洛陽城外の原野に軍勢が集結している。その中でも一際多くはためいているのが、袁家を示す軍旗だった。
禁裏の軍勢を合わせれば、味方の総数は軽く十万を越えているのだろう。ただし、そちらからの援護は期待していいものではない。皇帝直属の部隊が洛陽を離れるはずがないし、宦官や大将軍の反対を間違いなく受けることになる。外に出たとしても、汜水関や虎牢関止まりになることが目に見えていた。
黄巾の残党はまだ各地に潜伏していて、実態が完全に掴めているわけではない。青州には一大勢力を築いているというし、今回出現した十万はその末端にすぎないと考えておくべきだった。
赤い幘を冥琳に巻いてもらい、孫策は戦の準備を整えていた。
従者が雪華を曳いてくる。気合はいい具合に乗っていて、初陣だろうとこれならば集団の中で惑うことはないと思った。
「孫策」
「どうした、呂布。おまえには、後方での待機を命じていたはずだが」
物見遊山にきたくらいの気楽さで、恋が顔を見せる。主従仲良くここまで駆け足できたのか、音々音は額の汗を拭いながら深呼吸を繰り返していた。
茫洋とした視線が原野の先に向けられている。普段と雰囲気が変わらないようでいて、その全身からは身震いするほどの闘気が発せられていた。これが呂布。これが、涼州の叛乱軍に著しく流れを引き寄せたたったひとりの女の力。
たまたま恋と波長があっていなければ、自分はあの戦で確実に死んでいた。重厚な方天画戟の切っ先。恋はそっと横に倒し、思っていることを呟いた。
「……雑兵の集まりなら、一万でも十万でもほとんど一緒。命令してくれれば、恋が叩き潰してやる。……闘いなんて、さっさと終わらせたほうが絶対いい。そしたら、ご飯もゆっくり食べられる」
「ン……。おまえの気持ちはありがたいが、今日のところは堪えてくれ。呂布奉先の強さ、この程度の戦で見せびらかしていいものではない。おまえの軍に相応しい舞台は、いずれ俺が用意しよう。その時がきたら、存分に暴れてもらうさ」
「ようするに、今回の戦では俺に格好をつけさせろ、とご主人は仰っているのです。まあ、その気持はわからなくもありません。呂布殿がひと度戦場に降り立てば、どうしたって独壇場になってしまいますからな。ふふふっ。あまりに強すぎるというのも、考えものなのかもしれませんぞ」
音々音の言葉に納得することができたのか、恋がゆっくりと時間をかけて首を縦に振った。
実際のところ、理由はそのどちらでもあるのが正解だった。袁術には孫家の存在を印象づけておきたいし、恋の武威を伏せておくことにも確かな意味がある。
「どうしても危なくなったときは、恋の名前を呼んでほしい。なんとかして、駆けつけるから」
「はははっ。おまえの五感がいくら鋭くとも、さすがにそればかりは無理があるだろう?」
「むっ……。結構、本気で言ってるのに。あっ、そうだ。孫策、こっち向いて」
言うやいなや、恋の両手に頭を固定される。
こつん、と額同士が控えめにぶつかる。こうした場面なら、普通は口づけを交わすものなのではないか。そんな心の声が恋に聞こえているはずもなく、接触はほんの短時間で終わってしまう。
「恋の力、孫策にちょっと分けてあげた。だから、きっと平気」
「ふふん。武神からご加護をちょうだいしたこと、ありがたく思うのです。あっ。よかったら、ねねもしてあげましょうか?」
「それは、やめておく。せっかく貰った力が、するりと抜けていきそうだ」
「むう……! それはちょっと失礼がすぎるのではありませんか、ご主人。これは帰ったら、百ちんきゅーきっくの刑を受けてもらうくらいで、ちょうどいいとねねは思うのですが」
「めっ。ちんきゅ、きっくはだめって言ってる」
「あてっ……。あうぅ、呂布殿……ぉ」
音々音が猫なで声ですり寄っても、恋が態度を崩すことはなかった。
眼にも止まらぬ速さのげんこつが、音々音の帽子の頂点に向けて繰り出される。本人としては相当加減しているのだろうが、音々音にとっては心身ともに手痛い一撃となっているはずだった。甘やかしているようでいて、そのあたりの躾けはきっちりとやりきるのがこの飼い主のいいところだ。反省しきりの音々音が小さくなっている。鞭ばかり与えても意味がないから、今度は自分のほうから甘やかしてみるのも面白い。ちょうど音々音が洛陽を見て回りたいと言っていたばかりでもあるし、のんびりと街を散策するのもありなのだろう。
