董卓の居館に孫策たちは着いていた。
長旅をしている途上、叛乱軍の一派と干戈を交える事態になったせいで、麾下にも疲れが見えている。
おのれの味方である勢力以外は、すべて敵として扱う。規模としては二千に満たないくらいだったが、攻撃を仕掛けてきた叛乱軍の威勢だけはよかった。
とはいえ、それは不注意に虎の尾を踏んづけるような行いだった。売られた喧嘩を、黙って見過ごせるような人間の集まりではない。まず義母が率先して突撃を敢行し、死体の山を築いた。
相手は、腑抜けた官軍を痛い目に遭わせてやるつもりだったのだろう。
連携を崩してしまえば、あとはこちらのものだった。祭の部隊が矢を射掛けている隙に騎馬を回り込ませ、敵の指揮官を狙った。無駄な時間をかけたくはないし、微細であっても損害は損害となる。ならば、と孫策はいきなり頭を潰しにかかったのだ。
結果的には、騎馬隊のいい調練になったのかもしれない。しらない土地で、触れたことのない風の中、馬を駆けさす。しかもそれが実戦となれば、これは望んでもそう得られるような経験ではなかった。
通された部屋で足を洗っていると、女がひとりやってきた。
快闊な印象のある短い髪。具足を着用してはいるがかなりの軽装であり、肌の見えている部分がかなり多い。それだけ腕に自信があるということなのだろうが、これには意外と男の意識を反らす役割があるのではないか、などと孫策は勝手なことを考えている。
「孫策殿」
「おまえは、確か華雄と申したかな。無粋な格好のまま話をすること、許せよ」
「戦場ともなれば、男女入り混じって着替えることもそう珍しくはない。武人の嗜みであるから、私は少しも気にしていないぞ」
桶に汲んだ水に布を浸し、明命が丁寧に汚れを拭ってくれていた。
命じられた仕事はなんだろうと黙々とこなす。それに気配を小さくすることは明命の得意技であるから、華雄もその存在をほとんど気にかけてはいない。
「敵将を討ち取ったという孫策殿の太刀筋、一度見ておきたいと思ってな。どうか、私と立ち合ってもらいたい」
「そのくらいのことなら、いつでも。叛乱軍には、なんでもかなりの腕利きがいると聞き及んでいる。となれば、準備運動はそれなりにやっておかなければ」
「ほう。呂布の噂は、孫策殿のところにまで届いていたか。あれは、腕利きなんてものではない。血に餓えたけものと言ったほうが、私にはしっくりくる」
「興味深いな。ますます、実際に見えるのが愉しみになってくる」
華雄の表情がちょっとかたくなっている。呂布というのは、それだけの暴威を誇っているのか。
足裏をきれいにし終えたのか、明命が指の間にまで布を滑り込ませてくる。その感触がこそばゆくて、孫策は口もとの緩みを抑えられなかった。
「ははっ。いい顔をなさる御仁だな、孫策殿は。わが軍には、呂布の名を聞いただけでもふるえあがる者が少なくない。情けない話だが、なにを考えているのかわからないところがあれの不気味な点だな。ふらりと出現しては、部隊を食い荒らしてまたどこかに消えていく。董卓殿も、それでかなり手を焼いておいでなのだ」
「取るに足りない小物なら、捨て置いて叛乱軍の頭を潰すべきだと思っていた。呂布。欲しいな、俺の麾下に」
最後の部分は、明命にだけ聴こえるように小さく呟いた。
呂布が斬るしかないような下賤のけだものであれば、願いが叶うことはない。だが、そうでなければ話は変わってくる。
困ったように苦笑する明命の黒髪を、孫策はそっと撫でた。
†
眼鏡をした女が、やけに自分に対し視線を送ってくる。かといって、気がある様子は少しもなかった。眼差しに疑念があるというか、棘のある感じが明らかにするのだ。
着いたのがちょうど飯時だったことから、主だった面々で集まり食事をすることになっていた。小蓮はまったく知らない土地の料理が愉しみなようで、先程から梨晏をつかまえてはしゃいでいる。
「私は支度をしてきますので、みなさんはここでお寛ぎください。それじゃ、あとは詠ちゃん」
