「あっ、わかります? うちの自慢の子供たちなんですよ〜♪」
うふふ、とミサトが明るい調子でウェイターに返して、シンジとアスカは同時にドキリとした。
フランス料理のレストランでディナーを食べた時のことである。
「ミサトまたビールばっかり飲んで! そのくせ私たちには料理も洗濯も任せっぱなしなんだから、たまにはエヴァのパイロットに高級料理で労ってやろうとか、そういうのないわけ?」
元はと言えば、アスカがミサトにか愚痴をこぼしたのがきっかけだった。
料理も洗濯も全部僕かやってるんだけどな……と、この時シンジは思ったが、口には出さなかった。おかげでミサトはまんまとアスカの口車に乗り、こうして普段は食べることができない洒落た料理をご馳走になることができるというわけだ。
「ちょっと、ミサト」
ドリンクを運んできたウェイターがテーブルを離れた後、アスカは小声で耳打ちした。
三人ともインフォーマルに正装していた。シンジの似合わないスーツはネルフから借用したものだが、ミサトとアスカの華やかで上品なワンピースは自前らしい。二人とも胸元がそれなりに露出していて、シンジはなんとなく目のやり場に困っていた。
「なぁに?」
「さっきみたいな言い方したら、その年でこんなに大きい子供が二人もいる未亡人って思われるわよ」
ミサトは一瞬ポカンとした後、口元に拳を当ててクスクスと笑い出した。
「なによ」
「ごめんごめん。優しいのね、アスカ」
「人がせっかく忠告してあげてるのに」
二時間のゆったりとしたコース料理を三人は楽しんだ。
シンジとアスカがその夜のことをとりわけ記憶していたのは、ミサトがデザートの後に三人で写真を撮ろうと言い出したからだった。
思い返してみると、シンジもアスカもプライベートな写真をほとんど残していない。
「せっかくオシャレしてきたんだし、記念に残しておきましょうよ」
ウェイターにお願いして、ミサトは自分の携帯電話で写真を数枚撮ってもらった。着席したミサトの両脇にシンジとアスカが立ち、それぞれがミサトの肩に手を添えている写真だった。
「これじゃますます未亡人って感じね」
「あら、私はおっきい子供二人抱えた訳ありの未亡人って思われても平気よ」
ミサトはウィンクをひとつして、誇らしげな声で言った。
「だって、あんたたち二人とも、私の自慢の家族なんだから」
※
『あなたたちは、私の自慢の家族なんだから!』
テレビモニターの中で、長い黒髪が印象的な主演女優が拳銃を構えながら叫んだ。
彼女の後ろでは、中学生くらいの男の子と女の子が肩を寄せ合って地面にへたり込んでいる。
近頃巷で人気のある話題のドラマだった。
「ちょっと脚本が安直じゃない?」
アスカは後ろを振り返って同意を求めたが、やれやれと首を横に振って諦めた。シンジがテレビモニターに目をやりながら、ぽろぽろと両目から涙を流していたからだ。
「シンジって、けっこう涙脆いわよね」
「だって、いい話じゃないか」
シンジは口をへの字に曲げて鼻水を啜った。こぼれた涙を拭わないのは、両手が塞がっているからである。
アスカはテーブルの端にあるテッシュを一枚取ると、振り返ってシンジの涙を拭き取った。ついでに鼻水もちんさせる。
「ビィーム! って言いながらするとよく出るわよ」
「びぃーむっ」
「ほらね。すっきりした?」
「すっきりした」
「まったく、私がいないとホントだめなんだから」
「……ところで、これはいつまでやればいいの?」
シンジはアスカの両脇から前に回したままの両腕を軽く持ち上げた。その右手にはレモネードが入ったストロー付きのグラスが、左手にはポテトチップスの袋がある。
ソファーに座ったシンジがあぐらをかき、その中心の凹みにアスカがお尻を入れ、シンジに背中を預けて腰掛けている。シンジの両手はアスカ専用のドリンクホルダーと化していて、かれこれ三十分は身動きが取れなくなっていた。
