長江の流れに、蓮華は手を浸した。乾いていた肌。潤いが拡がり、気分がちょっと清々しくなる。
小型の快速船が、風を切って走る。廬江までの旅だった。同行しているのは、亞莎のほかに武官が三人。外の土地に対する見識を得たい者を募り、蓮華が選んだ。
孫家でも、冥琳を筆頭に船の研究はしている。形状をどうすれば、水の抵抗を受けなくなるのか。小さいものなら、なるべく小回りがきくようにする。
それでも、やはり思春たち錦帆賊の使う船には勝てない、と蓮華は思う。
埋まらない、漕手の力量の差がある。毎日のように長江に繰り出し、時には戦をするのが江賊の仕事だった。長江の治安が乱れれば、流域で護衛や関税の取り立てをしている錦帆賊の損失にも繋がる。だから略奪を働く賊徒が出れば討伐のため出動するし、諸侯の戦の手伝いをすることもあるのだ。
揺れる船上で、亞莎が懸命に読書に励んでいる。視力があまりよくないようで、小さな文字を見ているときは途端に人相が悪くなる。片眼用の眼鏡をしてはいるが、それでどのくらい視界が拡がるのか、蓮華は知らなかった。
「亞莎。勉強は、順調に進んでいるの?」
「あっ、は、はいっ。ううっ……。申し訳ありません、蓮華さま。私は護衛のお役目を受けて同行しているのに、つい」
「ふふっ。なにも気にすることはないわ、亞莎。もし、聞きたいことがあったら、遠慮せずに質問するように。あなたに教えることで、私の理解にだって繋がるのだから。雷火ほどの知識はないけれど、なんとか亞莎の力になってみるつもりよ」
「な、なにからなにまで、ありがとうございます。ほんとうなら、明命と一緒に一刀さまのお力になりたかったのですが。けれど、皆様方のご期待に、なんとか応えられるように頑張りたいと思います」
「その意気よ、亞莎。お帰りになったら、兄上もきっと褒めてくださるはずよ」
「は、はいっ。えへへ……。一刀さまに褒めてもらえると思うと、ちょっぴり勇気が湧いてきました」
そう言って笑い、亞莎が視線を兵書に戻す。
自分も、兄がたくさん褒美をあげたくなるくらいの頑張りをしておかなくては。動機が現金すぎる気がしないでもないが、人というのは所詮そんなものだ。あの堅物の雷火ですら、兄といい雰囲気になれば恋に焦がれた女の顔をする。誰にだって、公私の使い分けは必要なのだ。そう言っても、母は自由すぎるのかもしれないが。
途中休憩を挟みながら、三日も流れに乗っていれば、思春が現在根城にしている村に到着する。
それまでは、自分もひと時羽根を伸ばしていよう。風と波の音だけに、蓮華は耳を澄ませている。
†
岸に設置してある杭に、乗ってきた小型船を舫う。
先に飛び降りていた亞莎が、船を手で安定させてくれていた。足が濡れることなど少しも気にしていない。こうした優しさを普通に見せられるのが、亞莎のいいところだと蓮華は思う。
隠密行動をしていたわけではないから、自分が来ていることを思春は察知しているはずだった。そうでなければ、手前でとうの昔に打ち払われている。歓迎されていない場合も、同じだった。
体格のいい男たちが、数人村のほうから歩いてくる。日焼けした肌。鍛えられた腕。錦帆賊には漁で生計を立てている者も少なくなく、それで自然と操船の術は磨かれる。
「江東の孫権だ。こちらに、頭領はいるか」
「へえ。知り合いがきているから、迎えに行ってこいとお頭が。お連れしますので、どうぞ」
「ああ、頼む」
男の顔には、見覚えがある。二年に一度は思春と直接会うことにしていて、そのときに面識ができているのだろう。確か、返事をした男が錦帆賊の漁業を取り仕切っているはずだ。
いきなり襲われることはないだろうが、護衛の武官が周囲に注意を払っている。亞莎は気配で危険がないことがわかるのか、いつも通りの様子で村の景色を眺めていた。
小さなころから遊んでいたあの思春が、大人になって江賊を率いるようになるとは正直思いもしなかった。なんでもないきっかけひとつで、人生は変化するものなのではないか。たとえ、小さな石ころに躓くような程度のことでも、甚大な影響を与える場合がある。
