「えぇェェーッ⁉︎」
思わず大声を出してしまったアスカは、危うく耳と肩の間に挟んだスマートフォンを八割がた完成させたクリスマスケーキの上に落としそうになった。
「ちょっと、どういうことよ?」
《うん、だからね……ホームで猫が二匹逃げ出して、大騒ぎになってて、新幹線が動かないんだよ》
電話の向こうでシンジが申し訳なさそうにボソボソとつぶやいた。シンジが困り顔で頭をかいている様子が、アスカの目に浮かぶようだった。
シンジの説明によると、キャリーケースに隠して飼い猫二匹を新幹線のホームに持ち込んだ乗客がいるらしい。その猫が二匹ともホーム上でキャリーケースから逃げ出し、あろうことか線路内に侵入してしまって、駅全体が大混乱になっているということだった。
《きっと、どうしてもクリスマス・イブに連れ出したかったんだね》
呑気なことを言っているシンジに、アスカはますます声を荒げた。
「あんたバカぁ⁉︎ そのせいで、いつ運転が再開するかもわかってないんでしょ⁉︎」
《うん、まぁ……》
リビングのテレビ脇の置き時計に目をやると、午後五時を五分過ぎたところだった。
最悪だ。
シンジが出張先から新幹線で帰ってくるまで二時間はかかる。
「今から新幹線に乗るから、七時にはそっちに着くよ」その言葉を期待して電話をとったのに、これでは日付が変わってもシンジは帰ってこれないかもしれない。
《とにかく、新幹線が運転再開したらまた連絡するから》
「がんばってクリスマスケーキつくったのに、どうすんのよ⁉︎」
…とは、さすがにアスカも口にはできなかった。
《ホントに、ごめんね、アス……うわっ⁉︎》
「え? ちょっと、シンジ?」
アスカの問いに返ってきたのはシンジの声ではなく、「プー・プー」という冷たいコール音だった。
「もしもし? シンジ? シンジっ⁉︎」
急いでかけ直すが、「電波の届かない場所もしくは電源が入っていないため」繋がらない。
アスカは思わず拳を握り締めた。持っていた生クリームのホイップが先端から暴発して、アスカ渾身の手づくりケーキの上にボトボトと落ちた。
《懸念されていた雨はそろそろ止みそうですね。皆さん、これから雨は雪に変わるようですので、ホワイト・クリスマスをお楽しみくださいっ》
若い女性リポーターの浮かれた声をこれ以上聴きたくなくて、アスカはテレビの音量を絞った。消さなかったのは、電車の事故のニュースが流れるかもしれないと思ったからだ。
時刻は夜の七時になっていた。本当なら、そろそろシンジが帰ってきて、ここ数日ヒカリに特訓してもらった手料理とケーキをシンジに振る舞い、次の日は二人でクリスマスプレゼントの服や雑貨を買いに出かけるはずだったのだ。
「なにやってんのよ、あのバカ……」
アスカはこたつのテーブルを乱暴に叩いて立ち上がった。
その時、テレビが交通事故のニュースに切り替わって、アスカは思わずモニターを凝視した。
《……この事故で、乗用車を運転していた二十代の男性が意識不明の重体……》
アスカはテレビの電源をオフにした。
あれから、シンジからの連絡はなかった。スマートフォンで調べたネットニュースでは、シンジの言っていた通り、新幹線のホームで猫二匹が逃げ出した記事が出回っていた。その二匹の猫も無事に保護されて、さきほど新幹線が運転を再開したという情報も見た。映像で見た駅のホームは人でごった返していて、おそらくシンジはあの時携帯電話を落としたか何かで、こちらに連絡がとれないのだろう。
シンジだって子供ではない。自分が今すべきなのは、予定通り晩御飯を作ってシンジの帰りを待つことだ。もし今時分新幹線に乗れていたとすると、ちょうど自分が料理を作り終わる頃には帰ってくるかもしれない。
エアコンのクリーニングも済み、こたつもある室内は暖かったが、シンジのいないリビングはがらんどうのようだった。
