくる申し訳なさと情けなさに、拳をきつく握りしめる。僕が歯を食い縛って恥辱と無力感に打ち震えている事にも、エイヤフィヤトラはやはり気づけない。

 

 

『また、会いに来てくれますか? 先輩』

 

 

 最後にそう打ち込んで、エイヤフィヤトラがキーボードから指を離す。

 僕は鉛のように重い身体を動かして、彼女の手のひらに「もちろんだ」と書き込んだ。

 エイヤフィヤトラがぱぁっと表情を明るくさせ、僕の白衣に抱き付いた。

 まったく加減できていない力で僕の身体を締め、お腹のシャツにぐりぐりと顔を擦り付ける。まるで僕の匂いを覚えて、どこまでも追いかけてやると訴えるようだ。言葉にしなくても、彼女の「約束ですよ」という呪いのように強い気持ちが僕の中へと染み込んできた。

 

 

「……sええばあい……」

 

 

 亡者の呻きのような声で告げられたのは、恐らくは、まるで愛の囁きのようにとろけた『先輩』という呼びかけ。

 

 

 

 

 ああ、なんて哀れなんだ。

 彼女はなんてむごたらしい最期を迎えようとしているのだろう。

 彼女は何も見えない。何も聞こえない。

 彼女は何にも気がつけない。

 

 

 

 

 

 

 僕は、ドクターではないというのに。

 

 

 

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。