夢を見ていた。
いつも見る夢とは少し違う夢。
男の子が自分をどこか遠い場所へ送ってしまう悲しいあの夢のーこれは続きだろうか。
赤い浜辺に、男の子が一人、座り続けている。
私は彼に声をかけるけど、ニコニコ笑顔を向けるだけで、全くその場所から動こうとしないのだ。
そのうち、私は怒り出す。涙を流して怒鳴り散らす。するとますますその男の子はほほえんで、私の頭をやさしくなでてくれる。
違うーと私は叫ぶ。
泣きたいのは、寂しいのは……本当は、その男の子のはずなのに、子供の私は自分のことばかり叫んでいる。
どうすれば、この男の子の心をとかせるだろう。
そばにいたいのに。
ずっと答えは、出ないままだー。
※
寝ぼけたシンジが自分を抱きしめている。
心地良いまどろみの中、今朝は当たりだなーとアスカは思った。
腕枕をしながら、シンジが安らかな寝息を立てていた。
ーそういえば、シンジが本気で泣いたり怒ったりしてるとこって、見たことないな。
映画を見て泣くことくらいはあるが、自分の前で大きく感情を露わにしたのは、初めてのデートでキスをした時くらいではないだろうか。
ーあとは……裸で抱き合って感極まったあの瞬間ーくらい?
そんなことを思ったのは、きっとさっき見た夢のせいだろう。
ーやさしいし、いいんだけど。
シンジの頬をぷにぷにと人差し指でつついた後、彼を起こさないようにそっと腕枕を外す。そうして唇をたっぷり十秒間奪ってから、アスカは起き上がった。
大きく伸びをし、カーテンの隙間から外を覗き込む。待ち望んだ三連休の初日はあいにくの曇り空だが、いつもは早起きのシンジが寝坊をして無防備な寝顔を拝むことができた。悪くない朝だった。
アスカはフローリングの床に脱ぎ捨てられているシンジのシャツを着込むと、彼の頬をなでてから寝室を後にした。
「あ……」
それは、全くの思いつきだった。
本当はシンジが起きてくる前にキッチンで朝食の準備をしようと思ったのだが、シンジの自室のドアが薄く開いているのを見かけて、覗き込んでやろうと思ったのである。
朝目覚めた時、寝室にシンジがいないことがままある。今朝のように、アスカが先に起きることは非常に珍しい。
ーそりゃあまぁ、昨日はがんばったもんね、シンジ。
アスカはもくもくと頭上に浮かび上がった昨夜の甘く激しい情事の回想を、パタパタと両手であおいで追い払った。にやけた顔を引き締める。
アスカが遅れて目覚めた時、大抵シンジはベッドの脇に座り込んで本を読んでいるか、そうでなければ朝食を作っているか掃除洗濯をしているかのいずれかだったが、どうもその前に、自室にこもって何かしているらしいことが最近わかってきた。
自室で朝っぱらから何をしているのか、アスカの方から訊いたことはなかったが、教えてくれないのも癪に触る。私というものがありながら、もしもパソコンのネットでいやらしいサイトでも見ていようものなら暴露してやろうという心積もりだった。
ドアを押し開けて中に入る。
シンジの部屋は簡素に整っていて、仕事用に購入したデスク上のノートパソコンと、他には窓際の壁に設置された本棚しかなかった。書類や食べかけの袋菓子が散乱している自分の部屋とは雲泥の差である(それもシンジが週に一度の掃除できれいに整えてくれるのだが)。
シンジの部屋には、大切なものがない。
それはアスカが、シンジと生活を共にするようになってからずっと気になっていることだった。