テーブルにドリンクとお菓子の袋を置こうにも、テーブルまでの距離が微妙に遠ざけられていて、アスカを押しのけない限りシンジの手が届かないよう巧妙に細工されているのだった。
「まだだーめ。今日は先週買ったホラーゲームの続き夜通ししようって約束だったでしょ?」
「えぇ? この体勢のままするの?」
そう言いながら、シンジはアスカの口に右手のグラスを近づける。アスカはストローに口をつけると、ちゅーちゅーと音を立てておいしそうに吸い込んだ。
アスカのロングヘアーから漂うシャンプーの残り香が、シンジの鼻腔をくすぐる。
「だって、こうしとかないと、いっつも途中で後ろから胸触りにくるじゃない」
う……とシンジは言葉に詰まる。
アスカはシンジの左手の袋から大きめのポテトチップスを一枚取り出し、その半分を口に含むと、残りの半分は「あーん」をしたシンジの口に放り込んだ。
「バカシンジ、ガキシンジの次は、エロシンジって会社で呼ばれたいわけ?」
まあ、いまだにシンジに色目を使ってくる社内の女たちを幻滅させるために、わざと呼んでみるのもいいかもしれないが。
「それはやだ」
シンジはアスカのうなじを後ろからぺろりと舐めて反撃した。
「ひゃっ」アスカはピクンと肩を震えさせる。
「こら、シンジ」
シンジはアスカのうなじにキスをすると、それ以上は何もせず、アスカの肩に顎を乗せて、頭を彼女の首筋に預けた。
「さっきのドラマさ……」
その言葉で、アスカもシンジが何を言いたいのかわかった。
「シンジも、昔のこと思い出した?」
「うん……」
「ミサト、あの写真どうしたのかな?」
「わからない。ミサトさんのことだから、携帯に保存したまま現像しなかったんじゃないかな」
確かめる手段はなかった。
事象は忘却の彼方に消え去り、思い出は二人の記憶の中にたゆたうだけだ。
きっかけがあったとはいえ、なぜ今さらあの時のことを思い出したのかを、二人ともわかっていた。
アスカは深く背中をシンジに預けると、肩口にあるシンジの顔に頬をすり寄せた。
瞬間、シンジの身体が熱くなったのをアスカは全身で感じた。ほんの少しだけ乱れたシンジの吐息が、アスカの頬に火照った熱を運ぶ。
アスカは膝の上までゆるゆると下がってきたシンジの両手の上から自分の指先を重ねた。
やさしく絡まる二人の左の薬指には、お揃いのマリッジリングがある。
よく晴れた春の午後。つい先日のことだ。
婚姻届を役所に提出して、シンジとアスカは夫婦に。
家族になったー。
※
三百六十五日を散歩するように。
二人の季節は穏やかに色づいた。
ある夏の日ー。
夏祭りの帰り道、シンジとアスカは自宅近くの河川敷に立ち寄った。
二人肩を寄せ合い、屈んで線香花火に興じる。
やわらかな水の音色と、遠くから聞こえる蛙や鈴虫の鳴き声が夜風に乗って流れていた。
「また負けたぁっ」
アスカの線香花火の先端が、シンジよりも先に地面に落下して、「ムキィー」とアスカは悪態をつく。
「だから、勝負じゃないってば、アスカ」
「ずるよ、ずる! 長持ちさせるコツがあるのに、隠してるでしょう⁉︎」
「そんな無茶苦茶な……」
やがてシンジの線香花火の先端も地面に落下して、小さな火種は夢のようにポツリと消えた。
「……まぁ、でも、きれいね、線香花火って」
最後の線香花火に火を点ける。
月明かりと花火の儚い灯火が、浴衣姿のアスカをぼんやりと浮かび上がらせる。
彼女の憂いを帯びた表情に、シンジは見惚れた。
きれいだった。
「線香花火……」
「?」
「長持ちさせる方法なら、あるよ」
シンジは自分の線香花火の先端をアスカの花火の先端に触れさせ、紅いふたつの中心はひとつになった。
「シンジ……」
シンジとアスカのシルエットも同じように重なる。
二人の唇は、互いに綿菓子の味がした。
「あー!」
夏の蒸し暑い夜、お風呂上がりのアスカは冷凍庫のドアを開けて怒声を上げた。
