「うそ……マ、ママ⁉︎」
アスカは玄関のドアを開けて目を見開いた。
《到着したわよ〜♪》
というスマートフォンのメッセージ画面と、玄関の前に立つ女性を交互に見比べる。
金髪のロングヘアーの毛先が緩くカールしている。垂れ目がちな目元がおっとりとした印象を与えるが、紅く艶やかな唇は加齢による衰えをまったく感じさせない。この年齢で真っ白なワンピースを違和感なく着こなせるのはこの人くらいのものだろう。
歳をとるって概念はないのか……。
お風呂上がりで乾かす前のアスカの髪先から、冷や汗のように雫がポトリと落ちる。
「日本に帰ってくるの、来週じゃなかったの?」
「あら、今週って連絡入れなかったかしら?」
キョウコは頬に人先指を当てて小首を傾げた。その仕草は少女のように鮮やかで、かつキュートだった。
天然なのか何か狙いがあるのか、アスカは計りかねた。
「愛する娘の顔をわざわざ見に来たのに、入れてくれないの?」
「そんなことないけど……」
アスカは玄関のドアを開いて、キョウコを招き入れた。しかし、キョウコが靴を脱いで敷居を跨いだ時、自分が入浴直後であることを思い出して「しまった」と悪態をついた。
「ママ、あの、ちょっと待って……」
「アスカ、タオルまだなんだけど、何かあった?」
ほとんど乾いちゃったよ……と小言をもらしながら、裸のシンジが浴室から顔を出した。
いや、顔どころか、全身だ。しかしシンジとアスカの二人暮らしなのだから、裸で洗面所から出てきてもなんらおかしなところはない。二人の日常の風景である。
「あら……」
キョウコと視線がぶつかり、シンジの目が点になる。キョウコの目線がシンジの下半身へ下がったのと、シンジのか細い悲鳴が廊下に響き渡ったのはほとんど同時だった。
それは奇妙な光景だった。
アスカがキッチンに立って夕食を作り、リビングにあるこたつにはシンジとキョウコが対面で腰を落ち着けていた。
アスカはすでにかなり不機嫌だった。
キョウコが突然来日の日程を一週間繰り上げて訪ねてきたことで、アスカはお風呂上がりのドライヤーを自分でする羽目になった。髪をシンジに乾かしてもらいながらする他愛もない会話は、週末の楽しみのひとつなのに……。
その髪のドライヤーも、キョウコは夕食前に入浴を済ませた後、なぜか自分の髪をシンジに乾かさせたのだ。
「え? ぼ、僕ですか?」
「だめ? アスカの髪はいつも乾かしてあげてるんでしょ?」
お風呂上がり、キョウコはシンジの顔を覗き込むように艶かしい声で見上げた。
先日電話で迂闊にもプライベートなことをベラベラ喋ってしまった自分を、アスカは呪った。
「アスカだけは、特別?」
アスカはとてつもない怨嗟の眼差しでシンジを睨んだが、シンジが折れた。
結果、キョウコはサラサラになった髪先を指で弄びながら、お風呂上がりのシンジ自家製レモネードを楽しんでいるというわけだ。そのレモネードだって、本来はシンジが私のために用意してくれたお風呂上がりの楽しみなのにっ! ……という言葉を、アスカはかろうじて飲み込んだ。
そもそも、来日の予定日を言い間違えたのもわざとに違いないのだ。きっと、娘の恋人を抜きうちで品定めするつもりなのだろう。
「自慢の手料理をご馳走するから」と大見栄をきったことも裏目に出た。本当はこれから一週間かけて、シンジにキョウコの口にあいそうな料理の特訓をしてもらうつもりだったのだ。
「あの……玄関では、お見苦しいところをお見せしてしまって、申し訳ありませんでした」
シンジが深々と頭を下げる。
「あら、悪いのは突然お邪魔した私の方なんだから、気にしないでね」
シンジにとって、キョウコはイレギュラーな存在だった。シンジの記憶の中に、キョウコとの接点がないのである。存在しなかったのか、別の何者かだったのか、そういう世界も存在した。
特異点。
そんな言葉を、シンジは頭の中から追い払った。大事なのは、彼女がアスカの大切な人だという事実だけだ。
「あの子、仕事の方はどうなのかしら?」
キョウコが何か喋る度に、アスカの背中がぎこちなく固まる。