アスカとシンジは、休日はいつも一緒だった。自宅でのんびりする時も、買い物に行く時も必ず一緒に行く。それが自然にできるのはしあわせなことだと二人とも知っているので、それはいいのだが、どうもシンジには友人もいないようなのである。
アスカも交友関係が広い方ではないが、ヒカリやマリとランチを食べに行くようなことはある。シンジには、そういう友人すらいないのだ。会社帰りに飲みに行くようなこともない。ヒカリに紹介したいと伝えた時も、シンジは困った顔をするだけだった。
ー特に何もなさそうね。
アスカは本棚に目を通して、あるタイトルの本の前で立ち止まった。
「失われた時を求めて……」
フランスの古い小説家、マルセル・プルーストによる「世界で最も長い小説」。名前のない主人公の《私》が、自身の幼少期に遡って無意識的記憶の感覚を追い求めていく、気の遠くなるような物語の、その第一巻。
気になったアスカは、分厚いその本に指をかけた。二巻以降も本棚には並んでいたが、その一巻だけ、天の部分の埃が少なかったからだ。
手前に引き抜くと、奥にもう一列本が並んでいることがわかった。よくよく観察すると、本棚自体の奥行きが深い。今まで気がつかなかった。
アスカは奥に隠されていた本も引き抜いた。それは実際には本ではなく、分厚い雑記帳のようだった。明らかに使い込まれているのが、よれた見た目と感触でわかる。
アスカは何気なく前の方のページを開いた。
その時だった。
「え……?」
それらを目にした瞬間、アスカは大きく目を見開き、小脇に抱えていた第一巻をフローリングの床に落とした。
目が覚めた時、シンジはすぐに異変に気がついた。
「アスカ……?」
彼女の気配がない。
シンジは飛び起きると、寝室を飛び出してアスカの部屋のドアを開けた。ノックも声掛けもしなかったのは、そこにアスカがいないと心のどこかでわかっていたからだ。
部屋に入ると、先日旅行用に購入したキャリーケースがなくなっていることがすぐにわかった。洋服箪笥やカラーボックスが乱雑に開けられたまま放置されており、衣服を持ち出した形跡がある。
心臓が早鐘を打った。
まさか。
シンジは自分の部屋へ移動した。
本棚の下に、プルーストの第一巻が落ちている。そして、それが本来収められていた場所の奥に隠してあった“アレ”がなくなっていた。
「そんな……」
息ができない。
目の前が暗転を繰り返す。
ふらふらと寝室に戻って、枕元のスマートフォンを手に取る。
《しばらく留守にするから、探さないで》
アスカからのメッセージに、シンジは胸を押さえて後退り、背後の壁に力なくぶつかった。
「いらっしゃい、鈴原さん」
マリが玄関のドアを開けて招き入れると、鈴原ヒカリは心配そうな表情で奥を覗き込んだ。
「アスカ、大丈夫ですか?」
「まぁ……愛の試練、なのかなぁ……」
マリは苦笑しながらヒカリを部屋の奥へ通した。一人暮らしの狭い部屋だ、キッチンが一体になった縦長のリビングの奥で、アスカが三角座りの膝に顔を埋めて座り込んでいた。
「大丈夫、アスカ?」
中学校以来の親友の来訪である。顔を上げたアスカを見て、マリはほっと小さく安堵のため息を吐き出した。
「ヒカリこそ……子供置いてきて大丈夫なの?」
「今日はトウジが遊びに連れ出してくれてるから、心配ないよ」
トウジ、という名前に、アスカは明らかに反応して表情を曇らせた。
その様子を見て、マリは確信した。
ー姫は、記憶を取り戻したんだ。
