半身を引き裂かれるような痛みで、孫策は眼を醒ました。
上体だけを起こし、胸に手のひらをあてる。
残響はまだ完全に消えてはいない。誰かの名。それも、真名を夢で叫んでいたような感覚があったのだ。胸をつくような切なさが、吐息とともに全身から抜けていく。
こうした夢を、自分が見ることになるとは思わなかった。どれだけ手を伸ばそうと、掴むことのできない雲のような儚さがある。
なにかの兆候。あるいは、過去の幻影に自分はとらわれている。巷にいる占い師に尋ねれば、きっとそんな答えが帰ってくるのではないか。
夢の記憶をたどり、口の動きをどうにか復元しようと試みる。それでも、正解が見えてくることはなかった。
「んんっ、んむぅ……」
隣で眠っていた翠が、眠そうに閉じたまぶたを擦っている。
助走をつけて勢いよく一線を越えたからなのか、情を交わした男との同衾くらいは、当たり前にできるようになったらしい。従妹である馬岱には、翠の態度は意外そのものだったらしいのだが、湯上がりの睡魔には勝てず、なし崩し的に寝台に倒れ込んでいた。間違いなく、朝になれば質問責めにあう。それまでに、翠の気力が回復していることだけを孫策は願っていた。
「ふぁう……。んうっ、なんだよ、まだ真っ暗じゃないか。んーっ、はあっ。一刀殿の声が聴こえたから起きたんだけど、なにかあったのか?」
自分のせいで起こしてしまったのなら、ちょっと申し訳なく思えてくる。
翠が口にしたように、起きるにはまだ時間的に早すぎる。特に翠は初めての経験で体力を使っているだろうし、休めるうちは休んでおくべきだった。
「いいや、なんでも。不慣れな寝具が、おかしな夢を見せたのかもしれないな。だから、心配してもらうようなことは、少しもない」
「ふわぁ、そっか……ぁ。それなら、あたしはもうひと眠りさせてもらうよ。おやすみー、一刀どの……ぉ」
ばたん、と背中から寝台に倒れこみ、翠が二度寝の体勢に素早く移行する。
こうした心の図太さがなければ、戦場では生き残れない。早くも健やかな寝息をたてる翠の前髪をそっと撫で、孫策は自分も再び横になった。
†
馬家の営む牧場に、穏やかな朝が訪れていた。
きっちり二度寝を決めこんだおかげで、身体はかなり軽くなっている。翠はまだまだ寝ていられるといった雰囲気ではいたのだが、どうにか着替えさせて一門の集う食卓に連れて行った。
半身を裂かれるような痛みは、淡くどこかに消えていた。夢と現実の狭間であった出来事に、いつまでも拘っているべきではない。そこで思い悩むくらいなら、不用心な一歩を踏み出したほうがよほどマシだ。
朝食の準備が、着々と進められている。翠の従妹である馬岱。それに、昨晩は会うことのできなかった下の妹である馬休も、今朝は顔を見せていた。
自分と翠の姿を見るなり、馬岱が小走りに駆け寄ってくる。人懐っこい丸い瞳。充満した好奇心で、爛々と輝いているようだった。
「にししっ。おはよっ、お義兄さま」
「んあ? 朝っぱらからなに寝ぼけていやがるんだ、蒲公英。いったいどこに、おまえの兄さまなんて人が……」
「ええー? そう言うお姉さまこそ、もう一回顔を洗ってきたほうがいいんじゃないかなあ。ねっ……、お義兄さまっ♡」
意味深な笑みを浮かべた馬岱が、身体の右側から抱きついてくる。それでようやく事情を理解したのか、翠が口全体を手のひらで覆った。
いくら疲労が勝っていたとはいえ、まさかあれで自分との関係を隠せているつもりだったのか。
燃料の節約という大義名分こそあれど、蒼も交えて三人で湯を使った。その時点で、すべてを大っぴらにしてもいいものだと思っていたのだが、どうやらそれは自分の考え違いだったようだ。
「私のことは、蒲公英って呼んでくれていいよ。あの偏屈で、男の人に縁のないお姉さまが連れてきた、いいお方なんだもん。なのに一門の私が、歓迎しないわけにはいかないでしょ。ねっ、鶸ちゃんも、そう思うよね?」
「えっ、わ、わたしっ? うーん……。けどまあ、そうするべきではあるのかも。孫家のみなさんの援軍があって、実際叛乱軍との闘いの流れは変わったみたいだし、それに……。ええっと、姉さん?」
妹の伺うような視線を受け、翠が幾許か迷うような素振りをみせた。
すべての事情を理解している蒼が、食事の準備を行いながら愉しそうに顔をにやつかせている。一門が勢揃いしていることで、翠を取り巻く人間関係がより明瞭に見えてくる感じがしていた。
「うっ……。そ、そうだよ。かず……孫策殿は、あたしの、その……」
限界まで赤く染まった顔。それでも翠は、従妹たちからの追求から逃げ出そうとはしなかった。
腹は括れている。ちょっとは勇気の足しになるだろう、と孫策は横から翠の手を握った。蒲公英があっと声をあげる。直立している翠が、両足をさらに踏ん張った。