「どうしたの?」
頭をバスタオルで拭きながら、シンジが遅れてリビングへ入ってくる。
「スイカバーが残り一本しかない……」
絶対わざと言ってるなーと、シンジは両目を細めた。
喧嘩にならないよう、アイスはいつも偶数本買い溜めしておくのである。それが後一本しかないということは、「お風呂上がり用」という約束を破ってこっそり食べた人間がいるということだ。もちろんそれはシンジではない。
「僕のだね、それ」
アスカは口をひよこのように尖らせ、両手の人差し指をちょんちょんと合わせながら、シンジの顔を斜め下四十五度から覗き込んだ。シンジが好きな、アスカの角度だった。
「一緒に食べたいな〜、なんて」
ずるいよなぁ、これ。
「ちゃんと半分こなら、いいよ」
「やたっ」
「前みたいに、最後の皮の部分以外全部アスカが食べるのはなしだよ?」
「へへー、シンジ大好きっ」
アイスが一本しかない場合、アスカはシンジに髪をドライヤーで乾かしてもらいながら食べるのが常なので、結局今夜のスイカバーも主導権を握るのはアスカの方である。
しかし、スカルプモードや冷風を駆使してシンジがアスカの髪を丁寧に乾かしている間、アスカは珍しく交互に自分とシンジの口にスイカバーを運んでいた。
「おいしい、シンジ?」
「うん、まぁ……」
ニヤリと笑ったアスカの表情を、シンジは見逃さなかった。
「あーっ!」
食べ終える頃、シンジはようやくアスカの企みに気づいた。
シンジが食べるスイカバーの部位には、チョコレートでできた種の部分がなかったのである。
「なにか物足りないと思ったら……」
「ふっふっふ、相変わらず詰めが甘いわね、バカシンジ」
「いっつもいっつも、酷いよっ、アスカ」
アスカは振り返ると、舌先に乗せたチョコレートの〝種〟をシンジに見せびらかした。最後のひとつだ。
「ほしい、シンジ? 取ってみたら?」
挑発しておいて、アスカの顔はほんのり赤くなっている。
最近は、黙ってやられているシンジではない。
シンジは舌を伸ばすと、アスカの舌先の種をクリクリと舐め回した。そのままアスカの首の後ろに手を回して引き寄せ、唇を奪う。
溶けたチョコレートが二人の口内を甘く満たした。
シンジはゴクリと喉を鳴らして、溶けたチョコレートを飲み込んだが、ムラムラと湧き上がった欲望は飲み下せなかった。
抱き合ったまま、シンジはアスカをソファーに押し倒す。
「週末、また……あ…ん……買いたいな」
うなじにキスを繰り返すシンジの頭をなでながら、アスカはぼそりと呟いた。
うまく餌付けされてるな……と感じても、シンジはアスカの潤んだ瞳には敵わない。
「いいよ……また、買おう」
そうして買い溜めしたアイスは、いつも木曜日の夜までに一本になる。そして今日は金曜日で、最後の一本を食べる頃には、二人ともお風呂も夕食も済んでいる。
つまり、まぁ、そういうことだ。
ある秋の日ー。
「見て、シンジ。すごい紅葉」
助手席のアスカは子供のような声で窓の外に目をやった。
「あのね、アスカ。運転手に『こっち見て』なんて絶対言っちゃダメだよ。よそ見運転で事故したら大変なことになるんだから」
「ごめんごめん」
アスカはてへっと舌を出した。
そんなやりとりを交わしながら、今は赤信号だ。シンジは大目にみることにして、ほんの少しだけアスカの視線の先を目で追った。
右手に河川を望みながら、左手には紅葉で紅く染まった山々が走る。目的地の旅館は温泉と懐石料理が自慢らしいが、到着したら日が落ちる前に散歩がてら紅葉狩りをしてもいいかもしれない。
だが、信号が青に変わって走り出してから、シンジとアスカの赤いクラシックミニはすぐにまた速度を落とした。
渋滞に巻き込まれたのだ。
「ありゃりゃ」
インターネットの口コミで穴場と言われていた観光スポットを選んだ二人だったが、皆考えることは同じらしい。やがて車の列はまったく動かなくなった。