土曜の早朝にアスカが訪ねてきた時、マリは牛乳をたっぷり注いだグラスを片手に玄関で立ち尽くした。アスカの傍らに置かれたキャリーケースが、碇シンジと何かトラブルがあったことをマリに予想させたが、直後にアスカが言い放った一言でその考えを改めた。
「しばらく泊めてよ、
事態はもう少し複雑なようだ。
アスカは部屋にあがり込むなり、部屋の奥にうずくまってずっと外を見ていた。朝食も勧めてみたが、答えがない。
マリは半熟卵を乗せたカリカリ焼きの厚切り食パンをガツガツと口に放り込み、グラスの牛乳を一気に喉へ流し込んだ。最後にシリアルをかけたアロエヨーグルトで〆る。とにかく食べなきゃ始まらない。
エヴァに関わりを持った人間が記憶を取り戻した事例は、これが初めてだった。おそらく、アスカの中では今記憶の混濁が起こっている。いずれ落ち着くだろうが、なにしろ二十八年分の記憶が突然フラッシュバックするのだ。しばらくは精神への負担が大きいだろう。これを恐れて、シンジはかつて親しかった人間への接触を極端に避けていた。
「それで、姫? せっかくの週末なのに、碇クンとケンカでもしたの?」
アスカは一瞬だけマリに視線を投げかけた後、キャリーバックを指差した。
「開けていいの?」
「ご自由に」
キャリーバックのジッパーを開くと、無造作に放り込まれた洋服や下着の中から、一冊の本が出てきた。いや……本というよりは、分厚い日記帳のようだった。
一ページ目をめくると、表紙の裏側に碇シンジのサインがある。そのまま数ページ読み進めて、マリは顔を引きつらせた。
ーなるほどね……。
そこに書き記されていたのは、碇シンジの手記だった。
理由も聞かずに訪ねてきてくれたヒカリのおかげで、アスカは少しだけいつもの強気な調子を取り戻した。
マリは出前の寿司、ピザの他に、近所のコンビニで大量のビール、チューハイとお酒のあてに、スナック菓子まで買い込んできた。女子会と称して、昼間から飲もうという魂胆だった。
とにかく食べなきゃ始まらない。
「……もうね、大変だから、子供って」
最初に酩酊したのはヒカリだった。子育ての疲れが溜まっていたらしい、泣き出しそうな顔でアスカの肩に自分の頭をグリグリと押しつけている。
「食べたいっていうからわざわざ材料まで買ってきて作ったオムライスは食べないし、ホットケーキがおいしいっていうから何枚も焼いて冷凍しておいたのに次の日からは食べなくなるし、結局トウジの作ったお好み焼きが一番おいしいっていうし、もうなんか嫌になっちゃう」
「鈴原のバカは、ちゃんと育児してるの?」
「してくれてるよ。ありがたいことに。てもそれでツバメがパパ大好きで離れないから、なんかトウジのこと取られちゃって二人の時間が減ってちょっとばかやろーって感じ。普通逆じゃない? 子供に奥さん取られて、旦那さんの方が嫉妬するのが普通じゃない?」
ヒカリの目は据わっていた。
アスカがまぁまぁとなだめている時、マリのスマートフォンにメッセージの着信があった。通知先を見たマリはぎょっとして、画面をアスカから見えないテーブルの角に移した。
《アスカがそちらにお邪魔していませんか?》
ヒカリとお喋りに興じているアスカを盗み見て、マリはすばやく返信を返した。
《ワタシのところには来てないよ。痴話喧嘩? もし連絡あったら教えるね》
ふむ。
マリは鼻息を吐き出した。
マリは床の隅に無惨に転がっているシンジの日記帳を拾い上げた。ヒカリが訪ねてくる前、アスカに返そうとしたら、彼女が壁に投げつけたのである。
まぁ、投げつけたくなる気持ちもわからなくはない。
