滞っていたものをたっぷりと吐き出し、気分は爽快になっている。しかも、新しい目標が今しがたできたばかりでもあるのだ。活力が充填されていく感覚がある。相手は難敵かもしれないが、それだけ攻略のし甲斐があるということの裏返しでもあった。
冥琳と霞の二人を引き連れ、孫策は軍議を離席した袁術のところに向かっていた。
行き交う女官がつけている香に、ふと鼻をくすぐられる。いかにも高級そうな感じを漂わせているが、自分の趣向ではないとも思う。やはり、都暮らしは肌に合わない。
冥琳の肩を抱き寄せ、首もとで深く息を吸った。心が落ち着く匂い。いきなり妙な真似をしたせいか、反対側から霞に耳を引っ張られる。
こうして馬鹿なことをやり、素直に笑い合う。自分のような男には、それができる相手がちょうどいい。
袁術を庭園で見かけたと聞いて、孫策たちは外に出た。
雲は少なく、本日は晴天である。陽気に誘われて袁術の機嫌が好転すればいいが、側近の渋面がそう簡単なことではないと言っている。
「おーい、張勲」
「ちっ……。んっ、こほん……。お嬢さまになにかご用件でも、張遼さん? でしたら、いまはやめておくのが無難だと思いますけどねー。とーってもご機嫌斜めなので、気まぐれに処断されたって、私は責任取りませんよ?」
「えー? 別になんの用事もなしに、あんたの顔見にきたって罰はあたらんやろう? んふふー、ほれほれー」
「ああもう……! その馴れ馴れしいにやけ面を、いいからどけてくださいと言っているんです。んっ、あっ……。ちょ、ちょっと! やめてと言っているのに、どうして私の胸に触るんですか、くうっ、あんっ……」
「あははっ。嫌よ嫌よも好きのうち、って誰かが言ってるやん? とまあ、冗談はこのくらいにしておいて」
幻覚なのだろうが、霞の頭に犬耳が生えているような錯覚がある。明らかに壁をつくっている相手に対しても、強引に懐に飛び込んでいけるような女だった。軍服越しにでもわかる張勲のご立派な乳房を、霞が愉しそうに揉んでいる。やはり一発抜いてきて正解だったな、と冥琳が小さな声で耳打ちをした。
振り返った得意気な表情。それまで二人のやり取りを眺めていた孫策が、一歩近寄る。
「そんでや、張勲。床に落ちた髪の毛ほどの興味しかないやろうけど、こっちが孫策。それから、邪悪さ満点の眼鏡軍師さまが、周瑜っていう」
「やっ……。なんですか、そのめちゃくちゃな紹介は……。それで、その髪の毛人間さんが、いったいなにをしに来られたんですかねぇ?」
胸を掴まえていた手をどうにか振り払い、張勲が体勢を立て直した。
鋭利な視線が突き刺さる。こちらの品定めをしたいのなら、勝手にすればいいと思った。というか、霞の雑すぎる紹介のせいで、とんでもなく高い位置から見下されているような感じがする。
顔はいいが、油断のならない女だ。だからこそ、闘いにも気持ちが乗る。
「単刀直入に言わせてもらうぞ、張勲殿。この戦、俺は袁術殿と手を結びたいと考えている。孫家の軍勢が麾下に入れば、あの名族殿の鼻を明かすこともできるはずだ。見返りはひとつ。洛陽で名を売ることさえできれば、俺はそれで構わない」
「ふーん……。お嬢さまに取り入ろうとする煩い虫が、また一匹増えただけなのかと思いましたけど……」
軍議の流れは、霞から教えてもらっているからおおよそ理解している。
当然のように袁家のどちらかが先鋒を請け負うという話になり、言い合いに発展した。
袁紹は、麾下に顔良と文醜という二枚看板を抱えており、そもそも戦に自信があった。どうにか食い下ろうとした袁術だったが、あるのは勢いだけでそこに実態はない。兵士の数だけは誇れるものがあるのだが、指揮する武官がいかにも頼りないのだ。
側近である張勲は頭が切れるが、軍勢を率いて最前線に出ていくだけの気迫がない。当主である袁術にしても、それは同じだった。
「ああっ……。猛獣に噛みつかれてあたふたするお嬢さまの姿も、案外悪くなかったりして……。ふーっ、うふふっ、ふうっ……」
ぼそぼそと何事かを呟く張勲の吐息が荒い。見るからに危ない女だ。霞が妙に接近したがるのは、そのせいなのか。
「いいでしょう、孫策さん。ただし、なにか問題があった時は覚悟しておいてくださいねー? あなたが股間にぶら下げている粗末なモノ、ひと思いに切り取ってあげますから。それはもう、ちょっきんと」
今日一番の笑顔をつくりながら、張勲が手袋をした二本の指を愉しそうにと動かしている。
征服したいと思わせるような女だった。だが、いまはまだその時ではない。込み上がってくる思いを堪え、孫策は頷いた。
「くくっ。おまえのその粗末なモノを、しばらく大人しくさせているのだぞ、孫策? 最初から袁術殿を怯えさせていては、話にもならん」
「悪い顔をしているぞ、周瑜。俺より余程、おまえのほうが注意を払う必要があるのではないか?」
張勲に連れられて、庭園で休憩している袁術のもとに向かう。
芝生の上に寝っ転がっているひとりの少女。金糸のような美しい髪が放射状に拡がっている。側近以外誰も来ることがないと思っているのか、衣装が乱れて色白の足が膝の上くらいまで見えてしまっていた。
