アスカは困っていた。
原因は娘のミライである。
いや、ミライが直接悪いというわけではないのだが、困っていた。娘の物心がつくようになってきて、シンジとイチャイチャする時間が確保できなくなってきたのである。
「ねぇねぇ、このあいだママとパパがハグしながらしてた遊びはなぁに?」
きっかけは、ミライのその一言だった。
その瞬間、碇家のキッチンは凍りついた。
「え? な、なにかなぁ、ダンスの練習とかかな?」
アスカはフライパンの中の生姜焼きを裏返しながら言い淀んだ。フライパンの中できれいに整列していた豚肉は、なぜか裏返った後はあべこべに重なり合っていた。
「んーん。パパがママのお顔のいろんなところにちゅーしたあと、体のいろんなところをペタペタさわってたよね。ああいうことお友だちにすると、ようちえんだと先生に怒られるんだけど、大人はいいのかなって」
アスカとシンジの間の赤い踏み台に立ったミライは、シンクの蛇口でトマトとレタスを洗いながら純粋な眼差しでアスカを見上げた。
「あー、あれはほら、お相撲さんごっこだよ。来週おっきい公園行くだろ? そこでミライにも教えてあげようと思って、ママと練習してたんだ」
シンジは澄まし顔で茄子を包丁で切り分けたが、どう見ても不揃いだった。
「ふーん……」ミライは苦笑するアスカとシンジの顔を何度も見比べた。
さすが二人のハイブリットだけあって、ミライはまだ幼稚園児にもかかわらず、ひらがな・カタカナどころか小学三年生レベルの漢字の読み書きまで習得し、算数も四則計算までこなす才女なので、その勘の鋭さと洞察力は侮れなかった。
それ以降、シンジとアスカはミライの目が届かないタイミングを狙ってスキンシップをはかろうと試みたが、これがなかなか難しかった。
そもそもアスカの出勤はミライの幼稚園への登園時間よりも早く、当然帰宅はミライよりも遅い。日中に二人だけの時間が確保できない。
ミライが子供向けのテレビ番組を見ている隙に、二人でそそくさと寝室に移動して抱き合う程度のことはなんとかできたが、いざ挨拶以上のキスをしようとすると、センサーでも付いているのか、ミライが廊下の隅からじっとこちらを見ている。
ミライが寝てから事に及ぼうとしたこともあったが、二人上体を起こしてお互いの顔を近づけた時、視線を感じて下を見ると、寝たはずのミライがカッと両目を開いて二人を見上げており、アスカが小さく悲鳴を上げるという事態に何度も陥った。
ようやくミライが眠った後にリビングへ移動しても、娘がいつ起きてくるかわからない状況で、体を重ねるようなことはできなかった。
「はぁ……」
三角座りの膝の上に顎を乗せながら、アスカの口から短いため息がもれた。
「大丈夫?」
シンジがアスカとつないだ指先に力を込める。
水玉模様のレジャーシートに並んで腰掛けながら、二人は目の前の芝生でシャボン玉遊びに興じているミライを眺めていた。
「元気ね、ミライ」
「そうだね。三人で出かけられるのがうれしいみたい。お昼もミライの好きなパスタ屋さんだしね」
空は気持ちよく晴れ渡っていたが、アスカの気分は曇り空だ。
この一ヶ月間、シンジと二人でゆっくりすることができなかった。繁忙期で、アスカの仕事が忙しかったこともある。できることといえば、ミライを見ながらこうして手をつなぐ程度のことだろう。
二人は目配せすると、同時にお互いの腰に腕を伸ばした。するとそれを見ていたかのように、ミライがにこやかに振り返って手を振ったので、二人は慌てて腕を引っ込めて、レジャーシートの上で手を重ねるだけに留めた。