「え? そんなのわざわざ月がやらなくったって、ほかの誰かに任せればいいじゃない」
「いいの。孫堅さんたちとはこれから一緒に闘うことになるんだし、少しでも仲良くやっていきたいから。そうだ、今朝取れた鹿があったよね。せっかくだし、あれを使ってみようかな」
「わかった。月のそういう頑固なとこ、ボクは嫌というほど知っているもの」
「ふふっ。ありがとう、詠ちゃん?」
まるで別人かと思うような笑顔を浮かべて、眼鏡をした女が董卓と話している。
年頃も近そうだから、昔馴染みで支え合っているのかもしれない。自分にとっての冥琳と似たようなものか。親友のほうになんとなく顔を向けると、不敵な笑みが返ってきた。
「董卓殿に、なにもかもを任せてしまうのは忍びない。俺も、なにか手伝おう」
「ほんとうに構いませんのに。お優しいんですね、孫策殿は」
外に向かおうとする董卓の隣に、しれっと肩を並べる。
澱みのない双眸。薄い髪色と相まって、それがどこか儚げな印象を強くしているのか。
詠と呼ばれた眼鏡をした女が、今度は明確に睨みつけてくる。
自分たちの間に流れる微妙な空気に気づいているのだろう。冥琳は指で口もとを隠すような素振りをしながら、ちょっと嗜めるような視線を送ってくる。
同じ装飾品を身につけているというのに、これだけ性格が違ってくるものか、と孫策は笑いをこらえながら思った。
「この男になにかされそうになったら、思いっきり叫ぶのよ。いいわね、月」
「一刀。さては貴様、オレの預かり知らぬところで粗相をしでかしたな? ククッ。女を愛でることをやめろとは言わないが、そろそろ夜道で刺されないように気をつけたほうがいいかもしれんぞ」
「おかしな言いがかりはやめてもらおうか、母御。大層なことはしていないぞ、少なくともいまはな。美しいと思った相手を褒めただけで首を狙われるのなら、命などいくつあっても足りるものではない。だろう、董卓殿?」
「は、はいっ。詠ちゃん、賈駆には、あとからしっかり言い聞かせておきますから。気を悪くされたのなら、私から謝罪させてください」
「不要だ、そんなもの。それに、ああいう跳ねっ返りは、俺も嫌いではない」
「うへっ……!? な、なによその顔は。アンタまさか、ボクにまで色目を使おうってんじゃないでしょうね!?」
あえて言葉を返さずに、孫策は董卓に先を急ぐよう促した。
そんなに心配があるならついてくればいいだけではないかと思ったが、賈駆は忠犬として主人の言いつけをきっちり守るつもりらしい。ほほえましいというか、純粋な愛情がそこにはあるように感じられる。その思いは、誰にも否定されるべきではない。
董卓についていき、納屋のような建物の前にまでやってきた。
四本すべての足を縛り上げられた鹿がいる。仕掛けた罠で取ったというから、どこにも怪我らしい怪我はなかった。
近くにあった棍棒を手にして、董卓が獲物にそっと歩み寄る。か細い鳴き声がずっと聞こえている。まずは失神させ、安全を確保することが先決だった。
棒で頭部をしたたかに殴りつけられ、鹿の全身がぐったりとしている。細腕だからと侮っていては、痛い目を見る。董卓の表情は真剣そのものであり、命と向き合っているひたむきさを感じさせられた。
「うまいものだな。こうしたことは、いつも董卓殿が」
「最近では少なくなりましたが、余裕があるときはやるようにしています。私たちは、誰かの命を奪わずには生きられない。それは、忘れてはいけないことだと思うんです」
董卓が懐から取り出した短刀を抜いた。
手つきに迷いはない。首筋に切っ先が吸い込まれたのと同時に、血が勢いよく噴出する。血抜きはなによりも大事なことであり、これを怠るとどれだけ新鮮な肉でもまずくなってしまう。
「手伝おう。董卓殿の手だけを、汚させるわけにはいかないからな」
「助かります、孫策殿」
赤く染まった手を身体の前で交差させて、董卓がほほ笑んでいる。
