※この作品はR-18です。

色々エロ掌編   作:放浪するモキュ侍X

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まだ書きかけなのだけど、時代考証間違えてないかとか不安なため一時投稿。エロはもう少し先なんですいません

3/17
更新、できれば数日以内にもう一回。というか仕事で忙しくなる4月までにリッカちゃん含め完結させたい


長尾御前という女(書きかけ、3/17更新)

 出すものも出して、清潔にして、あとは自分が出ていくだけの厠で長尾為景はうんうんと唸っていた。

 

――国人潰したい、信濃と関東攻めたい、もっと領土欲しい

 

 いつものことである。国人か上杉家をどう攻めるかが為景の人生そのものであった。今はその延長線上にある。

 守護として、国の不穏分子を軒並み潰しておきたい。

 出世欲として、実質関東管領の地位を得たに近しいのだからそれに相応しい版図を得たい。

 

――戦力が足りんなあ

 

 五十を目前にして、もういつ死んでもおかしくはない。老体で戦をするには無茶ではなく数と質が要る。

 どこから持ってこれるか、蘆名、柿崎は、いや中条と折り合いをつけて伊達――ふと魔が差した。

 

「……武田はどうだ?」

 

 信濃を攻めたいのは向こうも同じだろう。あの信虎と関わるのは嫌だが、才気煥発な息子たちなら今から“わたり”をつけておいても良いかも知れない。

 そう考えるとすんなり思考が進んでいく。はっきり言って将来を見据えると南の武田も邪魔で仕方ないが、それより今潰したいのは勢いがある北条と群雄割拠する信濃だ。

 越後長尾家として、山内上杉と扇谷上杉と武田の連携を牽制しつつも仲を取り持てる縁を繋ぐこともできるし、何より今ならちょうど始末してもいい生贄が居る。

 

 今は虎千代、後に虎御前や長尾御前と呼ばれる娘は数年後、そうして武田に嫁ぐことになった。

 

 

(信虎の野郎め)

 

 いつもより日差しの白い日だった。障子紙ごしに差し込んだ日の当たる畳さえ緑に萌ゆることを忘れ、あたかも月が照らすかのように朧気である。

 躑躅ヶ崎館の一角、自身が主役の一席で、今頃神橋で貝桶渡しを終えたであろう輿入れの一行のことを思い、武田晴信は息を吐いた。

 元服してまもなく正室を迎え、それから日をあまり置かずして今日側室を迎える運びになる。二年前に上杉の方と実子を亡くした晴信にとっては気の休まらぬ日が続いていた。

 しかし、かたや三条家、かたや越後長尾家。先日の祝に比べれば人の入りは非常に少なく、こちらも穴山や小山田といった脈を結んだ被官たちくらいしか控えていない。調度品もたいへん質素に設えられた催しだが、まあ当然だ。

 輿入れに来る娘は確か六つ。側室だが人質と言ってよい身だ。ましてやここは甲斐、いついかなる理由で死ぬとも限らない明日の知れぬ地。そして今日為景は来ない、つまりそういう娘ということだろう。

 

(クソみたいな親持ったことは同情するよ、お互いに)

 

 輿入れの始まる前、今後のことについて会合があった。

 人質のようなものだから、外壁に近いところに御殿を拵えそこに入れてはどうかという意見も出た。しかし信虎が同盟の証を無碍に扱う真似をよしとせず、晴信や三条の方とその家臣も賛同したため、虎千代の立場は武田家の中でも正式な側室ということになった。

 晴信は会ってもいない童女に同情してしまう我が身の儚さ、乱世の有り様にほぞを噛む。対して先日事情を話した時、妻は少し押し黙ってからかすかながら喜んでみせた、妹や娘を迎えるような気分だと。

 無理に笑わせたこと我が至らなさを情けなく思う。いまだ子もなせない長尾の娘だが、こんな悪党のいる悪所に嫁いた三条の方の慰みとなってくれるなら、と願う。

 

「何を呆けている、武田の男が恥を見せる気か」

 

 懊悩しているうちに、駕籠上げ女中が輿を置き終えて去っていった。

 侮蔑の眼差しを向ける父と目を合わさず立ち上がると、晴信より先に姫の姿を見る無礼を働かないよう平伏した家臣たちの作る道を悠々と歩く。

 間近で見ると、簡素な白木造りと金の装飾。義務的に源氏物語の蒔絵など挙式の縁起物が施されている。しかしそれ以外は、鼻をつく抹香の香りに、よく見るとあまつさえ毘沙門天らしき彫りが施された奇妙な御輿だ。

 

(誰だよ、これ作ったのは)

 

 訝しみながら、ゆっくりと戸に手をかける。

 

(冷たい?)

 

 甲斐は冷えるとはいえ、季節外れの寒気が指先にある。他の者が不審に思わないよう、息をゆっくりと吸って体を温めながら戸を開くと、その冷気の源がそこにあった。

 

「――はあ」

 

 開かれた呆けた声を漏らしたのは、本当に自分か。

 婚礼衣装の下、晴信の灰色とも違う、越の紙に数滴藤代を落としたような髪の少女は太陽よりも透(しろ)く、まるで冷たい日輪でも背負ったかのように輝き――嗤っていた。

 

「虎千代と申します――晴信さまにとつぎに参りました」

 

 此方に手を伸ばすその少女は、きっと人ならざる者であった。

 

 

 

 その日のことを今でも覚えている。あまりに鮮烈で、痛々しいほど静かだったその宴を――

 

「あははー!!」

 

 こうして頭にコブを作って無様に地面に突っ伏した瞬間さえ忘れられないでいる。

 

「あかんで虎ちゃん、そないようさん跳ねよるとうなじが見えてまうわ。河原もんとちゃうんやさかい」

 

 ――慌ててはしたないと諫める三条の方は、この娘のことを予め識っていた。娘の実姉が和歌や歌物語の写書きと一緒に、丁寧に内情を記した密書を送り届けてくれていたのだ。その手紙には一筆ごとに血のにじむような悔しさが込められていた。実の妹が蔑ろにされ、戦国のおんなとしても恥ずべき最低限の用意で他国に送り出される事態に何も出来ない姉の想いは筆舌に尽くしがたいようだった。

 

「すいません三条さま! ところでみやこ言葉とやらが出ていますよ!」

「あら……嫌だわ恥ずかしい」

「でも私は嫌いではないです!……ほら晴信、あなたはどうなんですか」

(答えが聞きたいならその足をどけろ…)

 

 足の凹みとは頭を踏むためにあるのかと理解しつつも、げしげしと蹴られ土を舐めさせられている自分の頭上を飛び交う呑気な雰囲気に押されて、晴信はどんな顔で立ち上がればいいのか考えあぐねていた。

 

 

 婚姻の儀式も終わり、持参された僅かな嫁入り道具が部屋に運び込まれるのを待つ間、虎千代は晴信に引かれて三条家近臣が守っている三条の方の部屋へ連れてこられた。

 当初はいつも通り柔和な笑顔を浮かべていた三条の方だったが、虎千代をひと目見た瞬間は息を呑むことを抑えられないようだった。どれほど尋常ならざる神がかった娘と伝え聞いていても、虎千代にはひと目見て畏れを抱かずには居られない気配がある。だがそれでも、その渦巻く墨染めの目でこちらを睥睨する娘の手を握り、これからは自分も姉だと思うようにと告げた。

 それで何かかんばせの様子が変わったようではない。しかし少女は困り、ただ戸惑った。

 

(見た目よりは人らしいな)

 

 晴信は内心少々安堵した。言葉が通じるなら怪物ではないと思えた。

 その眼の前で、正室として三条の方は虎千代に自分たちのお役目について教えていく。まだ10に満たないとはいえ、こうして教育するのが戦国のならいである。晴信も今より若いうちに元伯から孫子の兵法などを教えられていた。

 対して武家の嫁の役目は余程の事が無い限りいくさ働き以外のところにある。例えば三条の方は武田と今川と都の公家を繋ぐ縁として外交の仕事を嫁いで間もなくからこなしている。

 そのために筆法、算術、和歌、管弦、加えて何故か宗派どころか僧籍の枠を超えて流行の兆しがある茶の作法など、他家に舐められないよう多芸を会得した女性だ。

 三条の方は手始めになにか好きな歌や楽器は何でしょうと聞くと、虎千代はぽかんと、見方によっては今まででもっとも人懐こい顔をした。

 

『はあ、和歌…それで、その笛や管弦とはなんでしょうか…………え、では御伽草子? それはお経のようなものですか?』

 

 寺暮らしだけをしていた弊害というのはあまりに大きかった。なんせ若さを考慮しても嫁入りした娘の出来るはずのことが何も出来ない。

 最低限の筆法はあるが、良く言えば定家のように特徴がない意味での下手さ。古今、万葉のみならずあらゆる教養や秘伝を知らないが、しかし読経は出来る。部屋にあった小ぶりな仏像を見せれば、菩薩や毘沙門天のことも知っている。

 僧侶に師事しながらも、敵対するなら寺など壊して焚き火にでもすればいいと考える晴信にとってはまた別の意味で同じく人と思えない娘だった。

 

『……じゃあお前、何が出来るんだ?』

 

 「あかんどないしょ…」とみやこ言葉を隠せなくなる程度に困った妻を助けてやろうと、ぶっきらぼうにそう問うと、虎千代は裾に隠していた見事な木の模型細工を取り出してみせた。小ぶりで簡略化されているが、おそらく預けられていたという寺だろう。三条は大げさに驚き、思わず晴信も唸る一品だった。

 

『すごいな……だがなぜ細工なんて習った』

『和尚が私にこれをやるよう言ったんです、なんでも私が力加減を身につけるにはこれがよいと』

『力? お前が何を加減するんだ』

『アハハハハ、私はたいへん力持ちなんですよ!』

 

 ケタケタと気持ち悪く笑いながら放たれたその言葉を晴信は信じなかった。城下で相撲遊びをする三歳程度の男女にやたら強い女がたまに居るくらいのもので、こいつはたぶん相当な不器用なんだろうと解釈した。

 

『まあほんに? どないな………どのようなものを持てるのです?』

『アッハッハッハ、槍、大太刀、弓、まさかり、馬、何でも構いませんよ!』

『はあ?』

 

 エイヤと自信満々に答える虎千代を晴信は訝しんだ。隠れ潜む近臣たちも微笑ましそうに笑みを浮かべている。あまりに――ありえない。琵琶法師が語る平家でもあるまいに、女が武器など持てるはずがない。

 

『何も出来ないと言う割に嘘は言えるんだな』

 

 その言葉を聞くやいなや、虎千代は笑顔のままで飛び出してしまった。三条の方は大人げない物言いを咎めてきて、流石に晴信も悪かったと返す。

 しかし四半刻も経たないうちに予期せぬ事が起こった。

 

『どうです晴信どの! 私はこれくらい力持ちなんですよ!!』

 

 思いもよらぬ光景に三条の方が卒倒して倒れ込んでくる。虎千代が担ぐその馬は、まさしく信虎の愛馬鬼鹿毛に相違いない――

 

 