去年までは、ミライを膝の上に乗せたシンジが腰に手を回して抱き寄せてくれていたのに、今はそんなこともおいそれとはできない。多感な時期の子供に親がいちゃついている様子を見せるのはやはりよくないとは思うものの、シンジとのスキンシップの機会が如実に減っていることに、アスカは焦っていた。
アスカの心配はそれだけではない。
先日ミライから聞かされた話によると、シンジは幼稚園で大人気らしい。
「みんなねぇ、パパのことやさしいしかっこいいしうらやましいって言ってるよ」
「みんなって、ミライのお友だち?」
「ううん、先生たちもお友だちのママたちも、みーんな」
バキャッ! と音を立てて、アスカの持っていたお箸が真ん中からへし折れたことを、台所で洗い物をしていたシンジは知らない。
それ以来、アスカは仕事中も気が気ではなかった。
ー例えば……例えばよ? 綾波レイみたいな清楚でミステリアスで大人しい女がミライの友だちのお母さんにいたとして、送り迎えの時間が一緒になるシンジと意気投合して、仲良くなって、家でお茶でもどうですか? なんて言われて、人のいいシンジが断れなくてノコノコついて行って、それで……。
不倫、という二文字が頭をよぎり、なぜか綾波レイとくんずほぐれつしているシンジを想像して、アスカは思わず頭をかきむしった。
「いやあぁぁーッ」
「どったの、姫? シンジ君となんかトラブルあった?」
就業のチャイムが鳴り響き、マリの言葉も無視して、アスカは会社を飛び出した。
アスカは、シンジにあらぬ疑いを抱いたわけではない。ただ、不吉なことばかり考えてしまう自分が嫌で、キスは無理でも、せめてシンジに思い切り抱きしめてほしかっただけだ。
だが、アスカのそのささやかな願いは叶わなかった。
シンジが風邪で倒れたからである。
「ママーっ! じゅんびできたよっ」
廊下から幼稚園の帽子を被ったミライが顔を出し、大仰に手を振った。今日も朝から彼女は元気にぴょんぴょん飛び跳ねている。
アスカは笑顔で彼女を手招きした。
「パパに行ってきますの挨拶して」
「うん」
ミライはベッドで体を起こしているパジャマ姿のシンジに駆け寄ると、ぶつかるような勢いでハグをした。
「行ってくるね、パパっ」
「今日も思いきり楽しんできてね」
頬をすり寄せようとするミライを、シンジは慌てて制止する。
「パパの病気が感染っちゃうかもしれないから、今日はだめ」
「えぇ〜」
ぷくぅっと頬を膨らませるミライの右手を、シンジはアスカに預けた。
「ごめんね、アスカ」
「私は大丈夫だから、今日はゆっくり休んで」
昨夜、アスカが帰宅してすぐのことだ。
シンジがリビングでふらついて倒れた時、アスカは心臓が止まるかと思った。
パニックになったアスカにミライが「びょーいんっ!」と叫び、我に返ったアスカは車をかっ飛ばして病院の緊急外来に駆け込んだ。電柱やガードレールに数回車を擦りつけたが、知ったことではなかった。
診断結果はただの風邪。大したことはなかった。
ただ、倒れるまで我慢する人は過労の疑いもあるので注意するようにというきついお叱りも受けた。
「もう、ママあせりすぎ」
「ごめん。だってさ……」
「ホントにもう、パパもママもあたしがいないとだめなんだから」
ミライからもぷんすか怒られた後、アスカは会社に翌日休みの連絡を入れた。
それから、夕食の準備に入浴からミライの寝かしつけ、翌朝に朝食と洗濯までこなしてみて、わかったことがある。
ー超重労働……。
休日はミライの世話や家事を二人で分担していたので、アスカが家の用事に手をつけていないわけではなかった。だが、それを自分一人でこなすのは、シンジの補助をする時とは次元の異なる疲労感をアスカにもたらした。
ミライの登園の準備が完了したところで、アスカはすでに疲弊していた。ミライが幼稚園に行っても、また数時間したら迎えに行って今度はすぐに夕食の準備がある。
