具体的にいうと、華雄のアレです。
隴西郡にある本拠の館で、
孫堅率いる三千の軍勢が、援軍として間もなく着陣する。
期待していたほどの陣容ではない。それは朝廷の態度からある程度は覚悟していたことだったし、中央からしてみれば、今回のことも地方で発生したいち問題に過ぎないのだろう。洛陽の朝廷では、市井から抜擢された肉屋だった女が大将軍を務めている。抜擢というと響きはいいが、たまたま妹が皇太后に選ばれたせいで、その姉が一緒に引き上げられたのが実情なのだ。
韓遂と辺章。その二人に追従した者たちが巻き起こした叛乱は、数万の規模となり西涼の平穏を著しく乱していた。
叛乱の根にあるのは、政治に対する不審感だった。中央から派遣された州牧は所詮名ばかりの管理者で、実態に則した統治を行おうとしていない。高騰していく税金。耐えきれなくなった農民が土地から逃散すると、あとには荒れ果てた田畠が残されるだけだった。
中原ほど黄巾賊の決起による影響を受けなかったものの、この涼州は異民族からの脅威に常にさらされているのだ。
それに対処してきたのが馬騰や韓遂といった古強者であり、いまでは自分もその中のひとりに数えられるようになっている。
執務室の外から侍女の声が聴こえる。
「賈駆殿がお越しです、董卓さま」
「ありがとう。ここまで、通してあげてもらえますか」
命じられて、侍女が足早に賈駆のもとへ向かった。
真名は詠。物心がついた頃から歩みをともにしてきた幼馴染みで、この隴西郡を預かるようになってからは、軍師の職務を担ってもらっている少女だった。
援軍到着の勢いを利用しない手はどこにもない。いまはとにかく膠着した戦況を打ち崩し、自軍が優位に闘えるように努力をするだけだった。
「入るわよ、月。それで、洛陽が用意してくれたありがたーい援軍は、どうなっているのかしら」
「うん、詠ちゃん。あと数日もすれば到着するみたいだから、こちらも攻勢に出る準備をしておかないと」
「で、結局のところ規模はどうなの? 前に聞いた時の話だと、なんとか善処してくれる、って感じだったみたいだけど」
詠が勢いよく椅子に座る。
戦の采配を預かる身として、援軍の詳細が気にならないはずがない。自分と同じ、辺境とも呼ばれるような地方に根ざしている人間ゆえに、洛陽に対する期待は大きくなかった。
時々、このままの暮らしを続けていてもいいのかと考えてしまうことがある。
手の届く範囲の秩序を、精一杯の力で守る。生まれ育った地への恩返し。それを生涯かけてやり通すのも、ひとつの選択肢ではあった。
「揚州から、孫堅さんが部隊を連れて向かってくれているみたい。三千だけとはいえ、それでもいまはありがたいと思わないと」
「期待はしてなかったけど、三千ぽっちか。……ったく、援軍を寄越したって事実さえできれば、向こうはそれでいいのかもね。わかった、
猫というのは真名であり、普段は華雄と呼ばれてる。
実直で薪を割ったような性格をしていて、軍人らしい軍人であるのが猫だった。
戦場に出れば勇猛果敢。調練でも手を抜くことがなく、麾下と一緒になって駆け回り、泥だらけになっていることも珍しくない。
そんな董卓軍の武を象徴する存在でさえ苦戦する相手が、叛乱軍にはいる。
呂布奉先。血を浴びたような深紅の軍旗を掲げているのが特徴で、その呂布の操る騎馬隊の強力さがとにかく厄介だった。個人としての武勇でそもそも飛び抜けているのに、それが麾下の精鋭と合わさることで、馬騰の軍勢ですら抑えることができない難敵となる。
出自と目的のどちらも不明で、呂布は突如出現した暴風のような存在だった。その武威に後押しされてか、叛乱軍はこのところ勢いを強めている。韓遂たちは、最終的に涼州をひとつの独立した国としたいようであり、呂布の鬼神のごとき働きがあれば、それも夢のまた夢ではないと自信を深めているのだろう。
負担をかけることにはなるが、自軍の中では猫が唯一呂布と打ち合える人間なのである。あの難敵を討ち取る、あるいはどうにかして叛乱軍から離脱させなければ、戦局が大きく変化することはないとすら月には思えてくる。
「馬騰さんにも伝令を。最近わかれて敵にあたることが多くなっているけど、もう一度合同作戦を展開する時期がきているんじゃないかな。どう思う、詠ちゃん」
「わかった。こうなったら、孫家の軍勢が流れを変えてくれることに期待するしかないか。揚州の孫堅殿といえば、確か江東の虎なんて呼ばれ方をしてるんだよね。いいじゃない。好きなだけ、暴れまわってもらいましょうよ」
椅子の背もたれに体重を預けて、詠が乾いた笑みを浮かべている。
部屋に空いた窓から身を乗り出し、月はどこまでも続く蒼天を見上げた。湿気のほとんど感じられない風が頬を撫でる。自分の心もこの風と同じだ、とふと思えた。
†
軍装を整え、五百の麾下を連れて月は荒野を疾駆していた。