「蓮華さま。甘寧殿とは、どのようなお方なのでしょうか」
「会えばわかるわよ、亞莎。それまで、お楽しみはとっておくべきではないかしら?」
「は、はあ……」
ほかよりも大きな屋敷で、思春は生活を営んでいた。
錦帆賊頭領として、それなりに相応しい暮らしをする必要がある。本人がいらないと思うようなことでも、そこには別の事情が絡んでくるのだ。
「どうぞ。頭領が、中でお待ちです」
案内役を務めていた男が、屋敷の護衛に話をつける。
実際、思春ほどの腕前があれば、ほとんどの敵を打ち倒すことができるのだろう。孫家においても随一の武力を誇る母であっても、護衛を影に潜ませている。人の上に立つということは、どれだけ周囲に気を使えるかだった。
家の内側は、無骨な思春らしく質素そのものだった。調度品もなにもなく、大きさの割にちょっと寂しい空間が拡がる。せめて花くらい飾ればいいのに、などと蓮華はいつも思うのだが、思春に改善するつもりはないようだった。
小さめに造った私室に、思春はいた。鋭い眼つき。愛用している幅の広い曲刀は、壁に立てかけてある。
「久しぶりだな、甘寧。こうして足を運んだのに、追い返されたらどうしようかと、内心冷や冷やしていた」
「会いに来るのが、今回は早かったな。まだ、一年も経っていないぞ」
感情を悟られたくないのか、思春が首に巻いた布で口もとまで覆う。
ずっと二年に一度だったのが、いきなり配分を崩した。それは、こちらになにか別の思惑があるからなのだ、と思春は踏んでいるようだった。
共闘したことのある諸侯から、錦帆賊が誘いをかけられていても不思議ではなかった。長江と接する勢力にとって、水運の確保はなにより大事なことになってくる。思春たち錦帆賊の戦力は、その中では一番だった。
孫家として、戦に協力するよう願い出たことは、まだない。然るべき時が来るまでは、ただの友人でいたいという思いがあった。思春も、それはわかってくれているはずだ。
「見ての通り、今日は幼馴染の蓮華としてきたのではない。率直に言おう。甘寧。どうか、われら孫家におまえの力を貸してはもらえないだろうか」
「いきなり、不躾なことを言うやつだな。せめて、人払いくらいしたらどうだ」
冷たく言い放った思春に、護衛の三人が色めき立つ。ただ一人、亞莎だけが静かに自分たちの様子を見守っていた。
「おまえたちは、別のところで少し休ませてもらえ。それでいいな、甘寧?」
「構わない。どうしてもというなら、その女だけはこの場に残すことを許そう。あまり、強くはなさそうだしな」
蓮華の置かれている立場を、わからない思春ではなかった。
会談の邪魔になりそうな人間は徹底して排除するが、麾下の心情を考えつつ亞莎だけを残留させる判断を下す。特別扱いをしているわけではない、とあえて口に出して強調するあたり、頭領として人の扱い方を心得ている。
亞莎を後方に控えさせる。蓮華は思春と向かい合い、椅子に腰掛けた。
「最初に言っておくが、漢の手先に身を寄せるつもりはないからな。私は、私なりの生き方を謳歌している。麾下となってくれた皆も、意見は同じだ」
「おまえらしいな、まったく。だが、孫家の抱く志、そんな小さく見積もられては困る」
「小さい、か。だったらなんだ。この国を、一度ぶち壊すくらいの野望を持っているのか、貴様たちは。ははっ。そのくらいでなくては、話にもならんぞ。どいつもこいつも、口を揃えては小綺麗な大義を並べていく。そんなもの、知ったことか。われらは江賊、長江に生きる賊徒なのだ」
冗談めかして思春が言う。
誘いをかけてくる諸侯の口説き文句に、飽き飽きしているようだった。しかし、こちらも本気。どこまでも、天下を駆け抜けるつもりでいる。
「いいな。そのくらいのことを、成し遂げようではないか。白蟻に食い尽くされ腐り果てた柱は、打ち壊した後に立て直すしかない。おまえたちの抱えた鬱憤、孫家となら大いに晴らすこともできよう。だから、甘寧」