「おう。やはりこちらにおいでじゃったか、若殿」
「黄蓋。戦の手配は、滞りなく進んでいるか」
「はっ。そちらに関しましては、御意のままに。周泰と胡車児が、ぼちぼち配置についておる頃合いでしょうな。しかしまあ……。若殿のお考えとはいえ、袁術殿に馳走するための戦をすることになるとは思いませなんだが」
「ははっ。不満があればいつでも聞くが、そんな面を戦場で見せるものではないぞ」
「滅相もない。この老骨、若殿の御為に、いつでも死力を尽くす所存でございますれば。ふふっ。御母上とて、そのお気持ちはきっと同じでありましょう。孫家の次代のため、道ならしができればわれらはそれでよいのです。そうなったら、あとは若殿や妹君が、どうにかしてくださると信じておりますので」
「楽隠居などできると思うなよ、黄蓋。おまえたちには、死するその瞬間までそばにいて、俺の闘いを見届けてもらわねば。誰かが嫌だと文句を垂れようが、引きずってでも戦場に連れて行ってやる」
祭の肩に手を置き、孫策が力強く宣言する。
自分という男をつくりあげた責任、なにがあろうと最後までまっとうしてもらう。それに、どうせ果てしなく大きい夢を追うなら、走者はいつまでも多いほうが頼もしいではないか。義母も宿老たちも老け込むような年齢ではないのだから、まだまだ駆けに駆けてもらわねば。
「ふっ、あははっ。若殿のお言葉、程普や張昭に聞かせてやれないのが残念でなりませぬな。呂布、陳宮。お主らも、心して若殿にお仕えするのじゃぞ。ほれ、わかったのならしゃきっと返事をせぬか」
「は、はいっ、黄蓋殿!」
「んっ……。孫策くらい変なやつじゃないと、たぶん恋は使えない。だから、心配ご無用」
どこで覚えてきたのか、心配ご無用と唱えながら、恋が空中に手を突き出している。それをなんとも無気力な状態でやるものだから、妙に面白い感じに仕上がってしまっているのだ。
敬愛する主君のため、音々音が必死になって笑いを堪えている。見知らぬ女に声をかけられたのは、その時だった。
白が目に付く振袖の着物。隠す気のない乳の谷間と太腿が、やけに眩しかった。
「ご歓談中に失礼する。孫策殿とは、貴殿のことでよろしいか」
「いかにも、俺が孫策だ。そちらは、どこのご家中の御方かな?」
「はっ。わが名は趙雲、字は子龍と申す者。主君曹操の命に従い、此度の戦に参じております」
「曹操殿の? そうか、いずれこちらから、邸を訪うつもりではあったのだが」
「ふむ。わが主のお言葉どおり、孫策殿は稀有な度胸を備えた御方のようだ。まあ、そうでもなければ……」
趙雲と名乗った女が、視線を進んできた方角に向ける。
割れる人垣。小さな体躯から溢れんばかりの覇気を放ち、曹操が悠然と歩いてくる。乳の大きな猛犬はどこかに置いてきているようで、背丈の違う女二人がその脇を固めていた。
「邪魔をするわよ、孫策。面倒事は早めに片付けておきたい質でね。不躾ながら、この場を選ばせてもらったというわけなの」
「お初にお目にかかります。私は郭嘉、字は奉孝。以前はちょうど留守にしていた時期でしたので、ご挨拶をすることが叶いませんでした。それで、こちらが」
「はふう……。んっ、んあぅ、ぐう……ぅ」
「……って寝るな!」
「おおっ……! 風としたことが、にこやかな言葉の裏に隠された、ちくちくとした棘の数々から、つい眼を背けたくなりましてぇ。ええと、風は程昱と申します。郭嘉ちゃんと趙雲ちゃんとは、昔からの旅仲間でしてー」
「いいから、あなたたちは少し引っ込んでいなさい。……ここで漫才をはじめられたら、いつまで経っても話が進まないじゃない」
闘気こそ感じるが、武人の発するものとは程遠い。雰囲気からして、郭嘉と程昱の二人は曹操の参謀格なのだろう。
旅仲間だという趙雲は、おそらくかなりの使い手だ。佇まいからして隙がない。普段茫洋としている恋とは真逆の女であり、挑発的な視線はこちらを試しているようでもある。
「前に出なさい、荀彧。さっ、早く」
「は、はい、曹操……さま」
「猫耳のついた頭巾。……ちょっと、かわいいかも」
曹操の影から荀彧があらわれる。