自分の予定通りに家事が進まないのもストレスだった。ミライがぐずったり、リビングをおもちゃで散らかすのを片付けたりで、早朝からかなりドタバタした。そもそも、ミライはせっかく用意した夕食も朝食も、自分が気に入らないものを残そうとしたのだ。それを叱りつけるだけでも骨が折れた。
こんなタイムスケジュールで、シンジが浮気などする暇があるわけがなかった。
ー最低だな、私……。
アスカはキスを我慢して、シンジを軽く抱きしめた後、彼の頬をなでて立ち上がった。
「行ってくるね、シンジ」
「行ってらっしゃい、アスカ。ミライも」
アスカは幼稚園に顔を出すのが少し億劫だった。
ミライの送迎が嫌なのではない。シンジが幼稚園の職員や他の園児のママさんたちに人気なのであれば、代わりに自分がミライの送迎をしていることがわかったら、きっとがっかりされるだろう。ミライの入園式やお遊戯会などで幼稚園に顔を出すのは初めてではないが、普段の自分のテリトリーではない場所に踏み込むのは勇気がいる。
弱くなったな、とアスカは思う。昔はもっと無鉄砲だったし、他人のことなんて気にしなかった。それだけ、大切なものが増えたということだろう。
「あ、おはよう、ミライちゃん……はっ!」
幼稚園の門をくぐると、出迎えの先生がミライに笑顔で手を振った。その笑顔が、アスカの顔を見た瞬間、驚愕の表情に変化した。
「あの……おはようございます。いつもミライがお世話になってます」
「お、おはようございます。今日はお母さんがお迎えなんですね?」
そわそわした様子で話しかけられ、アスカは妙な気分になった。
「? あの、何か顔に付いてます?」
「い、いいいえっ、なんでもないですっ」
よくよく周りを見ると、子供と登園してきた他の保護者もチラチラとアスカに視線を飛ばしているように感じた。ミライではなく、アスカにだ。
ただ、それは悪い噂をしているというよりかは、好奇の目に近かった。芸能人やスポーツのスター選手でも見るかのような眼差し。
「おはようございます」奥からミライの担任の先生が出てきて、アスカに頭を下げる。いつも笑顔のおっとりした女性だった。ミライはこの先生のことが気に入っている。
「今日は奥さんが送り迎えなんですね。よかったね、ミライちゃん」
「へへー、れあでしょ、れあ」
おませな言葉を使って、ミライは先生にVサインをした。
「あの……」アスカが我慢できずに訊ねた。「なんか、私、ジロジロ見られてる気がするんですけど、何かしましたか?」
「あぁ……。それはもう、ミライちゃんのパパとママは、有名人ですから」
「え?」
「ミライちゃん、いつもお二人のこと自慢してるんです。なんというか、その……お二人の馴れ初めというか、仲睦まじいエピソードをね、クラスのお友だちや、ママさんたちに話してるんですよ」
「え……?」
アスカはミライの方を振り返った。
ミライはいつの間にかアスカの手を離れ、近くにいたクラスメイトらしい女の子に得意気に話を聞かせていた。
「……でね、パパは時々してもらうママのひざまくらと耳かきが好きで、そのごほうびがほしくて、そうじとかおせんたくをがんばってるんだって」
アスカの顔が高性能な湯沸かし器のようにバシュッ! と音を立てて瞬間沸騰した。
「な……っ⁉︎」
「パパったらさぁ、ママに初めてあげたゆびわをえらんだ時、迷いすぎておやつの時間から夜ごはんの時間までなやんでえらんだんだって。でも、それをあげた時にママがすっごくよろこんでくれたから、その後いっぱいちゅーをしたんだってさ。アイだよねぇ、アイ」
「すごーい、ミライちゃんのパパとママらぶらぶだねぇ〜」
