「アスカ、ゆっくり選んでいいから」
ぐぬぬぬぬ、と唸り声を上げているアスカを見かねて、シンジはやさしく彼女の背中に手を触れた。
駅前にあるレトロな雑貨屋である。
アスカはプレゼント選びに迷っていた。
「だめ、ギブアップ。シンジも一緒に選んでよ」
「わかった」
中学生の頃からの親友である洞木ヒカリから残暑見舞いの手紙とゼリーの詰め合わせが届いたのは、八月も終わりのことだった。
彼女が結婚したのが六年ほど前。翌年には子供ができて、それから頻繁に連絡を取る機会は減ってしまったが、季節の挨拶だけは毎年きっちりよこすのが真面目な彼女らしい。
裏面には、今年もパートナーと娘のツバメの三人で自宅前に並んで撮った写真が添えられていた。直筆で書かれた署名の「鈴原」ヒカリにドキリとした自分に、アスカは戸惑った。彼女の苗字が変わったのは数年前からなのだから、いまさらそんなことに驚く必要はないはずだった。
その週末、デートついでに雑貨屋に立ち寄り、ヒカリへのお返しを探しにきたのはいいが、気の利いたプレゼントを選びきれないアスカだった。
「ちゃんとしたアイスの詰め合わせは別で贈る手配したんだから、子供向けのおもちゃとかはどう?」
腰を屈めて、頬が触れ合いそうな距離でシンジが言う。
アスカは平静を装うのに少し苦労した。
「うーん。ツバメがあんまり遊ばなかったら、かえって邪魔になるかなと思って」
仕事にかまけて親友の子供のことを知らない自分もよくはない。アスカは内心反省していた。
「なるほど、難しいね」
春先に電話で話をした時には、育児疲れで大変だということを頻繁に口にしていた。ストレス軽減になりそうなちょっとしたものがあればと思ったのだが。
「あ……」シンジが間の抜けた声を上げた。
「これはどうかな?」
シンジが指差す先には、キーホルダーサイズのオルゴールがあった。手回し式のようで、サイドに小さなハンドルがついている。シンジがそれを回している間だけ、オルゴールの短音がやさしく二人の間に響いた。
「いいわね、それ」
「お眼鏡にかなったようで、なにより」
シンジの笑顔に、ついにアスカは表情が緩むのを我慢できなかった。
※
「愛妻弁当とは、豪華ですなぁ〜」
昼休みの社員食堂。
背後からマリがひょいと顔を覗かせて、アスカは少しげんなりした。
「いいでしょ、お昼なんだから」
「一緒には食べないわけ?」
にやけた顔で聞いてくる。
「シンジは今日は外出」
「それは残念」マリはアスカの向かいの席に腰掛けた。
「なんか食べないの?」
「あんまり美味しそうに食べてるからさ。愛妻弁当を食べ終えるのを見届けてからにしようかなと思って♪」
「あ、そ」
マリの相手を本気でするのもバカらしい。視線を外して、アスカはお箸でつまみ上げた卵焼きを頬張った。
アスカの好みを熟知した、絶妙な甘さの卵焼きである。午前の事務仕事で疲れた頭に染み渡る。
「最近、どんどんキレイになってくね」
マリは頬杖をつきながら、値踏みするようにアスカの目元を直視した。
無視無視。
シンジのお弁当をじっくり味わってから、仕事に戻ろう。
「やっぱ碇クンと相性抜群なんだねぇ」
もぐもぐ。
むしゃむしゃ。
「知ってる? 気持ちいいのってふた通りあるらしいよ。単につながるだけならどんな動物でもするわけで、そういう気持ちいいはしょせんスポーツの域を超えないのよね。身体だけじゃなくて、心の相性っていうのかな。テクニックなんかどうでもいいの、身も心も重なって満たしてくれる相手がいる人はさ、勝手にどんどんキレイになっていっちゃうものなのよ」
ぶはぁッ! と、アスカは口に含んでいたペットボトルのお茶をマリに向かって盛大に吹き出した。
「なんの話してんのよっ⁉︎」
「恋が人にもたらす副次的作用について解説してただけなんだけど、なんか変な想像した?」
こいつは……。
「で?」マリは眼鏡と顔にべったりついたお茶を拭きもせず、身を乗り出してアスカの耳元で囁いた。
