なんの変哲もない朝を迎えた。
いまだに眠りこけている祭の額。手のひらで景気よく打ち据え、炎蓮は用意しておいた水を呷る。残っていた眠気が、それで少し薄まっていく。
苦悶するような唸り声が聴こえる。洩れかけた欠伸を噛み殺して、着替えをはじめた。
「ふわあ……。もう、朝じゃったか。儂らと一緒にあれだけ飲んだくられていたのに、お早いですな、炎蓮さま」
一刀が、何者かの襲撃を受けた。
特段、無事を心配するような気持ちにはならなかった。生半可な鍛え方はしていない。人を作り上げるのは結局のところ環境であり、そこに血縁のあるなしは関係ないと思っていた。
実際、一刀は武人としての階段をこれまで駆け上がってきている。闘いにおける才能ばかり開花させてきたせいか、内政面に多少の不安はあるのだが、そこは蓮華や臣下たちで補えば問題にはならないだろう。人との折衝に天性の感覚があるというか、先頭に立てるだけの器量があることは確かだった。なにより一刀は、女殺しの術に誰よりも長けている。
わざわざ確認をとるまでもなく、刺客は叛乱軍の手先なのだろう。昨晩は、自分たち二人に加えて冥琳も酒の席にいた。報告を受けた瞬間はさすがにわずかな動揺があったものの、あとは何事もなかったかのように、一緒になって飲酒に興じていたのだ。
孫家の、一刀の軍師として、無様な姿を見せるわけにはいかない。子供の頃から、二人三脚で駆けてきたような二人だった。突っ走りがちな息子のあとを、冥琳は嫌な顔ひとつせずについていく。名家の出身で、知性を感じさせる眼をしていた子供だっただけに、その組み合わせがハマることになるとは正直あまり思ってはいなかったものだ。
大人になって、二人の関係性はより深く絡み合っている。
一刀は数多の女と、肉体と精神の両方とでつながりを築いている。その中であえてひとり特別な存在をあげるとするなら、それはやはり冥琳になってくるのではないか。
血のつながりがないにせよ、自分や蓮華には、もともとの肉親だという意識がある。そうではない冥琳と結んだ強固な絆は、いまある一刀の人間性に大きく影響を与えているといってよかった。
夜更けまで会話を愉しんでから、冥琳は悠然と退出していった。
同じ寝台で眠る傍ら、一刀のぬくもりを存分に実感しているのではないか。強がってみせるのは、自分たちの前だけで十分だと炎蓮は思った。
乱れた髪に櫛を通しながら祭が言う。
「ふむ……。飯の前に見に行かれますかな、若殿のお顔を」
「馬鹿野郎。いまさらそんな柄じゃねえことできるかよ、このオレが」
「はっはっはっ。儂にはわかりようのないことじゃが、炎蓮さまなりに母親としての苦労をなさっておられるようですなあ」
「チッ。朝っぱらから主君をからかうんじゃねえよ、この行き遅れが。それなら、貴様もさっさと一刀のガキを孕めってんだ。その腹がでかくなった暁には、オレの権限のすべてを用いて、飲んだくれに酒断ちさせてやる。ククッ……。愉しみだなぁ、祭?」
「お、おそろしい冗談はそのくらいにしてくださらんか、炎蓮さま。ほれ、ご正装の準備を手伝いましょうぞ」
慌てて立ち上がり、祭が場の雰囲気を取り繕おうとする。
まだ見ぬ孫の顔を拝める日はいつになるのか。あるいは、小蓮の下の子ができるほうが早いのかもしれないな、と炎蓮は高らかに笑った。
†
支度をして広間に向かうと、頭を下げる女の姿が見えてきた。
ちょっとおもしろいことになっているな、と炎蓮は遠巻きにその様子を見守ることにした。女のほうは董卓の側近である賈駆であり、謝罪を受けているのは一刀だった。いきなり董卓と親密になった息子のことを、賈駆はあまりよく思っていないようだ。仔細を尋ねるようなことではないと捨て置いているが、大方心の内に秘めている方針を洩らしたのではないかという予感がある。
隠している間、野望は野望にはならない。声に出し、誰かに知らしめることではじめて、それは力を発揮するようになるのだ。