アスカは瞬時に理解した。
シンジがミライに毎日のろけ話をし、それをミライが幼稚園で言いふらしているのだ。
「ミラぁぁーイッ!」
と、アスカが叫ぶよりも先にミライが駆け寄ってきて、アスカにハグをした。
「行ってくるね、ママっ」
「う、あ……。う……うん、行ってらっしゃい」
「では、お預かりしますね」
ミライはこちらに手を振りながら、他の先生や園児たちと一緒に中へ入っていった。
周囲の保護者たちの視線が痛い。
アスカは愛想笑いを浮かべながら回れ右をし、爆速で幼稚園の外へ走り去った。
「シぃンジいいィィィーッ!」
獣のような雄叫びは、あっという間に幼稚園から遠ざかっていった。
「あぁ、おかえり、アスカ」
寝室の扉を開け放つと、シンジはベッドに腰掛けて体温計を脇に挟んでいるところだった。
「ごめんね、ミライのこと任せちゃって」
体温計を抜き取って、シンジは温度表示を確認する。
「三十六度八分。汗かいてだいぶ下がってきたみたい」
口を波のようにわななかせたアスカは、タックルするようにシンジに駆け寄り、抱きついた。
「わっ。ど、どうしたの、アスカ?」
幼稚園で味わった羞恥心は、帰宅する頃にはすっかり抜け落ちていた。代わりにアスカの中に湧き上がったのは、申し訳なさと愛おしさだった。
「抱きつくのに理由いる? いいじゃん、ミライいないの久しぶりなんだから……」
「そりゃあ、僕だってうれしいけど……」
アスカはシンジの胸元に深く顔をうずめたので、シンジはそっと両手でアスカを抱きすくめた。
顔中が熱く感じるのは、きっとシンジの発熱のせいだとアスカは思った。
「シンジさ……」
「なぁに?」
「アンタ、私のこと好きすぎ」
アスカが上目づかいでジロリと睨めつけると、シンジは状況を察して目線を逸らした。
「ミライが、また僕とアスカのことを言いふらしてたんだね?」
「そうだけど……なに子供に変なこと吹き込んでるのよ」
「最初はさ、他の子は幼稚園の送り迎えをママがしてるのに、なんでうちだけパパなのって言われて、ママがいないと寂しいっていうから、僕とアスカのことを話して聞かせてたんだけど……」
アスカはドキリとした。
寂しいーという台詞を、アスカはミライの口から聞いたことがなかった。
ーいつも我慢してたのか……。
「そのうち、僕とアスカがどうして結婚したのかとか、そんなことまで聞いてくるようになって、僕もアスカの話をするのは楽しかったから、つい」
「まさか……え、えっちなことまで、話したりしてないでしょうね?」
「それはさすがに」シンジはブンブンと首を横に振った。
「ごめんね、シンジ」
アスカはもう一度シンジの胸元に額を押しつけた。
「なんで?」
「ミライに手がかかるようになってきて、私も仕事が忙しいの言い訳にして、二人の時間、取れてないなって思ってて。シンジは平気なのかなって。う、浮気とか……されてたら、どう、しよ……って」
あぁ、ダメだな。やっぱり自分は弱くなった。
こんなことぐらいで泣いてしまうなんて。
「アスカ」
シンジはすすり泣くアスカをなだめるように、彼女の背中をやさしくさすり続けた。
「夜、夕食を食べた後に……」
「……?」
シンジはアスカの背中をなでながら、言った。
「りんごとかキュウイを切って、ゲームで遊んでるアスカとミライがいるソファーに持っていってさ」
「うん。シンジ、いつもデザート用意してくれるもんね」
「僕が二人の間に座って、まずミライにフォークであげるでしょ。それから、あーんして待ってるアスカの口にもデザートを入れてあげて、おいしそうに食べてくれるのを眺めたりさ」
「うん……」