「ごめんね、アスカ」
まだ昼過ぎだが、この分では旅館に着くのが夜になってしまうかもしれない。
十五分経っても数メートルしか進まない渋滞の列に、シンジはハンドルを指でトントンとノックした。
「平気よ、こんなの」
アスカは後部座席から旅行バックを引っ張り出すと、中からシンジと二人で用意したランチセットを取り出した。
塩おにぎりに唐揚げ、卵焼きとたこさんウィンナーというシンプルなお弁当だった。本当は道の駅で食べる予定だったものだ。
「食べない?」
アスカはいたずらな表情で笑顔を見せた。
タイミング良く、シンジのお腹がグゥと鳴る。
「……食べる」
のろのろと進む車の中で食べるお弁当はおいしかった。
アスカが「あーん」をしてくれるのも、シンジの中では非常にポイントが高い。コーヒーがないことだけが残念だったが、水筒のお茶をアスカがふーふーして渡してくれるだけで、シンジは満足だった。
「全然、進まないね」
昼食が終わっても、渋滞は少し進んではまったく動かなくなるのを何度も繰り返していた。
しかしアスカは、その状況が不満というわけでもなさそうだった。
補助席の上にあるシンジの左手の上に、アスカの右手が絡んでいる。くすぐり合うように指先を絡め合いながら、二人は車外に広がる秋の紅葉を楽しんでいた。
渋滞も苦ではなかった。
二人に不満があるとすれば、車外からは肩から上が丸見えになっているということだった。
「旅館、着いたらさ……」
「うん……」
二人同時に、つないだ指先に力を込める。
シンジとアスカは、赤くなった顔を見られるのが恥ずかしくて、それぞれ自分の席の窓から外の景色に顔を向けた。
(キスね)
(キスだな)
旅館に着いてからの予定を、二人は紅葉狩りから変更した。
「読んだ?」
雲ひとつないお月見日和の夜。
ソファーに並んで腰掛けながら、シンジはアスカに催促した。
肩を寄せ合いながら、アスカはシンジが胸元に広げている小説を覗き込んでいる。
「いいよ、大丈夫」
シンジは次のページから最終章が始まることを確認すると、アスカの方を振り返った。
「誰が犯人だと思う?」
「そりゃあもちろん、屋敷のメイドに決まってるじゃない」
「そうかなぁ。大人しすぎて、あんな残忍な殺害方法がとれるとは思えないけど」
「何言ってんのよ。ああいう普段は大人しいタイプが、キレた時一番怖いんだから」
言いながら、アスカは小さくあくびをかみ殺した。
「眠い、アスカ? いいんだよ、無理しないで。続きは明日読もう?」
「大丈夫。私も気になるから」
シンジは『解決編』と銘打たれた次のページを開いた。
だが、数ページ読み進めたところで、右肩に寄りかかってくるアスカの体重が重たくなった。
横目で見るたけで、アスカがうとうとしていることがわかる。このところ仕事が立て込んでいて残業も多い。疲れが溜まっているのだろう。
「アスカ」
「……」
アスカは心地良さそうに両目を閉じている。
シンジはアスカの肩を抱き寄せ、自分の膝の上にそっと寝かしつけた。本を閉じ、アスカの頭をなでる。ひとなでする毎に、指先から安らぎが全身に広がっていくのをシンジは感じた。
とても静かな夜だった。
「いつもご苦労様、アスカ」
シンジがアスカの頬にそっとついばむようなキスをして、アスカの口元がむにゃむにゃと猫のようにほころんだ。
ある冬の日ー。
「あっ! ねぇねぇ、シンジ。これ、すっごくいい出来じゃない?」
アスカが得意気に手招きして、シンジはポカンとした顔でアスカが完成させたふたつの雪だるまを見た。
自宅マンション近くの公園だった。
昨夜から夜通し降り続いた雪は街中を白く染め上げていた。窓を開け、一面の雪景色に感激したアスカはウズウズした気持ちを抑えることができず、シンジの準備も待たずに手袋だけ持って飛び出してしまったのだ。
