万華鏡のようなこの物語の、いつ如何なる世界でも、彼と彼女は出会う。
そこが全ての分疑点だからだ。
碇シンジの物語が十四歳から分岐するのと対をなすように、アスカ・ラングレーの物語は様々な出発点から枝分かれしているが、やがて全てが碇シンジとの出会いに収束する。
そしてその後は、いずれもただひとつの道を進むのだ。
どれほど回転を加えても、世界を変えても、万華鏡の中心点だけが常に同じ景色であることと同じようにー。
ーイスカリオテのマリア「丸秘⭐︎日記」より抜粋
※
ー……寝てたの、私?
ゆっくりと目を開けて、アスカは周囲を見回した。
いつもの癖だった。
目が覚めると、いつも礼儀正しく仰向けで寝ている。そして決まって、“誰か”を探すのだ。自分のそばに、誰かがそっと寄り添っている気がしてー。
誰を?
こんな習慣がついたのは、いつからだっただろうか。中学生の頃までは、なかったと思う。
「ヤバ……っ!」
はっとなってベッドサイドの置き時計を手に取る。
朝の七時五分前。よかった、寝過ごしてない。これなら余裕で支度をしてマンションを出られる。
アスカはジャンプするようにベッドを飛び降りて洗面所へ急いだ。
なにしろ今日は、人生で一番特別な一日なのだ。
今日のアスカは気合が入っていた。
春らしい無地のノースリーブに花柄のロングスカート。
悪くないはず。気合が入りすぎているようには見えないはずだ。道中、アスカは何度も自分に言い聞かせた。
急ぐ必要はないのに、ついつい早足になる。早足になりすぎて、予定より三十分も前に待ち合わせ場所に到着してしまった。
「早いね、式波さん」
にもかかわらず、碇シンジはすでに駅前噴水広場のベンチに腰掛けて、優雅に文庫本を読んでいた。シャツの上に羽織ったゆったりとしたカーディガンが、やわらかい彼の雰囲気によく似合っている。
「はやッ!」
アスカは声を荒げてから慌てて口をつぐんだ。
ダメだぞ、アスカ。彼はきっと清楚で大人しい女性が好みだ。せっかくつかんだこのチャンス、獣のように勝ち気な自分の本性を見せるわけにはいかない。
「えぇと、早すぎない?」
軽めに言い直してみる。
「いい天気だったから、のんびり待ってようかなと思って。それに……」
楽しみだったんだ、二人で会えるのーそんな言葉をもらしたように聞こえたが、シンジはすぐに立ち上がって伸びをしたので、アスカは聞き返すことができなかった。
“碇くん、水族館のチケット持ってるんだけど、よかったら今度一緒にどうかな?”
アスカは先週のことを思い返して頭をかいた。
ベタベタである。
これはもう、残業にかこつけたナンパと言っていい。まさか自分がこれほど恋愛に対してポンコツだとは思わなかった。
だいたい、マリの奴が変に焚きつけたりするから、焦ってこんなことになったのだ。
“お気に入りの碇クンさぁ、社内で人気だよぅ、どうする〜。そしてそんなあなたに、魔法のチケットがあるんだけど、いかが?”
見返りはデートの内容を報告せよ、というものだったが、ありがたく受け入れてしまった。
ー人生初デートが水族館とはいかにも子供っぽいが、まぁ……悪くはない。
海岸線を列車は走る。
陽気な春先の観光列車は少々混み合っていたが、シンジはさりげなくアスカを乗車扉の隅にエスコートした。互いに目が合うと、二人は同時にはにかんで俯く。
中学生かっーと、自分に悪態をつくアスカだったが、悪い気はしなかった。
その時。
車両がガクンと大きく揺れた、その時だった。
「アスカ……っ」
ドキリとする。
ふらつくアスカを、シンジは咄嗟に自身の腕の中へ抱き寄せた。
「あ……ご、ごめん」
「ううん、大丈夫」
謝りながら、しかしシンジはアスカの肩に回した手の力を緩めなかった。
顔が熱い。だがそれ以上に、耳元にあるシンジの胸の鼓動が早鐘を打っていることに、アスカは驚いた。
「あそこのおにぃちゃんたち、いちゃいちゃしてる」
「しッ……こら、聞こえるでしょ」
隣の家族の声で、ようやくシンジはアスカをそっと引き離した。
「あの……式波、さん?」
シンジが次に口を開いたのは、たっぷり十五分後、目的の駅で電車を降りてからだった。
「う、うん……」
動かないシンジを、アスカは見上げる。
シンジの視線はプラットホームの客が改札に向かうのを見送っていたが、顔は照れたように真っ赤だった。
「アスカって……呼んで、いいですか?」
アスカの心臓はとくんと跳ねた。
「うん……いい。いいよ」
これは……。
つまり、向こうもそういう風に思ってくれていると考えていいんだろうか?