 そして翌日、虎千代が鬼神力とは認めるが、いくらなんでも武芸は嘘だろうと思うので木刀を持ち、虎千代に木槍を持たせて打ちかからせてみたら晴信は散々に叩きのめされた。

 突きを受ければ剣が弾かれ、石突で打ち上げられると木に落ち、振り下ろされた穂先を必死に防げば足首まで地面に埋められる。虎や熊のような強さだけではない、少女の磨かれた武芸は正しく晴信を上回っていた。

 

「は、ははは、普段の大口と裏腹になんと貧弱な男か! 愉快、これほど愉快な光景はふたとあるまい!」

「お、お父上、狼藉ですよ、それも側室が…!」

「構わぬ、わしが許すのだ! それもっとやれい!」

 

 侍遊びをしているとでも聞いてきたのか、こちらの醜態をクソ親が笑っている。これほどの笑みを晴信は見たことがない。今すぐ射殺してやりたくなる会心の笑みだ。横に弟が居なければ今日が当主交代の日になっていただろう。

 

「クソが……!」

「晴信様、これ以上はお怪我が…」

「ほっとけ」

 

 自分と虎千代を遠回しに囲み不気味がる近臣をはねのけ、もう一度木刀を握る。

 

「男が女に負けていられるか」

 

 側室、そもそも年下の幼子ということも忘れ、晴信は無心で虎千代に打ちかかった―― 

 

 

「もう虎千代さんには驚かされてばかりですね、まるで信濃におわしたという木曽の巴様のようです」

 

 夜の前、夕日が赤く室内を染める頃に三条がそう表すると虎千代は笑った。晴信は思わずじゃあ俺は内田か和田のどっちなんだと聞いたが、三条は微笑んではぐらかし、虎千代は分からないらしく首をかしげ口を曲げてしまった。

 

「ですがいけませんよ虎千代さん、殿方を、ましてや夫をこうも人前で打つような真似は妻としての恥です」

「良いよ別に、俺はそこまで強く打たれてない」

「晴信様、それはさすがに」

「こんなの傷にも入らん」

 

 痣をしこたまこしらえた晴信はしかめつらのまま強がる。金瘡こそ無いが、本音を言うと数カ月後に迫った初陣に響くような打撲だ。

 しかしそれを妻たちに言うことの方が辛い。ここで耐えて親父に嫌な顔をさせてこそ武家の男だと思っている。

 しかし虎千代はそれを見てあははといつものように笑ってみせた。

 

「なんだ、嘘つきはあなたではないですか」

「嘘じゃねえよ」

「嘘でしょ」

「あんたらええかげんにしぃ」

 

 三条の方は弱々しい力で二人を押す。こうされると虎千代も押し黙るほかない。

 二人が静かになったのを見計らうと、三条の方は虎千代に向き直り手を握った。その温かい手を、虎千代はなぜか振り払う気が起きなかった。姉のような匂いのする女性だからか、あるいは自分のように神通力があるのかとさえ考えさせられた。

 

「虎千代さん、あなたはきっと天性の武者なのでしょうね。しかし、晴信さまの妻となった以上今後は違うように生きねばなりませぬ。今はまだ幼子ゆえ分からぬかも知れませんが、どうかこのことは覚えてくださいね」

「はい!」

「分かってないだろ……その返事は……それとだ虎千代、たまには稽古つけてやる」

「へえ? 晴信殿は弱いのに私に武の何を教えると?」

 

 晴信を見る虎千代の顔は変わらない。昨日と同じ、人ならざる顔、渦を巻く感情の代わりに何かが塗り込められた不可思議な目。

 晴信はそれがひどく気に入らなかった。

 

「うるせえ、それともなんだ、まだ決着ついてないのにやり逃げする気かばか女」

「は?」

 

 ――顔が動いた。

 

「馬鹿はあなたでしょう。さっきのが実戦なら死んでましたよ」

「生きてるし、負けって言ってねえから負けじゃないだろ」

「なにを戯けたことを……」

 

 口を歪ませただけだが、虎千代の機嫌が悪くなったと傍目でも分かる。しかし晴信はそれを強く睨み返して一歩も譲ろうとしない。横槍を入れたのは三条の方だ、武士の真似事は今日までにして、明日から虎千代にはまず適当な和歌などを教えるつもりでいた。

 

「晴信様、虎千代は確かにこの身と違い武家のものですが、何も武芸を教えずとも」

「巴御前つったのはお前だろ……風流も武芸も、お前がやりたいなら全部やればいい」

 

 夕日も隠れだした部屋の中で、赤々とした明かりに照らされる晴信は至って真剣な顔だ。

 対して、虎千代は何も言えない。何をしたいと言われても、どう返せばいいか思いつきもしなかった。

 

「ううん……」

「悩むことなんてあるか? ……じゃあ、何かしたいこととか無いのか」

 

 晴信は、そうなると思って聞いたわけではない。しかし――

 

 ――願わくば

 

 ――願わくは■■となって

 

「そうですね……」

 

 煮凝った泥のような想念の底、虎千代に浮かび上がったものが“ぐにゃり”と歪んで、また沈んで消えていった。

 

「まずはこの不実で義のかけらもない物言いをする男の性根を叩き直してやりたいです」

 

 

 次の日から、虎千代の慌ただしい日々が始まった。

 

「せーの、にゃー!」

 

 武術をやれば軽々と弁慶のようにあらゆる武器を使いこなし、

 

「疾走れーー!」

 

 馬に乗れば誰よりも巧みに操り、

 

「ええっと……疾きこと風のごとし?」

 

 晴信も習ったばかりのまじない事を真似すれば見事使いこなしてみせた。

 

「まっこと、長尾より来られた若姫はこの御年にして立派な武辺者ですな!」

「作用! お遊ばれるかと思いきや見事な武者ぶり、我が子にも見習わせたい!」

 

 元々甲斐というのは反骨心が強く国人たちも血の気が多い土地柄だ、しかし一度懐に入るか、信虎のように力を示すかしてしまえば途端に手のひらを返す。

 

(だからこうして反逆の手はずを整えていられるんだけどな)

 

 そして武士として忠孝をわきまえてはいるが、一方で今の主より強いものに従うことにためらいがない。

 晴信が武芸に励む理由も、こうしてどつかれながらも自分は党首に相応しい立派な武威を備えていると家臣に示し、また同時にこれほど異様に強い嫁を得たことでわずかなりとも威信を高める狙いがあった。

 やはり、おかしいように見えて聡いのだろう。すぐその事に気づいた虎千代は獰猛な月毛の馬を駆り、槍を持って打ち合いながらこっそり晴信を罵った。

 

「あなたは本当にけしからん人ですね。仲が宜しくないと私でも分かりましたが、本当に実の父に背くのですか」

「なんとでも言え。これも武田を得るためだ。そういうお前だってそんな男に嫁いだんだ、少しは俺のやり方に馴染め」

「あははっ、しずめー!!」

「口で勝てなくなったら殴ってくるのはやめろ……!」

 

 その光景を見つめていた三条の方は、晴信の判断は正しいのだろうと唸る。

 虎千代を返した後、子作りの儀を執り行い、いつものように腎液を流し込んだ晴信は、やはりまだ雅な事だけを教えたいとねだる三条の方に胸中を明かした。

 

『まあ、お前の言う通り馬鹿な真似だ。でもな、アイツを普通のガキと一緒に置いておけるのか?』

 

 三条の方は何も言い返せなかった。

 この甲斐に限らずとも、七五三など幼少の祝を終えるまでは男女ともに遊ぶことが多い。

 だがそこにあの虎千代を放り込めばどうなるだろう。

 泣かせるだけならまだ良い。しかし相撲や石投げでもすれば…三条の方はおぞましい光景を想像して晴信の横で震えるしかなかった。

 

『なんであんなことになってるのかは知らんが…あいつのことは俺に任せろ』

 

 やさしく口から妻の震えを吸い、抱き寄せてつぶやく。

 

『あの親父にも、為景にも勝手はさせるか。甲州を統べるのは俺だ。そこにあるものは俺が好きにする』

 

 抱きしめられて、いけずとぼやきもう一度儀を執り行う。

 その時に放たれた精のほとばしりを思い出しながら、三条の方はあることに気づいた。

 

「……虎ちゃん、どないして子ぉ作るんか知っとるんやろか」

 

 初物もまだだ、ということは自分が教えなければならないか。

 

「どないしょ」

 

 自分の時は母はどうした――思考をそらして、途方に暮れた三条の方は自身もまだ語るには落ちる花散里に目を落とした。

 

 

「中将、某は痴者の物語をせむとて……」

 

 謙信にとっての遊び、晴信にとってはもはや苦行に等しい武練の合間を縫って、虎千代はまた諸々の事について晴信と同じように岐秀元伯に学んでいた。

 側室とはいえ、国の命脈である兵法を異国の者に教えるのは異例のことである。晴信が武芸だけでなく将の心得を学ばせたいと言い出すと、さしもの信虎も難色を示した。

 しかしそこに――非常に珍事であるが――虎千代が来てから彼女の立場について沈黙を保っていた大井夫人が「よいのでは」と口を挟んだことで虎千代は学びを得る運びとなった。

 

『あなた、もしかしてこれは私を弱らせる“兵法”とやらではないでしょうね』

 

 武勇こそ優れていたが、知恵の方といえば天鱗はあるがまだ文字もろくに知らない未明の子明。精一杯の虎千代を見て晴信が信虎のような横顔を覗かせると、むすっと膨れて文句を口にした。

 

『オロチに酒飲ませたわけでもないんだ、この程度で弱るな』

『……酒? それは何ですか?』

『お前にはまだ早い』

 

「……さばかりになれば、うち頼めるけしきも見えき。頼むにつけては、恨めしと思ふこともあらむと……」

 

 三条の方はその忙しい中でも欠かさず毎夜、種付けをしない日は虎千代に源氏物語を読み聞かせていた。

 

「……心苦しかりしかば、 頼めわたることなどもありきかし。…………はい虎ちゃん、ここまでやさかい」

「わかりました! ……なにがしは、しれもののものがたりをせむとて…」

「中将はん抜いたらあかんえ」

 

 三条が一節読むと、次は虎千代が同じところを読む。

 有職故実の全てを修めた訳では無く、意味と訓と音韻の全てを知らない三条の方が虎千代にしてやれることといえば、こうして共に読み、共に聞くことだった。

 

「こころながらおぼゆるをりをりもはべりしを」

 

 三条の方には実家のツテという他にない唯一無二の武器がある。しかしこの子にはそれがない。

 かといって、武芸だけでは、教養なくては、兵法知らずば、喚子鳥の方がマシだ。故に、本来ならまだ遊ぶ子にこうして文武を授けている。

 

「こころくるしかりしかば」

 

 大井夫人がどうして急に自分の持つ源氏の欠本は何かと聞いたかと思えば、定家様とはいえ写本を手配し花散里や蓬生を埋めてくれたのかは分からない。

 

「 たのめわたることなどもありきかし」

 

 今はただ、こうして甲斐の寒い夜を二人温めあって過ごす機会をくれたことを只々感謝するばかりだった。

 

 

 