どういう風の吹き回しかと思えてくるが、どうやら逆風ではないらしい。ぽつりと呟いた恋に、しょげた状態の荀彧が一瞬だけ牙を剥いた。
「簡潔に説明させてもらうわよ、孫策。私は今回、この子をこれ以上飼っていられないと判断したの。荀彧の才は惜しいけれど、家中の不和を押してまで囲っていいかと言われると、それは違うでしょうよ。……それもこれも、主にどこかの誰かが、小細工を仕掛けてくるせいだけなんだけど?」
「ははっ。世の中には、悪いやつがいるものだ。それで、曹操殿?」
「ふんっ……。私は、才ある人間が好き。見目麗しければ、特に大歓迎したいくらいね。だからこそ、自分の身勝手のせいで、世に出るはずの才が埋もれてしまうだなんてことは、絶対に許せないの。はあ……。女の乳を揉むことにしか興味のない変質者でも、私の言っている意味がわかるわよね、孫策?」
「もちろん。曹操殿も、御自分の気質に苦しんでおいでのようだ」
「ちっ……。わかったような口を、簡単にきかないでちょうだい。ああもう、虫酸が走るったら……」
居所のなさそうにしている荀彧を挟んで、しばらく会話を続けた。
虫酸が走るというのはどうやらほんとうのことのようで、曹操は抱いた身体をぶるりとふるわせている。
「……孫策はおっぱいが好き。恋、覚えた」
「然り。儂のこの乳にも、それはもう甘えてくださるものじゃ。若殿の指で強かに揉まれると、言葉にできぬくらい気分が昂ってのう」
「いや、そんな表情をこちらに向けてもらっても困るのだが」
「むっ……? いや、これは相済まぬことをした。ふふふっ。謝罪ついでに、どうじゃ一杯?」
「ほう。出会って間もないが、貴殿とは気が合いそうだ。肴にメンマがあれば、ほかに言うことは……」
「そのくらいになさい、趙雲。わかるでしょう? 私はいま、そこそこ気が立っているの」
曹操に叱責されて、趙雲が袖の中に手を引っ込めた。そもそも、祭が酒を持ち歩いていることが問題なのかもしれないが、いまは追求するような雰囲気ではない。
「使ってみればいいわ、あなたが。王佐の才、相応しい男であるかどうかなんて、私は知らないけどね」
「ご配慮に感謝する、曹操殿。奪いに行く手間が、これでひとつ省けた」
びくり、と荀彧が身体を反応させている。
見つめてくる視線がどこか熱っぽい。出会って間もない頃と比べると、ほんとうにどこか具合が悪いのではないか、と心配させられるくらいの違いがある。
どのような心境の変化があったにせよ、自分に追い風が吹いていることだけは確実だった。
「まったく、言ってくれるじゃない。言葉がひとつもふたつも多いのよ、あなたは。言っておくけど、荀彧の才、腐らせた時には容赦しないわよ? あなたの首も汚いモノも、胴体から余さず切り離してあげるから」
どうしたわけか、近頃股間のモノがやたらと標的にされている。そばで冥琳が聞いていたら、また話の種が増えてしまっていたところだ。どうせなら、慈しんでもらえたほうが気分はずっといい。
気を取り直して荀彧と視線を合わせる。
弱々しいくらいの上目遣い。両手は身体の前で結ばれていて、なにか言いたげな口がずっともごもごと動いている。
荀彧の肩を掴まえ、抵抗を受ける前に抱き寄せた。
自分が誰のものであるのか、衆目の前で理解させる。曹操の舌打ちと歯ぎしりが耳に届いていたが、全力で無視を決め込んだ。
「ひゃふっ……!? んっ、んむっ、んっ……。はうっ、あっ……。んーっ、んっ、んんっ……」
荀彧のやわらかな唇。気持ちをぶつけるように、息継ぎもなしに吸った。
硬直する身体。抱いていなければ、地面に崩れ落ちていたのではないか。吸い返してくる力はあまりにも微弱だった。それでも、反応があるだけ嬉しく思えてくる。
思考のすべてを書き換えようと、溜めた唾液を強引に飲ませた。舌を捕捉し、蹂躙するように絡ませる。いつの間にか、控えめながらも両腕が背中にかかっていた。
嫌いなはずの男の唾液。荀彧は吐き出そうともせず、従順に嚥下していく。そこに、これまでにない手応えを孫策は感じていた。
「んぷっ、くっ、んっ、あむ……。ふっ、うひっ……。ごっ、ごひゅ、ごひゅりん、ひゃま……♡」
はっきりとしない言葉を洩らして、荀彧が深く口を吸われることを求めてくる。
木犀の甘い香り。しばらくの間、鼻腔から消えることはなかった。