『自分のまま死ぬ』事は、感染者にとっては至上の贅沢と言える。
血中で結晶化した源石は体内のあちこちに障害と激痛をもたらすが、それは脳も例外ではない。鉱石病患者は、末期になればなるほど理性と判断力を失い、竜や死神、悪魔といった荒唐無稽な幻覚を見るようになる。
その段階に至った者は、自分が自分でなくなっていくような途方もない恐ろしさに苛まれるのだという。身体を端から千切られていく感覚。目を覚ます度に記憶が剥がれ、抜け落ち、自分が何者か分からなくなっていく恐怖。
そのステージに至った末期感染者に対して、ロドス・ターミナルは安楽死を認めている。残酷な逃避という選択肢を取る患者は、嫌になる程に多い。
ほとんどの感染者に、マトモな死など訪れない。
エイヤフィヤトラもまた、同じというだけの話だった。
──エイヤフィヤトラの錯乱状態に端を発した緊急事態は、それから四時間後に沈静化した。
エイヤフィヤトラの特別病室の機能は破壊された。隔壁を開いたロドス・ターミナル職員が目撃したのは、まるでバターのように溶け出し、床にでこぼことした隆起を描いて固まった、超耐熱素材の壁だったものだった。病室の壁も天井も爛れ落ちて大穴が開き、そこには数部屋分の素材を溶かし尽くした、黒ずんだ広いがらんどうがあるばかりだった。
人類の叡智を結集した移動都市の防衛システムは、一人の末期感染者のアーツの前に敗北した。予測されていたとはいえ、それはロドス・ターミナルに強い畏怖と諦観をもたらした。
エイヤフィヤトラは今も、その全てが熔融した空間の中にいる。
今は溶かされた扉の変わりに、隔壁を再び閉じている。
それは応急措置とすら呼ぶことはできない。再びエイヤフィヤトラが錯乱状態に陥った時には、十数センチの鋼鉄の扉などキャンディよりもあっけなく溶かされ、ロドス・ターミナルは今度こそ乗員全員を殺すオーブンへと変貌するだろう。
ロドス・ターミナルに、決断の時が迫っていた。
「どうしてですか」
──翌日。
僕はロドス・ターミナルの事務室で、チーフスタッフの前に立っていた。
あれからどのように時を過ごしたかまるで覚えていないが、一睡もしていないのは間違いなかった。全身の血液が鉛になったように重く、こめかみのあたりがズキズキと軋む。
緊急事態の処理に覆われたほとんどのスタッフが寝不足だったが、その中でも僕は一際、亡霊のようにひどい顔をしていたに違いなかった。
「どうして会わせてくれないんですか。今の彼女に必要なのは、何より心のケアである筈です」
「平時ではそうかもしれない。だがもう状況が違う。これ以上彼女を放置していては、この艦全体に危険が及ぶ」
「僕なら彼女を安心させてあげられます。現に今までは何とかなっていたじゃありませんか」
「私も、このままエイヤフィヤトラさんが安らかに眠れればと願っていたよ。私だけじゃない、この艦の皆が、様々な理由からそうあることを期待していた──だがもう無理だ」
諦めてくれ、と、チーフスタッフが僕の肩に手を置いた。それから、声を抑えて言う。
「もう彼女に構うのはやめろ……愛なんて、麻酔薬以下の効き目しかないんだから」
「っ……!?」
「どうした、まさかバレないとでも? Lancet-Bφが担っているのは、患者の監視だけだと思っていたのか?」
煮えたぎっていた頭が一気に冷え込み、喉元まで出掛かっていた言葉が消失する。
凍り付く僕の肩に、チーフの手が乗った。ぽんぽんと、慰めるように。
「安心しろ、君とエイヤフィヤトラがしていた事については、誰にも言うつもりはない。もし流出したとしても、ここに居る誰も、君を悪く言う人はいないだろう」
「チーフ……?」
「一年と経たずスタッフが入れ替わるこの場所で、最も危険な患者に束縛され、いつ死ぬとも分からないまま数ヶ月だ。心を壊さない方がどうかしている」
チーフの顔には、同情の色があった。心から僕の心の傷を労っていた。けれど彼の浮かべた微笑みは、妄想に取り憑かれた精神病患者に向ける哀れみと同じ種類のものだった。
「彼女の事は忘れろ。精神を安定させるための故意的なものか、それとも脅迫でもされたか、いずれにせよ、君はもう無理をする事はない」
「違う、チーフは勘違いしています。僕は彼女の事を思って、彼女を諦めたくなくて……」
