義母に付き従い、孫策は宮殿を目指して歩いていた。
護衛の数は旗本が十人だけ。そもそも襲われるような立場にはいないし、入り組んだ洛陽内は逃げ場所もいい。観光の続きをしているような気分で、孫策は楽にしていた。
宮中に向かうとあって、今日ばかりは義母もきちんと正装をしている。面倒な挨拶回りはすべて終わっていると思っていたのだが、その目論見は外れていたのだ。
孫家に賊軍討伐の命令を下した張本人。大将軍の何進が、これから謁見を行う相手らしい。
前を歩く女の背中を、孫策は見つめている。都で働いている下級の武官で、名を張遼といった。
肩に羽織った大きめな外套が、一番に目を引く。日に焼けた肌。揉み心地のよさそうな胸には頼りないさらしを巻いているばかりで、あれで戦場を駆け回って平気なのかと思わされる。
自分たちを呼びに来た武官のほうが、よほど気軽な格好をしている。それで気を張る意味などないと心に決めたのか、義母は度々あくびを繰り返していた。そのついでに腕を掴んで背中を伸ばす動作をするものだから、反らした豊かな胸がかなり危なっかしいことになっていたりする。
「あん? そんなにオレの胸ばかりじっと見てくるとは、まさか母の乳房が恋しくなったか」
「そうではない。母御の胸はいたく立派なものだが、見ようによってはこれ以上の毒はないと思ってな」
「ハハッ。そうか、毒ときたか。ならばそれを毎晩のように喰らっている貴様は、とっくに全身に悪いものが回っているのだろうな。どうだ、母から受けた毒はさぞかし苦しかろう?」
「はははっ。強烈だよ、この世のものではないくらいにな。毒素を吐き出せる相手が近くにいなければ、俺は救いようのない狂人になっていたことだろう。ほんとうに、困った母御だ」
覆いのない側面の隙間から、平たく拡がった乳輪の端が見えてしまっている。
散々弄んできた乳肉ではあるが、まだまだ飽きるようなことはなかった。衣服との間に滾ったものを突っ込み、自由に腰を動かすのも乙なものなのかもしれない。そんなことをぼんやりと考えてから、孫策はまた張遼に視線をもどした。
「張遼。何進大将軍とは、どのようなお人なのだ。退屈しのぎに、よければ聞かせてくれ」
「うーん、せやなあ。もともと市井で暮らしてた人間てのもあって、気苦労は相当あるんやろうなとは思う。にしても、あれはなあ」
「肉屋をしていただけの女が、帝に見初められた妹のおかげで引き上げられた。それは、ほんとうか」
「ほんまのほんま。ウチかって、最初は信じられんかったもんやで。急にぽっと出てきて、今日から余が大将軍やー、って顔も知らん女が言うんやもん。そんなもん、びっくりもするっちゅうねん」
日頃の鬱憤がたまっているからなのだろう。張遼はこちらから探りを入れるまでもなく、大将軍のことを好きに評している。
正直、朝廷の武官として褒められた行いではない。しかしこんな他愛もない会話からでも、漢の規律の緩みを感じることができるのだから、政治の中枢は地方で耳にするよりも乱れているはずだった。
「おうおう、上官のことをよくもそれだけ好き勝手言えるものだな。オレがその大将軍だったら、詮議をするまでもなく貴様の首を引っこ抜いているところよ」
「いやー、なんかいろいろと余計なこと言ってしもうたなあ。なんていえばいいんやろ。アンタらの出してる雰囲気が武人好みっていうか、そういう気にさせられてしまうねん。なあ、これって恋ってやつなんかなあ、孫策?」
「都でつまらないしがらみに縛られているくらいなら、戦場に出ているほうがずっとマシなのではないか。大将軍への挨拶を終えたら、俺たちはすぐに西涼に向かう。恋かどうかはこちらの知るところではないが、一緒にきてみるか、張遼」
