天人張魯
なんの面白みもない時間というのが、やけに恋しくなる時がある。
当たり前の日常ほど尊いことはない。それはいとも簡単に崩れ去るものであり、ちっとも普遍的でないことを数年前に思い知らされた。
くすんだ空を女が見上げている。益州において快晴は稀だ。雨も多く、一年のうちのほとんどを、どんよりとした雲が覆う。
普通の社会人となり、多くの先人たちのように耐え忍ぶだけの社畜生活を送る。その間普通の恋をして、なんでもない家庭を築けていたら、それでよかったはずだったのに。
「はああぁあああ……」
膝に手をつき、女が盛大にため息をついた。
普通ってなんだ。私にとっての普通は、いつから遠く手の届かない場所に消えてしまったのだ。
「おーい。またここにいたんだねー、
「ううっ……、天和お姉ちゃん……!」
天歌というのが女の真名だった。正確には、そういうことにしているだけなのだが。
下から続く山道を、えっちらおっちら天和ちゃんが懸命にあがってくる。
癒やしの象徴である豊満な乳房。自分についているそれとは比べ物にはならない見事な巨乳だった。それに加えてピンク髪が眼に眩しい。母親譲りの黒髪には少々自信を持っていたのだが、この地の女性陣は髪色が自由すぎる。私もいつか、思い切って金髪にしてみたほうがいいんだろうか。小さなことから大きなことまで、天歌の悩みが尽きることがなかった。
お姉ちゃんといいつつ実は年下の少女だったが、癒やしオーラについ甘えたくなるのは性分なのだから仕方がない。
お気に入りの岩場から飛び降り、天歌は駆け出した。
休憩中の天和ちゃんに正面から抱きつく。甘酸っぱい汗の匂い。抱き心地抜群の身体が、精神の疲労をやわらげてくれる。
「よしよしー。だけど、いつまでもこうしてはいられないからね? 信者のみなさんが、教祖さまのことお待ちかねだよ」
「ああー、はいはい……。わかってます。ええ、わかっていますとも。この張魯公祺、檀家の皆々様のためならえんやこらー」
「あんっ、やあっ……。ほらー? そうやっておっぱい鷲掴みにしてるのは、誰の手かなー?」
「はふ……。本日も、魔力供給ありがとうございました。これで今日一日、なんとか頑張れます」
「まりょ……、なに? もう、ほんとに早くしたほうがいいんだよ。いまは地和ちゃんに繋いでもらっているけど、それだっていつまでも保たないんだから」
天和ちゃんに手を引かれて、足早に山道を降りていく。
坂道の振動でたわわに実ったバストが揺れる。天真爛漫の権化のような天和ちゃんでも、この漢中に流れ着いたばかりのころは、ひどく澱んでいたことを思い出す。それはそうだ、と天歌は重く沈みそうになる気持ちをどうにか持ち上げた。
五斗米道の張魯。寝て起きた時にはそうなっていたのだから、自分ではどうにもならなかった。
現代日本から、三国時代へのタイムスリップ。魏呉蜀のどれもできていない時代だから、細かくいえば後漢末期なのか。
クソみたいな現実からの脱走といえば聞こえはいい。
当初はなかなか醒めない夢だとしか思っていなかったし、実際転生ものの話は嫌いではなかったら楽しんでいた節がある。
どうせなら、劉備や曹操になってみたかった。そういうことを考えていた日々が、もはや懐かしい。
凡人なりに、英雄に対する憧れはある。というか、転生先がよりによって怪しげな宗教のトップって、本気でずっこけそうになった。
結局、この世界で何度朝を迎えても、夢から抜け出すことはなかった。
あれから数年。自分は教祖としての地位をかためていて、これが第二の当たり前になりはじめている。
山の中腹にある施設に裏口から入る。
天然の要害とはよく言ったもので、漢中はあちこちに山がそびえ立っている。そこに罠を張り巡らせ砦を築いているだけで、敵は勝手に二の足を踏む。でなければ、素人の自分がトップに立っている組織が、ここまで生き残れるはずがなかった。
「よかった、間に合ってくれて。ちぃ姉さんの前座も限界すれすれだったから、もうだめかと思っていたのよ」
「ごめんねー、人和ちゃん。地和ちゃんにも、あとから謝っとくから」
「うん。それじゃ、頑張って。ほら、顔しゃきっとさせる」
「はいっ! 教祖張魯、入ります!」
眼鏡をきらりと光らせながら、人和ちゃんが背中に気合をいれてくれる。仕切りになっているカーテンを抜けると、ひとりでにスイッチがオンになる感覚があった。
「あっ、教祖」
「はじめましょうか、ちぃ……張傀。まずは、祭酒からの報告を」
汗だくになっている地和と眼があった。余興として踊りでもやっていたのだろうか。三姉妹の歌声は、信者の中でも評判になっている。
祭酒というのは、外の世界における役人のようなものだ。漢中統治の実態を担い、実働部隊となって戦にでることもある。当然ながら全員が五斗米道の信者であり、忠誠心は高い。
油断すると眠気に呑まれそうな報告が続く。
漢中の自治を保つためには、周囲の状況に常に気を配る必要があった。洛陽では相変わらず政争が起きていて、安定する様子はない。近隣の涼州でも叛乱が勃発しているというし、その動向にも注意を払うべきだった。
祭酒に混じって正座している人和ちゃんが、控えめに右手をあげる。知性的な人和ちゃんは信者たちから一目置かれていて、半分軍師のような立ち位置にあった。
「間者からの報告では、涼州の叛乱は少し前に鎮圧されたようです。戦況は長く拮抗していましたが、揚州から援軍にきた孫堅の存在が、均衡を崩したのだとか。董卓と馬騰の影響は、これまで以上に大きくなっていくとみて間違いありません」