儚い雰囲気があるだけの女ではないと思った。吹けば飛ぶような存在など、相手にしたところで面白くもなんともない。
鹿の身体を押さえつけ、董卓が内臓を掻き出している姿をじっと見つめた。この澄んだ瞳の向こうには、どんな景色が映っているのだろうか。そんなことを、つい考えさせられてしまう。
「世の中には、理不尽な死があふれている。戦をしている私なんかがそれを憂うのは、おかしなことなのでしょうか」
眼を合わさないまま、董卓が言った。
少しだけ、その心に触れることができている。この先に踏み込めるかどうかは、自分次第だと孫策は思った。
だいそれたことを言うつもりはない。自分や義母も戦場に生きる人間であり、これまで多くの命を奪ってきた。
「夢を見る権利は、誰にでもあるべきだ。幾人もを殺めてきたこの手で、俺は愛しい者を抱きしめている。違っているのは、その範囲の大小くらいではないのかな」
「ふふっ。やっぱりお優しいんですね、あなたは。声だけでも、それが十分にわかります」
董卓に言われて、ちょっと気恥ずかしくなった。
言葉を交わしている間も作業は粛々と進む。あとはきれいに皮を剥ぎ、肉を分けるだけだった。
「外から嘆いているだけでは、もうどうにもならないところまでこの国はきてしまっている。韓遂さんたちは涼州を独立させることで現状を打開しようとされていますが、私は」
叛乱軍にも、掲げる理想はある。だが、それを理解しようとしたところで苦しみが増えるだけではないか、と孫策は聞き入りながら思っていた。
潰すべきものは潰す。乱れた秩序は、いくところまでいくしかない。あとは、ばらばらになったものを誰がどうやってつなげていくかなのだ。
董卓は、理想のためにわが身を漢と心中させるつもりなのか。
洛陽のいまを見てきたから、わかることがある。朝廷内部は足の引っ張りあいをしていて、外に眼を向けるだけの余裕がなくなってしまっている。混乱をまとめるには何進では器量不足で、乱世はさらに深まっていくことが予想される。
「はっきり言っておくぞ、董卓殿。俺は、漢をなにがなんでも建て直す必要はないと思っている。どのような繁栄もいつかは滅ぶ。だったら、別の拠り所をつくってやればいいだけではないか。……っと。これは、知り合って間もない人間に話すようなことではなかったな。どうか、忘れてもらえると助かる」
「もう、遅いです。ふふっ……。秘密を共有し合うと、こういう気持ちになるんですね。これで、孫策殿は私になにも意見できなくなりました」
「横暴だな、それは。踏みつけられると、どうにか反抗してみたくなる。牙を抜かれて、虎が虎でいられるはずがない」
董卓が足に踏ん張りをきかせ、切り込みをいれておいた部分から、勢いよく鹿の皮を剥ぎ取る。
危うい雰囲気さえある女だと思った。それなのに、話していて気分が清々しい。半分試すような気持ちで考えを洩らしてみたようなものだが、直感が正しければ自分の判断は間違っていない。
血で赤くなった手を、董卓が差し出してくる。これで胸が高鳴るのだから、自分も所詮同類なのだなと孫策は笑う。
「月、と呼んでくださいますか。孫策殿は、おかしなお方です。だからこそ、見られる夢があるのかもしれません」
「知らないぞ。虎の爪は鋭い。おまえの繊細な指が傷ついたとして、俺は責任など取ってはやれん」
「構いません。むしろ、傷つけてほしいとさえ思います。なにかを変えようとするなら、まずは私から変わらなければ。そうですよね、孫策殿?」
小さく儚いくらいの手を、しっかりと掴み返す。
月は一度大きく頷いてから、穏やかに笑んでいる。ここで生まれたつながりは、今後の動きに強く影響していくのだろう。国の端と端にいるような自分たちが、それぞれの場所から手を伸ばす。それが輪となった時、この国の勢力図は一変する。考えてみるだけでも、ぞくりとするではないか。
「一刀だ、月。共犯者となってくれること、歓迎する」
血染めの結託。それが、なによりも相応しいと思えた。