見に行くといっても交差点のふたつ先にある公園である。シンジは帰ってからすぐに体を温められるよう、昨日から準備していたポタージュスープに火を入れ、フランスパンを切り分けてからアスカを追いかけた。もちろんアスカが忘れていったイヤーウォーマーやマフラーも持参する。
そして公園へ到着してみると、ほんの十分程度にもかかわらず、アスカは鮮やかな曲線を描く見事な雪だるまをふたつも完成させていた。木の枝や葉っぱを利用して、顔や手まで付いている。
いや、雪だるまはいいのだが、アスカの周りに小学生低学年くらいの子供たちが四人もいて、その子たちと一緒になってアスカが雪だるまを作っていたことに、シンジは驚いたのだった。
「じゃあねーおねえちゃん、楽しかったっ」
「気をつけて帰んなさいよ」
子供たちはアスカに手を振ると、公園の奥にあるマンションへと走っていった。
「そこのマンションの友達同士だって。朝ご飯前に遊んでたらしいんだけど、手伝ってもらっちゃった」
「すごいね、アスカ」
アスカが子供たちに馴染んでいたことが、シンジには少し意外だった。
「なに? 子供っぽいって言いたいわけ?」
「違うよ」
シンジはアスカの頭にイヤーウォーマーをつけ、首元にマフラーをふわりと巻きつけてから、彼女を軽く抱き寄せた。
「ありがと……」
ずっと一緒にいても、新しい発見がある。
シンジはうれしかったのだ。
「すごくいい出来だけど、あとひとつ足りないね」
む……とアスカが不満そうに眉根を寄せる。
シンジは公園の端まで行ってしゃがみ込むと、地面の雪を払った。
「確かこの辺りに……あった」
露出した地面からシンジが拾い上げたのは、赤く染まったまま落葉した二枚の大きな枯れ葉だった。
シンジは寄り添って立つ雪だるまに近づき、左の雪だるまの頭の左右に乗せて、周りの雪で固定した。
「どう?」と得意気なシンジ。
昔アスカが付けていた赤いインターフェイスに見立てたようだが、出来が悪い。ヘッドセットというよりは、だらしなく垂れ下がった耳みたいだ。
「二十八点」
「厳しいなぁ」
だが、あらかじめ互いに支え合うように少し斜めに雪だるまを作ったので、アスカはその出来でも満足した。
雪だるまを二体作った意味を当たり前のようにシンジが理解してくれたことが、アスカはうれしかった。
「手、見せて?」
シンジの両手を、アスカは自分の頬に当てた。素手で雪を触ったので、シンジの指先はひんやりと冷たくなっていた。
「朝ご飯、食べよう」
二人鉄棒に背中を預けて仲良しの雪だるまたちを鑑賞した後、シンジはアスカの右手の手袋を外して、彼女の指先を自分のコートのポケットにお招きした。
「昨日から仕込んでたやつ?」
「ポタージュスープ。自信作なんだけど」
「やった。食べる」
その笑顔が見たくて。
シンジはいつも、料理の手間暇をかけるのだ。
「そういえば……今朝の、まだだけど、いる?」
「え? ……そりゃ、ほしいけど、さっきの子たち、窓から見てるかも」
「いらないの?」
「……ほしいです」
良く晴れた、いい朝だった。
「ん……」
二人のそれを目撃したのは、シンジとアスカの雪だるまだけだった。
その時、雪だるまが少しだけ溶けたのは、おアツい二人のせいか、遠くビルの谷間から顔を覗かせた太陽のせいかは定かではない。
「カフェオレ入ったよ、アスカ」
こたつに足を入れ、ソファーでくつろいでいたアスカの前に、シンジはマグカップを差し出した。
陶器でできた、トマトのように赤くて丸いマグカップ。コーヒーが入ったシンジのマグカップは、青い色違いのお揃いである。
「ありがと、シンジ」
「ゆっくり飲んでね」
シンジはマグカップをこたつ机の上に置き、アスカの隣に腰掛けた。ふぅと息を吐き出すシンジの口元には、ほんの少し疲れが見える。
夕方まで、鈴原の一家三人とマリが訪ねてきて、昼間からお祭り騒ぎだった。マリとトウジが酒を飲み漁り、皆で年末の休暇を満喫していた。