「……ヒトの心はよく出来ている。追い詰められた精神は、安定を求めて虚構に逃げ場を作る。目の前の何かを本気で愛していると思い込む事で、せめて苦しみから逃れようとするんだ。エイヤフィヤトラも、君もそうだったんだろう」
チーフは僕の肩を揺すり、僕の顔を真正面から見つめる。
その固い表情が、言葉よりも雄弁に語っていた。「あんなものが愛である訳がないだろう」と。
「残念ながら、君の精神は正常ではなくなっている。可能な限り速やかなケアが必要だ。申請は私の方でしておくから、ひと月ほどゆっくり休みを取るといい」
「違うんです……僕は、本当に彼女を愛して……」
口から溢れる言葉は、自分でも驚く程に、ひとかけらの説得力も有していなかった。他でもない僕自身が、僕の口から出る『愛』なんて綺麗事を信用していなかったのだ。
自分がいま正気かなんて、とっくの昔に分からなくなっていた。
脳がぐらつく。抱えていたはずの感情が、不意に形を歪める。足元が覚束なくなる。
僕は果たして、彼女を愛していたのだろうか。
行き詰まりの二人が傷を舐め合う場当たりの生存戦略を、愛と呼んでいいのだろうか。
胸に感じる空洞は、彼女を失う事に対する恐れなのか、それともようやく重い責任から解放された安堵なのか、その判断すら付けられない。
ただ、分かる事はあった。
「後の事は私たちに任せてくれ。なにも彼女の命まで、君が背負い込む必要はないさ」
これ以上、エイヤフィヤトラを生かしてはおけない。
それは最早、ロドス全体の総意としての決定に近かった。
一人を殺す事で数千人の命を救えるなら、どうするか。ロドスは度重なる戦いと事業的成長の果て、その問いに『殺す』と答える事ができる合理性を持ち得てしまっていた。
異を唱える者は一人もいない。ご大層に愛なんて言い放った僕でさえも。
それは、幾度となく繰り返されてきた残酷な終わりが、また一つ刻まれるだけの事だった。
「……、……………………」
でも──でも。
僕の人生はこれからも続く。
彼女の人生はここで終わる。
そのお互いの間にそびえ立つ埋めようもない差異が、たまらなく卑怯に感じられて。
僕の胸は、焼けた石炭を押し込まれたようなひどい頓痛を訴えて……だけどそれを言葉にする力も、痛みを愛と形容する勇気も、今の僕には残されていないのだった。
結局、チーフの提案を断ることが出来ずに、僕はひと月の休みを取る事になった。
義務感というものは、どうやら人間にとって相当に強力なエンジンのようで。休みが決まった瞬間に、僕はあらゆる気力をなくしてしまった。
二日後に、ロドス本艦からヘリがやってくる事になった。僕の代わりとなるスタッフが派遣され、僕は入れ替わりにヘリに乗って、ロドス本艦に帰還する事になる。
同時にそのヘリには、末期感染者の『特別措置』に長けたオペレーターが乗っている予定だった。果たしてどのような技能を持っているのか、その詳細は知らされていないが、彼らは患者が暴走するリスクを限りなく減らし、確実な手段によって安らかな眠りへ誘うのだという。
迫りくる天災から逃げ切った後の方がいいのではという意見もあったが、却下された。ロドス本艦はこの業務を、ヘリが天災の余波に墜落するリスクを承知でも遂行するべきと考えていた。それほどに実態は、一刻の猶予も許さなかった。
二日後。僕は終末病棟を去り、エイヤフィヤトラは死ぬ。
解任を告げられた日の夜に、僕は下層の特別病棟へと足を運んだ。
機能不全に陥った特別病棟は、既に閉鎖されていた。
監獄を模した空間に、窓はない。照明設備は故障しており、全体が濃い闇に満たされていた。
持ち込んだ懐中電灯で辺りを照らすと、あの時発生した絶大な高熱の被害を、ありありと見ることができた。
黒く焦げた床や天井。天井のパイプが破裂し、亀裂から滴った液体が水たまりを作っている。壁はあちこち融解し、溶けた蝋燭のように表面をでこぼこと隆起させている。吸い込む空気には、濃い煤と灰の匂いがした。
ひっそりとした闇の中を進んでいくと、やがて分厚い鋼鉄の壁が廊下を阻んでいた。
この壁が閉ざされる前に見た景色を、僕は覚えている。二度と忘れる事はないだろう。
僕はそっと、隔壁に手を押し当てる。
冷たい鋼鉄の感触。それ以外には何も感じない。
「……エイヤフィヤトラ」
この隔壁の向こうに、彼女がいる。
全てが焼け朽ちた中で、たった一人で。
「……」
僕は壁に手を付けたまま、懐中電灯のスイッチを切る。