「だんなさま、で……。んっ、ごくっ。してくれるんだよね、あたしのこと、あなたのお嫁さんに。んふっ……!? んあっ、むっ、んむっ、はふっ、ちゅう……」
返事をする代わりに、翠の唇を素早く塞いだ。
蒲公英たちに見せつけるように、深い口づけを二人で愉しむ。これ以上ない意思表明だと孫策は思った。余裕そうにしていた蒼も、さすがに準備の手をとめて、自分たちの行為に見入っている。
逃げようとする翠の頭を、強引に掴まえる。
まだまだ、このくらいでは物足りない。先ほどまで寝ぼけていた翠の思考に、気持ちを叩き込んでいく。絡まり合う舌。少々唾液が床にこぼれることくらい、気にはならなかった。眼を大きく見開いている蒲公英が、ごくりと唾を飲む。何度かにわけて軽く唇をついばむと、翠は嬉しそうに声を洩らした。
「わわっ……。あの姉さんが、こんなになっちゃうんだ。蒲公英。すごいんだね、私たちの義兄さんって」
「だね、鶸ちゃん。ううっ……。私、さっきからずっと胸がどきどきしちゃってるんだもん。お姉さまのあんなになったお顔見せつけられたら、誰だって……」
上気した翠の頬をゆっくりと撫でる。
初手から妙な雰囲気をつくりあげた責任者として、食事中はほとんど翠の世話に専念するようなことになった。
†
晴々とした青空がどこまでも拡がる。
涼州にやってきて、ここまでのんびりと流れる風を味わうのは、はじめてだった。
大まかに囲われた柵の中で、多くの馬が放牧されている。騎馬を主体にしている家ということもあり、その育成には余念がない。
揚州では、商人が連れてくる群れから馬の見繕うしかなかった。土地ができたら、孫家もいずれ独自の牧場を持つべきだと孫策は思う。
恋との闘いで亡くした馬は、白狼山を越えてきた烏丸の商人から貰い受けた一頭だった。
外に暮らす人々は、馬を飼いならす術をよく知っている。子供のころから一緒になって育つから、当然馬術にも長けるようになる。翠たちにも、濃くはないが羌族の血が流れている、という話を孫策は聞いていた。
「えへへー。お義兄さまが乗馬を選びにくるって聞いたから、たんぽぽと鶸ちゃんとで、何頭か候補を絞り込んであるんだよ。ウチで育った自慢の子たちだから、きっと気に入ってもらえると思うな」
「あちらです、義兄さん。気性の荒い子もいますので、お気をつけて」
柵の内側に足を踏み入れる。
好きに歩き回っていた三頭が、孫策のほうに意識を向けた。蒲公英が言ったように、どの馬も面構えがいい。それでも、選択に迷うようなことはなかった。
覇気すら感じさせる一頭に、孫策が近づく。体格が立派で、よく走りそうな脚をしていた。
視線を外さずに、顔に手を伸ばした。開いた口から、獰猛な歯がのぞく。翠が心配するような声をあげる。平気だ、と孫策は短く応じた。
「決めた。乗るなら、この馬がいい」
「あははっ……。ここでも無意識に牝馬を選んでしまうあたり、一刀殿らしいというかなんというか……」
そうなのか、と孫策が笑う。挨拶の代わりに鼻面を撫でてやると、馬がじゃれるように手のひらを押し返してくる。自分たちの様子を確認してから、鞍を用意してきます、と鶸が駆けていった。
茶色い毛並みの中に、白い模様が舞う雪のように点在している。もっとも心を惹かれたのは、そこなのかもしれなかった。
「いいじゃないか。よく似合っていると思うよ、一刀殿に」
「うん。やっぱり、これだって感じた子と合わせると姿が全然違って見えるよね。かっこいいよ、お義兄ちゃん」
居ても立っても居られず、鞍を取り付けた雪華に飛び乗った。
視界が勇壮に拡がる。翠と蒼が揃って感想を述べているが、ほとんど耳には届いていなかった。
騎乗すると、感覚の繋がりがより深くなった。運命を感じる、というと大げさすぎるのかもしれない。けれども、人との出逢いにしてもそうだが、雪華とのめぐり合わせは、そのくらい大きなものがあると孫策には思えていた。
「どこまでも駆けよう、雪華」
力強い嘶き。飛ぶように駆ける馬だ、と手綱を握りながら孫策は笑みをこぼしていた。
振り落とされないように、しっかりと腿を締め上げる。自分がついてこられることを確認して、雪華がさらに脚を速めた。
後ろから、翠たちの乗る四頭が追いかけてくる。このまま、いけるところまで駆けるつもりだった。責めに責めて、雪華との感覚のずれを完全になくす。数日乗りこなせば、それができるはずだった。
「つき合うぜ、あたしたちも。まずは、あの木まで競争だ」
翠が乗馬の腹を蹴る。一門の練度は普通ではなく、最初あれだけあった差をいとも簡単に詰めてくる。それでこそ、勝負のやりがいがあると思った。
ほかの四頭の闘気にあてられたのか、雪華がさらなる気迫を見せる。
草原に、季節外れの雪が乱れ吹いた。