 こうして二人が打ち合い、二人で源氏物語を読むうち、時間はあっという間に流れて、霜月となった。

 晴信初陣の時である。

 傷ひとつ無い真新しい甲冑に身を包んだ晴信を、三条の方と虎千代は遠くから見送っている。

 これからおよそ一月の後、撤退する父の意向を無視して少数の手勢で海ノ口城に攻め入った晴信は見事城を落とす手柄を立て、武名を馳せることで父との対立を決定的なものにしていく。

 史実と違い、上杉謙信になりえた少女との鍛錬は若い晴信の武勇と魔力放出をより洗練されたものにしていた。あの武者振りなら負けることはないだろうと、三条の方は安心して夫を送り出すこととなった。

 ただし虎千代は少々不満げだった。

 三条の方とおなじく笑顔である。瞳の濁りも多少はマシになり、遠目であると年上の夫を健気に送り出す幼妻に見えないこともない。

 

「晴信のおおたわけ……」

 

 虎千代の内心は不満で一杯だった。この数ヶ月共に励んできたのだから、おそらく自分もいくさ働きを求められているのだろうなと思い、馬具や甲冑などどうすればよいのかと家臣たちに訪ねたら、その場に居た晴信はさも当然のように言った。

 

『は? お前はまだ連れて行かんぞ』

『あ゛?』

 

 咄嗟に机で身長差を補い首を締め上げたが、それでも晴信は頑なに首を縦に振らない。なんとか怒りを堪えて理由を聞くと晴信はこう答えた。

 

『まだ決着をつけてない奴を家臣扱いできるか』

 

(つまりあれだ、晴信は“自分より強い私”を、絶対に戦場に連れ出すつもりがないと、土壇場で言い切ったのだ)

 

 思わず、初めて子供らしい――破壊跡が台風同然の――癇癪を起こしたわけだが、晴信はそれでも否といい、三条の方と、ソレを見ていた大井夫人の二人がかりで諌められてようやく虎千代は戦袍ではなく単に袖を通して晴信を見送った。

 何だあの馬鹿は――わざと負けてやれば――いやそんな、“義”にもとる真似は。

 名状しがたい感情の奔流を持て余した虎千代は戦勝祈願を行う三条の傍らで、この家に来て初めて暇な時間を迎えていた。

 

「晴信がいないだけで何もすることがないとは」

 

 いやそんなことはない、やろうと思えば出来ることならいくらでもある。

 槍で体を鍛えてもいい。許されているのだから、岐秀元伯に勉学を授かりに行っても良い。事実、明日からはそうするつもりだ。

 ただ、ただそこに晴信がいないというそれだけ。その時間が――ひどく嫌なのだ。

 

(もしかして自分は、構われていたいのか。馬鹿な)

(“あなたは”■■であるはずなのに)

 

 視界を掠めた――厭な思考を振って払い、声もあげずぼんやりとしていると(白く薄らいだ世界の片隅で)気がつけば三条の方がこちらを見つめていた。

 

「………おひさんこっち見とんにやるこっちゃないけど、でもなあ……」

「どうされたんです?」

「……そんな? えっとな? あー、虎ちゃん?」

 

 ずずっと距離を詰めてくる、いつもと違う、何か甘ったるくて縁のないその香りを、虎千代はなんと評していいか分からなかった。

 

「うー、虎ちゃんかぁいいしそん時やらぎょうさん旦那はんもかぁいがらはるやろなあ……やっぱ正室のうちが教えんとあかんよなあ」

「晴信がどうしたのです?」

「その呼び捨ても、直さなあかへんねや……ああ、しゃあない。うちが気張らなな!」

「――」

 

 眼前で立ち止まって頭を抱えていた三条の方が意を決して眼光に力が戻った瞬間、虎千代が得も知れぬ悪寒に襲われた。

 

(なんだろう、この、体を真二つに走る悍しさは――)

「虎ちゃん! あんな、うち旦那さんおらん間に女いうもんのこと教えなあかんのよ」

「はい?」

 

 松永久秀は四十八手を定めたという。しかし、そういう俗書とは別に、貴族としての性の心得というものは口伝として伝授され続けていた……

 

 

 

「えっとな、このけったいな絵見てや。おちんちん。珍棒言うこともあるそやけどな、そないなもんをこう、入れられるようにまでにどないするんやっちゅうんを知らなあかんねん」

「……????????」

 

 寒風が吹き込まないよう厳しく閉められ、布団を壁と床と襖に敷き詰め、武装した女官たちが剣呑な目つきで「盗み聞きする不届きな男はおるまいな、いたら耳朶を穿ち玉切って捨ててくれる」と殺気立って警護する部屋でそれは初められた。

 

「この、おまたの穴。まんことか、女陰とか、ホトとか、まあ言い方は色々と家によってあるそうなんやけど、女はな、大きゅうなったらこっからその、赤いもの出るんよ」

「血ですか」

「それ言うんナシ! ナシ!」

「えー、でも血では…」

「源氏物語でもそこまで言うてないやん、せやし、ナシ!」

「……はぁい」

 

 厳重に封がされた典籍を取り出された時、何か大事な秘伝でも教えてくれるかと少々の期待はあった――実際その通りなのだが、そうして始まったこの珍妙な、三条の方が絵と自分の体を使って、互いに裸でやるケッタイな勉学に素肌の虎千代は首を傾げる他なかった。

 

「あー、でな、そないしてザクロの汁が出るとな。うちら子供作れるようになったいうことなんや」

「えー……?」

 

 子供と聞いてもぴんとこない。ましてや、まだ手傷を負ったことのない自分が血を流すというのはどういうことか、それが虎千代には分からない。

 ただ、眼前の三条の方はこれまでになく真剣なので、その丸くふっくらした眉が飾る可愛らしい瞳と、事あるごとに揺れる胸からどうしても目を離すことが出来なかった。

 

「それでその、一月のうち、それはおなごによってちゃうんやけど、その日に旦那さんに頼んで、“ここ”に入れてもろて、きつうして腎液いうんをねだるとやや子がな、できるんよ」

「――はあ、だからたまに夜二人でお声を上げていたのですか?」

 

 それを指摘されて三条の方は真っ青に、いや顔だけは真っ赤になってぺしぺしと秘伝書という名の子作り指南書で虎千代をはたき初めた。

 

『ええ、ええんよ、もっと、もっと、好きにやりよし……あんっ』

 

 少々冷える夜半、虫や風の声が綺麗だったので耳を澄ませてみると、あちらこちらから聞こえた人のものがとても熱く――特に三条の方のものは湿っぽくも篤い声だったので、聞く度に何をしているんだろうと気に留めていた。

 晴信だが、晴信なので、まさか非道な真似はすまいと信じていたが、つまりそういうことをしていたのだ。

 目を下げるとそこにある、一本もない自分と違いやや伸びたものをきれいな形に整えられたヒゲの下にある縦の口。そこに晴信の、そのナントカをいれてぐいぐい動かして何か出すと。まあそういうことなのだろう。

 

「でも、そういうことなら絵でなくとも同じように棒のある人を連れてきても良かったのでは」

「ええか虎ちゃん? 二度というたあかんで。うちらの裸見たりここに入れてええおのこは旦那はんだけや」

「あ、はい、すいません」

「アカンからね、きっちり覚えとき」

 

 初めて聞く三条の方のドスの利いた声は怖く、恐ろしい剣幕だった。虎千代は二度と言うまいと心から誓う。

 

「まあ、その、虎ちゃんがほんまにやるんはまだずうっと先やし……でもほんま、覚えとってな。今やったアカンで? 子供は子供作られへんのや。大人になったらやるんよ」

「つまりは大人と大人で、ですか」

「せやせや、明日からお化粧も、ええべべの着方もなろて、それで大人になるんをじいっと待っとき」

 

 余談であるが、数年後虎千代は天皇の庇護を受けた豊臣に臣従の意を示すため武田の代表として大阪城を訪ねた際に、齢十一歳の身で妊娠し出産した女傑とそれに種付けした変態と知り合うことになる。

 とにかく、このようにして―

 

 虎千代にふと疑問が浮かぶ。

 自分のこの薄っすらとした切れ目と、三条の方の少し色づいた肉谷。そこはまるで同じものに思えなかったのだ。

 今はまだ、やがて自分も三条の方のような黒色が生えてくるのか、それとも肩まで伸びたこのくしのようにまっさらか。

 むずむずとした好奇心に押され、虎千代は三条の方の後ろ姿に手を伸ばした。

 

「はうっ、あ、やあ、やや、んっ虎ちゃんあかん、あかんて」

「へえ、こうやって声を挙げさせていたんですねえ」

 

 改めて衣服を着ようとした三条の方に後ろから抱きついた虎千代は、一気に自分めがけて引き倒すとそこはどうなっているのかと自分とは色も形も違うワレメをなぞり、うっすら皮に包まれた淫豆を触ってぴくんと体を震わせた三条の方に声をあげさせる。

 そのままぴんと足を伸ばして悶える三条の様子をくすりと笑い、部屋の奥へと引き込んでいく。

 

「いいんですか? “他の人に見られてはいけない”んですよね」

「んんっ、この、早稲なことしくさって……えいっ」

「んひっ、あひゃ、あひゃひゃひゃ!」

 

 お返しとばかりに三条の方は虎千代の体に抱きつき――流石に同じようにいたずらするのはまずいと理解し、こしょこしょと脇や足裏をくすぐっていく。

 

「うひひひぃっ、ちょっと、やめっうひゃあひゃあ」

「ほい、やくたいなことすんにゃったら“ぺちん”や」

 

 ついで、まだ口を開かず生え揃ってもいない淫唇をなぞってやり返し、二人は旦那がいない間の近臣にも言えない一時を笑って過ごした。

 馬鹿なことだが、少しだけ世界に色がついた瞬間だった。

 

 ―このようにして、虎千代はこの後も初潮を迎え晴信とまぐわう様になるまでも、それからも、女性陣からこっそり手ほどきを受け、または授けていく。

 そして年が明ける前、旧暦の冬が近い師走の終わり頃に晴信は帰還することとなる。

 彼を待っていたのはいつも通りの父の冷めた目、母のなんとも言えない距離感、勲功に湧く家臣たちの歓びと……部屋で待つ、白と萌黄の衣で見事に正装し、女性の出で立ちと着付け、初々しい化粧を覚えた虎千代だった。

 

「おかえりなさいませお館様、この度のご出征は」

「良くないな、その服。赤が足りねえ」

「………………」

「ええで、どついたり」

「にゃーーーー!!!!!」

 

 正室の許しを得た側室の拳が見事に夫の真芯を貫き、晴信は帰ってからいらぬ手傷を負うことになった。

 

「ふむふむ…そうやるんですね」

(……何やってるんだ俺)

 

 その後、晴信のあまりにもな発言は子作りの様子を一度だけ垣間見ることで帳消しとされた。

 三条の方の日記には記されることがなかったが、武田義信が産まれる十月十日前のことである。

 

 時は流れ1541年、晴信が家督を相続した新たな武田が動き出した。

 越後長尾家の圧力で動きを封じられた山内上杉家の助力を得ることが出来ない滋野党は武田家に対抗することが叶わず、海野平野は合戦というほどの戦いにまで発展しないまま武田・諏訪・村上・長尾の連合に割譲され、滋野一族は主要な面々を残したまま武田家と山内上杉家に分かれて仕えることで後の世に命脈を繋いだ。