孫家の、一刀の秘めたる野望に、董卓は感化された。その流れに乗じてみるなら、つぎは馬騰を引き込むのが自然だといえるのか。董卓と馬騰の勢力を味方にし、叛乱軍を叩き潰す。それで涼州は自分たちに靡くことになるし、何進は孫家の有用さを思い知ることになるのだろう。あとは準備を整え、力を蓄えるだけだった。放っておいても、漢はいずれ乱世に呑まれる。
襲撃を受けた翌朝であろうと、一刀になんら変化はない。いつものように冥琳だけを引き連れていて、おそれはどこにもなかった。
「この通りよ、孫策殿。ボクの指図でやった警備に不足があって起きたこと、ほんとうに申し訳なく思ってる。月に報告して、臨時に見回りの人数を増やすように努力はしてみるから。だから、恨むならボクのことを恨んでちょうだい」
会うたび一刀に厳しい視線を向けていた賈駆が、しおらしく言葉を述べている。
友人であり、主君である董卓に対する思いが強すぎるせいで、心を頑なにしすぎていただけなのか。根はまともそうであり、柔軟な思考も持ち合わせているようだった。
「謝ってもらうようなことなど、なにも。俺にしても、少々軽率な行動をとってしまったようだ。だから、賈駆殿」
「へっ……? あっ、うあっ……」
賈駆の手を取り、一刀が身体を起こさせる。
相手の見せた弱みを、徹底的に突け。命のやり取りの中で習得したことを、一刀は女の扱いにまで応用している。それを自然体のままやってのけるのだから、わが息子ながらおそろしい男だと炎蓮は鼻を鳴らす。
「どちらが、と言っているような時ではない。馬家を含めて、いまは合力して敵にあたらなければ。とにかく、この涼州の平穏を取り戻す。すべては、それからだ」
「う、うん。その考えに関しては、ボクも賛同させてもらう。というか、あの、手……」
賈駆という女は、どうやら強引な押しに弱いらしい。
まともに寄りつこうとする男もいなかっただろうし、一刀という存在の異質さに戸惑っているのが現状なのだろう。ただ、厳重に閉じられていたはずの門扉に隙間が生まれた。一刀はそこに片足を突っ込んでいるような状態なのだから、あとは時間の問題だと炎蓮は壁に寄りかかりながら思う。
「いやはや。若いというのは、なんともよろしいものですな、炎蓮さま。こちらの気持ちまで、なんだか甘酸っぱくなってきますわい。大切な殿方であるとはいえ、若殿は儂らにとっても息子同然に接してきたお方。その若殿が立派になされているお姿を見ていると、なにかこう……」
「気色の悪いことを言うやつだな。祭、さては貴様、まだ昨晩の酒が残っているのではないか?」
「まさか。儂は、断じて酔ってなどおりませぬ。たらふく水を飲みましたゆえ、ご心配めされるな」
腰に手をあてて、祭が大笑する。
そうやって言う人間が一番危ないことくらい、これまでの人生で学んでいる。親友とも呼べる宿老のふくよかな尻。力いっぱい鷲掴みにすると、いくらか気分が晴れたような感じがした。
「俺の真名、賈駆殿に預けておこうと思う。呼びたくなったときには、いつでも。それで、今度あったことは手打ちにしたいのだが、どうかな」
「孫策殿の真名、ね。ま、まあ、考えておかないことはない、かな。ボクも、ちょっと最初からいけない部分があったみたいだし。ううっ……。それにしたって、これはほんとに」
手を握られているのがそんなに恥ずかしいのなら、力ずくで振りほどいてしまえばいいのに、と炎蓮は思う。
迫られて顔を真っ赤にする年頃の少女。ほほえましいくらいの光景であり、隣で見ている祭もしきりに頷いているばかりだった。そうしている間に、華雄を連れた董卓がやってくる。賈駆は、自分たちを取り巻く人数が増えていることに、まだ気づいていないようだった。
「うふふ。詠ちゃんたら、ちょっと見ないうちに、一刀さんと仲良くなってくれたんだね」
