陽のあたらない書庫の片隅で、桂花は膝を抱えてうずくまっていた。
曹操に仕えてまだ日が浅いから、来る日も書類や資料の整理に追われている。まだ、真名を呼ぶことを許されてもいない。
きっと、これは曹操に試されているのだと思った。誰にでも下積みの時代はある。だから、能力のすべてを発揮できない状況にも、ひたすらに耐えた。
少し前、怖いくらい冷たい顔をした夏侯淵から、書簡を手渡されていた。隠れるように隅っこに移動したのは、そのためなのである。
差出人を確かめて、愕然とさせられた。あろうことか、そこにはあの孫策の名が記されていたのだ。
「ほんっと、心の底から意味わからないんですけど……」
肉食獣を彷彿とさせる貪欲さで、女を求め徘徊するケダモノ。それなのに、自分のことは曹操に押しつけるようなかたちで、さっさと出ていってしまっている。
腹が立つ立たない、という話ではなかった。
暴力を振るうし、人の眼のある場所だろうが平気で女を犯す。あんな野蛮な男との縁、綺麗さっぱり切れてむしろ清々しているはず、だったのだ。
文面に目を通す。粗野な男が書いたにしては、字が整いすぎている。だから、書状を実際に作成したのはたぶん周瑜なのではないかと桂花は推測する。
「いやいや……。涼州土産はなにがいい、ってどういうことなのよ……」
そこでもう、読むのをやめてやろうかと思った。
ほんとうに、勝手なことを言ってくれる男だった。
なんともなくなった頬を、手のひらでそっと抑えてみる。ぞくりとするなにかがある。それでも、桂花は気づかないふりをしてやり過ごした。
やっと曹操に仕えることが決まったのに、顔に傷なんかついていたら、自分は絶望の底に叩き落されていたことだろう。
親にも、顔をぶたれたことなんてない。それなのに、あの男は。思い出すほどに、おかしな感情があふれては消えていく。
「は、はあ……? 漢中を調略したいから、私の意見を聞かせてくれですって? そもそもなによ、調略って。あいつら、涼州には援軍として派遣されただけじゃない。そんなの、いったい誰の許可があって……」
そこまで呟いて、桂花は言葉を詰まらせた。
孫家の、あの男の野心に迂闊に触れると、いつかわが身に危険が及ぶ。乱世を平定し、天下を正しい方向に導くことができるのは、覇王の器を持つ曹操だけである、はずだった。
「まずいまずいまずい……」
こんな厄介事を抱え込むくらいなら、太史慈の助力を得ることなく、自力で洛陽にたどり着くべきだったのである。
孫策の双眸の放つ輝きが、ふと頭の中に蘇った。
炎の揺らめきを湛えていて、そこにはなににも縛られることのない野性があったように思えてくる。
粗暴だが、曹操とやり合えるほどの度胸がある。あの恐ろしい猪女が手玉に取られているのを見た時は、正直言って胸がすいた。
「こんなもの、曹操さまに見られたらすべてが台無しになってしまうじゃない。一刻も早く、この世から消滅させないと」
息を大きく乱し、桂花は壁を支えに立ち上がった。
†
あれから、しきりに賈駆が顔を見てくるようになっていた。やっている当人は気づかれていないつもりなのだろうから、あえて指摘するような真似を、孫策はしていない。
城門に向かっていた義母が、知らない女を引き連れて戻ってくる。義母と同年代らしき女には、軍人としての風格がある。きっと、あれが馬騰なのだ。席を立ち、孫策は女に近づいた。
「おお、常磐。こいつが、先ほど話に上がった孫家のきかん坊だ」
「孫堅の子で、策と申します。お見知りおきを、馬騰殿」
妙なくらい身体を密着させて、義母が腿のあたりを抱いてくる。
馬騰は義母と同じく上背があり、立派な体格をしていた。乗馬した際の風の抵抗を考えているのか、衣服には緩みがなくぴっちりと肌に張り付いている。それで大きな乳房のかたちが丸わかりになってしまうのは、なんの因果なのだろうか。
極端な露出がないのに、むしろいやらしい格好をしているように見えてくる。腰に巻いた毛皮だけが、荒々しい印象をなんとか支えている。すっと伸びた筋肉質な脚も、やはり魅力的なのだ。
馬騰の後方にいるのは、その娘たちなのだろうか。
表情に、少しあどけなさがある。とはいえ、母娘揃って女としての器量は申し分なく、さすがは西涼に勇名を馳せる武門の家柄だ、と孫策ら感心していた。
「ククッ。貴様もいつか、この策の本性を思い知ることになるのかもしれん。まあ、いまは独り身なのだから、なにを心配することもないか」
「んあ? おいおい……。貴様まさか、実の息子と」
義母の指が、しれっと下腹部の中心を撫でてくる。いまさら、この程度で心が揺れることなどない。馬騰とは旧知の仲のようで、義母はいつになく愉しそうにしていた。