「おっ、ほんまにええのん? アンタら親子からは、血の匂いがこれでもかってくらいぷんぷん漂ってくる。にしし……。ひと目見た瞬間から、びびっとくるものがあったんや、はっきり言ってな」
明るく響き渡る声。張遼の眼が、猫のように丸くなっている。
相手から血の匂いを感じ取っているのは、お互い様のことだった。
大きく発達した腿の筋肉。乗馬をかなり追い込んでやっている証拠で、孫家の求めている人物像とも張遼は合致している。
武人としての実際の器量は、援軍にいった先で確かめればいい。義母もその気になっているのか、眼光がずっと鋭くなっている。
「ウチの真名は
「一刀だ、霞。母御の真名は、炎蓮という。ある意味とんでもなく面倒なお人だが、実力だけは俺が保証する」
「あははっ。アンタのことほとんどなんにも知らんのに、保証してもらってもしゃーないっちゅうねん。いやいや、やっぱりおもろいやっちゃな、一刀は。ほんでもって、腕のほうもかなり立つんやろう?」
剣を振るような仕草を霞が見せる。
翡翠色をした瞳が、無邪気に自分のことを捉えてくる。感覚的には、気を使わなくていい男友達が増えたような感じでもあった。
「へへっ。偶然参内してきた曹操から聞かされたんやけど、めっちゃむかつく男が洛陽にきとる、ってな。あそこの番犬はウチも見たことあるけど、あんな危なっかしい女相手に無茶苦茶やってきたらしいやん、なあ?」
「そうか、ははっ。どうやら、曹操殿を怒らせてしまったようだな、俺は」
すでに、義母にはその時のことを話してある。
直接面識を得たことで、曹操に対する理解は深まった。いち諸侯で収まりそうにもない持ち前の覇気。誇り高さにかけても信念がありそうで、これは骨のある相手だという思いがあった。あの凛々しいくらいの美貌を、自分の手で歪ませてみたい。そう感じるのは、乱世に生きる男としてごく当たり前のことではないのか、と孫策は思う。
突き返されるような事態にはなっていないから、荀彧は向こうでそれなりに上手くやっているらしい。
†
石組みの階段を登る。
宮殿の造りは、辺鄙な土地に暮らす豪族が真似できるようなものではない。
「おーし、ぼちぼち到着するで。大将軍さまに失礼のないようにな、孫家の若殿?」
表情を引き締めた霞に、孫策は頷いて返した。
衛兵に武器を預け、さらに奥へと進んでいく。広々とした回廊。使用されている部材も太く丈夫なものであり、一寸の節約もされていないことが眼から伝わる。
百人は楽に入れそうな空間だった。中央奥に設置された豪奢な椅子に、つい意識が持っていかれる。そこがたぶん、大将軍の指定席なのだろう。
想像していたよりも、参集している人数が少ないと思った。
自分たちと顔合わせをするだけなのだから、手間をかける必要がない。軍勢を率いて出動している将軍もいるから、これが普通の景色なのかもしれなかった。
都で官位が金で売り買いされるようになって久しい。先頭になって売官をし、周囲を身内で固めているのが何進だと聞いていたが、そうしなければおのれの立場が危うくなると思うと理解はできる。
事実、宮中では宦官がかなりの権力を握っていて、そこと仲を深めるのでなければ、抵抗できるだけの勢力を築く以外に生き残る道はなかった。
「宮中であまり好かれておらんようだな、大将軍は。ちゃっちい面構えの小者ばかり呼び寄せて、この場はどうにかしているつもりなのだろうが」
「あははっ。手厳しいなあ、一刀のお母ちゃんは。ほら、何進さまのお出ましやで」
数人の側近を引き連れて、女がゆっくりと歩いてくる。
ひとまず礼儀に従い拱手をし、孫策たちは頭を垂れて大将軍の出座に対応していた。
高級な香を使っているのが、離れた場所からでもわかるくらいだった。せっかく洛陽まできたのだから、蓮華にひとつくらい土産として見繕ってやるべきなのか。となると粋怜や雷火にも、留守番を労うだけの品物を買って帰る必要がある。