頭を冷やした方がいい。
いたたまれなくなって、アスカはリビングを出た。ふらふらと洗面所へ入ると、鏡の下に置いてある二人お揃いの歯ブラシとコップが目に入る。隣の洗濯機の上には、壁にシンジのメモがマスキングテープで貼り付けてあった。
《アスカへ
下着とタオルはすすぎ一回にして、普通の洗剤と柔軟剤で洗ってね。
アスカのお気に入りの服は、ドライにしておしゃれ着用の洗剤で洗うこと。
面倒でも毎日洗濯して干すようにしなきゃだめだよ。
シンジより》
アスカは口をへの字にわななかせて、鼻水をすすった。
※
ホームの端で仁王立ちしているその女性は、新幹線の到着を待つ乗客たちの注目の的だった。
スタイルの整ったブロンドヘアーの美人だが、燃えるように赤いダッフルコートはとにかく目立っていた。だが、サンタクロースではなさそうだというのが大方の乗客たちの感想だった。
なにしろ、一番後方の乗車位置よりもさらに後ろにある柵の手前に立ち、線路の先を睨み付けるようにして両手をポケットに突っ込んでいるのだ。まるで、新幹線という獲物がやってくるのを待つ空腹のライオンのようだった。
興味深そうに彼女を観察していた乗客たちも、やがて新幹線がやってくると乗り込んでホームからいなくなる。だから彼らは誰一人、彼女が二時間以上もそうしていることを知らなかった。
ー次で最後……。
カップルや家族連れがホームを去っていくのを見送りながら、アスカはすっかり白くなったため息を吐き出した。
帰ってこないかもしれない。
やはり、何か事故があったのかもしれない。
嫌な考えが頭にこびりついて、時間が経つのを遅く感じさせた。
人気の少なくなったホームに、上り線の最終列車のアナウンスが響く。やがて減速した新幹線が線路の先に見えた時、アスカは先頭車両の一番前の乗降口に目を凝らした。
シンジなら、きっと、席に座ったままなんていう悠長なことはしない。乗っているなら、私を探しているはずー。
「……っ!」
刹那の会合を、アスカは見逃さなかった。目が合ったーそう感じたのは、自分だけではないはすだ。
アスカはホームに滑り込んできた新幹線の先頭車両を追いかけるように走り出した。
到着のメロディの後、クリスマス・イブ最後の乗客が乗車口から溢れ出してくる。途方もない人の数だ。ホームで抱擁するカップルや家族をステップを踏むように避けながら、それでもアスカは走る速度を緩めなかった。
苦しい。
息が切れる。
人混みで溢れるホームの遥か向こうから、ひょこひょこと頭を上下させてこちらへかけてくる人物が見えた。
慣れないトレンチコートを着ている、それが彼だと、アスカにはすぐにわかった。その瞬間、アスカは自分の身体が軽くなったのを感じた。
「アスカ……ッ!」
ホームのちょうど中央で、アスカとシンジは立ち止まり、向かい合った。
キャリーケースを抱えるように走ってきたシンジは、アスカよりもさらに息切れした様子で肩を上下させていた。
しばらく無言で向き合う。
到着した新幹線はすぐに走り去って、乗客の姿は徐々にまばらになっていく。息を整えながらシンジはアスカを直視したが、アスカはずっと俯いたままだった。
「ごめん、アスカ。本当に、ごめん……」
シンジが電話を切ろうとした時、後ろから派手に追突してきた男性に押し飛ばされて、シンジは携帯電話を離してしまった。放り出された携帯電話はホームですし詰め状態の乗客の上をきれいな弧を描いて滑空し、自販機の角に激突して機能を停止した。人に当たらなかっただけでも良しとすべきなのかもしれないが、画面が砕けたスマートフォンは電源が入らず、使い物にならなくなっていた。