「うむ。あれだけ強固だった詠の態度がほぐれたのだから、襲撃を受けてむしろよかったと思えてくるぞ。本番前に、一刀殿と予行演習を行うこともできたのだしな」
「ち、ちがっ……! これはその、なんというか……。とにかく、ほんとに違うからっ!」
賈駆の絶叫が、広間に鳴り響いた。
†
遠方に土煙が見えている。城門まで足を運び、炎蓮はやってくるであろう軍団を待ち構えていた。
接近してくる馬蹄の音。騎馬の隊列は一糸の乱れもなく整っていて、見事なほどの連携がとれている。
流麗にたなびく『馬』の一字の旗。先頭を駆けていた女が下馬をして、ゆっくりと近づいてくる。男と並べても見劣りのない体躯。変わらず大身の槍を好んで使っているようであり、それだけでも懐かしい気分になった。
「おう。いつぶりだか忘れたが、まだくたばっていなかったのだな、江東の狂虎」
「ああ? 藁束を突っ込まれたくなかったら、その減らず口を閉じていやがれってんだ。馬家のババアめ、死に損なっているのは貴様のほうではないのか」
馬の尾のように伸びた髪を揺らしていた馬騰が、眼前で立ち止まった。
董卓から孫家がきていることは伝わっていただろうし、驚くようなことはなにもなかった。
馬騰。二十年は直接顔を合わせていない女だったが、気力に衰えはないようだった。
若い頃から暴れまわり、西涼で勇名を馳せている豪傑だった。かつては自分も一緒になって馬を乗り回し、賊徒を斬り刻んだ記憶がある。そんな馬騰が現在では重鎮
常磐の後ろから、体躯や覇気をひと回り小さくしたような女が顔を見せた。見覚えのある面影。血縁のない自分と一刀とは違って、顔立ちや髪の癖に親との共通点がいくつもある。見た感じ、年は一刀よりも少し下のようだった。
「母さま。この方が、もしかして?」
「孫堅文台、揚州の跳ねっ返り女だ。しっかり挨拶を済ませておけよ、翠? この炎蓮に下手に恨みを買うと、なにをされるかわかったものじゃねえ」
「うぐっ……。は、はじめまして、孫堅殿。あたしの名は馬超。母さま、馬騰の長女で、たまに家の代理をさせてもらっています。と、とにかくよろしく!」
「そんなにかたくならんでもいい、馬超。しかし、貴様も人の親になっていたとはな。常磐。子は、何人いる」
「ここに連れてきているのは超と鉄の二人だけだが、ほかにも休という名の娘がいる。そういう貴様は、どうなんだ?」
同世代の悪友との再会。しんみりするような場面ではないが、まったくなにも感じずにはいられなかった。
この二十年で、自分の周囲の環境は大きく変化した。妙な縁から息子を得て、夫との間にできた子と同等かそれ以上に愛情をそそいだ。夫には先立たれたが、それで生まれた物足りなさは、息子がすべて埋めてくれている。
世間から見てどれだけ歪な家族関係であろうと、そんなことはどうでもよかった。新たに一刀を中心に据えたことで、孫家の絆はより強固なものに生まれ変わった。一刀の形成する輪の範疇は、いずれもっと広大になっていく。予感というか、それはほとんど確信に近かった。
「三人だ。うえに息子がひとりいて、あとは娘が二人いる。しっかり者の長女は、呉郡で留守番。貴様のところも、案外そうではないのか?」
「そんなものなんだな、どこも。はっ。やかましい母親と姉妹がでていって、真ん中の娘は清々した気分で家長の椅子に座っているのかもしれねえ」
それもそうだ、と炎蓮は笑った。
ただ、蓮華のそばにはあの雷火を残してある。内政のやり方について切々と詰められるくらいなら、遠征に同行して戦地に赴くほうが余程楽なように思えてくる。そういう意味では、今回貧乏くじを引いているのは蓮華だった。
「おもしろい戦をやるぞ、常磐。呂布というのがいるそうだが、あれはウチのきかん坊がどうにかする。ハハハッ。叛乱軍のやつら、どうして狩ってくれようか」
血の湧き立ちを抑えられずにいた。
常磐が槍の石突で地面を強く叩く。雰囲気に呑まれかかっているのか、馬超は黙ったままその場で立ちすくんでいる。