「苦しゅうない。もう顔をあげてもよいぞ、孫家の者たちよ」
「はっ。朝廷よりご指名を受けました、孫堅文台めにございます。こちらはわが子息の策。西涼を荒らす賊徒は、必ずや孫家の手で葬ってご覧にいれましょう」
「うむ。いい意気込みをしているな、孫堅よ。その言葉、余も頼もしく思う。漢と帝の御為、くれぐれも油断なきようにな」
何進の姿を、孫策は視界に収めていた。
市井で過ごしていた頃の名残なのか、貴族たちのように白い肌をしていない。釣り気味の両眼はそれなりに威厳があり、整った相貌と合わせて一応大将軍としての体裁をかたちづくっていた。
つい、視線が大胆に開けた胸もとに吸い寄せられた。大きさもかなりのものであり、見初められた妹の皇太后だけでなく、こちらも器量としては負けていないのではないか、と孫策は思っている。
「ほう。あれは、なかなかに悪くない」
「どこを見ている、この阿呆が。乳なら、この母があとで好きなだけ触らせてやるではないか」
とても、初対面の大将軍を前にして行う会話ではなかった。
霞に脇腹を指で突かれる。自分が小馬鹿にされているとでも思ったのか、何進は不機嫌そうに顔をしかめている。
こんなところで心象を悪くしても、銭一枚分の得にもならない。孫策は深々と頭を下げ、非礼を詫びた。
「礼を知らない田舎者が粗相をしたこと、どうかお許しください。大将軍殿のお姿があまりに美しいので、見惚れてしまっていたのです、私は。若輩の身ゆえ、都で眼にするものはなにもかもが真新しい。その中でも、大将軍殿の存在は飛び抜けている」
「う、うむ……。そこまで褒められると、余も悪い気はしないな。許そう、孫策。代わりとして、貴様の忠義を戦場にてよく見せるがいい。漢の軍権を預かる者として、期待しているぞ」
「御意に。大将軍殿のお心を煩わせる賊徒など、この私の剣で討ち払ってみせましょう。ですから、どうか働きを示したその折には」
「あははっ。貪欲に褒美を求めるその心、なるほど理解できなくもない。孫堅、孫策」
「ははっ」
親子で声を揃え、何進に向けて拝礼を行う。
庶民あがりのただの女が、いきなり魑魅魍魎のはびこる宮中の頂きにその身を置いている。勝ち得た権力以上に、寒風にさらされて心はひどく冷え切っているはずだ。
味方などどこにもいない。宮中に、頼るべき優れた縁者もいない。
心にできた隙間を埋められて、嬉しく思わない人間がどこにいるのだろうか。
毛の生えた程度の素人に、政争が務まるとは思えなかった。ここでつないでおいた一本の糸は、必ずやどこかで役に立ってくる。義母の跡を継ぐなら、腹芸も多少は嗜むべきなのである。大将軍である何進なら、その相手として申し分ない。
終始和やかな雰囲気のまま、孫策たちは何進との謁見は終りを迎えた。これはかなり珍しいことのようで、宮殿を出てから意外だったと霞に教えられた。
「肩がこった。少し身体を動かすとしようか、霞」
「おおっ、ええでええでー。汗かいてすっきりしたら、肩こりなんてちょちょいのちょいや」
「オレを忘れて二人でしっぽり愉しめると思うなよ、ガキども。剣もいいが、洛陽を出る前にひとっ風呂浴びていこうじゃねえか。新入りがほかにもいる。裸の付き合いをすりゃあ、そいつのことがなにもかもわかるというものよ」
義母が豪放な笑みを浮かべて霞の肩を抱く。
しばらくは戦地に縛られることになるのだし、そのくらいの愉しみがあってもいい。滞在している邸は借り物だったが、郷里では眼にすることのないくらい立派な浴場が備えつけてある。
女体に囲まれ湯に浸かっている場面をふと想像してしまう。どこを向いても女の裸がある。居並ぶ大小の乳房。そんな場所に連れ込まれて、滾るなというほうが無理があるのだ。
子供のように笑う霞と視線が交差する。想像に刺激されて、欲望の塊が内側で首をもたげた。