『董』の一字の旗が風に揺られている。戦に向かっているのではない。それでも、逸る気持ちを抑えるだけでいまは精一杯だった。
半日ほど前に、孫堅からの使者が自分のもとを訪っていた。使者の話では、たまたま叛乱軍と遭遇戦となり、挨拶代わりに一戦交えてきたのだという。しかも指揮していた将校を討ち取ったそうで、その見分をいきなり依頼してきたのだから驚くほかなかった。
江東の虎の異名はやはり本物なのか。
楽ではない移動をしてきたはずなのに、勝手の知らない土地での初戦で敵軍を血祭りにあげた。直接手を下したのは、孫家の嫡子である孫策なのだと使者から聞かされている。
当然というか、遠方からやってきたまだ見ぬ武人の姿に猫は心を躍らせている。最近明るい話題が少なかっただけに、孫堅軍の活躍は麾下にも勇気を与えてくれることだろう。
昨晩は、珍しく雨が降った。たまにある小さな水たまりを避けて、荒野をさらに駆ける。雨の残していった匂いが、かすかに鼻につく。
「むっ……。見えてきましたぞ、董卓殿」
「ええ。いきましょう、華雄さん」
せめて、出迎えくらいは堂々とやっておきたいと思った。先頭に立つ猫に続いて、月は乗馬を駆けさせる。乗り方は小さな頃から染みついていて、馬はほとんど身体の一部だと言える。
孫堅の軍勢の姿が、段々とはっきり見えてくる。
総数三千とは思えないほどの威圧感があった。向こうも気がついたのか、一騎が集団から飛び出してきて、こちらに手を振っている。
赤い幘を頭に巻いた若い男。具足の上から着物をまとっていて、いつ戦場に赴いてもいい、という気構えを感じた。おそらく二十歳を少し過ぎたくらいなのだろうが、馬を操る姿は颯爽としていて、威風にみちている。
「もしかすると、あなたが孫策殿なのでしょうか。私は董卓で、こちらは部下の華雄と申します。孫家の方々の到着、心待ちにしておりました」
「いかにも。わざわざのお出迎え、義母も痛み入ると申しておりました。援軍として参った先で、あなたのように美しい人に出会えてよかった。これだけでも、遠く揚州から足を伸ばした甲斐があるというものです」
「えっ? あっ、あの、孫策殿……?」
乗馬の脚を止める傍ら、孫策が言った。
予想外の不意討ちに、顔が熱くなる。こんな褒め方、面と向かってされたことは一度もないのだ。揚州は南方にあって気候もあたたかいというから、そこに住まう人々の心にも陽気が宿っているのかもしれなかった。
孫策のあとに続いて、もう一騎がやってくる。黒髪の女性で、詠と同じく眼鏡をしていることもあり、こちらは知的な印象がかなり勝る。
「失礼。この孫策がなにかおかしなことを申したのなら、私が代わって謝罪いたします。ですので、何卒」
「い、いえっ。嫌な思いなど、私は少しもしていませんから。その、孫策殿が嬉しくなるようなお世辞を言ってくださるから、つい慌ててしまっただけなんです。ほんとうに、それだけで」
「ふむ……? 私は周瑜、字を公瑾と申す者。この孫策の軍師兼、目付け役とでも思ってくださって結構です。よろしく、お見知りおきくだされば」
周瑜と名乗った女性が、孫策の隣に馬をつける。
二人の間には自然な空気の流れがあるというか、男女のことに疎い自分ですらその関係性の深さが直感的に理解できる。
一瞬のこととはいえ、心を浮つかせてしまったことがなんだか恥ずかしい。気を取り直すように、月は馬上で背筋を伸ばした。
「私の本拠に案内いたします。慣れない土地で戦をなさったと伺っておりますし、まずは身体をお休めください」
「助かります、董卓殿。どこの誰とも知れぬ首と旅をしていると、気が滅入ってなりません」
「あ、あはは……。そちらも、私の方でお預かりいたします。それと、孫策殿……?」
孫策が冗談めかして首を横に振っている。世辞の件など、ちょっと軟派なところがある男だが、まくった袖からは筋肉質な腕が見えている。
江東の虎は、なにも一頭だけではないのかもしれなかった。
ここで結んだ縁が、流れを少しでもいい方向に変えてくれるに越したことはない。努めて笑顔をつくり、月は敬語をやめるよう孫策に願った。
「では、改めてよろしくお願いしよう、董卓殿」
「はい。よろしくお願いしますね、孫策殿」
「ン……。俺に敬語を使うなといって、自分はそのままでいるのは、少しずるい。それとも、これはなにかの遊びなのか」
「あっ。混乱させたのなら、謝ります。ただ、私はこうやって話すのが普段から染みついていますから。おそらくですけど、孫策殿はそうではありませんよね?」
「ふふっ。図星ではないか、孫策。おまえはいいから大人しく、董卓殿のご厚意に従っているのだな」
からかうような周瑜の仕草。全体的に余裕があるというか、互いに深く信頼し合っているから、こうした雰囲気を出すことができるのだろうか。
ちょっと怪訝な表情を残したまま、孫策がよく通る声で自軍に呼びかける。それで、三千が再び動き出した。