「私も、その……シンジって呼ぶから」
「うん」シンジはなぜかとても懐かしそうな表情でアスカに笑顔を向けた。「すごく、うれしい」
自分の日頃の行いがいいかどうかは定かではないが、奇跡というものは起こるものらしい。
水族館の中を二人でのんびり回遊し、薄暗いクラゲの水槽のコーナーに差し掛かった時、シンジはそっとアスカの手を握った。
表面をなでるように、指先を絡めてくる。アスカが嫌がったら、すぐに手を離せるようにしたのだろう、そういう気遣いがいかにもシンジらしかった。
アスカは答えを返すように、シンジの繊細な手を自身の指で迎え入れた。それで、シンジも今度は力強く握り返してくる。クラゲのコーナーを抜け、通路が明るくなった時、二人はカップルになっていた。
ーヤバいなぁ、コレ。めちゃくちゃ舞い上がってる。
アスカはデレていた。
怖いくらいに馴染んでいく。まるで最初からこうなることが当たり前だったかのように。世の中の恋人たちというものは、こんなにも急速に接近するものなのだろうか。
ぎこちない会話が続いたが、二人は順調に水族館の順路を消化した。ただ、アスカが気になったのは、目玉の大型水槽やペンギンのコーナーで、度々シンジが懐かしそうな表情でそれらにじっと想いを馳せていたことだった。その表情は、駅でアスカが初めて名前でシンジを呼んだ時のものと同じに思えた。
「魚、好きなの?」
「うん……そうなのかも。ずいぶん昔に、みんなとこういう場所に来たことがあるんだ」
みんなーとは、誰のことだろうか。
水族館に併設されたレストランはどこも混み合っていて、二人は水族館の近くで食事が出来る場所を探すことにした。
「知り合いに美味しいところがあるって言われて、調べておいたところがあるんだ。ピザとかパスタが食べられるところらしいんだけど、どうかな?」
シンジはそう言うと、背中のカバンから小さな手帳を取り出して何事か調べ始めた。店の名前や住所がメモしてあるのだろう、何気なく覗き込んだ時、ページの端に「マリさん」という名前が書かれているように見えたのが、アスカは気になった。
「五分ぐらい歩いたところみたい」
シンジはアスカの手を引いて、意気揚々と歩き出した。そして、目的の場所に着いた瞬間、氷のように固まった。その店が臨時休業で閉まっていたからである。
「そんな……」
わかりやすく肩を落として落胆しているシンジを、アスカは微笑ましく見ていた。これまで余裕のある対応が続いていたので、子供っぽい一面が見られて安心したのだ。
「それじゃあ、私のおすすめの店にするっていうのはどう?」
“デート行くんなら、あの辺りにカップル席があるところがあるから、おすすめだよ〜”
ここは、事前情報をくれたマリに感謝しなければならない。
……が、教えてもらった店に辿り着いた時、今度はアスカが氷のように固まった。臨時休業で閉店していたからである。
「なんでっ⁉︎」
結局、その辺りの飲食店は他にチェーン店のファミリーレストランしかなく、しかも軒並み混み合っていて、「コンビニで何か買って浜辺で食べようか」というシンジの意見を採用することにした。昼食は簡単に済ませて、カフェにでも入ろうという算段だ。
「ごめんね。お昼、こんなので……」
道中で購入したレジャーシートに腰掛けながら、シンジは申し訳なさそうにつぶやいた。
水族館のそばの浜辺には遊歩道が続いており、少し歩くと外れに人気が少ない砂浜を見つけたので、二人はそこで食事を取ることにした。
背後の松林が、二人の場所に時々やさしい影をつくった。陽光がきらめく水平線に目をやると、ウミネコが数羽、優雅に飛んでいくのが見えた。
いい午後だった。時間がゆっくり流れていく。そう感じるのは、隣にシンジがいるからかもしれない。
「こっちこそ、ごめん。知り合いから教えてもらったお店だったんだけど、やっぱりちゃんと自分で調べないとダメね」
じゃあ、お互い様ってことで。
シンジは子供のように無邪気な笑顔をアスカに向けた。
サンドイッチとおにぎりに、デザートの小さいティラミスをのんびり食べる。思ったよりも歩き疲れていたらしい、アスカはあっという間に自分の分のサンドイッチを平らげてしまい、喉をうるおそうと思ったところでシンジから水筒のコップに入ったレモンティーを差し出された。
「ありがと……」