「……それから、駅員さんが猫を捕まえるためにみんな改札の外まで追い出されちゃって。公衆電話を探そうと思ったんだけど、乗車券の取り直しが始まって、すぐに並ばないと今日中に帰れないと思ったから……」
シンジは必死で弁明したが、アスカは何も返さず、俯いたままだった。
ーそりゃあ、そうだよな……。
ふいに、アスカが手を振り上げた。殴られる、とシンジは思ったが、身構えることはしなかった。今夜はクリスマス・イブだ。駅の構内からホーム、なんとか乗り込んだ最終の新幹線も乗車率は限界値を超えていて、車内の移動すらままならない状態だった。それならいっそホームですぐにアスカを探せるように先頭車両の乗車口に陣取ったのだが、そこまで言い訳をするつもりはなかった。
ぽすんーと音が鳴って、シンジは顔を上げた。
振り上げられたアスカの腕は、シンジの胸元にゆるゆると着地していた。アスカは俯いたまま、何度もぽすぽすとシンジの胸のあたりを力なく叩く。
「アスカ……」
ぽすぽす。
「ごめんね」
ぽかぽか。
「心配した?」
アスカはシンジの胸に額を預けて、頷いた。
「帰ってごないと思っだ……」
涙や鼻水を拭くよりも、抱きしめてあげたいとシンジは思った。
シンジはアスカの泣き顔が自分にしか見えないように、体全体でアスカを抱き寄せた。
そこですぐに、異常事態に気づく。
アスカの頬や耳、両手の指先まで、氷のように冷たくなっていたのだ。
どれほどの時間、ここで僕が来るのを待っていてくれたのだろう?
「わだじ…シンジがいなぐなったら、ど…どうしようって……」
シンジはキャリーケースからマフラーを取り出して、アスカの首にぐるぐる巻きにした。それからイヤーウォーマーもアスカの頭に付け、近くのベンチに座らせる。
「あったかいもの、買ってくる」
スチール缶よりもペットボトルの方が火傷しないだろうと判断して、ホットのお茶にする。シンジは戻ってアスカにペットボトルを両手で握らせたが、かじかんでいるのか、すぐに落としてしまいそうだった。
「となり…が、いい。シンジの、て…手が、いい……」
シンジが隣に腰掛けると、アスカは自分の顔を彼のうなじに預けた後、猫のように頬をすり寄せた。
シンジは、ペットボトルを持つアスカの手を包み込むように自分の両手を重ねた。
少しずつ、アスカの気持ちがあたたまって、落ち着いていくのがシンジにはわかった。
「今日中に帰ってこられてよかった」
アスカは、今度はしっかりと頷いたが、頬を伝う涙は止まることがなかった。
ーあぁ……。
その瞬間、シンジはほとんど衝動的に、キャリーケースの奥で大切にしまっておいた小さく四角いその箱のリボンをほどいて取り出していた。
本当は、帰ってから、アスカが作ってくれた晩御飯とクリスマスケーキを食べた後に渡すつもりだった。その時間まで我慢できなかったのは、二人にとって初めてのクリスマスを、このまま悲しい思い出にしたくなかったからだ。
「式波・アスカ・ラングレーさん」
シンジはアスカの前に片膝をついた。
「……?」
涙のせいで、普段は勝気なアスカの目尻がふにゃふにゃに下がってしまっている。
愛おしい。
誰にも渡したくない。
シンジは、後ろ手に隠していたその箱をアスカの顔の前まで持ち上げ、両手で上開きのふたを開いた。
誰に見られたって、かまうもんか。
一生に一度だけ。
心の底から。
格好をつける瞬間があったっていいはずだ。
「僕と……その……。僕の……っ」
その時、逆側のホームに下り線の最終列車が滑り込み、到着のメロディとアナウンスが鳴り響いて、シンジの言葉を遮断した。
「……さんに、なってください」
それでも、アスカには確かに聞き取れた。
「え……?」
きょとんとするアスカに、シンジは困った顔で小首を傾げる。
「ふぇ……ええええええぇぇぇぇぇぇェェェェェェーッ⁉︎」
アスカの絶叫が、ホーム中にこだました。