その途端、闇が僕を包み込んだ。
目の前の手のひらすら見えない、真の暗闇。静寂。
近づく天災が地盤を揺する、ズズ──ゥ──という振動が、世界という巨大な生物の息づかいのように荘厳に感じられる。
……恐ろしい。
ものの数分で、じっとりと汗をかき始める。
身体の輪郭が分からなくなるような気がした。身体が溶けて、闇に混ざって、僕を構成する何もかもが損なわれていくような恐怖。
僕は壁に押しつけた手のひらに意識を集中させる。皮膚が伝達する冷たい触覚だけが、自分の手の形を忘れさせないでいてくれる。
逆を言えば、何かに触れていなければ、自分なんてあっという間に分からなくなるのだ。
「……」
彼女はこんな虚無の中に囚われたまま、何ヶ月も生き続けている。
果たしてこの虚無において、誰かに手を握り、抱きしめて貰うのは、どれほど幸せな事だっただろう。
「……もう、自分が分からない」
隔壁に額を押し当てる。ズズ──という天災のうねりが、僕の絞り出す声を掻き消した。
「胸に蟠るこの気持ちが、君の元を去れる安堵なのか、君を失う悲しみなのか。それすらも分からないんだ」
ぐちゃぐちゃだった僕の感情は、エイヤフィヤトラという捌け口により、獰猛な愛情としての意味を手に入れた。それは彼女を失った事で指向性を失い、前よりもっとぐちゃぐちゃな、見るに堪えないもの変わった。地表に溢れ出した溶岩に似た、冷えて固まった、歪んだ黒色に。
狂気的な愛情は理性を薪に燃え盛り、普通残っているはずの感情の機微すら焼き尽くし、終わった後には何も残さない。
やがて専門のスタッフがこの隔壁を空けて彼女の『処分』を行う時、僕はロドスに向かうヘリに揺られて、呆然とテラの荒涼とした景色を眺め、彼女を憂う事もしないのだろう。
余りに薄情で冷酷な決別。だけど僕らの始まりを思えば、それがあるべき姿のようにも思う。
ドクターと誤認されることから始まった僕とエイヤフィヤトラの関係は、最初から最後まで、捩れて拗れた間違いでしかなかった。
あんな爛れて狂気的なものが、愛であるはずがない。理性ではそれを痛いほど理解していた。
「……エイヤフィヤトラ」
なのに、頭の中から彼女が離れない。
目元を包帯で覆い尽くし、マトモな発音すら失った彼女の姿を思い出すと、哀れみと同じくらいにいじらしさを感じる。
全盲の中過ごす時間は永遠のように長く感じるのだろう。僕が回診に病室を訪れ、手を握り込んだ時に彼女が見せる、長い旅を終えてやっと家に帰ってきたような安堵の表情に、どうしようもなく胸が高鳴った。
彼女の手のひらに指で文字を書く、じれったいほど遅いコミュニケーションがこそばゆかった。彼女が誤りのないようゆっくりとキーボードを叩く、それを待つ時間も楽しく思えた。
画面に浮かんだ文面から、彼女が優しい心の持ち主である事を知るのが好きだった。
『まだ、私を愛してくれていますか?』
あの時、彼女が画面に書き記した言葉を見た瞬間にこみ上げていた感情は──愛情以外に、表現しようがなくて。
「何も分からない……分かるのは、僕が二度と君を忘れられないという、それだけだ」
僕は隔壁から離れ、懐中電灯を点けた。光が僕に輪郭を思い出させ、自己を取り戻させる。
僕は振り返り、持ってきていたソレを引っ張って、隔壁の前に置いた。
エイヤフィヤトラが使っていたPCと、点字印刷機だ。前に使っていたものは焼失したので、予備を倉庫から引っ張ってきた。
どうせ、彼女がこれに触れる事は二度とない。
僕が彼女にできる事もまた、ない。
ただ、何か別れに相応しいものはあるべきだと、そう感じて。
墓前に添えるなら、花よりも、僕らを繋いだコレの方が相応しいように思えた。
「……どうか安らかに、エイヤフィヤトラ」
最後にそう言い残して、僕は踵を返して、特別病棟を後にする。
ズズ──という天災の振動が、病棟を満たす粘つくように濃い闇を、波打たせるようだった。
これで、僕とエイヤフィヤトラの関係は終わる。
間違いから始まった傷の舐め合いは、片方が傷つき疲れ果て、死に絶える事で終わる。
誰にも語られない、悲劇にもならない。
鉱石病の末期患者が辿る、悲惨で哀れな人生の末路。その中でもとびきり壮絶で、僅かに幸せと呼べるかもしれない終わり方。
今から起こるのはただそれだけの、当たり前の事。
そんな、ありふれた一つの悲劇で終わる筈だったのだ。