「すごいですよ。仕事中に休んでいるのを見たことがないんです。ずっとテキパキ動いている。会社でアスカさんの名前を知らない人間は見当たらないと思います」
アスカがチラリとシンジの方を振り返る。ジト目だったが、目尻が少し下がっていた。
「あの子、昔から全部自分でやろうとして孤立するようなところがあったから心配だったんだけど、うまくやってるのね。あなたのおかげかしら?」
「アスカさん自身の努力の結果ですよ。毎日、僕も学ばせてもらうことが多いです」
「ね、ママ? だから心配しなくても大丈夫って言ったじゃない」
アスカは包丁を置いて振り返ると、得意げな顔で両手を腰に当てた。
「家事も全部アスカがこなしてるのかしら?」
「そうよ。シンジにはいつも楽させてあげてるんだから」
おいしい晩御飯作るから待っててねーと、アスカは再びキッチンの方へ向き直った。
“私はずっと一人で平気なんだから”
いつか、子供の頃のアスカの姿がキョウコの脳裏をよぎる。
キョウコは笑顔のまま、シンジをそれとなく観察した。
線が細く、やさしそうな男の子だ。悪い言い方をすれば、なよっとしていて頼りない。アスカがこういう男性をパートナーに選んだことが、キョウコには意外だった。
人当たりの良さを隠れ蓑に、他人との距離をとるタイプだろう。拒絶することで他人との距離をはかるアスカとは、ある意味で正反対で、ある意味では似ている。
《話があるの、ママ》
アスカから電話があったのは、年も明け、二月も終わりに差し掛かった頃のことだった。
《私……私ね、好きな人ができたの》
鉄人のような人生を歩んできたアスカの口からそんな台詞が飛び出した時のあの衝撃は、一生忘れられないだろうとキョウコは思う。
《ちゃんと準備が整ったら、私たち…け、けっこ、ここ、こ……》
《大丈夫? ネジ巻いてあげようか?》
《結婚しようと思ってるのっ》
「……シンジ君って、呼んでいいかしら?」
キョウコは姿勢を正してシンジを真正面から見据えた。
「はい」
「アスカのどういうところが好きなの?」
アスカの背中がビクッと大きく跳ねた。
シンジも正座で座り直して、キョウコにまっすぐな視線を返す。
意地悪な質問だなーとキョウコは思う。
それでも、「全部」などという安っぽい台詞を返してきたら、後でアスカに結婚を考え直すよう進言してもいいかとも思った。
「すいません……とても、一言では言いあらわせません」
ーあら……。
「こんなに自然にずっと一緒にいられる人は、他にいないんです」
包丁を振り上げたまま固まっているアスカの頭から熱々の湯気が立ち昇っていることに、シンジは気づかない。
「アスカはいつも強気で……でもその分、いろんな寂しさを知っている人だと思います。僕も、寂しがり屋なので……支えてあげたいし、僕のことも支えてほしい。二人で一緒に、いろんなことを感じて生きていきたいと思っているんです」
アスカは頭頂部から見事に沸騰し、彼女が包丁をゆるゆると振り下ろした音と、その切っ先が指に触れて短い悲鳴が上がったのはほとんど同時だった。
「アスカッ⁉︎」
シンジの行動は迅速だった。跳び上がるようにこたつを抜け出すと、キョウコがひとつ瞬きをした後には、もうアスカの横に立っていた。
幸い傷は浅かったが、人差し指から血が出ていた。
「深くない……よかった」
シンジはテレビ脇の救急箱から絆創膏を取り出し、アスカの指をシンクの水道で丁寧に洗ってから傷口に巻きつけた。
それでもアスカはプルプル体を震えさせたまま、泣き出しそうな顔でシンジを睨みつけた。
「……………っ」
「まだ痛い?」
「違うわよ、バカシンジっ!」
「え?」
「親の前で堂々とのろけるなって言ってんのっ! 恥ずかしいっ!」
「そんな……。でも、僕がアスカを大切に思ってるのはホントのことだし」
アスカの顔がさらにゆでダコのように紅潮した。
「だぁかぁーらぁーっ! そういう台詞を恥ずかしげもなく言うなっちゅーのっ!」
「ふふ……」
キョウコの笑い声で、アスカとシンジは同時に振り返った。
「貴重ね。こんなアスカ、初めて見た」
“全部自分でできるようになるの。そしたらママにだって心配かけないで済むでしょ?”