そんな中で、シンジは昼食からデザートの準備まで脱兎の如く動き回っていたのである。
鈴原一家とマリが帰った後、片付けも終わり、お風呂にも入って、ようやく二人で一息ついているところだった。
「鈴原のバカと、また知り合いになれてよかったわね」
「うん。アスカが委員長……ごめん、ヒカリさんに僕のことを紹介してくれたおかげだよ」
アスカは両手で包み込むように持っていたマグカップを口に運ぶ。カフェオレの甘い味が口から全身に広がって、疲れをじんわりと押し流していく。
アスカはマグカップをテーブルに置き、立ち上がって洗面所から綿棒を持って戻ってきた。再びソファーに腰をおろすと、シンジに向かってじぶんの膝をぽすぽすと手の平で叩いてみせる。
「シンジ、ほら」
「いいの?」
アスカがコクコクと頷くと、シンジはおずおずとアスカの膝枕に頭を乗せ、彼女のお腹の方へ顔を向けた。
「痛かったら言いなさいよ?」
「うん……」
アスカがシンジに耳かきをする間、二人は特に何も話さなかった。
何も話さなくても、二人は心地よかった。
「反対側、シンジ」
シンジは答えず、動かなかった。
顔を見なくてもわかった。眠ってしまったのだろう。
「……いつもありがとう、シンジ」
アスカはしばらくシンジの頭をやさしくなで続けた。
マグカップのカフェオレを味わい、またシンジの頬や唇に触れる。
言葉もなく、時間だけが静かに過ぎていく中に、シンジがいる。
そんな時間がある。
アスカはシンジに覆い被さるように上体を前に倒して、彼を抱きしめた。
お互いの頬が、やわらかく触れ合う。
「あったかいよ、シンジ」
時折訪れる、こんなやさしい時間を。
アスカは宝物と名付けている。
ーそしていつかの、ある春の日。
※
波の音が聞こえる。
穏やかな凪いだ渚を挟んで建つ教会。
遊歩道に設置されたバルコニーで、シンジとアスカは手をつなぎ、砂浜の向こうに広がる海を眺めていた。
春先のデートスポットとしては最適らしい、波打ち際をまばらに人が行き交う。あたたかい風に乗って、鳥の群れが海の先へ翔けていくのが見えた。
「はぁ、緊張した」
シンジは白いタキシードの襟元に忙しなく指をあてていた。
撮影で色々なポーズをとらされた。ようやく終わってしばらく自由な時間が与えられたが、途端に疲れが出たのである。
「シンジって、昔からこういうの苦手よね」
「そうだけど……アスカは慣れすぎだと思う」
慣れているというより、自己主張が強いのだ。彼女は、他人から注目されることを快感だと思っている節がある。
「あんたバカぁ? こういうのは、堂々としてればいいのよ」
シンジは改めてアスカを見た。
白い純白のウェディングドレス。
肩口が少し露出しただけのシンプルなデザインだが、それがかえってアスカのスタイルの良さと存在感を際立たせていた。
「女神」だとか「ヴィーナス」だとかいうチープな台詞が浮かんで、シンジは慌ててそれらを頭の中から追い払った。
アスカは、ただ、きれいだった。
入籍した時、二人は式を挙げなかった。友人の少ないシンジにアスカが気を遣ったということもあるが、過去の経緯もあり、二人とも互いにそばにいられるだけで充分だと思っていたので、結婚式を挙げることがそれほど重要だとは考えていなかった。
それが突然、アスカのウェディングドレス姿だけは写真に残しておきたいとシンジが言い出したのは、このタイミングを逃すとしばらくそんな機会は得られないことがわかったからだった。
「体、大丈夫?」
「うん。お腹が膨らんでくるのはまだ少し先みたいだし、平気よ」
シンジはアスカの腹部に慈しむように手を添えた。アスカがその上から自分の両手を重ねる。
挙式に人は呼ばなかった。
二人だけの思い出として残すことができれば、それだけでよかった。
「こうなったからには、もう逃げられないわよ、シンジ?」
アスカはブーケを持ったまま人差し指を立てて、シンジをビシッと指差した。