そこに書かれていたのは、シンジが十四歳の頃の思い出だった。もちろん、ここより前の世界の碇シンジだ。
父に呼び出され、エヴァンゲリオンのパイロットとして使徒という化け物と戦ったこと。自分のせいで、何度も世界を滅ぼしかけたこと。
……十四年間眠っていたこと。そして、自分が世界をリセットしたこと。
この日記を読んだことが、アスカが記憶を取り戻すきっかけになったのは間違いない。
「ほら、食べよ、ヒカリ」
ヒカリの口にピザを放り込みながら、アスカはシンジの手記を拾い上げたマリを見ていた。
「綾波レイ」「葛城ミサト」……激しく記憶が混濁する中で、アスカが悲しんだのは、他ならぬ自分自身に対する記述だった。
日記の中で、特に式波・アスカ・ラングレーのことについて、多くのページが割かれていた。短かったけれど、忘れがたいアスカと葛城ミサトとのなんでもない日々の暮らし。3号機が使徒に乗っ取られた時、自分がアスカを助けられなかったことへの後悔。十四年後のアスカに対する贖罪……。
アスカは悲しかった。
結局のところ、シンジが求めているのは今の自分ではなく、あの世界の式波・アスカ・ラングレーにすぎないのではないか。シンジが自分のそばにいるのは、あの世界への罪滅ぼしに過ぎないのでないか。
アスカとの思い出の回顧が多ければ多いほど、いたたまれない気持ちが膨らんでくるのを、アスカは感じていた。
シンジにとっては、自分もその他大勢の登場人物の中の一人に過ぎないのだ…。
「あ……」
マリが間抜けな顔でアスカの方を見たので、アスカとヒカリは会話を中断した。
「やっぱりね」マリがいつもの調子で猫のようににんまり笑う。「そんなこったろうと思ったよ」
「なんのこと?」
マリはアスカにシンジの手記を差し出した。
アスカは反射的に顔を背ける。
「見たくない、そんなの」
「姫、ちゃんと最後まで読んだ?」
「読む必要ない。バカシンジは、結局、あの頃の思い出の方が大事なのよ。だから、それだって私にバレないように本棚の後ろに隠して、誰ともかかわらずに生きてきたんだから、アイツは」
そして毎朝、あの部屋で読み返していたんだろう……。
マリは母親が子供にするような慈愛に満ちた表情をアスカに向けた。
「想像して、姫。じゃあなんで碇クンは、姫にだけは関わろうとしたんだと思う?」
アスカはわずかに両目を見開いた。
「信じてあげたら? 好きなんでしょ? 十四年経っても、ワンコ君のことだけは、諦められなかったんじゃなかったの?」
マリはもう一度、シンジの日記帳をアスカに差し出した。アスカは躊躇したが、ヒカリが代わりに受け取って、それをアスカの胸に押しつけた。
「酔っ払ってるし、よくわかんないけど……。後悔しないようにした方がいいよ、アスカ」
そう言って、ヒカリはアスカのそばから離れた。
アスカはしばらく逡巡していたが、やがて床に日記帳を置くと、真ん中から後ろのページを無作為に広げて読み始めた。
「これ……」
しばらく目を通したところで、アスカの手が止まる。
それを見たマリは目を細めると、ヒカリに向き直って缶チューハイをもう一本勧めた。
「姫は、多分もう大丈夫だから……今日はこのまま二人で飲もう。旦那さんの話、面白そうだからもっと聞かせてよ」
「え? でも、あたし……あんまり楽しい話、ないかも……」
「大丈夫。人様の馴れ初め聞くの、ワタシの大・好・物っ!」
マリが目を覚ましたのは、翌朝の七時頃だった。
雑魚寝をしていて、肩と腰が痛い。昨日はあれからどうしたんだっけ?
