「はあ……。あとは好きになさいな、あなたたちだけで。……よかったわね、荀彧。面倒をみてくれる飼い主さまが見つかって」
服の裾を翻し、曹操が臣下を連れて去っていく。
与えられる快楽に夢中になりながらも、荀彧はその声に意識を向けているようだった。不本意な別れとなったが、曹操は憧れるに値する女だといっていい。やろうと思えば荀彧を飼い殺しにもできたはずだが、あの女の眼にはもっと広い世界が写っているのだろう。でなければ、自分のような男に、使えそうな能吏をわざわざ引き合わせたりはしない。
雪華を駆けさせ、孫策は袁術軍の陣営を目指していた。
荀彧は馬をもっていないから、冥琳に同乗させてもらっている。義母の率いる主軍は前線で待機しており、いつでも攻勢に出られる体勢をとっているはずだった。
袁術と関係を結ぶこと自体には反対されなかったが、面倒事の窓口は自分に一任するというわけだ。それは望むところでもあったし、文句をぶつけるつもりはない。
「荀彧。周瑜同様、おまえを直属の軍師に任じる。それで、文句はないな? 一刀と真名で呼ぶことも、併せて許そう」
「は、はいっ。身に余る光栄、この恩は必ずや働きにてお返しいたします。それから、私の真名は」
桂花と呼んでほしい、と荀彧が願い出た。
声に真っ直ぐな響きがある。曹操に対する当てつけ。あるいは、なにか卑屈な思いがあるせいで、自分にへりくだっているのではないという確信を得ることができた。
知人のあまりの変貌ぶりに、冥琳が馬を操ることも忘れてしばらく呆然としていた。男子三日会わざればなんとやらともいう。数ヶ月顔を合わせていなかった桂花に多大な変化が訪れていようと、不思議はないと思った。
「期待しているぞ、桂花。意見があれば、これからなんなりと申せ。揚州の田舎で育った俺には、見えていない部分があるはずだ。都周辺のことに関しては、特におまえを頼りとしている」
「ありがとうございます、その……ご、ご主人様。んくっ……。はあっ、んっ、ああっ……♡ こっ、これよ……。この感覚が、私のすべてを狂わせるの。はあっ、ふうっ……。ご、ご主人様に今日から飼っていただけるって考えただけで……。ふへへっ、うへっ……」
「うっ……。兄上さま。ほんとうに平気なのですか、この女を軍師として取り立てても。なんというか、その」
「はあ!? 一刀さまがいいと言ってくださっているのだから、問題なんてないに決まっているでしょう。そもそも、誰なのよあなた。ご主人様に馴れ馴れしい呼び方をして、そっちこそ礼がなっていないじゃない」
「ふっ……。馴れ馴れしいもなにも、事実兄上さまであるがゆえに、そうお呼びしているまでのこと。なにも知らない余所者が、われらの関係に軽々しく口を挟むんじゃない」
「んなっ……!? で、でも、前に出会ったちびっ子とも、この女は全然似ていないし……? あっでも、胸の大きさだけはそこまで変わらないか」
「ぐぬぬ……。き、貴様ぁ……!」
随行していた思春が、桂花に対する不審感をあらわにしている。
以前にも増して、桂花の気質は尖りに尖っているようだった。躾け甲斐のあるメス犬が手に入ったのは喜ばしいことだが、いまは口喧嘩をしている場合ではないのだ。
冥琳は二人のやり取りを静観しているだけで、助け舟を出してくれるような気配はない。そもそも、このくらいの諍いを仲裁できないのなら、誰かの上になど立つべきではなかった。
「聞け、荀彧、甘寧」
いまにも組み討ちに発展してしまいそうな剣呑な雰囲気。孫策の発した声によって、それがどうにか鎮まっていく。
桂花の送ってくる視線がまたしても熱っぽい。喧嘩相手の変わり身の早さを、思春は横から冷ややかに見つめていた。
「この甘寧とは幼いころからの付き合いがあり、妹同然にかわいがってきたのはほんとうのことだ。俺は誰とも血縁がなく、だからこそ多くを欲する心があるのかもしれないな。とはいえ、それで甘寧を特別扱いするつもりはない。加わったばかりの同僚と諍いを起こすというなら、俺にも考えがある」
「うっ……。兄上さま。出過ぎた真似をしたこと、どうかお許しください。んんっ……。ついカッとなって出てしまった言葉のこと、荀彧殿にも謝罪する。どうか、この通り」
頭を垂れた思春が、馬上で身を縮こまらせている。
これでまたひとつ、蓮華にしてやれる土産話が増えたことになる。思春が強く思ってくれることはありがたいが、それがおかしな方向にいってしまっては意味がない。
「そのくらいにしておけ、甘寧。それから、荀彧には追って沙汰を下す。帰り次第、直々に躾けをしてやるつもりだから、覚悟をしておくように」
「わ、わんっ……!」
どうしてか、犬の鳴き真似で桂花が返してくる。
妙な期待が渦巻いている感じがするのは、おそらく気のせいではないのだろう。