「ふんっ……。大言を吐くようになったものだな、孫権。しかし、誰がそんなことを信じられるか。甘い言葉に誘われて、配下を苦しませるわけにはいかない。私の気持ちは、貴様にも理解できるはずだ」
ずれかかった布を、もどしながら思春が言った。
あとひと押し。そういう感覚を、蓮華はもっていた。付き合いが長いだけ、思春の性格は熟知している。あとは、どう焚きつけてやるかだった。
ふと、後方の亞莎に顔を向けてみる。
自分と思春のやり取りにやきもきしているのか、身体の前で結んだ手が忙しなく上下している。正確にいうと、長い袖で隠れているから内部がどうなっているかわからないのだが、その気になるとあそこから暗器の類が飛び出してくることは知っている。
「そうね……。ああ、やっとわかったわ。しーちゃんあなた、兄上直々のお誘いでないことに、拗ねているんでしょう? ふふっ。だったら、使者を立てて涼州にいっている兄上にお願いをしておくわ。戦の帰りに、必ず思春を見舞うようにってね」
「んなっ……!? あ、兄上さまのことは、いま関係ないはずだ。それにその呼び方、いい加減やめてくれと何度も……っ!」
「し、しーちゃん? それって、あっ……!」
幼いころは、思春という真名をもじってあだ名で呼ぶことがほとんどだった。恥ずかしそうに顔を真赤にしているが、思春だって自分のことを『れんちゃん』と呼んでいたのだ。
強く気高い思春も、昔はよく泣かされていた。それでなにかあった時には、決まって兄が仇討ちをしていたものだ。
幼少期に育まれた繋がりほど、消えずに残るものなのではないか。以前から思春の中に、兄に対する慕情があることは知っていた。際限なく拡がる兄の器の中に、いい加減この幼馴染も納まっていい頃合いなのである。
急に転換した雰囲気にあてられたのか、あだ名とはいえ亞莎が思春の真名を口にしてしまう。湧き上がる怒気。羞恥で真っ赤になっていた思春の顔が、より鮮やかになっている。
「おい、貴様ぁ……! 私を、その名で軽々しく呼ぶんじゃない……!」
「はひっ!? すみ、すみません、甘寧殿。伏して謝罪いたしますので、どうかご容赦を」
思春が机を拳で叩き、怒声を発する。
膨れ上がる凄まじい殺気に、亞莎が身を縮こまらせている。
その気持はわからなくもない。ほんとうに飛び上がって床に額を擦りつけようとする亞莎を、蓮華はそこまでする必要はないと制した。
相変わらず口もとを布で覆ったまま、思春が首から上だけを横に向けている。素直ではない幼馴染だ。だが、間違いなく心は揺れている。
「もう、そんなに怒鳴り散らしてはだめよ、思春? 兄上にお会いしたいのなら、もっと自然な笑顔でいないと」
「ぐぬぬっ……。家の用事というのは建前で、実は私で遊びにきただけではないのか、れんちゃんめ……!」
風習ができた当初ならいざ知らず、真名の神聖さは現代になって形骸化しているといってよかった。
いまはほとんどの者が、真名を親しくなった証として扱う。不意に呼ばれると腹立たしくはあるが、それで刃傷沙汰にまで発展するのはいまさらありえないことだ、と蓮華は思う。
「うふふっ。昔のように呼んでもらえると、私はかえって嬉しいのだけれど。ねっ、しーちゃん?」
「はあ……。なんだかもう、私は疲れた。この責任、取ってくれるのだろうな、蓮華」
「ええ、それは勿論。本気なんだから、私も兄上も」
ぐったりとなった思春が、机の上に突っ伏せる。
絶対に配下には見せない姿だった。秘密を共有することになった亞莎に、人差し指を立てて合図を送る。まだ蒼白となったままの顔が、なんだかかわいらしかった。
最近意図して♡減らしているんですけど、読んでる方的にはどうなんですかね?
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このままで
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もうちょっと欲しい