「アンタちゃんと、私たちのこと、しあわせにすんのよ?」
「うん、そうだね。約束する」
シンジの穏やかな表情に、アスカは照れ隠しで大袈裟なポーズをとったことを見透かされたようで気恥ずかしかった。
「アスカ」
一転、シンジが真面目な口調になる。
あ。これは。
「僕のことを、選んてくれてありがとう」
柄にもないことを言うつもりだ。
でもきっと、うれしいやつだ。
アスカは体中の力を抜いてシンジの言葉を待った。
「僕は、これからもずっと……アスカのことを……あ、あいして……その……」
肝心な部分で、シンジは口籠った。
「好き」ならいくらでも言ってきた。言葉の意味に大きな違いはないはずなのに、なぜこっちの台詞は易々と口にすることができないのだろう。
「つまり、僕は……アスカのことを、愛、して……」
言葉にしなくても、伝わることはある。
アスカはシンジが言い終える前に、キスでシンジの唇を塞いだ。
シンジが目を大きく見開く。
シンジの言葉を、アスカは吐息と共に身体の奥へ飲み込んだ。
「まったく、ホントにしょうがないわね、バカシンジは」
呆気にとられるシンジに、アスカは不敵に笑ってみせた。
やっぱりこういう台詞は、私の方から先に言わないと気がすまない。
「いい? 私が見本を見せてあげるから、よく聞いときなさいよ」
コクコクと頷くシンジ。
コホンと咳払いをするアスカ。
「……好きよ、シンジ」
シンジの頬がポッと赤く染まる。
「大好き」
シンジの頭から蒸気が出た。
「だから私は、シンジのことを、これからも、ずっと、あ……あー……ああ、あい、し…して、その……」
あれ、へんだな?
なんだこれは。
途端に言葉が出なくなる。
「アスカ……あのさ」
「な、なによ?」
「アスカの顔、真っ赤っかだよ?」
アスカは自分の顔に両手を当てた。顔中が沸騰寸前のやかんのような熱さになっていて、アスカは自分がシンジ以上に赤面している事実にようやく気づいた。
「まぁ、ほら、アスカ。僕たち、似た者同士ってことで」
「アンタと一緒にすんなっ! バカっ! バカシンジ!」
アスカはムキになってシンジの頭をぽかぽかと叩いた。
その時だった。
二人の足元を小さな生き物が横切って、アスカは短い悲鳴を上げた。
犬や猫ではない。二足歩行でペタペタと歩くその生き物は。
ーペンギン……?
「あら、こんなところでウェディングなんて、ステキね」
シンジとアスカは同時に教会の方を振り返った。
ハッと小さく、息を呑む。
「あれ? ごめんなさい、声かけちゃって。もしかして、いいところだった?」
キスの邪魔しちゃったのかも……と、その女性は頭をかいた。
「じゃれてただけです。いつものことだから、大丈夫ですよ」
アスカは努めて明るい声で返した。声が震えたかもしれない。
「あの……」シンジは声を振り絞る。細めた両目から、涙が一筋こぼれて落ちた。
「もしよければ、一緒に写真を撮りませんか?」
「通りかかっただけなんだけど、いいのかしら?」
「ぜひ」
「じゃあ、せっかくだからお願いしようかな」
女性はシンジとアスカを交互に見比べて小首を傾げる。
「? 私、あなたたちとどこかで会ったこと、ある?」
シンジとアスカはにこやかに笑顔を返した。
「
軽やかな足取りで女性は一度引き返していく。
「ふ……う、ぅ……」
我慢できず、シンジは顔を伏せて泣きじゃくった。
アスカはそんなシンジの頭を抱き寄せて、自分の肩口にすり寄せた。
「ねぇ、シンジ。いっぱい、話ししよう。思い出さなくてもいいから……変な夫婦って思われてもいいからさ、三人で話そうよ。この子のことも、いっぱい聞いてもらおう」
「うん……」
その時撮影された写真は、大泣きする新郎とそれをなだめる新婦に挟まれて、その女性が笑顔でピースしているという妙な写真になった。
そしてその写真は、シンジとアスカの自宅のリビングにずっと大切に飾られている。