「董卓、ねえ……。んっ。ありがとう、張徴」
天和、地和、人和の三姉妹。いずれも彼女たちの真名であり、教団内では自分の遠縁の従妹だという設定になっている。
宗教勢力に翻弄された美人姉妹。
なんとも運命的に感じるというか、天和お姉ちゃんこそがこの世界における張角であり、黄巾の乱の首謀者とされていた人物だった。ただしその正体は旅の芸人であり、人気絶頂となった三人がわけのわからないまま祭り上げられた結果が、あの大叛乱なのである。
「ねえー。いい加減、ちぃたちで益州全部奪ってしまったほうが安全なんじゃないの? 代替わりした州牧は弱っちいって評判だし、いけると思うんだけどなあ」
「勢力は大きくすればいいってものじゃないのよ、張傀姉さん。漢中を自治しているだけなら、見逃してもらえる場合だってある。実際、中央は五斗米道に構っている暇なんてないようだしね。……黄巾党の二の舞いだけは、避ける必要があるでしょう?」
「うっ……。ほんと痛いとこ突くのが得意だよねえ、張徴は」
地和が張傀で、その妹である人和が張徴だった。一番上の姉である天和は、普段張衛と名乗っている。
黄巾の乱では、敵味方多くの人間が死ぬことになった。早急な鎮圧に失敗した漢王朝は株をさらに下げ、民衆たちの心は離れている。だからこそ、五斗米道のような新興宗教が、みんなの拠り所となれているのだが。
「戦は、なるべく避けるべきだと私は思う。劉璋が大人しくしているのなら、それに越したことはない」
堅苦しい話し方にも、随分と慣れた。
教祖をやるからには、威厳が大切だ。なるべく神聖な感じがでるように、服装にも気を使っている。ひらひらした装飾のせいで動きにくいが、この世界は文化的に結構ルーズな部分が多く、古めかしいものだけで構成されているわけではない。
「教祖の仰せのままに。われらが生き延びてこられたのは、そのお言葉があればこそだ。皆も、そう思うだろう?」
祭酒のひとりが声をあげる。そこから波のように、賛同の意見が沸き起こった。
これでも歴史は好きな方だから、三国志の大雑把な流れは記憶していた。それがこの世界では予言となり、なんでもなかった自分という存在に、神性を与えたのだ。天人などともてはやされたこともあったが、それだけ人々はいまを必死に生きている。
中原では黄巾の乱が巻き起こり、政情はさらに不安定になっていく。
漢中を含む益州ではどうか。
先代の州牧である劉焉は、五斗米道にまだ好意的だった。その劉焉が死ぬと、跡継ぎである劉璋は教団に対する態度を真逆に変える。危機が迫っていることがわかっていたから、防衛の備えをいち早く整えた。物騒なことは嫌いだが、信者にも闘うための訓練をさせた。
「五斗米道には、漢中さえあればいい。過度な望みは身を滅ぼす。そのことを、全員がわきまえよ」
誰からも反論はなかった。
威勢のよかった地和だが、拡大路線に入った教団のおそろしさは身に沁みているはずだ。
暴走を続ける黄巾党から、三人は命からがら逃げ出すことに成功した。狂気に染まる集団の中にも、冷静な人間がいることにはいる。その誰かの勇気がなければ、姉妹の命脈は史実通り尽きていたのだろう。単なる人助けのつもりでしたことが、歴史に思わぬ影響を与えている気がしないでもない。でもまあ、みんなのいない生活なんていまさら考えられないし、張角を捕らえましたと洛陽に突き出したところで、漢中になにかメリットがあるわけでもなかった。
それよりも、だ。どうして、男だったはずの張角やその弟たちが、この世界では美少女になっているのか。間者を使って調べてわかったことだが、名のある英雄もこぞって女性になっているらしい。曹操や袁紹、それに洛陽の政局をかき回す大将軍何進までもが、妙齢の美女になっているのだという。
というか、有名人の性転換問題に関しては、自分もその片棒をかついでしまっているから目も当てられない。確かに、日本の創作市場においては、歴史上の英雄の女体化なんて珍しくもないことではある。
その空想の粒子が練り上げられ、この異世界を形成しているのだとしたら。うん。それはそれで、なんだかゾクゾクするような話ではある。
「涼州の、特に董卓の動向に注意を払うのだ。拡がる戦乱は、五斗米道にとっても脅威となるだろう。しかし、降りかかってくる火の粉の向きがはじめからわかっていれば、なにもおそれる必要はない」
宦官との諍いの末に、やがて何進は命を落とすことになる。その間隙を突いて権力を手にするのが董卓。かの暴君の台頭により、時代はさらに混迷を極めることになる、というのが三国志の流れだった。
この世界にも天下無敵の呂布が存在しているのだろうが、興味はあっても絶対に会いたくないと天歌は思う。高校生のころは自分だって剣道少女をしていたのだが、そんな甘っちょろい腕前でどうにかなるような相手でないことは間違いない。好奇心は猫を殺す。布団の上で死にたいという些細な夢でさえ、乱世は横暴にも飲み込んでいくものだ。
五斗米道の教祖として振る舞うようになってから、大小の死と直面してきた。劉璋の軍は比較的弱卒の類に入るようだが、それでも闘えば死人が出るときは出る。殉教者の弔いは、教祖たる自分の大切な役目。そのたびに、この世界の生きづらさを実感させられる。
来るべき三国鼎立の日に備え、漢中の守りを万全にしておかなくては。
分不相応でしかないと思っている重荷に、今日も天歌は必死に耐えている。