 

 その後、戦後処理の最中に飢饉対策の徳政令を渋る父を今川と連携して駿河へ追放した晴信は、北条との外交に加え反為景派を抑抑えるため外征の余裕を無くした長尾家からの願いで「勝手に諏訪と和睦した山内上杉家への代理報復」の一環として、村上との非戦状態を保ったまま諏訪を討伐すべく動き出すことになる。

 しかしこの戦いの直前、晴信は虎千代を蝕む奇妙な異変に立ち向かうことを余儀なくされた。

 

 

 

 旧夏を目前に控えたその日、晴信と三条の方は忙しい執務と育児の合間を縫って躑躅ヶ崎館の私室で落ち合い、虎千代を襲う奇異な異変について話し合っていた。

 

「育ってていないか、やはり」

「はい……一寸たりとも」

 

 虎千代は数えて十二となる。一子を為してからは赤子と一緒に読み聞かせをやり、三条の方は育児の傍らでも虎千代をないがしろにはせず、その時に備えて餅米や小豆を用立てて祝いの準備を怠らなかった。

 しかしその願いも虚しく、虎千代はこの甲斐に嫁いだ時のまま、まるで加齢が止まってしまったかのように背丈が伸びていない。

 異変はそれだけではない。

 日々の鍛錬というのは年月のように積み重なり如実に現れる。だがここ数日、虎千代の武の冴えわたる様子があまりに著しいことが晴信には気がかりだった。

 

「何故こうなるんだ? 親父を追っ払ったのが気に食わんだけじゃないだろう」

 

 思えば、信虎を追放したことが全てのきっかけだった。

 昨年、体よく今川に擦り付けた父の背中をしたり顔で見送る晴信のとなり、虎千代は雰囲気を一変させたかと思うと急にぽつりと呟いた。

 

『はて、これは“義”であろうか。よろしくない、よろしくありませんよ』

 

 待て、義とは何だ? そう聞き返す暇もなく虎千代は背を向けて廊下を駆けていった。異変の始まりはその時からだ。

 膂力は日に日に増し、いまや子供の体でありながら馬上刀や大身槍を前にも増して軽々と振るえるようになった。

 槍を掲げれば光をまとう、それは武田流の風林火山陰雷の術とは異なる輝きだ。気性の荒い月毛さえ、その威光にふれると途端にいななきを止めた。

 兵法を実戦してみれば、兵は無貌となって人形遊びのように付き従う。まるで砂に水を流すような滑らかさで整然とした行軍をやって見せた。物見台から見下ろすその陣形は、まるで車輪の回るかのような見事さであり、傍らに控えた高坂も舌を巻いていた。

 これを年端も行かぬ女がやっているのだ、晴信はとっくによからぬことが起こっていると気づいている。

 

「晴信様、いったい虎千代はどうしてしまったのでしょう」

「分からん、八幡神社の神官に陰陽師や呪師、あと最近仕えだした滋野の仕官や術師にも聞いてみたが……」

 

 誰も少女の身に何が起こっているか察することは出来なかった。何も打つ手がない。少女は少女のままに、思いもよらぬ何かに成ろうとしている。

 

「こちらも、姉君に仔細を記しお伝えしましたがいまだ音沙汰がありません。かくなる上は虎千代の御母堂や為景様にお尋ねするしか…」

「答えが、返ってくるかな」

 

 晴信にはよい便りがあると思えなかった。

 先日、この躑躅ヶ崎の鼻先で演習のため兵を束ねていた虎千代を思う。

 側室が勝手に夫の家臣団を動かし練兵している事これ自体が異様なことだ。しかし誰もソレを真っ向から咎めようとしない。

 ここのところ、虎千代の放つ異様に気にあてられると何の疑念もかき消えてしまう。武田の法が破られているのに、虎千代の差配こそが正しいという強く白い光に目を塞がれる。

 

(師や俺も危ういんだ、他の連中には無理もない)

 

 浪人衆や外様ならまだしも、近習や親類衆、挙げ句家老さえこの輝きに抗うものは体調を崩しがちで、唯一無事と言って良いのは晴信とその小姓に三条の方くらい、他は三条家の者も虎千代が傍を通ると平伏する有様だ。長尾家の頼みで諏訪攻めを控えているのに、その長尾の娘が全てを取り仕切りだしている。

 怪異の原因は分からない。ただ、それを悪化させているものだけは心当たりがあった。

 

「いっそ、あの像を壊してみるか?」

「晴信様……そんな罰当たりな」

 

 三条の方は思わず青ざめた。

 晴信が鷹揚に指してみせたのは仏像。先の日を境に、虎千代がここ数年手ずから彫り貯めていたという謂れのものを配り始めた、毘沙門天の念持仏だ。

 ここのところ東西でもてはやされる戦神である、多くのものはその巧妙な仏像に喜んだが、晴信には加護ではなく祟りをもたらす化性に見えていた。

 

「そうか? 俺にはあれこそがこの騒動の元凶に思えるのだが」

 

 三条の方も、指摘されれば縁起物として渡されたこの像から放たれる得体のしれない気配を見て見ぬふりは出来ない。

 実家から定期的に送られてきたという木で彫られた仏は、遠目にこそ清廉な気を発する戦神毘沙門天だが、天辺から足元まで一欠片も汚れのない像はかえっておぞましくさえ在る。

 だがそれでも、仏像を傷つけるといった行いは即ち呪詛、例え国主であっても許される行いではない。女の身では身震いすることしか出来なかった。

 

「晴信様、そのような無体はおやめください」

「そこまで言うなら、逆に試し割をしてみたくなったぞ」

 

 ふんと鼻を鳴らした晴信はすがる三条の方を押しやると、乱暴に毘沙門天をひっつかんで力を込める。

 しかしびくともしない。漆などで塗り固めているわけでもないのに、まるで小柄でも握ったかのように頑健だ。

 

(硬すぎやしないか?)

 

 いくら潰そうとしてもびくともしないことに痺れを切らした晴信は、ならばと大きく息を吐いて鎖骨を通じ丹田に熱を集めていく。

 後の世で魔力放出と呼ばれる技法、晴信のそれは炎を伴って行使される。

 木ならばそれで燃えるはず。燃えないというならこれはあやかしに違いないと決め打ち、掌に力を流し込む――

 

「うひゃあああ!?」

 

 向う見ずな晴信の暴挙を三条の方の悲鳴が留める。ハッとなって三条の方の視線の先を見ると、部屋の角から一匹の小ぶりな黒蛇が此方を伺い舌なめずりしていた。

 いつからと疑問が浮かぶ。しかしそれよりも、ここで逃して今は登城している曽根と共にいる三条の方の太郎が噛まれでもしたらと恐怖で唾を飲み、まず殺すと決めた。

 

「ひぃ、は、晴信様、蛇、蛇が!」

「動くな、今仕留める」

 

 無作法に投げ捨てた仏の代わりに脇差しを引っ掴んだ晴信は素早く踏み込んで影のような蛇めがけて鋭く切りかかる。

 蛇は風のような一刀を凌ぐほど俊敏に動いた。

 

「…む!?」

 

 くねりと峰目掛けて体を捻り白刃を躱したかと思いきや、すわ噛みつくのかと身構えた晴信を尻目にひょいっと壁目掛けて跳び、そのまま部屋の隙間に潜り込むと姿を隠してしまう。

 刃物の構造を知らなければ出来ない避け方だ。到底蛇のやっていいことではない。

 

「なんだ、今の動きは……」

「三条の方!」

 

 二人して呆然としていると廊下から件の虎千代が飛び込んできた。

 思わず身構えたが、“今は違っている”ことに気づき、胸をなでおろしてから蛇が出たことを告げると、まあと驚いた虎千代は「蛇狩りですね、この毘沙門天の化身に任せてください! 」と声を上げて嵐のように走り去っていく。

 普段なら品がないと叱る三条の方も、虎千代に蛇で疲れ果ててしまい、侍女らを呼びつけるとフラフラしながら部屋に戻っていった。

 一人残された晴信はまず考えた。

 

(今夜は源助に夜這うか、いや今日こそ弥七郎を口説き落とせるかも……)

 

 本当に至極どうでもいいことを考えた。色々あって疲れているのは晴信も同じである。

 現実から逃げるように色気のある和歌など考えていると、またしても晴信に用がある者が現れた。

 

「晴信、少しいいですか」

「おや珍しい、どうされました母上」

 

 尼姿の母が訪ねてきたのは晴信にとっては今日一番の驚きであった。

 母である大井の方は政略婚とはいえ、慣例通りなら父についていくか実家に帰ると思っていたのだが、こうして甲斐に留まり日頃用事もなければ特に自分と話すことはなかった。妻たちとは偶に何か話していたようだが、晴信は父の件もあってなんとなく声をかける気が起きず、何もしなくていい距離を空け続けていた。

 

「あなたに話しておきたいことがあります。暇はありますか?」

「なんです? 母の申されることならいくらでも構いませんよ」

 

 大井の方が部屋に入ると晴信は自然に居住まいを正し席を譲った。

 気まずいが、晴信としては母のことは嫌いではない。自分を岐秀元伯に引き合わせてくれた教育熱心さに救われたのも事実だからだ。そして親父を追放するときも、何故か一言たりとて反対せず、むしろ無言で賛成の態度を取ってくれた。

 今の武田は晴信のものだが、その道程を基部から築き上げたのがこの大井の方だ、敬い以外の念は持たなかった。

 

「……そうですね、何から……まずは引き合わせるとしましょうか」

「お客人がおられるのですか?」

「ええ……もう出てきていいですよ」

「ははっ」

「おっっ……!」

 

 先ほどの黒蛇が母の裾から顔を覗かせた瞬間、晴信は思わず叫びそうになった。

 そしてその蛇が影に融けたかと思いきや、そこから眼帯をして派手に着飾った小柄な娘が出てきたとあってはもう絶句する他無い。

 滅多にしない驚愕の面持ちでわななく晴信を尻目に、その少女はすっと会釈し名乗った。

 

「改めまして、武田が御曹司にはお初お目にかかる。拙者滋野の一流にして今は甲賀望月の末。荒行と宿縁により授かりし忍びの技を以て御母堂にお仕え致すチヨにゴザル」

「滋野に忍者が居たのか?」

「いえいえ、滋野といっても海野平辺りには一度も行ったことはございませんので、気にせんでくだされ。むしろこう、チヨちゃんってばこんな田舎よりは京の都近くで育ったのがウリでゴザルんで流行りに詳しい都会の者として扱ってほしいっていうか」

「喧嘩売ってるのかお前」

 

 晴信は眼前の傾奇者のいでたちをした小癪な小娘への評価をどう定めるか考えあぐねいた。

 息子の苦慮を見かねて、大井の方が口を挟む。

 

「チヨ、挨拶はそれくらいにして本題に入りなさいな」

「ははっ」

「本題……はさておき、母上はどうして忍びを飼っているのですか」

 

 暗に何故当主の自分に一言も言わずにいたのかと不満を含ませた言い方だが、大井の方は欠片も意に介さず返事を返した。

 

