夜風で冷えた身体を、燗酒の熱であたためる。あたりは静寂に包まれていて、腹の奥にある余韻を存分に愉しむことができていた。
暗がりに浮かぶ寂れた屋台。そこで以前のように女と落ち合い、孫策は杯を傾けている。
「親父。なんでもいいから、串を焼いてくれ」
黙々と仕事をしていた店の親父が、へいと小気味のいい返事をした。頭には白いものが多く、顔には深い皺が刻まれている。年齢的には、老境の域にあるといっていいのではないか。それでも、串を打つ手つきに澱みがない。連れの女の様子を横目で窺う。普段武芸のことにしか興味を示さない
叛乱軍の寄越した刺客との乱闘があったことなど、微塵も感じさせない雰囲気がある。
壊してしまった備品はすぐに代替品を見繕い、届けられてある。なにより店主が無事でいるかぎり、この屋台は骨組みが変わろうと、同じ雰囲気をまとうことができるのだろう。
「うまそうな匂いがしている。親父、それは羊の肉か」
「あたりです、将軍。若い肉は癖が少なく好まれる方も多いのですが、店で出している酒と合わせるには、風味があっさりとしすぎている。ですので、少々歳を重ねた羊を、うちでは提供するようにしています」
猫のふとした質問に、店主は流暢に言葉を並べて返していく。こだわりのないところに、魂は宿らない。料理や武芸、それに
熱を発する炭火に、余分な脂がぽつりぽつりと滴る。食欲を刺激する、旨味の詰まった匂いが立ち込めた。
この光景ですら、一種の肴になると孫策は思った。猫の無骨で静かな雰囲気も、やはりこの屋台にはよくあっている。なにもない夜を過ごすのには、ほんとうにうってつけの場所だった。
「どうぞ。まずは、塩で味をつけたものからお召し上がりください。タレが欲しくなった場合は、後ほど」
二本の串が乗った皿を受け取り、孫策はすぐさまいい焼き目のついた肉にかじりついた。
前歯を使い、一番上に刺さった肉を引き抜く。噛みごたえがあって、風味がしっかりと拡がる。それを酒で流し込むと、幸福感思わずで笑ってしまいそうになる自分がいることに気がついた。
熱いものがちょっと苦手なのか、猫は何度か冷ますように息を吹きかけてから、串を半分ほど口に放り込んだ。ちまちまと食うことをよしとする性分をしていない女だ。それで、別にがさつだなんだとやかましく言ったりするつもりはない。
「猫」
「ああ。わかっているさ、一刀殿」
裸になった串の先端を見つめ、孫策は小さく真名を呟いた。酒をぐいと飲み干して、猫が愉しそうに笑っている。
ひとつ、ふたつ。
背中から感じる人の気配に、感覚を集中させていった。親父の切り盛りする屋台は変えの効かない居場所だが、ここにくるとどうにも最後まで二人静かに飲み明かすことはできないらしい。
間合いに入るまで、あともう少し。机を指で叩き数をかぞえていた孫策が、振り返って鋭利な先端を背後にあった気配向けて突き出した。
「は……、はへっ……!?」
甲高い涙声が耳をつんざく。
指をわずかに動かせば、気配の正体は喉から鮮血を噴き出すことになる。一緒になって振り返った猫は、相変わらず笑っていた。
「な、ななっ、なんの真似ですか、これはっ……!? ねっ、ねねは今夜まだ、なにもしていないではありませんか。そ、それはまあ? 呑気に酒盛りをしている背中に、渾身のきっくを叩き込んでやろうとか、そういうことを確かに考えてはいましたが……」
「殿。ご冗談は、ほどほどになされるべきかと。このままですと、ねね殿の下が危うくなりかねません。そうなったら、困ることになるのは殿のほうです」
心の声を素直に洩らす音々音のさらに後ろから、紅波が音もなく姿をあらわす。
闇に舞う髪の美しさに変わりはない。前回の襲撃と違っているのは、その表情が優しく穏やかになっていることだ。
ここで粗相をされると、また店主に迷惑をかけることになる。何事もなかったように串を引き、孫策は跳ねっ返りの真名を呼んだ。
「飯に付き合え、ねね。もちろん、紅波も」
「はっ……? どうしてこのねねが、ちんこの化身と一緒に食事を……」
「そういうことでしたら、喜んで。さっ、ねね殿もこちらに」
「え、えぇ……? ちょ、ちょっと、やめ……。あっ、紅波殿、ねねになにを……」
四人でかけるには余裕のない大きさをした長椅子だ。
紅波によって自分の隣に押し込められた音々音が、不満で口をふくらませている。今夜は母親然とした恋と一緒ではないようだが、紅波がその役割を担ってくれているらしい。
子供の音々音に酒はまだ早いから、店主に言って水を用意してもらう。とりあえずなにか口にしていれば、少しは気持ちが落ち着く。うまい串で腹が満たされれば、それ以上のことはなかった。
食欲には抗えないのか、残っていた串を眼の前に置いてやると、音々音の表情がぱっと明るくなる。
「ま、まあ? この肉に恨みはありませんから、おいしくいただこうとは思いますが。はむっ、むっ、んむっ」