阿吽の呼吸のように、アスカには感じられた。お互いの生活リズムが一致しているような安心感があった。
デザートを食べ終えたあたりから、二人は明らかに言葉が少なくなった。決して意識したわけではないが、近くに人の気配が少ないことを何度も確認してしまう。
レジャーシートに投げ出していたアスカの右手の上に、シンジの左手が重なる。動揺が悟られないように、アスカは努めて平静を装った。
「アスカ……」
「シンジ……」
レストランに入れなかったのは想定外だったが、ファーストキスの場所としては悪くない。
アスカは顔中が赤くなるのをどうすることもできないまま、両目を閉じてシンジの前にそっと顔を差し出した。
それはティラミスの味か、レモンティーの味か。
「……?」
しかし、アスカが期待したキスはいつまで経っても来なかった。
「ごめん……アスカ」
「え……?」
アスカが目を開けると、泣き出しそうな顔でこちらを見ているシンジの視線とぶつかった。
「やっぱり、こんなの……フェアじゃない」
「どういう、こと……?」
「僕は……」シンジはたっぷり三十秒はためらった後、ポツリポツリと話し始めた。
「僕がアスカに会うのは、初めてじゃないんだ」
それは、わかるようなわからないような話だった。
ここではない別の世界? で、シンジは自分と会ったことがあるらしい。保護者代理のような女性と三人で同居していたこともあるという話だった。
「え? ちょっと待って。よく、わからない……」
「出会えるなんて思ってなかった。だから、本当は、顔が見られるだけでいいと思ったんだ。関わっちゃいけないって。でも、アスカに声をかけてもらえて、舞い上がって……君の気持ちを利用して、こんなことまで……」
「なに、言ってるの? 私のことがイヤなら遠回しに変なこと言わないで、ちゃんと言ってよ。一緒にいて楽しくなかったんなら、そう言って」
「違う。以前も、そうだったみたいに……もしかしたら、また僕のことを好きになってくれるかもって、期待したんだ。そんなこと全部黙って、君に近づいた」
アスカはシンジを思い切り睨みつけた。
なんなんだ、このうじうじした態度は? 好きだけど、自分では釣り合わないから付き合えないとでも言いたいのだろうか?
「だから、僕は……いっ⁉︎」
アスカは思い切りシンジのほっぺたをつねり上げた。
「じゃあなに⁉︎ よくわかんないけど、アンタは、私がアンタが“碇シンジ”っていう人間だから好きになったとでも言いたいわけ⁉︎」
「いたたッ!」
「バカにしないでよッ! 過去の私とアンタの間で何があったか知らないけど……」
ナイーブで繊細そうなのに、仕事をいつもがんばっていた。人の仕事までニコニコ引き受けて、時折ふっと寂しそうな表情を覗かせる。
自分でなんでも抱え込むタイプなんだろうなと思った。
真面目で、でも他人への頼り方を知らない。
自分と似ていると思ったのだ。
彼となら、気兼ねなくいろんな話ができる。気取らない自分でいられる。
だから、好きだと感じた。この人だと思ったのだ。
「ちゃんと私を見てよ。今、シンジのことを見てるのは、過去の別の私じゃない。今の私なんだからッ!」
何を口走っているのか、自分でもよくわからなかった。
ただただ腹立たしかった。なぜ、自分は他の世界の自分とやらに嫉妬しなければならないのだ。
「アフか……いたひ……」
目一杯ひねりを加えた後、アスカはようやくシンジのほっぺたから右手を離した。
「ごにょごにょ言ってないで、好きなのか好きじゃないのか、はっきりしなさいよ!」
「好きだよッ!」
「ッ⁉︎」
張り裂けるような声で、シンジは叫んだ。
「好きだ……アスカのことが、大好きなんだ」
アスカをまっすぐ見据えるシンジの瞳には、涙が滲んでいた。
無意識の奥。
胸の奥深くに刻まれた心の叫びを、二人は知らない。
何度も、同じことに気づくだけだ。
どれほど世界が巡っても、二人が出会えば、パズルのピースがはまるようにー互いが互いに必要だということにー気づくだけなのだ。
「ほっぺた……ごめん」
赤味がさしたシンジの頬に、アスカはそっとキスをした。
「え……?」
アスカの唇が離れてからも、シンジは何が起こったかわからない様子で頬に手を当てていた。
「まだ、痛い?」
「全然、大丈夫……」
まったく、これだからバカシンジは。私がついてないと、ホントにダメなんだから。
ー? 私、今なんて……?