酔っ払ったヒカリを旦那さんと娘さんが迎えに来たのが夕方の六時頃。それからシャワーを浴びて、冷凍のピラフで夕食を済ました後、パソコンでスポーツ中継を観ながら一人で二次会をおっぱじめたのだ。どうやらそのまま寝てしまったらしい。
そうだーと気づいて、マリは窓の方を振り向いた。そこには、床に置いたシンジの日記帳をじっと見つめているアスカが座っていた。
窓の日差しが、壁際にアスカの影を作る。
ポタポタと、アスカの瞳からこぼれた涙がシンジの日記帳に皺を作っていた。
ーあれからずっと、何度も読み返してたのか。
マリに気づいて、アスカは顔を上げた。
意志の強い眼差し。
それは、かつて一緒にバディを組んでいた頃によく見た、あの頃のアスカのものだった。
「私、行かなきゃ。シンジが待ってる」
《会いたい》
そのメッセージを送ってからわずか三十分で、シンジはアスカが待つ浜辺に姿を見せた。
そこは、二人が初めてのデートでくちづけを交わした砂浜だった。
あの日と同じように、空は気持ちよく晴れ渡っている。青いキャンバスに薄く浮かんだ雲が、水平線の向こうで海と鮮やかに融合していた。
アスカは遊歩道のベンチに腰掛けて、ぼんやり空を見上げていた。
ーあれから一年か……。
「アスカッ!」
待ち望んでいた声が響いて、アスカは振り返る。そこには、息を切らしてこちらに駆けてくるシンジの姿があった。
似合わない無精髭が目立つ。ずっと自分を探し回っていたのだろう、シンジが憔悴していることは一目でわかった。
「エヴァ……」
アスカのその呟きに、シンジの表情は哀しそうに歪んだ。
「全部……思い出したよ、シンジ」
シンジは無意識に顔を伏せた。アスカを直視することができない。
アスカが居なくなってからずっと、シンジはさよならを予感していた。
あの手記を読み、記憶を取り戻したアスカの心情は想像に難くない。アスカを助けなかったシンジ。十四年の後、アスカが自分を求めていると知りながら、彼女を別の場所へ送り出したシンジ。
それでもシンジは、あの世界のことを書き残しておかずにはいられなかった。自分の原罪を忘れてのうのうと生きていくことはできない。この孤独と痛みは、世界を個人の意志で変えてしまった自分が背負うべき罰だと思った。
ーどこまで行っても、クズだな、僕は……。
結局、その孤独にも耐えられず、アスカをまた巻き込んだ。アスカとの関係が深まるにつれ、彼女の記憶が戻るのが怖くなった。
アスカを失うのが怖くて、あの手記を見せることができなかった。
「シンジ……」
アスカの中で、記憶の欠片が目まぐるしく渦巻いていた。
あの頃の自分なら、こんな時どうしただろうーと、アスカは思う。
やはり怒り狂ってシンジを殴り飛ばしただろうか?
自分の本心を隠して、シンジを突き放しただろうか?
ーそんなことは、とてもできない。
シンジの手記に書かれていた、ミサトの家での蜜月を経てからの、終末世界での懺悔の記憶。
その後のページには、この世界でシンジとアスカが出会ってからのことが克明に記録されていた。
ー転勤先の職場で、アスカと出会った。
元気にしているようだった。
でも、声をかけてはいけないと思った。
彼女にはもう、別の人生と生活がある。僕がそこに関わりを持つべきじゃない。
なのに、どうして。
よろこんじゃいけないのに。
もう顔を見ちゃいけないのに。
ーアスカと出かけることになった。
デートだ。うまくエスコートできるだろうか。
気持ちが昂ってうまく眠れないのに、こんな状態で当日になったらどうなってしまうんだろう。我慢なんかできるんだろうか。
ーさっきまで、腕の中にアスカがいた。
あの頃と変わらない自信に満ちた表情で、僕のそばで寝息を立ている。
安心してくれていることが、なによりもうれしい。
もう誰にも、アスカを渡したくない。
アスカと再会してから今まで、シンジは一日も欠かすことなく、二人の日々の記憶を書き紡いでいた。
ーアスカが美味しそうに僕が作ったご飯を食べてくれるので、ついつい多く作り過ぎてしまう。
好物はハンバーグで、変わっていないらしい。
メニューのレパートリーを増やそう。コーヒーや紅茶も、淹れ方を覚えたい。
レシピの分だけ、アスカの笑顔が増えるなら。
ー最近、外に出るのが億劫じゃなくなった。
アスカと手をつないで街や駅前を散策するのは楽しい。
車を買うのもいいかもしれない。小さな車でいい。二人でドライブできれば。
もっとアスカを、色々な所へ連れて行ってあげたい。
ー出張先で、初めて指輪を買った。
アスカの指のサイズはマリさんに教えてもらった。
よろこぶだろうか。
月並みなことしか、してあげられないけど。
僕と一緒にいてよかったって、思ってくれるだろうか。
二人の思い出は、シンジの過去の贖罪の記録をとっくに超えていた。
シンジが紡いだアスカとの日々は、空白の十四年間をー二人が出会うまでの二十八年間をー超えていくには充分だった。
言葉はつたない。
それでもアスカは、かけがえのないものを確かに感じた。涙が出るほどやさしい気持ちになった。
そして、全て読んでわかったことがある。
ーシンジの心は、まだあの赤い浜辺にいる。ずっと一人で、座ってるんだ。
「ねぇ、シンジ……」
アスカが手を伸ばした気配がして、シンジは狼狽えた。
何を伝えればいいんだろう。
ごめん?