“誰かに頼って生きるなんて死んでもイヤ。一人で生きられるようにならなきゃ”
キョウコがクスクス笑い続けるので、アスカとシンジは顔を見合わせた。
「ごめんね、二人とも。私きっと、うれしいのね」
「?」
「シンジ君のこと、好きになったみたい」
「な…⁉︎」アスカは通せんぼをするようにシンジの前に体を滑り込ませた。「シンジは絶対ダメっ!」
「あぁ、ちがうちがう。あなたってホントに、恋愛方面の偏差値だけ著しく低いのね」
あとーとキョウコは続ける。
「料理の偏差値もかな?」
う……とアスカは言葉に詰まった。確かに、シンジがのろけなくても、アスカが包丁かフライパンあたりで怪我をしていた可能性は高い。
「アスカ、夕食は僕が引き継ぐよ」
「でも……」
「遠いところからお母さんが来てくれたんだから、アスカはゆっくりお話ししててよ。せっかくだからキョウコさんに僕の作った料理食べてほしいし、二人でのんびり待っててくれる方が、僕もうれしい」
「うん……」
「ねぇねぇ、シンジ君。さっきのもう一回言って?」
「え? 僕の作った料理食べてほしい、ですか?」
「その前その前」
「えーと……おかあ、さん?」
きゃーっ! と、キョウコは両手で自分を抱きしめて身悶えした。
やはり掴みどころがない。シンジは、この感覚をどこかで知っている気がした。
しばらく談笑した後、キョウコが手土産で買ってきたボトルの白ワインを開けることになった。
キッチンでフィットチーネパスタのカルボナーラやタコとアボカドのマリネを調理しながら、シンジは少しだけリビングの方を振り返った。
仕事や休日の出来事を話しながら、アスカは何度もキョウコに満面の笑顔を見せた。その姿は、十四歳のあの頃のアスカを彷彿とさせた。
ーアスカに、キョウコさんがいてよかった。
瞬間、そこに自分と母や父の姿が重なって、シンジは眩しそうに目を細めた。
大丈夫。
泣いたりしない。
昔みたいに、卑屈になる必要もない。
ー自分には、そんな資格はない。
「シンジっ。ママがシンジの料理、楽しみだって」
「それは、責任重大だね。がんばって白ワインに合うパスタを作るよ」
キッチンに立っていてよかった。変な顔をして、アスカを心配させなくて済む。
シンジは台所に向き直ると、料理が終わるまで、アスカとキョウコの方を振り返らなかった。
※
「二日酔い? 大丈夫?」
娘の声が遠くから聞こえて、キョウコは目を覚ました。
残念ながら、それが自分に向けられた言葉ではないことはすぐにわかった。薄く目を開けた時、娘は恋人とキッチンで向かい合っていたからだ。
「う〜ん……ちょっと、酷いかも……。頭がガンガンする」
「ママ、お酒強いから。よく深夜まで付き合ったわね」
シンクにしがみつくようにして立っているシンジの頭を、アスカはよしよしとなでた。
面白そうなので、キョウコはしばらく寝たふりを決め込む。昨夜はソファーに倒れ込むように寝てしまったはずだが、よく見ると上等なマットレスの上で横になっていて、厚手の毛布までかけられていた。
『ぼぐは……あすかを、まもっていきだいんですっ』
昨夜のことを、キョウコは思い出していた。
夕食の後、お酒の飲み比べを提案したのはキョウコだった。最初にダウンしたのはアスカで、そのアスカをシンジが抱き上げて寝室まで運んでいったのはよく覚えている。
そこから、酔っ払ったシンジの饒舌っぷりは凄まじかった。夕食前にキョウコが問い正した「アスカのどういうところを好きになったのか?」という質問に対して返した「一言では言いあらわせない」部分を、二時間近く喋り続けたのである。
曰く。
アスカと出会ったから、他人といることも悪くないと思えた。
アスカが人知れずがんばっている姿を見ると、自分もがんばろうと思える。
自分だけに見せる脆い部分が愛おしくてたまらない。
好きで……。
好きでたまらない。
支えてあげたい。
支えてほしい。
もう二度と、離したりしないー。
『おがあざんっ! ぼくがどれぐらいあすかのことがすっきか、わがりますかっ⁉︎』
お互いにへべれけな状態で顔を突き合わせながら、それでもシンジはキョウコをまっすぐに見据えて熱弁した。
『もう充分すぎるくらい伝わったけど……』
『いいえっ! わかってませんっ。もじっ! もしですよ⁉︎ うちゅうがらつきがおちてきても、ぼくは……あすかのためなら、りょうででうけとめてはじきどばすごとだってやっでみせますっ!』
なんだか、本当にやってしまいそうだな。
深く酔っていたのだろう、夢見心地の気分の中、この男の子はアスカのためなら、世界まで変えてしまいそうな気がした。
「朝食、手伝うよ」
「ありがと」
あら……とキョウコは感心した。
昨夜は料理をギブアップしたアスカが、こりもせずフライパンを握りしめている。
シンジは、しかし簡単なアドバイスだけをしてコーヒーとサラダの準備に取り掛かった。
アスカはフライパンを火にかけ、ボウルの溶き卵を流し込んでいる。シンジがレタスを洗い、きゅうりを包丁で切り終えた頃、アスカは「できたっ」と声をあげた。
かわいらしいアンティーク調のプレートにアスカが盛りつけたのは、きれいなドーム状に仕上がったふわふわのオムレツだった。
「すごい、アスカ」
「へへー、どうよ。私だって本気出したらこれくらいはね」
「ちがうよ」シンジはアスカの頬を親指でそっとなでた。「お母さんが来るってわかってから、ずっとコツコツ練習してたアスカの努力の成果だよ」
シンジの親指が触れた場所からアスカはみるみる赤くなり、ゆるゆるにはにかんだ。
こんなにやさしくおだやかにほほえむアスカを、キョウコは初めて目にした。
どちらかが無理をするのではなく、気を遣い合うのでもなく。
子供の顔も、恋人としての表情も、全部見せても構わないくらい。
娘は、同じ歩幅で歩ける人と巡り会えたのだ。
ーまぁ……。
キョウコはそっと寝返りをうって目を深く閉じた。
キッチンで、二人が顔を近づけなければならない調理過程は存在しない。しかも、そっと背伸びをしたのはアスカの方からだった。
ー親の前で堂々とのろけるなっ! ねぇ……。
見なかったことにする代わりに、今日は夕方出立するまでたっぷりショッピングに付き合ってもらおうと思うキョウコだった。