「碇クンとは、どっちなのかにゃ……?」
アスカがここ数日シンジを強く意識していたのは、そんなことがあったからだった。
ー自分は、まぁ、後者だろう。
アスカは思う。
シンジとつきあうようになり、この部屋に引っ越してきてまだ半年も経っていない。
にもかかわらず、アスカの生活は信じられないほど充実していた。
シンジと帰る道。
夕食の他愛ないおしゃべり。
シンジが洗い物をする音だけが響く静かな時間。
何よりーシンジとつながっている時の、心も身体もとろけていくあの瞬間。
それらを知らずに今まで生きてきたことが信じられなかった。
「どう? 書けた、アスカ?」
アイスのカフェオレが入ったグラスをテーブルに置いて、シンジが手元を覗き込んでくる。
「あ、ごめん。読もうとしたわけじゃないんだ」
「いいよ、読んでも」
かわいらしい金魚のイラストが四隅に配置された便箋だった。「彼氏できたよ」という一文を、アスカは隠さなかった。
「書かない方がよかった?」
「ううん。すごく、うれしい」
その言葉が聞きたくて、わざとシンジに見えるようにした自分を、アスカはずるいとは思わない。
「包むのは任せて」
アスカが書き上げたヒカリ宛ての手紙をオルゴールに添えて、シンジは雑貨屋で一緒に購入しておいたラッピングペーパーで手際良く包んだ。どこでこういう技術を身につけたのか、シンジは時々妙に家庭的なところがある。
その間に、アスカはスマホで配送会社のホームページを開き、配達先の住所を打ち込んでいく。これで運送会社の営業所へ持ち込めば、勝手に送り状に宛名を印字して相手先へ届けてくれるのだから、最近は便利になったものだ。
ー鈴原ヒカリ、ね。
届け先の氏名欄に、アスカは危なげなく打ち込んだ。
だからだろう、なんの疑問も持たずに依頼主の項目に「碇アスカ」と入力しそうになったことに気づいて、アスカは思わず「ひぇ⁉︎」という妙な叫び声を上げた。
「? 大丈夫、アスカ?」
「だ、だいじょうぶ大丈夫。ちょっと打ち間違えただけだから」
「そう」ラッピングを終えたシンジが、アスカの手元のスマートフォンを覗き込む。
「なんでそんなに同じ文字打ち込んでるの?」
いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい。
「い? 式波の『し』じゃなくて?」
「ラッピングありがと! やり直すから座って待ってて!」
「?」
自分の分のアイスコーヒーを淹れてくるつもりなのだろう、シンジは小首を傾げながらキッチンへ向かった。
アスカは小さくため息を吐き出してから、少しだけ目を細めた。
シンジとのやさしい時間。
それに身を委ねるほど、ふっと言いようのない不安が胸を締めつける時がある。
別れをー。
予感するのはなぜだろう。
こんな時間は長くは続かないと、記憶の奥の何かが訴えかけてくる。
ー気のせい……か?
こんな熱情は最初だけで、いつかそれに慣れた頃、気持ちが冷めてしまうのではないかと怖いだけなのか。
アイスコーヒーのグラスを手にして戻ってきたシンジの右手に、アスカはそっと頬をすり寄せた。
「終わった、かな?」
「うん。ヒカリにもらったゼリーで、お茶しよう、シンジ」
「いいね。少し休憩したら、僕が荷物出してくるから」
アスカは小さく首を横に振った。
「一緒に行く」
「まだ暑いし、少し歩くよ?」
「いいよ。散歩したい」
恋の熱に浮かされて、今は片時も、離れたくない。
「帰り、薬局寄るけど、いいかな」
「買い忘れ?」
「お酒と、アイスに……その……」
「?」
「……アレ、昨日でなくなったから」
「……うん」
一服してからマンションを出ると、風が鮮やかに二人の頬をくすぐった。
「帰ったら、早めにお風呂に入って、ゲームでもしようか?」
お揃いのサンダルをつっかけて、ゆるく指先を絡めて手をつなぐ。
夕暮れには少し早い。
夏はもうすぐ終わるが、二人の季節は、まだ始まったばかりだった。