口の端から垂れそうになった涎。すんでのところで、桂花が腕で拭っている。
†
袁術と並んで見晴らしのいい丘陵から戦場を眺める。
『袁』の旗ばかりに囲まれているせいか、なんだか気分が落ち着かない。袁術は高さのある椅子に深々と腰掛けていて、すぐ隣から張勲が扇で風を送っている。
十万の黄巾残党軍が布陣している。叛乱の首謀者とされる張角は死んだと噂されているが、実際の姿を誰も知らないから真偽のほどはわからない。そんな中でも洛陽を落とそうと頑張っているのだから、健気なものだと孫策は思う。
「うむうむ。よく参ったぞ、孫策よ。お主の母がわが軍の旗を携え闘ってくれるおかげで、妾はこうして高みの見物をすることができておるのじゃ。のう張勲。これほど気分がよいことも、稀であろう?」
「はい。さすがはお嬢さま、ぐうたらで傍若無人な振る舞いがとってもお似合いです。えいっ、このこのー♡」
「うははっ。もっと褒めてたも、張勲。これぞ名門に相応しい戦であるのじゃ。そなたにも感謝しておるぞ、孫策?」
「袁術殿のような可憐なお人が、戦塵に塗れる必要はありません。こちらからごゆるりと、われら孫家の働きを見守ってくだされば」
袁術が機嫌よくほくそ笑む。
進行は上々。まもなく全軍から太鼓が打ち鳴らされ、総攻めが開始される手はずとなっている。
賊軍との戦に、小細工などするべきではない。正々堂々をよしとする袁紹の提案に何進が乗せられたかたちで、官軍の作戦は決定されていた。
中央の袁紹軍を主体に、両翼に軍勢が配置されていた。右翼にいるのが義母の率いる孫堅軍。左には、あの曹操が布陣していた。兵をあまり連れてきていない関係で、劉備の指揮する劉表軍は遊撃の役目を与えられている。
「さあ、いよいよじゃぞ、張勲。わが軍に元気な声援を送るためにも、喉を潤す蜂蜜水をたっぷりと……ってぇ、なんじゃあれはぁ!?」
「ふうん。抜け駆けをするだなんて、袁紹さんも案外必死なんですね。うふふっ。それだけ、江東の虎さんと手を組んだお嬢さまに、恐れを抱いているのかもしれませんが」
総攻めの太鼓を待たずして、騎馬の一団が飛び出していた。確か、顔良と文醜といったか。配置から見るに、袁紹自慢の将軍たちの部隊なのだろう。
名門の誇りにかけて、なんとしてでも一番槍の栄誉が欲しい。このままでは袁術の望みを叶えられなくなるのだが、孫策は泰然とした態度を変えなかった。
「お、おい、孫策。どう責任をとってくれるのじゃ。これではまた、妾は袁紹に……」
「ご安心を。あちらをご覧ください、袁術殿」
「ふえ? お、おおっ……!?」
拗ねた口調ですがりついてくる袁術の顔を、右翼の先にある森林に向けさせる。
品定めでもしているかのような張勲の視線。戦況にはあまり興味がないのか、それが自分にばかりそそがれていた。
「初めて見る孫家の戦、この眼に焼きつけておかないと。んっ……。歩兵だけど動きが速い。この程度の敵が相手なら、数はほとんど関係なし……、と」
作戦を知らされていない桂花が、原野の上で躍る駒の動きに注意を払っていた。吹き抜ける風に、ツンと屹立した猫耳が揺れている。その真剣な表情になにか感じるものがあったのか、見ていた思春が小さな笑みをこぼしている。
森に伏せておいた明命と紅波の歩兵が、猛然と敵軍に攻撃を仕掛けている。袁紹の騎馬隊に気を取られていたせいで、黄巾軍の横腹はがら空きだった。
いくら敵が大軍だろうと、そのすべてと一度にぶつかるわけではない。面を突き崩して一隊を敗走させてしまえば、大量の兵は重い足枷にもなりかねないのだ。
後追いになったかたちで、袁紹の騎馬隊が突撃を開始する。左翼の曹操も陣を押し上げているから、乱戦になるのは時間の問題だった。
「はははっ。袁紹殿がそのつもりなら、こちらも相応の準備をするまでのこと。私も、これよりひと駆けして参ります。ご声援くださいますか、袁術殿?」
「も、もちろんなのじゃ! そなたの励んでいる姿、妾がしかと見届けてやろうぞ。あっ、そうじゃ孫策」
嬉しそうに椅子から飛び降りた袁術が、花の咲いたような笑みを向けてくる。
少しむっとしたような張勲の仕草。そこに嫉妬の気持ちがあることは明らかだった。欲望に素直に生きる女は嫌いではない。それがいくらか歪んだものだったとしても、受け入れるだけの自信はある。
「妾のことは、美羽と真名で呼んでたも。だからその、お主のも……」
「一刀。私の真名は一刀と申します、美羽殿」
「うむ。よしよし、それでは一刀よ」
腰に抱きついてくる美羽の頭に、自然と手が伸びてしまう。一応張勲に目配せしてみると、下唇を突き出した不満顔だったとはいえ、許可をもらうことができた。
柔らかな金の毛髪。大きくゆっくりと一度かき混ぜると、美羽は白い歯を覗かせて、年相応のかわいらしい笑顔をみせた。