寝返りをうった袁術と、ばっちりと眼があった。ぼんやりとしていた表情が、一瞬にして赤くなっていく。普段他者から見られることが多い立場の人間であっても、どうやら恥じらいは消えないものらしい。
「ぬおっ……!? だ、誰だか知らんが無礼であるぞ。むっ……? というかお主の顔、どこかで見覚えが」
「孫策と申します。先ほどは私の不注意のせいで、ご迷惑をおかけいたしました。どうか機嫌をお直しください、袁術殿」
「う、うむ? ああ! お主、扉の前に突っ立っていたでくのぼうであったか。まあ……よい。妾は誉れある名門の当主として、皆にきはん……?を示さなくてはならぬ立場であるからな。殊勝にもこうして謝罪に現れたのであれば、お主のやらかしのひとつくらい、許してやらないこともないのじゃ」
「はははっ。袁術殿が心の広い御方であったから、私は命を捨てずに済んだようです。となれば、この御恩をどうにかして返す必要がありましょう」
「ほう。お主、妾になにか馳走してくれるのか? ふふふっ。それが珍しい蜂蜜じゃったら、特に喜んでやれるかもしれないのう。なあなあ、張勲もそう思うであろ?」
袁術から声をかけられても、張勲はにこやかにその姿を見つめているだけだった。
交渉は、一応こちらにすべて任せてくれるつもりのようだ。妙な感じのする女だが、まったく肝が据わっていないわけではない。
よっぽど蜂蜜が好きなのか、袁術は想像をふくらませて口の端から涎を垂らしている。欲望に忠実に従って生きているのだろう。相当甘やかされて育ってきているのだろうし、まだまだ子供であることを加味して考えれば、別におかしな振る舞いではなかった。
「蜂蜜をご所望とあらば、地元に帰ったときによい品を探しておきましょう。ですので、今回は」
「むっ……? なんじゃ、蜂蜜をくれるのではないのか。はあ……。妾は喉が乾いたぞ、張勲。いますぐ、蜂蜜水を持って参れ」
「もう、今度はちょっとだけですからね? さっきはしょんぼりしていたお嬢さまがあまりにもかわい……そうだったので、つい多めにつくってきてしまいましたけど。それじゃあ、孫策さん?」
こちらに目配せをしてから、張勲が駆け足で去っていく。
芝生の上に座り直した袁術から手招きをされた。甘ったるいくらいの子供特有の香り。側に寄ると、それがずっと強くなった。
蜂蜜を好んで食しているようだから、なにか体質にも影響を与えているのかもしれない。余計なことを考えているのがバレたのか、後ろに控えている冥琳が睨みつけてくる。
「今度の戦、われら孫家が力をお貸しいたします。優れた軍人が家中に不足しているのなら、外から集めればよいだけのこと。人をお使いになる地位におられる袁術殿が、そこで思い悩まれる必要などありません。なにより、袁紹殿のひとり勝ちというのは、実につまらない」
「おおっ。威勢のいいことを申してくれるではないか、孫策。麗羽のやつめ、ちょっと自分が歳上だからと、袁家の当主面をしてはばからないのじゃ。妾は、それが気に食わぬ」
袁術が、吐き捨てるように袁紹を真名で呼んだ。
二人の間にある溝は浅くはないようだった。嘲られたことを見返したい、という気持ちもかなり強くみえる。
心にある感情がそのまま表情にあらわれるような子だった。軍議でのことを思い出したのか、ぷうっと頬をふくらませている。悪い部分をほとんど知らないからなのかもしれないが、どこか守ってやりたいと思わされてしまう。
先端に巻き癖のついた金髪。そっと撫でる孫策は、妹たちを見守っているときにも似たほほ笑みを浮かべていた。
「な、なんじゃぁ……!? わ、妾にあまり気軽にふれるでないぞ、孫策。はあっ、ふうっ……。び、びっくりして、変な声が出てしまったではないか」
「失敬。袁術殿の横顔があまりにも美しかったので、つい」
尻を器用に動かして、袁術が数歩分横にずれる。
高貴な身分であることに加えて、普段はあの張勲が堅い守りを敷いているのだ。そんなところに、わざわざ突撃をかけようとする愚か者がいるはずがない。
「むむぅ……。ほんにおかしな男じゃのう、お主は。戦の前じゃ。あまり、気持ちをかき乱すような真似をしてくれるでないぞ」
「ン……。それは、袁術殿?」
「栄誉に思うがよいぞ、孫策。この袁術公路が、乗ってやると言っているのじゃ。なんとも自信満々にあらわれたのであるから、楽をして勝たせてくれるのであろ? うははっ。というか、そうでなければ妾が直々に首を刎ねてくれる」
平らかな胸を反らして、袁術が尊大に誇っている。
頼られたり担がれたりすると、つい気軽に乗ってしまう。その大らかさはいかにも名門のご令嬢といった性格に見受けられるが、乱世を生きる群雄としては危うさがかなりあるのか。
ちょっと拍子抜けしてしまうくらいのちょろさ加減だったが、なにはともあれ約束を取りつけることには成功した。
あとは、自分たちが袁術を勝たせるだけなのである。
首筋に突きつけられた手刀。笑って跳ね除けると、袁術は愉快そうに声を洩らした。