アスカの顔が、着ているダッフルコートと見分けがつかないくらい真っ赤に染まっていく。全身から蒸気機関車の汽笛のような湯気が立ち昇り、シンジが両手であたためる必要はもはやなかった。
「バカぁーッ!」
改札口から女性の絶叫が響き渡り、駅構内のそこかしこで談笑していたカップルやほろ酔い気分の団体が何事かと振り返った。
「バカっ! バカバカッ! バカぁーッ!」
器用にキャリーケースを小脇に抱えて牽引しながら、雄叫びを繰り返す女性をおんぶした線の細い男性が改札を抜けてくる。
背中の女性は真っ赤な顔でとんでもない回数の「バカ」を連呼し、それだけでは足りないのか、男性の首筋にガジガジと噛みついているように見えた。
なんだ、痴話喧嘩か。
今夜はクリスマス・イブだ。大目に見ることにした大衆は、興味を失ったようにそれぞれの会話へ戻っていった。
「ごめんってば、アスカ」
「なぁ・ん・でっ! あんなところで言うかなッ⁉︎ 信じらんないッ!」
アスカの怒声は、力が抜けて立てなくなった彼女をシンジがおんぶしている事実と矛盾しているが、シンジは口には出さないことにした。
「どうしても、我慢できなかったんだ」
首に回されたアスカの両手の温度がさらに上昇した。
「バカっ! バカシンジッ! もう知らないっ!」
アスカはシンジの襟足に顔を押しつけると、それきり黙りこくってしまった。
駅を抜けて、バスのロータリーへ出る。
「あ……」
シンジは思わず立ち止まって空を仰ぎ見た。
予報通り、夜空からやさしい粉雪が降り注いでいた。ひらひらと漂う無数の雪の結晶が、駅前に密集したビルや商業施設のネオンサインに反射しては儚く消えていく。
今夜、街は眠りにつかないだろうが、二人の居場所はここではなかった。
夜は長い。簡単なものでいいから、帰り着いたらすぐに何かおいしいものをつくって、アスカのクリスマスケーキが食べたい。
ーアスカを、あたためてあげたい。
「ほら、雪だよ、アスカ?」
アスカは顔をシンジの背中に押しつけたまま、ただコクコクと頷いた。
「アスカのクリスマスケーキ、食べたいな」
「……だめ」
「どうして?」
「生クリーム爆発させて、失敗した」
シンジはやさしく苦笑した。もし両手が自由だったら、すぐに振り返ってアスカを抱きしめただろう。
「全部食べたい。ずっと、楽しみだったんだ」
「……きれいなの、食べさせたかった」
「また来年、作ればいいよ。再来年も、その次の年も、二人で作ろう」
「うん……」
駅の外れのコインパーキングで、シンジは思わず「うわぁ……」と唸った。駐車してある二人の愛車、赤いクラシックミニのバンパーやドアの側面が擦り傷や凹みでボコボコになっていたからだ。
「抱っこがいい」
「え?」
「抱っこ」
アスカをおろし、シンジが後部座席にキャリーケースを積み終えた時、アスカは上目遣いで駄々をこねた。
「いや、でも……車、すぐそこ……」
「だっこっ」
降参したシンジは、助手席のドアを開けてからアスカをお姫様抱っこした。ホームでは平気だったのに、今は周囲に人がいないか気になってしまうのは、アスカが自分にしがみついて頬をすり寄せてくるからだ。
慎重に助手席へアスカを座らせる。シートベルトを締めさせようと自分も中に乗り込んだ時、突然アスカが左手を伸ばしてドアを閉めた。
「え……?」
アスカの両手が、シンジの頭をなでるように包み込む。鼻先をシンジのうなじに埋めて、吐息を吹きかける。
「アスカ……」
キスを我慢して、アスカは助手席のシートを後ろに倒した。
「さっきの……ちゃんと、もう一回言って」
「うん……」
二人は互いに抱きしめあいながら、ゆっくりとシートに倒れ込んだ。
唇が深く結びついて、同時に身悶えする。
雪と街灯に反射して、アスカの左手薬指のエンゲージリングがやさしく光っていた。