まるで小動物のようだと孫策は思った。音々音が忙しなく肉を咀嚼している。呂布軍は全体が家族のようなものだと恋が言っていたが、音々音を見守る紅波のほほ笑みを見ていると、そのことがよくわかるのだ。
噛む力があまり強くないのか、結構な時間をかけてでも、ひと欠片ずつ堪能するのが音々音の流儀のようだった。
ぬるくなった酒。大人だけで過ごす時間はもう終わりだ、と孫策はなみなみと注いだ杯からすするように飲む。店主は追加の串を焼きにかかっていて、そのうちの何本かは自分と猫が食すタレつきの肉だった。
「ちんこ人間の隣であるということを除けば、非の打ち所のないうまさですな。親父さん。追加の肉を、じゃんじゃん焼いてもらえますか。実は見回りをしていて腹ペコだったので、これならいくらでも食べられそうです」
「喜んで。精一杯焼かせてもらいますから、腹いっぱいでお帰りになってください」
景気のいいことを音々音が言っている。
食べ盛りの元気っ子だ。これに恋がくっついていれば店主の仕事はとんでもない量になっていたのだろうが、幸いなことに音々音は今夜飼い主とはぐれている。
「豪語するだけの余裕があるのだろうな、ねね? はははっ。もし食い逃げを企てるというなら、相応の覚悟をしておくことだな。追いつき次第素っ首を刎ね飛ばしてやるが、心配は無用だ。下手な処刑人より、俺はずっと腕が立つ」
「あ、あわわわっ……。お、おまえはやはり、血も涙もない冷血人間なのです。幼気なねねを食事に誘っておきながら、罠に嵌めようとするその狡猾さ。くうぅう……。ほんとうに恋殿は、どうしてあのようなご判断を……」
涙目になった音々音が、紅波にすがりついてふるえている。
事あるごとに著しい反応を見せる顔がかわいくて、つい意地の悪いことをしてしまうのだ。こちらの様子を窺う店主に仕事を続けるように告げ、酒でちょっと喉を濡らす。猫は自分たちの喧騒に興味がないのか、自適に夜を愉しんでいた。
「平気ですよ、ねね殿。投降に際して、一刀さまはわれらに飯をたらふく食わせてやる、とお約束してくださったのですから。その件、相違ございませんな、殿?」
「約束を簡単に違えてみろ。この首、今度こそ恋のやつにへし折られてしまうぞ。俺だって命は惜しい。だから今夜は泣く泣く、ねねの心ゆくまで肉を食わせてやる」
「お、おのれえぇぇ……! やっぱりというか、この陳宮公台をからかって愉しんでいるのでしょう……! ふ、ふんっ……。いつかその腹かっさばいて、欲望でくすんだ汚い臓物をかきだしてやるから覚悟しておくことです!」
勝ち誇ったように音々音が咆える。
元気の有り余っている感じは小蓮以上だった。真横でまくし立てるから、少々
左隣で静かに飲んでいた猫が、空になった杯を勢いよく叩きつけた。それで、威勢よくしていた音々音の言葉がぴたりと止む。
「おい小娘。言っておくが、私の心は一刀殿ほど広くはないぞ。貴様とて、あの呂布奉先の軍師なのだろう? だったら、少しは場をわきまえろ」
「うぐぐ……。おバカちんこ人間のせいで、ねねが叱られたではありませんかぁ……」
身体を縮こまらせた音々音が、唇を尖らせて言った。
猫の発する声には凛とした響きがある。無骨で真っ直ぐで、だからこそ戦場においてもよく届く。
音々音のふくれっ面をつかんで左右に伸ばす。もっちりとした感触が指に心地いい。ちょっとは心を開いてくれるようになったのか、さしたる抵抗はなかった。
「経緯がどうであれ、おまえはすでに孫家という輪を形成する一員になっている。いわば、家族だな」
「んっ……。家族、ですか」
「そうだ。そこに血縁の有無が関係ないことは、俺が一番よく知っている。こうして道を交えたのも、なにかの縁だろう。だからねねとも、俺は仲良くしていきたいのだが、どうかな」
焼き上がった串の乗せられた皿。店主から受け取り、音々音の前にそっと差し出した。
餌付けするような格好にも見えなくはないが、それもひとつの方法といえばそうだ。音々音が無言で肉を見つめている。いつになく、神妙な姿だった。
どのくらいの時間があったのだろう。ゆっくりと手を伸ばし、音々音が串を手に取った。紅波は当然のこととして、猫も杯を傾けつつ、音々音の様子を気にしている。
「むぐっ、あむっ……。こ、こんなに美味しいもの、ねねたちだけで味わうわけにはいきません。なので今度は、恋殿もお連れしましょう。えとっ、そのときは」
なにかを躊躇うように、音々音が肉のなくなった串の先端をじっと見つめている。
恋を連れてくるなら、どこかで飯を詰めてからにするべきなのか、などと孫策は思う。あの底なし沼のような胃袋に、老齢の店主ひとりを付き合わせるのはさすがに酷だ。
「おまえも、その……。ご、ご主人も、一緒に」
搾り出したような声。
酒を飲んでいるわけでもないのに、音々音の顔は真っ赤に染まっていた。