「休日に遠出して、帰るのが夜になった時、遊び疲れたミライが車の後部座席で、アスカは助手席で安心して寝てくれてて。赤信号で止まる度に、僕はアスカのその寝顔を見るのが楽しみなんだ」
アスカはシンジを見上げた。
そこには、シンジの慈しむような眼差しがあった。
「そういうしあわせでいいんだ、僕は。そういうのを、アスカとずっと大事にしたいと思ってるんだ」
「シンジ……」
「浮気なんてしないから」
だって……と、シンジはアスカの瞳をまっすぐ見つめて言った。
「僕はアスカのことを、愛してるから」
シンジのやわらかい笑顔が、アスカを包む。
いつもそうだった。
シンジがくれる言葉が、いつもアスカの心の壁をやさしくとかしていく。
「バカ……バカシンジ」
アスカはシンジをベッドの上に押し倒した。
シンジはアスカの首の下に右腕を差し込み、彼女の頭に手を添えて、少しだけ自分の方へ引き寄せる。
いつもはミライが真ん中に入るので、二人でベッドの上で見つめ合うのは一ヶ月ぶりだった。
「アスカとこんな風に横になってると、ミサトさんの家で同居してた時のことを思い出すよ」
「あの時は、背中合わせだったけどね」
「名前呼んでよ、アスカ。最近、パパばっかりで、ちょっと寂しい」
「ナナヒカリ、でいい?」
シンジがぷっと吹き出した。
「うそ……。バカシンジ」
「うん」
「私も、シンジのこと……愛してるから」
長い年月は、二人にその言葉を躊躇させなくなった。歳を取ることも、悪いことばかりではない。
「ずっと、こんなふうにすごしたい」
シンジと一緒に。
「ずっと、こんなふうにすごそうよ」
シンジの呼吸がほんの少し乱れていることに、アスカは気づいた。
「アスカに……触りたい」
シンジの真剣な眼差しに、今度はアスカがぷっと吹き出した。
アスカがシンジの背中に手を添えると、シンジは左手をアスカのワンピースの胸元からそっと侵入させた。
「下着、いい……?」
「うん……」
ブラジャーの表面をなぞるようになでた後、シンジはその内側へ指先を這わせる。
ピクンと身体を震えさせた後、顔を上げたアスカとシンジの鼻先が触れ合った。
「感染るかな……」
アスカの方から、シンジへ唇を近づける。
「ん……」
深くくちづけを交わしながら、シンジはアスカに覆い被さった。
※
「……で、パパとママに二人きりの時間をあげるために、ワタシの休日のランチにつきあってくれてるってわけ?」
マリは頬杖をつきながら、向かいの席でお子様ランチのハンバーグを美味しそうに頬張っているミライに視線をやった。
ネットの口コミサイトや地元情報誌で度々取り上げられている人気のカフェだった。無難にファミリーレストランにしようと思ったのだが、ミライから直々にこの店を指名され、予約を取らされたのだ。
「そうなんです、マリおねえさま」
ミライはハンバーグのプレートに添えられたフライドポテトをフォークで刺し、ひょいと口の中へ放り込む。
「ミライもパパとママといっしょにおでかけする時間は大事にしたいんだけど、ミライのせいでいちゃいちゃする時間がなくなっちゃったらだめだなぁと思って」
ミライはおませだった。
シンジとアスカは、ミライから見えない場所や時間を見つけては、こまめにキスやハグなどのスキンシップを増やしていたが、ミライはそれらを二人の雰囲気の変化で敏感に感じ取っていた。ミライでなくても、意識してシンジとアスカを観察していれば、二人の顔が妙に紅潮していたりふやけていたりして、不自然な雰囲気を感じ取ったかもしれないが。
先週、マリが碇家に遊びに行った際、ミライはマリに飛びついてとびきりの作り笑顔で言った。
“ミライ、マリおねえさまだーい好き♪ こんど、おねえさまと二人でらんちに行きたい!”