「私のやることは全てお前のため、そして武田のためですよ……チヨには、虎千代殿のことを探ってもらっていたのです」

「作用。ではでは、お聞かせいたしましょう。このチヨが歩き巫女、山伏、夜鷹、あと虚無僧に山賊や飯炊き女など七変化して越後で探った虎千代殿の事について……そしてここ甲斐で何が起こっているのかもネ」

 

 可愛いとか、都会的とか、おそらく本人だけはそう思っているであろう仕草をしながらチヨは語りだす。

 晴信は母に目を向けるが、首振りと沈黙だけが返事だった。

 

 

「で、どうして母上はチヨを長尾に忍ばせたのですか。その様子だときっと親父にも内緒だったのでしょう」

「晴信、お前は母をあの為景と送り込まれた娘をそのまま信じるすくたれものと思っているのですか」

 

 為景とは通説的に下剋上の代名詞だが、大井の方は為景を突出した野心家と見なしていない。戦国の雄は「出来るのだからやる」という定石で事を動かし、欲に溺れないものだけが生き残れると人生から学んでいる。

 そんな男が送り込んできた娘は――なんとも妖異なものであった。

 ひと目見た時、大井の方はいっそ誘いに乗って殺すべきかと逡巡した。しかしそれを止める気になったのは晴信の態度故だ。

 

「あなたは結局まだあの子を戦場に連れて行っていませんね」

「当前です。アイツが負けを認めるまで、俺はそんなことはしませんよ」

「だからですよ」

 

『男が女に負けたままでいられるか』

 

 そう吹いてみせた我が息子はその少女に気圧されながらも人と見なし、そのように扱った。そしてただの負けず嫌い故に家に置き戦場で“使う”ということをしなかった。

 ならば――虎千代はモノではない。わが義娘、武田の一人である。

 長生きした戦国の女とは強くしたたかで、老獪だ。母として武田の“家”を支える気概に満ちた大井の方は、三条の方でさえ善人とは認めるが欠片も信じていない。一方、身内且つ善人であるからには切磋琢磨し報われて欲しいと願う、矛盾した慈悲も抱えている。

 その相克が虎千代を知るためにチヨを雇い入れる決断をさせた。

 

「いやオドロキでござったよ。いつも通りノンキしておったらたまにしか便りのない都の八瀬童子共からえっらい圧をかけられ、急に拙者が代表して武田の奥方に仕えることになっていましたのでな」

「その件では三条家には大変お世話になってしまいました」

 

 カラカラと笑うチヨに不満の気はない。むしろ晴信と虎千代の様子を遠巻きに、たまに近臣に変装して近くで盗み見て、オモシロイ家に来れたと満足していた。だから命に従い長尾に忍び込んだ。

 長尾家にも本来なら後に謙信が重宝した軒猿衆の、その原型となる草たちがいる。しかし景虎が家督を継がず、家督は譲ったが存命な為景の影響が残る中で窮屈に政治をする晴景の統治下であれば、隙を見つけチヨが長尾家に忍び込むのは容易いことであった。

 

 かくして、晴信が初陣を終えた頃に越後上杉の春日山城に潜り込んだチヨは「親縁のつてで紹介された三十路の日雇い女」として、役目を終えるまで長く仕えることになる。

 

「お前が、三十路? そうなのか?」

「ハッハッハッハッハ、拙者らに言わせれば若返ると縮むは困難ですが老ける、太るほど容易いことはありませんとも」

 

 すっと顔の筋肉だけ動かしてババの顔をしてみせると、親子は揃って目を丸くした。

 それからどうしたかと言うと、チヨは当初何を調べれば良いのやら分からないので片っ端から情報を集め、やがて虎千代の預けられていた林泉寺や、虎千代を取り出した産婆などから諸々の事情を伺うことに成功した。

 

「わずか数年しか居なかった娘のことを早々とそこまで調べられるなんて、やるじゃないかお前」

「やや、虎千代の姉君と天室光育和尚には事情を脚色してお伝えましたんでな、とっかかりを作るのは楽なものでしたぞ」

「……………なんだと?」

 

 晴信はチヨの正気を疑った。自分が忍だとバラすのは自死と何が違うのか。

 その様子を見たチヨは不敵に微笑んで答える。

 

「勘違いめされるな御曹司、私が胸の内を打ち明けたのは、何度か通う内にお二方が武田に嫁いだ虎千代様のことを今も心から心配しておいでだったと察したからです」

 

 小坊主、小姓、髪結い。人に近づく真似ならチヨはいくらでも心得ている。そうして噂など吹聴し、言伝など頼まれたことにして通い詰めることで、二人の心に入り込むことは容易い。

 住職も、綾御前も、虎千代があちらで良くされて暮らしている事を聞くと我が事のように喜んだ。

 今の長尾家の様子や軍略を漏らしたのであれば利敵行為ではある。しかしあの娘の現状はどうかと、軽いことを教えて喜ばせ、思い出話をねだる程度なら容易い。喜車の術にかかれば、かように口が軽くなる。

 故に術中にはまった二人はむしろ率先して手助けをしてくれた。チヨがこうして“間に合った”のは二人の働きあってこそだ。

 

「さてさてそれから……ではまず、御曹司は先ほど虎千代殿がなんと叫ばれたか覚えていますかな?」

「叫ぶ……ああ、毘沙門の化身…とやらか?」

「そう、毘沙門天。あちらの事情が動き出したのも全てはそれが始まりでござった」

 

 それから、日々の雑事をこなしつつ長尾家と虎千代について調べる日が続いたが何も収穫がない。

 ただ生まれつき母と父からも疎まれ、健康を願う捨ての儀式とは全く異なり、真の意味で捨て置かれるように寺へ送られたこと。そして3月経たない頃には既に首もすわってすっと立てるようになり、三歳には今と全く変わらぬ風貌になっていたことが分かったくらいだ。気がつけば言葉を覚え、軽々と武器を振り回し、僧兵の用いる弓馬の道を見稽古で覚えてしまった。

 だが、何故そのような赤子が産まれたのか、寺の小坊主は誰も答える事ができない。かといって長尾古参の者はこと虎千代について口が硬い。

 それでも根気よく当時の様子を知る人物を探して虱潰しに調査を進めていたある時、住職から一つ調べて欲しいことがあると相談を受けた。

 

『実は、寺には置かない仏を彫るための木材が値上がりして困っておるのです』

 

 信心するにも三文の得がいる世である。その程度なら新月を待って問屋に潜れば良いのでさっと終わらせることが出来た。

 原因は虎千代の実母、為景の後妻である青岩院だった。

 彼女は人を遣わしひそかに小ぶりだが良い木材を買い求めると、たまに虎千代へ宛てられた綾御前の手紙に混ぜてそれを送っていた。つまり上客が付いたからこっそりと値上げしていただけなのだ。

 

「もともと、春日山でも綾御前殿と同じく信心深いことで有名な方でしたからな。しかも虎千代殿が寺におわした頃は木の細工をなさっていたという調べもついていたので、まあ変わった贈り物ですがこれも親心かと、その時は何故木を欲したか深く考えず見過ごしてしまったのです」

 

 チヨは留まるだけが仕事ではない、家中の忍びの隙を見つけたらしっかりと大井の方と連絡を取り合っていた。

 そして「ある日を境に虎千代が奇妙な毘沙門天像を配るようになった」という知らせが届くと、チヨは首をかしげるしか無かった。木は出処が分かるから良いとして――武田家中を見て回った時から疑問だったが――虎千代が何故毘沙門天に執着するのかがとんと分からない。

 

 まず、虎千代のいた春日山林泉寺で最も尊ばれて祀られているのは毘沙門天ではない、釈迦だ。念のため住職に問うと、毘沙門天像は祀っているが、嫁入りまで預かっただけの虎千代には見せていないという。

 なお、史実では林泉寺に正式に入山し毘沙門天と対面したのは7つの時であり、今回輿入れしたのは6つの時である。

 長尾にゆかりのある氏神は奈良から寄贈された春日明神、神獣は鹿、チヨから見たら虎千代と毘沙門天を結びつけるものが何もない。

 

 そこまで話して、一息ついたチヨは白湯を飲み干すとぽつりぽつり愚痴をこぼした。

 

「そもそも、越後で毘沙門天と言えばあの御方でござるからなあ……分からんでござるよコンナン」

「……ああ、そういえばそうか」

 

 顔を見合わせて神妙な顔つきになる両者に、大井の方は手づから代わりの湯を注いでやるとはてと疑問を口にした。

 

「おや、二人共心当たりがあるのですか」

「ええまあ……母上は武に縁のない女ですからご存知ないでしょうが」

「ま、失礼な子。チヨ、説明なさい」

「お待ちくだされ、それも順を追って話しますので……あと影蛇で虎千代殿を遠ざけねば。あの方の耳は侮れねえでゴザル」

 

 こほんと咳払いし、結印して字を切ったチヨは続きを話し出す。ドタドタと走って蛇を探している虎千代の足音が遠くへ響いていった。

 

 

 八方手を尽くしたが、虎千代の過去につながる手がかりはその毘沙門天くらいしか残されていない。チヨは当初、もしや長尾家には毘沙門天に祈願して超人を造る渡来の術でも秘蔵されているのかと勘ぐり、地図などが仕舞われた立入禁止の書庫、あるいは呪師の工房までくまなく探った。だがそのような術はあらず、どこを探ってもどうしても何があったか、どうして今虎千代が怪力無双・仁者無敵と言わんばかりの振る舞いをする幼子のままでいるのかが判明しない。

 

「そのような仕掛けを胤か胎に施したのであれば姉君にも影響はあるはずですからな。しかし綾殿や兄晴景は普通の人でした」

 

 つまり虎千代にだけ“何か”をしたことになる。となると関与出来たのは家ではなく個人、実母だけだ。

 仕方なくチヨはどうにか青岩院から情報をかすめ取ることにした。

 布石はずっと前からばらまいてある。彼女は前当主の後家、現当主の継母として栖吉との仲を保つ忙しい日々を送っている。しかしながら、家人には当主の務めを果たしている義息子と遠くに行った娘の無事を願う為と告げて、欠かさず林泉寺に参拝する習慣があった。

 チヨは参拝する少数の侍や女房達の従列に加わった事がある。無論、近臣の娘でも近縁のものでもないチヨは、ただ偶然流行り病らしきものにかかってしまった不孝な荷運びが治るまでの数回限りの代理である。念のため用立てた解毒薬の高価さこそが問題であった。

 そこで次は哀車を回す。暇があれば目上の同僚たちに深々と平伏し、また青岩院様の信心に感服した、自分は石女だから子宝に恵まれたことが心底羨ましいなどと口八丁で同情と憐憫を売って取り入り、女の病が治ってからもたまに歓談するほど親しい関係を続けておいたのだ。その繋がりをようやく使う時が来た。

 そして、ある時“たまたま”青岩院が近くを通りがかった時に、少しばかり大きな声で話をしたのだ。

 

『実を申しますと、恥ずかしながらこの愚昧はあいにくと仏道に暗いのですが、そういえば青岩院様はどうしてその毘沙門天なる御仏を信仰なさっておいでなのでしょう』

 