「強いオスに抱かれたいと思うのが、メスの本能じゃねえか。それが、たまたま一番近くにいるこいつだったのよ。しかも都合のよいことに、この策は拾い子なのでな。交わったところで、罪悪感に苛まれることもない」
「嘘をつけ。たとえ相手が実子だろうと、気にするようなタマかよ、貴様が。むしろ、喜々となって貪る姿が、はっきりと眼に浮かぶんだが」
「ハハッ、それもそうか。常磐め、よくわかっているじゃねえか、オレの性分を」
二人の古強者が、同時に笑い声をあげる。
孫策は軽い仕返しとばかりに、義母の肉感にあふれた尻を一度撫で回した。
「あわわわっ……。な、なんだかあたし、ここで上手くやってく自信が急になくなってきたぞ」
「平気だって、お姉ちゃん。ちょっと倫理観が崩壊してるだけで、孫堅さんも孫策さんもいい人そうじゃない。えへへっ……。しかもあの人、結構蒼の好みかも?」
馬家の妹と思わしき片割れが、にこやかに笑いかけてくる。
鮮やかな色をした衣服。一門のうちでもっともむっちりとした身体つきをしていて、そのやわらかさが思考にまで伝播しているようだった。
「うふふっ。お久しぶりです、常磐さん。どちらにとっても、孫家のみなさんが援軍にいらしてくださったこと、良い影響があったみたいですね」
「そうかねぇ? まっ、とにかく私は、やることをやるだけだ。叛乱軍のやつらをぶっ叩く。そのための力になるなら、江東の狂虎だろうが歓迎してやる」
「そうですよ、きっと。ねっ、一刀さん?」
すべてを包むような月のほほ笑み。
いよいよ、本格的な戦をやることになる。
董卓軍と馬騰軍。それに自分たち孫家の軍勢とを合わせると、都合四万ほどになる。
叛乱軍はそれとほぼ同規模で、漢への不満が募るだけ、勢力には伸長する余地があるといってよかった。
手がつけられなくなる前に、かたをつける。
総意は、はじめからまとまっているのと同じで、あとはどう敵を潰していくかだった。
「こうして三つの勢力が集まったことですし、その力を見せつけるべきだと私は思います。とにかく、叛乱軍にこれ以上勢いを与えるわけにはいきませんから。孫堅さんと馬騰さんのお二人にも、協力していただけると幸いです」
「無論、孫家に異存はない。各個撃破を狙ったところで、いつまでも埒が明かなければなんの意味もないではないか。こちらがまとまれば、向こうも軍勢を集結させるしかなくなる。いいじゃねえか。戦ってのは、わかりやすいほうが」
「小さな叛乱を抑えつけても、また新しい芽がどこからか生まれてくるだけだ。奪るなら、頭を奪るべきだな。ふん摑まえて、根っこから引っこ抜く。それでお終いにしてやるのが、もっとも手っ取り早い」
穏やかな口調の月とは違って、義母と馬騰は血の気が多い。
しかし、自分は早くに月の危うい部分に触れている。だから、この三人が並んで戦の話をしていることに、特別違和感を覚えることはなかった。
「なあ、馬超殿」
「やっ。なんだか変な感じがするから、すぱっと呼び捨てにしてくれよ。あたしも、孫策って呼ばせてもらうからさ」
「ならば、馬超」
「うん。なんだよ、孫策?」
真隣に座る馬超に、孫策は話しかけていた。
戦の流れを考えると、どうしても呂布のことが脳裏に浮かぶ。それに、呂布の相手は自分がする、と孫策は心に決めていた。
規格外だという武人の実力を、確かめたいという思いがある。そのうえで、どうにか麾下に迎えたいという願いがある。
呂布の軍団は少数精鋭。自分の騎馬隊とも、通じるものがある。それに、暴威の中枢を引きつけられさえすれば、主力の勝ち筋はいくらでも見えてくる。
「剣を交えたのち、どうにかして呂布を捕らえたい。できると思うか、馬超」
「ええ? うーん……。あいつの強さは無茶苦茶だけど、ほかの叛乱軍と連携が取れているとは言えないんだよな。だから、初手でさっさと切り離してしまって、誰かが呂布と闘っている隙に配下を制圧する。そこから先は、まあ、なんというか……」
「どちらかが死するなら、その時はその時だ。本番まで、麾下の調練に付き合ってくれないか、馬超。揚州には、敵するだけの騎馬隊がいなかった。それに、これだけ広々とした原野を見ていると、やはり心が躍る」
「いいぜ、孫策。あたしも、外からきた人間の操る騎馬隊の実力、見てみたかったんだ。へへっ。調練だからって、手加減してやらないからな?」
「そうでなくては、意味がない。こちらとしても、望むところだ」
気持ちのいい性格をしている女で、梨晏や霞にも通じる気質を備えている。
横道に逸れる自分たちに気がついたのか、賈駆がむっとしたような顔を向けてくる。
机の下で、馬超と拳を密かに打ち合わせた。ようやく見せた自然な笑み。二重の意味で、孫策は喜びを感じている。