せっかく外で食べるのだから、美味しいものを食べさせろーというのがミライの言い分だった。
(ヤバいよ、この子……。さすがは姫とワンコ君の娘にして、ユイさんの孫)
「まったく、やけぼっくいに火が点くと、子どもも気をつかうのがたいへんなんだから」
マリはオムライスの最後の一口を味わいながら苦笑した。
アスカとシンジの最近の様子が聞き出せるので、マリとしても利がないわけではなかった。なにより「マリおねえさま」という呼ばれ方は新鮮で、ついつい貢いでやろうという気にさせられた。
その時、混み合っているカフェへ入店してきた女性に気づいて、ミライは笑顔で手を振った。
「レイおねえさま!」
女性に向かって、ミライは背伸びをして手招きする。
マリもその女性に手を振りながら、口の端をへの字に曲げた。
(姫……なんか、大冒険しようとしてるわよ、この子)
見聞を広めるという名目で、ミライは両親の知り合いと接触して交友関係を広めるつもりのようだった。娘が夏休みにドイツの祖母に会うための旅行計画まで立てていることを知ったら、アスカとシンジはどうするだろうか? もちろん付き添いは、ミライ曰く「バディ」のマリである。
「かをるっていう人もイケメンらしいから、早く会ってみたいなぁ」
ミライは笑顔のままぶつぶつ呟いている。
マリはにやりと笑った。
姫とシンジ君がユイさんから紡いだ縁を、今度はその娘がどこまで広げていくのか、観察するのも面白そうだ。
退屈のない日々は、まだまだ続きそうだった。
○
碇ミライの密かな楽しみは、父と母の日記を読むことだった。
両親の書斎で見つけた分厚い日記帳は、今も毎日書き込みが続けられていた。父が書いたその日の出来事に、母がコメントを書き加えるというスタイルらしい。まだ読めない漢字も多いが、大好きな父と母のルーツを読み解くのは楽しかった。
とりわけミライの心を刺激したのは、父と母の少年時代の話である。
作り話なのだろうか、それは父や母が巨大なロボットに乗って怪物のように大きな生き物と戦う物語だった。
お気に入りは、母が父のことを「バカシンジ」と呼び始め、父のために料理の練習をするあたりだ。この付近のページには「バカ!」「鈍感!」などの母の書き込みが特に多く、読み応えがあった。
その後、母はロボットごと怪物に取り込まれ、父との長く悲しいすれ違いが始まる。
運命の日の、その前日。
ミライは両親に内緒で小さないたずら書きをした。
それは他愛のない、ミライからのホットラインである。
ーがんばって、ママ。
「え……?」
リビングを行ったり来たりしていたアスカは、何かに背中を押されたように、気がつくとキッチンの前に足を踏み出していた。
振り返ってみるが、何もない。
当たり前だ。今はシンジもミサトも家にいない。
「そうね……やらないよりは、やって後悔する方がいいもんね」
アスカは左手を顔の前に広げた。指先には、絆創膏がいくつか巻かれている。
エコヒイキの方が、その数は多かった。それでも……。
エコヒイキの食事会は明日だ。自分は3号機のパイロットの任務がある。
チャンスは、今夜しかない。
「やってやろうじゃないの」
キッチンに包丁や鍋、野菜などを並べ終わったところで、シンジが帰ってきた。
「あれ? どうしたの、アスカ?」
リビングに入ってきたシンジは、エプロン姿のアスカにきょとんとしている。
「別に……暇だから、たまには料理でもしてみよっかなって思っただけよ」
シンジに見られることをわかった上で、アスカは料理を始めた。だから、ミサトに見られた時のようには慌てなかった。
顔は赤くなっていたけど。
「手伝うよ、アスカ」
こういう時、シンジは自分みたいに茶化さないし、バカにしたりしない。
シンジのそういうところが、アスカは好きだ。
「……ありがと」
アスカがお味噌汁を作り、シンジは余った野菜で野菜炒めを作ることになった。
キッチンに二人並んで立ち、鍋のお湯が沸騰する音と、包丁の音だけがリビングに静かに響く。
「なんか、夫婦みたいだね」
シンジがぼそっと呟いた冗談に、アスカの手元がびくっと跳ねた。反動で、鍋のお湯も小さく跳ねる。
「あつ……ッ!」
「アスカっ!」
シンジはお湯がかかったアスカの右手をつかんで、蛇口を全開にしたシンクの水道に火傷した親指を晒した。
「ごめん、アスカ」
「ちょっとかかっただけだから。大丈夫だから、シンジ」
こちらを振り返ったシンジと目が合う。
アスカと同じように、シンジの頬も赤らんでいることがわかって、途端にアスカの鼓動は早鐘を打った。
「シンジ……」
「アスカ……」
ー勇気を出して。
何かに背中を押されて、アスカはシンジの方へ一歩近づき、ゆっくりと目を閉じた。
シンジは退がることなく、ほんの少し、アスカに顔を近づける。
その瞬間、二人の心は、やさしくほどけて重なったー。
それは、遠い昔に始まった。
碇アスカのプロローグ。
了