「また無茶を……」

「これしか無かったのですよ。チヨとて好き好んで下策はしたくないでゴザル。しかし、どう探っても毘沙門天、青岩院、虎千代が結びつかなんだ」

 

 結果として、女房達の勘ぐりを聞きとがめた青岩院からお叱りを受けることになった。つまり成功したわけだ。

 

「彼女はこうおっしゃりました」

 

 ――ですが、そのように仏道を信じようとする態度は褒められるものですよ。これは思い出話ですが……

 ――私は虎千代を授かった日から安産のため、そして長尾家のため林泉寺に参拝し続けました。

 ――そしてある日、さる僧の勧めに従って寝る前に祈願するとなんと夢で毘沙門天様が口に飛び込んで来られました。

 ――故に私は、毘沙門天様が戦乱の世を平定する役目を化身たる我が子に授けたのだと信じているのです。

 ――そう、虎千代は必ずや母の願いを叶えてくれるでしょう……

 

「…………なんですかそれは」

 

 大井の方は白けた様子だ。ようやく疑問が氷解するかと思えば、それは単なる仏教説話のような戯言。

 毘沙門天はあくまで戦神か福の神、世を平定するとか、そういう役目の仏ではないと女でも知っている。

 暗澹たる面持ちの二人とは対象的だった。

 

「つまり、ほんっとうにそういうことか? で、口に飛び込んだってのは?」

「まあ、時期が分かったのでもしやと思い当時の日記や帳簿を辿ったら、ソレと思わしきものを手に入れた痕跡が……比喩ではないでしょうな」

「バカじゃねえの、マジでやってんじゃねえよ、イカれてんのか」

「いったいどうしたのというのです?」

 

 心底疲れ切った様子に大井の方は怪訝そうな目を向ける。

 袖で汗を拭った晴信は「馬鹿なことを」とぼやいて姿勢を崩してしまう。それを見たチヨはぽりぽりと頭を掻きながら、非常に言いにくそうに口を開く。

 

「実はですな、毘沙門天だけならよかったのです。だが、“越後”で“毘沙門天の化身”となると話が違ってくる。それは全く別の意味がありもうす」

 

 もう足音は聞こえない、鳥は優雅に眠り、風は音もなく佇んでいる。

 四方に広がる戸惑うほどの静寂の中、チヨはただあの娘の不憫さを憐れみ、この騒動に巻き込まれた尊き御方に黙祷した。

 

「珍しい、いつも軽口の多いあなたにしては随分と口が硬いですね。そんなに言いにくい……」

「征夷大将軍、坂上田村麻呂です」

「は?」

 

 かつて、この国には『毘沙門天の化身』と讃えられた討夷報国の忠臣、一騎当千と謳われあらゆる魔性を滅ぼした神の如きモノノフがいた。

 

「“越後守”にして、奥州の毘沙門堂に百八体の毘沙門天像をお納めになり、御門に仇なした者を悉く滅ぼし世を平定した武神……本人も気づかぬまま混同されている様子でしたが、青岩院殿の口にした毘沙門天の加護とは、どうやら神仏の神通力のみならず坂上田村麻呂の偉業を示しているようで……」

 

 ――死後、坂上田村麻呂の遺体は山城に葬られた。

 しかし越後守であった彼にまつわる霊地は今も新潟に数多く存在する。特に、史実でも上杉謙信は小栗山の『不動院』に帰依し新たな寺を建立するなど、毘沙門天の化身の先達に大変礼を尽くしているのだ。

 上杉謙信と田村麻呂はそういう点でも深いつながりを持つ者同士だった。

 そして、此の度の青岩院は、両者の区別が微塵もついていなかった。まるで本地垂迹のように、田村麻呂の偉業とは即ち彼が毘沙門天の化身として成し遂げたものであり、毘沙門天の加護とはそういうものであると心から勘違いをしていた。

 話していることが自分でも信じられず、主人の顔を見るのがおっかないチヨはフスマなどに目をそらして話を続けていく。

 

「……番役などの言い分が正しければ、青岩院殿はその、本当に仏骨というものを旅の僧から得られた。ですがそれだけではなく……」

「言いなさい」

「しかし、これ以上は田村様や都のお歴々にも恥が。それはあまりにも恐れ多い」

「臆せず言いなさい。私が言えと言ったのです、あなたは何も気に病まなくてよろしい」

 

 主人の気遣いに感謝したチヨは晴信にも目配せして姿勢を正しあい、改めて主人の顔を見た。

 夕暮れの色に染まりだした顔は見たこともない者の正気を疑い、真意を測りかねている様子だった。

 

「……恐らくは仏骨が微量だったのでしょう、仏骨以外に様々な物を買い求められたようで……拙者の里の同胞たちに事の仔細を伝え、堺で豪遊していた長尾家に出入りしたことのある商人を締め上げさせたところ全てを吐きました」

 

 財産を焼き払われた後に目耳鼻及び顔面を削がれ、更に頸から上と胴体以外の全てを失い、最後は八瀬童子に連れて行かれた商人の愚行は最悪の一手だった。

 売り先が武将の家なのだから、神に捧げるなどして単なる戦勝祈願に使うのだろうと踏んだ商人はこっそりと賄賂をばらまき悍ましいものをしこたま仕入れたのだ。

 

 ――坂上田村麻呂の墓所の土と棺桶の中身、あげく春日大社の神獣の角片

 

 信長が将軍と合流するまで、多くは貧乏ぐらしをしていたのが戦国の貴族である。金の力には誰も勝てなかった。

 思わぬ話のトび方にさしもの大井の方も言葉を失って目尻をピクピクと震わせている。目と口元は親子揃ってそっくりだなと、言うだけ言ってスッキリしたチヨは呑気な事を考えていた。

 それでも、遥か都と越後の方へとんでもない阿呆を見る目を向け、どうにか気息を整えた大井の方は冷静に事実を俯瞰した。そして、仏道をかじったつもりの女が思い違いで変なことをした結果の偶然だったのだろう。ただそれだけであると断じて多少小馬鹿にした声を出した。

 

「まあ……聞く所によると青岩院はかつて女房衆であったと存じあげています。故実や秘伝を知らぬ女であればその程度の勘違いをして的外れな祈願をすることもありましょうや」

「いえ、実はその後、為景殿の右筆など側近を務めた方々からもそれとなしに話を聞き集め、念のため日記を盗み見たのですが……口にしたというのは比喩ではなく、妻は本当に仏骨を食んだと言っていたなどと為景殿が語られたことがあるそうで……こうなったからには、食べたのは仏骨だけではありますまい」

 

 死体を食べる習慣は世界のどこにもある。エジプトのミイラもヨーロッパで“健康食品”として貴族階級の珍味にされた歴史が存在する。また江戸では長崎経由で持ち込まれたそのミイラが乾物屋などを伝って漢方薬の原料にされたという記録が残されている。

 祟りを畏れず、尋常ならざる武辺者を意図して産み出すとするなら坂上田村麻呂の遺骸と墓土を謎の仏骨に練り込んだ聖餅は最高の呪的素材といえた。

 

「罰当たり者の気狂い共が!!!」

 

 大井の方が嫁いでこの方身に纏っていた外聞の全てを脱ぎ捨てて絶叫する。産まれて初めて母にここまでビリビリと鼓膜を揺らされた晴信も同じ心地だった。

 

 

 

 

「……つまり、虎千代は意図的に作られた『坂上田村麻呂』ってことか?」

 

 ――だとすれば武田の武士たちが当たり前のように付き従うのも当然だ。この日の本で坂上田村麻呂にひれ伏さない武者など、かの俵卿か吉備津彦、あるいはヤマトタケルといった古今無双の豪傑達以外にありえない。

 

「おそらく。そして作り上げた理由はあの女の願いのため、即ち“戦乱の平定”に他なりませぬ」

「坂上卿への無礼を承知で言わせてもらうが、無理だ。今更たかが一人で出来るはずないだろ」

 

 元々この戦国は、最後の最後で足利将軍が業務を捨てて「好きにしろ」ととんでもない事を言ってのけたせいで始まった混乱だ。裁判・調停が行われず、正当性を天皇や将軍が保証してくれないのであれば、当然地方領主や派遣された官人は自力救済をするしかない――だからこうして軍事力を整え領土拡大に勤しんでいるのだ。

 確かに、戦や政治を心得ない暗い女なら、坂上田村麻呂ならかつてのように国に平穏をもたらせると夢見るかもしれない。だが今それを平定する事ができるのは天下無双の武将ではない。朝廷と幕府を支え、諸勢力をねじ伏せる力と財をあわせ持った新たな時代の天下人だけだ。晴信には青岩院の理想はただの夢物語にしか聞こえない。

 

「さあて、この下忍が知恵を絞って考えましたが、虎千代が毘沙門天をばらまいた結果、武田の家が虎千代に服従しているのですからなあ。青岩院はこれを天下に広めるつもりではないでしょうか?」

 

 チヨは言葉とは裏腹にそんなことを出来るとは微塵も考えていない。

 体と異能は一心同体、いくら化身として化外の力を身につけたとはいえ、幼子の体でそこまでの力を発現すれば内側から臓腑ごと消し飛んでしまう。そういった危険性はこの場にいるものの中で一番身に染み付いている。

 

「……俺は戦に使わない術については門外漢だが、気になったことはこの支配のやり方の効率の悪さだな」

 

 人心を操る術を家中のもの全員にやる必要はない。誰が屋台骨かを見極め、その者たちだけを従えれば良い。

 

(ならば――狙っているのはこの武田……後は、そうだな、家柄は後妻の子、しかも女の身であっても一国を束ね武威を示せるなら後ろ盾を整えれば関東管領を得られるか?)

 

 その手の根回しは信虎や為景の最も得意とする外交だ。しかも、北信濃の小笠原と村上であれば長尾家なら同盟を結べるし、残る長尾家南進の“つっかえ”となる武田は内部から食い破られようとしている……

 

(為景め、これが狙いだったのか?)