今までありがとう?
どうかしあわせに?
シンジは唇をきつく噛み締めた。
あの赤い浜辺で、一方的にさよならを言われたアスカがどんな気持ちだったのかを、シンジは今さら理解した。
嫌だ。
どんなにみっともなくても、アスカを失うことだけは。
それだけは、絶対に嫌だった。
「お願い、シンジ。私を見て」
シンジは叱られた子供のようにアスカを仰ぎ見て、目を大きく見開いた。
アスカは天使のように安らかな表情で、静かに涙を流していた。
「アスカ……」
「ごめんね。シンジの日記、勝手に読んで。気づいてあげられなくて、ホントにごめん」
想像してーと、あの時マリは言った。
シンジの孤独を、アスカは思う。誰からも赦しをもらえなかった少年が、それでも自分にだけは関わろうとしてくれたことの意味を、アスカは考える。
「私はずっと、そばにいるから。おばあちゃんになっても、そばにいるから」
守ってあげたい。
楽しいことだけじゃなく、辛いことや悲しいことも、二人で分け合って生きていきたい。
「だから……私の前では、思いきり泣いていいんだよ?」
シンジの目尻から、涙が一筋流れた。
「僕は……」それはやがて大粒の涙になって、両目からシンジの想いと共にとめどなく溢れた。
「僕のせいで……いろんな人の、人生が……だ、だいなしに、な……った」
シンジはゴシゴシと両目を手の甲で拭ったが、一度流れた涙はただただ溢れるばかりだった。
「だ、だがら、ぼくは……ない、ぢゃ、いげな、いんだ……。ひとと、かかわっちゃ、だ、ダメなんだ……。い、づも、そうだ……なにをやっでも、だ、だめで、ひとをきずづ、けて、ばっが、りで……かっご、わるぐて」
アスカは泣きじゃくるシンジを、そっと胸元に抱き寄せた。
「カッコつけてほしいなんて思ってない。私は……私だけは、アンタのいいところも悪いところも、情けないところも、全部知ってるから」
シンジはアスカの背中に両手を回してめちゃくちゃに抱きしめると、子供のように泣き声を張り上げた。
「い、やだ……! アスカと、ば、はなれるのだけは、いやだ……! ぞばにいで。ずっど、そばに……! そばに、い、いたい! いてほしい」
少年は、強い瞳で顔を上げ、必死に言葉を紡いだ。
「アスカのごとが、大好ぎなんだ……!」
つかまえたー。
アスカは思った。
あの時、赤い浜辺で自分を送り出した孤独な少年の本心に、アスカはようやく追いついた。
「もう二度と、勝手にさよならとか言わないでよね。おかげでこんなに時間かかっちゃったじゃない」
「ごぶぇん……」
アスカはシンジの頭をやさしくなでた後、シンジの頬に両手を添えて、互いの唇を合わせた。
二人同時に、瞳を閉じる。
長い。
長いくちづけだった。
息ができなくなってようやく顔を離した時、今度はアスカの双眸からも涙が溢れて止まらなくなった。
「帰ろう、シンジ」
「ゔん……」
互いが互いを抱き寄せる。
赤い浜辺のあの夢を見ることは、もうないだろう。
深く全身でシンジを感じながら、アスカは静かにそう思った。
※
寝ぼけたシンジが自分を抱きしめている。
アスカは腕枕をそっと外し、上体を起こして大きく伸びをした。毎朝の習慣で、カーテンの隙間からそっと外の様子を確認する。
三連休の最終日は、雲ひとつない快晴。仲直りのデートには申し分ない天気だ。