「ん……」
アスカの思考は、シンジのくちづけに遮られた。
触れ合った唇から小さな震えが伝わってくる、やさしいキスだった。
長くそうしていたわけでもないのに、顔を離した時、二人とも息が乱れていた。それを隠すように、今度は互いに互いを抱き寄せて唇を重ねる。
胸が高鳴る。想いが溢れて、どうにかなってしまいそうだった。
「ふ……ん……」
今度は、離れるのが名残惜しかった。もっと……と、アスカがねだるように顔を上げると、シンジは両手で彼女を包み込むように深く抱き寄せた。
頬が触れ合う。泣きそうになるのはなぜだろう? アスカもまた、おずおずとシンジの背中に両手を回して、彼を抱きしめた。
「あの時、本当は……こうしたかった」
ごめんーアスカの首筋に、あたたかいものが触れた。それは、きっと、アスカという存在そのものへのシンジからの贖罪だった。
「いるよ」
アスカは背伸びをして、シンジの頭をやさしくなでる。
「これからは、ずっと一緒にいるから」
言ってから、アスカは気恥ずかしくなって俯いた。
これではまるで、プロポーズのようだ。チラリと視線を上げると、シンジも頬を染めて目を泳がせていた。
「あの……」
「? なに?」
消え入りそうな声でシンジがつぶやき、アスカは聞き返した。
「お昼……こんなのになっちゃったから、その……晩御飯は、ぼ、ぼぼ僕の家で……ど、どうかな……? 料理、得意なんだ」
一瞬の沈黙の後、アスカの顔から「ぼんっ」と真っ赤な音が鳴った。
「行く……行きたい」
二人顔を上げて、中学生のように無邪気な笑顔で笑い合う。
「行く前に、私のマンション、寄っていい? 着替え…持ってくるから……」
シンジの顔からも「ぼんっ」という音がして、俯くように「うん……」と頷く。
二人はもう、子供ではなかった。
※
「寝てたの、私?」
ゆっくりと目を開けて、アスカは周囲を見回した。
いつもの癖だった。
目が覚めると、いつも礼儀正しく仰向けで寝ている。そして決まって、“誰か”を探すのだ。自分のそばに、誰かがそっと寄り添っている気がしてー。
おかしなことに気づく。整理整頓が行き届いている。自分の部屋ではない。
その時、右手のぬくもりに、アスカは気がついた。その指先を目で追うと、ベッドサイドに腰掛けて、やさしく手を重ねている男性に行き当たる。
「おはよう、アスカ」
部屋着にエプロン姿のシンジが、やわらかい笑顔をアスカに向けた。
刹那、昨夜のうれしくも恥ずかしい記憶の数々が甦ってきて、思わずアスカは飛び起きた。
「ごめんっ。私、寝坊した?」
アスカがシンジの目の前に立つと、なぜかシンジはみるみるうちに顔中を赤くして、アスカの胸元を凝視した。
「? ………いッ⁉︎」
「アスカ、その……ぶッ!」
アスカが自分の痴態に気づくまでに二十秒、しかしそこからわずか三秒で、彼女は悲鳴を上げながらシンジの顔面に豪快な蹴りを炸裂させた。
「エッチッ! バカッ! 変態ッ! 信じらんないッ!」
シンジの身体はきれいな放物線を描いて後方に吹っ飛んだ。死に体となったシンジがフローリングの床に倒れ伏し、ピクピクと痙攣しているのを見た時、ようやくアスカは我に返ってシンジに駆け寄った。
「ご、ごめん、シンジっ!」
「そりゃないよ、アスカ……」
その言葉を最後に、シンジの顔が力なく床に沈む。
「きゃあぁぁーッ!」
二人にとって、にぎやかなやりとりがあの頃と同じような日常になるのは、アスカがシンジの部屋に引っ越してくる一ヶ月後のことである。