「晴信、相手を過小に考えるのは愚か者のやることです。しかし過大に称え臆病者となってもいけませんよ」

 

憶測に囚われかけた晴信を大井の方がそれとなくたしなめる。

 

「為景は何も関与していないでしょう。全容を把握していたらまず嫁に送るのではなく武将として育んでいますよ」

 

 妻が仕入れたもの一つでも朝廷に告げるだけで長尾は家格どころか全てを取り上げられる大失態だ。自分が親なら国から娘を出す選択肢がない。

 

 三人の見解は共通している。目的は不明だがそのための手段の一部は分かった。だが完成形、あるいは到達点が見えない。

 短い沈黙の中で、真っ先に思考をまとめたのは大井の方だった。

 

「チヨ、あなたは林泉寺と共謀して仏像のための材木運搬を妨げなさい」

「承知。しかして期限は」

「もし本当に田村卿にあやかっているなら108体というところでしょうか。どうやらこの躑躅ヶ崎を毘沙門堂に仕立て上げたいようですが、こちらの手はずが整うまでにはこれを満たしてはなりません」

「手はずと言うと、母上は対策が見つかったのですか」

 

 耳ざとく聞きつけた晴信に、大井の方は薄っすらと微笑む。

 

「ええ、晴信。簡単な手がありますよ。そのような側室とは別れてしまえばよろしい」

「――」

 

 母の言葉に、返す言葉も見つからず晴信は口を真一文字に伸ばす。

 

「常日頃無礼を働き、おんなの嗜みもろくに身に付けず、ましてまだ子を為せない身です。郷に返すことにどんな障がありましょう」

「ありますよ、母上」

 

 母の言葉は正しい。そして間違っている。

 虎千代はただの側室ではない。同盟のための“人質”だ。側室であるのは我儘で、遊びに過ぎない。

 今同盟が崩れれば、勢力拡大を危惧した北条、対立の深まる村上、上杉と長尾。これらに囲まれ孤立無援のまま武田家は滅びる。

 それ以上に、嫌なことがある。

 

(目が嫌だ)

 

 ――その瞳に振るえはない。

 ――いつも濁っていた。

 ――怯えることを知らず。

 

(あの馬鹿力が嫌だな)

 

 槍が掠めても泣かない

 馬に蹴り飛ばされそうになっても平然としている

 女として扱われていない自分をなんとも思わない

 

(そんなあいつを諦めるのが嫌だ)

 

 だから手放す気にならない。ここで妥協するのは敗北と同じだ。戦国武田の男が進んで負けるような真似だけはしない――

 

「なんで俺が手に入れた女を返さなきゃならない。戦国の男に許されるのは奪うことだけだ」

 

 そうふかして見せた晴信の顔は、母からすればなんとも嫌なことに、息子が嫌っている信虎の不敵さそのままであった。

 ――何故こうも、父も年々祖父に似ていったように男は勝手に真似ばかり上手くなるのだろう。

 人の不可解さに頭を悩ませながらも、ならばと続けた大井の方はチヨにすっと手だけで指図して見せて――

 

「え、マジでアレやるんでござるか?」

「私がお前に偽りを命じたことがありますか」

 

 重ねてやれと強く命じられた途端挙動不審になったチヨが何事か愚痴りながら姿を消すと、晴信はそれでと母に尋ねた。

 

「あいつに何やらせるかは知りませんが、俺は何を」

「いつも通りですよ晴信、あなたは三条と共に、いつものように虎千代に接しなさい」

 

 子が親を見て学ぶようにして、僧兵から武を学んだ。

 学問する晴信の姿から、書より学ぶことを得た。

 出陣する晴信の後ろ姿から武将の姿を知った。

 

 大井の方はなんとなく理解していた。

 今この瞬間も、虎千代は虎千代にとって特別なことなど何もしていない。

 ただ他の子供と同じように、学んだこと、知ったことを真似しているだけなのだ。

 

 青岩院は特別な子を求めた。そうして産まれた虎千代は確かに武神の力を秘めている。

 なら自分たちは特別に扱ってはいけない。彼女を彼女のまま、ただの幼子としてだけではなく、人として人の姿を見せなければならない。

 

「まずは母が道を拓きましょう。その後はいつも通り武の稽古には欠かさず付き合いなさい、学ぶ時は隣に置きなさい……そうだ、今度から一緒に仕事をして、歌も三条と一緒にお前も読んでやりなさい」

 

 ――本当に彼女が欲しいなら、できる限り、ずっとそばにいてやりなさい。

 

 そう言い残して、侍従を呼びつけた大井の方は部屋を後にした。

 母の背中を見送る晴信は、ふと離れた廊下の向こうに、空に浮かぶ月のような白を見た気がした。

 

 

 次の朝も、虎千代はいつも通りに動いていた。

 支度を終え、世話されるままに甲冑代わりの戦袍に身を包むと、毘沙門天を拝んだ後鍛錬に向かう。

 これまでと何ら変わらない。

 寺に居た頃は、起きてはただ茫洋として空の鳥を眺め、僧侶たちの仕草を見様見真似で覚え、時に聞きかじった経を唱えた。武田に嫁いでからはそれと――いや何も違わない。将としての心得と軍略を学び、立派な武将にならんと日々励んでいる。

 全ては――きっと■の――自分に与えられた使命のためだ。

 風が吹く、朝露の満ちた花の香に誘われる。口から、聞いたこともない言葉が漏れた。

 

「……見しおりの、露忘られぬあさがおの…………?」

 

 不要、不要、不要、不要、不要。

 脳が瞬く間に思考を修正する。

 いつしか聞いた言葉を忘れる。

 誰の送った言葉かを忘却する。

 視界が再び黒白二色に替わる。

 

 一瞬全てが立ち止まり、また全てが動き出す。武田の親族、家老、国衆を問わずみな虎千代の意のままに付き従う。

 仮に晴信であったとしても家人たちをここまで動かすことは出来ない。軍団のいずれもその動きに惑いはない。いつ謀反してもおかしくない一党さえ、彼女に逆らう素振りを見せない。

 

「虎千代殿」

 

 自分の名を呼ぶ声は、そんな虎千代が家中においてよく従うものの声だった。

 

「大井の方?」

 

 虎千代はまず彼女の格好に驚いた。

 普段通り、自分がお目通りする時の打ち掛けや装束ではない。包のような頭巾を被りやや上等な小袖を通し、果てはタスキを掛けている。

 大名の妻がするはずの無い、まるで端女のような格好をした義母に虎千代は唖然とした。

 

「いかがなされたのです! そんなお恥ずかしい…」

「あなたのためですよ虎千代、此度は次の戦に備えていると伝え聞きました」

「はい、その通りです。諏訪の地は私が平らにするつもりです」

 

 自分ならそれが出来ると紛れもない確信がある。“そこは自分の地だ”と、心の奥底から声がしている。

 事実、今の虎千代と彼女の槍のままに従う一軍なら諏訪を、ひいては信濃全土を瞬く間に制圧し――故郷越後への道を開くことが出来る力があった。

 そうですか、と頷いた大井の方はところでと優しく彼女に問いかけた。

 

「武将たるもの、武勇だけではなく戦のための有職故実や儀礼に詳しくなければなりません。虎千代殿は出陣前の儀式を存じているのですか?」 

「……ああ、そういえば!」

 

 虎千代はハッと声を上げた。迂闊であった、武将たるもの、軍神といえど、いやだからこそ儀礼を疎かにしてはならないのにと恥じ入る心地だった。

 戦装束こそ身につけているが、あまりにも年相応の恥じらい方をした虎千代に微笑みかけた大井の方は微笑みを崩さぬまま案内すると告げる。

 

「では私が手ずからに教えてあげましょう。此方においでなさい」

「まことですか! 助かります!」

 

 虚ろなままの家臣たちを置いたまま、ゆっくりと歩く大井の方に歩幅を合わせ虎千代はその背中に付き従った。

 うずうずと心がざわめく。儀式よりも、己の軍団を従えろとぐわんぐわんと声がする。

 だがしかし、“母には従わねばならぬ”と内(なかみ)が告げる。

 相反する二つに揺さぶられながら、虎千代はただ義母の背中を何も言わず見つめていた。

 

「これですよ虎千代殿」

「ほほう……???」

 

 居城の一角、まだ何も無いがいずれ改築されることになっている更地に一席が設けられていた。

 鮑・栗・昆布の三品が献ぜられた膳の前、南に向いた椅子に座った虎千代はぽかんとしてことの成り行きを見守っている。

 

「三献の儀といいます。大将は出陣前にこの三品を食して神酒をあおり勝利を祝わねばなりません」

「へえ、そのような儀があったのですね」

「ええ……では、食されるが良いでしょう。ゆっくりと、この順で一品ずつです」

 

 最初は鮑。硬い噛み心地がした。これは塩っ辛いというらしい。

 勝栗、鮑に比べたら柔らかい。甘いという味だ。

 最後に、昆布。噛みづらい、草を食べているような気分になる。味は、分からない。もしかするとこれが酸っぱいか苦いなのかもしれない。

 

 虎千代にとっては普段の食事と余り変わらないモノだ。しかしおそらく、義母には、ひいては兵たちには、武家にとってはたぶん意味のあるものなのだろうと感じられた。

 

「では、最後に神酒を……都で流行っているという清酒です」

 

 指し示されるまま食事を終え、最後にミキというものをまじまじと見つめる。

 匂いは、分からない。“先ほどまでの三品と何が違うのか”がさっぱり分からない。

 甘い、辛い、苦い、酸っぱい、渋い。全て虎千代には産まれてこの方縁が無い。

 ただ他人は美味いと言ってサケというものを飲んでいた。ありがたいとハクマイを食べていた。

 どうしてなのか、理由もわからないまま、虎千代はそれに従って生きてきた。

 

 此度も、実は少し違うのではないかと期待していたが、やはりいつもと同じであった失望、義母の与えてくれたというムズムズとする心の触感に苛まれながら、じっと透明なミキと盃を見つめている。

 

「さあ、それを一口で飲み干し勝鬨を上げる。それが三献の儀です」

「しからば……いただきます」

 

 盃を掲げる仕草をして、そっと口につける。

 そして水や茶を飲み干すように一気にゴクリと飲み――

 

「んぐへあああああああ!?」

 

 絶叫した虎千代はもんどり打って倒れ伏した。

 

『おやおや、どれ程改造してようがしょせんガキのカラダで御座ったナー』

 

 シャーシャーとヘビの鳴く声が耳を打つ。何をキサマと言い返す力も沸かず、全身にみなぎっていた霊妙な脈動さえ消え失せ、虎千代は悔しさを抱えたまま昏倒した。

 

 

 

「……大騒ぎだな」

 

 その様子を見下ろせる石塀から見守っていた晴信は、遠くから聞こえてくる喧騒に頭を抱える。

 本当に全員、虎千代が気絶するまで意識をなくしていたようで――普段いがみ合っているものや常日頃土地争いの訴状を送ってくるからなるべく遠ざけていたものも――あらゆる家臣たちが一同に介した場をこの後治める苦労はいかほどのものか。

 

「いやあ、効くもんで御座るね。拙者ちゃんの体ってどうなってんだろ」

 

 一方横のチヨはしたり顔で虎千代を悶絶させた清酒と同じものを舐めていた。

 都の酒というから、晴信としては少し味見をしてみたいという欲がある。しかしチヨの格好がそれをためらわせる。

 ここに来た時、既にあぐらをかいていたチヨはどういうわけかはしたない浴衣姿だった。湯上がりらしく髪も濡れており……それでも漂ってくる酒精の強烈さに晴信は距離を置く羽目になった。

 何がどうなっているのかわからなかっただろう――眼の前の忍者が蛇に変化出来ると知らなければ。

 

「ぅい、ひぃっく……しっかし高価い酒というのは浸かり心地も絶品で御座ったなあ」

 

 美味そうにげっぷも漏らした赤ら顔の女の言う通りなら、つまりそういうことだろう。蛇酒だったのだ、あれは。

 確かに虎千代は武神の化身だ。しかしカラダのつくりは根本的なところで子供に過ぎない。

 もし年相応の体であれば、或いは若い内から酒の味を覚えて慣れていれば違っただろう。

 だが三条の方は幼子に飲酒させることなど許すはずもない。それが今役に立った。こうして一時的にだがまた別の神霊の力で霊的な結合を破壊せしめた。

 

「……外だけではなくケンゴシなどもつこうてハラワタまで清めといたんで飲んでもダイジョブでゴザルよー?」

「いらんわ!!」

 