ー昨日は、すごかったな。
帰ってすぐにベッドへ行き、二回目は浴室だった。夕方近くに昼食をとってから、もう一度ここに戻ってきて、それから……。
昨夜のことを思い出し、アスカはにやけてくる口元に両手をあてた。
アスカはシーツの隅に脱ぎ捨てられたままのシンジのシャツを着込み、ベッドサイドに腰掛けて、サイドテーブルに置かれたシンジの日記帳に手を伸ばした。
シンジが寝ていることを確認してから、そっと一ページ目を開く。内表紙の下部に、小さく走り書きされた碇シンジのサインがある。
アスカはサイドテーブルの引き出しからペンを取り出し、シンジのサインの横に何事か書き込んだ。
「あ……」
書いてから、顎に手をあて、何かが閃いた表情を見せたアスカは、先ほど書き込んだものの上部に二本の横線を走らせた。
「起きてたの、アスカ……」
驚いて振り返ると、シンジが目を擦りながら上体を起こしたところだった。
「おはよう、シンジ」
「また、それ、僕のシャツ……」
「いいじゃない、別に。減るもんじゃないんだし」
日記をまだ見られたくないアスカは手をパタパタと動かし、無意識にシンジの足元に転がっている彼のズボンを手繰り寄せた。
ん? とアスカは首を傾げる。ズボンのポケットが薄く膨らんでいたからである。
「あ……」とシンジが小さく声をもらしたのを、アスカは聞き逃さなかった。
「なに、これ?」
アスカが手にしたのは、シンジが自分を砂浜まで迎えに来た時に履いていたズボンだ。昨日脱ぎ捨てたままにしてあったらしい。
アスカはジッとシンジをねめつけた。
「いや、それは、そのー……」
「なに? 昨日の今日でもう隠し事とは、いい度胸してるわね」
アスカはポケットをまさぐって中のものを取り出した。
「え……?」
手帳サイズの、それはパスポートだった。アスカの生まれ故郷が見たいというシンジの願いを叶えるために、先日二人で役所に取りに行ったものだ。
まさか。
シンジの気まずそうな表情を見て、アスカはなぜシンジがこんなものをポケットに入れていたのかを理解した。
「シンジ、ドイツまで行くつもりだったのッ⁉︎」
「だって……アスカ、何回電話しても繋がらないし、メールも返ってこないから……。アスカなら、海外だって行きかねないと思って……」
「仕事どうするつもりだったのよ? ていうか、ドイツで私探すアテなんかないじゃない」
「それは、まぁ……ないけど」
シンジは顔を赤らめ、すねたような顔でそっぽを向いた。
「ほんとに、アンタって、ウルトラ級のバカね……」
震える声も、潤んだ瞳も、アスカはもう隠さなかった。
「知ってるよ。アスカに毎日言われてるから」
アスカは、我慢できなかった。
アスカが飛びつくように抱きついたので、シンジはたまらずベットに倒れ込んだ。
「シンジ……」
「だ、だめだよ、アスカ。今日はドライブして、帰りに買い出しもしようって……」
シンジの言葉は、アスカのくちづけに遮られた。
やがて、ベッドがゆったりと揺れ始める。
カーテン越しに二人の世界を包み込むやわらかな朝の日差しが、サイドテーブルの上の日記帳をやさしく照らしていた。
そこには、二重線で消された「式波」の二文字と、その下に刻まれた「碇」「シンジ」と「・アスカ」のサインがある。