 ずいと差し出された一献を強く払い除け、晴信は嫌そうな顔をして母に看病されている虎千代を見やる。

 

「それで、効果はどれくらい続くんだ?」

「さあねえ、拙者に宿った伊吹明神の呪を余さず漏らした神酒ですが、神前に供えた期間があまり長くありませんので……」

 

 今年いっぱいが限度かも。くいと手元を傾け、一切希望の混じらない観測を述べたチヨは酔人と思えないはっきりとした目を向ける。

 

「つまり御曹司も今年中にやらねばならんというわけです。お覚悟はよろしいか?」

「俺を誰だと思っていやがる」

 

 蛇眼を睨み返し、すっと立った晴信は母の懐でぐっすりとくつろぐ虎千代の寝息を受けて動き出す。

 

「今年どころか、秋までに諏訪明神の巫に謁見すりゃいいんだろ。楽勝だ」

 

 不敵に笑ってみせた男はいまや一戦交えようかと殺気立つ家臣たちへと声を荒げる。

 

「待て! その諍いは俺が預かろう!」

 

 かくして、上杉謙信が鍛えあげた軍勢により、史実よりも早く武田の諏訪攻めの準備が整おうとしていた。

 

 

 佐久で生じた山内上杉への恨みで諏訪を殴る準備は着々と整いつつある。その諏訪攻めを武田家単独で成し遂げるのが晴信に与えられた第一の試練だった。

 この戦いでは史実のように高遠と連携する事ができない。“虎千代らしきもの”に振り回され牛耳られた時間の浪費で、晴信の最も得意とする外交と離間工作のための下準備を封じられてしまっている。

元来武田にとっての勝利は……最終的には何処と言わないが湊を得ることであり、そのための安全な街道が手に入るのであれば、向こうはどう思っているか知らないが高遠氏と諏訪を分け合うのが上策だ。だが虎千代の事情がそれを許さない、晴信は彼女のために諏訪明神を奉る土地の盟主とならなければならない。

 これは師である岐秀元伯の献策によるものだった。

 

 母と久々に長く話した翌日、一睡もせず慌ただしく乾物を用意している母の言いつけで、晴信は愛馬で当時は南にあった長禅寺に走った。

 秋の前とはいえ肌寒さの残る季節だ。風切るたびに体が冷えるが、それでも強く馬を走らせると日が昇り切るまでには着いた。既に寺の門は開かれており、坊主たちは冷水に負けず寺を磨くなど修行に励んでいる。そして彼らに案内され、誰より早くことの仔細に気づき、大井の方に助言し、自身は多くの典籍や経を読み解いて策を講じながらずっと弟子の決心をただ待っていた岐秀元伯に面会した。

 

『晴信、人として生きるなら仏に倣い心を鍛え、兵として死なぬには運と因果に頼り、武将として栄達を望むのであれば孫呉の薫陶を受け兵法を鍛えるのが道理だ。しかれども、人ならざる神仏や邪妖に人の身で立ち向かうとあっては、また別の神仏の加護を授かる他にない』

『となると師よ、俺は不動明王が好きなのですがどうでしょう。良い仏だと思いませんか、炎で赤が映え…………申し訳ありませんでした』

 

 晴信は本気で言ったが、蝋燭に照らされた師がすっと無言で机の端にあった独鈷杵を振り上げたとあっては頭を下げ言葉を撤回するしか無かった。

 

『相手は毘沙門天、ひいては大将軍坂上田村麻呂卿の……おそらくは残滓とはいえ、不動尊では俊仁と唐土の縁もあって相性が悪い。此度は此の地にも縁があり、田村麻呂に神徳を授けたこともある諏訪明神を頼れ』

 

(諏訪明神ねえ)

 

 晴信は基本神通力を信じるが神仏の存在を自覚していない。幼少のみぎりから、山にかかった暗雲を飛ぶ雷、妖力を得た獣にぺろりと齧られた村々、天狗に攫われた者の残骸を見ることはあったが、神仏に救われたものは見たことがない。

 神仏の加護を得るほどの者であれば、師である岐秀元伯のような一握りの者を知っているが、仏そのものを知った気になれなかった。

 

『そのためにはまず、諏訪の地を得てお前自身が諏訪と脈を繋ぐ必要がある。晴信、お前は一人の女姓のために縁もゆかりも無い者たちに地獄を見せるか』

『無論。俺は他国のものならいくらでも根こそぎ奪いますが自分のものは一切くれてやる気はありません』

『ならそうせよ、それこそがお前の行く悟りの道だ』

 

 二人はそうして別れた。城の片隅で全身地獄のように酒臭い女に迎えられる前のことだった。

 

 

 そして今日、晴信は着々と進軍の準備を整え地獄への道を一筆ずつ書き足している。虎千代も一緒だ。

 

 普段なら三条の方と和歌を嗜むか、三条の方が仕事なら寺にいる。そうでなければあの晴信に微塵も懐かない白馬で駆けているのがこのところの虎千代の日常だ。ただ力が強いだけの子供にこれまで許されてきたのはそれだけのことだった。

 まともな娘なら、今頃は初潮の祝いをしてただの側室として役目を果たしていただろう。だがそうだったら、そもそもきっと出会わなかった。野心と野心がせめぎ合って舗装されたでこぼこで歪な道の先にあったのが今だ。

 

 思えば、当主となる前は今より長く共に居たと晴信は気付いた。

 朝の鍛錬を終えれば共に師匠に学び、馬術をやるか三条の方と歌を読み、夕餉までまた共に何かをしていた。

 家督を継いでからはどうだっただろうか。朝の稽古こそ一緒だったが、その後は仕事だからとずっと三条に任せっきりだった気がしている。

 虎千代は、まだ幼いからと仕事ばかりの自分から引き剥がした少女は、はたしてこのつまらないが必要な光景に何を思うのだろうか。いいや――思うところがあるのは自分ではないのか。

 

(俺は親父に似てきた姿を見られたくなかったのか)

 

 此方にこそ覚えはある。師匠にたしなめられるまでは策謀よりも相撲の力強さが矜持であり、根回しより親にさえ正面から歯向かう気丈さが誇り――いやあの父は表向きそこそこ従順に振る舞う程度に賢しくなってからの方が嫌そうだった。微塵も参考にならない。とにかく、理想と少しズレて覇気以外が満ちる自分を、自分は虎千代に見せようとしていなかっただけなのか。

 

 嫁というよりは娘や息子へ向けるような形容しがたい懊悩を抱えた晴信と裏腹に、横に並んで手を動かしていたはずが、急に部屋をごろごろと転がったり歩いたり、源氏を急に音読したりする気まぐれな子猫は、どう測ればいいか悩む晴信を尻目に気ままに猫を被っている。そしてあと少しで日影が足元に来る頃になると、ようやく晴信と口をきいた。

 

「晴信は一日中こんなところでこんなことをしているのですか。モノノフの暮らしとは思えませんね」

「“こんなところ”にいられるだけいいだろ。それともお前は日がな畑を耕していたいのか」

 

 戦国の世になって、兵と農は徐々に兼業から専業の向きがある。歩兵が足軽などに変わっていき、馬は機動力から輸送力へ、弓は据え置き、太刀が槍になりつつある今でも、ある程度の身分を得ながらも農耕に勤しむ者の方が多い。世界の果てが陸奥と遠値嘉の更に先へと広がろうが、こうして日々を筆働きだけで食っていられる者はまだ一握りだと晴信は理解していた。

 虎千代はその答えに不満そうだ。その泥水と乳と茶が混ざり合わず混在したような色の目も長らく見ていなかったと痛感する晴信に、虎千代は足も晒して雑に座ったまま厭そうな声を上げた。

 

「面倒ですねえ……私は槍を握っていたいのですよ。声をかけたら兵はパーッと集まって将に従いダーッと攻めればいいではないですか」

「無茶を言うな。そんな素直に従う武士がいるか」

「何故です? 忠孝こそが武士の務めなのでしょう」

 

 虎千代は世間のこういう雑事に対しても子供らしい愚直さがあった。

 経の全て、軍学書の仔細、諸子百家の徳目を忠実に覚え、それをただ実践することのみを善とする有り用を人と言っていいのか。もしこの虎千代を動かすのが神だとすれば、これが人ならざる軍神の意思とでも言うのだろうか。

 例えば、ここ数日虎千代が動かした軍の経費が武田持ちで、ぶっちゃけ数日以内に領土と臨時収入(強奪)を得ないと武田の財布が焦げ付く状況だと言って、それを理解できるのだろうか? あるいは、それは供物でしかなかったのか。

 だが、これにどう答えればいい。

 虎千代の世界は未だに狭い。人を知らぬものに、書と理のみで世界を作れるものに人の非道の意味をやんわりと伝える法は――この通りだ。

 

「そこまで言うなら、その務めにかかる馬の餌代と衆中への手当を代わりに書いてくれるんだろうな」

「……はああああああ」

「嘆いても筆は進まんぞ」

 

 言葉ではいくらあろうが足りない、晴信が虎千代にしてやれることは父が自分と弟にやったのと同じこと――世の理、今流の人の動かし方と、銭が蔓延った世の勘定を教えることだけだ。

 

 逃げ場所になりそうな場所はいくらでもある。三条の方の膝の上、しかしそこには太郎がいる。

 寺には、勉強とは又違うことを説きだした師匠がいる。躑躅ヶ崎は母が目を光らせている。馬に乗るにしても晴信は自分と共に乗ることしか許さない。あとどこかに見慣れてきた蛇がいるはずだ。

 ごねることと引くことは虎千代には許されない。虎千代はどこでも一人になれないし、「もうやめた」「それなら辞めてやります」を言わせない。ただこのまま、ずっと誰かといるだけだ。

 

「はああああ」

 

 遠い目をして、諏訪攻めに使う矢の手配、あんまり信じられない家臣へと宛てた遠回しに「当日来いよ絶対だぞ遅刻したらお前の土地直行な」と言明する書状、そして戦死したものにどの程度何を支払うかの約束。

 神ではなく、人が人として人と争うために消費するあらゆるものを、墨の匂いとともに虎千代は植え付けられていく。

 

「ほんとうに面倒ですねえ……」

 

 槍を持つことは楽しい、的の真芯を射抜くことは快感で、馬上にいる時ほど高ぶるものはない。しかし、それだけで終わらせてはくれない。源氏を読み終わったら書棚に仕舞うように、矢を射ればまた作らねばならず、槍と鎧の血は拭い去り、馬と人には働いた分の飯と水をやる。そして全てには銭がかかり、銭を良く設けるには国が育たねばならぬ。国を育てるには土地がいる。土地がいるなら戦争だ――神は何を信じれば、何処に義を置けばよいのか。

 

「ああもう、なんでこんな面倒なんですか」

 

 人と国を養って得たものを大いに浪費して少を得る苦労に穂先ではなく指先で触れ、戦は武将の本分であるが大名の面倒ごとだと愚痴をこぼした晴信を理解する。自分が口にしていた大義とは――考えるほど疼く脳に抗いながら、虎千代はケンカ相手ではない、当主としての晴信の横でこれまでとは違う時間を過ごしていた。

 

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